シリウスが目を覚ましてまず気づいたのは、頭の痛みだった。ひどい痛みだった。
その次に気づいたのは、体が動かないことだった。パニックになって振りほどこうとしたが、やがて少しずつ状況が分かってきた。自分は椅子に座らされ、両手を固く結ばれている。
暗い。なにも見えない……
「おい、いつまで目をつむっているつもりだ」
え?
……ああ。
目をしばたたかせると、急に光が押し寄せてきた。視界に光点が散らついたが、瞳孔が順応するのに長くはかからなかった。数メートル先に、いらつき半分心配半分の表情をして、スネイプが立っていた。
「混乱しているようだな。それとも、思っていた以上の阿呆だったか」
シリウスはスネイプをにらみつけようとしたが、まだ頭痛がひどく、顔をしかめたようになってしまった。
「ほら、飲め」
そう言ってスネイプは杯をシリウスの口に近づけた。
「頭痛用に作ったものだ」
シリウスはぱっと顔をそむけた。
「毒薬だなっ」
「分からんやつだな。これは治癒薬だ。いまさら毒をしこむ理由などないだろうが。おまえはさっきまで意識不明だったのだから、殺したければすでにそうしている」
そう言われると反論に窮する。それでも飲むわけにはいかない。
「おれは死喰い人が渡すものなど飲まないぞ」
セブルスは片眉を上げて、まだ口のついていない杯をシリウスから離した。
「死喰い人だと?」
「そうだ。ピーターを追ってあの家に着いたら死喰い人に出くわした。おまえもあいつらの仲間なんだろう。だからおれを攻撃してここに連れてきたんだろう。おれがおとなしく協力すると思ったら大まちがいだ。何と言われようが飲んでなどやるものか」
スネイプはまた目をまわして見せ、シリウスはにらみを効かせつづけた。するとスネイプは一歩引いて、この部屋を見ろ、と言うように腕を一振りした。
「見覚えがある気はしないか? おまえは学校時代、何度もここに連れこまれて叱られたことと思うが」
シリウスはもう一度目をしばたたかせて、どこの部屋だか思い出そうとしてみた。
「ダンブルドアの部屋だ」
スネイプがゆっくりと拍手した。
「そんな……いや……トリックだな」
「トリックなものか。おまえをここに連れて来たのもわたしだ」
「何のために?」
スネイプは動揺して鼻すじをつまんだ。
「実はこの一時間、同じことをずっと自問していたところだ」
シリウスはもう一度スネイプをにらんだ。一段と状況が分からなくなった。
「ペティグリューを追ってあの家に着いたと言ったな?」
シリウスはうなづいた。
「もう一人があいつを連れて姿現ししたのを見た。おれはその痕跡をたどってあそこに着いた」
「おまえはまだ気づいていないようだが、あそこにはヴォルデモートもいたのだ」
「ヴォルデモートは死んだ」
「残念ながら死んでいない。生きている。弱体化してはいる。ヴォルデモートを倒すために数人が集っていた。ペティグリューもわたしもその協力者だった。いま教えられるのはそこまでだ。詳しくはダンブルドアが話すだろうが、かいつまんで言えばこうだ。ヴォルデモートがペティグリューを捕らえた。ダンブルドアとわたしがそれを取り戻しに行った。そこでわれわれがヴォルデモートとその部下を行動不能にした。いまごろは闇祓いに連れられてアズカバンに送られている。わたしが逃がしてやらなければ、おまえもそうなるはずだった」
最後のひとことは溜息まじりだった。
説明を聞いていて、シリウスは安心するどころか、次つぎに疑問がわいた。なかでも、いますぐはっきりさせておくべきことは……
「ダンブルドアはどこにいる?」
部屋の主のすがたが見えない。
「ペティグリューに同行して、いまは学校外のとある場所にいる」
「ちょっと待て。ピーターからなにを吹きこまれてるのか知らないが、あいつは死喰い人だぞ。まちがいなく。ジェームズとリリーを売った裏切り者だ!」
スネイプは黙れと言うように片手をあげ、シリウスはしぶしぶ従った。
「言われなくても分かっている」
「じゃあなぜ……」
「ペティグリューがわれわれに協力しはじめたのは最近のことだ。ダンブルドアはじきにここに戻る。詳しくはダンブルドアが話す」
シリウスは執拗にスネイプに説明させようとしたが、返事は「ダンブルドアから聞いたほうがいい」だけだった。
しかたなくあきらめたが、なにかが違っていることに気づいた。眉をひそめて下を見ると、脱獄して以来着ていたボロボロの服がなくなっている。
「この服は何だ?」
「前の服はずたずたで、ひどく臭った。だから清潔な服に着替えさせてやった」
シリウスは嫌そうに鼻にしわを寄せた。
「つまりこれは、おまえの服ってことか?」
手を縛られてさえいなければ、脱いでしまいたいところだった。
スネイプは目をまわして見せた。
