あるささやかな秋の午後、やわらかな霧雨が降っていて、そのうえ僕は彼女に恋をしていた。

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───執務室で共に過ごす全ての艦娘と提督に、心より愛を込めて


執務室より愛をこめて

 

 

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 たとえばこんな物件が売りに出ていたら僕はすぐさま買うと思う。四畳半くらいの広さで、すみのほうに至ってシンプルな一枚板のデスクがすえてある。壁は一面真っ白で模様ひとつない。床には線路の枕木みたいな材がしきつめられている。それらは念入りにワックスがけされていて、いつも鈍く熟れた光をたくわえている。わずかにアイリッシュの匂いがする。照明は天井の真ん中に白熱電球がひとつだけ。そして誰かが一日中マイルス・デイヴィスを流している。

 でもはっきりいって、どんなに理想を詰めていったところで、彼女がひとりいる部屋にはかなわない。好きなときに彼女の声が聞けるならジャズCDをかける必要はないし、彼女がいれば部屋は自然と明るい。会話に夢中になっていれば、壁紙を気にしている暇もない。そこでは熟した時間がゆっくりと過ぎてゆく。

 

 そして、それがこの部屋だ。

 

 

  ◆

 

 

 秘書に就いてからもう二年になります。

 えっ、まだまだ新米じゃないかって?ええ、確かに。でも二年といったら、産まれたての赤ちゃんがすっかり成長して、結果的に二歳になってしまうくらいの時間です(当たり前ですね)。彼らにしてみれば歯が生えはじめ、立てるようになって、早晩おしゃべりできるようになって────ずいぶんな月日です。

 とはいっても、いい大人である私が赤ちゃんのように劇的な成長をとげられるはずもなく、やはり恥ずかしながらまだまだ新米といったところです。ドジ(ですめばいいのですが……)だってよくやらかします。ある時は重要書類をみんな紅茶色に染め上げてしまいましたし(提督は愉快そうに笑っていましたが、ぜんぜん笑いごとではありません)、ついこの間も何もない所で派手に転んでしまいましたし……………いえ、そうですね、ネガティブなお話はよくありませんね。もちろんいいお話もあります。というのも実は私、先日練度が上限(一応ご説明しておくと、艤装内部値的には99だそうです。空母の場合は発着艦技能、回避技能、航空隊指揮技能などの習熟度を総合的に評価した値になります)に達しました。これは熟練の極みといったところであり、逆にいえばこれ以上は強くなれないということでもありますが、少なくとも私にとってはいいことのように思われます。なにしろ練度99に達した艦娘は海上で淡い光を帯びるのです。比喩ではなく、です。

 

 まあそれはともかく、そういうわけで今日まで私は司令長官秘書として精一杯尽力し、いつでも彼のお側に控えてきました。そして叶うことなら、これからもずっと────そう願ってやみません。

 

 

 

 

2

 

 

 雨ですね、と彼女が言った。ささやかな秋の午後だった。その時僕はちょうど最後の書類をファックスし終えたところで、今日の仕事はそれで全部だった。時計を見ると退庁時間の六時まではまだ余裕があるようだった。きわめて穏やかな時間帯だ。まるで閉館間際の図書館のように、時というものが無限に引きのばされてゆく。

 振り向いて窓を注意深く見ると、それはたしかに外側からしっとりと濡らされていた。霧雨が降っていた。

 

「私、雨って好きです」

 

「そう?」

 

 彼女は肯いた。

 

「なにしろ出かけるたびに降られるんです。物心ついた頃にはそれが普通なんだってすっかり思いこんじゃってたくらいです。最初のうちはたしかに嫌で仕方ありませんでしたけれど、今となってはお友達感覚ですね」そう言って苦く笑った。

 

「お友達」僕は反芻するようにつぶやいた。「『雨に唄えば』は観た?」

 

「あ、観ましたよ。ずいぶん前になりますけど………まさにあの映画に感化されたんですよね、たしか。雨と上手く付き合っていこうって────雨を嫌うんじゃなくて、雨の中で踊るくらいじゃなくちゃって」

 

 僕は彼女が雨の中舞い踊るところを想像してみようとしたけれど、僕の頭の中ではすでにジーン・ケリーが水をはねて踊り回っていて、それはなかなか難しいことだった。

 

「今ちょうど降ってるけどどうする?」

 

「いいですね。是非ご一緒に」

 

 彼女はいたずらっぽく微笑み、僕はもういちど窓の外を見た。

 

「遠慮しとくよ」

 

 そう言って僕は紅茶を一口すすった。彼女も一口飲んだ。

 

「でも僕も雨は好きだな。とくに傘の外も見えないくらいの土砂降りだったりすると、傘の中が自分だけの秘密基地みたいに思えてくるんだ。小さい頃の話だけどね。その移動式秘密基地の中でならこっそり飴をなめても、変な声で歌っても誰にもばれないって本気で思い込んでた」

 

「『あの家の子は雨の日に変な声で歌って回る』って噂になりそうですね」

 

「なったよ、もちろん」

 

 彼女はくすくすと笑った。

 

「でもすごくわかります、その気持ち。傘の中ってなぜかとてもほっとするんですよね」

 

 出撃時用に鉄製の防弾傘なんていうのもありかもしれない、と僕は思った。艦娘だからこそ実現する防御の形だ。鉄のカーテンみたいでなかなか洒落ているけれど、問題はその安心感と引き換えに荷物の総重量がほとんど倍になってしまう点にあった。そうなると脚の艤装の喫水線をまた引き直さなければならないし、回避能力も大幅に下がってしまうことになるだろう。この案は男のロマンに終わりそうだ。

 僕はまた紅茶をすすった。シトラスの香りが爽やかに鼻をぬけ、上品な後味を残していった。

 

「今日はアールグレイ?」

 

「はい、何となく今日はそんなお気分かと思って」

 

 そのとおりだった。

 彼女のいれたアールグレイはいつも通りすばらしく香り高く、どこの店の出すものよりも僕の心を落ち着かせた。ちょうど草原にふる霧雨がすべての生命をゆっくりとうるおしていくように、それは僕の心にたっぷりと時間をかけてしみわたっていった。僕は思わず熱いため息を漏らした。

 

「毎度すごいね。ありがとう、とても美味しいよ」

 

「ふふ、どういたしまして」

 

 

  ◆

 

 

「でも、どうしてこんなに美味しくいれられるんだろう?」と彼は言いました。

 

「そうですね……………秘密です」

 

 ここだけの話、この技術は私の秘書艦任命当初、私が金剛さんに頼み込んでお稽古をつけてもらったものです。もちろん提督には内緒で。思い返せば、あの時はずいぶんあわてていたものです。突然秘書に指名されて、彼のお役に立つために何がいちばん必要かということを必死で考えた結果、『お茶のいれかた』というところに行きついたわけですね(提督が紅茶派だということは訳あって知っていたのです)。まず胃袋を掴むべしとはよく言ったものですが、どうして理にかなっていますよね。彼の味覚を網羅してしまうというのは、秘書を解任される恐れを軽減する手段としてはもっとも手っ取り早く、そして効果的に見えるものでした。どういうわけかこの時私は解任されることをひどく恐れ、少しでも長く秘書でいるための方法ばかりを必死で考えていたのです。そのわけは未だによく分かりません。五航戦として何かしらプライドがあったのかもしれませんし、あるいは────。

 とにかくそういうわけで、これは彼の知らない私の過去のひとつになっています。いつか話してしまう日が来るのかどうか、それは私にもなんとも言えないところです。なにしろ白鳥のバタ足のようなお話ですし(とは言っても、白鳥ほど見事な泳ぎ姿を見せているわけでもないのですが)、しばらくは自分の胸の内にしまっておこうと思います。往々にして月というものは、その背後に多くの星を隠しているほうがはるかにきれいに見えるものなのです。

 

 お仕事が片付いてから退庁時間までのこの時間────たいてい数十分、長くても一時間くらい────は、私にとってとても大切な時間です。小麦を育てた土地には翌年はクローバーを植えてたっぷり休ませなければならないように、私たち艦娘にもそういった〈充電時間〉のようなものが必要不可欠なのです。ペンを置き、肩の力を抜き、とりとめのないことを話す────そういうささやかな時間が………。

 彼の声やひとつひとつの言葉は紅茶に溶け込むようにして、じんわりと私を内側からほぐしてくれます。二人のあいだでは沈黙さえ心地よくただよいます(少なくとも私はそう感じているのですが………彼のほうはどうなんでしょう。ちょっと不安になってきますね)。このやさしい距離感を、私たちは二年にわたり守り続けてきました。そう………守ってきたのです。

