アフロディーテの右手にある赤薔薇が散ったかと思うと、空間を埋め尽くす花弁が、瞬達に押し寄せた。
強烈に甘く、意識の霞みそうな香りが、赤い花弁の渦とともに際限なく広がっていく。
走りながら声を張って呼んだ。
「瞬ーーーっ!」
そこから先、多くのことが一度に起こった。
俺の目にも、全てが見えたわけじゃない。
だから推測を含むが、恐らく最初に動いたのはダイダロスだ。
豪腕を振るうのが、かろうじて見えた。
衝撃波を伴う拳の一撃。
外した。衝撃波は、アフロディーテではなく、その手前に向かった。
激しく巻き上がった水煙と砂埃。
一気に視界が閉ざされる。
外してしまったのではない、あえて外したんだと気付いたのは、その中に突入してからだった。
視界が殺された中、反比例して聴覚が研ぎ澄まされる。同時に小宇宙を探った。
感じ取れる小宇宙で、最も強大なものはアフロディーテ。次いでダイダロスと瞬だ。意識的に、紫龍とジュネさんを優先順位から外した。今はアフロディーテに集中すべきだ。
ダイダロスと瞬の小宇宙が、突っ込んだ俺と反対方向に高速で遠ざかった。
あれは避けたというより、攻撃を受けた勢いを殺すために自ら後ろに飛んだというほうが相応しいだろう。それも苦し紛れと見た。
そうでなけりゃ、紫龍達まで巻き込んでふっ飛ばされるはずもない。
同時に意識から外していた紫龍の小宇宙が、無視できないほどに大きくなる。
だが、足りない。
受け止められず、紫龍達までも含めひとかたまりの団子状になって、アンドロメダ島の地面をえぐる鈍い地響き。
同時に、アフロディーテの小宇宙も動きを見せる。
追撃か。
判断した時点で、俺も攻撃態勢に入っている。
燃えろ、俺の小宇宙よ!
呼び覚ました小宇宙をさらに燃え上がらせながら、叫んだ。
「ペガサス流星拳ーーーーーっ!!」
■■■■■■
吹き飛ばす。
花弁も香りも毒も。
砂も埃も水も。
―――敵ごとまとめて全部。
その意図を持って振るった技は、たった一つだけを俺の目の前に残した。
ヘッドマスクはいずこかへ失せ、聖衣も各所が砕け、血を流しながらも、アフロディーテはまだ起き上がってきた。
小さく「馬鹿な、こんなことがありうるのか……」とつぶやき、未だ闘志の失せぬ目で俺をにらむ。
「……
「星矢だ」
耐えぬいたことに敬意を表して短く名乗った。
殺すつもりはなかったが、掛け値なしの本気に近い拳だった。
いくら、この島全体が吹き飛ばぬようにと加減をしていても、それはアフロディーテへの配慮じゃない。殺すつもりはなかったが、かといって手を抜いた覚えもなかった。事実、アフロディーテの十メートル四方はクレーター状にえぐれている。
「見事だ。ロイヤルデモンローズの毒を吸ったとは思えぬ威力よ」
揶揄じみた言葉だが、声音には感嘆の響きがある。
戦士が戦士に対して贈る賛辞だった。
しかし、言われてみれば、不思議だ。今の俺は防毒マスクなどつけてはいない。魔鈴さんに防毒効果のある仮面を借りたあの時とは違うんだ。
はて、なんで、毒が効いていないんだろう。それとも、実は効いてるんだろうか。不調の気配は今のところ感じないんだが、今から効いてくるのかもしれない。勝負は早めに決めないとな。
「殺すのは惜しい、と言いたいところだが、加減ができるほど余裕もない。デモンローズの陶酔におとなしく浸る気がないのであれば」
一拍、置かれた。
