さてさて、気持ちよく啖呵切って見たものの、こちらとしては内心戦々恐々としていた。実行は決定済みだし、道はそれ以外に存在しないけれど、やはりこればっかりは相応の覚悟が必要なのだ。手の震えは疲労ではなく恐怖から。足の竦みは怪我ではなく弱さから。この死線を越えてしまえば、いつだって身近にあって、だからこそ誰よりも抗い、遠ざけてきた死が確定してしまうのだから。僕の家族が、かろうじて繋ぎ止めていてくれた魂の器。実際にやってみるまでどうなるかは分からないが、恐らくは『エルゴ研』の連中が目指した全方向対応ペルソナ使いとやらが完成するはずだ。
「ああ、畜生。分かっていたことだけど、怖いな、これは。情けなくて涙が出そうだ」
米神へと添えた『ステュスク』の引き金へとかけた指は、まるで金縛りにあってしまったように動かない。刻一刻と過ぎる時間は有限で、早く行動を起こさないとそれすら儘ならなくなるというのに、最後の一歩が踏み出せない。死に近づきすぎ、最も間近で見てきたが故の弊害。積りに積もった記憶たちが、自殺にも等しい行為に対して拒絶反応を起こして阻害する。経験とは実に……、実に厄介だ。
「…………はは、少しばかり過保護過ぎるぞ、お前たち」
怯える腕に、五本の手が添えられた気がした。なら、もう震えは無い。大丈夫。枷を破壊した足は、一歩どころか、どこまでだって行けるだろう。
「ありがとう。お前たちが信じてくれるから、僕は僕のままでここまで来れた。もし、お前たちの誕生と同時に死を背負わせてしまった僕でも許されるのなら……」
静かだ。耳鳴りも、雑音の全てが消え去った凪の中で、僕の独白だけが遥かに遠く。
「一緒に死んでくれ。それだけで僕は幸せだ。他には何も要らないから」
応、と威勢のいい声が頭の中で響き、皆がそれに追従する。いつの間にか二葉と四季は喧嘩しているし、五月雨は高笑いしていて、三日月が眉間に皺を寄せて、六道がそれを遠巻きに見ている。暖かい。僕が望んだ情景は、恐怖で凍りついた手足など、いとも簡単に溶かしてくれた。莫大過ぎる恩に報いるなんて、到底足りはしないけれど、ただ言おう。心の底から。
「お前たちが家族でいてくれて、良かった。本当に。もしも、神様とやらがいるのなら、それだけは感謝してやっても良い」
心地よい緊張が感覚を限界まで研ぎ澄ましてくれたおかげで、そよぐ髪の毛一本までが感じ取れる。
「ペルソナぁ!」
『ステュスク』が持つ機能を最大展開。六つの口径を持つ歪な銃が、そうであらねばならなかった理由がここに示される。運用に際してリスクが大きすぎるために、試運転すら叶わなかった出来損ないな切り札。日向春一の命と引き換えに、束の間の夢を与えてくれる……、はずだ。全ては机上の空論。どんな形でそれが成されるのかは、今のところ希望的観測の域を出ない。けれど、奇跡が起こるなら、きっとこういう時に。
「が、……ぐ、ぅ……っ。あ、あああああ!」
シリンダーが勢いよく回転し、『ステュスク』は自壊。激痛にも似た情報の氾濫が脳を焼き、痛みに慣れた僕でさえ耐え難い辛苦をもたらした。何もかもが変わっていく。思考も、肉体も、精神も。ありとあらゆるものが混ざり合い、六つの魂は再び一つへと戻っていく。ある意味では、十年前に戻っただけなのだろう。しかし、ああ、声を大にして言えることが一つだけ。やはり、日向春一という人間は元来歪んでいて、愛しい家族を生み出したのは必然だったのだ。昔だったら耐え切れずに廃人となっていただろう。なら、この十年間は決して無駄ではなかった。彼岸を超え、輪廻に乗っても放してしまわないように。今度こそ奪われてしまわれない家族を、今こそ強く抱きしめよう。
「最っ高に、きついな、これは……!。僕が僕だと認識できるだけでも運が良いんだろうけど、体はそうもいかないらしい」
