夏休みは明け、またいつもの日常が戻ってきた。無論、僕も心の持ちようが変わったり、平賀は勉強に打ち込むために多忙な日々を送るため、以前のままとはいかないけれど、それでも比較的平穏な時間が流れていた。次の満月はもうすぐそこまで迫っていて、嵐の前に過ぎなくても。
「あ、じゃあね、日向君。また明日」
「ああ。精々頑張ってこい」
ドタバタ慌ただしく駆けて行くのは言うまでもなく平賀。将来を定めた日から予備校に滑り込み、寝る間も惜しんで勉学に励んでいる。意外とお喋り好きのあいつが忙殺の憂き目にあってしまってから、僕の放課後は些か手持無沙汰と化している。そんな時は決まって屋上で時間を潰す。どこか寄り道をする趣味は無いし、ただ何となくじかんを過ごすのなら、あのボロアパートの一室よりもいくらかましだ。特に今日みたいな快晴ならば、尚更に。
「……今は駄目だ。流石に人気がある時に部屋にはいけないって」
定位置に立ち、生暖かい風を受けながら呟く。珍しいことに起きているのが二葉だけらしく、死ぬほど暇だとの訴えかけを逡巡の後に却下した。殆ど人は来ないけれど、絶対ではない。間抜け面を晒すのは避けたい。最近では、発信機でも仕掛けられているのかと疑るくらいにあの寮のメンバーとの遭遇率が高い。夏休み明けの翌日の話だ。意図して避けなかった結果、一日三回、それぞれと遭遇した。いや、それ自体に問題は無いのだが、有里を除いた下級生諸君は一様に身を固くするので、無駄に空気が張り詰めてしまう。
「……やはり、良いな。未来があるのは。あの平賀が見違えたよ」
眼下にいる、カバンを小脇に抱えたままで小走りする。それだけの事なのに、なんとも素晴らしい。人は潜在的に自分に無いモノを求めると言う。なら、僕が平賀と殊更仲良くなれたのは、この光景を見たいがためだったのかもしれない。実に、喜ばしい。
「そうやって黄昏ていると、お前が祭りの時と同一人物とは思えんな」
「初志貫徹。今更生活態度を変えたりなんかしたら教師陣が卒倒しかねないよ」
「あまり、気にしている風にも見えないぞ」
「皆そう思ってるさ。僕は優等生だからね」
極力音を立てず、気配までも消して近づいてきたのは真田明彦だった。手にはグローブを装着済み逸る闘志を抑える気もないらしい。言葉を交わすまでもなく、目的が丸わかりじゃないか。
「テストのつもりで忍び寄ってみたんだが、予想以上だ」
「伊達に三年間君と遭遇しなかった訳じゃない」
「……本当に避けられていたのか」
そう言った真田は露ほど嫌な顔をすることなく、むしろそれをやってのけていた僕に対しての期待に子供のような表情をしていた。完全にやる気だ
「天田から聞いたとして、僕は今手ぶらだぞ」
「俺たちは今、人を探している。詳しい話は出来ないが、格闘に秀でた人物だ」
「僕が使うのは棍を用いた棒術だぞ」
「棒術も、の間違いだな。注視すればするほど違和感がある。何故、武器を用いていて拳がそうなる?人を殴るために叩き上げれた形だぞ」
「……どっちにしろ逃がす気は無いなら仕方ない、か」
予期せぬ事態になったが、ここで一手布石を打てるなら悪くない。少なくとも、僕の二葉とは似ても似つかない戦い方を見れば、容疑者リストからは外れてくれるのだ。おいしい話過ぎて裏を疑いたくなる。
「人払いは美鶴に頼んである」
「なら、始める前に一つだけ。無為だと感じたら即手を止めてくれ。意地の張り合いになると非常にまずい」
「……努力しよう!」
先手は譲った。最も効率よく僕の戦い方を理解してもらうためだ。対応する言葉が存在しないけれど、あえて言うならば、後の後となる。徹底した相打ち狙いの戦法は、格上にだって通用するのもマーガレットとの一戦で証明済みだ。どんな相手だろうと、あの人よりヤバい一撃なんて打ってこないと思えば、気が楽だ。
