トムは目のまえにあるドアをにらみつけては、二の足を踏む。手に持った鉢植えのふちに指をあてて、曲げ伸ばす動作を繰り返す。
「何のためにぼくがこんなことを……」
そう聞いてルーナはため息をついた。何日も同じ問答を繰り返しながら、やっとのことでトムをここまで持ってきたのだった。
「正しいことだからだよ」
「でもこれが何の埋め合わせになるっていうんだ」
「せめて謝るくらいはしておかないとね」
「だからって、このゼラニウムを持っていく意味はあるのか?」
「だれかに謝りに行くときには、贈り物を持っていくといいんだよ」
やはりバカげている、と思うトム。しかし、ルーナは明らかに『これ以上待たせるなら付き合っていられない』という表情をしている。
「……わかった、やればいいんだろう!」
トムは歯ぎしりをして、なぜ自分がこんな目に、と思いながらも、ドアを押しあけて中へ入った。そこは記憶にある以上に殺風景で寂れたトイレだった。多分ずっと使われていないのだろう。あの
二人が入っていったとき、そのゴーストは個室から個室へふらふら飛びまわっていたが、すぐに来客に気づいて出迎えに来た。
「あら、ルーナ。また来たの。うれしい。その男の子は? あんたの友だち? 友だちを連れてきたのははじめてよね。どうして連れてきたの? このトイレ、男の子は立ち入り禁止よ。女子トイレだもの。男の子は来ないでっ!」
「こんにちはマートル」とルーナが明るい声で挨拶する。
「こっちはトム。トムからマートルにとても大事な話をがあるから、ここに連れて来たんだ。ほら、トム?」
ルーナに肘でつついて急かされ、トムは話し出した。
「やあ、マートル……だったよな? その……多分きみは覚えていないと思うが……」
どう切り出せばいいものか、とトムはすこし考えた。
「……話せば長くなるんだが、実はきみとぼくは同じ時代にこの学校にいた。それで……その……いろいろあって、ぼくはずっと日記帳に閉じこめられていて、最近やっと出てこれた。……だから当時から年齢が変わっていない」
話が通じているかどうか不安になったので、トムはマートルのほうを見た。だがマートルは狂人を相手にしているような目でじっと見ているだけだった。マートルは『信じていいのか』と言うようにルーナに目を向けた。ルーナがうなづくのを見て、マートルはすうっと飛んできてトムを観察しはじめた。
トムはびくついたら負けだと思い、顔を近づけられても、じっとしていた。
「いいわ、そういうことにしてあげる。変てこな話だけど、信じてあげる。それで、あたしが生きていたころ、あんたもこの学校にいたの? 覚えてないわよ。友だちじゃなかったんでしょ。まあ、友だちなんて一人もいなかったんだけど。……それで何の用?」
トムは歯ぎしりをして、一歩下がった。これを聞かせたらどういう反応をするだろうと少し心配になった。
「うん、まあ早い話が、きみが死んだあの日、同じトイレにだれかがいたと思うが……それが……ぼくだったんだ」
マートルはこの話に反応し、一段と近くに寄ってきて、鼻と鼻がほとんど重なるくらいの距離から、じっとトムの目をのぞきこむ。
「あのシューシューって音出してたのが?」
「それはぼくが話していた
「え? 何の部屋?」
「秘密の部屋。この学校の地下にそういう場所が隠されている。……あそこが入り口になっていて……」
トムは流しを手で指した。
「……それをぼくは開けようとしていた。個室からきみが出てくるまで、このトイレにはだれもいないと思っていた」
「それであたしを殺したんだ?」
マートルはすかさず尋ねた。怪訝そうに首をかしげて、トムに近寄ってくる。
「いや……うん、まあ……何というか……やったのは、正確にはバジリスクだ」
「え? なにリスク?」
「巨大なヘビの一種だ。その部屋に住んでいる」
「あんたがその部屋からヘビを出して、そいつがあたしを殺したってこと?」
「そうだ」
「ふーん、事故だったってこと?」
「う……」
トムは一歩下がりつつ、自分が本心から罪悪感をおぼえていることに驚いた。
