自分たち以外に生き物がいない森が、こんなにも恐ろしいとは知らなかった。生い茂る草々は生気に溢れ、むせ返りそうなほどの森林であるにも拘らず、私がこの森に抱いたイメージは死の森だ。何処までも敵意を振りまき続ける悪意の森。理性を持って激情をぶつける。それが、今回の相手は今まで戦ってきた敵とは明らかに一線を画す部分であった。要するに関心が無いのだ。敵意以外にこちらへ向ける感情を一切感じ取れないのが、恐ろしい。今までのどんな敵よりも、段違いに。
「数が多い。とりあえずは既に手付きの奴から間引かせてもらう」
どこからともなく声だけが響き、木々は息つく暇なく増殖を続ける。まずい。このままではそう遠くない未来には圧殺されてしまうだろう。先日仲間に加わった荒垣先輩でこちらは九人と一匹の大所帯となった。十対一で、こちらが物量のみで完膚なきまでに打ちのめされるとなると、悪夢以外に言葉が見つからない。
「連携を取れなくしてしまえば、存外脆いな。搦め手は想定外か?」
「どの辺が搦め手なのよ!」
全員が兎に角動き回ってどうにか凌いでるけれど、一向に打開策が見つからない。悲鳴の一つも上げたくなるというものだ。
「皆、無事!?」
「今のところは全員生き残っているようだ。しかし、明彦と伊織がまずいな。あの二人だけ露骨に攻撃の密度が濃い」
作られた森の中を縦横無尽に駆ける白狐だが、その意図が漸くつかめた。自分が狙われていないからこそ気が付かなかったけれど、一息ついて落ち着けた今ならよく分かる。桐条先輩が狩りを例えにしたのはあながち的外れじゃなかったようだ。
「……本体を叩くしかないですかね」
「それも早急にな」
桐条先輩、それと声を発していないまでも、こちらの会話に耳を傾けていたらしきアイギスと目配せする。やるしかない。ゆかりちゃんとコロマルは風花ちゃんを庇いながらの立ち回りだし、天田君と荒垣先輩は連携を望むには流石に肩を並べた時間が少なすぎる。不利を上げればキリは無い。しかし、そう悪いことだけという訳でもない。地獄に仏。いくつか明確に弱点と呼べるモノも見て取れた。前触れなく発露した力の大きさに目が眩んで考えが回らなかったが、一つ疑問が浮かぶ。何故、姿を隠すのか、だ。怖がらせるための演出?違う。答えはもっと単純だと私は思う。二葉と名乗った彼や五月雨と名乗った彼。完膚なきまでに私たちを打ちのめしたその武力は圧倒的だった。そうだ。圧倒的な力があるならば、こんな戦い方を選ぶ必要もありはしないはず。なら、真っ向勝負に持ち込めばどうにかなるかもしれない……と、私は都合のいいように思い込むことにした。正直、こんなのはただの推測で、しかも八割くらいは願望混じり。それでも、土壇場でこそ自分を信じてやらなくてどうするか。
「決行するなば、奴が私たちに話す余裕を与えてしまっている今しかない。あの二人が落とされれば戦況はがらりと変わる」
「そうですね。なんかこっちまで完全に意識を回せてないっぽい感じですから」
「だからこそのこの森だろう。しかし、会話ができる相手がいて良かった。いくら策を練ったところで、私一人では実行に移せないからな」
「お互い様ですって」
あえて口に出さなくとも、やるべきことは分かっていた。この混沌とした場所で、誰よりも駆けずり回るのだ。桐条先輩とアイギスが、四季と名乗った彼を見つけ出してくれるまで。要するに囮役である。派手で、どんな状況にも対応できる力を持ち、相手から最も警戒されていると思われる私にしかできない役割。誰がどう見ても貧乏くじだけど、それを気負いなく任せてくれたことが嬉しかった。春先まで、ずっと遠くにいた桐条先輩と、気が付けば背中を預けられる距離にいる。そう思えば、恐怖は消えた。
「行きます!」
