件の大型シャドウから早数日。と言ってもその数日間に何もなかったかと問われれば、断じて否だと言わせてもらおう。これからに向けておおよその指針を話し合い、武具の手入れを丁寧に行い、鍛錬も欠かさずに行っている。更に更に勉学も現状をキープするために欠かせないし、例の寮と『タルタロス』を見張って動向に探りも入れている。まさしく疲労困憊である。普段から貼り付けている笑顔が時折引き攣るほどに多忙な日々だった。
「だから、睡眠時間くらいはゆっくりさせてほしいと思う訳だよ、僕は」
散々垂れた能書きをぶつける相手は、もちろんエリザベスだ。不思議な人だとは思っていたけれど、まさか夢を見るようにこの部屋に拉致されるとは思いもしなかった。
「申し訳ございません。しかし、物語は大きく動き出した御様子。となれば、お供させて頂く身の私めとしても、いてもたってもいられないと思たちまして」
「普通に会いに来いと言ってるんだ、普通に」
僕の言葉を聞いて、本気でそれは盲点だったという顔をする。人の事をとやかく言えるような育ちはしていないけれど、彼女も相当に特殊だ。もしくは底抜けの天然という可能性もあるが。
「本日、お招きいたしましたのは私共の主がハル様に興味を持たれたようでして。双方、一度言葉を交わす場をと思った次第でございます」
「主、ねえ……」
エリザベスが主と呼ぶ存在。人間と同じステージにいないであろう彼女の更に上。興味も大いにあるのだが、それ以上に恐怖が大きい。そもそもエリザベス自体、僕一人では太刀打ちできないほどに強いのだ。命がけなら一矢報いれない事もないと思いたい、それくらいの隔たりが彼女と僕の間にはある。
「御心配は無用です。これはハル様の物語。私共はそれに寄りそい、見届けるのが役目。害するような真似は決していたしません」
「そうか……。なら頼んでいいかな」
「畏まりました。少々お待ちを」
五月雨風に言うのなら、采は投げられたのだ。この期に及んで怖気づくなど有り得ない。
「お待たせいたしました」
『ベルベットルーム』と言うらしいこの場所に時間の概念があるのか定かではないが、一分と経たずに再びエリザベスの声が耳に届いた。
「お会いできて光栄でございますな、お客人。私はイゴール。以後、お見知りおきを」
気が付いたら正面にあった繊細な装飾を施された椅子に、鼻の長い老人が座っていた。いかにも怪しげな外見とは裏腹に、その声は実に心に平静をもたらしてくれる。なるほど、確かにエリザベスの主だ。奥底まで観察されているのを理解していても全く怒る気にはなれないのは、その行為が敵意や害意じゃなくて好意から来ていると伝わってくるからだろう。
「いやはや、御見それしました。私も多くのお客様を見てきましたが、その中でも貴方は飛び切り数奇な運命を持っていらっしゃるようだ」
大きな目を更にぎょろつかせて微笑みかけてくるイゴール。初めて見たって、それはそうだろう。僕のような存在がたくさんいたりするのならば、そんな世界が存続できるとは思えない。
「初めまして、イゴール。日向春一だ」
「ええ。存じておりますとも。貴方は自らの内に世界を創られた稀有な旅人。まずは鍵をお渡ししましょう」
ふわりと何処からともなく青く発光する鍵が現れ、こちらに向かって浮遊してくる。
「これで、この部屋の貴方は正式な客人となりました。以前のように偶然迷い込むのではなく、自らの意思でこの場所を訪れる事が出来る」
眼前で漂う鍵に軽く触れると、ひときわ強く発光した後最初から幻だったように消えてなくなる。
「尤も、あまりお力になる事は出来ないでしょうが……。道が多岐に別れ、定まらない時はここを訪れるとよろしい。歓迎いたしますぞ」
そう言うと、イゴールは手に持っていたタロットカードよどみない仕草で切り、テーブルの上に並べていく。
「占いは信じますかな?」
その問いに対して、軽く微笑みを作り肯定の意を示す。目の前で愉快そうに笑っている老人が本当に当たる占いをするのならば、結果は見えているから。
「お見事でございます。その結果がどうあれ、貴方の旅路は終点まで続きますでしょう」
「当然」
自慢するように胸を張ると同時に、ぼんやりとした感覚が全身に広がっていく。どうやら今日はここまでのようだ。
「またのお越しを、心待ちにしております」
パタリと青いドアが閉じられ、再び目を開ければすでに朝日が窓から差し込んでいた。小鳥の囀りに、静謐な朝の空気が心地いい。だが、そんな事よりも僕の心を占める感情はただ一つ。
