トムはぴりぴりした様子で部屋のなかをいったりきたりしていた。ペティグリューになにか投げつけでもして、気を静められればよかったのだが。ダンブルドアがこの隠れ家に来るから身を隠せとあらかじめ言いつけておいたので、ペティグリューはあわてて別の隠れ家へと消えた。
待たされるのが一番気にいらない。あいつはなぜとっとと来ない? とにかく議論をして、何らかの結論を出せば、それで終わるのに。こうやって待たされ、思い悩んでいると、頭が変になる。
セブルスにもう校長を連れて来てもいいと言えば、ほとんど即座にあいつが来てくれるものと思っていた……が、そうはならなかった。あの老いぼれが珍しく慎重になって、つぎの朝まで待って、これがトムによる罠だったりした場合にそなえた準備をはりめぐらしたようだ。
遺言状を書きなおしているとか? 自分が帰らなかった場合、この知り合いにはあの靴下コレクションを譲る、と?
壁にそなえつけられていた時計はカーペットの上で灰になって燻っている。自業自得だ、あんな風にぼくをチクタクチクタクと愚弄するからだ、とトムは心のなかで言った。
まあ、若干やりすぎたかもしれない。
コルクの首かざりの頼もしい重みを感じながら、元闇の帝王トムは自分の運命を知らされるのを待った。比較的落ちつきを失わずにすんだのはこれのおかげだ。止め具のひとつを指でなでながら、この面談が与えてくれるはずのいろいろなものごとをのことを考える。
……そして自分の悲観的な部分の声は、うまく行かなければあれもこれも失うことになる、と挙げつらねた。
—— なにをこんなに手間どっている?
あの時計が無事でいたなら、午後一時を指しているころだ。
トムは朝六時に起きてからずっと、もどかしくしている。
—— あいつはいつまで……
隠れ家の外周に設置してある結界が、侵入者を知らせる音を出した。
—— やっとか!
安全のため、ドアのむこうにいる人物をたしかめるという通常の手順を踏んでからドアを開くべきではあったが、気づいたときにはすでに手遅れだった。……ほかにだれが来る? ダンブルドアしかいないだろう?
そしてドアを開けた。
だれあろう、ダンブルドアの姿があった。
「遅い! どれだけ待たされたと思ってるんだ?」
大げさな歓迎に、老魔法使いはすこしだけ目を見開いた。トムは急いでダンブルドアを中へ通し、待ちきれないあまり、ドアをぴしゃりと閉めようとして、あやうくスネイプにぶつけそうになった。スネイプのほうも驚いていた。
スネイプの睨みの鋭さには感心せざるをえなかった。元闇の帝王としては声にだして認めるわけにはいかないが、かすかにおじけづかされそうにもなった。スネイプはドアをもう一度開けて、ダンブルドアに続いてするりと椅子へ向かった。
「悪い、見えなかった」
トムはそう言って、またドアをぴしゃりと閉めた。
また一段と鋭く睨まれたような気がしたが、突き詰めないほうが得策だと判断し、トムはダンブルドアに注意をもどした。
「アルバス……」
両手をぐるりと広げる手振りをする。
「狭い家だが、ようこそ」
老人の目はただずっとトムを見つめている。視線の熱さを感じて、トムは気まずくなった。
「あのころと変わらないすがたじゃな」
ダンブルドアは少しだけ悲しそうに言った。
「あのあと、おまえは似ても似つかない別人に変貌してしまった」
トムは不服そうにうめいた。さっそく本題か。
「あのな、ダンブル。昔はよかったとか、だれがなにをしてさえいなければとか、そういう感傷的な話のためにこうやって会ってるんじゃない。あんたに続けさせるとそういう話になりそうだからな。はっきりことわっておくが、ぼくは悪い人間だった。怒っていた。道をあやまった。それに……」
トムはしばらく口をつぐんだ。自分でもなにを言おうとしているのかよく分からない。
「……それに、やけになっていた。やけになっているということも分からずに、ただ前に進もうとしていた。どこに向かうのかなぜそんなことをしているのかも分からずに、負けを認めたくないという一心で。戦いをやめられなかった。救いようがないだろ? 悪いこともしたし、もっと悪いことをしようとした。いま胸をはって言えることじゃないし、もうあんな人間ではいたくない。ぼくは……もう……」
なぜか、自分が泣きだしたことにしばらく気づかなかった。熱い涙が頬を流れた。何てこった。感傷的な話はやめようと言っておきながら、なぜこうなった。
少年はいらだたしげにローブの袖で顔をぬぐった。うう……よりによって、こいつの前で隙を見せてしまうとは。自分らしくない。トム・リドル、元世界最凶の闇の魔法使いともあろうものが。敵の前で泣くなんて。
ただし……こいつは敵ではない……敵であってほしくない……。この男は、自分に新しい人生をくれるだけの力がある。トムはもう一度両手でコルクの首かざりを触り、その贈り主のことを考えた。
「もう一度チャンスをくれないか」
トムのことばを受けて、茶色の瞳が持ちあがり、青色の瞳に視線をあわせた。それを見てトムは昔を思いだした。まだこの男が自分に笑顔を見せていたころ、その瞳はきらめいて見えた。いまは笑顔ではない。きらめきもない。
ダンブルドアはただじっと、ゆるぎない集中力でトムを見ている。まるで、半分しかないトムの魂をのぞきこんでくるかのようだ。
「おぬしのことを信じたい」
信じたい、か。
「……ただし?」
「『ただし』はない。おぬしのことを信じたい。純粋にそう言っておる」
トムは喉につかえるものを感じて、ごくりとした。これなら望みがあるか?