「尤も、痛いのに変わりはないんだけど」
「ど、の口が言うんだっ!」
積み上げられた戦歴の齎す予測に、ここ半年間分析を続けた相手の戦い方のデータが加わり、もはや殆ど未来予知に近い状態で相手を手玉に取れる。だからと言って格好良く相手をなぎ倒せるかと言ったら話が違う。コンマ一秒のやり取りが求められる格闘の世界において、僕の拳はあまりにノロい。ジャブに合わせて打ったところで余裕で回避されてしまうのだ。しかし、無抵抗に殴られ続ける殊勝な精神は持ち合わせていない。なら、どうするか。簡単な話。殴らせる場所を僕が決めてやればいい。肘、額。そうして体中の堅い部位は、僕が攻撃をしかけないままに真田への脅威と成った。
「とんでもないな!」
「生憎、非才の身でね。だから相手には勝手に壊れてもらう」
相対して数秒ながら、呼吸は掴んだ。次はもっと上手くやれる。我慢比べの開始だ。痺れを切らせば決着が着く。
「行くぞ」
体だけとっていた構えを解いて、左腕だけ前に突き出す。様子見を終えた真田のジャブを完璧に捌けるとは思っていない。ダメージの大きい急所にさえ打たせなければ問題なし。右へ左へ、ボクサー特有の鋭いステップでの揺さぶりを宛ら蛇のようにゆらゆら追尾して牽制を計る。合間に放たれたパンチが頬を掠め赤く腫れ上げたのを確認すると、臆さず一歩前に出た。
「ちっ!」
唐突な反撃に粟を食った真田が放つ迎撃は、それまでの牽制などより一回り強く、だからこそ負担も反動もデカい。ガコン、と一際鈍い音が上がる。手応え十分。ジャブを当てた時とは明らかに違う感触に、真田の表情が苦悶に歪む。ヘットギア有りの試合ではまず有り得ないヘットバットとの衝突は、さぞ痛かっただろう。
「安心していい。僕だって痛いさ」
餌は撒いた。生半可な攻撃は今後一切しないだろう。一瞬の隙を作り出すためのジャブと、止めのストレートに絞っての短期決着。ここから先に、会話は要らない。何かを言葉に変える意識すら邪魔になる。
「…………」
「…………」
上下左右に鏤められた錬撃は良くも悪くも教科書通りで、対応しやすいはずなのに、ハンドスピードに頼った力技で僕の予測をねじ伏せる。最初は鎖骨の辺りに、続いて脇腹に、散漫していた被弾箇所は次第に収束していき、顔面に集中。僕が慣れたように、真田もまた慣れてきたのだ。頬から口元に鼻先そして、瞼の上を拳が叩いたのが合図になった。目隠しの役割を果たすグローブの下方には踏込を強めた真田の下半身。重要なのはタイミングだ。双方が一番ダメージを受けるタイミング。それだけ分かればいい。
「終わりだ!」
溜めを作っていた片足がきれいに伸び切り風切り音が聞こえた。お手本のようなワンツーだ。視界が開けることなく大砲のようなストレートが僕の顔面に突き刺さった。そして……。
「まだやるかい?」
片膝をついたのは真田だった。上手くカウンターが入って一撃で勝負が決まった訳ではない。勝負を決める勢いで真田が放ったストレートを食らいながら、僕が狙いをつけたのが足だっただけだ。どうせ、こちらの一撃では倒せないなら、ボコボコにされながらも少しずつ相手の長所を削っていくしかない。僕にとっての当たり前は、他人から見てどうしようもなく以上に映るのが常であり、今のところ例外はない。目の前で呆然としている真田も、その愚策に飲み込まれた一人であるからして、まあ、つまり振出しに戻る、だ。
「改めてとんでもないな……。およそ人間のする戦いかたじゃないぞ、これは」
「言ってくれるね。でも、そうまでしないと届かないんだ」
