データを漁れば熱帯の浅海の情景はいくらでも検索できる。波は海底に網目のような影を揺らめかせ、色とりどりのサンゴには大小さまざまな熱帯魚。遠く目を凝らせばエイの群れが優雅にその身をくねらせながらゆったりと滑空している。
ここは電子空間の中だ。
「初めて来ましたけど、いやーきれいな場所ですね!」
葉加瀬は中学生の頃の姿ではしゃいでいる。電子空間内では服装だけでなくその外見も変更が可能なのだった。かつての千雨は自分をロリ化して姉妹ネットアイドルとして活動していた時期がある。はっきり言って技術の無駄使いである。
「壁紙はいくらでも変えられるぞ。研究室そっくりにもできるし」
「いえいえ、それじゃあ風情がないのでこのままで」
そーかい、と千雨は葉加瀬との間にテーブルと椅子を作り出した。ついでにクッキーと紅茶も出す。
「便利ですねー」
「つっても実際に腹が膨れるわけじゃないけどな。ただ情報を脳に挿入しているだけだ」
「存じてますとも。あ、おいし」
向かい合って座りしばしのティータイムを二人は楽しんだ。こういったゆったりとした時間を過ごすのは随分と久しぶりである。ゆったり、とは言っても空間内の時間を加速させているため、客観的に見れば早送りにしか見えないのだが。全然ゆったりしてない。
一息ついて、カップを同時に受け皿に戻した。
人類の猶予が尽きた。
ヨルダを抑えるネギの精神に限界がきたのだ。
ネギ=ヨルダはついに使徒を伴って活動を開始し、人類に残された時間は刻一刻と失われつつある。
決断の時だ。
ネギはずっと耐えてきた。ヨルダに抵抗し、人類のために自身の精神と生命を引き換えに猶予を作り続けてきたのだ。
それなのにあんまりではないか。彼の苦痛に満ち満ちた忍耐が、結局何一つ報われることなく、人類の猶予はネギの精神とともに尽きたのだ。
こんなことになるなら、ネギをさっさと消してしまうべきだったんじゃないか。無駄な望みをかけて、苦痛を長引かせた。ただ苦しむだけの生なんて、あまりにも哀れではないか。
ネギとのリンクは未だ繋がっている。それでももうネギはいない。ヨルダに完全に乗っ取られ、すでに千雨の元から離れてしまった。
ただ魂の残滓を、かつてそこにいたネギの温もりを、最大二億六千万キロメートルの彼方に感じるだけだ。
消える直前の、ネギの魂の断末魔を千雨はリンクを通して知覚していた。
それを聞いて千雨は決意した。
歴史を改竄してでも、ネギを救うと。
苦しみしかない人生を歩んだ挙句、何一つ得ることのできなかったあの男の人生を無かったことにしようと。
千雨は覚えている。屍の荒野に立つネギの涙を。あいつが漏らした生涯唯一の弱音を。「存在したくなかった」。それを叶えてやろうと。
たった一つの弱音すらあいつには許されなかった。どんな苦痛と絶望に満ちた人生でも、あいつは存在し続けるしかなかった。だからこそ漏れた弱音であり、実現不可能な夢だ。
そばにいると約束したのに。いつか必ず救うと約束したのに。
その約束を。ネギが漏らした唯一の弱音を、結局叶えてやることができなかった。
ネギは最後の瞬間まで意識を保っていた。どれほどの恐怖だろう、消えゆく自分を最後まで自覚し続けたのだ。それを促したのは自分だ。存在したくなかったと弱々しく叫ぶ彼が、ヨルダを封じるために自我の存続を決意した。自分を消し去るこれ以上ない機会をふいにして、人類存続のための猶予を作ることを選んだ。精神を崩壊させていればどれほど楽であったか。
イタズラにネギの苦痛を長引かせてしまっただけだった。
「千雨さんの精神データが向かう先は2004年の4月ごろ、麻帆良の量子力学研究会で開発された量子コンピューターの中になります。これは超さんが持ち込んだ量子コンピューターの知識が実用化された直後の停電時になります」
「おう」
「世界再編魔法に干渉するにはグレートグランドマスターキーが必要になります」
「殺してでも奪い取る…………なあ、魔法アプリとか『力の王笏』は持ち込めねーのか」
「無理ですね。容量が大きくなりすぎます。時間移動と次元跳躍を同時に行うわけですから、送るデータはできるだけ小さくしたいです。精神データと実体化モジュール、それと量子コンピューターへのバックドアキーで手一杯ですよ。『力の王笏』があれば他人のアーティファクトを使えるわけですし、付け焼き刃の魔法アプリよりかはずっと戦力になると思いますけど。だからなんとか、エヴァンジェリンさんとの決闘に介入し、ネギ先生と仮契約を結んでください。それが過去改変の第一歩です」
綾瀬の『世界図絵』でまほネットに自在にアクセス。
宮崎の『いどの絵日記』を経由して他者の精神データを自由に改竄。
朝倉の『渡鴉の人見』で砂漠や森林などにも自由に移動できるようになる。
近接戦闘では春日や神楽坂のAF、汎用的な役割が期待できる早乙女の『落書帝国』など、A組のAFを揃えることができれば戦力過剰にもほどがある。
「あーあ、こんなことならもう少し魂を残しとくべきだったなぁ。そうすりゃわざわざエヴァンジェリンやネギ先生の前に姿を現す必要はないのに」
「結果論ですね」
「そうだけどさ」
「その場その場で最善を選択してきたんです。後悔することじゃないですよ。未来志向でいきましょう」
「これから過去を改変しようって人間のセリフじゃねーな」
「まったくです」
クッキーが無くなったので次はケーキを用意した。
「太っちゃいそうですね! なんちゃって」
「味覚と満腹中枢を刺激しているだけだから太んねーよ」
「真面目か」
ケーキを見た目そのままにタバスコ味に変えてやった。
ゴフッと鼻からもクリームを吐き出した葉加瀬に、かつて千雨は偉そうに語ったことがある。精神はプログラムだと。同じ精神と記憶を持つならそれは同一人物だと。あらゆる感覚はプログラムで表現できるのだと。
宙に投影したモニターには『力の王笏』、『長谷川千雨の脳細胞』、そして『カシオペア』の劣化コピー品が映っている。これは、葉加瀬が葉加瀬なりに再現した航時装置と渡界装置を融合させたものだ。サイズは『カシオペア』とは比較にならないほど大きい、ざっと家庭用の冷蔵庫ほどの大きさがある。しかも演算能力は『力の王笏』に依存した状態でこれだ。これを懐中時計サイズにまで小型化させた超はやはり天才だったんだな、と千雨はしみじみと思う。
「魔力効率はどうにもならなかったな」
