柔らかい、仄かに温かい醤油餅を噛み切る。最初から醤油や砂糖が練り込まれたそれは、生姜の風味も存在しており、砂糖醤油をつけて焼く磯辺焼きとはまた違った味わいを見せる。
何やらあんこ入りのものもあるそうだし、大社の食堂にはそれが売られているのも確認した。今度はそっちも食べてみよう――と思いつつ、長久は醤油餅最後の一口を口に運ぶ。
「ちわーっす」
「あら白芥子くん。今日もいらっしゃい」
そのまま、長久はとある部屋へと入る。そこは資料室、と名付けられた部屋で、多くの蔵書が眠っている部屋だ。
しかし資料室、と大仰な名前こそ付けられているが、その実態は学校の図書室のようなものである。
大社の性質から資料などが多いのも事実だが、文庫本なども存在している。そのため、大社職員が休憩時間に読書に利用するようなこともあるようだった。
ちなみに無論、飲食禁止の部屋であり、長久が醤油餅を先ほど食べ終えたのもそれが理由になる。
「それじゃあいつも通り、適当に資料漁らせてもらいますね」
「どうぞー」
資料室の受付の職員に声をかけて、長久は奥へと進む。長久は研究部の一員として、こうして資料を探すことも多かった。
特に呪術系統はネット上の情報よりも、こうした古い書物の方がより情報が手に入りやすい。
古過ぎて現代式の呪術へのアップデートが必要な場合もあるが、そこはもはや手慣れたもの。何度かそうやってアップデート作業を繰り返していたら嫌でも慣れるのだ。
そこから数時間、長久は資料探しに時間を使う。本日は日曜日であり、若葉も友奈も共に何やら用事があるようで、珍しく鍛錬も何もない長久にとって暇な日だった。
基本的に、長久は趣味と言える趣味はない。元々は友人と遊ぶのが長久の余暇の過ごし方であり、鍛錬などは趣味と呼ぶには少し違う。
最近は食べ歩きなどは長久の趣味になっていたが、それも一週間か二週間に一度しか外出が許されない以上、気楽にはできない。
加えて長久は勇者に比べれば外出の条件は緩いため、あんまり出かけるのも申し訳なさがある。
だから暇潰しと勉強を兼ねて、長久はちょくちょくこの資料室に訪れていた。
けれどそれも本質は勉強。あまり長時間集中できるようなものでもない。
呪術やプログラム、そういった新たな知識を得ること自体は比較的楽しめる長久ではあったが、それでもずっと集中し続けることなどできはしない。
一度休憩をとるか、と長久は資料室の呪術関連の文献が存在する棚から離れ、資料室入り口の方へと戻っていく。
長久がいた場所は、資料室の中でも奥まった場所になる。あまり一般職員には需要がない本であるためだ。
それこそ長久のような研究でもしていなければ使うこともないそれ。故に人目につかない場所に置かれてしまうのは必然だった。
だからこそ、棚の前を数時間占拠する暴挙が許されたわけではあるが。
そんなことを思いながら長久が入り口の方へと戻ってくると、ちょうど見覚えがある少女が資料室に入ってくるのが見えて、思わず長久は声を漏らす。
「……お、伊予島」
「あれ、白芥子さん?」
珍しい、と長久と伊予島は互いに思った。
長久は資料を求めてよくここに来る。伊予島は小説好き故によくここに来る。
けれど長久は資料室の奥にいて。伊予島は手前の棚の文庫本を漁るために、二人が資料室で出会うのはこれが初めてだった。
えっと、と互いに戸惑う。
長久と伊予島は今まで二人だけで話す機会はなかった。それは単純に、長久の傍にはよく千景や若葉といった友人がいたのもあるし、伊予島の傍にはよく土居がいたのもある。
あとは何より、一番共通の話題がなかった、というのが大きかった。
「……あの、白芥子さんはよく資料室には来るんですか?」
「あー、まぁそこそこな。最近は鍛錬もあるし、目的の本の多くを読んじゃったから頻度は落ちてきてたけど」
探り探り。互いに距離感を測りつつ、何とか会話を繋げていく。
長久は友達と外で遊ぶタイプで、伊予島は一人で本を読むタイプ。
伊予島は可愛らしいものが好きで、長久は格好いいものが好き。
「伊予島は? 今まで見かけなかったけど、資料室にはよく来るのか?」
「私は……それなりに来る方だと思います。今まで白芥子さんを見なかったのが不思議なくらい」
けれど互いに、自分の趣味ではないものに理解がないわけではなく。自然と相手の好きなものを理解しようとできるタイプであるために、時間をかければ会話は自然なものになっていく。
「うーん……じゃああれかな、俺が奥の方にずっと籠ってるから、互いに気づかなかった、とか」