「結局、休めなかったじゃないか……」
その日一日、僕はぐっすり寝たはずなのに寝不足という不思議な体験をすることとなったのだった。
○○○
大きな運命が動き出した、とイゴールは言っていた。あのシャドウを、ひいては桐条を巻き込んだ流れならば、当然のように僕たちも渦中にいるのだろう。そう覚悟はしていたものの、これは些か想定外の事態だ。
「これは一体何のつもりでしょうか、生徒会長。僕が衆目を集めるのを良しとしていない事、気が付いていたはずだと思っていましたが」
ギャラリーが小声で呟く邪推と、桐条美鶴の無神経さが僕のストレスを加速させていく。更に付け加えるなら、本気で善意から行動しているのだから性質が悪い。
「すまないとは思っているよ。私の見通しが甘かったと言わざるを得んな、これは。だが先生方の強い要望とあっては無碍することも出来ないんだ」
そう言って机の上に置かれた書類には、見覚えがあった。なるほど、これは完全に僕の落ち度だ。もう少し立場を鑑みておけばこの事態は避けられたのだろう。とはいえ、後悔するのは後回し。今は一刻も早くこの場を離れなくてはならない。
「とりあえず場所を変えよう。軽々しく話すような内容でもないだろう」
「それもそうか……。申し訳ない。どうやら思慮が足りなかったようだ」
「……場所は屋上でいいだろう。あそこなら盗み聞きの心配もない」
淡々と言い放つと、間髪入れずに席を立つ。好奇の視線は嫌いだ。見世物のように僕を取り囲むそれらは、あの研究所で悪鬼の所業を尽くした研究員どもを思い出すから。
「先に行く」
一切振り返らずに扉を開くと、興味津々で窺っていた野次馬が顔を逸らしながら道を空ける。気分が重い。思わず髪をくしゃっと掴むと、それだけで軽い悲鳴が起きた。自覚は無いうちに、余程剣呑な雰囲気を作り出してしまっていたようだ。僅かに冷えた頭で、人垣に押しつぶされながらも心配そうに手を振る平賀に軽く手を振りかえし、足早にその場を後にした。
「落ち着け」
脳内では口やかましく交代しろと叫ぶ声と諌める声が鳴り響く度に、脳内で鐘が鳴り響いていると錯覚してしまいそうになるほど大音量で、軽い頭痛を引き起こす。
「怒ってないさ。意表は突かれたけど、それだけだ」
そもそも、僕らの目的は過去の桐条であって、桐条美鶴ではない。過程で敵対することが分かり切っているだけの障害に過ぎないの。僕にとって打ち砕くべきは、過去。どれだけ前に進もうとも僕の心に影を落とす楔、それを消し去る事がゴールなのだ。
「仕方ない、か。三日月、少し寝かせておいてくれ」
屋上に出た僕は、そう遠くない距離を着いてくる桐条美鶴を察知する最終手段を取る。今頃、『家』では二葉がボコボコにされているのだろう。僕のために怒ってくれているのは分かる。分かるのだが、流石に頭痛でぼろを出したなどと笑えない状況は避けたいのだ。
「この場所で話をするのは二度目だな」
廊下へと通じるドアが閉まるか閉まらないかくらいのタイミングで、彼女は屋上に辿りついた。
「まずは謝罪させてもらいたい。私の浅慮で君の気分を害してしまった」
「その必要はないよ」
カツカツと靴の音を鳴らして近づき、手を差し出す。
「先生方はなんて言ってた。書き直しを御所望かな?」
「あ、ああ。出来れば進学を、と言っていたが、それに左右される必要はないぞ」
手渡されたそれは、進路調査票。どうせそれまで生きていないのだからと、未定なんて書かなければよかった。そうすれば今日の騒動を未然に回避できただろうに。
「しかし、君がそれに未定と書いているとは思わなかった。以前ここで言葉を交わした時、明確な目的意識を感じたんだが……」
「目的がはっきりしていても、手段が分からない事もあるだろう」
親指と人差し指で進路調査票をつまみあげると、テンプレートに刻まれた文字列を実につまらなそうに眺める。無駄。この一言に尽きる。覆せない前提として、僕には教師の吹聴する明るい未来など来ないのだから。
「了解した。とりあえずは身の丈に合った大学への進学を希望する、とでもしておこうか。それが一番波風立てずに済む」
「……君は存外不真面目なのだな。いや、悪い意味ではなくて、その……意外だった。模範生と皆から慕われている。そういう認識だったものでね」
「僕は平穏が好きなんだ。付かず離れずの良い距離感を保ったまま過ごすには、模範生という殻が最適だったってだけ」