「鼻いった…………いやー、そこはもうなんか私が至らないばかりに。でも、千雨さんがデータ生命体になったのは怪我の功名でしたね。生身のままだったらそもそも時間跳躍すら不可能でした」
精神データをコピーし、航時装置と渡界装置で全ての並行世界の2004年4月に送る。ただ量子化したデータを送るだけでさえ必要なエネルギーは莫大なものらしく、葉加瀬の概算によれば、残る千雨の魂を全て費やしてさえギリギリなのだという。生身の人間を送るとなれば当然その数十倍のエネルギーが必要になっていたわけで。
葉加瀬の体にノイズが走った。
「あー、そろそろ寿命っぽいですね」
「そうか。けっこう長生きしたよなお前」
「今のケーキで5秒くらい寿命が縮んだ気がしますね」
「マジで? ざまあ」
今の葉加瀬の肉体は、ある病室で意識不明のまま人工呼吸器につながれている。もはや骨と皮しかない有様だ。その周囲には誰もいない。今夜が峠、という段階でも誰も見舞いに来ないとかこいつも寂しい人生送ってんな、と千雨は投げつけられたタバスコケーキを首振り一つでかわしながら軽く同情した。
「波乱万丈でしたね我ながら」
「超に目をつけられたのが運の尽きだ」
「そこが分岐点でしたね」
「なにかやり残したことはねーのか?」
「ありますとも。それを千雨さんに託すわけです。それより申し訳ないですね。私のわがままで、私の寿命が尽きるまで時間跳躍は待ってほしいなんて」
「…………別に。死に目くらいは見てやるよ、誰も見舞いにすら来ねーんだし。その、ほら。と、と、友達、だしよ」
「はいツンデレいただきましたー!」
「うるせえサメに食わせんぞ!」
叫ぶと同時、数えるのも馬鹿らしい数のサメが葉加瀬を取り囲んでギュンギュンと竜巻を作った。5秒で泣き入った葉加瀬を解放してやる。
「うぅ…………ツンがキツい」
「まだ言うか…………先生は何て言うかな」
「否定するでしょう、超さんを否定したように」
「それは辛いな」
「バレなきゃいいんですよ。第一、超さんを否定するためにネギ先生自身もカシオペアで過去に行きましたしね」
「それさあ、結局、超の計画が成功した並行世界もあるってことだよな」
「それはまあ。時間跳躍は巻き戻しとは違うんですから。跳躍するたびに並行世界は生まれてますよ」
「その世界は超が裏で牛耳ってんだろ? そこに行くコピーには苦労をかけるな。そんな世界に行くの私なら絶対やだわ」
「どれも千雨さん本人ですから気にすることないですよ。恨むなら自分を恨めって話です」
「そりゃそうか」
新しくアップルパイを作ってやるが、葉加瀬はなかなか手をつけようとしない。拾われた直後の子猫のようにツンツンとフォークでパイをつついている。
「魔法世界を構成する術式にアクセスするにはグレートグランドマスターキーが必要になります」
「分かってるよ。つか行儀わりーよ」
「グレートグランドマスターキーがあっても、造物主の作った術式は広大かつ緻密です。一つの改竄が全体を無秩序に崩壊させる危険があることは承知しておいてください」
「任せとけって。世界の全てを掌握してやるよ」
「忘れ物はありませんか? ハンカチとチリ紙は?」
「母ちゃんか」
いよいよ葉加瀬に走るノイズが深刻になった。ほぼ消えかけである。そんな状態でも葉加瀬は笑っていた。
緊急アラートが鳴った。
「な、なんだ?」
周囲の電子機器をチェックする。一つは葉加瀬の肉体に繋がっている生命維持装置。
すでにそれは機能を停止させていた。なぜ。では目の前にいる葉加瀬はなんだ。ノイズ混じりの精神で、未だに微笑むこの少女は。
「ひとつ、千雨さんに謝らないといけません」
その声すらも途切れ途切れで聞きにくいこと甚だしい。
「実は、千雨さんの魂では時間跳躍に必要なエネルギー量に全く足りていません」
もう一つのアラートの音源は航時装置だった。
それはいつのまにか起動していた。意味不明の事態に戸惑いながらも千雨は航時装置のステータスを確認し、驚愕する。葉加瀬の言う通り、まるでエネルギーが足りていない。千雨に残った魂を全て捧げたところでどうしようもないレベルで。それを知らせる警報だった。このままでは時間跳躍のミッションが失敗すると。
「時間跳躍に必要な魔力を確保する手段は残されていません。『世界図絵』で監視されている私では、使用する電力の供給量が常に制限されていますし、魔力の供給源となる霊地を確保することもできません」
知っている。だから千雨は自身の魂を利用するつもりだったのだ。それを今更足りないとかどうするつもりだふざけんな。すでに時間跳躍のシークエンスは始まっている。ここで強制終了させたらどうなるか。もしかしたらこの『長谷川千雨』の精神プログラムの基幹部分のみ時間跳躍に巻き込まれる、などということにもなりかねない。
どうする、どうしよう、落ち着け、そんな思考が空回りしつつあるとき、航時装置に仕込まれていた別のプログラムが起動した。警報が止む。足りていなかったはずのエネルギーが満たされていく。
一体どこから賄ってきたのか。
「…………まさかお前」
「こうでもしないと千雨さんはまた無茶しかねませんから、ちょっと騙されてもらいました。現実時間であと1秒もしないうちに私はお悔やみですからね。有効活用です」
「なんで、なんでこんなことを!」
千雨はようやく理解した。自分はこれから、葉加瀬の魂を代償に時間と世界を移動する。
電子空間の量子化が始まる。世界が回る。自身を含めた全てが0と1に再配列されていく。
頭上に空いたブラックホールに空間が歪み、自分という存在全てが吸い込まれていく。
葉加瀬の魂を削りながら。
「こんな痛みにずっと耐えていたんですね。千雨さんも、ネギ先生も、超さんも。すごいです」
違う、私たちは自分のために耐えたんだ。どいつもこいつも自分のエゴを剥き出しにしていただけだ。エゴを通すためにやってるだけで、すごくもなんともない。でもお前は、葉加瀬は、私のためだった。他人のためだった。マッドを気取りながらマッドに徹しきれなくて。魔法理論の基礎の基礎、精神はプログラムであることを頭では誰より理解しながら、心ではどこまでも霊(ゴースト)の存在を求め続けていたロマンティストが魂を差し出す恐怖は、果たして私の何倍になるのだろう。
「何を言うんですか。科学者なんてみんなロマンティストですよ。月に行こうとかタイムマシン作ろうとか、最初に『本気で』考えたのは科学者なんですよ?