「いや、そうじゃない。ぼくが命じたんだ。その……もしきみに見られたら、証言されるかもしれないと思って……だから……だから……見られるまえに殺すことにした。きみはマグル生まれだったから……当時のぼくはマグルを差別してもいた」
「あんたがあたしを殺したんだ?」
マートルはもう一度そう言った。
「そうだ」
トムはやっと認めた。
「だから、謝る」
意外にも、マートルは荒ぶる様子を見せなかった。自分を殺した犯人の自白を目の当たりにして、人間そう平静ではいられないだろうに。かわりにただ近づいてきて、トムの精神の中身をのぞきこむような動きをした。ゴーストなら実際できるのかもしれない。頭蓋骨のなかに入って、脳を見ることは多分できるんだろう。見れたとして、なにが分かるわけでもないだろうが。
——いつまで見てるんだ。
トムは物思いをやめて、こちらから話をつづけたほうがよさそうだと判断した。
「というか、ぼくはその殺人のおかげでホークラックスを作ることができて、何年ものあいだ生きのびられたんだとも言える。そのおかげでぼくはこうやって生きている」
考えてみれば奇妙な話だ。
「だからきみはある意味、命の恩人なのかもしれない」
『お返しにぼくはきみの命を奪った』——トムは心のなかでそう付け加えた。罪悪感というのがこんなに苦い味がするとは思わなかった。
トムは引きつった笑顔で鉢植えを手にしてマートルに差し出した。マートルは困惑した顔でそれを見つめたが、やがてトムに視線を戻してにらみつけた。
「何なのそれ?」とマートルがいぶかしげに言う。
「ゼラニウムの鉢。トムからの贈り物だよ。お詫びの印にって」とルーナ。
マートルはまた顔をゆがませて鉢植えをながめたが、少しずつ目つきがやわらいでいった。
「あたしに?」
「そうだ」
トムはそう言いながら、見やすい高さに鉢を持ち上げた。
マートルは眼鏡の奥の実体のない目をぱちぱちさせて、唖然とした様子だったが、鉢植えのまわりをぐるぐると回りだした。いろいろな方向から見ようとしているようだった。そしてトムの腕のあいだを通りぬけた。トムは思わず身震いした。
マートルがだんだん笑顔になっていく。このゴーストに笑顔をふりまかれるのは居心地が悪い。にらまれるほうがましだとトムは思ったが、彼女はまた顔を近づけてきた。
「男の子に花をプレゼントしてもらうなんて初めて」
そう言ってマートルは黄色い歓声を上げた。
「きみを殺した男の子だぞ」
トムはほとんど絶望的といっていい調子でそう言った。
「そうね。でももう気にしてない」
マートルは目を見開いて笑顔でそう答えた。
……は?
「えー……と……そうなのか?」
「そりゃあ、両親は悲しんだわ」
マートルはすこしだけ沈んだ表情をした。
「お葬式のときに話しかけようとして、マグルのお客さんを怖がらせちゃって、それで魔法省が全員の記憶を消すことになっちゃって。でもその両親も、もう死んだ。ここにはいない。ここじゃない……どこか別の場所に行ったから」
ルーナも寂しそうに笑った。
「わたしのお母さんも」
二人は当たりまえのようにそう話してうなづきあっている。自分が話題の中心でなくなって、トムはすこし気が楽になった。が、好奇心がわざわいして、つい口をはさんでしまった。
「ちょっといいかな、マートル。きみは何でその……別の場所に行かなかったんだ?」
どういう返事を期待してそんなことをたずねたのか、自分でも分からない。だが、気味悪く笑って喜ぶというのは完全に想定外だった。
マートルは嬉しそうに答えた。
「オリーブ・ホーンビーよ」
「は?」
「あたしがここにいる理由。その名はオリーブ・ホーンビー! あたしがあの日このトイレにいたのは、あいつのせい。眼鏡のことでからかわれて、ここに逃げこんで泣いていたの」
ルーナは悲しそうな表情を見せた。きっと自分自身がいじめられた経験を思い出しているのだろう。できることならマートルの手をにぎりに行っていただろうことも想像にかたくない。
「でも仕返ししてやったから。たっぷり仕返しして、あたしをからかったことを後悔させてやったわ」
「どうやって?」
トムは俄然、興味が出てきた。ルーナはそうでもないようだったが、復讐は楽しいというのがトムの持論だ。
