逆にストレスが溜まりかけたバカンスも終わり、ドタキャンをかました平賀への制裁も完了した頃、暦は八月を回った。唯一、社会に溶け込んでいられる時間である学園生活も夏休みに入ってしまい、日向春一は各々代わる代わるに日常を過ごしている。時に、体を動かし、時に古ぼけた本屋に入りびたり、ネットの海に溺れ、神社に参拝をして、終いには人間観察だ。ちなみに残った二日の内一日は図書館に赴き学校の課題をやって、ラストの一日は休息を取る。そんな感じが現在、一週間のルーチンワークとなっている。と、言うのも、今月の予定が丸々来月に繰り越されてしまったのが原因だ。なんでも『ストレガ』として挨拶に行くらしく、そこに『ダイス』はいないほうがいいとの事。こちらに迷惑を掛けたくない感が丸分かり過ぎて逆に気が引けてしまう。ジンの奴は、脱走から結構経った今でも、どうにも恩義を感じすぎている節が抜け切らない。まあ、恐らくはそれが自己防衛の手段なのだろうから、強いるような真似はしないが。
「……終わった」
雑多な思考に塗れながらも動かしていた手がピタリと止まる。夏休みの前半にして、僕の唯一の暇つぶし道具だった課題が終わってしまったのだ。細やかな常識に欠けている僕は知る由もなかったけれど、どうやら三年生は一、二年生の時よりも出される課題の量が少なかったらしい。これは、無趣味人間の僕にとって由々しき事態である。このまま残りを座禅でも組んで過ごすか。いやいや、いくらなんでもそれは無いだろう。飼い猫ですらもう少しマシな時間の使い方をする。
「参ったな。てんで代案が思いつかない」
ようやく道を定めた平賀には、自分の道を頑張ってもらいたいし、かと言って僕には平賀以外に友達はいない。優等生の弊害がこんなところに出るとは……。合縁奇縁なんて言葉もあるくらいだ。あまり堂々と表を歩けない立場だけれども、もう少し人と関わっても良かったのかもしれない。
「あ、終わりました?」
「そうだな。こちらの根負けだ」
目尻を一揉みしてから顔を上げると、そこには有里がいる。意図的に無視していたのをものともせずに、三時間近く待っていたのだ。鼻歌混じりに読書をしながら。彼女は想像よりも数段図太かったらしい。
「僕の気のせいでなければ、君とは気軽に話す間柄でもなかったと思うけど」
「アレは日向先輩がイジワルしたからですー。大体なんですか、後輩を威圧なんかして大人気ないと思いますー!」
「そうさせたのは君だろう。まったく。無用な諍いを作らない為に猫被っていたのに」
「う……。で、でも、ばれちゃったなら猫被れてなくないですか?」
「余程の変人以外はそこできっちり躊躇うんだよ」
分かりやすく呆れた様を伝えるために深くため息をつく。別段、悪しざまに言っているつもりはない。なぜなら、僕の唯一の有人もその変人リストに名を連ねる一人であるからだ。面倒くさいからやらないが、この二人、引きあわせてみたら案外意気投合しだすのかもしれない。
「猫被ってた云々はこの際どうでもいい。重要なのは君が僕を苦手と思っている事実だ。正直、前回ので懲りたかと思っていた」
「私はしぶといんです。っていうか、いじめた自覚あったんですね、先輩」
「人聞きの悪い。あれはどう考えても返り討ちだ。もしくは身から出た錆」
「ああ。初めて会った時の綺麗な思い出が音を立てて崩れていく……」
およよ、と擬音が見えそうなくらいわざとらしい泣き真似で目元を覆う有里。こいつ、少し合わない間に胡散臭さが劇的に増している。気持ち、六道を相手にしている気分だ。まあ、舌戦の無双加減を鑑みてあっちの方が数段上手だけど。
「いい人で通してはいるが、小芝居に乗っかるような人間でもないんだよ」
「……少しくらい歩み寄ってくれてもいいじゃないですか」
「論外だ臆病者。僕に素で接してほしいのなら、せめてそっちからも歩み寄れ」
「あはは。酷なこと言いますね、先輩は」
困ったように笑い、声は僅かに震え、それでもこの場を去ろうとする意思は一切ない。なるほど、ただなんとなく同席した訳でもないようだ。