 

 カップの底が見えたころ、ちょうどねらいすましたように振り子時計が鳴りはじめました。重苦しく、時の残骸をひとつのこらずすり潰してゆくような音です。

 

「…………と、今日はここまでだな。お疲れさま」

 

 十八時、原則上の退庁時間です。すべての艦娘は自宅や寮へ帰り、鎮守府は眠るようにして暫時その機能を停止します。私たちも机の上を適度に整理し、執務室を出る支度にかかります。

 

「はい、お疲れさまです。時間内にノルマ分が片付いてほっとしました」

 

「うん。あ、このあと何か約束でもあった?」

 

「ああ、いえ!ただ……………ほら、余裕があるっていいことでしょう?」

 

「たしかにね。おかげでこうしてだらだらできるわけだし……………あ、そこ気をつけて」

 

「えっ?何もありませんけれど………」

 

 提督が指さしたのは執務室いっぱいに敷きつめられているワインレッドのカーペットの真ん中でした。

 

「君、二日前そこですっ転んだだろ」

 

「……………………………………もう、嫌いです」

 

「あはは、ごめんごめん。冗談だよ、悪かったって」

 

「じゃあ今夜は提督のおごりということで」

 

「ええ、勘弁してくれよ………というかごめん、今夜はちょっと予定が入ってるんだ。明日あたりなら」

 

「明日ですね。きっと空けておきます」

 

 

 

 

3

 

 

「つまりお前はあれだな」と天龍は言った。「今の距離感が心地よくて、そうやってだらしなくぬるま湯に浸りつづけてるわけだ。さらに厄介なことには、翔鶴のほうも同じときてる」

 

 カウンターには僕ら二人しか座っておらず、テーブル席にもくたびれたようなサラリーマンがちらほらいるだけだった。

 

「待ってくれよ、どうして翔鶴が出てくるんだ?これは僕自身の問題だ。それに彼女が本当に何を考えてるのかなんて誰にもわかったもんじゃない。彼女自身でもなければね。そうだろ?」

 

 天龍はぬるい麦酒を飲み干し、音を立ててジョッキーをカウンターに置いた。

 

「ぷはー……………あーあ、わかってねえ。全然わかっちゃいねえなお前は」

 

「『わかってない』」と僕は繰り返した。「いったい何がわかってないんだろう?」

 

「『わかってる』ってことがだよ。いいか、お前は心のどっかでちゃあんとわかってるんだ。あいつが何を考えてるのかも、今晩何グラムのパスタを茹でて食うつもりなのかも、布団に入って何を想像するのかも、全部な。そして何を望んでるのかもだ。だいたいあいつだってお前のこと────」

 

「天龍」

 

 お札でも貼り付けるように、僕は静かに言った。天龍はしばらく黙っていたが、「やれやれ」と言って次の麦酒を注文した。僕らは少し酔いすぎていた。正常な議論を成り立たせたいときは、少なくともアルコール分を一滴でも摂るべきではないのだ。

 

「僕がわかってることをわかってないってのはわかった。オーケー、そうかもしれない。でもわかってるからといって結局のところ、僕が覚悟を決められるかどうかっていうのとは全然べつの問題に思えるんだ」

 

「まあそれはな」と彼女は素っ気なく言った。

 

「ずいぶんあっさり認めるね。熱でもあるんじゃないか?」

 

「なあ、喧嘩ってのはそんな風に叩き売るようなもんでもねえぜ」

 

「冗談だってば、落ち着きなよ。ほら枝豆でも食べて」

 

 彼女は皿から一つつまんでさやごと食べた。僕の生きてきて見てきた限りでは他に類を見ないかなり特殊な食べ方ではあったが、彼女はそれで落ち着いたようだった。

 

「はあ………で、何の話だっけか?」

 

「ライプニッツの普遍学の、大陸合理論の流れにおける位置づけについて」と僕は真面目に答えた。

 

「なあ、だいぶ酔ってるだろお前」

 

 彼女に言われたくはなかった。冗談を飛ばしたくなることくらい誰にだってある。もちろん、そのクオリティはべつにして。

 話を戻す。

 

「だってそりゃあそうだろうよ。お前らが本気で一生仲良くぬるま湯に浸かってたいならお前は何もする必要はないし、誰も別に文句は言わねえ」

 

 僕はしばらく黙ったまま、机の木目を爪の先で数えていた。材の継ぎ目のところまでくるとジョッキーに手を戻し、口を開いた。

 

「でも君は言うだろ」

 

「文句は言わねえよ、本当さ」彼女は肩をすくめた。「だがケツは蹴っとばすかもな。『さっさと覚悟決めやがれ』ってな」

 

 ほとんど一緒じゃないか、と僕は思った。そしてどういうわけか自然と笑みがこぼれた。

 

「なんだ、気持ちわりいな」

 

「いや、なんだかさ。今日のところは僕のおごりでいいよ」

 

「は?マジかよ」

 

 彼女は店主から受けとった新たなジョッキーを左に置いた。僕は長財布から一万円札を二枚取り出し、塩のびんをおもりがわりにしてテーブルにのせた。

 

「どういう風の吹き回しだ、おい?」

 

「なんでもないよ、ただ」僕はコートを掴んで椅子を引いた。「ちょっと考え事をしなくちゃならなくなった」

 

 そして店を出た。戸を引く間際に振り返ると、ちょうど天龍が思い出したように皿に枝豆のさやを吐き出しているところだった。

 

 

 

 

4

 

 

 寮の部屋へ戻って窓の外を眺めると、すっかり雨は強まり、海は巨大なコンロにでもかけたように激しく波立っていました。はあ、と私はため息をつき、色々なことに思いをめぐらせてみました。明日の夜のこと、秋雨前線のこと────そして練度のこと。

 

 もちろん私にもわかっていなかったわけではありません。『練度上限』ということの意味するところが何であるか、流石の私でも知っています。知らない艦娘はほとんどいないと言っていいと思います。なにしろ全ての艦娘の憧れの的なのですからね。白状すれば、私にも少し期待していた時期がたしかにありました────そう、ケッコンカッコカリのことです。

 

 指輪の装備と書類一式へのサインによってその儀式は完了されます。指輪は大本営より直々に支給されるものという話ですが、その数量は一個だとも、いや十個だとも噂されています。とにかく数に限りがあることには間違いないようです。装備としての効果がどういったものなのかにもまた諸説あり、火力や耐久の強化とも、運気の上昇とも言われています。そしてだいたいにおいて、指輪を受け取ることになるのは提督が想いを寄せる艦娘です。つまるところ、これが多くの艦娘の憧憬を集める所以です。

 いっとき(ちょうど一年前くらいだったと思います)、私はいやしくも、あわよくばこんな私にもいつかその指輪なるものを提督から受け取る日が来るかもしれないと、淡い期待を抱いていました。提督に一途に想いを寄せる艦娘(実際に何人かいるという話は耳にしています)が一度はそうするように、まったくはかない希望に胸を焦がれていたわけです。

 

 いま、練度上限に達しているのはこの鎮守府では私だけです。そして私はまたいやおうなく期待させられてしまっていました。無理もありません。繰り返すようですが、練度上限というのはつまりそういうことなのです。

 指輪というものへの執着は艦娘にひとつ宿命づけられたものなのかもしれません。それはほんの小さな装備品にすぎないというのに────どういうわけか私たちの心を掴んで離さないのです。

 

 期待半分、諦め半分で、さっき彼を飲みにお誘いしたのは諦めのほうでした。またいつかのように二人で────仕事上の付き合いとしてお酒を酌み交わせば、きっと私は私の中で『提督』とその『秘書』であることを今一度確認し、納得することができるはず。とにかく指輪の憂いから解放されたかったのです。だいたい、練度が上限に達したら必ず支給するなんて決まりはありませんし、少なくとも誰か一人に渡さなければならないということもないのですから、思い悩むだけ損というもの。この優しい日々が続くのもそれはそれでいいことです。むしろ、私のほうから下手に指輪の話題なんか持ち出そうものなら次の日から気まずくなることはまず間違いないでしょう。今のこの日々を壊したくないという思いも、たしかに私の中にはあったのです。

 

 

  ◆

 

 

 彼女が今の練度に到達する三週間ほど前に、すでに指輪は大本営から一点支給されていた(二つ目以降を申請するには、ここでは省略するが、とにかく面倒な手続きが必要になる)。つまり僕はまる一ヶ月ほどこれを持て余しているということになる。────一ヶ月。

 指輪というものはひどく重い。物理的にも、そしてそれ自体がもつ儀式的な意味合いにおいてもだ。僕は送られてきたそれをはじめて手にした時、そのことを痛いほど思い知ることになった。

 

 考えてもみてほしい。こんなものをどんな顔をして渡せと言うのだろう?それも二年も共に働いてきた────言ってしまえばビジネスパートナーだ────そんな女性に?