六つの魂を同時に解放すると、最も顕著に変異が現れ始めたのはカロンだった。もはや何がどうなってしまうのだか分からないくらいに作り替えられ始めた五体への違和感は尋常ではない。それは一心同体である僕にとっても同じことで、そのフィードバックのすさまじさたるや、常に嘔吐スレスレの虚脱感を催すほどである。気持ちこそ軽いが、体調は相変わらず最悪のまま固定。まあ、万全など数えるくらいしか迎えた事がない僕らしくもあるけれど。
「……なるほど。こう、なるか」
仄かな高揚が感情の不安定さを後押しして、僕をより一層饒舌にさせていく。自分は確かに日向春一であるという自負は持っている。勿論、記憶も、考え方にも違和感など無い。十全だ。あまりにも、十全過ぎる。折角ぶっ壊した器に対する対処として、免疫システムが最も安定する形へと誘っているのだろう。だが、そんなのは願い下げである。不安定でいい。苦悶に呻いていればいい。そんなちんけなハードルなんぞ、お呼びじゃあないんだよ。
「く、ははっ!あはははは!」
そうだ。こういう時、二葉だったら笑うんだ。立ちはだかる困難が、大きければ大きいほど、大声で笑い飛ばして……。いつだって助けになってくれた。
「カロン!そいつらを寄越せ!どうせ壊れるなら、行けるところまで行くぞ!」
せめて人として。そんな倫理観なんかクソくらえだ。立ちはだかる障害は破壊し尽くすまで。例え、己の理性であろうとも。
「こんなもんじゃないんだよ、あいつらは!僕なんかよりもずっと凄いんだよ!本当は……、こんなところで終わっていい奴らじゃないんだよ!」
爆発的に力が増す。代償がいったい何なのかは、もうどうでもいい。家族と引き換えに持っていきたいものがあるならなんだって持っていけばいい。
「……随分待たせた。けど、完了だ。ここが僕らの終点」
絶句。ただひたすらに沈黙と驚嘆の地平に佇む、人影とすら呼べない異形の影が一つ。大型の獣を連想させる、黒に棚引く左腕。それに絡みつくように左半身を覆い尽くす歯車と木の弓。直視を躊躇ってしまう純白の尾。轟々と燃え盛る頭髪。堕ちて尚、神聖さだけを放ち続ける背光。そして、髑髏宛らに朽ち果てて腐りかけた右半身。辛うじて原型を止めているのは左顔面のみ。一切合財擲ったにしては、これでも良く残った方だ。
「色々と説明が必要な状況なのは理解しているが、如何せん余裕がない。手前勝手ながら、ラストダンスと洒落込もうじゃないか」
「……要所要所で人外染みてると思ってましたけど、本気で人外になっちゃいうのはどうなんですか、日向さん」
「ははは、僕を打倒して見せたお前たちの言う台詞じゃないだろ、それは」
「僕は槍を壊されただけですけどね」
極めて納得のいかない表情で、天田は言う。不貞腐れているのか。
「死ぬ気で倒してみたら実はまだ本気じゃなかったとか、マンガの中だけにしてくれません?」
「悲観するな、バカ弟子。僕個人では完敗さ。でも、負けたのは僕だけでいいんだ。安いプライドだよ。僕は、僕の信じるモノが至高であったと、お前たちの記憶に刻みつけてやらなきゃならない」
緊迫の欠片も無い会話が、非常識を上塗りしていく。そもそも、ぶっ飛んだ容姿に目がいきがちかもしれないが、僕は僕だ。一度剥がれた鍍金は戻らない。日向春一は倒すことが可能であると、もはや証明されている。いくら形だけ怪物になってみてもその事実は変わることはない。
「ここから先は、心の戦い。お前たちが望むなら、後数分、僕が自滅するまで逃げ回るのもいい。今度はこちらから、挑ませてもらう!」
背中を護ってくれる気配が増える。六つの夢の欠片が、同時に体を埋め尽くす。
「ウカノミタマ!」
凛として嘶き、白磁は疾走を開始する。
「レンゲオウ!」
睥睨する天眼が輝いて、天へと還る祈りがここに顕現する。
「ロビンフット!」