「社交辞令に塗れて気分よく会話したいなら、学校で話しかけるといい。知り合い曰く、僕はスパルタらしいからな」
「知ってますよーだ。本人から聞きましたもん」
「なに……?」
「天田君。今、寮で引き取ってるんです。本人から聞いてませんか?」
「あれと僕の間柄も中々に捻くれてるんだ。プライベートな話など殆どない」
やはり、免許皆伝以降かなり浮かれていたのは見間違いじゃなかった。あれだけ事を済ますまではなるべく忍べと言い含めておいたのに、高々一か月ももってないじゃないか、脇の甘いバカ弟子め。
「先に言っておくぞ。断る。君に手ほどきをするつもりは毛頭ない」
「そこを何とか!」
有里はこちらの放った牽制をものともせずに、風圧で整えられていたプリントが数枚飛び散る勢いで頭を下げた。突然の事に周りを歩いていた数人が訝しげにこちらを見ていて、そこはかとなく不快だ。理屈抜きに、いつまでたっても奇異の視線だけには慣れることが出来ない。もう少しだけギャラリーが多ければ、有無を言わさずこの場を去っていたかもしれないくらいに。
「天田の件は特例中の特例だ。今後一切、有り得ない」
平坦なままに、声の宿す温度が極寒のそれへと変化する。ああ、確かに目の前の彼女は立派で、素晴らしい人間なのだろう。しかし、いや、だからこそ、この件の本質を理解できていない。その証拠に、今も狼狽を隠せないでいる。まったくもってこいつは太陽だ。相手にすればするだけ、自身の嫌なところまで照らされてしまう。最悪だ。こんな気分は、本当に。
「本当に、なんて気持ちにさせてくれる」
「えっ?」
爆発寸前まで高まった感情は抑圧され、どこまでも平坦にシフトした。ある意味、有里の勝ちだ。こうまでされては、武芸の手解き云々なんて霞んでしまっただろう。極限のアパシーを宿した怪物を前に、有里美奈子は呆けたまま動けない。
「色々と言いたいことはあるが、一つ、認識の齟齬を埋めるとしよう」
「あ……、っ……」
口をパクパクさせている彼女とは対照的に、僕は淡々と言葉を紡ぐ。勇気を出してここまで踏み込んできたことに対して、諸手を上げて喝采してやりたいと一瞬思っては、その感情もまた寄せて還す波の如く溶けて消える。僕が、社会に適応するために被っていた猫の更にその奥にいるのは、気を付けなければマネキンと見紛ってしまうほどの、かつて人間だったものの残骸。
「君が相応の覚悟を決めて来たのは感じ取っているとも。その生き方の指標を曲げてまで、僕の内面に踏み込んできたのも感心した。だが、無知は罪だ。いつかどこかにたどり着くかもしれない可能性を、この場で捻じ曲げてしまうのは、避けたい」
もったいないだろう。この僕のように、なってしまいたくはないだろう。言外の問いかけに、有里は身を固くして返答した。
「僕に師事するのに必要なのは、覚悟なんて上等な物じゃない。狂気だ。擦り切れたマメを見て感じるのは達成感ではなく、深い深い憎悪で口元が避けそうになる。そういう世界だ。出来る事なら、足を踏み入れようだなんて考えてくれるな」
「……ごめんなさい」
「いいって。踏み込んでこいと挑発したのはこちらだ。君はいつも通りに当たって砕けただけ。正直、予想以上だったけどね」
頬の表情筋を微細に痙攣させて急速に仮面を再生してゆく最中、ようやく言葉と態度が釣りあいを見せ、人並みの笑顔を取り繕えた。傍から見たらとても不気味な光景なのだろう。自覚はある。家族を手に入れるために自分の魂を切り刻んだあの日から、僕は人間のようなものに成り下がった。奪われない家族と僕が恨みに呑まれてしまう前の証。そして、それを乗せて黄泉路を辿る者こそが日向春一のなれの果ての僕だ。
「……そういう訳で、稽古を付けるのは諦めてくれると助かる」
些かにぎこちなく笑みを作って、僕は言う。しかし、楽しみだ。一度目も二度目もこいつは僕の殻を破った。では、三度目はどうなる。次踏み込んで来たら、どうなってしまうのだろうか。興味は尽きない。
「そんな顔をするな。今日の事はいわば事故。おみくじで大凶を引いたようなものさ」
