ピンポーン
翠と凛の住居もとい、我らが出版社にやって来た僕は、チャイムを鳴らして家の主が出てくるのを待っていると、何やら家の中からドタドタという音が聞こえてきた。
この音は、慌てている凛っぽいな。というのも、もしこれが翠だったら、時間に遅れるのは普通だと言わんばかりに、悪びれることなく現れるからだ。尤も、凛や僕以外の人が居る場合には、翠も弁えて行動しているけどな。
ガチャ
「条河先生、おはようございます」
僕の予想通り、扉を開けてくれたのは凛だった。条河先生と呼んでいるので、凛は今、お仕事モードになっているようだが、所々髪の毛が跳ねているところを見ると、まだ起きてからそう時間は経っていないようだった。
「おはよう、凛。えっと、来るのが早すぎたかな」
「いやいや! 私が朝一でってお願いしてたのに、こちらこそ準備が整ってなくてすみません」
そう言って申し訳なさそうにしている凛だが、僕としては、凛は気心の知れた仲でもあり、普段から僕達三人の中で一番頑張ってくれているから、それぐらいの事だったら全然問題ない。
むしろ、マヤに合わせて家を出てきてしまった為に、凛を急かしてしまったようでかえって申し訳ない。
ただ、それを言ったところで、それはそれで凛に気を遣わせてしまうだろうし、ここは翠に活躍してもらうか。
「まぁ、うちの会社には締め切りを守らない常習犯が居ることだし、それに比べれば大した問題はないから大丈夫だよ」
「うぅ、翠ちゃんみたいにならないように、努力しますね……」
どうやら笑いを誘おうとした言った僕の言葉は、根っこが生真面目な凛には逆効果だったようだ。
「それじゃ、僕は中で待たせてもらうから、凛は髪を梳かしてきな」
「はい、そうさせてもらいます」
そう言って凛は、少し恥ずかしそうにしながら洗面所の方へ向かったのであった。
さて、凛が髪を整えている間、居間で待たせてもらおうとして行くと、そこには、凛とは反対にしっかりと朝の支度を終わらせて、優雅にコーヒーを啜っている翠が居た。
「おはよう翠。相変わらず、早起きみたいだな」
「あら、シズ君おはようございます。そういうシズ君こそ、朝はいつも早いではないですか」
「否定はしないよ。子供の頃は起きられなかったのに、年を経るごとに段々起きられるようになってきてね」
翠は僕との会話をしながら、コーヒーを淹れて、こちらに差し出してくれた。
「ありがとう、翠。それにしても、この中では一番真面目な凛が、一番朝に弱いっていうのも何か不思議な感じだな」
「先程のシズ君の言葉を言い換えると、それが若いという事なのではないでしょうか」
「そうかもな。一つ下の凛に、僕達も色々と任せっぱなしにしているから、凛も疲れているだろうし全然いいんだけどね」
凛は、翠と僕の担当編集者であり、僕達の会社の代表であり、その目覚ましい仕事ぶりといったら、本当に頭が上がらない。
だから、僕は凛からの要望があれば、無理をしてだってそれを叶えてあげたいと思っているのだ。今回の寝坊とはまた別の話にはなるけどな。
「ん、このコーヒー美味しいな。さすがはラビットハウスに通い詰めていただけあって、翠も淹れるの上手だよな」
「マスター直伝の技ですよ。今度、また高校生の時のみたいに、三人でラビットハウスに行きましょうか」
翠は、にこにこと笑顔を浮かべながら、そんな提案をしてきた。
ところで、翠はマスターが亡くなったことを知っているのだろうか。もし知らずに行ってしまったら、その晩は翠を慰めないといけなくなるだろう。翠はマスターの事を凄く慕っていたから。
「翠の提案に僕は大いに賛成だけど、翠の原稿が仕上がった状態で行かないと、凛と高校生の時みたいな追いかけっこが始まりそうだな」
「ふふ、それもまた楽しそうですね」
お前は悪魔か。凛にこれ以上心労を掛けてどうするんだ、と思いながら、翠にジト目を向けていると、
「もちろん、凛ちゃんも楽しめる程度にしますよ」
と、翠は僕の心の中を読んだように言うのであった。
