トムがソファに腰をおろしている横で、ネズミがちょこまかと走りまわって夕食を作っている。
人間に戻るというのは、やってみると変なものだ。あれだけ長く待ちのぞんでいたんだから、もっとわくわくしていてもいいはずだ。なのにピーター・ペティグリューといっしょに古い隠れ家に閉じこめられる羽目になるとは。
トムはあのネズミについて態度を決めかねている。忠実ではあるし、使いではある。礼儀もわきまえているし、話し相手としてはまずまずだ。だがいらつくところもあるし、トムが日記帳だったころにおしっこをひっかけたのはまだ許せない。それ以上に許せないのは、ルーナを傷つけようとしたことだ。
といっても、目をつぶす覚悟をしてまであの箱を開けて、ポーションを作る手伝いをしてくれたのは大きい。あれでほぼ帳消しにしてやってもいい。ほぼ。
それでも、ちょっとおどかしてやるのは楽しいから、やめる気はない。
「最高の夕食を期待しているぞ。さもないと、明日朝にはおまえの替えを探しにいく」
長くネズミの姿をしすぎたのか、ピーターはキィと声をあげた。
「はい、ただちに。きっと最高にしますから」
実を言えば、こいつに危害をくわえるつもりはない。といっても、本人にそう知らせる必要もないし、こうやって懸命に走りまわって念入りに準備しているのをながめるのは楽しい。
トムが一人そう考えていると、リンという音がした。
ドアの鐘なら、スネイプが戻ったに違いない。
「ペティグリュー、出ろ!」
ネズミはふるふるとボウルをたずさえたまま、台所から走って出ていく。
あらためて強化しておいた結界を確認してみると、たしかにスネイプであることが分かった。解錠して、はいれるようにしてやる。
トムは席についたまま、スネイプが緊張の面持ちではいってくるのを見た。なにかあったのかとたずねようとしたが、スネイプは後ろにちらりと目をやり、だれかを招きいれる仕草をした。
つぎの瞬間、トムは思わず立ちあがった。目の前にいるのは、ユニークに改造されたホグワーツの制服を着た女の子。心のかたすみで、長い金色の髪の毛や、銀色の目や、耳にきちんと留められた杖や、カブのイヤリングにも気づいた。心のほとんどは全力で、ある一言を言おうとしていて、それが口からあふれた。
「ルーナ!」
女の子はトムのほうをじっと見て、それから近づいてきた。なにが起きているのか分かったときには、トムはもう抱擁をうけていた。これほどあたたかい、心からの抱擁をしてもらったのはおそらくはじめてだ。
両腕を彼女の肩にのせてしっかり抱きかえす。それをスネイプがおもしろそうに見ていた。ルーナが走りこんできたとき、ペティグリューは混乱してトムを守るために飛びかかろうとしたが、すばやく反応したスネイプにロープ締めにされ、床に倒れた。
スネイプは二重の意味でお手柄だ。もしあのネズミがルーナに指一本ふれてでもいれば、替えの下僕を探すことは確定していた。
「なにがあった? 何でここにいるんだ?!」
そう言ってトムは笑い、おどろきで頭がくらくらした。彼女の顔が見えるように、少し体を引く。
「いられて困るわけじゃないが……いや……これは……とにかく会えてうれしい」
トムは彼女をもう一度抱擁して離さなかった。ルーナも笑って、抱きかえした。
「わたしもうれしい。すごいね! あの写真とそっくりだ」
「きみもあの絵とそっくりだ!」
そこでスネイプが質問に答えた。
「ダンブルドアの説得には思いのほか時間がかかっている。ミス・ラブグッドはそれを心配するあまり、学業に影響がでてきた。ウィーズリー兄弟の二人に教わって、学校からの抜け道を使った。学校に戻ればわたしはいろいろ面倒なことになるが、とにかく会うんだ、と言われてな」
「どうして来ることを教えてくれなかったんだ?」