「大事故です……。前代未聞の。街中で爆弾見つけちゃったくらいの大事故です」
「例えがそのまま過ぎるぞ」
ぷっくり頬を膨らませる様を見るに、割と大丈夫らしい。フォローとか要らなかったかもしれない。
「やっぱり、君面白いよ。言うまでもないかもしれないけど、懲りずに何度でも来て良いからね」
「先輩、私の事なにかと勘違いしてませんか?」
「お互い様だろうに。類は友を呼ぶのさ。その良し悪しは関係なく」
かもしれませんね、と呆れたように呟いて有里は自嘲の笑みを浮かべた。自覚のある被害者と、自覚のない被害者。過ちの全てが明るみになって、それでも彼女は僕と違う道を選んで欲しいと、切に願うばかりだ。
○○○
その日の夜だ。僕は中天に輝く満月を背にして、対大型シャドウ戦の観戦に興じていた。残る三人の顔合わせプランを立てるためにも、相手の力を事細かに把握しておくべきだと、六道が言ったからだ。あからさまに嘘である。何しろ、支援特化の三日月や四季と違って、六道には偵察など意味を持たない。圧倒的な索敵スキルと、それに付随などと言う言葉では済ませられない戦闘能力を併せ持つ反則。それが六道。殆ど全ての局面において、家族の中で最優を誇る鬼札。
「呵呵。そう褒めるでない」
「自重しろって話だよ」
表側に顕現してペルソナを展開している六道と言葉を交わす。漏らさず伝わってくる戦況にも彼にとっては特筆すべき個所もなく、飽きてしまったのだろう。真剣な形相で見入っている他の面子の額には青筋が見受けられる。実際、順当に成長している奴らは驚異的だ。力が、ではなく、その成長のスピードがすさまじい。戦闘民族もかくやの勢いである。いくら年端もいかなかった頃との比較でも、これだけ顕著に差を見せつけられると焦燥を感じる。戯言のような可能性の話でも、一段落着くまで決して敗北は許されない。縋る悉くを打破してあの凍った時の中で絶対的な存在でなくては、ならない。だから、これはちょっとしたピンチだ。耐久にしか自信のない僕がタコ殴りにされる未来が脳裏を掠めて、背筋に冷や汗が流れるのを否応なく感じてしまう。
「あの機械、厄介ですね。三日月の戦法が通じるのか分かりません」
「同じく。私のやり方も対応は可能だとして、決め手に欠ける。折角、制圧用に用意してもらったダチュラも生身でなければ効果は望めない、と思う。……多分」
「俺様余裕」
「俺も然したる問題は無い」
「言わずもがな」
「と、なると六道以外の二人は策を講じる必要が出てくる。まあ、打てる手なんか決まっているんだけど」
そう言う戦い方は僕の時まで伏せておきたかったのだけれど、この際仕方ない。相手が予想の上を行ったと認めるところから始めよう。
「……了解です。三日月と四季にはそれしか道はありませんね。誠に。ま、こ、と、に、遺憾ですが。頭脳派なので」
「私たちは元来、正面切って戦うスタイルではないからな。だから、そこの脳筋馬鹿共は即刻その異様に人の神経を逆なでする勝ち誇った顔をするのを止めろ」
「ふははははー!男の嫉妬は見苦しいぜェ!我が弟よ!」
「ああ、兄様。私の敵はここにいたようだ。ふふふ。その首、叩き切ってくれる!」
そうして、いつもの取っ組み合いが始まる。特に、今日は昼間の出来事でパンクして溢れた想いを引き取ってくれただけあって、全員テンションが一段と高い。要はハイになっていると言い換えてもいい。事前に承知していないと、稀にああなってしまうのだ。激情は僕を殺す。だから、担い手の元に臨界点を超えた感情を引き取ってもらい小康状態に持っていく。昼間の疑似マネキン状態は、自己保全のため日向春一に自然発生した免疫機構のようなものである。しわ寄せは最愛の家族に向かう。尤も、幸いな事に本人たちがそれを苦としないでいてくれるが。
「やれやれ、後幾度この光景を見れるかのと感慨深くしていた春先の儂が滑稽に思えるのう」
「なんだかんだで一日三回くらいは喧嘩しているからな」
「寝覚めに勃発しないだけマシです。軽い罰ゲームよりも清々しい一日の妨げになります」