「化けて出たのよ! 毎日どこまでもつきまとって、あたしが死んだのはあいつの責任だって分からせてやった。あっ、あんたのせいでもあったんだっけ。でもやっぱりあいつのせいだもの! 卒業してからもずっとつきまとってやったんだから、何年も! ……自業自得なんだから、たっぷり後悔させてやったわ」
「あのころは楽しかったわねえ。じーっとただ見てやったり、追いかけまわしたりして、いつも気分を最悪にしてやったの。永遠にああしててもよかったくらい」
「何でそうしなかったんだ?」
愕然とした表情のルーナをよそに、トムはそうたずねた。
「あいつの説得でついに魔法省が動いて、変な処分がくだされちゃって。それでこの学校を離れられなくなっちゃった」
「それはご愁傷様」
「そうなの。ひどい話でしょ、あたし本人が死んだ場所でもある、こんな寂れたトイレに永遠に縛りつけるなんて。……ま、たまにはほかのトイレに行けたりするんだけど。……もっとたまには、排水口から湖に出たりすることもあるんだけど。そうそう、
「え、そうなんだ?」
ルーナが意外そうな声で言った。その話題が気になるあまり、直前にマートルが告白した元同級生への長年の仕打ちのことを忘れてしまったらしい。
「じゃあほんとはどういう感じ? すごく興味あるから、わたしも会ってみたい」
「やめときなさい。あいつら、揃いも揃って、暗いし、醜いし、嫌な音だすし、とんがった歯してるし、とんがった爪してるし、とんがった耳してるし、とんがった尻尾してるし、ほかにもとんがったものついてたと思うし。ぜったい近寄らないことをおすすめするわ」
「がっかりだなあ」
トムはその会話を聞いて目をまわして見せた。
「ルーナ、きみはマーメイドに会ったこともないし、つい一分まえまでは会いたいと口にしたこともなかったじゃないか。どういう生きものだろうが、気落ちする理由はないだろう?」
「たしかに」
「理解してくれてよかった」
「でもやっぱり残念」
「あとでセストラルのところに行こうか」
トムは笑顔でそう言った。
「行けば元気になるぞ」
「そうだね。あ、マートルもセストラルを見に行きたくない? ゴーストでも見えるかな? セストラルは人が死ぬのを見た人にしか見えないんだ。自分自身が死んだなら、自分自身が死ぬのを見たことにはなる? それとこれとは別?」
「マートルが来れば分かることだ」
「セストラルって、森に住んでるんでしょう? 森じゃあ、遠すぎて行けないわ」とマートル。
「湖までは出れるんだよね? それならセストラルを湖のほとりまで連れていくよ」とルーナ。
マートルは喜びもあらわに、いままで以上に縦横無尽にトイレのなかを飛びまわり、待ちきれない様子で言った。
「それならうまくいきそう。いつ? いますぐでもいい?」
トムとルーナはちらりとおたがいを見合って、すぐ行くつもりではなかったことを確認した。それでも、しかたないと言うように肩をすくめた。
「いいよ」
「やったあ。じゃあ、そこからあたしを流してね」
そう言ってマートルは一番近くの便器に飛びこみ、にゅっと頭を出して、うきうきの笑顔を見せた。
「そこの鎖、引っぱってくれる?」
ルーナは鎖に手をのばしたが、トムは自分がまだゼラニウムの鉢を持っていることに気づいた。
「これはどこに置けばいい?」
マートルがまた目を輝かせた。
「一番奥の個室の便器の蓋の上にお願い」
「窓の脇のほうがよくないか? 外の光が当たるから。それと、一日一回は水やりも必要だ。水道の栓を開けたりはできるんだよな?」
「できるけど、しない」
そう言ってマートルはまた少しだけ病んだ笑みを見せ、鉢植えに目をやった。
「放っとけば、だんだん死んでいくでしょ。それを見て楽しみたいの」
その一言を最後に、マートルは自分で鎖を引っぱってすかさず便器に飛びこみ、湖へと流されていった。
「変なもんだな……」
トムは鉢植えを言われたとおりの場所に置きながら言う。
「あいつとは気が合いそうだ」
ルーナは一連の展開にとまどいを感じているようだったが、一度きっぱりと首を振ってから、ドアのほうに歩きだした。
「さあトム、セストラルを探しに行くよ」