「無茶を迷いなく実行する胆力、実に似ている。が、どうやら俺の探し人とは別人のようだ」
痛む足をこき使って体勢を立て直すまでの間に、真田は結論を出した。受け身の戦法を主とする僕としては、彼が引いてくれなければどちらかがぶっ壊れるまで続くので大歓迎の結末だ。疑念も見事に晴れたようだし。
「無理して立たない方がいい」
「馬鹿言うな。あれだけ殴られたお前が立っているのに、一発もらった俺が座ってられる訳ないだろう」
「意地の張りどころを間違えるんじゃない。それに、どっちにしろもう御開きだ」
「……それもそう、か。降参だ。俺は一足先に退散させてもらう」
「僕は鼻血が収まってからにするよ。君にしこたま殴られました、なんて言えないから」
「了解した」
負傷の程度を確かめるために二、三つま先で床をノックしてから、慎重にドアへと向かって歩き出す。毅然としていて、あの負傷をむしろ喜んでいる節がある。再戦は是が非でも勘弁してほしいものだ。
「……遅いから心配して来てみたが、案の定か」
「ああ、忘れてた。盛り上がり過ぎたな、これは」
「説教だ。と言いたいところではあるが、今は止そう。早く手当をしてこい。まったく、次の満月は明日だと言うのに」
「これくらいなら一日安静にしてれば治るさ」
ちらりとこちらを窺って、真田は屋上を後にした。言外にまだまだやりたかったと、獲物を見る目で訴えて。
「済まなかった。こちらの都合に巻き込んでしまって」
「そんなことよりティッシュ持ってたらくれ。君の同輩のせいで鼻血が止まらない」
「あ、ああ。そうだな。まずは君も手当てが先か」
とめどなく流れる血は床に溜まって小さな血だまりを作っていた。後で掃除しておかなければちょっとした事案発生の可能性がある量だ。
「駄目だな。何か冷やす物が要る」
「氷嚢ならばあるぞ」
「……随分準備がいいじゃないか」
「明彦がやけに張り切っていたから、念のためにな。まさか、撃退されるまでやるとは思ってもみなかったのだが。……後で処刑だな」
「そうか。何をするかは知らんが狙うなら右足がいいぞ、右足が。もしかしたら感涙にむせぶかもしれない」
本当に遠慮なくぶん殴ってくれたようなので、僕の脳髄は即刻ささやかなお返しをしようと決めた。鼻背を冷やすついでに頭に上った血を抜こう。脳内にいる熱烈なファンの声援に応えて、少しばかり暑くなりすぎてしまった。あくまで異常でも影時間との関与だけは匂わせないスタンスなのに、危うく六月の荒垣真次郎の件の二の舞な失態を晒してしまうところだった。また薬が要るか。
「何も聞かないのだな」
「聞いたら後戻りできない気がしてね。他人の事情にかまけてられるほどに、僕は余裕じゃないんだよ」
「何故、と聞いてもいいか?」
「らしくないな。君の事情がどれだけ切羽詰ってるのか僕は知らない。だけど、縋る相手は選ぶべきだよ。誰もが何かを抱えて生きてる。中には得体の知れない何かを抱えてしまった奴もいる。そういう奴は決まってまともじゃないのさ。努力しても、芯のところでまともではいられない」
天田、有里、僕。詳しくは知らないけれど、きっと残りのペルソナ使いの面々も胸裏に仄暗い物を抱えたまま生きているはずだ。鬱屈する感情と、それを認め飼い慣らす者こそがペルソナ使いの資格であると、僕は解釈している。確証はないが、当たらずとも遠からず。あるいは一個のファクターくらいでしかないかもしれないけど、その事実に行きついた時、僕は僕のペルソナと完全に同調することに成功した。
「僕はね。この世界で最も難しいのは普通に生きる事だと思うんだ」
「どういうことだ?」