「もはやこのやり取りも慣例と化してるよね」
罵声を浴びせあう二人を尻目で捉えながらダイニングテーブルを囲む四人は軽く息を吐き出す。なんだかんだで、この瞬間が最もリラックスできている事実に、自分自身で呆れかえっているのだ。意図するしない関係なく、あの二人の放つ喧騒は団欒にとりあえず点けられているテレビと同様の存在と言えるだろう。まあ、現実の自室にパソコンはあってもテレビなんかないんだけど、感覚的な意味合いで。
「時にハルよ。あと十日後に夏祭りなる催しがあるらしいと小耳に挟んだのじゃが」
「ん?ああ、そうだね。小規模ながら今年も賑わう筈だよ」
「今年は行ってみてはどうか?彼岸までの道行。どうせなら楽しまねば損じゃ」
「だからって、一人で回るのは虚しそうだけどね。いくら賑やかでも、独り言を呟き続けている奴なんて、目立ってしょうがない」
「いいえ。ハル、行くのはあなた一人です」
「そうそう。俺たちは中から見てるだけで十全だ」
「……嫌な予感がするんだけど」
俗に、この四人の表情こそを、いい笑顔と称するのだろう。つまりは、悪巧みの顔をしている。それも、恐らくかなり性質の悪い回避不可能の。
「ふふふ。無駄ですよ。仕込みは既に終えました。……六道が」
「うむ。兄上の隙を付いてな。……六道が」
「ほ、ほほう。家族を売るとはなんと卑劣な奴原よ」
「そうだな。言い訳は後で聞いてあげるから、まずは何をしたかキリキリ吐くんだ、このインチキ破戒僧め」
一瞬で反旗を翻した、いや、これは三日月の予定調和か。ともかく、これだけは言えるだろう。エリザベスの街案内の時同様、僕は見世物となるらしい。
・・・
八月十六日。遂にこの日が来てしまった。夕方と言うにはまだ少し明るい空を見上げながら、しまってあった携帯電話を開く。目に映る画面はここ数日ずっと変わらない。ご覧の有様ではあるが、数日前の私は覚悟を決めたら変えるつもりだったのだろう。
「ああ……。後三十分しかない……」
白を基調とした花柄の浴衣を翻して、神社の入り口にて一人ぼやく。緊張とは無縁、とまでいかなくても、度胸は結構あるつもりだった。初めてペルソナ出した時もなんだかよく分からないままにロシアンルーレットみたいな事やってのけた訳だし……。ロマンチックなお誘い。ゆかりちゃん達に相談したらそんな受け取り方だったけど、私には素直に受け取れない。寮内ガールズトークの結論は、あの人の本性を知らないからこそだ。いい人に見せかけて、実は恐ろしい本性を……。なんて言ってるこっちが恥ずかしくなる。冷静に考えると、まるで少女漫画の話でもしているようじゃないか。
「うーん。でも、なんで?」
頭を抱えてみても、一向に理解できない。理解できている部分がどれだけあるのかと言われればそれまでだけど、先日の図書館での一件は、二度と近寄るなと言われてもおかしくなかった、と思う。気にしてない、なんて方便だと信じて疑わなかったし、何より許されてほっとした自分に腹が立った。その負い目が、今回の件に趣向を凝らした嫌がらせかもしれないとの疑惑を駆り立ててしまっていた。十中八九無いと言えない所があの人らしいといえばらしいか。学校でも大まかな風評以外は謎の人っぽいし。
「そ、そうだ!今日のところは腹痛で……」
「そこまで露骨に嫌なら拒否しても良かったんだけど」
ビクッと反射的に声のする方を振り向けば、一見誰だか判別できないくらいに普段と異なる格好をした待ち人がいた。なんて間の悪い。
「申し訳ない。どうやら遅刻してしまったようだね。一応三十分前くらいかと思ってたんだけど、何分待ち合わせなど初めてで」
「……変装ですか?」
「違う。それともまさか、君は僕が制服以外に服を持っていないとでも思っていたのか?」
「違いますけど……。また随分と予想外な方向に行ってますって、その格好」
「大げさだな。普段の格好よりも少し祭りにお誂え向きにしただけだぞ」
こ、この人、思ってたよりもずっとアレだ。薄々感じてたけど、よくも猫を被り続けていられたと感心してしまうほどに天然さん。オールバックでフレームの太い銀縁眼鏡って、インテリヤクザか。和服も妙に似合ってるし、実は屋台をする側だと聞かされても違和感なく受け入れてしまいそうだ。
