まるで庭先を歩くように。化け物と陰惨な空気の支配するこの影時間に、更に凝縮した雰囲気を纏う存在がいた。復讐の怪物。そいつは、かつて途方もなく可能性に満ちていたというのに根っこまで腐らせてしまった残骸で、死にかけなのに足を止められない愚か者だ。裡より零れ出る憎悪の河には、シャドウですら寄り付かない。背後に控えるペルソナから発せられるあまりにも濃い怨嗟の声が響く。負の感情の坩堝をそのまま吐き出したと錯覚させる叫びは、案の定聞いている全ての存在を釘付けにして……。
「流石、六道。ほんの一分のズレも無い」
その場にいた全員の視線を我が物とし、黒曜石よりもずっと黒い瞳でそれら一人一人と目を合わせていく。ジン、タカヤ、天田、荒垣。この薄汚れた裏通りに相応しい面子だ。けど、やはり自ら望んでここに来た者と、否応なくここに叩き込まれた者ではその有り様が大きく異なる。未来があるか、選択肢があるか否か。この掃き溜めにも、途轍もなく大きな隔たりが、そこには確かにあった。
「随分早い到着ですね」
「ここ一番で遅れるようじゃあ、何も成せない」
「まあ、そらそうやろうけど……」
早すぎはしないか。そう言葉にしようとして、ジンは口を噤んだ。完全にタガの外れた僕のペルソナを見て、長話をしている場面でもないと悟ったのだろう。タカヤと目配せをすると、一歩後ろに下がり、そのまま闇へと溶け込んでいく。
「では、後はお任せしますよ。あまり長居して、それに当てられてしまっては敵いませんから」
暗がりに黒い霧。普段ならば白髪のタカヤは目立ってしょうがないけれど、今日この場所では話は別。明るいもの、聖なるもの、暖かいもの。際限なく侵食し食らい潰す存在がいる。他に意識など裂こうものなら、一瞬で持っていく。
「待たせた」
暫しの静寂の後、油断なくその光景を見続けていた天田と荒垣に声を掛ける。その顔に驚きの色は無い。推測していたか、あるいはどうにかしてたどり着いたか。どちらにせよ説明の手間が省けていい。当然、覚悟も決まっているだろうから。
「やっぱり、日向さんもこっち側でしたか」
「黙っていたのは悪かった。知ったところで適性が無ければ笑い話だし、暗い感情に寄りすぎれば、ペルソナは自らを飲み込むからな。いい例だろ?」
背後で嬉しそうに身じろぎをしているカロンを顎で指し、よく見ておくようにと促す。卑下する気持ちなど一片もない。むしろ、お世辞にも綺麗とは言い難い己がペルソナを、僕は誇らしいとすら思っている。深い深い絶望の淵にいて、あろうことかそれを自在に繰る船頭。正道を進むべくもない僕にとっても一つの到達点であり目標が、願望としてカロンとなったのだから、それも至極当然の話かもしれないが。
「改めて名乗っておこう。『ダイス』が筆頭、日向春一。師として、その責を果たしに来た」
汚泥を煮詰めたような瘴気を憚ることすらせず、実に堂々と宣言して見せた。体格では真田に劣り、容姿は弱そうとも感じられる。本当に強いのか。そんな疑問は五体に纏う威圧感だけで封殺されてしまう。切り離した心は、隙間を埋めるための代用品を求めた。幸か不幸か、この昏い時間にはそれが嫌というほどに満ちていて……。そうして、いつしかシャドウたちは僕を襲うのを辞めていた。
「なら、やっぱテメエの目的は……」
「論ずるまでもない。桐条への復讐以外に何がある。お前は分かっていただろう?」
僕は、僕らは荒垣真次郎を高く評価している。有里美奈子の次点ではあるが、陽の当たる場所しか知らないあのメンバーの中で唯一、清濁入り混じった経験則を持つ人物だからだ。強い、ではなく厄介。目的の為に命を懸ける意思は、どうあっても軽く見れるとは言い難い。が、今日の主役は彼でも、ましてや僕でもない。