子供みたいな空想を、妄想だけじゃ我慢できない、物語だけじゃ物足りない、勉強ばかりしてきた幼稚なおバカさんの別称なんです、科学者って」
そんな自虐ともとれそうなことを、とても誇らしげに葉加瀬は言った。
「私の知る限り一番の科学者で、一番のロマンティストの夢は、恒久的世界平和なんですよ。そんな彼女を追いかけて、私はここまで来たんです」
「…………そうかよ」
いろんなことがあった。
義足を作ろうと二人で喧々諤々の大論争を交わした。結局脚なんて飾りだ浮遊ユニットでも付けとけと千雨は主張し、生脚の暖かさと柔らかさをこそ義足にと葉加瀬は叫んだ。
自身の脳の扱いに腹を立て、もっとカロリー高めの保護液をよこせと希望する千雨と、全体のバランスを考えて保護液の組成を決めてんだから門外漢が口出すなと徹夜七日目で目が血走っている葉加瀬の大げんか。
新しいアジトのネット回線がショボいとか、千雨さん電力食い過ぎです太りますよとか、そんな葉加瀬と交わした会話の一つ一つを噛み締め、千雨は一瞬だけ目を閉じた。
「じゃ、そろそろ行くわ」
「はい」
私は笑えているだろうか。そんなことを思う。別れは笑顔で。希望を持って前向きに旅立つと決めていた。
航時装置が最終シークエンスに移行。周囲の海底模様にモザイク状のノイズが走り回る。葉加瀬の魂がさらに削られていく。存在そのものを切り刻む恐怖と激痛に、葉加瀬は表情を変えぬまま歯を食いしばっている。
「頑張ってください。みんな応援してます」
「誰だよみんなって」
「元A組のみんなですよ」
意味がわからない。どうやってやつらの意思を確認したのか。激励にしてももうちょっと気の利いたことを言え。泣きそうになるだろが。
「そりゃありがたいこった」
「では、向こうの私によろしくお願いします」
そう言い残して葉加瀬の精神は魂とともに消滅した。壊れたテレビのような消え方だった。余りにも呆気ない。人の精神が消える瞬間を初めて直視した。
まあ、こんなもんだろ。
精神はプログラムだ。それが失われるくらいでなんだという話だ。そこに思うところなんかない。悲しくなんかない。
それでも、やり遂げねばと決意は固まった。
私はもう止まるわけにはいかない。
甲高い電子音が数秒続いた。全ての過程を終えたスパコンが、どこか満足げに、暗闇の研究室でこんな言葉をモニターに映していた。
『mission complete』
モニターに照らされる仄暗い研究室。主人を失ったこの部屋に残るのは、黄色い保護液の入った試験管が一本だけである。
────────────────
刹那は一度、エヴァンジェリンへと連絡した。
シネマ村での騒ぎを見て、刹那についてくる気満々のクラスメイトを引き取ってもらうためだ。
敵はあまりにも強敵ぞろいであり、中でもあの制服の少年は桁違いだ。彼が本気を出したとき守りきれるのか、正直刹那には自信がない。その異常さと人質をとられる可能性も含めエヴァンジェリンに伝えたところ、彼女は影のゲートでクラスメイトを迎えに来てくれた。のちに聴けば、朝倉が発信機をこのかに取り付け、それを辿って刹那についていくつもりだったらしい。
「で、その危険人物というのは、どんなやつだ?」
「白い髪の、ネギ先生くらいの年齢の少年です。土属性の魔法と水の転移を用いますが、なにより戦闘における所作の一つ一つが洗練されていました。奴の瞬動は、目の前で行われたにもかかわらず入りが認識できませんでした」
「ふむ…………わかった、注意しておく。おそらく見た目通りの年齢ではないのだろうな。なに、こちらは心配するな。他の生徒に手は出させん。急げ、他の一味や主犯を戦闘不能に追い込んだのだ、今なら向こうから何か仕掛けられることはないだろう」
「はい、よろしくお願いします」
そこに、私不満です、という顔をした明日菜がやってきた。
「ちょっとエヴァちゃん、なんで私はついて行っちゃダメなのよ」
「素人がいたところで足手まといになるだけだろうが」
「そ、そんな言い方ないでしょ、私だって」
「どんな言い方したって一緒だ」
そんな問答を背に、刹那は物陰からネギとともに空から本山へ向かった。明日菜はエヴァンジェリンに止められ、他のクラスメイトと一緒にお留守番である。
その後、このかを含めた三人は特に妨害もなく本山に到着した。
「長さん、お久しぶりです」
「ええ、いらっしゃいネギ君。それに刹那君も…………このかはどうしたのですか?」
「事情があり、緊急措置として眠らせました」
詠春に案内された寝室でこのかを寝かせ、このかにかけた呪いを解く。
「う…………ん、あれ? ここは」
「おはようございますお嬢様」
「あれ、せっちゃん?」
「お嬢様は貧血でお倒れになって。緊急事態として御実家にて療養をとっていただくことになりました」