「七、八人……、思ったよりも少ないのか?」
「何がです?」
「君には、いい友達がいるようだと思ってね」
「……?ありがとうございます?」
鋭くした目で周囲を窺っていた先輩が、満足げに笑った。何かがあったのか知らないけれど、楽しそう。なら、いいか。私だけがいつまでも不安げにしている方が、ずっと失礼だ。
「それじゃあ行きましょう、先輩!時間は待ってくれませんよ!」
「御尤も。時間はどこまでも有限だ」
やけに実感の籠った軽口を叩いている日向先輩を先導するように、私は不揃いな石段を上がっていく。電飾の明かりは淡く、ぼんやりと。小規模ながらにそれを感じさせないくらいの盛り上がりを見せ、眺めているだけで心がほんのり温かくなっていく。
「なるほど。いつもの寂れた境内とは大分趣きが違うな。熱気が凄い」
「へえ、ここよく来るんですか?」
「週一くらいでここにいるかな」
「週一で神社ですか……」
案外信心深いのだろうか。そんな素振りはこれっぽっちも見せない。違う。隠れてしまって判別できないのだ。余程ピンポイントで地雷でも踏まない限り、奥底に眠る本音を引き出せない。……私は一歩目で見事地雷を踏み抜いたけど。やめよう。ともかく、一週間神社を張り込めば大体会えるらしいと知れただけ収穫だ。
「無粋な話はまた今度。いいね?」
「そうですね。お祭りは頭空っぽにしたくらいが丁度いい、って誰かが言ってた気がします」
「そいつは僥倖。これでも初めての祭りなんだ。いい思い出にしておきたい」
「初めて!?こうしちゃいられません!小っちゃくても一通り出店は揃ってますからね!」
グイッと袖口を掴んで駈け出そうとすると、先輩は少しだけ慌てた風に引っ張られる。お互い、まともじゃないと知っているのに、この瞬間だけはとても自然。本心がどうのとか、今だけはどうでもいい。祭りの活気と、堅い石畳を打つ靴の音と、触り心地のいい布の感触。とりあえずは、それだけあれば満足だ。
・・・
宴もたけなわ。人が一番多くなる時間帯が到来するまでの間に、思う存分引っ張りまわされた。いかにも受動的な言い回しをしてしまったけれど、僕自身満更でもない気分でいる。俯瞰で見れば味気ない人生を謳歌している僕にとって、体験する全てが新鮮な物ばかりで、楽しかった。時間が早く感じたのは本当に久しぶりだ。遠い過去に置き去りにしてきてしまった感覚を思い出せただけでも、今日ここに来てよかったと思える。きっと無駄にはならないから。
「ふう……。これで食べ物系以外は大体回ったみたいです」
「なら、一旦休憩にしよう。いい加減手荷物も持ちきれなくなりそうだ」
掴まれていない方の腕には、数えきれない水風船とスーパーボール。おまけにいくらかの食糧がある。リンゴ飴や綿あめも、これだけ人が多いと持ち運びにも結構気を回さなくてはならないのだ。
「あ、丁度良かった。ベンチ空いてますよ、ベンチ。私、取られちゃう前に取ってきます!」
器用に人の合間を縫い小走りで駆けて行く有里をゆっくり歩いて追いながら、こちらを窺う視線の主を一応確認する。と言うより、事あるごとに奇声を発するアレらは隠れているつもりなのだろうか。
「そろそろ潮時かな……」
名残惜しくもあるけれど、だからこそ思い出にとして深く残るだろう。だけど、その前に話をしなくてはならない。良い夜のお礼を。
「せーんぱーい、遅いですよ」
「悪かった。少し感慨深くてね」
「むう。毒気の無い先輩はどうにも調子が狂いますね……」
「ああ、だからそれもここまでだ」
自嘲するように鼻で笑って、ベンチに座る。見上げた月は痛々しいほどに白く輝いて、さっきまではあんなにも綺麗だと思えたのに、今ではそれが悍ましい。
「夜が嫌いだったよ。だから月を見上げて何かを想う事なんてなかった」
「……先輩?」
「申し訳ないけど、僕が返せるモノはこれくらいしかないんだ」