「じゃあ、チャンスを?」
そう言いながらトムの脳裡にはルーナのことだけが浮かんだ。あのやさしい笑顔と、そしてこれからまだまだ知っていきたい奇天烈な部分のことも。彼女はこれから目覚ましく成長する。マーリンよ、お願いだ、どうかその様子をこの目で見させてくれないか?
両者無言のまま、何秒か経った。誓ってもいいが、トムは時計の残骸から、恐怖のチクタク音がゆっくりと一秒一秒を刻んでいくのを聞いた気がした。そして……
「トム、おぬしにチャンスをやろう」
その言葉は自由の味がした。
……
もちろん、そう簡単な話ではなかった。
ほかにも解決すべきことがあった。
細かいことがいろいろあった。
仮にトム・リドルをヴォルデモート卿にむすびつける記録がなかったとしても(実際にはあるし、それを知る人がごく少数にかぎられるとしても、問題になりうる)、何十年もまえにホグワーツを卒業した人物が再登場したにしては、トムは明らかに若すぎる。なに食わぬ顔で魔法界に戻ろうにも、波紋を呼ばないはずがない。というより津波になる。
もうすこし仕掛けが必要だ。
新しいはじまりには新しいトムが必要だ。
生い立ちをでっちあげる必要があった。日記帳、闇の帝王、ホークラックス、ヴォルデモートといった単語と関わりのない生い立ちを。
名前も必要だった。
トムが未来をもてる可能性が少しでもあるとすれば、まず過去ができてからだ。
それからはだれにとっても疲弊させられる数週間だった。トムとルーナはできるかぎり連絡をとりあった。ダンブルドアがまだ不信を解消しきっていなかったので、直接会わせてもらうことはできなかったが、日記帳のページを介して頻繁に会話することはできた。これがまだルーナの手にあることをダンブルドアは知らなかった。
二人が話したのは主に、ルーナの愛する生き物のことだった。安全に時間をつぶすことができる話題だった。二人とも将来のことを話したかったが、そもそも将来があると確信できるまでは話しにくいと感じていた。ルーナは学校でのできごとも話した。友だちのあいだでの噂、授業で印象にのこったことや、トライウィザード・トーナメントの優勝者がボーバトン・アカデミーの女の子に決まって、ホグワーツ生がみんな少しがっかりしたことなど。
留学生たちはトーナメントが終わるとすぐに帰っていった。学校が休暇になるまでの数週間はなにごともなく過ぎた。
トムはすでに渡してあった日記帳を使って、ダンブルドア校長とも何度も話した。議論すべきこと、約束すべきことがいろいろあった。老魔法使いは元ホークラックスを完全には信頼しきれておらず、人物を見極めるために時間が必要だった。トムにどういう将来を与えるにせよ、すべてはトムが確実に変わったと見極めてからの話だった。
学校が休暇になると、ダンブルドアはもっと頻繁に隠れ家を訪れるようになった。不可思議なやりかたで自分の人生に再登場したトムという孤児に、全面的に注意をそそいだ。
もちろんトムは残念でならなかった。どうしてもルーナと夏休みを過ごしたいと思っていたが、何週間も経って夏が終わりに近づくと、その可能性はないと気づかされた。
九月がやってくると、準備がととのった。ダンブルドアはもうトムは脅威にあたらないということを受けいれ、一からやりなおしたいというトムの意思は本物だと認めた。ただし保険として、魔法力を担保とする誓いは約束どおりに執り行った。かつてヴォルデモート卿として知られた人物なのだから、念を入れるのは当然だ。
そこから作戦が動きだした。
各種の書類を作り、しかるべき場所に納めた。(スネイプがどこから偽造職人を連れてきたのかは謎だが、光の陣営に戻ってからも、元死喰い人として信頼できるつてはいくらか残していたようだった。)
ずいぶんと久しぶりに、将来に望みと光が見えだした。
新しい学年がはじまりホグワーツの門が開くとき、トム・マールヴォロ・リドルはもういない。
トマス・ベルが新しい人生をはじめる準備はととのった。