ギチギチと音を立てる歯車が悦びに軋み、無数の弓が展開された。
「ゾロアスター!」
激情をありのままに放出したが如き炎熱が振り撒かれ、闇を照らす光が生まれた。
「ドッペルゲンガー!」
影が沸き立つ。歓喜に震え、我慢できないと言いたげに。
「……カロン!」
絶叫。正しくそれのみ。崩れそうな巨体を意に介さず、僕の半身は中天へと哭いた。計、六体のペルソナの同時使役。才を捨てたが故にペルソナを操る才を得た僕だけの極み。在りし日の無謬の平穏を目指して、陽の当たらない非日常を突き進んだ矛盾の結晶が、暗澹なお伽噺の到達点がここにある。シャドウの様に醜悪で、度し難いほど不退転。
「ハッハァー!」
号令と共に左腕を目の前の床へと叩きつけ、反動で前へと推進する。猛々しく、勇猛果敢に。大丈夫。やり方はいつだって一番傍で見てきた。寸分違わず、愛しい家族を再現すればいい。
「気合入れろよ、テメエら!」
「は、早っ!?」
影で生成した壁面に対して垂直に着地すると、間髪入れずに床を殴りつける。今度は全力。加速ではなく破壊の為に。
「オ……、ラァ!」
半円状に陥没した床面は相手の予想を遥かに上回る規模だった。全員。警戒からそれ程離れていなかったとはいえ、お互いの動きを阻害しない程度の間合いは取ってあったにも関わらず、全員の足が宙へと浮いた。
「くっ、アルテミシア!」
「足りねえ!全然、全く、これっぽっちも!」
成り替わりに近い精度で、二葉だったら取るべき行動をトレースする。美鶴が応急的に生み出した氷の足場と、中空に作り出した黒い球体を足場にして駆けた。縦横無尽に、ひたすら早く。黒い左腕から溢れるガスの描く線が、瞬く間に周囲を覆い尽くして暴風の檻は完成した。
「くははっ!誰も俺様に追いつけない!」
接触の度に重ねた、一々数えるのもバカバカしくなる拳打の雨は、上手く防いでいようと確実に体力を削いだ。
「……私、また早まった?」
「いつものことでしょ。それより、今は……」
「あいつを止めてやらんとな」
二の腕に散見される痣や擦過傷の程度を注意深く確認しながら、美鶴は言う。
「明彦」
「心配するな。アレを前にして大人しくしている気は無い」
「違う。怪我の具合を教えろと言っているんだ」
「だから言ってるだろう。問題なし、だ」
「……もういい。お前は好きにしろ。こちらで合わせる」
「そうしてくれ。久しく忘れていた気分でな。何も考えたくない」
「……っ皆さん、構えて下さい!追撃が来ます!」
そうだ。気を保っていてくれ。生憎、呼吸の時間すら惜しい。
「得物は趣味じゃねェんだがなっと!」
想像するのは二葉でありながら、三日月。偶像は僕の脳内で肉を持ち創造されていく。所謂、アップデートなんて言葉が一番近いだろうか。言うなれば今の僕は家族全員を内包した日向春一だ。受け継いだ、と言い換えてもいい。どちらにせよ、僕は託された。なら、思考錯誤を重ねて、それを一つに導いてやらなければならない。それが、黄泉への船頭たる僕の最期の務めだ。
「はぁ……。射に違和感は言語道断なのですが、致し方ありません」
意識が大きく切り替わる。
「ロビンフット最大展開」
機会音声と間違ってしまいそうな冷たい声。念頭に置くべきは、果てなき狂信だ。狂おしく狂おしく、自らを使い潰して欲しいと願うまでの飽くなき渇望のみが、ロビンフットを稼働させるエネルギーとなる。
「一斉掃射」
質量保存を完全無視した膨大な量の歯車が解き放たれ、夥しい数のクロスボウと異様ですら埒外へと置き去りにした巨大な弓が体を成した。個にして要塞。一切が敵意を剥き出しにして、矢は冷酷なまでに命を狙う。
「イシス!」
四方八方を囲む矢の群を一陣の風が吹き飛ばす。無論、発射のタイミングを見極めている最中の主砲以外の話になるけれども、どれだけ勢いがあってたところで所詮は矢だ。側面からの力には滅法弱い。
