ラビットハウス。そこは、この木組みの街の中でも知る人ぞ知る隠れた名店だ、というのは経営しているマスターの談である。
実際の所、コーヒーはとても美味しいし、店の中は落ち着いている良い雰囲気であるし、白い髭のマスターは映画俳優ばりにダンディーであるので、名店というのは間違いないだろう。
カランカラン
「いらっしゃい」
手元のコーヒーカップを拭きながら、初めて来た人にはぶっきらぼうだと思われる渋い声で迎えてくれるマスター。
かくいう僕も、初めてラビットハウスに入ったときは、なんだこの人と思ってしまった。しかし、出されたコーヒーを飲んでマスターと話をしてみると、根はとても優しいお爺さんなんだと分かった。それと同時に、とても経営に苦労しているということも知った。それ以来、暇を見つけてはここにコーヒーを飲みに来るようになった。
「マスター、ブレンドコーヒーを三つ。一つは砂糖二つにミルク一つで」
注文の声を聞いて、カップから顔を上げてこちらを見やるマスター。その顔には少し嬉しそうな笑みを浮かべている。大方、ここ1~2時間客が居なくて暇だったから、久しぶりにコーヒーを入れられるのが嬉しいんだろう。
「あ、あと甘兎庵とのコラボメニューだというコーヒーぜんざいも三つ下さい」
「え、いいんですか先輩!」
「僕もコラボの話を聞いたときから、食べてみたかったからね。勿論、二人の分もちゃんと奢るから気にせず食べて」
約束は約束だ。ラビットハウスに着くのが一番遅かったのは僕だからね。
それにしても、普段おっとりしているように見える翠だが、走るのが速いこと速いこと。そして、週5のペースでそんな翠と追いかけっこを繰り広げている凛も体力が付いたのか、ほとんど息を乱さずにラビットハウスまで来ていた。結構距離あるんだがな……。
それに引き替え僕は、二人の高レベルな追いかけっこについて行けず、途中でバテて断念した。その後はのんびりとまではいかないが、息を整えながら小走り程度でやって来た。
先にラビットハウスの前まで到着していた翠と凛は、僕が着くのを待っていてくれていたようで、またもや遅いですよと言われてしまった。
違うんだよ……。君たちが速すぎるんだよと声を大にして言いたい。二人には実感ないんだろうけど、きっと陸上部とでもまともに張り合えると思う。
しばらくの間、店内にはマスターがコーヒーを淹れる音が響き渡った。
ここのコーヒーは、香りも風味も最高だが、コーヒーを目の前で淹れてくれるところも重要なポイントだと思う。
一流のバリスタというのは、マスターみたいな人のことを言うんだろうな。
「コーヒーが出来上がる過程を眺めていると、心が落ち着きますね」
どうやら翠も、僕と同じ意見なようだ。さすが僕よりも入り浸っているだけはある。
翠は本当に毎日と言って良いほど、ここに通い詰めているらしく、いつも決まって一杯のコーヒーを頼んで、マスターに、自分が書いた小説の感想を聞かせてもらっているそうだ。
というか、僕たちより先に、マスターに小説の原文を読ませているというのは、同じ部活の仲間としては少々寂しい気分になる。
「どうぞ、ご注文のブレンドコーヒーです」
マスターから差し出される淹れたてのコーヒー。
ひとくち喉に流すと、いつも通りの美味しい味が口の中に広がる。
「コーヒーぜんざいはもうしばらくお待ち下さい」
コーヒーを淹れたマスターは ダンディーな声を発しながら、店の奥へと入っていった。
「マスターは相変わらず素敵な声をなさってますね〜」
「翠ちゃんはほんと、マスターのことが好きなんだから……」
真っ先に小説の原案を見せるのがマスターであるのに嫉妬しているのか、凛は翠の言葉に拗ねている。
「翠ちゃんは、同じ部活の私たちよりもかっこいいマスターの方を信頼しているんですね……」