「天田」
「分かってますよ。おかげさまで十分悩みましたから」
天田はそれとなく目線を逸らした荒垣の脇を態々通過すると、一歩前に立つ。これ以上なく明確な意思表示だ。
「さっきの人たちから少しだけ話を聞きました。難しいことは分からないけど、もうすぐ死ぬって。僕が何もしなくても、もうすぐ」
「…………」
「ズルいですよ、そんなの。他の人がどんなに同情しようと、僕は許しません」
糾弾の声は恐ろしく平坦で、悲痛な叫びなんかよりもずっと重い。いや、これは単なる儀礼に過ぎないのだから、これくらいが丁度いいのかもしれない。
「あの二人の話を聞いた時、決めました。僕の復讐を」
独白は続く。この小汚い路地裏が、いつかの神社と錯覚してしまうくらいに、周囲が全く気にならない。
「復讐をしない。それが僕の選ぶ復讐です」
「……まったく、出来過ぎた弟子だな、お前は」
甘美な囁きを蹴散らし、僕の弟子は前に進むと言う。今、目の前で完全に羽化した才能は、きっといつの日にか大輪の花を咲かせるのだろう。なら、ここでお別れ。次の一歩は、門出の、そして別離の一歩だ。
「もし、もっと違う出会い方をしてれば、なんて言わない。馬鹿弟子とろくでなしの師匠。これ以上を望むべくもないからな」
「信じられないくらいスパルタでしたけど」
「贅沢を言うんじゃない。こちらも時間があまり無かったんだ」
鼻で笑う程度のやり取りも、これで終わりだと思うとなんだか感慨深くもある。
「破門だ、天田。僕と違う答えが出せる奴に、師はもう必要ない」
「……はい」
「槍を取れ。この瞬間から、お前を対等の敵として扱う」
本当にろくでなしだな、僕は。弟子の門出に添えられるものが、敗北だけしかないのだから。
「最も大切なことは清算。罪には罰を。全ては、ほんの一秒の安らかな生を取り戻すために」
一度目を閉じ、開けば黒目と白目が反転し、黒々とした瘴気が目尻からも溢れだす。時折結露して流れる雫は、宛ら黒い涙と言ったところか。しかし、その本質は涙などと生易しいものとはかけ離れた毒。その一滴が、世界を狂わし侵す猛毒。辺りを漂う頭の可笑しくなりそうな霧ですら、文字通り霞んでしまう特濃の呪いは、垂れて地に落ちれば二度とそこに近づきたくないとさえ思わせる何かを発している。そんな涙を指で一滴掬い取り、六道から借り受けた棍に塗った。こちらも本気だ。得物は人類史上でも最悪の一角を担える兵器。掠れば、まともな神経を保てなくなるだろう。
「先ほどの言葉を訂正しよう」
この闘争だけは、誰でもない僕一個人だけのもの。計画とは何の関係もない事柄。なら、名乗るべきは、『ダイス』としての名前ではないだろう。
「エルゴ研所属ペルソナ能力特殊発現検体及び、特例草案『全方向対応ペルソナ使いの作成実験』被験者、日向春一」
ペルソナがより一層大きな金切り声を上げ、棍は黒い涙の沁みを起点に河の一部を纏い槍へと変貌を遂げる。大きな、人の身で扱うには少し無茶があるくらい大きな槍。穂先は捻じくれ渦を巻き、およそ実用に耐えられるようには見えないが、これでいい。壊れたら直せばいいのだから、別に固く丈夫である必要はない。材料ならば掃いて捨てるを通り越して、悍ましい量が偏在しているのだから。
「くれぐれも粘るな。限界を越えれば二度と日を見る事も出来なくなる」
善意も悪意も無い空っぽの警告を投げかけ、外見とは裏腹に重さの殆どない槍を振り翳す。獣のように身を低くして走り、冷たい理性を以て技を用いる。
「ぼーっとしてないで下さい、荒垣先輩!」
「……俺も、変わらねえガキだったってことか」