号令で自らを奮い立たせて、私は思い切りよく踏み出した。対応して、即座に木々の檻が組み上げられ、止めに木の枝が殺人的な速さで伸びてくる。無数に迫るあれ一つ一つが槍と変わらない。映画とかでよく見るトゲ付き天井も、実際目の当たりにすると全然笑えない。
「ジャックランタン!」
木には火を。身を低く屈め、ただひたすらに走る。良かった。一点に集中すれば、私でも消し炭にするくらいは出来るらしい。最後にはやられてもいいが、威勢よく出て言った手前いきなりやられてしまっては情けなさすぎる。
「漸く動いたな有里美奈子」
「人の事散々走らせといてよく言う!」
「文句ならば成す術なくこの状況にまで持っていかれた自らに言え」
どこまでも高圧的で、でもこちらを決して安く見ない。容易くこちらを殲滅できるような力を持ち合わせていないから、強い。必用な事を必要な分だけ。己の分を弁えて、決して不可能なことはしない。考えろ。知って、理解して、辿りいてやる。囮役に甘んじて終わるほど、いい子に育った覚えは更々ない。なら、きっとこれも私の役割だ。
「……十年前、先代桐条総帥が行った実験の場に、一人の男の子がいたって話を聞いた!」
不恰好に逃げ回って、それでも言葉は、言葉ならば彼に届く。どうせ今は出来る事をやるしかない。出来る事は全てやってやる。情報を手に入れて、ついでに気を引ければ上々。反応がなくとも、何もしないで転げまわるよりも数段マシだ。
「年端もいかない子がたった一人で大人たちに混じって、それが良い事じゃないことくらい想像出来る!」
返答は、より苛烈になった木々の猛りが雄弁に語る。推測は沈黙を経て核心へと変わり、同時に私の胸中を満たしたのは哀しみだった。復讐で、復讐の為だけで、彼らはこんなにも強いのか。深さを推し量る事すら烏滸がましい堅固な意志の背景に、どれほどの涙があるのだろうか。紛いなりにも半年近く、命懸けで戦ってきたから分かる。度し難いまでの戦闘能力。後何回血反吐を吐けば、あの領域にまで上り詰めることが出来るのか。握りしめた拳が召喚器を小さく歪ませる。皮膚は負荷に耐え切れないで小さく切れ、召喚器を伝ってポタポタと床に血の斑を描いていく。姿も、名前だって知らない誰か身に降りかかったであろう理不尽に対して、自分でもおかしいと思えるくらいに心は乱れた。いや、本当は理解しているんだ。しかし、情けない私はその事実を認めたくないと思ってしまった。
「もう、引き返せないの!?」
憧れてしまった。強い絆で結ばれて、苦楽を共にする仲間たちの完成系を見せつけて来た彼らに。溢れる激情を抑えきれなかった。返ってくる答えなんて、一つしかないのに。
「あ?」
ただし、大きな誤算が一つあるとするならば。
「誰の許しを得て私たちの、兄さんの道に文句を付けているんだ、貴様ァ!?」
先の私の嘆きが、子供の駄々に思えるほどの激情を、彼が有していたこと。
「驕るなよ、無知蒙昧が!つい最近そこに到達した程度で、理解した気でいるんじゃあない!」
爆発、炸裂。そういった表現がぴったりと合うくらいに、彼から伝わってくる圧力の質が一変した。全てが計算づくで、冷静に獲物を狩りたてていた猟師の面影は完全に剥がれ落ち、私は自分の嘆きすらも忘れて、ただ漫然と理解する。一見冷静で理知的だった彼は、紛れもなく今まで出会った中で一番の激情家。それも、かなり異常な部類に分類される。
「許さねえ、喉元から食いちぎってばら撒いてやる!」
怒髪天を突く。その怒りが極限で留められて、あろうことか安定した。彼には、まるでスイッチのようにオンとオフしかないのだ。仮にこのまま何時間も戦闘が続いたとして、何の問題もなく数時間怒りを振りまき続ける。何かしらの外的要因がなければ、矛は決して収まらない。