「そんなことないですよ〜。私は凛ちゃんやシズ君のことをちゃんと信頼も尊敬もしています。」
「それなら、どうしてマスターに一番最初に見せるんですか! ほんと翠ちゃんは私たちの気持ちを考えてないんだから! 物書きとして失格ですよ!」
翠のその場しのぎのように聞こえる反論に、凛は声を荒げて翠を糾弾した。しかし怒ったような声に反して、凛の顔は悲しげな顔をしている。きっと凛は翠に怒っている訳ではなく、翠が自分を信頼してないような行動を取っていることが悲しかったり、なにより信頼してもらえない自分が腹立たしいんだろう。
険悪な雰囲気になってしまったラビットハウスの店内。あわや、一触即発という状況を覆したのは奥から出てきたマスターだった。
「ははは、青山は毎日来てくれて、作文用紙に書いた小説を読ませてくれるが、どうやらそれは君たちに書きかけの文章を読ませるのは恥ずかしいかららしい」
「それって、ほんとですか……?」
翠の方を見てみると、彼女はちょっぴり恥ずかしそうに頬を染めながら、それを誤魔化すようにコーヒーを啜っていた。
「もう〜マスターなんで言っちゃうんですか〜! 折角秘密にしていたのに〜!」
翠は頬を染めながらも、ぷくーと可愛く膨らませてマスターにぷりぷりと怒っている。凛の方を見てみれば、驚いた顔をしている姿が目に入った。しかし、まだちょっと信じられていないのか怪訝な表情も浮かんでいる。
まったくしょうがないなぁ、翠のために僕は少し後押しすることにした。
「翠は凛を信頼していないんじゃなくて、凛を信頼しているから、大事な友達だと思っているからこんなことをしたんじゃないかな?」
「それは……それは本当ですか? 翠ちゃん?」
「もぅ、バレてしまってはどうしようもないじゃないですか。そうです、私は凛ちゃんに稚拙な文章を見せてしまって嫌われてしまったらどうしようと考えた結果、マスターに感想を頂いてから翠ちゃんに見せるようになったんです!」
翠は自分が心に秘めていたことを一気に述べると、ぷいとそっぽを向いた。髪の隙間から見える耳は話を聞いていなくても、すぐに恥ずかしいんだなと分かるくらい真っ赤に染まっていた。
「……ふふっ」
凛の方から、嬉しそうな笑い声が聞こえたと思ったら、
「みーどーりーちゃぁーん!」
と言って、そっぽ向いている翠の背中に抱きついた。
翠の顔はこっちからは見えないが、きっと驚きに染まっているだろう。でも、きっとその後には二人とも笑顔が顔一杯に広がっているんだろう。
二人が元の鞘に収まって、いや、それ以上に親密になったようで心から安堵した。……マスターには感謝しないとな。
「マスター、」
「ん、なんだ?」
「ありがとう」
僕の言葉に返事をするでもなく、マスターはただただ口の端を持ち上げて、不敵な笑みを浮かべるのであった。そして3つの深皿を取り出して、
「こちら、コーヒーぜんざいです。どうぞ。」
と、差し出してくれた。
コーヒーのように苦い思い出はミルクと砂糖を入れて甘い思い出に変えられる。きっと人生ってそういうものなのかな? なんて、甘い考えを抱きながら、僕たちはコーヒーぜんざいに舌鼓をうち、部誌を書く準備をするのであった。
強いコーヒーをたっぷり飲めば目がさめる。コーヒーは暖かさと不思議な力と、心地よき苦痛を与えてくれる。余は無感よりも、苦痛を好みたい。 ナポレオン・ボナパルト
初めてブラックコーヒーを飲んだ時の感想、皆さんは覚えていますか? 当時私は子供ながらに、こういうのを苦い経験っていうんだ~と思ったことをはっきりと覚えています。小学生だった私には確かに文字通りの、苦い経験でした。
『条河静の日常』第2話を読んで頂き、ありがとうございました。