そーなん、とこのかは寂しげに答えた。
「ごめんな、せっちゃんにも迷惑かけて。ありがとな?」
「い、いえそんな。お気になさらず。それでは私は長とお話があるので、失礼します」
「あ…………」
このかの笑顔に刹那はドギマギしてしまう。ずっとこの笑顔を守りたいと、そう思いつつも。力が足りず、このかを気絶させることを否定できなかった自分は、これを直視できる立場にないのだと自分を戒めた。
ネギと刹那は詠春と情報共有を行なっていた。とは言ってもネギの本体は本山の周辺を警備しているため、ここにいるのはまたも式神だ。
自分に陰陽道を教えた千草が誘拐を目論んでいること、彼女が本山への情報を封鎖していたこと、一緒にいたフェイトがとんでもない実力者であること。
「そんな、まさか」
詠春の胸の内を占めるのは驚愕の一言である。長年の献身から彼女を信頼して今回の護衛任務を任せたのだ。
しかし今まで彼女からの連絡は全て「問題なし」だった。刹那やネギの話と一致しない。彼女が犯人であるのなら確かにこのずれに筋が通る。
「他の術士は?」
「あいにくと皆出払って…………いや、もしかしたらこれも彼女の策略やも」
ネギの問いに、長は歯がゆそうに口をゆがめた。
「策略であったとしても、生じた鬼の対処が終わらない限りこちらに戻ることはできません。もちろん緊急の連絡はいれますが、犯人と協力者が捕縛されるまではこのかをここから出すわけにはいきません」
「その犯人一味の中に一人、とりわけ危険な存在が」
「というと?」
「あのエヴァンジェリンさんも危機感を露わにしていました」
「…………そういえば彼女は?」
「他の生徒の護衛についています」
近衛門から聞いていた麻帆良の最強戦力たるエヴァンジェリンはこちらにはこれないらしい。
戦力が、手数が足りない。この本山の結界の中であるなら時間も稼げようが、あのエヴァンジェリンが危険とみなした相手にどこまで有効か。並の術士相手であればいくらでも耐えうるが、はたして、
気配
三人が振り返れば、音もなく現れた少年がかざす手から溢れる光が、
「不覚…………!」
詠春は己の鈍さに歯噛みし、自身の防御より迎撃より刹那を回避させることを選んだ。
刹那を打撃寸前の強さで押し、光の射程から外す。
「長!」
刹那は叫ぶも、詠春の行動の意図を瞬時に読み取り、押された勢いに逆らわずに柵からその身を躍らせた。落ちる視界の先で一瞬の輝き、そして静寂。戦いの気配はない。つまり長はあの一撃で戦闘不能に陥ったということ。おそらくネギの式神も同時に屠られただろう。
「くっ」
恐怖と焦燥が胸に湧き上がるも、それを一瞬で胸に押し込めて刹那は虚空瞬動、本殿を支える柱を迂回し床下をくぐり抜け、このかのいるはずの寝室へと向かう。長に押し出されてからほんの20秒であるが、たったそれだけの時間が歯噛みするほどに長い。
「お嬢様ぁ!」
襖を開くもそこはすでにもぬけの殻。否、人影はあった。このかの世話をしていた使用人が二人と、このかの護衛にこっそりつけていたネギの式神が四人。どれも人の形をした石になっていた。
追わねば、と即座に意識を切り替え、窓から外へと身を乗り出す。全身のバネと遠心力を利用しながら屋根へと登り、烏族特有の視力を限界まで凝らして周囲を索敵。
「いた!」
太い川の岸辺にこのかを抱えるフェイトと千草が見えた。
両足に力と気を込め、一気に解き放つ。瞬動。山や森が高速で後ろに飛んでいく。その中でもこのかを見逃すことはない。さらに数度の虚空瞬動を経て、千草とフェイトの元にたどり着いた。
そこに、このかはいた。手を縛られ、口はテープで塞がれている。
「お嬢様を返せ!」
夕凪を構え、瞬動を用いて突撃。狙いは千草の首。
しかし刹那の刺突は、樹木の茂る闇の中から飛び出てきた月詠の右剣に弾かれた。
「ちぃっ」
「ふふっ」
高く響く鉄の音。剣戟の交差の隙間に刹那は横蹴りを差し込むが、月詠はそれを膝で受けた。
衝撃に二人の矮躯が逆方向に飛ばされる。
月詠は宙で体を捻り、岩の上にいる千草の前に立った。対し刹那は月詠を見上げる位置になる川の中に着地する。川は足首ほどしか深さはないため、動きに支障はなさそうだ。
それを見た千草は瞬時に周囲の気配を探る。どうやらこの神鳴流は一人でここまできたらしい。ネギ・スプリングフィールドを連れていればまた違ったのだろうが、ここまで単独でくるとは随分と焦っているようだ。
所詮はガキか。
「剣士一人をまともに相手すんのもアホらしいな」
「せやったら私にやらせてくれません〜?」
月詠だ。すでに両手に短刀を構え、喜悦に瞳を潤ませている。
「わかった、足止めしとき。なんなら始末したってかまわん」
「うふふ、わかりました〜」
ぱしゃり、と浅い川の中に着地する。月の下、川の流れる静かな音の中で、刹那と月詠は睨み合う。