「第二射、掃射」
「いいわよ。受けて立ってあげるっての!」
二度、三度。旋風に乗って宙へと投げ出された矢が徐々に増え、これまた数えきれなくなり始めた時、密かに仕込んでいた仕掛けが作動する。好機が見当たらないなら、作り出すしかない。元より奇襲でない時点で不利など承知の上なのだ。
「一応感謝しておいてあげます、筋肉バカ」
意図的に脆くしておいた矢が粉微塵にへし折れれば、仕込みは恙なく動き出す。空中分解した矢は、それぞれ奇妙な色の煙を放出して拡散。毒だ、と誰もが身を固くしたその瞬間、渾身の一射は放たれる。渾身で、最高で、埒外な一矢。もはや人間とは言い難い体躯を、それでも完全に支配下に置けているのは、紛れもなく二葉の貢献が大きい。持てる膂力をフルに使って引き絞られた弦がミシミシと、およそ考えられない音を立てた。外さない。
「宣言通り。今こそ血の徒花を咲かせましょう」
膨張した広背筋が断裂を免れたのは、偏に運が良かったからだ。ドーピングにドーピングを重ね、無茶でない部分を探す方が難しい射ではあったが、兎にも角にも成功した。軌道も威力も申し分ない。なら、これで、出番は、お終い。
「トリスメギストス!」
「ワオォーン!」
突き進む螺旋の矢は火炎の壁に焼かれながら尚前へ。疾風を、氷塊を、貫きただただ真っ直ぐと。
「アテナ!」
「今だ、明彦っ!」
巨大な盾との衝突で生じた拮抗は、仲間を信じていたからこその挺身。言葉を交わすまでもなく、真田は上空から拳を振り下ろしていた。凹む床は、まるで二葉の再現だ。規模こそ違えど、俺にだって出来るぞ、という子供染みた誇示。思わず口角が吊り上りそうになるのを抑える。いけない。折角積み上げた殻が崩れてしまいそうだ。四季なら笑わない。滅私と激情の権化は、慈悲無く相手を追い詰める。
「イチイよ、その献身、私が引き継ごう。存分に咲き誇るがいい」
破壊され、力なく砕け散る運命にあった矢が再度息を吹き返す。いや、そんな生温いものじゃない。木端は尋常ならざる速度で芽吹き、実を結び、熟れていく。時間の流れが狂ってしまったとしか思えない生命の早送り。腐り落ち、生まれ、育み、また腐る。かつて、『タルタロス』を森林と化した手腕は錆びつくことなく振るわれた。命とは循環。循環とは再生。タクトに見立てた腕を振れば、幾百の枝葉が敵を阻む。
「勘違いをするな籠の鳥共。私が狩人だ」
燃やせど壊せど再生し、かといって無視をするには重過ぎる。あからさまな陽動なのに、対応せざるを得ない歯痒さ。望まぬ専守防衛は精神を削り、届きそうで届かないからこそ焦りが生じる。断言しよう。こと闘争に関してウカノミタマのポテンシャルは最弱だ。だから目指すべきは戦いではなく、一方的な狩猟。檻を作り、猟犬を放ち、獲物を追い込む。それが体を傷つけるのを酷く嫌った四季が辿り着いた理想形。
「埒が明かないっスね……」
「しかし、手を拱いていては弄られて終わってしまう。状況の打破は急務だが……」
「この期に及んで遠慮とか止めて下さい。どう考えても囮役は僕が適任なんですから」
短く嘆息してから天田は一度屈伸をした。会話どうこうは関係なく、彼の中では既に囮役は決定事項らしい。
「槍も壊されちゃいましたし、この中で一番すばしっこいのは僕です。まあ、あの人の事ですから十中八九罠なんでしょうけど」
「承知の上だろうと危険過ぎる。今の、四季と名乗っている日向は恐らく躊躇などしないぞ」
「問題ありません。僕はあの人に鍛え上げられましたから。命懸けで戦う心構えは皆さんよりも出来ているつもりです」
「妙に説得力のある台詞だね……」
「事実ですんで。それに……、そろそろ話してる余裕も無くなりそうです」
不穏を孕んだ空気が円満していく。白狐が、その畏れすら覚える華麗な有様を