「あ、そうかもしれません。私はそこら辺……手前の方の棚によくいますし、借りたい本を見繕ったらすぐに借りて出ていってしまいますから」
「そこら辺っていうと……文庫本を取り揃えてる辺りか」
移動して、適当に長久は本を手に取る。長久は外で遊ぶのが好きだけれど、本を読むのが嫌いなわけではない。それは、自主的な勉強として資料を漁っていることからわかる。
「白芥子さんは奥の方にいるって言ってましたけど、そっちの方の棚は……古書とか資料、でしたっけ?」
「おう。研究に使うからな」
先ほどの長久のように、移動した伊予島が適当に一冊資料本を手に取る。伊予島は物語の世界に浸るのが好きだったが、知識を得るのが嫌いなわけではない。それは、日頃から色んなジャンルの本を漁っていることからわかる。
「そうだ、おすすめの小説とかってあるか?」
「あ、良ければ今度、呪術について教えてもらえませんか?」
だからお互い、その言葉は当然のように出てきて。
「……ははっ」
「……ふふっ」
気づけば二人は笑いあっていた。
「なんだ、もっと早くこうして話してればよかったな」
「ですね。白芥子さんはいつも何か努力してるイメージだったから、遠慮しちゃってました」
俺、そんなイメージあるか? と長久は肩を竦める。それに伊予島が苦笑で応じる。
そこにはもう、最初のような堅苦しさはない。
「あー、でも最近は意外と忙しいかも」
「若葉さんや友奈さんとよくトレーニングをしてますもんね」
実際、一週間のスケジュールを長久は整理してみる。平日は授業をやって、放課後は鍛錬。食後に研究の続きをして就寝。休日は鍛錬と、暇な時間に資料漁り。資料が十分であれば、研究に反映。外出許可が下りた日だけ外に遊びに行く。
そうやって自らの生活を振り返って長久はうむ、と声を漏らし。
「……あれ、俺の生活、遊びがなくない??」
「思っていたより、ストイックな生活を送ってたんですね……」
「ま、待て……ちゃんと娯楽はあるし……飯は楽しんでるし……」
伊予島に哀れみの目を向けられ、流石にいたたまれなくなって弁明するが、改善の兆しは見られない。流石にちょっとストイック過ぎたか、と長久はもう少し遊びを取り入れることを誓う。
「そしたらそれこそ、おすすめの小説教えてくれ。生活に読書の時間を組み込んでみる」
「うーん……ジャンルとか、希望ありますか?」
ジャンル、と長久は呟く。あまり長久は小説に興味を持ってこなかったために、そこら辺詳しくない。
厳密な分類が長久にはわからなかったが、とりあえず聞いたことがある範囲で興味がありそうなジャンルを言ってみることにする。
「ミステリー、とかか?」
「ミステリーですね。そしたら……」
長久が言ったことが間違っていなかったのか。それとも長久の大雑把なジャンル分けでも対応できる伊予島が凄いのか。
それは長久には判断がつかなかったが、とりあえずおすすめの小説を選んでくれるならいいだろう、と長久は深く考えないことにした。
「長久さんはあまり小説は読まないんですよね?」
「あまり、というかろくに読んだことないな。小学校の時の、読書の時間くらいか?」
「それでしたら、これと……あとこれなんかも……」
ざっと三冊。伊予島が棚から本を取り出す。その動きには迷いがなく、この周辺の棚に何の本がどの位置にしまわれているのか正しく把握しているようだった。
本当にこの資料室によく来てたんだな、なんて何とはなしに思いながら長久は差し出された本を受け取り、その三冊のタイトルを確認する。
「えーと、『京都なぞとき四季報』と『氷菓』、あとこれは……なんて読むんだ……?」
「『
そう言って伊予島が資料室入り口近くにある、机の辺りを指さす。確かに、いつものように他に人が来ない場所で話し続けるならともかく、小説のようなよく人が来る棚の前にいるのはマズいだろう。
長久は伊予島の意図を察し、二人隣り合って壁際の席へと座る。
「まず『京都なぞとき四季報』これはミステリーではあります。けれどそれは日常にある、小さな謎で……誰かが死んだ、とかそういうものではないです」
ふむ、と頷く。それから比較的ライトなミステリーものなのだろうか、と長久は問う。
「そうですね。一冊の中に五つのお話があり、それぞれが短いために読みやすいお話です。大学生の平凡な青年が、大学構内にある不思議なバーへと謎を持ち込み、カクテルを飲みながらバーのマスターと話し、謎を解く――と、そんな物語ですね。難点はついつい、登場するカクテルの味が気になってしまうことですかね」
