4月に入ってから、半月ばかりが経過した。
桜は花盛りを終え、春の陽気で浮ついていた街も段々と日常に戻ってきた今日この頃。木組みの街では爽やかな風が吹いていて、半袖になるにはまだ早いものの、初夏を感じさせる陽気へと移り変わってきていた。
こんないい天気の日に外に出ないのはもったいない。というわけで、僕は仕事という枷から抜け出して意気揚々と街へ繰り出したのであった。目的地はラビットハウスだ。
「本当に今日は心地良い天気だな。翠も来ればよかったのにな」
先程、翠に一緒にラビットハウスへ行かないかと尋ねてみたのだが、まだ心の準備が……と言われてしまった。無理強いするわけにもいかないし、僕は今回も独りだ。
そうそう翠と言えば、近頃またふらふらとし始めたらしく、凛が困っていた。しかも高校生時代とは違って、翠の行動範囲が街一つなものだから、最近の追いかけっこは翠に軍配が上がっているそうだ。
ただ、凛もそんな翠に対抗するために、色々なアイデアを試しているようで、この前は翠の携帯のGPSを追跡していた。……なんだか楽しそうだな。まぁ、翠もそろそろGPSによる追跡に気付いて携帯を持たなくなるだろうから、また振出しに戻ってしまうわけだ。今から凛の苦労が思いやられる。
さて、そんなことを考えているうちにラビットハウスが見えてきた。
今日は何を飲もうか。チノちゃんの淹れてくれるコーヒーは美味しいから、何杯でも飲めてしまう。さすがはマスターのお孫さんだよな。
僕はそのまま鼻歌でも歌いそうな気分でラビットハウスの扉を開けようとするのだが、その直前で扉に看板が下がっていることに気付く。
「ん、看板? Close……」
どうやら定休日のようだ。最近は色々と仕事が忙しかったので、今日はゆっくりとラビットハウスで過ごそうと思っていたのだが、当てが外れてしまった。
うーん、折角ラビットハウスまで来たのに、このまま帰ってしまうのはもったいない。だけど、今日はラビットハウスの気分だったから、甘兎庵とか別の喫茶店に行くのはちょっとなぁ……。
僕がそうやってラビットハウスの前で悩んでいると、「あ、お兄さんー!」と声がかけられた。聞き覚えのある声だと思って声の方に顔を向けてみると、そこには手を振るココアちゃんと、一緒に歩く千夜ちゃんの姿があった。
「あぁ、ココアちゃん。それに千夜ちゃんも」
「あれ? 千夜ちゃん、お兄さんと知り合い?」
「そうなの。うちのお得意さんなのよ」
どうやらココアちゃんと千夜ちゃんも知り合い、というか友達のようだ。
「それでお兄さん。こんな所でどうしたの? 今日はラビットハウス、お休みだよ?」
「うん、そうみたいだね……。昔は基本毎日やっていたから、すっかりその感覚でいたよ」
僕が高校生の頃は、マスター(現ティッピー)が個人でやっていたため、臨時の時を除いて無休でやっていた。しかし今のラビットハウスは、中高生の3人でお店を回している。つまりだ、毎日営業なんてできるわけがない。少し考えれば分かる事だったのに、何故気付かなかったのか。
「ねぇココアちゃん。もしよかったら、シズさんもパン作りに参加してもらわない?」
「あ、それいいね! ねぇお兄さん。私たちこれからラビットハウスで看板メニュー開発するんだけど、一緒にどうかな?」
「僕が参加してもいいのかい?」
「もちろん! 大歓迎だよ!」
こうして僕は、ココアちゃん主催のパン作りに参加することになった。
ラビットハウスに入ると、既に残りのメンバーであるチノちゃんとリゼはエプロン姿で待っていて、準備万端のようだった。僕の姿を見て二人とも驚いていたが、すぐに笑顔で僕の参加を許可してくれた。
「同じクラスの千夜ちゃんだよ」
「今日はよろしくね」
ココアちゃんと千夜ちゃんもエプロンに身を包み、僕もチノちゃんのお父さんで今のマスターであるタカヒロさんのエプロンを借りてキッチンに集合していた。それにしてもこのエプロン、デフォルメされた兎の柄がついていて可愛らしいな……。
「こっちがチノちゃんと、リゼちゃん」
「よろしくです」
「よろしく」
今は、お互いの自己紹介をしている。聞けば、ココアちゃんは先日僕とリゼに会った後、公園で千夜ちゃんと会ったらしい。そして意気投合し、仲良くなったようだ。
「そして、お兄さん!」
「おいおい、名前で呼んでやれよ……」
「条河静です。今日はよろしくお願いします」
リゼのツッコミが入りつつ、僕の紹介もココアちゃんがしてくれた。ここにいる全員とは一応顔見知りだけど。
それにしても、中高生に交じって黒一点とは、皆の若さが眩しすぎてなんだか居心地が悪いな。
「おぬしもまだまだ若いじゃろ」