 まず意匠がおかしい。機能に形状と名称がまったくと言っていいほど見合っていない。こういった能力強化程度のことはもっと気楽にすませられてしかるべきだ。言うなればそう………朝目を覚まして縁側へ出て、サンダルを足にひっかけ、庭のアサガオに水をやりに行く時くらいの気楽さがほしい。僕らはいちいち水をやるのに顔を赤らめたりはしないのだ。

 ネーミングセンスにも少なからず問題があると思う。ケッコンカッコカリ────たしかに海軍公認の仲を証明するものの名称としてはこの上なくキャッチーだけれど、これではもう何のための装備だかわからない。大本営は何を意図してこれを開発し名付けるに至ったのだろう?

 

 だいたい紛らわしいじゃないか、と僕は思った。

 

 窓の外に目をやった。半分の月が少しずつ海に溶けてゆき、水平線はふたたび新たな光を手に入れようとしていた。

 

 

 

 

5

 

 

 鳳翔さんのお店はいつも通り、ほどよく賑わっていました。ほどよく、というのがポイントです。店内は白熱電球の優しく暖かな光に充ち、油と煙草とエチルアルコールのにおいをそれぞれほのかに感じます。いつも通り、と言っても私自身来るのはずいぶん久しぶりなのですが、二人で足を運ぶのはさらに久々のことです。鳳翔さんは私たちを見るなり嬉しそうにカウンターから出てきて奥の掘りごたつへ通そうとしてくれましたが、私たちはカウンター席がいいと言って固辞しました。少なくとも私が固辞した理由としては、テーブル席だと向かい合わなければならず、照れ臭さや気恥しさ、その他諸々もあってついつい飲みすぎてしまうからです。そして彼も同じ理由だったのではないかと(今となっては)思えます。

 

「二人で来てくれるなんて、いつぶりかしらね」

 

 半年くらいかな、と提督は言いましたが、実際のところはたぶんもう一年くらいにはなると思います。だって、あの日もたしかこのカーディガンを羽織っていましたし、春よりはどこか寂しく、感傷的な匂いがあたりに充ちていたのを覚えていますから。でも、ずいぶん長いこと来ていなかったことには違いありません。提督が実績をあげてゆくにつれ出撃や細々とした書類仕事なんかも増え、秘書である私もゆっくりと外をぶらつくような暇があまり取れなくなってしまっていたのです(それで例の雑談の時間が唯一の癒しになっていたわけですね)。

 私たちは壁際の二席に陣取り、椅子に上着を着せて座ります。その一連の動作があまりにも懐かしく、あるいは体が覚えていたためか、私はそのままの流れでかつてのように「いつもの」と言いかけてしまい、あわてて口をふさぎました。提督のほうを見ると、彼もやはり喉のところまで出かかっていたのか、懐かしさや照れ臭さのにじんだ微妙な表情を見せていました。顔を見合わせた私たちは思わず苦笑いでしたが、次に鳳翔さんが口にした「いつものでいいですか?」という言葉に今度は拍子抜けしてしまいました。

 

 とにかく私は懐かしい気持ちで胸がいっぱいでした。すべてがあの日のままでした。カウンター・テーブルはほどよくくすんで暖かな手ざわりを残し、年季の入った厨房はあくまで清潔に保たれ、そして鳳翔さんは若々しさをひとかけらも取りこぼすことなくそこに立ち続けてきたようでした。ほどなくして二人分の麦酒が出てくるまで、私はなかばぼんやりとしてそれらの光景に目を奪われていました。

 麦酒はほどよく冷えていました。ほどよく。もうすっかり秋ですから、冷えすぎているのも考えものです。鳳翔さんが他のお客さんのもとへ去ってから(仕方のないことですが、この忙しい時間帯に私たちにだけ構っているというわけにもいかないのです)、私たちは何となくジョッキーを軽く触れあわせ、それから控えめに煽りました。しばらく沈黙が続いていましたが、私は辛抱たまらず口を開いて、なるべく冗談めかした風を装ってたずねました。

 

「何の乾杯だったんですか、今の?」

 

「僕にもよくわからない」彼は笑って言いました。

 

 もちろん、乾杯というのはしばしば、これといった祝いごとがなくても何気なく行われるものです。いつもなら────例えば先輩がたと飲んでいるときなら、私も特に気にすることなく次の注文へ移ることができたでしょう。でも、今日だけは別でした。思えば我ながら滑稽なものです。二人の関係の整理(彼との距離の再確認、とも言えるかもしれません)のために彼を連れてきておきながら、結局のところ自分の心の中にあるものが────つまり乾杯の理由についての見当が、彼の思っているものと同じだということを確認しないことには不安で仕方がないというのですから。

 

「でも一応心当たりはあるんだ」と彼は言いました。「君が同じことを考えていたとしたら嬉しいんだけど」

 

「せーので言ってみます?」

 

 彼はしばらく麦酒の泡のはじけていくのをぼんやりと眺めていました。

 

「いや、よそう。多分同じことを思ってる。何となくそう思うだけだけどね」

 

 私は少し考えて言いました。

 

「じゃあせめてもう一度だけ乾杯、どうですか?」

 

「いいね」

 

 そして私たちは少しだけ軽くなったジョッキーをふたたび突き合わせました。

 

「これからもよろしく」と提督が言い、「はい」と私は応えました。「こちらこそよろしくお願いします」

 

 少しにやけてしまっていたんじゃないかと、今でも度々思い出しては心配になります。まあ多分にやけていたと思いますが、無理もないことだろうとも思います。

 

 彼が私と同じことを考えているとき、その予感を得ることは気づけば私にとって、そう難しいことではなくなっていました。ある時は足音が、ある時は何気ないため息が、そしてある時は午後の振り子時計の音が、それを運んできてそっと私に耳うちしてくれるのです。

 二年という月日は文字通りあっという間に過ぎ去ってしまいました。光陰矢のごとし、ですね。濃密な時間ほど体感として短く感じられるものです。でも、ここで打ち明けてしまうなら、私はこの二年の間にあった数々の出来事を仔細に思い出すことがうまくできません。棚にびっしりと並んだ記憶を詰めたびんの中からひとつを選びとって開けてみても、だいたいにおいて明らかに中身が目減りしていたり、あるいは何かべつの均質な物質にすり替えられてあったりするわけです。それが脳の(あるいは人体の)基本的な機能のひとつの仕業であるということを知るのはずいぶんあとになりますが、当時の私にはそれはあまりにも残酷なことに思えて仕方ありませんでした。なぜならその作用は、ことに楽しかったことや、幸せだった記憶に目をつけ、真っ先にその手にかけてゆくからです。喪われてしまうからこそ飽かず求め、時間の価値というものを噛みしめることができるのだという見方ももちろんあるかもしれません。それでもやはり忘れてしまうというのはどこかやるせなく、寂しいものです。

 でも、この(いささかこぢんまりとした)歳月が私たちの心的な距離をぐいと縮めてくれたことも確かです。それはもう劇的なものです────そう、出会いたての頃のことを考えれば。自然の作用として記憶が色あせてしまったとはいえ、この二年間は幸せと楽しみと、そして少しばかりの甘酸っぱさを含んだ、本当に宝物のような時間です。戦いの苦しみや、使命の重圧をそっと中和してくれる優しい時間。それは私のこれまでの人生の中のどの二年間よりも素敵な二年間でした。

 

 ずいぶん脇道にそれてしまいましたね。話を戻しましょう。『いつもの』にはたしか鳳翔さん特製の唐揚げ(絶品です)も入っていて、それが運ばれてきました。当たり前ながら二人でこの唐揚げをつつくのもけっこう久しぶりのことですが、私たちは何も言わず半分に塩コショウ、もう半分にレモン果汁を垂らし、適当につまみ始めました。

 

「あの時のことを思い出そうとしてた」と提督は言いました。「たしか最初のあいさつをしに執務室へ入ってきたとたん、君は部屋の真ん中の何もない所でいきなりすっ転んだんだ。で、どういうわけかそれしか思い出せない」

 

