――月――日
黒森峰から継続に転校し、この小さな食堂を新たな住まいとして約半年が経った。振り返ってみれば本当にあっという間だった。
元々名門私立である黒森峰の授業進度が速かったこともあり、こっちの授業にも特に問題なくついて行けている。
店番のときにもやることがないと教科書とノートを広げて勉強してるくらいだし、傍から見ればガリ勉みたいに見えてるかもしれない。
そんなわけでこのたび無事2年生に進級したが、ここで戦車道をまた履修するかどうかについては結論を出せていない。
というのもあの時以来、ミカが俺の前で戦車道の話題を出すのを避けているようだからだ。
ミカ自身が何も語ろうとしないのであの夜に何があったのかはわからないが、ともかくミカが俺にやたらと気を遣っているのは確かだし、そんな中で戦車道を始めるのも気まずいものがある。
元々みほエリのためにやっていた戦車道だ。やる理由はもうなくなっているから、やらないならやらないで構わないのも実際のところだが、黒森峰時代のような打ち込めるものがない故の物足りなさを感じているのも確かだった。
まあ、食堂の店主代理をやって半年近くにもなるから、口コミで俺の淹れるコーヒーの味も評判になってきたし、このまま卒業後ものんびり働かせてもらうってのも悪くはないな。
いずれみぽりんとエリカをこの学園艦に招く日も来るかもしれない。その時は最高の一杯を淹れて、二人のイチャラブを心ゆくまで堪能させてもらおう。
――月――日
半年前よりは客入りの良くなったこの店だが、この半年でいくつか特筆すべき変化もあった。
その最たるものとして、ミカが店の手伝いをしてくれるようになったことだ。
戦車道の練習のない日は授業が終わったらすぐに店にやって来て、俺と一緒に厨房に立って調理の手伝いをしてくれる。ミカは意外に手際がよく、少なくとも俺よりは料理のセンスと生活力を感じさせる。
手伝ってくれるのと同じ程度の頻度でつまみ食いもするのだが、まあ誤差だよ誤差。ミカと一緒に料理できるという体験には万金の値がある。それに比べれば多少のつまみ食いなど問題にはならない。
看板娘が二人に増えて、しかもそのうちの一人は継続高校の戦車道チームの隊長だというのだから、そのことが話題になってお客さんは目に見えて増えている。
ただし、この店が繁盛することをミカはあまり喜んでいないみたいだ。
なんというかこう、ここは知る人ぞ知る隠れ家的な店みたいな静かな雰囲気のほうがいいらしい。客で賑わって騒がしいのはこの店らしくないそうだ。
まあ店長が相当な資産家でこの店も趣味でやっているようなものらしいから、店が流行らないとしても俺は一向に構わないしむしろ一生俺を養って欲しい。
だがうっかりこれを口に出したら、「じゃあ私が一生そばにいてあげようか」とかミカが言い出した。
何言ってんだミカァ! 正直目が怖ぇぞミカァ!
――月――日
寂しさからなのか、それとも存外俺の中に戦車道への未練があったのか。
きっかけは授業が終わった後に店を開けてテレビをつけたら大学戦車道の試合の中継をやっていて、ボコを抱いた女の子がインタビューを受けているのを見たことだった。
この世界に転生して島田愛里寿の姿を目にしたのは初めてだった。
見た限り原作との相違はない。飛び級して大学に入学して、若干13歳で大学選抜チームを率いている。島田流の誇る天才戦車道少女で次期家元で、ボコが大好きなのも変わらないらしい。だってインタビュー中もずっとボコ抱いてたし。
その愛里寿を見て、俺はなんとなく、本当になんとなくだが、ひとつ彼女にファンレターでも書いてみようと思ったのだ。
別に返事が来るのを期待したわけでもないけど……何と言ったらいいだろうか。
平和だけど物足りない気持ちが燻り続ける毎日に刺激が欲しかったとでも言えばいいのか。正直自分でもわからない。
ただ、せっかく愛里寿という原作キャラが戦車道やってるのを見たんだ。ガルパンおじさんの一人としてファンレターくらいは送りたくなるのが人情だろう?