「……またやっちゃったかも」
「ウカノミタマ!私が甘かった。札を切るぞ!」
白狐が嘶けば、それまで新緑一色だった木々が芽吹き、幹には花が咲き乱れる。線画状態だったキャンバスに足りなかった色が見事に嵌った。何が変わったのかはまるで分からないけれど、嫌な予感だけが際限なく募り、我に返ればもう手遅れ。
「……っ!毒!」
「なんだと!?」
隠密行動を心掛けていた桐条先輩ですら、事態の重さに声を荒げる。急ぎ重点的に攻められていた二人の方を見ると、既に昏倒し四肢を何重にも蔦で拘束された後だった。私も危なかった。最初の矢傷によって早めに察知できたのは僥倖だが、あと少しだけでも目立った傷口が多ければ、問答無用で戦線離脱してただろう。さっきまでの決め手に欠ける戦法の、決め手がこれ。傷口から侵入する麻痺毒。この数えきれない花々のどれかが、美しい悪意を放っている。状況は最悪に近いが、やるべきことだけは山積みだ。
「ガーデニングも習得しておくべきだったか……」
「下手に弄ったらヤバそうな色の花とかありますもんね」
「私のデータバンクにもその手の情報はないであります」
「要するにピンチってことですね!っと」
かろうじて力が入る手から薙刀を取り落してしまわないように握り直すと、まずは状況の整理を最優先させる。激昂しているのに、脱落した二人への追撃は一切ない。最初に私を狙った矢は当たればただでは済まなかったというのに、敢えて息の根を止める事はしない。安堵すると同時に、ここに来て今回の相手の本気度合いを再認識させられた。あれは警告だ。止むを得ない場合は命の取り合いをする覚悟を持っているぞ、と理解させるための。
「時間、稼がないと……」
鈍重な体に鞭を打つ。一先ずは、私のやることは変わらない。相手を見つけるまでの間、が真田先輩と順平君を退避させるまでの間になっただけだ。ていうか、他の皆の始動が早すぎて、もうそれしか役目が残っていないワケで。荒垣先輩は有無を言わさず二人に駆け寄って担ぎ上げ、その進路を天田君が切り開き、背中をコロマルが守っている。残ったメンバーは、普通の毒が効かないアイギスを筆頭に、攪乱及び打開策の模索を行う。その時だった。
「小賢しい!私の森で、私を欺けると思うな!」
明らかな変調。神々しいまでの輝きのみを放っていた白狐が、力の行使を数段飛ばしで引き上げた。ウカノミタマの名を冠するに相応しい神威。ここに来てようやく、私たちは相手の土俵で戦っては微塵の勝ち目もないと悟った。なら、どうするか。幸いな事に荒垣先輩たちの行為が功を奏し、この場を離れるに当たっての懸念材料は無くなった。
「上がるぞ!」
背後では滑り込みセーフで避難が完了し、同時にこれまでとは比べ物にならない巨木がロビーの出入り口を完全に封鎖。そこからの行動は早かった。跳ね上げられたように恥も外聞もなく、一目散に大階段の頂上にある扉を目指す。最低でも仕切り直すためには、整っていない場所に戦場を移せばよいのだ。
「あと、ちょっと……!」
「そうか、残念だったな」
尋常ではない悪寒が総身を駆け巡る。振り返れない。振り返ってしまえば、そこで私は終わってしまうような気がして。
「あ……」
いつの間に冷静になったのだ、とか。そんなスピード反則じゃないか、とか。言いたいことはたくさんあっても、何一つ言葉は出ない。走馬灯なんか嘘っぱち。大きくて鋭い咢に引き裂かれる自分を、何度も何度も何度も何度も想像して、いい加減生きた心地がしなくなる臨界を超えた先にあったのは、まだ果たせてない約束の数々だった。
「まだ、死ねないのよ!」
「同意するであります」