 それは私にとっても指折りの苦い思い出でした。そういうことに限って鮮明に覚えているものです。転んだ瞬間身体じゅうから噴き出す冷や汗の感覚や、ボイラーみたいにほてり始める顔の熱さ、そしてその後着任のあいさつをする間じゅうずっと漂っていた微妙な気まずさに至るまで………そういうのって、思い出すだけで何だかむずむずしますよね。

 

「それ、忘れてもらうことってできます………?」

 

「厳しいね」

 

 たしかに今でも定期的にやりますし、忘れろというのも無茶な話だったかもしれません(もしかして、私がこける度に彼はあの日のことを思い出していたのでしょうか?)。

 彼の司令官としての着任自体、私よりほんの数日早かったくらいのものだったと聞きます。そんな彼があの数日後には私を秘書に指名していたわけですが、どうして私を選んだのかということについては頑なに教えてくれませんでした(まだこの段階では、ということですが)。まあそれはともかく、私たちは海軍歴的に見てもだいたい同じくらいと言っていいのですが、その割には彼は私に比べてほとんど新人らしいミスもしませんでしたし、仕事は常に手際よく(無茶はたまにやります)、もちろん何もないカーペットの平原で転んだりということもありませんでした。それでいて私に仕事が回ってこないというようなこともありません。彼はドジな秘書に仕事を割り振るのも巧みです。ただ当初問題になったのは、彼がかなりその…………シャイなほうだったということです。

 

「あの頃と言えば、提督だって私のことは言えないでしょう?」と私はできるだけ意地悪く笑って言いました。「朝廊下でたまたま会ったんだからそのまま一緒に執務室まで行けばいいのに、提督ったら────」

 

「よせ、わかった、僕の負けだ」と彼はあわてて言いました。「その話は自分でたまに思い出すぶんで間に合ってる」

 

 提督は顔を赤くしていました。こんな風に、思い返すだけで身もだえするような過去は誰しもが一つ二つ持っているものです。でも、それはそんなに悪くないことのようにも思われます。だって、こうして彼が可愛らしく赤くなるのを好きな時に眺めることができるのですから。

 

 

  ◆

 

 

 油断大敵だな、と僕は思った。彼女────翔鶴という艦娘は一見して、多くの人の目には、ともすれば様々な意味で不安定に映るかもしれないけれど、それは大きな誤りだ。たしかによく転ぶけれど、僕の言っているのはつまりもっとスピリチュアルな部分のことだ。これは今も変わらない。

 僕の作ってしまった借りは三十秒後、ひとつ残った唐揚げ(レモン味だった)を彼女にゆずるということできちんと支払われた。そういえば、以前は一個余ったりした時には僕らはどうしていたっけ?と僕は思った。というか、一個だけ余るなんてことがこれまでにあっただろうか?鳳翔のことだから、余程のこと────例えば何か身内の記念日とか────がなければ、気まぐれで唐揚げの個数を変えたりはしないはずだった。たとえ第四次オイルショックが起こったとしてもだ。

 僕は考えるのをやめた。だいいち僕にはもっと他に気にしなければならないことがあったし、それに翔鶴は唐揚げを一個多く食べることができた。彼女は上品に頬張りながら、春の午後みたいにやわらかな笑顔を見せている。世界は今日も順調にまわっているのだ。

 

 彼女が手を挙げて、鳳翔さん、と呼んだ。

 

「はいはい」

 

「甘めのウイスキーをホットでお願いします」と翔鶴は言った。「それから提督には────重めの白を」

 

 さらにフライド・ポテトを頼むと鳳翔は微笑んで肯き、グラスを温めながらワインを選びにかかった。

 

「専属のソムリエがついたみたいだ」と僕は言った。「その頼み方懐かしいな、よく覚えてるもんだ」

 

「ふふ、なんて言ったって白ワインですからね」

 

「最初は見栄を張って言っただけだったんだけどね」

 

「よく覚えてます」と彼女は言った。「『重めの白を』」

 

「ねえ、しつこいよ」と僕は笑って言った。「白の話はもうたくさんだ」

 

「じゃあ赤に替えてもらいます?」

 

「いや、いいよ」と僕は言った。「いま白ワイン以外を飲めば死ぬところだった」

 

 彼女はくすくすと笑った。

 

「それにしてもこのお店、本当に裏側がどうなってるのか気になりますよね」

 

「四次元ポケットでも持ってることにしないと辻褄が合わないな、いよいよ」

 

 居酒屋鳳翔はあらゆるものを取りそろえている。枝豆、ピスタチオ、スモークチーズからシュールストレミング(これまでに頼んだ客は僕の知る限り一人だけだ)に至るまでのおつまみはもちろんのこと、店主はあらゆる注文に応えてあらゆる料理をその場で作ってみせる。

 といった具合に、料理ならまあまだわかる。でもアルコール類の在庫のおそろしいまでの豊富さについてはちょっと説明がつかない。ウイスキーでもワインでも焼酎でも何でもある。カクテルも作るし、オン・ザ・ロックを頼めばもちろん目の前できちんと氷を丸く削って出してくれる。在庫だけでなく知識も豊富だ。いったい割烹着でシェイカーを振るうバーテンダーが日本にどれだけいるだろう?

 

 およそ二年前────僕が着任してからややもしないうちに、鳳翔は店を開きたいと言って辞表を出した。タイミングはかねてから自分で決めていたみたいで、僕が来たこととの関連性は別にないらしかった。

 

『きっといらしてくださいね』と彼女は僕に言った。

 

 僕はおそらくそれにはっきりとは返事をしなかった。というのもその頃の僕はまるっきりのシャイボーイで、秘書の翔鶴とさえもほとんど打ち解けていなかったくらいだったし、まして鳳翔などの他の艦娘とさし向かいでまともに話すのはほぼ不可能に近かったからだ。まったく、あの頃の艦隊がどうやって正常に機能を保っていたのか、正直なところ僕にもよくわからない。

 でもまあ、結局今ではこうして僕の行きつけの店のひとつにまでなっている。最初に足を運んだのはそう、たしか────。

 

「私がひっぱり出して来たんですよね」と彼女は言った。

 

「こんな話、一年前にもした気がする」

 

「そうでしたっけ?」と彼女はとぼけて見せた。「たしかあの頃は提督について結構いろんな噂が飛び交っていたんですけど、だいたい女性恐怖症説とゲイ説の二強でしたね」

 

「そんなの初めて聞いた」僕はびっくりして言った。

 

「安心してください、私は前者を推してましたから」

 

「ぜんぜん気休めにならない」

 

 フライドポテトが運ばれてきた。続いて二つのグラスがそっと置かれた。まるで預かっていた大切な手紙でも差し出すみたいに。

 僕らは今度はグラスを触れあわせなかった。代わりに軽く掲げてみせ、そしてそれぞれ口をつけた。

 

「何なら鳳翔に服やら靴やらも選んでほしいな」と僕は言った。「あと趣味のいい靴べらも」

 

「ふふ、私に選べるのはお酒くらいのものですよ」

 

 そんなわけはない、と僕は思った。そんなわけはないのだ。

 

「本当に美味しいですよ。鳳翔さんのセレクトはやっぱり絶妙です」と翔鶴が言った。

 

 それはその通りだった。実際のところ、新鮮な味わいがありながら、僕はこの銘柄を何年にもわたって飲み続けてきたんじゃないかという気すらした。

 

 僕をこの店へ引きずり出してきたのは翔鶴だった。業務に差し障りが出るレベルでぎくしゃくしていた僕らの(あるいは僕と艦娘たちの)関係を、彼女なりに何とかしようとあれこれ考えてくれた結果らしかった。もちろんその企みは成功し、少しずつではあるけれど僕らは打ち解けていった。一人の司令官とその秘書は、着実に業務効率を上げ始めた。

 なぜ当時の僕がそこまで人見知りだったのか、いま思い返しても実のところよくわからない。男子校同然の士官学校で四年やそこら過ごした青年がある日突然女性だらけの環境に放り込まれ、精神的に参ってしまうのはある話かもしれない。何の準備もなしに水風呂へ入って心不全を起こすようなものだ。でもまあ、たしかなことは何も言えないし、言うつもりもない。というのもそれは結局ごく短期的な症状に終わったし、ここで言いたいのはつまり、この居酒屋がすべての始まりだったということだけだからだ。

 

 

 

 

6

 

 

 すっかり熱くなってしまった僕らの頭を秋の夜風が気持ちよく冷やし、そしてそのまま山のほうへと流れていった。

 

「送るよ」

 