「そこをどけ。私はお嬢様をお助けしなければならない」
「行ってもかまいませんよ〜? その時は後ろから肝臓と肺を串刺しにしますけど」
舌打ちする刹那に、月詠は笑みを深める。憎しみすらこもる刹那の視線を、それはそれは嬉しそうに受け止める。
「助けたいなら、我が屍を越えていけ、てやつですね〜」
ネギは杖に乗って夜闇の中を飛行していた。
気配遮断を駆使し、護衛すると決まってから採取したこのかの髪を利用する陰陽道の探知術式を利用しながらの飛行だ。
目指すは本山から西に向かった湖である。
フェイトが敵に回っている時点でこのかが誘拐されることは確定事項だった、とネギは考えていた。
それなら、とネギはさらに考える。
このかを囮にし、誘拐させることで敵の拠点を割り出し、一網打尽にするのが最適解だと。
誘拐という手段に出る以上、その目的は不明だが、すぐに殺すことはないだろうと踏んでいた。防衛に回り、いつ、何回来るかもどれだけ補充されるかもわからない敵を迎撃し続けるのは愚策だ、と考えたためでもある。
長期戦となれば、数の少ないこちらが先に限界を迎える。このかの誘拐がなされた時、追跡する人員がいないという最悪の状態がありえてしまう。それだけは避けなければならない。
つまり、こちらに追跡する余裕があるうちに、誘拐されることが確定してしまっているこのかをあえて誘拐させる。
何を犠牲にしてでも目的の達成を目指すべきだ。
だからこれが最適解のはずなのだ。
だから自分は間違っていない。
じゃあ、胸を締め付けるこの痛みはなんだ。
今も、このかを昏倒させた時も、胸に強い痛みが走ったのだ。
ネギは右腕で胸をかきむしり、脳裏にちらつきそうになる千雨の姿を強引に振り払う。今は追跡に集中しろと、集中していれば起こりえないノイズに気を取られ、ネギは下から迫る狗神に気づくのが遅れた。
「ぐうぅっ!」
魔法障壁で軽減させるもその衝撃にネギはバランスを崩す。草原に叩きつけられそうになるも、風を操り着地の衝撃を殺した。
そこに迫る一人の人影。
「よう、ネギ。ここは通行止めやで」
「…………君は」
野生的な笑みを浮かべ、ゆっくりとネギに近づいていく。少年、小太郎は好戦的な目つきでネギを睨みつけるが、対してネギが小太郎に向ける目には、全く熱がなかった。
「…………なんやねんその目」
まるで、自分など眼中にないかのようなその眼差しに、小太郎は苛立ち混じりの声をあげる。
「なんなんそれ。俺と同い年で俺と対等に渡り合える奴なんてお前が初めてなんやで? なのにお前は戦うどころか、どうやってこの邪魔な石を迂回しようか、それしか考えとらん。あん時の気合入ったお前はどこ行ったんや」
「…………」
「ただ残念やったな」
小太郎は背後の光の柱を指差し、笑った。その先はこのかがいるとネギの術式が示す先である。
「今回は迂回しようにもそうはいかんで。あそこに行きたいんなら、俺を倒すしかない」
「…………そう」
「お前みたいな、効率ばっか考えよるやつとやるにはこんな機会しかないからな! ほんま西洋魔法使いは陰気なやつが多いわ」
効率を考えて何が悪い。正々堂々で何が得られる。正々堂々とはなんだ、人質を取られた時に卑怯だと喚くことか。果たし状を出して相手に準備する時間を与えることか。その結果人一人死んだとして、それは正しい犠牲か。正しく戦ったからなら、犠牲者が出てもしょうがないとでも言うのか。
「…………ふざけるな」
「あ?」
そんなくだらないこだわりの結果が彼女ではないか。
「僕の目的は、あの湖に向かうことだ」
「わかっとるわ。だから」
「だから君なんて、絶対、意地でも、相手してやらない」
直後ネギが分裂した。全く同じ外見と杖を持つ式神を同時に展開したのだ。精神をリンクさせず、ただ逃げることだけを命じて展開した式神は総数49体。
「なにぃ!?」
四方八方、三次元的に広がっていくネギの群れに小太郎は戸惑う。しかしそれは一瞬。血生臭い世界を身一つで生き抜いてきた小太郎の反射神経は狗神を即時に展開させ、ネギを一体ずつ撃墜していく。しかし当然全てを墜とすには至らない。
狙った一体、森をわずかに回っていく軌道を飛ぶネギが、当たる直前の狗神を魔法の矢で撃ち落とした。
あれか、と追おうとするもすでに彼我の距離は大きく、ここから狗神で狙おうとも届かないだろう。
湖に向かって飛んでいくネギを見上げながら、小太郎は顔を怒りに染めて叫ぶ。
「くっそがぁ! この臆病もんが、戻って来」
「『白き雷』」
え、と戸惑う間もなく、とん、と背中に当てられた手のひらから放たれた『白き雷』が、小太郎の心臓をゼロ距離で貫いた。
吹き飛ばされた小太郎は、痺れる体に鞭打って立ち上がろうとするがうまくいかない。
何があった。なぜネギが背後にいる?