紙一重で、しかし絶対的な安心感を以て私を掠めていく数多の弾丸。対シャドウ特別制圧兵装、アイギス。心強い仲間の一人。本当に頼りになる。恐らく、誰よりも私を状態を気にかけてくれていたからこその援護。明日からは頭が上がらないかもしれない。
「パラディオン!跳ね返すであります!」
しなやかな肢体から繰り出される爪牙の攻撃を、機械の乙女が相殺する。火花が散り、衝撃は双方の巨体を大きく振り飛ばす。ついでに足を縺れさせながらようやく階段の頂上にまでたどり着いた私も扉の向こう側へと後押しされ、間一髪、退避したメンバー以外の五人は切り抜けることが出来た。大きな扉はぎい、と音を立てて閉まると以降は完全に沈黙し、追撃の来る気配はない。徹底して正面からはやりあわないつもりなのだろうか……。いや、考えるだけ無駄だ。余波で相変わらず辺り一面森林と化しているが、さっきまでのようにうねうね動く蔦は無く、運のいいことにシャドウの気配もてんでない。物音一つしない森は不気味だが、猛獣と毒が跋扈する森と比べれば天国に思える。
「あっちも無事に避難できてるといいですね」
「荒垣も天田もコロマルも相当な実力者だ。心配は要らないさ」
「だと、いいんですけど」
抜かりなく索敵を開始した風花ちゃんからオッケーサインを貰うと、誰よりも先に崩れ落ちる。
「美奈子ちゃん!?」
「あ、はは。流石にちょっと疲れたかな」
駆け寄る事も出来ずにおろおろとしている風花ちゃんに、力なく返答すると、私は大きく深く深呼吸をした。体調は万全とは程遠く、それでも戦闘になれば全くの無力でもない。崩れ落ちた理由の大半は、疲労によるものだ。ほんの少しで致命傷を負う戦場で、手足の微細な制御が効かなくなるのは大いに精神を削り取っていった。これはその正統なるツケである。
「……体は動くか?」
「あ、はい。ちょっと感覚が変になってるだけで、頑張ればなんとか」
「済まない。随分と無茶をさせてしまった」
「大丈夫ですって!それに、そういうのは終わってからにしましょう。まだまだ長い夜になりそうです」
脅威が遠ざかり、軽い笑顔さえ作っていた。心底落ち着いていたのだ。油断とは違う。やるべきことをやったうえで成り立っている安全に浸る。確かに弛緩はしていたかもしれないけれど、油断や慢心は決してなかった。
「パラディオン!」
相手は遥か格上。私たちがこれまでに培った常識を逆手に取る。
「アイギス!?」
計器によって誰よりも正確に周囲を把握していたアイギスだけが対応出来て、故にその四肢は射抜かれた。他でもない、私を庇って。
「山岸!」
「反応、ありませんでした!」
待てども沈黙は破られず、やがて私の意識はアイギスの関節部を破壊した矢に向けられる。最初に私を狙ったのと同じ物。一切の装飾を施されていない木で作られた矢。微かな違和感。何故、今更になって矢を使うのか。それこそ、あの乱戦の中で使っていれば、早々に勝負は決したというのに、相手は使うそぶりさえ見せていない。誰がどう見ても頭のおかしいレベルまでたたき上げられた技巧は、その修練の過酷さを容易に想像でき、この緊迫した場面で余計な事に思考を回していた私だからこそ完全に頭から抜け落ちていた可能性に辿りつく。
「二人目……」
驚愕のあまり漏れ出した言葉に、一同が目を剥いて瞬時にその意味を理解する。当然の如く相手は一人ずつしか来ないと思っていた。あるいはそう思わされていた。眩暈がする。夜明けは未だ遠くに。
・・・
暫定戦力における最大の障害を排除。有里美奈子はほぼ無力化が完了している点を除けば、あの屋久島で遭遇したメンバーとの再会だ。
「偶然にしては因縁染みたものを感じます」