彼女にしか聞こえない声量で、しかし力強く僕は言う。まったく、恐ろしい奴だ。将来は稀代の悪女に違いない。
「僕がこうなったのは、十年と少しくらい前。何もかも、無くした。僕のそれまでは奪われてしまった」
霞む追憶の彼方。もう両親の顔さえ思い出せなくて、それを悲しいと思えない。それでもただ一つ覚えている。僕はあの陽だまりが好きで、確かに幸せだったのだ。
「遠い、本当に遠い昔の話さ。だけどね、重要なのはそこじゃあない。未来だよ」
黙って聞いていた有里の唇が震える。変に聡い奴だ。そんなんじゃ、辛いだろうに。
「あるいは目と耳を閉じ、口を噤んだって良かった。傷は時間を掛ければ癒えていくし、空いた穴もいつかは誰でもない誰かが埋めてくれる。たった数秒だっていい。心の底から混じり気なく笑えれば、十分だと思った。小さな願いさ。それすら……、それすらも許してもらえないらしくてね」
喉が渇く。祭りの熱気に充てられて口走った過去の欠片。僕が、彼女に渡せる唯一の餞別だ。
「多分、もう桜は見れない。僕の願いを叶えるために必要な物は、許されないモノだ。でも、止まれない。止まる気もない」
せめて、せめて結末は僕が決める。過去も、未来も無い。それでも過去に縋ったから、現在すら持ち合わせていないけど、終わりだけは手放さない。誰にも、それだけは奪わせない。家族と、僕の為に。
「……そんなもののなれの果てが僕だ」
「なんで、なんで笑うんですか……!そんな風に笑っちゃダメですよ……」
激高して、ようやく絞り出された言葉は予想と大分違った。この期に及んで僕のために怒るのか、こいつは。
「決めました。あなたが諦めてしまったのなら、私は諦めてあげません」
「それはまた……、身に余る」
「あーまーりーまーせーん!大体、自分から話しておいて、気にするな、なんて虫がいいですよ。他の人はどうだか知りませんけど、私は目を背けてあげませんから」
ビシっと人差し指を突きつけてそう宣言した。痛快だ。仄暗い空気など容易く吹き飛ばして、有里美奈子は宣言した。
「……くはっ、あはは、はははは!そうか、諦めてくれないのか!ふ、ふふ……、ありがとう。どうにも卑屈になっていたな、僕は。いやはや、大きな借りが出来てしまった」
「そう思うんなら、ちゃんと返してくださいね。もちろん、もっと笑えるようになってからですけど」
抱えた問題はそのままで、依然として山積しているにも拘らず気分は晴れやかだ。それが泡沫の夢だとしても、今日の事は忘れないだろう。例え、いずれ敵同士になるのだと分かっていても。
「さて、いい感じに話が纏まったところで恐縮なんだけど」
「はい?」
「そろそろ出てきたらどうかな、団体さん」
草むらががさりと揺れ、暫くすると観念したように見知った顔がぞろぞろ出てきた。伊織、岳羽、真田、山岸、桐条、天田。僕が位置を把握していた尾行組だ。残り二つの視線の主は、エリザベスとテオドアだろう。じゃなかったら困る。
「だから、ばれてるって言ったじゃないですか」
「あ、あはは。まさか本当にばれてるとは……」
「ええ!?みんな、何やってるの!?」
「ごめんね。最近の様子見てると心配で、つい」
天田はともかくとして、見知らぬ誰かと思われているらしく、一同緊張した面持ちでこちらを窺ってくる。何でだ。四季ほど危なげな雰囲気は醸し出していないはずなんだが。
「溶け込めているようだな、天田」
「はい。適応力も結構ついてたみたいで」
「そうか」
「それよりどうしたんですか。待ち合わせに来たとき、思わず目を疑っちゃいましたよ」
「……こっちにも色々あってね」
立ち上がり、口早に弁明をしている有里を一時放置して天田の前まで歩いていく。
「知り合いなの、天田君?」
「知り合いもなにも、皆さんも知ってる人ですよ」
「それは本当なのか?一度あった人物なら軽々には忘れないと自負しているが……」
「普段と大分違うせいじゃないですか?この人、学校では猫被ってるらしいですし」
「自分を棚上げするんじゃない。お前も殆ど同類だろうが」
「僕は日向さんほどじゃありません」