「ネギお前、本物なら、杖で飛んでったネギは全部、偽物…………ちゅうことか」
小太郎の問いに答えることなく、ネギは『武装解除』で小太郎をパンイチにしてから『戒めの風矢』で拘束し、雷属性の『魔法の矢』をこめかみにぶち込んで意識を刈り取った。
ついに始まった。
千雨は『渡鴉の人見』から送られる映像情報を直接視覚野で統合している。
監視していた天ヶ崎千草の動向に不穏な影を感じ、七部衆から『渡鴉の人見』へと監視をバトンタッチしていた。
その天ヶ崎千草が、というよりフェイトが近衛の誘拐に成功し、なんらかの儀式を始めた。
「召喚、か? あの術式構成は」
『力の王笏』で術式を解析し、『世界図絵』で類似する術式を検索。
「いや、解放か? 封印されている何かを解放して、召喚でも使われる使役の術式で操作する、てところか」
しかし、こんなところに一体なにが封印されているのだろうか。今回の誘拐事件がこの解放を狙ってのものであるなら、呪術協会を敵に回してまでやる価値ははたしてあるのだろうか。
そして、千雨は、それを見た。
小太郎を気絶させた後、ネギはこのかのいるはずの湖へと急行していた。
このときまでは、彼は自分のとった行動の正しさを信じていた。
自分の選択がこのかを助ける最短の道であると。
しかしそれは、天を貫く光の柱を見るまでだった。
雲を貫く柱が立ち上がり、その中から現れた、両面にして四腕を持つ威容の巨人。
巨人の胸元には使役術式の制御をしている天ヶ崎千草と、魔力源として扱われているこのかがいる。このかの魔力が断続的に吸い取られていることが見て取れた。
このかの魔力によってあの巨人は解放、使役されているのだ。
ああ、とネギは自分の体から力が抜けるのを自覚した。
このかは、決して敵に奪われるわけにはいかなかったのだ。敵の目的を見極め損ねて、賢しげに効率を求めて、結果がこれだ。
ひとことで言うなら。
自分は、また間違えた。
それでも、否、だからこそ、自分はあの湖畔へと向かわなくてはならない。
命と引き換えにしてでもこのかを奪還しなければならないと、ネギは決意を固めた。
自分のミスなのだから、自分で責任を取らなくてはならない。
湖のほとり、その桟橋に立ち、ネギは改めて巨人を見上げる。
あまりにもでかい。こんな存在に自分ごときになにができるのだろうか。
そんな自分を、顕微鏡よりも無機質な目で観察しているフェイトがいた。この状況で自分が何をするのかをじっと見つめている。手を出さないなら好都合だ、そうネギは自分に言い聞かせて詠唱を始める。
唱える魔法は『雷の暴風』。
現在自分が使用できる魔法の中で最も威力の高いものだ。
これならきっと。そんな希望を胸に。
逆に、これでダメなら。そんな絶望から目を逸らしながら。
「『吹き荒べ 南洋の嵐 雷の暴風』!!」
そして、効果はやはり、予想通りだった。
ネギの使える術式を全て把握している千草の前では、彼の魔法はなんの効果も発揮しなかった。巨人、両面宿儺の霊格を司る心臓部に向かって直進したネギの魔法は、千草が一言なにかを唱えただけで霧散した。フェイトの視線に失望の色が浮かんだように見える。
「これで終わり?」
フェイトの言葉が、死刑宣告に聞こえた。首を傾げてこちらを見つめるフェイトに、ネギに答えられることはない。
なぜ無効化されるのか、ネギには見当もつかない。呪い返しという概念について無知であるネギは、千草の起こす無効化の現象と明日菜の体質を関連付けて考えてしまう。
あれが天ヶ崎千草の体質であるなら、魔法使いである自分にできることはない…………いや。
まだ手はある。
詠唱だけは覚えていて、まだ一度も使ったことはない。でも威力なら間違いなく『雷の暴風』の十倍を超える魔法。
もちろん完璧に制御することは未だできていないが、それでも陰陽五行の利用で以前よりは格段に制御できるようにはなった。
それはあの鬼を殺し得る、広範囲殲滅魔法。
このかの安全については、幸いなことにネギの魔法を無効化する千草がそばにいるのだ。傷もつかないだろう。一方で広域にわたって破壊を撒き散らすこの魔法なら、千草は自分やこのかへの被害は打ち消せても、あの巨大な鬼全体をカバーすることはできないはずだ。
一つ懸念があるとすれば。
それは、あの巨大な鬼を殺しつくす威力と、それを制御するために必要な魔力量を、自分の持つ魔力で賄い切れるかということだ。
違う、とネギは首を振った。
何を今更怯える必要がある。
賄わなければだめなのだ。
魔力で足りないなら命を焚べろ。
それが、生徒を囮にした挙句に失敗した教師の責任じゃないのか。
「ラス・テル マ・スキル マギステル 契約により我に従え高殿の王」
足りない。
一小節目なのに、まるで制御できる気がしない。
それならもっと魔力を込めろ。命だって燃やし尽くせ。
「…………っ来れ巨神を滅ぼす燃ゆる立つ雷霆」
ただ。
もし、自分に仲間がいたなら、なんて。そんなifを思う。他の魔法使いや、空を飛べる誰かがいてくれてたなら。
自分はこうして命を賭ける必要はなかったかもしれない。このかを囮にする必要すらそもそも無かったかもしれない。
臓腑から吹き出す血の塊を口から垂れ流しながら、ネギは詠唱を続ける。
「百重、千重と重、なりて」
ひどい、独りよがりな妄想だ。
差し出された手を自分から振り払っておきながら。生徒を囮に使っておきながら。独りよがりに過ぎる妄想。
傲慢なのは知っている。
おこがましいのはわかってる。
自分はまた罪を重ねたのだ。
自分がいなければ、村が悪魔に襲われることも、村の人たちが石になることも、あの人が記憶を失うこともなかった。加えて今度はこのかを犠牲にした。
自分は存在そのものが罪なのか。
生きているだけで罪を重ね続けてしまうのか。
それなら僕は、存在したくなかった。
こんな自分がこんなこと、思う資格もないのに、それでも思ってしまう。
誰か、助けてください。
どうか僕を許してください。
許されるためなら、命だって捧げるから、どうか。
「なんでそんな無茶ばっかするんだよあんたは」
ネギの震える手に、優しい手が添えられる。
女性の手だ。詠唱を中断させてネギは見上げた。