それは困るな、と長久が苦笑し、困るんです、と伊予島がそれに答える。流石に二人とも、そう簡単に法を破ることはできない。特に、大社の庇護下にある今は。
とはいえそれはそれとして、長久は十分興味がわいたため、『京都なぞとき四季報』を借りる本に分類する。最近食に興味津々の長久には、飲料であるカクテルが関わってくる、というのが大きかった。
「次は『氷菓』ですね。これは『古典部』シリーズの一冊目であり、数年前にアニメ化もされた作品です」
なるほど、アニメ化。それならばまず面白くない、ということはないだろうし、比較的取っつきやすい作品なのだろうと長久は理解する。
「実写映画もやっていたりして、メディアミックスが活発な作品です。これも先ほど同様、日常の謎を解いていく物語で、また文章も高校生の一人称、ということもあって読みやすいと思いますよ。何分読んだのが大分前で少し曖昧ですが……内容としては、姉の勧めで古典部に入部した主人公が、ヒロインの好奇心に振り回されながら謎を解いていく、といったところでしょうか。『氷菓』では、主人公の所属することになった古典部自体の謎についてだったと思います」
読みやすさ、というのは大事だ。特に小説を読むことに慣れていない長久にとっては。それに加えて内容が面白そうならばなおよし。一般的な感性とやけにズレているわけでもなし、メディアミックス済みの作品なら間違いはないだろうと長久は先ほど同様、借りる本に分類した。
「最後は……これは、おすすめするか迷ったんですけど。『
それは、前二冊とは毛色の違う本だった。まず厚みが違う。先ほどの二冊合わせても、まだその小説の方が少し厚いほどだ。
加えて、表紙も白塗りの女性が描かれており、どちらかと言えばホラーの印象を受ける。
思わず長久がミステリー? と問いかければ、ミステリー、と伊予島からは返事が返ってきた。
「厳密に言えばホラーミステリー、ですね。だから長久さんの疑問もあながち間違ってはいません。舞台は昭和、神隠しもあるような、不可思議な地域。そこにある
手前二つと毛色が違う、というだけである程度興味がそそられていた長久であったが。しかし伊予島の言う微妙という言葉に首を傾げる。
「その、少し読むのが難しいと言いましょうか。他二つの作品よりも難解な言い回しがありますし、三つの視点から描かれるお話なので、しっかり頭で整理できないと読めないと思います」
確かにそれならば伊予島の言った微妙、というのにも納得がいく。初心者向けではないとなれば、今回選ばれるには不適切になるのだろう。
しかしだからこそ、伊予島がこうして選んだ理由が気になる。それ故、長久は解説の続きを伊予島に促す。
「ええと、まずホラーとミステリーが高いレベルで組み合わされています。そもそも『最後まで読まなければホラーなのかミステリなのかわからない小説は書けないだろうか』という考えのもと書かれたそうですし、恐怖を感じながらも、怖いもの見たさで読み進めれば待っているのは謎解きによる事件の真相……そこに、個人的には面白さがあるかと。そしてこの作品は怪異を扱っており、それは作者自身の民俗学の知識に基づいたものである、とされています。なので呪術を扱う白芥子さんにちょうどいいかと思いまして……。それに、日頃から古い資料まで読み解いている白芥子さんであれば、難しい文章でも読めるでしょうし」
ほうほう、と長久は頷きながらまた借りる本に『
そんなわけで結局。長久はおすすめ本を全て借りることにした。
「えっと、私がおすすめしたからと無理に読む必要はないんですよ?」
「無理にじゃないぞ。あれだけ一冊一冊について話せる、そんな人間が選ぶ本が面白くないわけがないと思ったから借りることにしたんだよ」
「そ、そう言われると照れますね……。読み終わったら是非、感想を聞かせてください長久さん」
「もちろん、いの一番に杏に言いに行くよ」
そして気づけば自然と互いに名前を呼ぶようになっていて。
長久は小説という新たな世界に触れることに。杏は読書仲間が増えるということに。
共に嬉しさを覚えながら資料室を後にするのだった。
今回挙げた小説は実際にある小説です。
『氷菓』なんかは知ってる人も多いだろうし、『京都なぞとき四季報』は読みやすいから手を出してみてもいいかもね。
……『
タイトルで察してくれ、面白いけど普通に読むの大変だぞ。
そんなわけで杏回。これでコミュ回も三人分、半分行ったね。