普段とさほど変わらない声のトーンは、この任務における私のスタンスを適格に表していた。三日月の為のフィールドと、敵の残り人数。どちらを見ても四季は完璧以上の仕事をしてくれた。ここまで御膳立てが完璧だと、両足の骨を砕こうとも勝利は揺らぐことは無い。ウカノミタマを持つ四季と同じく、私も森での敗北は有り得ないのだから。
「拍子抜けですね」
「その声……!」
「夏以来でしょうか。別段感慨深くはありませんが、お久しぶりと言っておきます」
真正面から無造作に近寄る。勿論のこと、ほんの少しでも動きがあればいつでも攻撃に移れる間合いを保ちながら。
「相も変わらず不躾な視線です。そんなにも三日月のこれが気になりますか?」
自己紹介も後にして、思わず苦言を呈してしまう。奇異の視線は好きじゃない。敵に好意を向けられるよりは幾分かマシだが、かといって晒し者も真っ平だ。
「早計を通り越してもはや愚かですね。自分たちがペルソナの全てを知っている気にでもなっているなんて、笑い話にしても些かユーモアが足りません」
こちらの嘲笑を受けても尚、彼女たちを釘付けにしているのは三日月の左腕。いや、正確には左腕に取り付いた身の丈よりも少し小さな和弓とも洋弓とも取れない大きな物体だ。いくつもの歯車に取り付かれた機械仕掛けであり、大まかな構造部分は木造の和弓。そして、最も特筆すべき点は体と一体化していること。三日月の持つペルソナをイメージした緑を基調にしたカラーリングに、一見しただけでは理解不能な絡繰り仕掛けの数々を搭載し、『エルゴ研』の研究者共をして偏執狂言わしめたとそれこそ私のペルソナ。
「完全に物の形を取るペルソナだと!?」
「三日月からすれば、そこの有里美奈子の方が余程珍妙なのですが」
特殊発現型ペルソナ、ロビンフット。日向春一の分裂した人格が各々成したペルソナの中でも、最も研究者の興味を引いたのがこれだった。何処をどうしたらこのような形態に落ち着くのか、何一つ解明など出来ぬまま終わったが、そんなことは重要ではない。他の例と違ってペルソナ本体による戦闘を出来ない分、直接的な戦闘力は大きく劣るが、一定の条件が揃えば凶悪な暗殺者としての才能を開花させる。絶対的な隠密性。正確無比な射。張り巡らせた罠。それしか出来ないのは、せれで十分だから。
「安穏と寄生し、使い捨てられるべき三日月を家族と呼んでくれたあの人の為に勝ち取ったこの力。その身を以て知りなさい」
どこまでも真っ直ぐに、鏃は彼女たちに突き付けられる。ああ、ハルの為に戦えることがこれほど誇らしいとは思わなかった。シャーウッドの森に生きた彼の英雄、ロビンフット。圧政に立ち向かった叛逆者。『エルゴ研』の奴らには到底理解できないのだろうし、してほしくもないけれど、これは私の願望そのものだ。主の体に寄生した道具。怒りに特化した四季がいるから勘違いされがちだが、家族の中で最もハルを狂信しているのは間違いなく私だ。自信を持って断言できる。物言わぬ道具に堕ちてでも、その筋道を照らす光でありたい。あの人が何かに立ち向かうための武器でいたい。意識を甘く溶かす囁きは、永遠に叶わない故にどこまでも激しい。
「三日月の役目は障害の排除。貴女方は平伏し頭を垂れなさい」
人の域を軽く超えた速度で矢を番えると、右方に佇む木の幹を打ち抜く。およそ矢とは思えない威力のそれは、軽々と幹の九割を超える大きさの風穴を開け、侍従に耐え切れなくなった木はゆっくり倒れ込む。合図だ。既に詰みに等しい彼女たちと、私の勝負の始まり。やることはいたって簡単。かくれんぼ。それを、なんでもありの命懸けで行うだけ。
「駄目です!やっぱり反応ありません!」
「ってことは」
「そういう力ってことね」