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 

 僕らは海岸を歩いていて、胸ほどのフェンス越しにすぐ砂浜がせまっているのが見えた。わずかな光の加減で、その光景はまるで冷戦時代の月面の写真のように見えた。でも本物の月は夜空の真ん中で、礼儀正しくこちらを見下ろし続けていた。そしてやはりそれは半分欠けていた。

 

「次はきっとおごります」と翔鶴が言った。

 

 彼女の少し後ろを歩きながら、ややあって僕は言った。

 

「楽しみにしとくよ」

 

 海から吹く風が彼女の髪をふわりと持ち上げた。

 

「日取りを決めておきませんか?」と彼女は言った。

 

「そうだね、念のために」

 

「はい、念のために」

 

 沈黙。

 

「ああ…………ごめん、いつ空いてるかは今ちょっとわからない。あとでメールするよ」

 

「了解です。…………きっとですよ?」

 

「居酒屋鳳翔の唐揚げに誓うよ」

 

 彼女はくすくす笑った。

 

 

  ◆

 

 

 さっきまでのおしゃべりが嘘みたいに、私は話すべき言葉をまた見失ってしまいました。この種類の沈黙は久しぶりでした。たかだか数メートル後ろを歩いているはずなのに、足音もたしかに聞こえているのに、彼との距離が途方もなく開いてしまったように感じるのです。霧の中にでも迷い込んでしまったような気分でした。

 私がまた彼を居酒屋へとひっぱり出したのは、最近彼の様子が少しおかしいというせいもありました。ひと月ほど前からのことです。寝不足が続いているようだったり、書類にミスがあったり(一般的に見ればごく些細なミスでしたが、普段の彼からは考えられないことでした)、そして時々放心したように考えごとにふけっていたり────そう、ちょうど今のように。

 様子が変ということなら、ひょっとすると私も人のことは言えないかもしれません。練度が上限に達してからというもの、物思いにふけったり、輪をかけて挙動不審になったりということも………なかったとは言いきれません。

 何かのはずみで、私たちの関係は逆戻りとまではいかないまでも、水面下で次第にほころび始めていました。そして各々、あの頃の自分たちに答えを求めていたのです。

 

 沈黙はなお続き、消灯時間を過ぎた空母寮の影は目前にせまっていました。

 

 

  ◆

 

 

 唯一灯されたままの寮玄関の明かりが、夜の闇に向かって光の粒子をまきちらしていた。その中で彼女はうつむいていた。言葉を探していたのかもしれない。しかしそれについてもたしかなことは言えない。

 

 やれやれ、と僕は思った。

 いつからこんなに鈍くなってしまったんだろう?

 

 あたりはひっそりとしていた。ここからは直接海を見ることができる。月明かりがささやかに足元を照らすそばで、僕らは海風と波の優しい音を聴くことができる。こんな状況でもなければ、何時間でもベンチに腰掛けて夜の行く末を見守りたいところだった。

  

「思い出したよ、あの時のこと」と僕は言った。

 

 彼女は少し驚いたような顔をしていたけれど、おそらく一番驚いていたのは僕だった。

 

「たしかいきなりすっ転んだ君に手を貸した。君は顔を真っ赤にして、目も少し潤んでた。手が少し震えて、心臓の音が聞こえてきそうなくらいだった。起き上がった君は何とか自己紹介をすませて、それで僕らはよろしくと言って握手した。これまでに誰ともしたことがないってくらいがちがちに固い握手だった」

 

 僕は右手を軽く握ったり開いたりした。そこにはたしかに、あの時の感覚を色鮮やかに呼び戻すことができた。

 

「君が僕を連れ出してくれたあの夜、ようやく理解した。君たちが何を望んでいるのか、僕がどうしていくべきなのかってことをね。仕事仲間として上手くやっていこうと思ったし、仕事以外では友達感覚でやっていければいいと思った」

 

「……私は」

 

「でもね」と僕は遮った。「はっきり言ってそんなのはただの誤魔化しにすぎなかった。それこそぬるま湯に浸かり続けるような毎日だった。だましだましやってきたにすぎないんだ、僕らは」

 

「……いいじゃないですか」と翔鶴は口を開いた。「だって、何もかも上手くいっていたはずです。ねえ、そうでしょう?少なくとも私には大切でかけがえのない日々でした。癒しでした。救いでした。だってこんなの初めてで────」

 

「僕もだよ、翔鶴」僕は言った。「この二年間、君のおかげで僕はずいぶん変わることができた。あるいは君もそうかもしれないな。いい時間だった。でもね、もう我慢の限界だ。そろそろ潮時なんだと思う」

 

「ま、待ってください!私、何か気にさわるようなことをしたんでしょうか?だとしたら何でも言ってください、私どんなことでもやってみせます、だって私はあなたの秘書なんですから……!そりゃあドジな所もありますけど、それもきっと頑張って────」

 

「結婚しよう、翔鶴」

 

「なんとかしま…………………………………………………………………………………………………………………………えっ?」

 

 彼女はその場で固まっていた。

 

「結婚しよう」と僕はもう一度言った。「いつからだろうって考えてたけど間違いないよ、やっぱり初めて会ったあの時だ。ほとんど一目惚れだったんだろうな。それから僕は君のことを知れば知るほど夢中になっていった。ずっと君が好きだった」

 

「あ………えっと…………」

 

 まだ混乱しているようだったけれど、僕の言葉を思い出し、そしてその意味をゆっくりと理解していくのが、彼女の表情からわかった。気づけば彼女は目に涙をため、今にも泣きだしそうな顔をしていた。

 

「私………っ…………私も……………!」

 

 いつかのように、また彼女は顔を真っ赤にしていた。

 歩み寄り、震える肩をそっと抱きしめると、彼女は堰を切ったように泣きはじめた。彼女の腕はしっかりと僕の背中にまわされ、彼女の涙が僕の胸元を熱くぬらしていた。

 

「私も……………好きです……………大好き………………!」

 

 はじめは絞り出すように、次第に訴えるように、彼女はそう言った。何かのたがが外れたみたいだった。

 僕は彼女の頭と腰にそっと手をまわし、それからまたしっかりと抱きしめた。腕の中の彼女はまるで羽が生えそろったばかりの小鳥みたいに、今にも壊れそうに繊細で、弱々しく、そしてこの世のどんなものよりも愛しく思えた。彼女が落ち着くまで、僕は彼女の背中をなだめ続けた。

 

「部下を泣かせるなんて上官失格だな」

 

「っ、そうですよ………私、秘書を解任されるのかと思って、それでほんとに………ほんとに…………ひっく」

 

「よしよし」

 

 彼女はまだ僕の胸に掴まっていた。僕は彼女の頭をできる限りそっと撫でた。ちょうど、幼い子供がやっと見つけたぬいぐるみを抱きしめてそうするみたいに。

 やがて彼女は顔を離した。美術品みたいに滑らかな指先は、繊細な手つきで僕のコートのえりをつまんだままだった。しばらくして、ぽつりぽつりと話し始めた。

 

「………というか、いきなり結婚って、何か色々飛ばしちゃってません?」と彼女は言った。

 

「『付き合ってください』のほうがよかった?」

 

「それは────」

 

 とん、と彼女は軽くもたれるようにして、こめかみのあたりを僕の胸に当てた。

 

「────もう、意地悪言わないでください」

 

 切なくなるくらいに、それは親密な動作だった。心臓の音を聴かれているような気がして、僕はだんだん恥ずかしくなってきた。つまり、僕も僕なりに緊張していたのだ。

 

「私が言うのもなんですけど」と彼女は言った。「私たちってもうほとんど、その…………付き合ってたような感じだったと思いませんか?はたから見れば」

 

「正直、ちょっとだけね」

 

「………でも私たちは付き合ってなんかいなかったんです。その距離感がすごく心地よかったから…………言い訳していたのかもしれませんね。想いを明かさずに、危険を冒さずに、このままの関係で居続けるために────甘えちゃってました、私」

 

「言い訳なら僕も負けないさ」と僕は言った。「僕もずいぶんごね続けてきたから」

 

 僕は苦笑いを浮かべた。固まりかけていた決意を揺るがされ、また一から真剣に考え直さなければならなくなった時のことを思い出した。

 でも、僕はこうして踏み出した。

 

「ねえ、提督」

 

「ん」

 

「このとおり、私にはちょっと鈍臭いところがありますし、時々少し要領が悪かったりもします。あと正直に言えば、結構嫉妬深いところもあるかもしれません。それでも────」

 

 彼女の目はしっかりと僕の目を見据えていた。

 