擲って、奥底に眠る二面性を詳らかにしたのだ。荒々しく禍々しい。一見しても先ほどまでと同一の存在だなどと認識できない変容は、天田を含む全員の脳内に警鐘を鳴らすには十分過ぎた。
「これは、腐ってく……!?」
「おいおいおい!エグすぎるだろ、これ!」
総じて例外なく腐り落ちて朽ちる。木々の循環にのみ一役買っていた理が、その領分から流れ出た。限られた籠の中で、限りなく災厄に近いモノとの鬼ごっこ。字面にしてみると笑える冗談だが、それでも器用にウカノミタマの突進を回避し続ける相手だ。圧倒的に不足なのだろう。
「とはいえ、潮時。私に出来るのは精々この程度か。三日月共々、存外持った方だな」
敵を殺せる力を使ったが、仕留めきれるだなんて驕った考えは持っていない。あくまでも四季は救護担当。改めて自分を構築していく上で、裡に眠る全員を踏襲し纏める必要があったからこそ止むを得なくこうしているのだ。理屈ではなく直感で、そうしなければならないと思ったからこそのこと。
「考え事ですか。意外と余裕そうで何よりです」
眼前から張り巡らされた木々越しの皮肉が耳に響く。ああ、なるほど、そういうことか。
「……下策も下策。見下げ果てた策だ。実に嘆かわしい」
「ふふ」
「何が可笑しい」
「いえ、超えたいと躍起になってたのが馬鹿らしくなりまして」
こちらを見据える天田の背後に己がペルソナの姿が映る。振り撒く波動は咆哮と共に。場に似つかわしくない無邪気な笑みを崩さない天田諸共、周囲を腐られていく。例外は無い。あるとするなら腐食にかかる時間の差。詰まる所、目の前の少年は自分が腐り落ちてしまう前に檻を破り、その後を仲間にどうにかしてもらう気でいるのだ。目的の為に何としてでも生き残り続けろと教え続けて来たそれに、真っ向から喧嘩を売る行為である。
「……二年間お世話になりました」
僅かに、本当に僅かに鈍った木の檻の再生を天田のペルソナが打ち破り活路を開く。順平とコロマルの放った炎が、更に再生を遅らせ、天田の衣服が腐りはじめようとした瞬間に、アイギスと真田がウカノミタマに横っ腹から攻撃を加え吹き飛ばした。混戦の中でも山岸の指示の元に有里が天田を救出し、岳羽が全力で回復に専念する。か細く、瞬きすら許されない刹那の話。これら全ての完了と同時に、レイピアから繰り出された一筋の光が頬をざっくりと大きく裂いて行った。
「……見事!」
吹き出した血液が口腔を侵し尽くすよりも前に、消し飛んだ頬肉の跡の放つ熱が脳を焦がす。熱は留まるところを知らず。赤熱の調べが現実を沸き立たせていく。
「その連携、まさしく炉火純青なり!俺の技量の限りを以て挑むに相応しい!」
じゅう、と音がして傷口が焼かれ流血が止まる。赤鉄を思わせる髪が靡き、掠められたサーベルの刀身が儚く崩れ去っていく。
「思えば、お前に身を貫かれるのは二度目だな、桐条美鶴」
「……笑いながら言うか、それを」
「む、武勲は讃えるのが基本ではないか?」
溜められていく熱量と、抗う氷壁。会話の最中でも争いは継続中である。しかし、今宵の趣向はこれじゃあない。培ってきた差。技巧を尽くして挑むことだ。膠着状態は、あまり望ましくはない。
「何を迷うことがあるのか。ふ、ふふ、ふはははははは!さあ、往くぞ、ゾロアスター!存分に愉しめ!」
はしゃぐ子供の様に笑って、力を大きく開放する。異形の左腕に相応しい燃え盛る篭手と、浮遊する大小様々な赤の球体。緻密に綿密に繊細に。コンマ数ミリの操作を誤れば誘爆して己が危なくすらあるそれらを高速で動かしながら、自身もまた躍動せんと両の足に力を込めていく。もはや氷と炎の拮抗に意味は無く、視界は紅蓮に染まっていた。
「全員散らばれ!」
「了解!」
「逃げ場など、ない!」