みぽりんやエリカのように比較的近い存在じゃないからこそかもしれない。俺の推しカプが違えば、ひょっとしたらみぽりんにファンレターを送る俺もいたかもしれないのだ。
ともあれ、店を閉めた後にコンビニで切手と封筒と便箋を買い、『応援してます。がんばってください』的なことをサラッと書き上げてその日のうちにポストに投函したのだった。
まあ、返事なんか返ってくるわけないよな。夢見すぎだろ、いい年こいてさ。
――月――日
信じられない。
マジか? こんなことってある? ホントに? 嘘だろ?
先日愛里寿に送ったファンレターの返事が返ってきた。
これだけでもとんでもない驚きだが、内容も判を押したような定型文ではなく、きちんと俺に宛てた文章が綴られているのだ。俺の書いた内容を踏まえて返事を書いてくれている。
思ってたより字が綺麗だし、文章の構成もきっちりしている。育ちの良さってこういうところに出るんだよな。流石島田流の娘さんだ。
いやいや、落ち着け。社交辞令みたいなものにテンション上がりすぎだろ。我ながらキモいって。
でもアイドルオタクが推しからファンレターの返事など貰おうものならこんな風になるんだろうな。
ましてガルパンおじさんがガルパンのキャラから手紙を貰ったんだぞ? 浮かれるなというほうが無理難題だ。ヤバい、ウキウキが止まらないぞ。
そんなわけで、今日もまた余っていた封筒と便箋を引っ張り出して手紙を書いてしまった。
沼にハマり込む瞬間というのを己が身をもって体感したような気がする。
――月――日
今日はミカがすっかり不機嫌になってしまった。
なだめるのにコーヒーだけじゃなくて練習品のシュークリームを献上しなければならなかったくらいだ。アキとミッコも当然の権利のようにパクついていたがこれはいつものことなのでよしとする。
どうしてミカが急にヘソを曲げたかというと、どうも俺が愛里寿にファンレターを送ったのが気に入らないらしい。
その上「島田流は嫌いだ」とハッキリ言いもした。じゃあ西住流は? とは聞けなかったが、実際のところどうなんだろう。
しかし、ミカは昔島田流と何かあったんだろうか。
俺はロマンがあるから島田ミカ説やミカありは好きだが、あれはファンの妄想だ。それ以上でもそれ以下でもないしミカの過去はほとんど何も明かされていない。当然ミカが島田流の関係者だったなどという言及はない。
最終章の続きで何か明かされたのかもしれないが、残念ながら俺は最終章の続報が来る前に前世からピロシキしたのだ。何かがあったのだとして知りようがない。
ミカの様子を見るに、迂闊に深入りすべき問題でもなさそうだ。今後は彼女のいる前で愛里寿の名前を出すのはやめよう。
――月――日
また愛里寿から返事の手紙が来た。やったぜ。
しかも愛里寿も俺のことを調べてくれたらしい。以前何かの雑誌のインタビューで天翔エミの名前を見たことがあると思って気になったとか。
中学の頃受けたあのインタビュー自体は黒歴史もいいところだが、人生何がどう役に立つかわからないものだ。
去年の全国大会決勝の事件がきっかけで継続高校に転校した経緯も、聖グロや黒森峰にいる知り合いから聞いたそうだ。
この件について愛里寿は割と同情的に書いていた。
なるほど大学選抜チームの隊長だけはある。ライバル流派の西住流のお膝元にも知り合いがいるとは、流石に顔が広い。
あるいは千代さん関係の繋がりだろうか。ともあれ、俺に興味を持ってくれるのは結構嬉しいもんだ。
ミカには悪いけど、やっぱ愛里寿に手紙出すのやめらんねーわ。
そして俺は今日もドキドキしながら返信を出したのだった。まるで文通みたいだ。
――月――日
愛里寿との文通が俺の日々に彩りを添えてくれているのは言うまでもないが、近頃戦車道関連のニュースに事欠かないことも俺を退屈させなかった。
“名無しの死神”――戦車道やってるときのミカはこう呼ばれているらしい。
ミカ・アキ・ミッコの乗るBT-42がミッコの卓越した操縦技術もあって色々とありえない挙動をするのは周知のことだが、ミカの指揮も相当なものだ。
ミカは試合中もカンテレをポロロンとやってるが、驚くべきはそのカンテレの演奏で乗員に細かい指示を出せるということだ。音の強弱や緩急が一種の符丁になっていて、アキとミッコはそれを正確に聴き取って操縦に反映させられるとか。ホントかよ。