「日向……って、えっ、日向先輩?マジで?」
目を見開き、何度も何度もこちらを見直す。学園生活における隠蔽はほぼ完ぺきだったと言うことだ。
「とんだ優等生がいたもんだな。どうだ、美鶴。いつぞやに俺が言った話、現実味を帯びてきたぞ」
「落ち着け、明彦。例えそれが事実だったとしても相手次第だ。くれぐれも無理強いするなよ」
「……何の話だ?」
「い、いえいえも何でもないですよ。ただ、ちょっと悪い癖が出ちゃっただけですから!」
「そうですそうです!そんなことより、ビックリしましたよ。名前聞いても全然ピンときませんでしたもん」
「一応、隠してるから。気付く奴はあんまりいない。あんまり、ね」
「えっへん」
「美奈子ちゃん、褒められてないと思うよ……」
一段と賑やかになった辺りを見回して、軽く鼻を鳴らす。やることは終わった。メンバーが揃ったのなら、やはり僕は異物にしかならない。邪魔者はそろそろお暇させてもらおう。
「あー!ダメですよ!今、帰ろうとしたでしょう!」
「引き際は弁えている」
「さっきの今で何言ってるんですか、まったく。諦めてあげませんって言いましたよね?」
「……あー」
その言葉は、大きな大きな誤解を生んだ。天田は、おー、と感心するように声を上げているけれど、その他のメンバーの表情が目に見えて強張る。そうならないように気を使っていた僕の努力は、一瞬にして水泡に帰した。学校の図書室の時と言い、よくよく口を滑らせてくれる。
「君に他意がないのは十分理解してる。理解してるけど、とりあえず後ろを振り返ってみろ。もう遅いかもしれないが」
「……そうですね。今のは流石に自覚あります。ああもう、私のバカ……」
いつぞやと同じく、やっちゃった感を前面に押し出して眉間を抑える有里。自業自得である。故に、この場は押し付けさせてもらうとしよう。
「少なくとも夏休み中は週一でここにいる。話があるなら続きはその時に」
「ズルい!少しくらい手伝ってくれてもいいじゃないですか」
「二人で必死に弁明しても、事態が拗れない相手ならそうしてたさ」
そう言うと、大量に積み上げられていた祭りの戦利品を半分だけ手に取った。改めて我に返ると張り切りすぎたかもしれない。水風船など数えきれないくらいある。このまま僕が屋台を開けそうな勢いだ。屋台のおじさんには気の毒な事をしてしまった。
「良い時間をありがとう。楽しかったよ」
可能な限り精一杯のぎこちない笑みを向けてから、僕はその場を後にした。背後が騒がしくなって、次第にそれを聞き耳たてても聞き取れなくなった。人の波に逆らい、人気のない場所までたどり着く。大体五分くらいか。路地裏でもないのに、人っ子一人いなくなった道路には、目当ての人物たちが立っていた。
「これ、お土産ね」
「これは気を回していただき、ありがとうございます」
「一部の食べ物以外はあるから、二人で分けてくれ」
もう僕の言葉は耳にエリザベスの入っていないだろう。かといって、澄ました顔で佇むテオドアがこっちの話を聞いているのかといえば、断じて否だ。時折漏れ出す羨ましそうな視線から察するに、心中穏やかではないのだろう。恐らく、エリザベスの倍くらい楽しみにしていたはずなので当然の反応である。ちなみに、僕が位置を把握できない尾行の主をこの二人だと断定できたのも、超物欲しそうな視線の賜物だ。
「一杯喰わされたよ」
「そのようで。私共も見ておりました」
「有里美奈子はいつだって本気だ。だから、僕も本気でぶつかることにした。テオドアからしたら面白くないかもしれないけど、少しだけ感化されてしまったようでね」
「お気になさらず。その行く末を決めるのはハル様方でございます。私共は、その軌跡をお供させていただくだけ」
「なら、ここから先は片時も目を離さないでいてくれ。予感があるんだ。そろそろ何かが大きく動き出す予感が。君たちの求めた答えも、もしかしたら見つかるかもしれないよ」
清算の時は遠くない。必ずや、桐条と日向春一との因果を全て零に還して、旅路の終点に至るのだ。何もかもを捨てて、一つだけを手に入れるために。