まぁ、翠がそう言うんだったら問題ないだろう。翠の観察眼は素晴らしく高性能だから、きっと有言実行してくれるはず。
それに、凛も事務仕事ばかりでなく、少しぐらい外で走り回っていた方が健康にもいいだろうしな。
こうして、本人のあずかり知らぬところで、勝手に追いかけっこの実施が決定されていると、そこにちょうど凛が戻ってきた。
「お待たせしました、条河先生」
今ここにいるのは身内だけだというのに、きりっとした態度をする凛。そういう公私の分別をつけて、すぐに切り替われるのは、凛の良い所のひとつだよな。
「それで、今日の要件は何ですか?」
「はい。今年も3月が終わり、会社も新年度に突入しました。それで、条河先生には例年通り、決算の処理をお願いしたいんですが、よろしいでしょうか?」
「勿論大丈夫だよ。それは僕の仕事だからね、任せてよ」
やっぱり、今日凛に呼ばれた理由は、予想通りのものだった。
凛のその言葉を聞いた僕は、早速領収書のファイルを取り出して、仕事を始めようとしていると、凛が更に口を開く。
「それと条河先生。先生の次の作品を今夏に発売したいのですが、大丈夫ですか?」
おぉ、今日は盛り沢山だな。まさか本業の方まで言われるとは思っていなかった。
「それって新規の作品ってことでいいのかな?」
「はい。今回は木組みの家と石畳の街を題材にして書いていただきたいんです」
そこで僕は一つ疑問を覚えた。今、凛の言った題材を使って小説を書くとしたら、それは翠の書いた『うさぎになったバリスタ』で評価された、実在する童話の中のような街が舞台という点の二番煎じとなってしまう。
そんな小説を、一体誰が評価してくれるのだろうか。
「……悪いけど、凛の期待には応えられそうにない」
そう僕が言うと、凛はそれを予想していたかのように僕に告げる。
「条河先生は心配し過ぎなんですよ。高校生の頃からそうでしたが、自分の作品に自信を持ってください!」
「いや、でも僕の書いた小説は現に、翠の比べて大した部数売れてないしな……」
このまま書いてしまっては、翠の下位互換にしかならないのではないかという不安が頭から離れない。
凛と僕がそんな話をしていると、これまで話に加わっていなかった翠が話し始めた。
「凛ちゃんの言う通り、シズ君はもう少し自分を褒めてあげるべきだと思います。だって私が未だに2作目を書けずにいる中、シズ君はもう何作も出版しているではないですか。それって凄い事ですよ」
にこっと笑みを浮かべて僕にそう言ってくれる翠。
あぁ、そういえば文化祭の時も同じことを言われたっけ。懐かしい記憶だ。そう、あの時だって翠と凛の方が正しかったんだ。
だったら、僕は信じないといけないよな。二人の言葉を。
「僕は、翠みたいに大層な文章は書けない。でも、二人がそう言ってくれるんなら、精一杯やってみるよ」
「そうですか! 条河先生だったら、絶対大丈夫ですよ!」
ほっとした表情になってそういう凛。
果たして、そんな凛の期待に応えられるかは分からないのだが、僕を信じてくれている人が居るのであれば、最大限の努力を尽くして見せようと思う。
「翠も凛も、僕の背中を押してくれてありがとうな」
「シズ君には大きな借りがありますからね。それに、私の本心を言っただけですから」
「私も、シズ先輩が良い作品を作れればと思っただけですので」
僕は本当に良い友達を持ったようだ。翠と凛には感謝してもしきれない。
さて、取り敢えずは与えられた仕事を片付けて、翠にも負けない小説を書き上げられるよう頑張りますか。
街の中では、新たな出会いが満ち溢れていた春の日。
かつて文芸部3兄妹と呼ばれた仲良し3人組は、一層その友情を強固にするのであった。
友人という名はありふれたものですが、その実、漫画のような真の友情というものが現実に存在するのは、稀なことではないでしょうか。
もし、あなたの周りにそんな友達が居れば、大事にしてください。
『条河静の日常』第18話をお読み頂き、ありがとうございました。