指先を銃口に見立てて照準を合わせ、心で引き金を引けば、数多ある火球は線となり視線の彼方へと殺到する。脳の酷使で流れ出した鼻血が、赤い煙となって空へと上っていく。まったくもっていい気分に水を差してくれる貧弱な体だ。既に残り数分の命。警告なんて無意味なのに。
「ええい、六道の大飯喰らいめ!これでは俺の見せ場があまりないではないか!」
意思を燃料にするゾロアスターは如何せん燃費があまり良くない。何を元手にするのであれ、燃やし続けるのだから消費がかさむのは当然だ。結果的に大きな力となっているから、それはいい。問題は、節約が非常に苦手であるということだ。良くも悪くも後先考えない行動は、五月雨としてのアイデンティティーとして確立されてしまっている。見えない枷が、手足を縛った。確かに調子に乗った節もあったけれど、一度相打ちにまで持ち込まれた敵を相手にハンデマッチが必須らしい。
「……面白い。人生最後にの決戦にこれ以上燃える展開があろうか!」
逆境こそが華であると笑い飛ばし、炎は猛った。
「前座は止めだ。お前たちが遥かな未来を望むなら、俺の至高を超えていけ!」
号令はまさに鶴の一声となり、大気を震わせた。同様に、それを聞く者にも、虫の知らせとでも呼ぶべき悪寒と緊張がひた走る。総身に纏った赤が、黄色を帯び、色を失って、青へと至る。足元のコンクリートらしき床はボコボコ音を立てて泥濘と成り果て、吸い込めば肺腑を容赦なく焼き爛らせる熱波が辺りに広がった。目に映る情景は焦熱地獄の具現。しかし、純粋すぎる蒼は戦慄を与え、肌はそら寒さで粟立っていく。
「是、禊ぎの証にして臨界の渇望。いつの日か、お前たちが辿り着くであろう頂から俺が示す。括目せよ!これが、これこそが魔法である!」
世界から色が消えた。出鱈目も、ここまで来ればいっそ清々しいとさえ感じられる大爆発。この一撃に工夫は無い。ありったけを絞り出して破裂させるだけの、およそ技とすら呼べない粗末なモノだ。だからこそ、有里たちは思い知る。補助を掛け合い、技巧の限りを尽くし、協力し合って、更には何らかのリスクを課す。そこまでやって漸く足元に及ぶかどうかの閃光など、どう考えても人の領域を逸脱しているだろう。非日常に生きるペルソナ使いを有り得ないと戸惑わせ、不条理を捻じ曲げる何かがあるのなら、これはもう魔法としか言いようがない。
「生き残れぇっ!」
混沌と耳障りな流動音に遮られながらの叫びは一体誰の言葉だったかは見当もつかない。ただ、全員が漠然とあまりにも的外れな言葉だとだけ受け取っていた。言われるまでもなく、必死だ。あるいは、自らに向けた鼓舞だったのかもしれないし、未曽有の脅威に対する弱音の吐露な可能性もあった。確かなことは一つだけ。これからの数秒間は、人生で最も過酷で困難な時間となる。絶対に。
「……オルフェウス!」
だから、狂乱の坩堝に飛び込むような真似が出来る者こそは、純然たる狂人であり、人は畏敬を込めて英雄と呼ぶ。蛮勇ここに極まれり。炎よろしく青ざめながらも炸裂寸前の爆心地へと歩を進めていく。なまじ強くなってしまったから、感覚だけは麻痺してくれない中の行軍が、神経をこれでもかとすり減らさせる。狂奔。アレは天然モノの才覚だ。その背中が怯えを払い、歩みは後続への道標となる。
「お願い、壊れてっ!」
格段に脆くなった床と、温存していた渾身の一撃。分の悪い懸けではないとはいえ、命懸けでは身も竦む。コンマ一秒を要する上では致命的な隙を埋めた要因は二つ。幸運にも、制御を行っていた意識が発動と同時に吹っ飛んだことと、次の役者が癖が非常に強く、模倣の構築が頭五つ分くらい抜けてぶっちぎりの最高難度を誇っていたことである。繊細な加減の攻撃は綺麗に床だけを貫き、意図的に発生させた小さな爆発が誘爆を引き起こして、大規模破壊の指向性を階下へと向かわせた。そもそもフロア一帯をぶち抜く威力。青く燦々と輝く太陽を前に努力は霞のように溶け、捨て身の対価は虚しくも雀の涙にすらなってくれない。
