「こちら、ご注文のブルーマウンテンです」
マスターがそういって、僕たちにカップを差し出してくれた。コーヒーを一口啜ると、適度な酸味とコク、上品で甘い香りと柔らかな舌触り、甘みのある後味のバランスが絶妙な感じで口の中に広がり、さすがコーヒーの王様と呼ばれているだけあるな、と心が和らいだ。
文芸部は、文化祭を大盛況で終わらせて、閉会式では最優秀部活発表賞という、部活動での展示に設けられた賞で最上位の賞も頂く結果に終わった。しかし、問題も1つ起きてしまったのだ。
僕と翠が、小説家にならないかとスカウトされた。
それはお昼をまわってすぐ、早くもあの97部の部誌を全て配り終わるという快挙を成し遂げた直後のことだった。真面目に追加の冊子を刷ろうかと検討している翠と凛と、それを必死に止めようとしている僕が会話していると、休憩中と書かれた板を部室の扉の前置いたのにも関わらず、急に扉が開き外から、営業スマイルを顔に貼り付けた中年の男性が入ってきて、
「どなたが翠さんと静さんでしょうか?」
と、僕たちを見回して挨拶も謝罪もなしに聞いてきたので、不審な目を向けつつ、何かしてきたらすぐに翠と凛を守れるように一歩前に出て、その胡散臭い笑みの男性を注意深く観察していると、
「申し遅れました。わたくしは生論社の編集部に勤めている山本と申します。」
と懐から名刺を取り出してこちらに渡してきた。生論社、出版社の中では結構有名な会社だ。しかしネットでは、売り出している本は多いくせして大ヒットしたものは1つも無いと、辛口な評価が付けられている。
そんな会社の人が一体何の用事で来たのだろう? 名刺を受け取りそう聞いてみると、
「この学校の文芸部が作った部誌の中身が凄いと、数時間前からネット上で話題になっていたんです。それで気になったわたくしは、弊社からこちらに急いで来まして、どんなものかと読ませて頂いたのですが、いやはや、それにしてもこのお二方は高校生と若いながらに、小説を書くのが上手いですね。この『うさぎになったバリスタ』なんかは、すぐにでも弊社から出版出来ますよ!」
あまり要領を得ない説明で、こちらの質問に解答しないという社会人としてどうなのかと思わされる答えだったが、要はこの人は小説家にならないかというスカウトなんだろう。
「では改めて尋ねますが、あなたはここへ何をしに来たのでしょうか」
半分答えを予想しながらもう一度同じ質問を繰り返すと、その男性、山本さんは、
「これは失礼しました。つまりわたくしはこの部誌を書かれた方を、弊社の新人小説家としてデビューさせたいと考えているのです。それで、これを書かれたという翠さんと静さんはどちらの方ですか? どうやらお一人小説を書いていらっしゃらない方がいるようですが」
男の最後の言葉に棘を感じた僕は、何か凛をバカにされたような気がして怒りを覚えたが、ここで怒ったところでどうしようもないと思い直して、
「静は僕です」
と、男を少し睨み付けながら手をあげるのだった。そのままちらっと横目で翠の方を見てみると、いつも楽しそうに穏やかな笑みを浮かべている顔は、眉をつり上げて口角を下げ、目を鋭く細めていた。大抵のことでは動じない翠には珍しく、僕と同じように怒っているようだ。それも当然か、だって凛は翠の担当編集者、相棒だもんな。
それで当の相棒である凛の表情も確認しようと反対側に目を向けたところ、そこには喜びの表情を浮かべている凛の姿があった。予想外のことに思わず二度見してしまった。
「おい、凛なんでそんな嬉しそうな顔しているんだ」
小声で尋ねた僕の質問に対して凛は、
「だって、先輩達の作品がこうやって評価されて、出版社の方から直々にスカウトされたんですよ! 嬉ばしいことじゃないですか! それなのに何で先輩方はそんなに怖い顔しているんですか?」