「────あなたを好きな気持ちは、あなたへの想いの強さだけは誰にも負けないって、これだけは自信を持って言えます」彼女は微笑んで言った。「提督、あなたのことが好きです。大好きです。こんな私でよければ、どうかあなたのお嫁さんにしてください」

 

 僕は言った。

 

「よろこんで」

 

 

  ◆

 

 

 私たちはもう一度しっかりと互いを抱きしめあいました。致死量とも思えるほどの幸福感を噛みしめるように────あるいは照れくささを紛らわすように。

 私はまた泣きだしそうになっていましたが、今度はなんとかこらえることができました。これ以上彼のコートを濡らすわけにもいきませんからね。

 

「そうだ、指輪」と彼は言いました。

 

「もうあるんですか?」

 

「そりゃあもちろん」

 

 彼は小さな丸みのある箱を取り出しました。ぱかりと開くともちろんそこにはまぶしすぎるくらいの指輪が入れられてあって、彼はそれを注意深くつまみました。

 

「どの指がいい?」

 

「もう、わかってるくせに」

 

「言わなくちゃわからないよ」

 

 こんな具合に、しばらくふざけ合っていました。これも今思えば照れ隠しのひとつだったのかもしれません。でも結局私は観念して言いました。

 

「じゃあ…………左手の薬指に」

 

 提督は私の左手に優しく手を添えて、注意深く指輪をはめてくれました。私はまた感極まり、必死で涙をこらえなければなりませんでした。愛する人から指輪を受け取る時ほど満ち足りた瞬間は、生きていて他にいくつもないように思います。

 

「こうなったからには一生離れられませんね」

 

「困ったな、それは」彼は冗談めかして笑いました。

 

 そしてどちらからともなく短いキスをしました。短くなってしまったのは私が不慣れだったからで────つまり、それが私の初めてだったのです。

 提督のほうは何となく上手いような気がしました。と言っても、私も全くの初心者なのでたしかなことはわからないんですけれど…………だいたいキスのやり方なんてみんなどこで覚えてくるんでしょう?少なくとも艦娘学校ではどの先生も、親しい同期や先輩たちでさえも教えてはくれませんでした。方法論も、あるいはキスがどんな心地のものなのかということも。

 

 もの足りない気持ちが、ひょっとすると表情に出ていたのかもしれません。彼は私の頬にそっと手を添えて、ささやくように言いました。また顔の熱くなるのを感じました。

 

「ゆっくり深呼吸して────そう。息は止めなくていい。大丈夫、好きなように動けばいいんだ」

 

 その声は私をひどくほっとさせました。

 そうして再び唇を触れ合わせました。おそるおそる、さぐり合うように────そしてやがては確かめ合うように。

 一度目が甘酸っぱかったとするなら、今回はミルクチョコレートのようにたっぷりと甘いものでした。とろけるように甘ったるく、じんわりと熱く、かつそれでいて軽快で、何よりドラマチックでした。

 私たちはまるで互いの身体の形を確かめ合うようにしきりに肩を抱き、腰を抱き、首元へ、時には頬へと手をすべらせました。つながっている、という感覚がそこにはたしかにありました。彼の口元から直に、彼の求めるリズムを感じとることができました。

 とけあうような心地よさに(まさしくそれはとけあうようなキスだったのです)溺れそうになりながらも、私は内心驚きを感じていました。好きな人と唇を重ねることがこんなにも素敵なことだったなんて、以前の私にはなにしろ想像もつかなかったのです。どうりで誰も教えてくれないわけです。だって、この感触を的確に言い表す言葉がこの世のどこにもないのですから。

 

 それからしばらく私は────私たちは夢中で互いの唇を求め合っていました。どれくらいの時間そうしていたかはわかりませんが、少なくとも私にはほんの数分くらいのことに感じられました。このまま夜が明けるまでこうしていたいとさえ思いましたが、残念ながら体力の限界というものもあります。

 ゆっくりと唇を離すと、自然に熱い息が漏れました。

 額と鼻の頭をそっとくっつけあい、私は言いました。

 

「────永遠に離しませんから」

 

 彼は微笑みました。

 

「頼むよ」

 

 ふたたび波の歌が聞こえてきました。月は傾きながらも、墨を垂らしたような海面に銀のコインを散りばめ続けていました。

 

 

 

 

7

 

 

「結婚した後にカッコカリだなんて、」と翔鶴は言った。「ちょっと変な感じがしますね」

 

 彼女はペンを置いてから、僕のデスクの縁に少し寄りかかるようにしてぼんやりと新たな指輪を眺めていた。それは彼女の指にはめられているものよりはいくぶんシンプルで、こざっぱりとした印象を与えた。

 僕はもういちど注意深く記入事項を確認し、書類の角をそろえた。

 

「普通に考えたら順番が逆かもね」

 

 僕は言った────しかし、やはり順序はこうでなければならなかったのだ。

 

「私がいただいてしまって良かったんでしょうか」と彼女は言った。

 

「君に持っててほしいんだよ」と僕は言った。「少しでも安全に君が帰ってこられるように。残念だけど、本物の結婚指輪にそういう機能はないからね」

 

「…………そんなことないです」

 

「?」

 

 彼女は目をつむり、左手の指輪を胸に押し当てて言った。

 

「そんなことないですよ。出撃の時はこの指輪をちらっと見るだけで────あなたのことを考えるだけで、何としてでも無事に戻らないと、って思えるんです。そうするとね、不思議といくらでも力が湧いてくるんです。本当ですよ?」

 

 そして嬉しそうに笑った。

 

「………そう」

 

 僕は言った。

 

 執務室は北欧の針葉樹林みたいにひんやりと静かだった。ときおり遠くで、寮暮らしの駆逐艦たちのはしゃぐ声が幻聴のように響いた。何となく明かりをつけないままにしていたせいで、この部屋は見かけ以上に針葉樹林らしかった。

 

「移動教室でみんないなくなった教室で、私たち二人だけ残っておしゃべりしてる気分ですね」と彼女は言った。

 

「わかるよ」僕は言った。「微妙に背徳感がある」

 

「ちょっとわくわくしますよね。体育の時間、校庭からみんなの楽しそうな声がするのを真っ暗な教室で一人聞いてみたり………」

 

「………授業さぼったことあるんだ?」

 

「ち、違いますよ」彼女は慌てて言った。「体育の途中───たぶんドッジボールだったと思いますけど───ケガしてしまって、保健室へ行って手当してもらったんです。そしたらまた校庭まで戻って参加するだけの時間がなくなってしまっていて仕方なく、みたいな感じです」

 

「転んだの?」

 

「ええ、すりむいちゃって」

 

「何も無いところで?」

 

「もう、本当に怒りますよ?」

 

「ごめん」と僕は真剣に言った。

 

「いえ、まあ、実際本当に何も無いところで転んだんですけど……」彼女はばつが悪そうにぼそぼそと言った。

 

「ごめん」僕はもう一度言った。

 

「提と……………あなたはその、さぼったことあるんですか?」

 

「危うく単位を落としかけるくらいね」僕は言った。「最初はその気はなかったんだけど、ある時同じ組の男にバイクで無理やり連れ出された。こいつはかなりの悪友だったよ────景色のいい海岸をいくつも知っていたけど、時々パチンコ屋なんかにも引きずり込まれたりして、あの時は本当に鼓膜が破れるかと思った」

 

「じゃあ、結構ワルだったんですね?」

 

「そこまでじゃなかったけど、少なくとも模範的な優等生って感じではなかったかな」

 

 言いながら、僕は彼女の『ワル』という表現にいささか切ない古臭さを感じずにはいられなかったのだけれど、黙っていることにした。

 

「ちなみに今は兵学校で教官をやってるみたいだ」

 

「海軍には入らなかったんですね」と彼女はびっくりしたように言った。

 

「どんな心境の変化があったのかはわからないけどね」

 

 彼女はしばらく宙を眺めていた。

 

「なんだかちょっと会ってみたくなってきました、その人に」

 

「正直あんまり会わせたくないな」と僕は苦笑いを浮かべた。「というか僕自身、最近ほとんど連絡もしてない気がするな………どうしてるんだろう?」

 

「いいことを思いつきました」と彼女は言った。「式に招待しましょう、その人。ねえ、いいでしょう?」

 

「本気?」

 

「もちろん本気です」

 

「やれやれ」と僕は笑った。

 

 挙式のプランニングはちょうど二人で推し進めているところだった。二人のことを二人のためだけに、二人で考えるというのはこれが初めてだったかもしれない。たぶん、これはとても重要なことだ。

 楽しいし面白いこともあるけれど、もちろん大変なことも多い。街に手頃な式場を見つけてある程度業者に丸投げすることもできたが、そうもいかなくなった。というのも────。