「ふむふむ。なればこそ、重ねて言うしかあるまいて。呵呵、天晴見事なり!」
すっきりと靄の取れた思考が最初に紡いだのは、歯に衣着せぬ賛辞だった。自分の全力を以てしても、立っていられると断言できないからだ。例え、どんな手段を用いたとしても、多大な犠牲があったとしても、結果的に有里美奈子は殆ど無傷だ。
「死屍累々は避けられんかったようじゃのう。ああ、だからといって卑下するでないぞ。お主は、倒れ伏している戦士をそうさせた己の徳を誇らねばならぬ」
「…………っ!」
「己の選択に責任を持つとは、轡を並べた仲間の、絆を紡いだ友の、倒すべき仇敵との未来を描き受容することに他ならん。万象の帰結を踏破し、而して傲岸不遜に自身の道を揺らさぬ者だけが、偉業を成し得る。お主は愚者。優しき愚者じゃ。儂らと違い堕ちぬのならば、せめてもっと強く在れ。世は悲劇なり。其の胸に燦然と輝くちっぽけな希望が少しでも翳りを見せようものなら、夜は一切の容赦なくお主を飲み込むじゃろうて」
両の掌を天へ向け、祈りが開始される。いつの間にか屹立していた黄金の観音の腕が呼応して、風に吹かれる落ち葉の様に滑らかに動く。自然で、そうするのが当たり前だと、いつぞやと変わらず能動の欠片も感じ取ることができない意の消失。目に見えない大きな流れとの合一は恙なく完了し、御手は穏やかに下される。
「いや……!」
「安心せい。追い打ちする気などありはせん。まったく、一人になった途端こうまで腑抜けてしまうとは……。周りを引っ張っているようでいて、如何に己が周りに支えられていたのか知るが良い」
慈しみの権化と成った観音の腕が、気を失って倒れ伏した者達を優しく保護する。背光が暖かく白光を醸し、忽ちにして奇跡は引き起こされた。
「久方ぶりの力にしては重畳じゃ。超越者としての役割しか持たぬ儂も、強ち捨てたものではないのう」
万能にして完成系。末弟にして集大成。そう在ってくれと願ってしまったから、培った全てを受け継がせることを愛だと信じて疑わなかったから、六道は生まれた。無限に広がっていく可能性の果てに。だが、その愛は苦難を奪ってしまった。家族と共に歩む道が、酷く色褪せたモノに見えた。欠けたキャンパスに色が付いたのはここ一年だ。敵は、実感をくれた。どのような理不尽にも屈せず、喰らい付いて来てくれたから、真にこの身は六人で一つの道を往くのだと思えた。六道に心残りはない。既に、満ち足りているのだから。
「呵呵。ではな、有里美奈子。旅路に付き合ってくれた礼にしては些か足りんかもしれんがのう」
降り注ぐ慈悲の力は、いとも容易く現実を捻じ曲げていく。以前、全員を戦闘不能にした力と全く同じなのに、蓋を開けてみれば無傷どころか致命傷が消え去ってすらいる。
「……窮屈だったろうな。僕はいつだってあいつらの支えで、同時に枷でもあった。自由に、ありのままに振る舞えればここまで強いんだ」
終点。旅路の終わりの景色は、存外と味気無いものらしい。常々夢見てきた景色に現実が重なっただけなのだから、当たり前なのかもしれないが。
「君の一番の長所は変幻自在なペルソナでも、ここ一番での度胸でもない。仲間との絆だ。だから、削がせてもらった」
女性としては並み程度の小さな体が震え、より一層小さく見える。まるで過ちを犯した幼子のようだ。なんだ、子供のままなのはお互い様じゃないか。
「構えろ。まだ終わってはいないだろう」
「う、うぅ……」
「……世話の焼ける」
霞み始めた瞳を見開いて前へ歩く。やりすぎなのも分かっている。彼女が僕の都合に付き合う義理が無いのも重々承知だ。
「なら、どうする?傷は治してやったにしても、あいつらはまだ起きないぞ。君は一人だ」
重い足も、握力の無くなりかけた腕も、飛んでいきそうな意識を奮い立たせて平然を装う。