……驚いた、凛はあの出版社の男から一人だけ仲間はずれにされているっていうのに、気丈にも僕たちのことを祝福してくれている。凛の顔をよく見てみると、嬉しそうな表情に混じってどこか悲しそうな、寂しそうな表情も見られるので、あの男の棘の付いた言葉に気づいていないわけではないようだ。まったく、本当に凛は強い後輩だよ……。
そしてそのまま凛は、編集部の男に聞こえるくらいの大きな声で言葉で、
「翠ちゃん、いや、青山先輩はあっちの方です」
と言い、翠の方へ手を差し向けるのだった。すると、男は初めて作り笑いをやめ、本当の笑顔になって、
「おお! そのお二方がそうでしたか! それでは、是非とも我が生論社からヒット作を出すために、これから末永くよろしくお願いしますよ!」
と、あたかももう僕たちが生論社で小説家としてデビューするかのように言ってきたので、
「ちょっと待って下さい!僕たちはまだ何も言っていません。勝手に決めないで下さい!」
すかさずそう返した。編集の男は驚いた顔をしている。これはあくまで予想だが、この男は文芸部に所属しているような高校生なんてみんな小説家に憧れているんだろう、だからちょっと出版するとかちらつかせればすぐ靡くに違いないさ、なんて考えているんだろう。
自分の想像とはいえ男に無性に腹が立った。すぐにでもその男にお帰り願いたいと思った僕は、冷たく追い返そうとしたその時、これまで一言も言葉を発していなかった翠が、
「この件はよく話し合って決めたいと思いますので、今日の所は一旦お引き取りください」
と、丁寧な言葉を能面のような表情で言ったのだった。翠とは高校に入ってからもう3年の付き合いになるが、今までこんな表情は見たことない。
普段感情豊かな人が無表情になるということに、自分に向けられているものではないと分かっていながらも、僕は底知れない恐怖を感じた。どうやらそれは僕だけではなく男も感じたらしく、引き攣った笑みになって慌てて、
「そ、それではお決まりになりましたら名刺の方の連絡先へお電話下さい。色よい返事をお待ちしてます!」
と告げて、脱兎のごとく逃げ出すのであった。その後、翠は凛と僕に、
「文化祭が終わった後、三人でラビットハウスで話しましょう」
と、真剣な眼差しで言うのであった。凛はその言葉に快く頷き、僕ももとよりそのつもりでいたため頷くのであったが、その提案を告げたときの翠の口調には有無を言わせぬ迫力があった。
……こうして今に至るわけだ。
普段カウンターでコーヒーを飲む僕たちだが、今日はテーブル席に顔と顔を突き合わせて座っている。
しばらくの間、コーヒーを啜る音に支配されていたラビットハウスの店内だったが、凛が口を開き、
「青山先輩、何であの生論社の方がいらっしゃったときに小説家になることを即決しなかったんですか? 小説家になるのは、先輩の夢じゃないですか」
青山先輩、と他人行儀な呼ばれ方をされた翠は、飲んでいたコーヒーのカップを、優雅にソーサーへと戻して凛の質問に答えた。
「確かに私の夢は小説家になることです。でもね凛ちゃん、私がその夢を持ったのは高校生に入ってからのことなんです。この学校に来てシズ君や凛ちゃんと出会い、一緒に過ごす私の毎日は薔薇色に輝いています。だから、私はこの幸せな日常がずっと続けば良いのに……と願わずにはいられないのです。そして、そんな感情から私は小説家になることを夢見ています。だから、私とシズ君が小説家になったところで、凛ちゃんが居なければ始まりません。なんてったって凛ちゃんは、私たちの最高の編集者ですからね。」
と、いたずらっぽく笑うのだった。これを聞いた凛は、目を真っ赤にして今にも泣きそうな声で叫ぶように、
「でも、小説家になるなんてチャンス、もう巡ってこないかもしれないんですよ! それなのに、それなのに翠ちゃんは私のことを考えてそのチャンスをどぶに捨てるなんて……そんな馬鹿なことしないで下さい! 翠ちゃんは私のことなんか忘れて、自分の夢を追いかけて下さい! 私は大丈夫ですから!」