呟き、目を再び見開いた荒垣は、雰囲気を一変させていた。こちらも、殻を破った、ということか。
「実に結構。どちらにせよ沈黙は絶対だ」
右薙ぎも、突きも、見事な連携でいなされ、達人ではないが故の攻撃から攻撃に移る隙間の時間へと、的確な反撃を返される。徐々に服を切られ、とうとう無防備な脇腹に荒垣の振りかぶった鈍器が突き刺さりそうになるも、漆黒の櫂に阻まれた。
「予想通り。純粋な武力ではお前たちに及ばない、か」
「カストール!」
目を大きく見開いた荒垣が自らのペルソナで自分を攻撃し跳ね飛ばされ、一瞬遅れて進撃してきたカロンの船がアスファルトを削る。余波で飛び散った瓦礫が石つぶて代わりに天田を襲う最中、ここぞとばかりに上半身を大きく逸らして投擲のフォームを取った。狙いは、未だに体制を復帰できていない荒垣。
「させません!」
大きな妨害は叶わないと悟った天田が講じた対策は、実に僕の教えを受けた者らしい一手だった。投擲に必要な一歩の踏込み。その着地点に石を投げたのだ。こちらの牽制を逆手に取って、あわよくば僕の足を一本潰そうとしている性質の悪さが窺える。しかし、他に出来る事がないからこその苦肉の策であることに変わりは無い。
「カロン」
動きを止めずに、指示を出す。足場が平らであればいい。多少威力が下がろうとも、投擲が果たせれば問題ないのなら、代用品を用意するまでの話。命令を出してからコンマ一秒と経たずに、地面から数十センチのところでピタリと静止した。踏み心地もばっちり。速度や威力はやはり落ちるが、それでも投擲はつつがなく完了した。
「テメエ……!」
「砕けろ」
神懸かった身体制御と持ち前の剛力で飛来した槍を真上に弾き上げた荒垣の口から、悪態が漏れた。偏に、眼前で今にも炸裂せんとしている物体の悪辣さがそうさせているのだろう。無茶をした代償で更に崩れた体制と、数十にも砕けた穂先の欠片は、どうあっても不可避の事実を告げている。受けなければならない。一つか、二つか、それとももっとたくさんなのか。荒垣からしたら脳内で警鐘を最大にしても足りないと感じているはずであるそれを、受けなければならない事実はあまりに非情だ。嘆きたくなる気持ちも十分分かる。
「傷を負ったな、荒垣真次郎」
「ああ……、クソッたれ。あいつの言ったとおり、良い性格してやがる」
ほんの小さな、猫に引っかかれた程度の裂傷がいくつか。たったそれだけなのに、気丈な装いは無理をしていると一目で分かるほどに崩れ、滲み出た脂汗のせいでインナーはべっとりと肌に張り付いてしまっている。目に見えて消耗が激しい。何を垣間見たのかを推し量ることは出来ないけれど、兎に角これで時限爆弾の設置は完了した。僕が自発的に解除するか、死にでもしない限り、永劫解かれることのない呪いと言い換えてもいい。
「脛に傷を持つお前と言えど、純粋な憎悪は効くだろう。ああ、理解したら寝ていろ。どの道戦闘はあと数分と続けられん」
「……はい、そうですか。なんて言うとでも思ってんのか?」
「まさか。自分の状態がよく分かっていた方が恐ろしいこともある。今のお前がそうだ」
「馬鹿を言うな。今更恐怖で退くワケ、ねえだろうが!」
奮い立ち、攻撃を再開する。その悪意の強烈さを十全に知っている僕からすれば驚愕に値する行為だ。折れるなんて高望みはしていなかったけれど、まさか汚染前と寸分たがわぬ動きをするだなんて思ってもみなかった。
「仕方ない。もう、加減云々言ってられる相手じゃないらしい」
手放した棍に代わる新しい武器『ステュクス』。六道は自らの限界を押し上げるために使ったこれは、僕専用に調節された武装だ。本来、研究者の妄想を形にした無銘の一品だったこれに大層な名前が付いたのは、完全同調に近いペルソナ制御を会得した僕が握ってからのこと。