「だってそうじゃないか。上があると憧れ、下があれば安心する。人は須らく他者との関わりによって自己を確立するんだから、位置付けは避けられない。なら、中間に位置する他称普通の人たちは、どの層よりも誰かに対して強い歪みを持ってる。なら、到底普通ではいられないはすだ」
「……興味深い話だが、手放しで賛同は出来ないな」
「別に賛同して欲しい訳でもないさ。こんなのは持論に過ぎないし……。ああ、大分話がずれてるな」
「構わないよ。こういった話が出来る知人は貴重だ。学友にも、大人たちにもいなかった」
僕の無駄話を存外気に入ったらしく、人一人分の間を空けて鉄柵にもたれかかった。参ったな。能書き垂れるのは得意だけれど、つかみどころのない六道と違って舌戦になるとあまり強くないぞ、僕は。
「私は幼い頃から桐条であれとして育てられた。それ故に世間一般との齟齬があったりもする。稀にだが」
「自覚あったのか」
「君もそう思っていたのか……」
「僕は結構根に持つタイプだから」
「……本当に呆れを通り越して感心するよ。猫を被るどころの話じゃないな、君のそれは。もはや擬態と言った方がしっくりくる」
「必要な技能を必要に応じて身に着けただけだよ。出来る事は出来るし、出来ない事はとことん出来ない。要は半端なモノは全部切り捨てて、その分時間をつぎ込んだ」
僕の言葉を聞きながら桐条は小首を傾げた。当然の反応だ。僕自身、言ってておかしい思っているし、何より背景を知らなければ可能性を切って捨てると言う意味不明の極みな理論である。普通は才能がないからといってそれを完全に棄却する事なんてしない。ある程度まともに生きていくためには、同じく全てがある程度必要になるからだ。例えば、僕は歌が歌えない。音痴とかじゃなくてまったく。幼い頃の僕はきっと天才だった。ズレた感性と、それを平気で飲み込んで余りある才能で先に述べた取捨選択の基盤を練り上げて、その基盤が僕の家族を生み出すのにも一役買ってくれた。非常に使い勝手のいい過去の遺産である。そうまでして、あの日の僕は何かを目指していたのだ。もう、霞掛かって思い出せないけれど、確かに。周りとの差に腐らず、人の欲を受け入れて、綺麗な心のままに夢を追って……。止めよう。今となってしまっては遠い思い出の一つにしかならない。夢はもう叶わないまま。
「…………」
「日向?」
「ああ……。申し訳ない。少し、考え事を、いていた」
「本当に大丈夫なのか?あまり顔色が優れないようだが……。まさか、明彦のがやり過ぎたのか!?」
「大丈夫。怪我とは無関係なんだ、これは。察しているだろうけど、あまり普通な人生を歩めなくてね。嫌な思い出はいつになっても嫌なものだよ」
苦虫を噛み潰す表情を隠しきれずに、桐条は躊躇いがちに口を開く。罪悪感に苛まれながら、而して凛と前だけを向いて。
「君の事を少しだけ調べさせてもらった」
「何か不備でもあったのかな?」
「確かに学校側に提出された書類にはなんら不備は無い。情報があまりに少なすぎる点を除けばな」
「必要最低限は埋まってる筈なんだけど」
「普通は書き込める項目は埋めるんだ。君がどれだけ面倒くさがり屋だとしても、必要最低限しか書き込まないのは不自然に映る。では、何故そうしたか?」
しくじったと悔いる前に、桐条は片手を突出し指を三本立てた。
「三つ。今の私は三つの可能性を考えている。一つ目は、本当に面倒くさがっただけの場合。二つ目は家庭の事情で本当に必要最低限しか書き込めない場合。前者も後者も君だけの問題だ。これら二つの場合だったならば、私から言うべきことは無い。尤も、前者の場合は精々注意喚起くらいはするかもしれないが……」