取り繕ったような平穏だったけれど、僕はそんな日常が割と好きだった。ただ流れていく時間は心地良いし、心配性な平賀をおちょくるのも楽しかった。けれど、昔のように心の底から笑えたことは一度も無い。
「話がそれだけなら、もう行ってくれると助かる。いたずらに噂の種をまき散らすこともないだろう」
「それが賢明か……。ならせめて、私が先に降りて人を散らしておこう。迷惑をかけたお詫びに、それくらいはさせてくれ」
無言で頷き肯定の意を示すと、定位置に行き空を見上げた。そうして、背後でバタンとドアの閉じる音を確認するとゆっくり瞼を閉じた。
・・・
「…………」
現在、影時間のまっただ中でシャドウと言う化物の徘徊する『タルタロス』を探索している最中。とても危険で、気を抜いたりしたら大怪我する。そんなことはよく分かっているのだけれど、今日の昼間の一件が私を上の空にさせてしまう。
「…………」
通りかかったのは偶然だった。早く学校に慣れようとして校舎を徘徊していた時、三年生のある教室に人だかりができているのを見つけたのだ。と、くれば見に行かずにはいられない。野次馬根性というか好奇心というか、ともかくその行いのせいで、私は期せずして日向先輩の剥がれかけた仮面の奥を垣間見てしまったのだ。
「はあ、自己嫌悪」
面白半分で勝手に見に行って勝手に怖がって、剰え軽い悲鳴を漏らしてしまう始末。猛省したとはいえ、私の罪悪感を解消するために謝るのも筋違いだと思う。
「本当に大丈夫なの?あんた、さっきからため息ばっかついてるわよ」
「うう。ゆかりちゃんの優しさが身に染みる」
気を利かせて、今日の探索はもうお開きにしようと提案してくれたのも彼女だ。危なっかしくて見ていられない、なんて最後に言われたのは思い返せばもう随分と昔のこと。十年前の事故で両親を失った私は、日向先輩のその目をよく知っていた。虚ろでガラス玉のような瞳。どうしようもなく辛い時に、心が壊れてしまわないようにと自衛する為の空っぽな瞳。でも、何故。自問してみても分からない。多くの人が交差するこの街で、どうしようもなくあの人は孤独だ。誰も手を差し伸べないのか、それとも差し伸べられたを手自らの意思で振り切っているのか、分からない。かと言って、本人に改めてみる勇気もない。そして、自己嫌悪へと戻る思考のループが完成してしまう。
「なーにそんなに悩んでんのよ、有里。俺で良ければ相談に乗るぜえ」
「順平は引っ込んでなさいっての。余計ややこしくなるでしょ」
「ひ、ひでー。ゆかりっちってば俺の事そんな風に思ってたのかよ……」
何日か前に寮のメンバーに加わった順平。偶然にも私たちと同じ適正を持っていたらしくて、今は怪我した真田先輩とサポートに回った桐条先輩を除いた三人でチームを組んで『タルタロス』の探索に当たっている。
「悩みっていうか、考え事なんだけどね」
入口の中央階段までたどり着き、安全が確保されてので緊張を解いて口を開く。
「実はね」
結局、何も解決しないのかも入れない。だけど、今の私には仲間がいるから。世界中の皆が笑えるだなんて思ってないけど、同じ苦しみを知ってるかもしれないあの人には、笑えるようになってほしいと、そう思った。
・・・
私たちの中でも直感に優れる六道がハル兄さんの巧妙なやせ我慢を看過したのは、僥倖だった。千鳥ほどとはいかなくとも生命に関する事柄は、本来ならば私が最も神経を張り巡らせておかなければならなかったのだ。後悔はある。けれど、全てはやるべきことをやってから。ハル兄さんを休ませるという提案は一も二もなく可決され、通常時ならば変わっていて違和感の少ない私が代役を務める事となった。最も、まったくもって意味は無かったが。
「それじゃあ頼むで。他の奴が出てきたらアレやが、アンタなら、まあ心配ないやろ」
「当然だ。私が、敬愛する兄さんの面子を汚す真似をするなど有り得ないのだから」
黒いアンダーリムの眼鏡を指でくいっと上げ、憮然として言い放つ。
「話を戻そう。件の受取人、他の特徴はないのか?ガラの悪い輩など腐るほどいる」
「常に赤いロングコートとニットキャップ身に着けとるはずや。春先にそんな奴そうそうおらんから、十分な特徴になる。しかも、受け取り場所は神社」
「なるほど、分かりやすい」
茶色の紙で包装された小さな包みを受け取ると、手持ちのカバンへと放り込み再度ジンへと向き直る。まだ、こちらの要件が済んでいないのだ。
「先ほどの報酬とは別個に、調達してもらいたいものがある」