称賛すら浮かんでいた表情が消え、目の闘気だけが際立つ無表情になる。造作が美しいだけに、鬼気迫る迫力だ。
「死力を尽くしてでも、即座に葬らねばならん。君が真実、敵となる前にな。受けろ、黒バラの恐怖を! ピラニアンローズ!」
言い終わるやいなや、無数の黒薔薇が宙に舞った。
アフロディーテの小宇宙を凝縮したかのような鋭い刃だ。
その言の通り、命がけと言われても納得する激しい小宇宙に、花弁から咬み付かれる錯覚さえ浮かび、何を考えることもなく、思わず一歩下がってしまった。
この時点で、俺はアフロディーテに負けていた。
実力の問題じゃない。
気迫の違いだ。
俺は考えるべきだったのだ。アフロディーテが、どうしてこんな火を噴くように攻撃をしてきたのか。何をしようとしているのか。
ただ驚いて退いただけの俺の隙を、アフロディーテは見事に突いた。
アフロディーテの次の一手。
後手に回った、いや、完璧に出し抜かれた。
俺は防げなかったのだ。
「受けよ、ブラッディローズ!」
ダイダロスに向けられた必殺の一手を。
まずよぎったのは、「ぬかった!」という一言だった。
アフロディーテは最初から、俺と戦う気などなかった。
俺とまともにやりあうより、自分の任務を果たすほうを優先したのだ。
足止めとしてピラニアンローズを俺に、確殺するためのブラッディローズをダイダロスに。
戦力外扱いしていた俺達の認識を、脅威と改めた瞬間に、その判断。
冷静すぎんだろ。ふっ飛ばされた後ってのは、もうちょっと頭に血が登ってるもんだと思うがな。
なんで、俺のほうが焦らなきゃならんのだ。間違ってるだろ。この野郎。
口に出さず毒づきながらも、視界と動きを制限する周囲の黒薔薇を、小宇宙を高めて打ち払う。
無事でいろ、ダイダロス!
目の前がひらけ、ダイダロス達の無事を確認した時、ダイダロスは目を見開いていた。
その口元がわななくも、言葉は出ない。ただ、うめき声が空気を震わせた。
代わりのように、かすれた悲鳴を上げたのは瞬だ。
「ジュネさんっ! なぜ、あなたがっ!」
団子状になった彼らの一番下にいるのは、、全員を受け止めようとしたのであろう紫龍だ。
ダイダロスと瞬は、互いをかばいあったんだろう。ダイダロスが瞬の腕をつかみ、瞬がダイダロスの肩を掴んで重なり合っている。
そして、ジュネさんは彼らの上にいた。
―――背に、血で染まりかけた白薔薇を飾って。
なぜだ!
瞬と同じ疑問がわきあがり、答えを模索する。
紫龍と一緒にいた彼女が、その場所にいるはずがない。自然に考えて、紫龍と一緒に下敷きになっているか、そうでなくば弾き飛ばされて離れた場所にいるはずだ。
ならば、答えはただ一つ。
彼女は動いたのだ。
見えてはいなかったかもしれない。
勘に近いものだったかもしれない。
それでも。
師の危機を知って。
師をかばうために。
黄金聖闘士の攻撃を、その身でとめるために。
我が身を投げ出したのだ。
俺が、アフロディーテに一歩を譲った。
譲って、しまった。
これが、その結果だった。
なぜだ、と問うのは無意味だろう。それでも、問うと同時に責めずにはいられない。
多少なりともアフロディーテを侮ってなかったか、本当に毒の影響はなかったか―――どうして、俺は、判断を間違えてしまったんだ。
ああ!
「邪魔が入ったか。余計な血は見たくなかったが」
軽い舌打ちとともに、アフロディーテが新たなる薔薇をその手に出現させる。
二度目を、許すと思うか!