 

「それにしても、よく許可が降りたよね。上はどういうつもりなんだろう?」

 

「ふふ、いいアイデアだったでしょう」と彼女は得意げに微笑んだ。「鎮守府で結婚式……………きっと私たちにはこれが一番合ってます」

 

 鎮守府を式場に使うとなると、新たにいろいろなことを考えに入れなければならなくなる。なにしろ皇居よりも広いのだ。

 

「鎮守府を式に使ってる間、お隣の警備府から沖合に哨戒班を立ててくれるそうですよ」

 

「どんどん話が大げさになっていくね」

 

「………でも嫌じゃないでしょう?」彼女はいたずらっぽく笑った。

 

「まあね」と僕は言った。

 

 書類のファックスが終わった。電話機が原本を神経質そうにゆっくりと吐き出し、僕はそれらを手際よく封筒にすべりこませ、そっと机の中にしまった。

 

「これで一つクリア、ですね」

 

「とりあえずはね」

 

 ひと息つこうと言って、彼女はお茶を入れてくれた。その味はいつもと少しも変わらず、空中をさまよっていた僕の心をゆっくり地面へと引き戻してくれた。

 

「これから忙しくなりますね」

 

 彼女はしみじみと言った。

 

「嫌いじゃないだろ?」

 

「ふふっ、はい」

 

 彼女はティーカップを両手で包み込むように持って言った。

 

「考えるだけでわくわくします。結婚式に新婚旅行のことも考えないとですし、それから各所へのあいさつまわりも────」

 

「あいさつまわり」と僕は絶望的に言った。「一応聞くけど、それって君が僕の実家に来るって話………?」

 

「?」彼女は首を傾げた。「もちろん、はい」

 

「だよねえ」

 

「不安ですか?」

 

「まあ、あんまり楽しみではないかな」

 

「どうして?」

 

「第一に、実家にはもう何年も帰ってないし、それどころか兵学校二年の夏以来一切連絡をやっていないから。第二に、一家揃って────親父もお袋も弟も妹も、性格が僕とは真逆だから」

 

「真逆………」

 

 彼女はしばらく黙ってじっとティーカップを眺めたあとで、ゆっくりと口を開いた。

 

「ちょっと面白そうですね」

 

「君がそう言うってほうに千円賭けてた」僕はため息をついて言った。

 

「他には誰が賭けを?」と彼女は冗談っぽくたずねた。

 

「誰もいない。野口英世は出ていかないし、入ってもこない」

 

 彼女はまた少し考えて言った。

 

「…………じゃあ、これが賭けの報酬ということで」

 

「?」

 

 次の瞬間、僕の唇に熱いものが触れた。ふわりと風が立った後、目の前にはうつむいているせいで半分くらいが前髪で隠れている彼女の顔があった。彼女は耳まで真っ赤に染まっていた。僕は何が起こったのかをおおよそ理解した。

 

「紅茶味だ」と僕は言った。

 

 彼女はまだ照れているようだった。

 

「なかなかいきなりだったね」

 

「……………その、口実を………ですね」

 

「探してた?」

「……………」

 

 彼女は何も言わず、うんうんと肯いた。

 やれやれ、と僕は思った。まったく、どうしてこんなに可愛いんだ?

 彼女の見つけた口実ははっきり言ってしまえば不自然というか強引極まりないものだったし、タイミングもいささか急だった。驚かなかったと言えば嘘になる。でも、彼女の気持ちは理解できた気がした。

 

 僕は彼女のあごを少し持ち上げ、さっきよりも長めのキスをした。やはり紅茶の香りがしたけれど、彼女の唇はさらに熱くなっていた。

 

「口実なんかなくたって構わないと思うよ。どうしても欲しいって言うんなら、君の左手のそれが口実だ。夫婦なんだから、いつでもしたい時にすればいい。違うかい?」

 

 彼女はゆっくりと顔を上げて言った。

 

「……………私、所構わずしちゃうかもしれないですけど………それでもいいんですか」

 

「いいよ」と僕は言った。

 

「私、時々ものすごくしたくなっちゃう時があるんです。そういう時って本当に辛くて、我慢できなくて…………」

 

「僕にもそういう時はあるよ」

 

「それから、ハグも………したい時に………」

 

「今は大丈夫?」

 

「すごくしたいです」

 

 僕らはティーカップを置いて抱きしめあった。

 

「寒いのでこのまま話しませんか?」

 

「そうするとお茶が飲めない」

 

「いっそ今全部飲んじゃいましょう」

 

 僕らは紅茶をひと息に飲み干してしまってから、また抱きあった。僕が軽く机にもたれかかっていて、そこへ彼女が覆いかぶさるような格好になる。

 

「あと、その」さっきの話の続きだった。

 

「なに?」

 

「ちょっとディープなのとかも………やってみたかったり………」

 

 彼女はちらちらとこちらの様子をうかがうように言った。

 

「………………………………いいよ」

 

「ああっ、目をそらしましたね!」彼女は詰め寄るようにして言った。

 

「いや、だってね」と僕は言った。「そういうのってどうやればいいのかよく知らないし…………だいたいキス自体上手くできてたか不安なんだよ、君としたのが初めてだったから」

 

「え、私が初めてだったんですか?」彼女はいかにも意外、という風に言った。「あの夜した時すごく上手かったので、てっきり誰か別の人と経験があったのかと………」

 

「ないよ、ぜんぜん」

 

 そんな勘違いをされていたことには驚いたけれど、僕はとりあえず少しほっとすることができた。一応あれで上手くいっていたのだ。

 彼女の顔を見下ろすと、その口もとは少し笑っていた。

 

「なんでちょっと嬉しそうなの?」

 

「だってね」彼女は感慨深げに言った。「初めての人が両想いの相手で、さらにその人の初めての相手も自分だったなんて、すごく素敵だと思いませんか?」

 

「それはそうかもな」僕は肯いた。何ごとによらず、初めての体験というのはその人の人生において大きな意味を持つことになる。それは何かの基準みたいなものになって、僕らはことあるごとにそれをちらちらと振り返りながら生きていくことになるわけだ。────特に、それがファーストキスだったりした場合には。

 そしてそういう記憶が愛する人のことと共に刻まれるなら、それはたしかに素敵なことだし、この上なく幸せなことかもしれない。それは後からいくら金を積んだって手に入れられるものではないからだ。誰にも記憶を偽ることはできないし、時間はあまりにも早く過ぎてしまう。

 

「じゃあ、今夜練習しませんか」

 

「わかった、今夜ね────今夜?」

 

「やり方、ちゃんと調べておいてくださいね。私もできる限り準備しておきますから」

 

「待った、こっちは心の準備が────」

 

「なんですか?」

 

 彼女の腕に力が入るのを感じた。

 

「なんでもないです、今夜ですね」

 

 彼女の欲求に忠実な一面は、結婚して初めて見るようになった。それから、意外に押しの強いところも。

 

「えっと、元々何の話でしたっけ?」

 

「考えることが山積みだって話」

 

「ああ、そうでした」

 

 彼女は僕の目をじっと見て言った。

 

「────あとは、新婚生活のことも考えないとですね」

 

 僕らは二人で話し合って、僕の定年までは二人とも海軍に身を置き続けようということに決めた。たいていの人間は結婚を機に(特に士官と艦娘がくっついた場合には)海軍を出ていってしまうのだけれど(考えてみればそれが当然かもしれない)、僕らの場合は比較的にみて結婚が早かったし、何より提督とその秘書という関係でいられる時間も大切にしたかったのだ。

 

「家探しからになるのかな」と僕はつぶやいた。「何か要望はある?」

 

「私は雨風がしのげて、二人きりになれるならどんなだって構いませんよ」

 

「言うね」

 

 僕の住んでいた家でそのまま二人で暮らすということもできたけれど、それだと彼女にアウェー感を抱かせてしまいそうで何となく嫌だった。どうせなら二人で新しく、すべて一から始めたかったし、気兼ねなく暮らせるようにするには新しい住まいを見つけるほかなかった(そもそもその家は賃貸だった)。そういうわけで僕は今ある荷物をおおかた処分してしまうことに決め、少しずつ新しい家探しについて考えをめぐらせ始めていた。

 

「きっとまた二人で始められますよ。あの時みたいに────そうでしょう?」

 

「そうだね」と僕は言った。

 

 五分間、僕らは静かに抱きあっていた。五分間とは言ってもあくまで僕の体感だから、実際のところは二十分かもしれないしあるいはほんの三十秒かもしれない。この部屋では色々なものが寄ってたかって、僕の時間感覚を狂わせにかかっていた。

 

「そろそろ行かないと」

 

 僕は時計を見て言った。こなすべき用事はいくらでもあるのだ。

 

「傘、持ってきてないですよ」

 

「?」

 

 外を見ると、いつの間にか雨が降りはじめていた。窓はしっかりと濡らされていて、駆逐艦たちの声はなく、代わりにまるで突然思い出したように雨音が聴こえはじめていた。この特別な空間は時に音をも僕らから奪いとってしまう。

 

「止むまで待ちます?」

 

 僕はしばらく雨音に耳を傾け、そして口を開いた。

 

「いい天気じゃないか。行こう」

 

「はい」彼女は微笑んだ。

 

 

  ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

8

 

 

 ずいぶん久しぶりにこのノートを見つけたので、少し続きを書いてみようと思います。────そもそも何のために書き始めたんでしたっけ?