僕がそんなことを思っていると、ティッピーから呆れたような口調でツッコミが入った。マスター、そんな簡単に喋っていいんですか。普通に怪奇現象ですよ。
「あら、そちらのワンちゃん……」
「今のは私の腹話術です。それにワンちゃんじゃないです」
腹話術というのはあまりに苦しい嘘だと思うが、幸いにして千夜ちゃんはスルーした。
「この子はただの毛玉じゃないよ」
「まあ、毛玉ちゃん?」
「もふもふ具合が格別なの!」
「癒しのアイドルもふもふちゃんね」
「ティッピーです」
……話の原因を作ったのは僕だが、よく話が続くものだ。
僕が変なところに感心していると、困った表情をしたリゼと目が合った。どうやらリゼはこっち側の人間のようだ。
「ティッピーは、アンゴラウサギっていう品種で、全身を長い被毛に覆われているのが特徴なんだ。ちなみに最も古いウサギの品種って言われていたりもする。本当かどうかは分からないけどね」
僕が説明をすると、皆へぇ~という顔をしていた。
「シズ、詳しいんだな」
「まあね。昔から動物は好きだったから」
さて、兎の話は切り上げて本題に戻ろう。
「さぁ、やるよ。みんなパン作りをナメちゃいけないよ! 少しのミスが完成度を左右する闘いなんだからね」
「ココアが珍しく燃えている。このオーラ、まるで歴戦の戦士のようだ!」
ココアちゃんは実家がパン屋さんのようで、リゼの言う通りやる気に満ち溢れている。だからといって……。
「今日はお前に教官を任せた! よろしく頼むぞ」
「サー! イエッサー!」
それはさすがにどうかと思う。リゼってミリオタなんだろうか。
「それじゃあ、各自パンに入れたい材料を提出!」
ココアちゃんの号令によって、ココアちゃんからはうどん。千夜ちゃんからは自家製の小豆と梅と海苔。チノちゃんからは冷蔵庫にあったというイクラ、サケ、納豆、ゴマ昆布が提出された。
……これってパン作りだよね。いや、僕には手持ちの食材がないので何も言う権利はないが……。
ちなみに、リゼはいちごジャムとマーマレードを持ってきていた。うん、良心が居てよかった。
「まずは強力粉とドライイーストを混ぜて~」
「ドライイーストって、パンをふっくらさせるんですよね?」
「そうそう、よく知ってるね。チノちゃん偉い偉い~。乾燥した酵母菌なんだよ」
ココア先生のパン作り講座は、生地作りから始まった。意外と小麦粉使うんだなと思いながら、ココアちゃんとチノちゃんのやり取りを見ていると、急にチノちゃんが怖がり始めた。
「そ、そんな危険なもの入れるくらいなら、ぱさぱさパンで我慢します!」
……一体、チノちゃんは何を想像したんだろうか。
その後、水を投入して皆でこねる作業に入った。
「パンをこねるのってすごく体力が要るんですね」
「腕がもう動かない……」
チノちゃんや千夜ちゃんは既につらそうにしている。かくいう僕も、最近あまり運動していなかったせいか結構疲れてきた。
「リゼさんは平気ですよね?」
「な、なぜ決めつけた?」
確かにリゼはまだまだ元気そうだ。ココアちゃんとは違って、パン作りに慣れているわけではなさそうなのに凄いな。
「リゼは何かスポーツとかやっているの?」
「いや特になにかしているわけではない。でも、普段から訓練をしているからな!」
いやにキラキラした笑顔を浮かべるリゼ。さっきの教官発言といい、軍隊にでも憧れているんだろうか。まぁ、趣味は人それぞれだから……。
「リゼさんはお父さんが軍人なんです」
「そうそう、最初に会ったときは銃を突き付けられたっけ」
チノちゃんとココアちゃんから補足説明が入った。なるほど、親の影響というわけか。それは納得した。
「リゼはお父さんが好きなんだな」
その言葉に、ぼっと顔を赤らめるリゼ。
「そ、そんなことはない! 親父のことなんか好きなわけないだろう!」
「あれ~、リゼちゃん照れてるの?」
ココアちゃんが煽るような発言をすると、リゼちゃんは照れのあまり、ココアちゃんの胸倉を掴んで揺さぶり始めた。
「お、落ち着いてリゼちゃん! 冗談、冗談だよ!」
あー、申し訳ないココアちゃん。でも、照れてるリゼは可愛かったな。
さて、そんな軽いハプニングを起こしながらもパン作りは順調に進んでいき、今は発酵させるために生地を寝かしているところだ。生地を寝かせるはずが、皆も寝てしまったので僕はマスターとお話ししていた。
「ラビットハウスも賑やかになりましたね」
「そうじゃのう。あのココアという娘もあっという間に店に馴染んじまった」
「嬉しそうですけど、マスターはここを静かな喫茶店にしたかったのでは?」
我ながら嫌な質問だとは思ったが、何年も前からマスターを知っている身としてはどうしても尋ねてみたかった。
意外にも、マスターは悩むことなく答えてくれた。