戦闘向けではない山岸と身動きの取れないアイギス、その護衛に有里を残して、私に挑むは二人の女性。岳羽ゆかりと桐条美鶴。苦渋の選択だったに違いない。今まで信頼してきた索敵を捨て、支柱となっていたリーダーも捨て、たった二人で立ちはだかる。いい度胸だ。二葉ならば、敵ながら天晴なんて言うのだろうけれど、弓を使う者が私に挑んできたのだ。到底それだけではいられない。
「受けて立ってあげましょう」
是非もない。弓を扱う者同士ならば、私は相手を粉砕して進む。ハルの武器たる私は、言うまでもなく至上の弓でなければならない。自負も矜持も人一倍だ。何者だろうと、負ける気は更々無い。
「行きますよ、ロビンフット」
ギシギシと始めはぎこちなく歯車が音を立てて回り始め、次第にスピードを速めていく。機械部が滑らかに稼働。薄暗い森全体に時計が時を刻むような規則正しい音が広がった。まずは稼働テスト。歯をこれでもかと食いしばり弦を引く、ゴシックロリータの洋服の下では鍛え抜かれた筋肉が張り詰めていく。ただ女手では引く事すら叶わない重さの弦だろうが、人格が三日月であるだけで、ベースはあの暑苦しい二葉と変わらないので問題は無い。背筋辺りのせいでたまに服が破れるのが難点だが。
「展開」
その言葉と共に弓は侵食を強め、歯車と木の枝肩口を越えて左顔面までもを埋め尽くした。これは下準備。弓を武器とするならばいくつかの問題が発生してしまう。例えば連射速度、一方向からしか攻撃できない、近づかれたらお終い。などなど、上げればキリが無い。全ては一長一短だと笑い飛ばせればいいけれど、生憎私はそこまで能天気にはなれない。思考錯誤の末にそれらの弱点は念入りに潰した形態がこれ。五つに分化した枝先にはクロスボウが存在し、密集した歯車は左半身を覆う鎧代わりになった。もはや私が破れる時、それは純粋に弓での敗北を喫した時のみである。
「二番、三番解放。一拍遅れて六番解放」
縦横無尽に走りながら、相手の周りをぐるぐる回遊する。牽制の矢を放ち、じっと本命をぶち込む機会を待っているのだ。とはいえ、相手方も一筋縄ではいかない。拙いながらに連携の片鱗を見せ、背中合わせに矢を防いでいる。崩す方法はいくらでも思いつくけれど、ふと今日の趣旨を思い返して力づくを選択した。
「力の差を知りなさい」
私の意思に応じて半自動的に生成された木矢が番えられ、浅く一息ついて射を行う。射法八節から弓構えを省き、流れるような動作でそれは放たれた。鼓膜に影響を及ぼすほどの強弓。立ち並ぶ障害を障害たらしめることなく、一直線に進み、残心も半ばの時点で百メートル以上あった距離をゼロにした。
「……なるほど。そんな素振りは感じられませんでしたが、三日月に落ち度があったのでしょうか」
轟音を立てて陥没した着弾点の状況よりも、最優先事項が発生した。
「最低でも昏倒はさせておくべきでしたか」
「武器を捨てて下さい!」
突き付けられてのは震えた薙刀の切っ先。蒼白な顔色から窺い知れるように、本来荒事は不得手に違いない。武器を持たない事は事前の調査で確認済み。アレも借り物だ。
「山岸風花。何を勘違いしているのか知りませんが、三日月はほんの少しも追い詰められていません。その命令には不足です」
その瞬間、七色の光が山岸の足元から巻き起こりなけなしの勇気を宿していた瞳から焦点を散らす。
「作戦自体は称賛に値しますが、遂行できなければ無意味です」
「な、に……が?」
「罠ですよ。曲者揃いの中で都合よく三日月だけが何もない訳がないでしょう」
罠。その力は名前そのまま。簡単に言えば魔法の設置だ。直接攻撃する魔法には全く適性の無い私でも、その在り方からか状態異常を引き起こす魔法は特に秀でている。要するに目の前でふらついている山岸は私の罠に見事掛かって混乱しているのだ。かろうじて立っているのが精いっぱいで、私の説明すらおぼろげな雑音程度にしか認識できていないだろう。
「風花!」