トムはルーナにそうきいたが、責める調子ではなく、口角はあがったままだ。やっと腕をほどいて、かわりに手をおろして彼女の手にあて、軽くにぎる。彼女もにぎりかえす。
「サプライズにしたかったから」とルーナは幸せそうに笑って言った。
その明るい笑いには感染力があった。
「サプライズだったよ」
「時間はあまりない」とスネイプが告げ、すこしだけ雰囲気を壊した。
「厳密に言えば、こうやって生徒を学校外に連れだすのは規則違反だ。ただでさえわたしは問題をいろいろ抱えている。この職にとどまれるのも、もう長くはないかもしれん」
「え、ごめんなさい、先生。そんなつもりじゃ……」
「いや、かまわない。わたしもどういう代償があるかは当然承知のうえだ。いまはしっかり楽しみなさい。一時間後には出るぞ」
一時間。短いようだが、しかたない。無駄にしないようにしなければ。
「ペティグリュー、茶を出してくれ」
トムは縛られて床に転がっている男にそう命じた。
スネイプがロープをほどき、ネズミは「はい、ただちに」と言って台所に駆けこんだ。
スネイプはそのあとに続き、二人が気がねなく話せるようにしてくれた。
トムは片手をのばしてルーナのイヤリングをつついた。彼女は笑って、
「気にいった?」
と言った。
トムはどういう効果があるイヤリングなんだろうと思いながら、きくのもはばかられる気がして、結局すぐに、正直に答えた。
「すごく気にいった」
「よかったらもう一組作ってあげるよ」
ルーナは半分本気で、半分ふざけてにやりとした。
「それと、ナーグルよけの、コルクの首かざりも」
トムはそれを着けた自分を想像しておかしくて笑ってしまったが、同時に、ルーナがくれるものであれば多分何であれ身につけてしまう気もしていた。
「ルーナ、そうしてくれれば最高だ。おそろいで」
ルーナの笑みが広がった。
「友情の首かざりみたいなもの?」
トムはまた笑って、うなづいた。
「そう。それを見た人はすぐに、ぼくらが親友で、ナーグルの害から守られているということが分かる」
彼女はトムがナーグルのことをどう考えているかよく知っていたので、トムの肩を冗談っぽくたたいて仕返しした。それからトムは彼女を連れてソファのところへ行き、いっしょに座って、この数年間をかけてトムの世界をすっかり塗り替えた少女について、すこしでも多くのことを知ろうとした。
時が刻々と過ぎる。
夕食は忘れられた。
茶が飲まれる。
物語が語られた。
約束が結ばれた。
一時間がこれほど早く過ぎたことはなかった。
帰りぎわにトムが声をかけた。
「学校に戻ったら、この日記帳をダンブルドアに渡してくれ。そろそろあいつと話しておきたい」
……
フクロウが届いたのは深夜零時ちかくのことだった。まだダンブルドアからの連絡はない。なにがあって遅れているのだろうか、とトムはいぶかしんだ。ただでさえ、これからの会話については気が気ではいられない。
まず罠が仕込まれていないことを確認するステップが必要だったが、それが終わると、鉤爪に握られていた小包をペティグリューがあけた。
「中身は?」
そう言ってトムはのぞきこんだ。
「それがよく分からなくて」
ネズミの声は心底困惑しているように聞こえた。
「なにか……コルクがいくつか紐でつないであるように見えます」
トムは一瞬でその首かざりを引ったくり、ためらうことなく首にそれをかけて、にやりとした。
やや重みがあり、ほのかにベリー・ワインの香りがした。コルクがささっていた瓶の中身なのだろう。
かっこうが悪くて変てこだ。
完全にバカげている。
完璧だ。
包みのほうを手にとり、なかに目をやると、一枚の紙があった。ルーナのきれいな手書き文字で、一言だけ書かれていた。
——幸運を——
急に、これからのダンブルドアとの会話への重圧が、だいぶ軽くなった気がした。