「シズよ、時代は変わっていく。ワシはもう死んだ身じゃ。後のことは、息子とチノが好きなようにすれば良い。それに……」
ピピピピ ピピピピ
マスターが言葉を切ったところで、ちょうどキッチンタイマーが鳴ってしまった。皆も起きてしまったので、この話はまた今度だ。
それから、僕達は発酵してふっくらとした生地を各々好きなように成形した。僕は芸術センスが無いので、至って普通の形に整えた。こういうのは、凛が上手なんだよな。
「チノちゃんはどんな形にしたの?」
「おじいちゃんです。小さい頃から遊んでもらってたので」
「おじいちゃんっ子だったのね」
千夜ちゃんの質問に答えるチノちゃん。生地を見てみると、確かにマスターの生前の姿に似ている。しかし、生地はこれから焼かれるので……。
「ではこれから、おじいちゃんを焼きます」
「ウワーッ!」
ここだけ聞くと、まるで火葬だな。ティッピーが悲鳴を上げる気持ちもよく分かる。しっかし思わず笑ってしまいそうになってしまったが、割とブラックジョークだよな。
「千夜ちゃん、お兄さんちょっといい?」
「なに?」
「なんだい?」
チノちゃんとマスターが軽いコントを繰り広げていると、ココアちゃんがなにか楽しそうな表情をしながら、僕と千夜ちゃんの方へやってきた。
「ジャジャ~ン! 千夜ちゃんとお兄さんにおもてなしのラテアート!」
「わぁ、かわいい!」
「うん。可愛く描けているね」
ココアちゃんが作ってくれたラテアートは、真ん中に兎と、その周りに花びらの模様が描かれていた。
「えへへ、今日は会心の出来なんだ」
「味わっていただくわね」
「僕も昔何度か教えてもらったけど、こんなには上手にできなかったな」
帰ったら、練習してみようかな……。少し昔のことを思い出してしまった。
そのせいで、ココアちゃんが折角作ってくれたラテアートだったのに、僕はしばらく感慨に浸って飲むことができなかった。
さて、僕がそんなことをしている内に、いつの間にかパンが焼き上がっていた。
全員でいただきますを言って、早速実食してみる。
「おいしい!」
「フカフカです」
「さすが焼き立てだな」
「これなら看板メニューにできるね」
確かにここまで焼き立てのパンを食べたのは初めてだ。でも、さすがに焼きうどんパンも梅干しパンも、特に焦げたおじいちゃんを看板メニューにはできないと思う。
「そういえばココア。まだ焼いているのがあったけど、あれはなんだ?」
「あっ、あれはねー」
そう言うと、ココアちゃんはオーブンから残りのパンを取り出して見せてくれた。
「じゃーん! ティッピーパン作ってみたんだー!」
「おぉ、看板メニューはこれでいけそうだな」
見た目は可愛らしく、しかも表面がもちもちとしていてとても美味しそうだ。
「えへへっ、おいしくできてるといいんだけど」
いざ一口齧ってみると、中からは甘いいちごジャムが溢れ出てきた。口の中でパンと程よく混ざり合い、パン屋さんと比べても引けを取らない美味しさだった。
ただ、一つ問題があるとすれば溢れ出るジャムが、まるで血のように見えることだろうか。なんというか、食欲が減退してしまいそうな感じだ。
すると、リゼちゃんが思いを代弁するように言ってくれた。
「なんか、エグいな……」
すべてはこの一言に集約されていた。
早いもので、外はもう夕暮れ。今日は一日中ラビットハウスでのんびりと過ごす事ができて良かった。それでは、そろそろ帰らなくては。
「皆、今日はありがとう。僕はそろそろお暇するよ」
「そうね、私も帰らなくちゃ」
「もうこんな時間か。あっという間だったな」
ここに住んでいるチノちゃんとココアちゃん以外は、帰る支度を始める。
「千夜ちゃんもリゼちゃんも今日は来てくれてありがとう。お兄さんもまた遊びに来てね」
「あぁ。次の機会には、皆に今日のお礼をしないといけないな」
といっても、僕には大したことはできないんだけどね。せいぜいが手土産を持っていく程度だろう。あ、後は勉強を教えるとか。
そんなこんなしている内に、リゼちゃんと千夜ちゃんは帰る支度が終わったようだ。
「それじゃあまたね」
「またな」
「また来てくださいね」
「またねー!」
「また」
またねの大合唱が、夕暮れの木組みの街に静かに響く。
そうして彼女達は、笑顔にちょっぴりの寂しさが混じった顔をして、次に会う時までの別れを告げるのであった。
読者の皆様お久しぶりです。前回投稿したのが夏で、今はもう年の瀬。時が経つのは早いものです。
一寸の光陰軽んずべからず、とは言った物ですが、実際は一見無駄に見える時間でも、役に立ったりするものですよね。いや、小説を書いている自分への言い訳なので、あまり気にしないで下さい。
『条河静の日常』第19話をお読み頂き、ありがとうございました。
皆様、よいお年を。