「大丈夫ですよ。一時間もすれば元に戻ります。まあ、その時には貴女も地に伏しているので関係ありませんけど」
音を聞きつけて私の元まで駆けつけてこれたのは、岳羽ゆかり一人だった。遠く着弾点は未だに多くの土煙で遮られ、見えるのは木に凭れ掛かった人影。おそらく桐条美鶴が庇ったのだ。そうしなければ二人とも戦闘不能に陥らせる場所を狙い撃った私が言うのだから、間違いない。
「お誂え向きな舞台も整いました。早々に始めましょう。三日月もそろそろ眠いので」
「バカにするんじゃないわよ!」
悔しさに彩られながらの怒号は、それまでのどんなモノよりもずっと純粋だった。
「アンタがどれだけ強くたって、私は友達を守るのよ!自分の居場所は、自分で守り通す!」
他人の為にでない願い。自分がここが好きだから守る。自分本位で振り切れた渇望だ。私と同じく、而して正反対の願い。面白い。
「イオ!」
「ロビンフット」
だが、所詮は面白いだけだ。確かに意思で差を埋める事は出来るだろうけれど、何事にも限度がある。どんなに幸運だろうと、一匹のアリでは人間に勝てないように、遥かな隔たりは意思を凌駕してしまう。かつて力及ばず挫折して、それから十年を積み上げた私たちは、人外と呼ばれるまでに至った。
「貴方達とでは、想いの深さが違います」
どさりと岳羽が倒れ込む音を聞いてから、入口の方へと向けて歩き出す。戦闘態勢は解かない。まだ、ハルが最大の障害と称した有里美奈子が残っている。精神力だと能力の希少さなら、私たちに匹敵しうる存在だ。四季が真っ先に保険を掛けたのは、最善だったと言っていい。言っても詮無きことだが、彼女がダチュラの毒に侵されていなければ、もう少し手こずっていたかもしれない。
「もって数分。ここで待たせてもらいます」
「容赦ない、ね。ホントに」
「これが、私なりの敬意とでも思ってくれれば幸いです」
「はは、そんな気なんて無いクセに」
壁面を支えにして、有里は立ち上がった。その動作だけでも十分に無理をしている様子が見て取れる。とっくの昔に限界を超えているにも関わらず、対等であろうとするためだけに、彼女は立ち上がったのだ。ポーカーフェイスを装いながらも背筋が凍るのを止められない。どう鑑みても、動かせるのは口だけだと私は信じて疑わなかったからだ。
「驚きました。四季の手が加えられて抑えてあるとはいえ、アルカロイドですよ、それ」
「皆頑張ったのに、私だけ楽に寝てる訳にはいかないから」
浅い呼吸を繰り返す有里と視線が交差する。
「最後に、もう一度挨拶をしておきましょう。三日月と申します。貴女方が前に進むのなら、またいずれ」
「有里、美奈子」
その一言を言い終えると、有里は座り込むように気絶した。瞳は最後まで死なず。倒れ伏して、意識の飛ぶ瞬間まで私を捉えていたのだから大したものだ。
「終わりました」
何にせよ、肩の荷が下りる。僅かな時間でも、この戦い方はとても疲れるのだ。目の前で倒れた有里のように、私も二葉辺りに後始末を押し付けて今すぐ眠りにつきたいけれど、その前に少しだけ。
「どうです、ハル。三日月は役に立ちましたか?」
大きな期待と、ほんのちょっぴりの不安混じりに、私は問う。いつだって帰ってくる答えは同じで、だからこそ仕事を終えると必ず聞くことにしている。変わらぬ親愛と距離の証として。
「ふふ……」
ありがとう、そしてご苦労様。たった二言で満足してしまうのだから、つくづく自分自身に呆れ果ててしまう。けど、これでいい。そんな自分を、ハルは家族と呼んでくれるなら、十分だ。
「後始末、任せます。ああ、今夜はいい夢が見れそうですね」
安らかに、穏やかに、私の意識は落ちていく。この幸せな時間が止まればいいのに。暖かなまどろみの中で、切にそう願った。