「何を諦めている、有里。君はまだ動けるだろう。まだ、生きていられるんだろう!だったら理不尽には死んでも抗え!それが出来ないなら……、もう休め。僕ごときに折られる心で、ニュクスに立ち向かえる道理がない」
「やめて……。それ以上は、言わないで!」
「後は僕の方でどうにかしてみよう。君は尻尾撒いて帰って、部屋の片隅で満足するまで泣きわめくといい」
「やめてよ!」
「気に病む必要はない。見誤ったのは僕だ。勝手に期待なんてして、悪かった。僕との約束は、さぞや重かっただろう」
「あ、ああ、あああっ!」
消え行ってしまいそうな少女を前に、言葉の刃を振り翳す。これはエゴ。有里美奈子は弱さを捨てられない。それすらも絆としてしまうからだ。生身で修羅の道行など、正気の沙汰じゃない。まず間違いなく道半ばにして折れてしまうだろう。その時、打ちひしがれてしまい、絶望で前に進めなくなってしまった時、きっと今日の経験は役に立ってくれるはずだ。
「君は……」
「やめてってばぁっ!」
狂乱に囚われ、有里は薙刀を乱雑に振るう。絆の棄却。それだけは阻止しなければと本能で悟ったのだろう。
「……やれば、出来るじゃあないか」
胴を綺麗に貫いた凶刃を一睨みしてから、鼻をふんと鳴らしてみせる。
「あ、ちが、これは……っ!ああ、嘘っ!」
「漸く、人間らしくなったな」
無理やり薙刀を抜き取ると、血は結晶となり即座に傷口を塞いでいく。この体はもうすぐ死ぬだろうが、それまでは死ねない。意識さえあれば大抵の傷は修復される。逆に言えば、時間が来れば……。
「誰かの為に生きるのは、自分を殺しているのと同義だ。手放したくなかったんだろう?絆を壊したくなかったんだろう?なら、問題ない。君は、もう少し我が儘に生きていいんだ。人間なんだから、人間らしく欲張って生きていいんだよ」
崩壊が始まる。何もかもを懸けた代償を、時間が容赦なく取りたてていく。
「ふん。まあ、少しは良い顔になったか。まったく、手のかかる後輩だったよ、君は」
「……すいません。ちょっとだけ見失って、分からなくなってしまいました」
伝う涙をそのままに、空虚だった目に光が戻った。
「きっちり決着といきたいとこだったけど、残念ながら時間切れだ」
全身が一気に軽くなる。中身が無くなったんだろう。さっきまで当たり前のように感じていた肌寒さも、もう感じられない。
「仕方がないから、大負けに負けて、引き分けにしておいてやる」
「……はい!」
「悔しかったら、世界の一つでも救ってみせろ」
「はい……っ!分かりました。分かりました、からっ!」
闇が落ちた。瞳は二度と光を映すことは無い。不意に重さを失った右腕のせいで、バランスが崩れる。もしかしたら、崩れ落ちてしまったのか。駄目だ。平衡感覚も無い。唯一残った聴覚が、有里の荒い息遣いとすすり泣く声を捉えている。
「休んでください、先輩。私たちはもう、大丈夫です。先輩と引き分けたんですよ。ニュクスなんか目じゃありません。へっちゃらですって」
応えなければと思ってみても、口は動かない。暗い、暗い、ひたすらに暗い闇の中で、遠い日の記憶を垣間見る。それは、陽だまりの記憶。
「……ああ、思い出した。幼い僕は、この気持ちが、欲しかったから……」
その独白が上手く言葉になっていたのかは定かじゃない。喋ったつもりになっているだけである可能性の方が大きいだろう。
「みんなに、伝わってるといいなぁ……」
暗闇の中でも損なわれることない光。誰かを救えた喜びが、あの陽だまりそっくりだったから、僕は……。
「お疲れ様でした。本当に、本当に、ありがとうございました。ねえ、先輩。私、これから頑張りますから。貴方のこと、ずっと忘れません」
憎たらしいほど透き通った夜空の元で、僕らの旅路は終わりを告げた。
次回、エピローグです。