と言い切った。そんな凛を見た翠は、凛に近づいて、
「な、なんですか翠ちゃん!」
優しく抱きしめるのだった。
「凛ちゃん。私はですね、あの人が凛ちゃんのことを低く見ているのを感じてとても悔しかったんです。私の凛ちゃんはこんなに凄いんだぞ! と言ってやりたかったです。そして、その思いはシズ君もきっとおんなじだったと思います。だから、凛ちゃんも我慢しないで下さい。凛ちゃんは、いっつも私の我が儘に付き合ってくれるんですから、たまには凛ちゃんも私に我が儘を言って下さい。それじゃないと不公平じゃないですか」
と、優しく言った翠。その言葉に耐えきれなくなった凛は涙をぽろぽろと溢しながら、
「……私だって、私だって翠ちゃんともシズ先輩とももっといっしょに居たいです! 一人だけ仲間はずれなんて嫌です! もっともっと翠ちゃんと遊びたいし、もっともっとシズ先輩の小説だって読みたいです! 雑用として、編集者としてもっといっぱい二人の隣に居たいです!」
と、自分の思いの丈を僕たちにぶつけるのであった。本当に僕たちは良い後輩を持ったんだな……。そして、そんな気持ちに気づいてやれずに、強い子だなんて思っていた自分を恥じた。言われてみれば当たり前のことだ。僕だってまだまだ二人と一緒にこの日々を送っていたいと思っているんだ。僕たちが卒業したら、文芸部ではひとりぼっちになってしまう凛なら、なおさらのことだろう。
どうにか皆で一緒にこれからもずっと居られないかと、知恵を絞って考えると、ある一つのアイデアが思い浮かんだ。
「そうだ! 僕たち三人で会社を作れば良いんだ!」
「会社……ですか?」
「なるほど、それは名案です!」
なんでこんなことに気づかなかったんだろうか。これからもこうして過ごしていきたいんだったら、それを職業としてしまえばいいじゃないか! 自分たちで作っちゃえばいいじゃないか!
天啓のようなひらめきを得た僕は、その興奮のままに、
「翠が執筆で、凛が編集と宣伝。そして僕が執筆兼営業。三人でも、そうすれば立派な会社だ! 資本は自分の頭だから、多くのお金を用意するようもないし、翠の文章力と凛の宣伝力があればきっと飛ぶように売れるはず! それに、三人だけだったらお互いによく知り合った仲だから、自分達のペースで色々することが出来るよ!」
「それはいいですね~! それなら三人一緒に居られますし、何より夢も叶います!」
どうやら翠も乗り気のようだ。あとは凛の賛同を得れば決まりなんだが……
「そうすれば……うん。私も、私もこの三人で会社を設立したいです!」
「よし、これで決まりだ! では、ここに僕たち三人で出版社を設立することを宣言します!」
「「はい!」」
……ただの高校生の無謀な思いつきだと言われればそれまでだが、三人にとってそれは希望の光だった。
希望を信じてその道を突き進んだ彼らは、会社を設立した数年後には生論社なんか目にかけないほどのトップ企業となる。僅か三人の社員で構成されるその企業は、発売する作品の全てをベストセラーにするという、まるで魔法のような偉業を成し遂げ続けている、と評判を呼んでいる。
ある雑誌が、そんなすさまじい功績を残せる理由はなんですか? と聞いたところ、
「弊社の社員はみんな、お互いがお互いを尊敬し合っているからです!」
と、堂々と胸を張った、自信満々な解答が返ってきたそうだ。
人のために何かできる人というのは素晴らしいですよね。私もそういう人でありたいものです。
さて、『条河静の日常』第5話を読んで頂き、ありがとうございます。
次回の投稿はまた明日の夜の予定ですが、今日のように遅くなってしまうこともあるかもしれません。本日の投稿が遅れたことにつきましては大変申し訳ありませんでした。