ただでさえ確信めいた光を宿した瞳が更に細められ、こちらとしては身がすくむ思いだ。過去が僕を追い詰める。仕方がない。まだ慣れてなかった頃に提出した書類だと嘆くよりも、切り抜け方を考えていよう。平賀ももう一人で歩き出した。ならば、月光館学園に未練はもうない。そう考えると、強がりながらに少し気が楽になってくれる。
「そして、三つ目。即ち君が何かしらの虚偽申告を行っている場合。私は君を糾弾せねばならない」
「当然だね」
「……話はそれだけだ」
言いたいことを言い切って、桐条は足早にその場を去ろうとする。アレが十年前に権力を持ってくれていれば、未来は変わっていたのかもしれないと思わせる佇まいで、一度たりとも振り返らずにドアを開くと階下へ降りていく。危なかった。もう少し容赦なく揺さぶりを掛けられていたら確実にボロを出してしまっていただろう。甘いと断ずることなかれ、それでこそ桐条。彼女はきっとすべての証拠が出そろうまで、疑わしきは白とするだろう。なら、小手先程度でも手を打っておくべきだ。
「二葉。少し周りの気配に気を付けておいてくれ」
制服の内ポケットに忍ばせた携帯を取り出し、殆どない連絡先からヅラと表示されている場所を選択する。ジンの渾名だ。彼は生え際にとてもデリケートな問題を抱えており、それをよく研究所生き残りメンバーからかわれていた名残。
「あ、もしもし。僕だけど。ちょっとばかし困ったことになっちゃったみたいで」
「なんや、珍しい。あんさんが一人で対処できひん面倒事かいな」
「アフターケアみたいなもんだよ」
二度目のコールが鳴り終わる前に電話は繋がり、挨拶も抜きにして本題に入った。時期が時期だけに過敏になっているのだろう。
「桐条美鶴に偽装がばれかけてる。せめて顔合わせが終わるまでは在学しておきたくてね。粗探しを跳ね返すことにした」
「欲しいモンは書類の大本ってワケかい」
「空白を埋めるストーリーをでっち上げるにしても、矛盾を孕んでたら意味がないから」
「二、三日待っときい。きっちり用意したる」
「頼んだ」
筋書きと脚色は六道と三日月辺りが嬉々としてやるだろうから盤石として、そうだな、代金とは別個に少しくらいはお返しをするのもいいだろう。それぞれ目的には不干渉でも、数少ない友人であることに相違ない。
「……くれぐれも気を付けろよ。奴ら、思ってるよりも育つのが早い」
「善戦してるのは知っとる。やけど、そらハルが加減しての話やろが」
「ああ。だから次は本気で叩く。ブッキングしたら巻き込まれるから気を付けてくれ」
夏の日に決めた。死力を尽くすに値する敵だと、僕の目には映った。
「満月が終わった次に奴らが揃う時を狙う。理屈は知らないけど大型シャドウを倒すと『タルタロス』の新しい階層が解放されるみたいだからね」
「了解や。そういう事なら頼まれても近づかんわ」
これで良し。当日、イレギュラーが発生する可能性はかなり減ってくれた。
「じゃあ、今日のところはこれで。長電話は訝しがられるかもしれないから」
鼻血も完璧に収まったのを確認すると、氷嚢の中身を血だまりにぶちまける。ふきとる物の持ち合わせは無いが、これでも十分な処置になるだろう。僕は返事も聞かずに電源を落とした携帯を、再び内ポケットにしまいながら遠くにうっすら浮かぶ月がやけに目に付いた。怪しく悍ましく、そして優しく輝く月が。
・・・
何かがおかしいと思った。満月から数日。大型シャドウも『ストレガ』の一人の襲撃も乗り越えて、公私ともに悩みながらも順調と言えなくない日々を送っていたはずなのに、何か嫌な予感だけが拭い去れない。水面下の私が与り知らない所で、何かが動いているような気がして。悩んでも解決しないけれど、どうしようもなくモヤモヤしてしまう。
「それにしても、最近めっきりないっスね。『ダイス』とかいう奴らの襲撃」