しかも今年のミカの指揮は目に見えて大胆かつ攻撃的で、チャンスを見逃さず確実に相手チームの戦車を撃破したかと思うとすぐさま姿を消して敵に尻尾を掴ませない。そしてまた新たな敵の死角に忍び寄り、狩る。
サンダースや聖グロといった強豪相手の練習試合でもその戦法を披露し、継続を弱小の貧乏高校と侮った連中を一人残らず戦慄させたという。
「戦場にフィンランドの民謡が流れたら死神が来た合図だ」
そんな噂が流れているレベルらしい。ホントかよ。
しかし、店に顔を出して手伝ってくれるときのミカは到底死神などとは思えない。
今日だっていつものようにロールケーキをつまみ食いして、それを注意されてもやたら韜晦した物言いで煙に巻こうとしてくる。うん、いつものミカだ。
戦車道のことを聞いても「それを語ることに意味があるとは思えないな」などとはぐらかしてくるので、“名無しの死神”の噂の真偽の程を追及しても徒労に終わるだろう。
まあ、ミカらしいといえばミカらしいか。別に無理に聞き出すようなことでもないし、そっとしておこう。
今日は久しぶりにみぽりんとエリカにメールを送ってさっさと寝るか。
――月――日
みぽりんのメールの闇が深い。
2年生に進級してからというもの、多くのストレスを抱えて辛そうなのが痛いほどに伝わってくる。
特にまほパイセンやしほさんとの関係が悪化していることが気がかりだ。
なんでも昨年の練習試合で、相手の隊長に「天翔エミをかばいもしなかった薄情な連中」と痛烈に批判されたことがきっかけだったそうだ。
みぽりんからすればまるっきり的外れな中傷というわけではなく、俺に責任をおっ被せて追い出した形になってしまったのは確かだし、パイセンもしほさんも自分の立場や都合ばかりで力になってくれなかったとみぽりんは思っているようだ。
俺ごときのために西住家の家族仲が悪くなってしまうとかこれは天翔エミ=サンのピロシキ案件では?
みほエリのために好き勝手やった挙句黒森峰を去った俺が言うのもなんだが、みぽりんに俺への友情と人倫に基づいた理由があったように、パイセンには戦車道チーム隊長としての立場が、しほさんには西住流宗家の次期家元としての立場がある。
パイセンは肩書きこそ隊長だが、実態としては西住流のお偉方と黒森峰の隊員達に挟まれた中間管理職のようなもので、あまり出過ぎた言動に及ぶことは憚られるのだろう。
それに大人にだって万能じゃない。できないことなんかいくらでもある。
まして原作のように実の娘に対してならまだしも、俺など赤の他人だ。しほさんだって、たかが娘の友達のために己の進退を賭けてはくれないだろう。
俺一人が責任を背負い込んで転校することで丸く収まるならそれでよかろうと俺は思っている。こっちとしてはみほエリが成せればそれでよいのだから。
今のところはみぽりんに「家族でよく話し合うといい」とアドバイスするに留めた。流石にこの件についてエリカを頼れと言うのは酷だろう。
俺に家族はいないし、俺は誰の家族でもない。黒森峰の生徒ですらなくなった俺には西住家の問題に首を突っ込めないし、どうやって解決すればいいのか見当もつかない。
ただ、時間が解決してくれるような問題でもないことだけは確かなのだ。
――月――日
愛里寿と数回に渡って手紙のやり取りをしてきたが、今回は極めつけにぶったまげた。
なんと、近々継続の学園艦に来る用事があって、せっかくだから直に会ってみたいという申し出があったのだ。
俺としても愛里寿に会えるなんて願ってもないことだった。
ここ数週間の文通を通して、内気で人見知りな割に丁寧な筆致でまめに返事をくれる愛里寿に俺はすっかり夢中になっていた。
欲を言えばボコミュージアムで会いたかったものだが、向こうから足を運んでくれるというのも望外の喜びである。
自分でも滅茶苦茶舞い上がっちゃってるのは自覚してるが、こんな展開を誰が予想できるっていうんだ?
継続の学園艦に来るのは今度の日曜日とのことで、ウチの店で極上の一杯を淹れて待っている旨を書き、手紙をポストに投函した。
いやあ、生きてると良いことってあるもんだ。それとも日頃の行いかな。
さて、日曜日までに店の大掃除だ。あと最高の豆を仕入れておかないと。
――月――日
なんで???????????????