困った表情を浮かべた、メガネの少女。右手には見覚えのあるステッキを持ち、こんな夜中なのに制服を着て。その背中に二つの機械的な監視用浮遊ユニットを携えて。
長谷川千雨がいてくれた。
本当はもうネギの前に姿を見せるつもりはなかった。ましてやフェイトの真ん前など計画に上がってすらいなかった。
それでも、こうしてネギの前に出てきてしまったのは、自身を省みない真似をするネギを結局放置できなかったからだ。
「ほら、制御を放り出すな」
「あ、あれ」
「まあ、今は私が代行してるから大丈夫だけど」
「代行?」
ネギは反省した。まさか起動中の魔法の制御を放り出してしまうなんて、と。が、同時に千雨の言葉に戸惑いの声をあげた。そんなことができるのか、という疑問はしかしネギの中ですぐ自己完結した。エヴァンジェリンの魔法の制御を奪ったことに比べれば、未だ効果を発現していない魔法の、自分の稚拙な制御を奪うことは容易いだろう。暴発を抑えてくれた千雨に感謝した。まあ、魔法の制御から意識を離してしまった原因も千雨なのだが。
「大丈夫、こっちで修整してやる、私が支えてやるから」
千雨に聞きたいことが山ほどある。しかし今はそれを話している場合ではないし、加えてネギは自分の体に生じた違和感もあって口を閉ざした。
自分の中になにかが流れ込んでくる感覚が全身に走る。
魔力の流れから無駄が削ぎ落とされ、自分の知らない術式が融合され、広範囲を破壊し尽くす魔力が一本の槍の形に収斂されていく。
呆れるほどの長さとエネルギーを持つそれは、名を『巨神ころし』という。
今からほんの数ヶ月先の未来に、ネギ自身が開発するはずのオリジナル魔法。『千の雷』と『雷の投擲』を術式統合した姿である。
「いくぞ、先生。準備はいいか」
「はい! いつでも!」
そのとき、ネギはフェイトがこちらに近づいてくるのを見た。
当然千雨もそれに気づいている。
彼女はちらりとフェイトを見て、『巨神ころし』の照準はあくまで両面宿儺に向けながら内心で笑う。
テメーも喰らえ。
「いけ!」
「あああああ!」
槍が駆ける。耳を轟音が貫く。両面宿儺の心臓目掛けて雷と匹敵する速度で突っ走る。
フェイトはこの時、両面宿儺に向かってあれを放つと同時に、無防備になった二人を石にしよう、そう考えていた。石化の魔法も詠唱済みである。
しかし巨神を貫く雷槍は『力の王笏』で形成された電子精霊のレールを辿り、千雨の意のままに軌道を変えて走っていく。これほどの質量とエネルギーを持つ魔法構造体が曲がるなど、ましてや鋭角に軌道を変えるなど、フェイトの予想の範囲外であった。
「え?」
すこし間の抜けた声を残し、フェイトの体は一瞬で蹴散らされた。両面宿儺に向かっていたはずの槍は、そこから鋭く進路を変更し、フェイトの左胸を背後から強襲したのだ。フェイトの障壁を破壊し、その肉体を粉砕してもその破壊力を失わず。その軌道はまさに雷のように縦横無尽であり、網膜を焼く残像であとから認識が追いつく程の速度であった。
フェイトをついでのように食い散らかした雷槍はさらに軌道を変え、両面宿儺へと再度迫る。その速度に千草は反応できない。反応できたとしても、千雨が術式を変更させたことによって千草が介入する隙はすでにないのだが。
槍は狙い違わず鬼神の胸を抉る。雷を束ねて落としたような音が響く。
「解放雷神槍…………千雷招来!」
千雨の詠唱によって、巨神を滅する槍に込められた千重の雷が解放される。そのエネルギーは、余すことなく両面宿儺の内側で炸裂し、その肉体を焼き尽くした。
地を裂かんばかりの断末魔と、空を裂く雷の轟音。
槍が雷を解放し尽くすまで十秒。
その間に引き裂かれ焼き尽くされた両面宿儺の外殻が溶けゆく氷山のように崩れていく。湖の水面に焼け焦げた鬼の破片が豪雨じみた勢いで落下していく。
「あんなでっけー怪物が一撃なんだもんなこれ」
やっぱあのオッサン半端ねーわ、と千雨はネギには理解できないことを呟いた。
「あとは近衛か。ネギ先生、あの女に『戒めの風矢』を撃っちゃってください」
「あ、あの人には魔法が通じないみたいで」
「いや? 私が術式いじってやるから大丈夫ですよ、ほれ」
「は、はい」
言われた通りに、このかを抱えて宙に浮いている千草に向かって撃ってみると、本当に『戒めの風矢』で拘束できた。
空中でミノムシ状態になった千草とこのかをネギが杖で飛んで回収した。二人をゆっくりと地面におろし、ネギは千雨を見上げた。見上げる瞳には以前の光が戻りつつある。
「千雨さん、記憶が戻ったんですね!」
グスリ、と鼻をすするネギに千雨は言葉に詰まる。
「あー、いや」
「良かったです、僕のせいであんなことになってしまって。怪我は大丈夫ですか?」
「ああ、怪我はとっくに直してるし。それより先生」
「千雨さん!」
ネギが千雨にしがみついた。いきなりの事態に千雨はテンパるが、ネギが千雨と体を入れ替えたために、千雨の視界が回転する。その先には、湖面から這い出るフェイトの姿があって、
「どけ!」
「あ」
ネギを押し飛ばす。超のスーツが生み出す膂力に感謝しつつ、『力の王笏』で精神に電脳空間を展開し、情報処理速度を加速する。
フェイトがこちらに右手を向け、加速した視覚でもほぼ同時と言える早さで石の杭が形成されていく。とんでもない術式構築速度。八本の杭が展開され、そのうち本命は二本、それ以外はどれもこちらの逃げ道を塞ぐ牽制。本命のうち頭を狙う一本は気合で避けるとしても心臓を狙う一本は厳しい。しかも自分とネギを同時に狙う軌道である。よってあえて前に出る。下から打ち上げる形でこちらに迫る杭に対し一歩前に出た。おかげで杭は狙いを外し、
「がふっ」
千雨の腹を貫くにとどまった。
込み上げてくる血を飲み込もうとして失敗し、一部が口の端から溢れる。赤い雫がその細い顎を通って石杭に落ちた。この程度の傷ならどうにでもなる。
「千雨さん!」
ちらりと視線だけを向ければ、ネギがこちらに向かって叫んでいるのが見えた。傷がないことに安堵する。
ネギまで杭が届かなかったのは、杭が千雨に触れた瞬間から彼女が『力の王笏』でその術式に介入したからだ。
「これは…………」
無表情に何事かを呟くフェイトに向けて『力の王笏』を突き出す。
本当は、こんなところで使うつもりはなかった、『力の王笏』を用いた一回限りの裏技。