なんとなく途切れた会話の合間に、順平君が口を開いた。先日のチドリと名乗った少女の件を引きずっているのがありありと感じられて、見ていて心が痛くなる。
「あー……悪い。気ぃ遣ってくれてんのは分かるけどよ。今は普通にしてくんね?逆に辛いって言うか……」
「私は!あれだけ強い目をした人たちが!このままあっさり引くとは思えないなー!」
言い切って落ち込んでしまう前に、私は声を張り上げた。元気だけが取り柄なら、今やらずにどうするのか。滑稽でも構わない。
「ふ、そうだな。有里の言うとおり、何度も襲撃しておいて終わり。なんて都合のいいことはないだろう」
「そうそう。大体、相手のリーダーらしい人にすらまだ会ってないじゃないの。順平ってばちょっと気が早いわよ」
「うへえ……。こりゃ早まったかな」
「あはは」
場は朗らかに収まりを見せ、だからこそ私がそれに気づけたのは運が良かった以外の何物でもないだろう。
「えっ……?」
世界がモノクロ映画をコマ送りにしたようになる。矢だ。それも一本ではなく三本。引き延ばされた思考の中で私は悔いるしかなかった。どう避けようとも、必ず一本防げない。とんでもない絶技で、これ以上ないくらい悪辣で。
「舐めないでよね!」
だから、私は一歩前に踏み込んだ。身を屈め、徒競走のスタートダッシュ宛らの姿勢で、前に。一本を突き立てられるよりも、三か所の裂傷の方がまだましだし。それに、傷つくことから逃げた結果傷を負うのは癪だった。何より、有里美奈子は、これを挑戦と受け取って、見事に打破してやると決めたから。
「敵襲だ!」
芯の通った桐条先輩の声がよく響き、私も負けじと素早く体制を整えようとして、あるハズの無い何かに躓いた。平坦で無機質とさえ感じた『タルタロス』の床にある文様は既に見えず、代わりに生い茂るのは無数の蔓。ああ、この感じは間違いない。この非常識具合が実に彼ららしいじゃないか。
「話には聞いてたが出鱈目だな……」
「しかも今回は特に厄介そうだ!」
うねる植物を極力余裕を持って躱しながら、全員で協力して周囲に最大の警戒網を張る。しかし待てども第二波は来ず。
「やってくれる。キツネ狩りはやった事あるが、まさか狩られる側に回る日が来るとは」
「キ、キツネ狩りですか……?」
「ツッコんじゃダメよ、風花。今は驚いてるヒマはないわ」
「あれ、案外みんな余裕?」
一人少し離れた物陰に隠れて傷の手当てをしていると、割と平常時と変わらない会話が聞こえてきて安心した。が、そんなのも束の間。膠着状態をいち早く悟り、この異常の原因が現れる。
「フン。奇襲を回避するくらいの気構えはあったか」
男が手を翳せばいくつもの巨木が立ち並び、視界は更に悪くなる。一瞬見えた輪郭で、かろうじて男性であると判断できたが、それだけだ。声と輪郭、そして植物を操っていると言うこと以外の情報を遮断したのは、こちらの恐怖を煽るため。森の主は徹底して狩人だった。
「本来ならこうして名乗ってやることも無いが、まあいい」
こほん、と仰々しげに咳払いをすると、宣言する。
「今宵の相手は私、四季と我が現身が仕らせてもらう。これまでの奴らと同じとは思うな。加減も慈悲も与えてはやらん」
未だ残暑の夜だと信じられないくらいに空気が凍りつく。直接対峙していないのに、舌が痺れて上手く喋れない。正しく敵として、今までのどの刺客とも比にならない敵意を携えながら彼は呼ぶ。計り知れない激情を込める器を。
「狂い咲き誇れ、ウカノミタマ!」
木々を掻き分けて顕現したのは、誰もが目を奪われる美しさを備えた白狐。恵みの象徴。駆ければ木々は喜びの声を上げ、吠えれば新たな命が芽吹いていく。誰一人口に出さなかったのは、一目で十二分に理解したから。この先に待ち受けるであろう苦難を。