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黒絹の手袋と白磁のコーヒーカップの対照は、俺には何かを暗示するようなものに思えた。
まさに貴婦人そのものという風雅な立ち居振る舞いは、街の片隅の小さな食堂にはおよそ似つかわしくない。ここは暇を持て余したり、俺のコーヒーを気に入ってくれた学生達が出入りする店であって、大学戦車道連盟理事長という大仰な肩書きの人が来るような場所ではない。
だが、俺の内心の動揺など気にした風もなく、目の前のご婦人――島田千代さんは、俺の淹れたコーヒーに顔を綻ばせるのだった。
「貴女のコーヒー、とっても美味しいわ。天翔エミさん」
にっこりと笑った表情は、しかし俺の不安を和らげてはくれなかった。
そりゃあそうだろう。俺は愛里寿がここに来るものと思っていたんだ。それなのに、当日の約束の時間になってみれば、ここに訪れたのは愛里寿のお母さんのほうだったのだ。
驚きのあまり絶句してしまった俺に構うこともなく、千代さんはカウンター席に座ってコーヒーを注文したのだから、俺は黙って渾身の一杯を淹れるより他になかった。
「……ありがとうございます」
コーヒーの味を褒められたので、とりあえずそう言うしかなかった。この状況について何を問うべきなのか全然整理できてなかったし、千代さんが話してくれるのを期待してもいたからだ。
果たして、千代さんはハンドバッグから折り畳まれた紙を取り出して広げて見せた。それは俺のこれまでの経歴を記した、調査書のようなものらしかった。
……俺のことを調べていた? 愛里寿ではなく、千代さんが? 何故?
「天翔エミ。両親並びに親戚はなく、○○市郊外の児童養護施設で育つ。幼少の頃から戦車道に興味を示し、地元の戦車道クラブに参加していた。小学校卒業に伴って施設を出て、黒森峰女学院中等部に入学。同校の戦車道チームに入隊し、装填手を務める……」
千代さんは手元の書類に目を通しながら、すらすらと俺の経歴を読み上げ、品定めするように俺を見た。
「去年のあの事故、大変だったわね。西住流は貴女に全責任を押し付けて黒森峰を辞めさせ、貴女は今まで積み上げてきたものをすべて失った。ひどい話よ」
「……いえ、私が勝手にやったことですから。味方に怪我人が出なくてよかったですよ」
「ふぅん……西住流に思うところはないの?」
「見捨てられたとか、責任を押し付けられたとは思ってません。やるべきだと思ったことをやったまでです」
これは本心だった。俺の人生のすべてはみほエリを成すためにあるからして、必要とあれば増水した川にも飛び込むし学校も辞める。みほエリが成せぬとあればこの世からピロシキすることも辞さない構えだ。
みぽりんやエリカが俺のために怒ったり、気に病んだりしているとしたら、そんな必要はないと言いたいのだが。
千代さんは俺の答えに感心したように目を細め、改めて切り出した。
「まず貴女には謝らなければいけないわね、天翔エミさん。貴女、愛里寿に手紙を送ってくれたでしょう?」
「……はい。彼女のファンのつもりですから」
「貴女に返した返事、あれは私が書いていたのよ。愛里寿は貴女の手紙を読んでもいなかったわ。手紙とかプレゼントは中身を検めて、ほとんど捨てる決まりになっていたから……騙すようなことをしてごめんなさい」
千代さんの口から明かされた衝撃の事実だったが、実際のところ俺はそこまで驚きはしなかった。むしろ腑に落ちたと言うべきか。
言われてみれば、13歳の女の子が書いたにしては文章が整いすぎていたし、字も綺麗すぎる。そもそも人見知りの愛里寿が顔も知らないファンの手紙にこんなに返事をくれるだろうか。
それに愛里寿を溺愛している千代さんのこと、ファンからの贈り物ひとつにも目を光らせて当然だ。島田流の誇る天才美少女に妙な悪戯を仕掛けてくる輩だっているだろうし、本来俺のファンレターなど捨てられて当然と言われればそうなんだろう。
しかし不可解なのは、何故俺の手紙の返事をわざわざ千代さんが書いてくれたか、という点だ。
この美貌の貴婦人が13歳の娘のふりをしてせっせと手紙を書いていたという倒錯的な事実については……まあ、そうねえ……。
「それでここからが本題。私が愛里寿を装ってまで貴女に接触したのは、貴女に興味があったから」
「それは……そうでしょうけれど、でもどうして? 私は黒森峰を辞めて、今は戦車道だってやってません。貴女なら知ってるでしょう」
「ええ、もちろん。それでも私は貴女の装填手としての能力が欲しいと思ったし、今日実際に会ってみて確信したわ。貴女はとっても良い子だって」
日本戦車道の二大流派と称される島田流を取り仕切る女傑は、俺に喜悦に満ちた表情を向ける。しかし俺は、それがライオンが牙を剥いて威嚇してるのとどう違うのか判断に迷わざるを得なかった。
「天翔エミさん。貴女、うちの子にならない?」
千代さんは夕飯にでも誘ってくるかのような気安さで、俺にそう言った。
嬉々として輝く貴婦人の眼差しに射抜かれ、何故だかゾワゾワとした悪寒が押し寄せてくる。言い知れぬ感覚に身震いし、返す言葉のひとつも口に出せない。
うちの子? つまり――島田家の養子ってことか?