 実際のところ、書き始めた、といえるほどにはほとんど続きませんでしたし、このとおり今日の今日まで放ったらかしにしてしまっていたわけですが、たしか最初にこのノートを手にしたのは練度が上限に達したあたりだったと思います(私としたことが、書き込んだ日付をちゃんと記しておくべきでしたね)。でも、では何のために?と訊かれると答えに困ってしまいます。日記?雑記帳?あるいはただのメモみたいなもの?何にせよ、ここにはかつての私の思い出やら何やらがつたないながら書きつづってあります。恥ずかしかったり、照れくさかったりといった気持ちもありますが、一方で結構面白がりながら読み返している自分もいます(キスのシーンだけは今からでも消したいくらいですが)。そういう意味では、〈活字版アルバム〉みたいなものと言えるかもしれません。それにしたって、日付のないのはちょっと致命的ですね。

 

 とりあえず、近況報告から。

 結局あれから提督が定年を迎えるよりもずいぶん早く深海勢力との戦争が集結し、海軍組織の大部分が解体されました。最小限の防衛機能だけを残し、対深海棲艦対策を専門としていた部署が次々削ぎ落とされていった結果、海軍は濡れたトイプードルみたいに見る影もなくやせ細ってしまいました(海軍の存在意義と収入源の大部分が絶たれたわけですから、仕方のないことですね)。戦争は驚くほどあっけなくその幕を下ろしました。とはいえ、これも自然の流れだったのかもしれません。この国で戦争を終わらせたくなかったのは結局、一部の軍幹部と軍需工場のオーナーだけだったのです。

 一部を除き多くの士官や職員、艦娘が退職(事実上のリストラです)しました。違う形で軍の別部署に再就職することもできなくはありませんでしたが、多くは新しい人生を探しに出ることを選びました。そして、私たち二人も。

 

 私たちの最後の仕事は執務室を綺麗さっぱり片付け、私物の類を一切運び出してしまうことでした。この鎮守府は以降防衛基地のひとつとして使われ、一部の艦娘は引き続きそこに配属されることになっていました。

 長年過ごした部屋から何もかも運び出さなければならないというのはやっぱりどうしても寂しいものです。自分としてはかなり頑張っていたつもりだったのですが、いよいよ執務室に鍵をかけるという段になると堪えきれませんでした。

 彼は黙ってハンカチを差しのべてくれました。私は気持ちのおさまるまで涙をぬぐい、しばらく扉の前に立ち尽くしていました。彼は肩に手を置いていてくれましたが、結果的に私はそのおかげで余計に涙が止まらなくなってしまいました。

 ようやく落ち着き、私はハンカチを四つ折りにして言いました。

 

「ごめんなさい、洗って返します」

 

「タンスの一番上に入れといて」彼は笑って言いました。

 

 考えてみれば同じ家に帰るのですから、私としたことがおかしなことを言ったものです。一瞬だけ、ずいぶん昔に戻ったような気分でした。でも、懐かしいその感覚も何もかも、全部まとめてこの部屋に置いていかなければなりませんでした。

 

「何というか、寂しいですね。それに………」

 

「悲しい?」

 

「いいえ」私は首を左右に振りました。「悲しくはないんです。でも、何というか…………大切な家族を一人失ったような気持ちになります」

 

「大丈夫だよ」と彼は言いました。「別に取り壊されたりするわけじゃない。執務室はいつだってここにある。それで充分なんだよ、きっと」

 

 たぶん、彼の言うとおりでした。

 私たちは扉に向かってひとしきり敬礼し、執務室をあとにしました。

 

 

  ◆

 

 

「ったく、既婚者が他の女と二人で飲んでていいのかよ」と天龍は言った。「あーあー、嫁さんが泣いてるぜ」

 

「翔鶴がいいって言ったんだよ」

 

 僕はほどよく冷えた麦酒を煽って言った。

 

「はあ?」

 

「何なら一緒に来たいとまで言ってたけど、今日は元空母で集まって飲むことになってたらしい。よろしく伝えてって言ってたよ」

 

「ああ、そうですか……」

 

 彼女は微妙な表情を浮かべて枝豆をつまんだ。

 

「まあ、つまり、君なら安心ってことだよ」

 

「それは喜んでいいのか?」

 

「名誉なことさ」

 

「そうかよ」

 

 ぶっきらぼうに言って、彼女は麦酒をちびちびと飲んだ。

 彼女は海軍に残り続けることになった数少ない艦娘のうちの一人だった。優秀だから上から声がかかっていたし、彼女自身もそれを望んだ。彼女の成績はとくに群を抜いていて、誰にも疑問の余地はなかった。荒々しく見えて実直で几帳面だし、たしかにこれからの海軍になくてはならない人材なのだろうと思った。

 

「体に染み付いちまってんだ」と彼女は言った。「引き金の重みも、血の臭いも、何もかもな。今更どっかよそへ行って上手くやれるとは思えねえよ」

 

「同じ所に配属になるの?」

 

「そうらしいな」

 

「そいつはよかった」

 

「そうか?」

 

 僕は肯いた。「この街は当面安全だってことだ」

 

「まあ、攻めてくる輩がいるとは考えにくいけどな」

 

「平和にこしたことはないさ」

 

「違いねえ」

 

 彼女はまた枝豆をひとつ口の中へ放り投げた。

 

「今日はあんまり飲まないんだな」と僕は言った。

 

「ああ、ちょっとこの後用があってな。あんまり酔うと困る」

 

「用?」

 

 僕が首を傾げていると、彼女は一冊のノートを取り出した。

 

「それは?」

 

「翔鶴から預かったんだよ。何でも、執務室の秘書机の中に入れといてほしいんだと」

 

「………読んでみても?」

 

「俺はかまやしねえが、どうなっても知らねえぞ」

 

 彼女が言い終わる前に、僕はそのノートを開いていた。罪悪感はもちろんあったけれど、好奇心には勝てなかった。仮に何かまずいものを見てしまったとしても、その時は僕一人が死ぬまで黙っていればいい。

 それなりに覚悟して開いたわけだけれど、読んでいる最中の僕はどんな顔をしていただろう?笑っていたような気もするし、切なかったような気も、あるいはたまらなく恥ずかしかった気もする。結局僕は最後までしっかりと読んでしまった。そして理解した。

 

「どうなんだよ?」彼女はそわそわして言った。

 

「うん、そうだな」と僕は言った。「僕からもお願いするよ。きっと翔鶴の言うとおりにすべきだ」

 

「それはそうするけどよ」と彼女は言った。「なあ、そいつは俺が読んでも大丈夫か?」

 

 僕は少し考えた。

 

「どうだろう、今読むべきじゃないような気はするな」

 

「今?」

 

「そう」

 

 ぼくは微笑んで言った。

 

「ひょっとすると、次は君かもしれないからね」

 

 

  ◆

 

 

 これで私の秘書艦としてのお話はおしまいです。

 

 もしかするとこの部屋はもう執務室ではなくなっていて、この机は秘書艦用のものではなくなっているかもしれません。もちろんそういう日はいつか必ずやってくるんだと思います。それでも、もしあなたが秘書としてこの執務室へ今日はじめてやってきて、おそるおそる引き出しを開け、このノートを見つけてくれたのなら────それはきっと運命的なことです。

 このノートはお好きなように処分してください。古紙回収に出してしまっても、丸めて瓶に入れて海に流してしまっても、あるいはあなたが続きを書いてしまっても構いません。

 

 最後にひとつだけ────ここがあなたの第二の家のような場所になることを願っています。

 

 

 

 

 執務室へようこそ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(執務室より愛をこめて 終)



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