「武器が、変わった?」
天田の訝しげな囁きのとおり、カロンの手には今や櫂が消え、全長が数メートルもある回転式拳銃が突如として出現していた。僕がカロンに引かれるように、カロンもまた僕に引かれている。高すぎる同調の副産物が、貴重な僕の力になった。だから、銘を『ステュクス』。僕のペルソナ、カロンが自在に操るモノならば、これほど相応しいネーミングもないとの五月雨の案が可決して以降、そう呼んでいる。
「放て!」
続けざまに三発。発砲時は特に爆音を発するでもなく、しかし並々ならぬ大きさと狂気を孕んだ弾丸が打ち出された。黒い流星は、ある程度の距離を進むと四方八方に破裂し、辺りにヘドロの雨を降らせる。物理的な威力は殆どない。けれど、当たればお終いだ。憎悪を糧にした弾丸は打ち終わると同時にシリンダー内に生成され、右腕を左から真一文字に切りながら六発。続けざまに癇癪を起した子供のような乱雑な動きに合わせて六発。六発、六発。僅かなリロードを挟んだ終わりのないトリガーハッピー。いつまでも、いつまでも。五分を越えても、終わりの気配を一切感じられない弾雨。この瞬間、状況打開のための策を先に思いついたのは天田で、一拍遅れて天田のやろうとしていることを察したのが荒垣だった。
「悪ぃな。余計な柵取っ払って考えてみても、やっぱりこの役目は俺んだ」
「なっ、何してるんですか!?」
「死にはしねえよ。約束、だからな。ただ……」
笑っていた。生を脅かしかねない呪いを眼前にして、荒垣真次郎は強く笑った。影のある笑顔などではなく、心から。
「俺はここで脱落みてえだ。スマン」
「荒垣さん!」
「進め、天田。道はきっちりつけてやる」
欠片でさえ、呼吸が乱される。欠片でさえ、手足は震えを抑えられない。欠片でさえ、異常な痛みに襲われる。だが、そんな事実は覚悟の前にはまるで意味を成さない。
「カストール!」
召喚したペルソナは、攻撃のためではない。必要なものは、巨大な弾丸を受けきるのに必要な体積だ。
「あばよ、優等生。二度と会いたくもねえが、まあ、テメエがいなきゃこの結末が無かったのも事実だ。……ありがとよ」
「その言葉は墓前にでも添えてくれ。今の僕には響いてくれない」
黒い奔流に飲まれる寸前の些細なやりとりは、どちらが勝者なのかまるで分からない有様。一足先に、僕の目指す場所に辿りついた荒垣に、少しの嫉妬と敬意を払っていたが、迫る元愛弟子の気迫によって他に思考を裂く余裕など微塵もないことを悟った。
「カーラ・ネミ!」
精神の成長と、それに伴うペルソナの進化。この土壇場で、いや、この土壇場だからこそ、か。天田乾は、無意識のうちに見事に渇望を体現した魂の形を具現化することに成功した。荒垣の挺身によってがら空きになった一本道を脇目も振らずひた走る。
「届け、届けぇっ!」
銃床による迎撃をペルソナで跳ね除け、確実に僕を超える速度で天田は躍動した。全ては、たった一撃の為だけに。
「…………っ!」
小柄な天田から発せられたとは信じがたい咆哮は、僕の皮膚までびりびりと伝わる気迫が籠っており、一閃は弾丸すら見極める僕の瞳を凌駕した。凄まじい以外の言葉が見つからない。齢、十と少しにしてこの少年は一つの境地に達して見せたのだ。反射に迫る反応速度でも頬が大きくざっくりと裂かれ、唯一出来た抵抗は、襟元を掴み動きを止めたことくらい。しかし、それがどうしたとばかりにとどめの一撃が今まさに放たれようとして……。
「迷いのない良い突きだった。僕がお前の師じゃなかったら、やられていたかもな」