「アフロディーテッ!」
二つの声が同時に、一人の名を呼んだ。
怒りを燃え上がらせた雄叫びは俺。
悲しみをたたえた呼びかけは瞬だ。
「なぜですか。なぜ、ダイダロス先生を殺そうとするのです。そうまでして!」
「フッ、くだらんことを。決まっている。ダイダロスが反逆者だからだ。再三の教皇の呼び出しに応じないだけでも、罪は確定している」
「違う! 先生が呼び出しに応じないのは、教皇こそ反逆者だからだ。あなたは、教皇が、幼き日の
「知っているさ。他の黄金聖闘士はいざしらず、
「な、なに……」
あっさりと言い切り、驚愕に息を揺らした瞬を嘲るようにアフロディーテは続けた。
怒っている俺でさえ、思わず聞き入る声だった。音楽的な美しさを持つが、柔らかくも軽くもない、張りのあるなめらかな低音。場を支配するに向いた声、とも言えるだろう。こんな声で言われたら、嘘でも信じてしまいそうな空気がある。
「私達は、過去の行いを知った上で、あえて教皇に忠誠を誓っているのだ」
「そんな、馬鹿な。全ての聖闘士の頂点に立つべき黄金聖闘士が、正義ではなく、邪悪に加担するというのか。正義を守るべき最高位聖闘士が……!」
信じられないと、悲痛に顔を歪めて瞬がうめく。
ダイダロスが「聖闘士の役目を忘れた
「ハッ、なんとでも言うがいい。力なき敗者の言葉など、勝者の前には塵ほどの重みもない。お前達程度の正義で、大地の平和を守ることなどできるものか。この地上の現実を見るがいい」
何ら迷いのない眼で、一歩進みでたアフロディーテの進路上に、立ちふさがる俺。
今のやり取りの間に、多少は頭も冷えている。だが、冴えた意識と裏腹に、いまだ身体を支配しているのは、沸騰する血流だ。ググと歯が噛みあって、刃の音を鳴らす。抑えきれない。
理性と激情が、綱引きをしている。
「ならば、お前の正義とはなんだ。なんのために教皇に従う」
聖闘士は
聖闘士の根本は、
お前の正義はなんだ。
問い掛けた。
「決まっている。力だ。いいか、教皇は大地の安寧を守る、偉大な力を持ったお方だ。そのお方に従わない者を誅伐するのが、黄金聖闘士たる私の務め。私の正義だ」
「そのためになら、何が犠牲になってもいいというのか。力が正義なら、力を持たない子供や老人はどうなる。そんな理屈が正しいなら、弱い者は、強い者に従うしか生きていく術がないじゃないか……!」
切々と、瞬は訴えかけた。
ダイダロスは何も言わず、どこか哀れむ目でアフロディーテを見やった。もはや口を開きもしない。沈黙で語るのは、少なくともアフロディーテへの賛意じゃないだろう。
アフロディーテは、肯定した。
「その通りだ。十三年前も今も、
「
紫龍が激しく言い返す。
だが、アフロディーテは小揺るぎもしなかった。
「所詮ヒヨコには分かるまいよ。ここまで一体誰が大地の平和を守ってきたというのか。生まれたばかりの赤子などに何ができた。力が無くば、何もできん」
「そうかよ。よく分かった。それを聞いて、安心したぜ」
ぐらぐらと沸き立つ血が、身体を支配している。
口が勝手に動いて返すのを、どこか遠くから意識だけが眺めている。
それでも、本当に。
―――安心した。心の底から。
もう迷わなくていい。
よく、そこまで言ってくれた。
これで、殺すことができる。
かつて冥府より蘇り道を切り開いてくれた者としてでなく、尊敬する先達としてでなく、頼りになる同胞としてでなく―――ただの敵として、殺すことができる。
迷っていたのだ。
油断じゃない。
毒でもない。
そのどちらも、あったかもしれないが、それでも根本的には、そこじゃない。
殺したくなかった。だから、間違った。だから、一歩を譲った。
ひゅう、と細く長く息を吐いた。そのまま、迷いを捨てる。
全身に満ちる小宇宙が、押さえつける指の合間から砂がこぼれるように漏れだした。足元に寄せる波が、俺の足に触れてはじゅうと音を立てて蒸発する。
全身を突き刺す陽光も、立ち上る水蒸気も、もう何も気にならない。
説得も、懐柔も、もはや考えない。
守るべき背後の気配に、少しだけ意識を分けた。残りの意識は怒りにゆだね、眼前の敵を打ち据えるように強く見つめた。
アフロディーテ。
力が正義だと言うのなら、見せてやろう。
自らが弱者になるさまを。
味わわせてやろう。
力が、いかに弱者を踏みにじるかを。
「教えてやろう。アフロディーテ。お前が正しいとすれば、俺こそが正義だってことを」
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