マジ? そんなバカな。これは間違いなくピロシキ案件だ。許されんことだ。
転生オリ主が島田家の養子入り? 愛里寿と義姉妹? お前、それは……ダメでしょ???
だけど千代さんのプレッシャーに圧倒されている俺は、断るにしてもどう切り出せばいいかわからなくなっていた。
第一、千代さんの側は俺が断るなんて欠片も思っていなさそうで困る。どうして俺ごとき砲弾を装填するしか能のない奴を欲しがるのか理解不能だ。
大人のやることだからといって一から十までもっともらしい理由があるとは限らないものだが、俺には千代さんの考えていることがサッパリわからない。
「悪い話ではないと思うの。私としては、優れた装填手であり偵察兵である貴女がどうしても欲しい。貴女は最高の環境で戦車道が続けられるし、私達が家族になってあげられる。不自由な暮らしはさせないわ。どうかしら?」
「その申し出は嬉しいですけど……買い被りですよ。私は装填手しかできない一兵卒にすぎません。きっと島田さんを失望させてしまいます」
「あら、ずいぶん謙虚なのね? もっと自信を持っていいのに」
くすくすと笑いながら、千代さんはカウンター越しに俺の顔にそっと手を伸ばす。
頬を撫で回す黒絹の手袋の肌触りが心地よいが、俺の身体は緊張で金縛りにあったみたいにガチガチに固まってしまう。
「……可愛いわ。エミさん、すごく可愛い。ますます欲しくなっちゃう」
「え、ええと、あの……」
「貴女を最も活かせるのは西住流ではなく、島田流よ。私の下に来ることが貴女にとってベストな選択なの。わかってくれるわよね? 愛里寿だってきっと喜んでくれるわ」
千代さんは優しく言い聞かせるようでいて有無を言わせない口調で、俺の瞳を覗き込みながら言う。目が怖い。なんか誰かに似てる。割と最近こういう目をした人にこういう目を向けられたような気がする。
だけど、それは誰の? こんな昏い光を宿した目を、俺はどこで見たんだろう。
その瞳の奥は吸い込まれそうなくらい深くて、途方もなく綺麗だった。そんな、底なしの闇を湛えた目の持ち主は……。
俺が記憶の引き出しをひっくり返して千代さんと同じ目をした誰かを探していたその時、店のドアが開かれてアンティークのドアベルが軽快な音を鳴らした。
「日曜も開けてるなんて珍しいね。何かの記念日かい? それとも、特別なお客さん?」
戸口に立っていたのは、いつものようにカンテレを抱えたミカだった。
心なしか弾んだミカの声にわずかばかりの安堵を覚えるが、俺の目と鼻の先で千代さんの陶然とした表情は一瞬で消え失せ、ゾッとするほど冷たい目を振り向けた。
千代さんの不快感に満ちた視線が、ミカを射抜くように注がれる。
そして――そこにいたのが島田千代であったことに気づいたミカもまた、驚愕に目を見開き。
その顔が見る見るうちに憤怒と怨嗟に昏く彩られていくのを、俺は見てしまった。
今まで一度だって見たことはない。こんな表情をしたミカは。
「どうして……どうしてお前がここにいる! 島田千代ッ!!」
静謐を破り、“名無しの死神”と呼ばれた女の絶叫が響き渡った。
続きます。