天田の総身から力が抜けた。返答は無い。既に意識を失っているからだ。
「この期に及んで教えを律儀に守るな。僕はもう敵だぞ、馬鹿弟子め」
まったく。どれだけ強くなっても、律儀なのは変わってない。何度も繰り返した鍛錬の中で、いつ教え込んだのかまでは覚えていないが、人生を掛けた場面も教えを守ろうとしてくれた、その事実が少しだけ嬉しい。
「けどね、天田。僕はもう君が思っているよりも化物寄りなんだよ」
割れ物を扱うように天田を寝かせると、五月雨の予備包帯を取り出し流れ続ける黒い血の止血を試みる。黒い血による返り血。ネタばらしをするならば、それこそが天田を昏倒させた原因だ。二撃で勝負を決めてくると読んだ僕は、ただ動きを封じた。一滴でさえ荒垣を疲弊させたモノだ。後遺症こそ残らないだろうが、決着を着ける一手には十分だった。
「それに、少し気負い過ぎだ。短期決戦はこちらの望む所だったんだぞ」
駆け寄ってくるいくつもの足音を遠くに聞きながら、誰も聞いていない指南を続ける。遅かれ早かれ未練は置いていかなくてはならない。
「ゆっくりと会話する機会はもう無いだろうが、それでいい。次に合いまみえた時は、どうせ醜い殺し合いだ」
そう言って、踵を返す。霧は一層濃くなり、人影以上の判別がつかなくなった時、先ほどの声の主たちが到着した。間が良すぎるのは、恐らく六道がそこまで気を使ってくれていたからだろう。
「待て!」
「……じきに影時間も終わる。今のお前たちに、無駄話をしている余裕があるとは、思えない」
振り返る素振りも見せずに、淡々と告げて去ろうとすると、突然袖を掴まれた。
「えっ……?」
困惑の声を上げたのも、瞠目して視線がわずかに揺らいだのも、僕ではなかった。
「済まない。けど、もう時間切れなんだ。だから、さよなら」
もう、隠すつもりも意味もない。けれど、堂々と名乗れる身分でもない。逡巡の後に、力の緩んだ手を優しく振りほどき、再び歩を進める。
「桐条武治に伝えておけ、十年前に貴様らの生み出したモノが、いずれ貴様を飲み込みに行く、と」
先行きは闇に包まれていて、それでも迷うことは無い。『ステュクス』を仕舞い込み、今度こそ僕はその場を後にした。
・・・
点と点が繋がり線となる。手垢のついた表現手法を、この夜私は初めて体験した。自分は考え付く限り、最悪の結末に向かってしまっていると、気が付いてしまった。そんな夜だ。
「…里、有里!」
「は、はい!寝てません!って、痛たたた……」
寝ぼけて勢いよく起き上がった私は、満足に動かない体のせいで見事にすっ転んでしまった。思いっきりぶつけたおでこが痛い。
「……呆れた。アンタ、今の順平とまったく同じ反応よ」
「うう……」
「ちょ、そこまで悔しがらないでもよくない……?」
かろうじて四つん這いになり辺りを見回すと、程度の差はあってもメンバー全員が負傷している。場所はタルタロス。赤くなった額を撫でながら、気を失う前後の記憶を引っ張り出す。最後に見たのは、真っ白な光と……。
「また負けたぁー!」
これで五度目。しかも今回は露骨に手加減されるおまけ付きで、だ。とどめの勝ち逃げ宣言まで思い出すと同時に、私の理性は吹き飛んだ。
「しかし、惨敗だったが得たものがあったのも事実だな」
「じゃあ、やっぱりあの銃って……」
「世界広しと言えど、召喚器を作れるグループは桐条をおいて他にはいない。つまり」
「夏に美鶴の親父さんから聞かせてもらった件。大当たりだったワケだ」
情報のまとめを執り行いながら、少し違和感を感じた。痛む箇所をそれぞれ抑えながらも、皆不自然なほどに元気だ。いや、違う。思い出せ。六道と名乗った彼はいったい何と言っていた?