「何……?せやけど、アンタ戦えへんやろ。うちの千鳥と同じで専ら回復役だと思っとったが」
「何事も使い方次第、という訳だ」
千鳥と比べると完全に格下な力だけれど、それならそれでやりようはある。ペルソナ能力を覚醒した者達や、シャドウ相手の接近戦などからきし。だったら、そもそも近づかせない。それを突き詰めた結果として、かなりピーキーな戦い方になってしまったというだけの話。
「特別な物じゃない。私が欲しいのは植物の種だからな」
「種類は?」
「出来れば毒のあるヤツが良い。効果のほどは分からないが牽制にはなるだろう」
「なるほどな。アンタのペルソナ。確か穀物の神様やったか」
「私たちがあの反吐の出る研究所に何年いたと思っている。……生き残るためには、こういう小賢しい技も必要だった」
思い返せば返すほどに怒りと屈辱で理性がはちきれそうになる。口にするのも悍ましい実験の数々は弱い子供から順に命を奪い、生き残りはさらに過酷な拷問へと晒された。
「分かった。多少時間は貰うが、きっちり揃えたる」
「礼を言う」
軽く目を伏せそう言うと、どちらともなくその場を去る。下手に絡まれたり面倒事は避けたいからだ。眼鏡に髪型、声色、話し方、そして服装。個性を出来るだけ色濃く出して、まるで別人にしか見えないのだろうが、それだけ。体は一つしかないから、絡んできた不良を殴ればもちろん拳には傷が残ってしまう。それも私のせいで、だ。有り得ない。考えただけで気が遠くなりそうだ。
「さて、速やかに事を運ぶとしよう」
神社はそう遠くないが、何もせずに歩いていくとなると微妙に時間を持て余す。散歩を趣味に持っている六道ならばいざ知らず、私にとっては空白にしかならない。ふと、思い出したようにカバンの中身をまさぐると、案の定一冊の本が入っていた。童話を好んで読む三日月の私物だ。
「三日月。少し借りる」
どうぞ、と肯定の意を受け取ると、味気ない装丁の古書を開き文字を追う。私の好きな類の物語ではないけれど、これはこれで素晴らしい。道中の空白を埋めるには十分すぎる一冊だろう。
「…………」
そうして、指で捲ったページが百を超えたくらいで、何ら問題なく神社に着いたのだ。何ら問題もなく。
「ふう」
唐突に漏れ出したため息が神社の厳かな空気に溶けて消え、現実逃避を行いつつある頭は目の前の現実も、もしかしたら何かの本の一節ではないかと騒ぎ立てる。
「周囲に恐れられている不良が本当は動物大好き。あまりにテンプレート過ぎるな」
「なあっ!?」
ものすごい勢いで白い犬からパッと離れ、苦々しい表情でこちらを睨みつけてくる。赤いロングコートとニットキャップ。これの受取人に間違いないだろう。
「遠慮せずにもっと撫でてやったらどうだ。今更取り繕ったところで私の中の貴方のイメージは固まっているからな」
「……てめえ、何者だ?」
「言われなくても名乗る。仕事だからな」
近場にあったベンチの上にカバンを置き、それとなくしまってあった包みを見せつけると、目の前の彼は驚きで目を見開いた。
「こんなものを自発的に欲する輩はどんな狂人かと思ったが、存外まともな神経をしているみたいで驚いた」
「うるせえよ」
そう、ぶっきら棒に言い放つと、横をすり抜けベンチにある抑制剤を取りに動く。
「私は代理だ。これを渡せとしか言われていないが、問題ないか?」
「ああ。これだけありゃ暫くは持つ」
暫く持つ。その言葉の意味するところは言うまでもない。私と同じく、迫る死を緩慢にさせてまでやらなければならない何かがあるのだ。
「で、結局てめえは何者だ。『ストレガ』とか名乗ってた奴らは確か三人組だったはずだ」
「人に名を尋ねる時はまず自分からと習わなかったのか」
「あのな……」
「一度言ってみたかっただけだ」
これ見よがしに眼鏡を上げると、カバンの奥底に仕舞ってある名刺入れを取り出した。なかに入っている簡素な紙片には、複数所持している携帯電話のうち一つの番号と、必要に狩られて付けた私たち六人グループの名称が記載されている。その名も『ダイス』。言うまでもなく五月雨発案のネーミングだ。
「私は四季という。尤も、それを服用している以上短い付き合いになるだろうがね」
「……荒垣だ」
そしてまずは一つ、運命は捻じれ、絡まる。思惑など存在しなくとも大きな流れは残酷で、道は困難を極めて。どの道終着点にあるのは死だというのに、誘蛾灯に群がるように。誰も彼もが己の想いを引っ提げて、遥かなその場所を目指すのだ。譲れない何かのために。