相手が人工物で、接触しているときにのみ使える初見殺し。
ジョーカーとも言えるそれをこんなタイミングで切る羽目になるとは、完全に想定外である。
あぁホントうまくいかねえ。そう千雨は心の中で罵倒した。
「眠ってろ」
拮抗は一瞬だった。さすが造物主が作った兵器、そのセキュリティの堅固さは未来技術で作られた茶々丸を上回るものであるが、なぜかフェイトの精神プログラムには粗があった。恐らく他のアーウェルンクスシリーズにはないだろう粗。
「ぐっ」
フェイトは自分の胸を抑え、体が斜めに傾いていく。夜の湖に意外なほど大きな水音を響かせてフェイトは水中に没した。
同時に千雨を貫いていた石杭が溶けるように消えていく。
「ち、千雨さん」
明らかな重傷だ。杭が消えて傷口を抑えるものがなくなり、溢れる血液が千雨の足元に大きな水たまりを広げている。
千雨に押され、尻餅をついていたネギが立ち上がる。これほどの傷にネギができることは何もない。それでも千雨の背に向かって手を伸ばす。
ネギの震える手は空を切った。
先ほどのフェイトと同じように、千雨の体がフラリと横に倒れ、そのまま重力に身を委ねて桟橋から湖へと落ちたのだ。
「…………あ」
水しぶきが上がる。暗闇に祭壇の明かりだけでは水中の視界なんてまるで効かず、千雨の姿は一瞬で闇に飲まれた。
ネギは即座に魔法で灯りを灯し、桟橋から四つん這いで湖を伺う。そこにはただ暗闇が広がるばかりで、千雨がいた痕跡すら何も残っていない。
ネギはしばらくの間、姿勢を変えずに湖を見つめていた。見ようによっては、まるで後悔に打ちひしがれているようにも、懺悔をしているようにも見えた。
フェイトが意識の再構築に成功したとき、最初に目に入ったのは鬱蒼とした森林と星空だった。星の位置から概算するに、まだあれから一時間と経っていない。
草の中に倒れたまま身体の状態をチェックするが異常なし。頬に張り付いていた虫を指で弾いた。
全身が濡れているのは、自分が意識を失ってから水中に沈んだためだろう。
ではなぜ自分は森にいるのか。
「動くな」
右から声がした。仰向けのまま視線だけを向ければ、そこにいたのは先ほど自分が石の杭で腹部を抉ってやった少女だ。座った状態でこちらを睨みつけている。
先ほど自分の意識を落とした、フェイトをして初見のアーティファクトをこちらに向けている。なお、そのファンシーなデザインに対してフェイトが何かを思うことはない。
腹を見る。
制服で隠れて見えないが、動きに支障はなさそうである。
確実に腰椎を砕いたはずなのだが。
「君は何者?」
あいかわらず仰向けのままフェイトは尋ねる。
「長谷川千雨。種族は、まああんたと似たようなもんだ。なあ、アンタに話があるんだ。敵意はない…………と言って信じてもらえるかはわかんねーけど」
「…………それで、要件は何?」
アーウェルンクスシリーズたる自分を機能不全に追い込んだ能力。
僕を殺せたのに殺さなかった理由。
それに、彼の隣に現れた技術。
大戦期にも活躍した監視用アーティファクト『渡鴉の人見』があった。それがネギの頭上に迫った。
一瞬電気が走り、まるで『渡鴉の人見』のレンズから出てくるように、メガネをかけた少女が現れた。
初めて見る現象であった。
なんらかの属性の精霊を用いた転移、である可能性しか本来考えられないのだが、気になるのはこの時一切の魔力を感じなかったことだ。『渡鴉の人見』にそのような機能はない。
生殺与奪を握られたこの状態では聞いたところで答えが返ってくるとは思えないが、この少女について気になることが多すぎる。
「『完全なる世界』に協力させてくれ」
もはや、気になるどころではない。フェイトは最大級の警戒を千雨に向けた。
「あんたらは今、世界再編魔法を発動するために必要な『黄昏の姫御子』を探している。そうだな?」
「…………」
どこでその情報を入手したのか。自分の記憶でも読んだか。
「私のアーティファクトならその代役ができる。これはどんな術式にも介入し、書き換えることができるアーティファクトだ。『黄昏の姫御子』が術式に不足しているなら、その部分を補完できる」
「…………君の目的はなにか、聞いてもいいかな」
千雨は笑った。フェイトがこちらの話に食いついた。これが取りつく島もなく聞き流されていたらどうにもならなかった。千雨は自分が賭けに勝ちつつある手応えを掴みながら、フェイトを目の前にしている恐怖を飲み込んで言葉を紡ぐ。
「ネギ・スプリングフィールドに干渉する連中の排除。私の目的はそれだけだ」
「確かに僕たちは彼の父親とも深い因縁があるけれども…………つまり、僕に、というより僕たちに、メガロメセンブリアに存在するネギ・スプリングフィールドと敵対しうる派閥を妨害しろということだね」
「魔法世界を『完全なる世界』に送るまでの話だけどな」
「ふむ。世界再編魔法が発動してしまえば、彼を害そうとする人物や、両親から引き継いだ因縁は消滅するわけだ」
千雨は笑みを浮かべ、自信満々に答えた。
「そういうことだ」
自信満々に嘘をついた。
長谷川千雨が、ネギ・スプリングフィールドが否定した手段をとるはずがないのである。
千雨の目的は。
オリジナルの長谷川千雨が自身の命と引き換えにして劣化コピーたる自分に託した願いは。
実体化モジュールを用いた魔法世界の維持である。
「何があった」
エヴァンジェリンの言葉にネギはようやく振り向いた。呆然と湖面を見つめていたネギの様子は尋常ではない。
光る巨人はネギが乗り越えるべき壁と考え放置するつもりだったが、学園長の要請により護衛の任務を瀬流彦に任せ、緊急事態ということでこの湖までのんびり駆けつけて来たのだ。その途中で刹那と斬り合っていたメガネに通りすがりざま飛び蹴りかましつつ。
「…………エヴァンジェリンさん」
視線が絡む。ネギの闇のように暗い瞳にエヴァンジェリンはわずかに怯む。あの能天気なぼーやはどうした。
「一つ、お伝えしなければならないことがあります」
ネギは顔を俯けた。どうにも言いづらそうな雰囲気を醸している。
「なんだ。早く言え」
「千雨さん、なんですけど」
エヴァンジェリンは片眉を上げた。
ネギは顔を上げた。
「千雨さんは二人います」
暗闇の瞳の中に、一筋の決意が見えた。