「風花?」
一度も会話に参加していなかった風花ちゃんへと、ゆかりちゃんが心配そうな声を掛ける。
「なに、これ」
安全確認の為に周囲の様子を探っていた彼女の驚愕は、すさまじいものだった。真に人が驚くと、悲鳴は上がらない。ただ、呆けることしか出来ないらしい。一瞬で全員の表情が引き締まり、風花ちゃんを守るように円陣を組む。
「山岸、落ち着いて状況を報告しろ」
「は、はい!靄が掛かったみたいになって確証はありませんが、人の反応が三つ。内二つは天田君と荒垣先輩です!」
じきに兄が力の一端を開放する。彼はそう言っていたではないか。
「待て、明彦!」
顔を跳ね上げ、静止を振り切って走り出したのは真田先輩。その顔色は苦々しいを越えて、もはや顔面蒼白に近い。事情は知らない。けれど、体面を取り繕う余裕もないくらいの事態が起きているのなら、決して一人の問題ではない。
「追いかけましょう!」
「了解!」
一も二もなく駈け出して、タルタロスの外に出ると、漸く風花ちゃんの困惑の正体を理解した。街が、飲み込まれている。元から陰鬱な雰囲気の漂う影時間が、その様相を更に悪辣にモノ変化させていた。息が詰まる。立っているだけで、心がどす黒く染まっていくような気すらする。
「こんな……」
こんなことが出来る人間がいる。そう口にしようとして、止めた。心底恐ろしい。言葉にしてしまえば、震えてしまうかもしれない。少なくとも今は、その時じゃない。それが許されるのは影時間の脅威を跳ね除けてからだ。
「…………っ」
走って。走って。肺が痙攣する一歩手前になるまで酷使して、辿りついたその場所には、倒れ伏す二人と、私たちに背を向ける第三者の姿があった。在るだけで空気ごと死んでいきそうなペルソナを従え、シャドウと比較にならない瘴気を振りまく男。絶対を思わせる君臨者。即ち彼が、彼こそが……!
「待て!」
「……じきに影時間も終わる。今のお前たちに、無駄話をしている余裕があるとは、思えない」
行ってしまう。もがく様な焦燥は、残る全ての感情を吹き飛ばした。もう、一歩だって足を前にやりたくなんてないのに、手は勝手に伸びる。何の確証もないけれど、今日がきっと分水嶺。目の前の未だ名も知らぬ彼と、私たちの未来が決まる日。そんな気がして。
「えっ……?」
無様につんのめった拍子に掴んだのは服の袖口。初対面であるはずなのに、私は知っていた。何を。そんな馬鹿な。まさか。思考が、前に進むのを拒絶する。夏祭りのあの日も、こうやって袖を掴んで引っ張りまわして、いたのに。
「済まない。けど、もう時間切れなんだ。だから、さよなら」
何かを言わなきゃいけないのに、この口は動いてくれない。何を言えばいいのかも、定まらない。失いたくないから紡いだ絆を、断ち切らなくてはならないなんて考えたくもないのに。
「桐条武治に伝えておけ、十年前に貴様らの生み出したモノが、いずれ貴様を飲み込みに行く、と」
真っ暗な道を振り返らずに進んで行ってしまう様子を見ながら、極限まで鈍麻してしまった頭で考える。心配そうなみんなの声にも反応せず、ひたすらに同じことを自問自答し続けていた。避けられなかった決別の行く末が、変えようのない悲劇であっても進めるのか、と。