「子どもか。サイズが合う服はほかになくてな。それとも制服ですませるべきだったか。いや、ダンブルドアの極彩色の衣装のほうがお気に召したかな」
「そうだな……」
シリウスはそう言いかけてから、金色の星を散らした明るい紫色のローブを着た自分を想像してみた。やはり黒でいい、と思った。
「ほんとに清潔なんだろうな?」
スネイプは不愉快そうに片眉を上げた。
「実はそれを着て一時間ジャンプ体操をしてから、風呂掃除の雑巾として使ったばかりだ。ではごゆっくり」
そう言ってスネイプは退室した。
あれは九十五パーセントまちがいなく皮肉だ。そう思いつつも、シリウスはスネイプを見送ってからすぐに肩の部分に鼻を近づけ、変な匂いがしないかたしかめた。洗剤のような匂いだけだった。
……
ダンブルドアはやがて部屋にもどり、シリウスに状況をよく説明した。シリウスは(当分は)ペティグリューに手を出さないと確約した。それでやっと椅子の拘束を解かれ、歩きまわっていいことになった。
もちろん校内を勝手にうろつくことは許可されなかったが、校長室のとなりの一室を寝室として割り当てられ、善後策が決まるまでそこで過ごすことになった。
すぐ近くに備え付けのシャワールームがあるのを見て、シリウスは泣きそうになるほど安堵した。ちゃんと入浴できるのは何年ぶりだろうか。ディメンターのおかげでアズカバンには温水のシャワー設備がなく、ほとんどの囚人は清潔さを気にするだけの意欲がない。身体を洗うといえば、逃走中、たまにイヌの姿で川に飛びこんで行水するくらいだった。
「一時間もなにをしていた?」
シリウスはタオルで頭を拭いて水滴がたれないようにしてから、肩にかけた。浴室を出るまえにガウンを羽織って正解だった。羽織っていなかったら、おたがい深刻なトラウマを負いかねないところだった。
「ここはおれの部屋になったんだぞ?」
スネイプは目をまわして見せてから、服の山をベッドに落とした。
「これを持ってきてやった」
「またおまえの服かよ?」
「いや。
「あ……そりゃ助かる」
「食べ物がほしければドビーを呼べばいい。この学校の台所に住んでいるしもべ妖精だ。去年マルフォイ家から脱走してきたやつだが、理由は聞かないでくれ。そこのテーブルに図書館から持ってきた本が積んである。退屈して外に出ようとされてはかなわんから、なにか時間をつぶさせるものが必要だと思ってな。かっこいいおもちゃのほうがよかっただろうが、あいにく品切れだ」
最後のひとことは余計だったが、あまり本気らしくは聞こえなかった。
「何のためにこんなことを?」
「は?」
「やけに親切じゃないか。おれたちは憎み合ってただろ、ずっと。それが……」
と言って服の山を手ぶりで指す。
「……何でこうなる」
スネイプはじっと視線を向けてきた。その表情は記憶にあるスネイプと同じ嘲笑で、スネイプのシリウスへの評価が変わったわけではないことをよく物語っていた。なら、なぜ?
「わたしは憎み合うことからは距離をおいて、新しい人生を送ろうとしている」
スネイプはやっとそう白状した。
「へえ。それで調子はどうなんだ?」
スネイプはしばらく本気で考えるような素振りをした。
「そうだな……たまにはいいこともある。世間には救いようのない人間ばかりでもないことに気づかされたりもする」
「おれもそこに入るのか?」と言ってシリウスはにやりとした。
「いや、あいかわらずクズだと思っている。だがおまえが大変な人生を送ってきたことも知っている。だからいまは個人的なことは脇に置いてやる」
シリウスは返すことばがなく、ただ無言でスネイプを見つめた。
……
「またこれだ」
スネイプは新聞をにらみながらそうつぶやいた。
「残念だったね先生」
ジョージは本心からそう言ったが、後ろから肩をポンとたたくことまでする勇気はなかった。
新聞はこのニュースで持ち切りだった。
『実は生きていたヴォルデモート 潜伏先で逮捕』
『お手柄闇祓いが凱旋』
「戻ってもよかったんじゃないかな? ミスター・ブラックを送り届けてから」とルーナが言った。
「いや、あのあと、いつ闇祓いが到着するか分からなかった。もし向こうのほうが先に着いていたら、元死喰い人がご主人さまを取り戻しに来た格好になる。説明する間もなく集中砲火だ。闇の帝王が生きていたとあっては、全員すっかり警戒状態だっただろうし、そのうち一人でも頭に血をのぼらせて『自衛』と称してこちらを攻撃してくれば、それまでだ」
「まあ、おれたちはスネイプ先生ががんばってくれたのを知ってるよ」
「そうそう」
「ミスター・ブラックまで救うのは立派だよね」
ルーナはにっこりとしてそう言った。
「正しいことをしたのに、これほど気分が悪くなるのはなぜだろうな?」
トムが愉快げに鼻で笑った。
「そうそう。悪のほうがずっとやりがいがあるだろう」
ルーナが渋い顔をしたが、二人は無視した。
……
次の日、ルーナが皆に提案した。
「スネイプ先生になにかしてあげようよ」
学校全体がまだヴォルデモートについてのニュースで沸き立っていて、ルーナたちグループは秘密の薬学教室に引きこもって休憩しているところだった。
「たとえばどんな?」
ジョージは新作の道具をもてあそびながらそう言った。ひれと滑車とバルブと、よく磨かれた折り畳み式のなにかがついていた。なにをするためのものなのか分からず、トムとルーナは気になっていたが、質問するにも想像するにも及び腰だった。
「さあ。なにか元気が出るようなこと」
「じゃあ上等な高級ファイアウィスキーのボトルを一本。晩酌とか好きそうじゃん」
「プレゼントがお酒って冷たくない? それに、大人がいないと買えないよ」
「そこはおれたちにおまかせを。慣れてるから」
「そうそう。ウィーズリーあるところに道はひらける」
トムはそれを聞いて笑った。
ルーナはまだ納得しない。
「やっぱりそういうのはちょっとちがうな」
「あのなピーチ……。いちおう言っておくと、あいつはぼくみたいにコルクの首かざりが似合うたちじゃないと思うぞ」
トムはルーナが変な贈り物をすることをよく知っている。
「本でどうだ? 新品の釜でもいいんじゃないか?」
フレッドは流し目でジョージを見た。ジョージも流し目でフレッドを見た。そしてそのまま、トムとルーナの話を見守った。
「おい聞いたか、いまの」
「うんばっちり」
双子がとっておきの情報をしっかりつかんだのに気づかないまま、トムとルーナは話しつづけた。
「プレゼントでなくてもいいと思う……パーティをしてあげるとか、料理を作ってあげるとか」とルーナが言った。
「このなかに料理できる人は?」とトムがたずねた。
「はい」
ジョージの返事にフレッドが割りこんだ。
「嘘いうな」
「嘘なもんか。料理もポーションの調合みたいなもんだ。材料とレシピがありゃ、何てことはない」
「どこがだよ。ポーションなら味はどうでもいい。料理は味が肝心だ。昔おまえの料理を食べさせられたときのこと、いまでも夢に見る。よく死ななかったもんだと思う」
「フレッドこそ、サラダを燃やしたくせに」
「おれは料理できるなんて言ってないぜ」
「サラダを燃やすだと? どうすればそんなことになる?」
スネイプが部屋の入り口からそう言い、生徒たちがなにかをたくらんでいる様子なのは無視して入っていく。これまでのスネイプの経験上、この生徒たちは四六時中なにかをたくらんでいるし、変なたくらみごとにはとにかく関わりを持たないことだ。
ただしその戦略はあまりうまくいった試しがない。
「そうだよフレッド。どうやればサラダが燃えるんだ?」
「簡単さ。火をつけるんだ」
スネイプは今度は足を止めて、不可解そうな顔でフレッドのほうを見て、首を振った。
「聞いたわたしがバカだった」
……
四人の生徒たちはもう一日かけて料理と贈り物と非合法なアルコール調達法について議論し、やっとのことで全員が納得する案にたどりついた。
机の上に奇妙な品物が並べられたのを見て、セブルスはどう理解したものかと戸惑った。
ウィーズリー兄弟の二人は両がわに立ってにやりと笑っている。トムとルーナは机の向こうがわに立っている。
「名づけてギフト
釜なのはたしかだった。新品とはいえ、何の変哲もない標準的な調合釜。その取っ手に緑色のリボンが巻いてあり……興味ぶかいことになっている。
中に詰められていたのは、例のファイアウィスキー(フレッドとジョージはどうやって入手したのか、口を割ろうとしない)をはじめとして、ハニーデュークス製のお菓子の詰め合わせがあり、さらに新品の天秤、各種ポーションの材料、一そろいの靴下(ギフト釜には靴下がどうしても欠かせないらしい)、そしてウィーズリー兄弟謹製の玩具がいくつか入っていた。
四人が眺めるなか、先生はプレゼントを一つ一つ取り出していき、目をこらしては困ったような笑いを見せた。全部取り出し終わると、釜の底に最後に残ったのは『ヴォルデモートを倒してくれてありがとう』という小さなカードだった。
連日の新聞に辟易させられる毎日で、不愉快でも不本意でもない気持ちになるのは久しぶりのことだった。
こうやって笑顔の生徒三人と、おもしろそうな目で見ている元ホークラックス一名とに囲まれていると、少しずつ考えが変わる気がした。世界じゅうがセブルスの手柄を知らないままであっても、この子どもたちが知っているならそれでいいのかもしれない。この子どもたちは、セブルスが長年築いてきた防壁を穿ち、いっしょにいて決して愉快とは言えないセブルスの性格をこじあけた。以前は自分のことを見下げ果てた男だと思っていた。それを考えなおしてもいいかもしれないと思えたのは彼らのおかげだ。
だいたい、有名人あつかいは性に合わない。群衆に振りまわされるのもごめんだ。