過ぎ去りし時を求めたイレブンは、かつての仲間たちのことを忘れられず、仲間たちに一線を引いたまま旅をつづけていた。
そして、時は流れ、世界で起こる様々な異変を解決し、邪神に挑むためにネルセンの試練を受けていた一行はイレブンがかつて過ぎ去りし時を求めたその日を迎える……

向こう傷を持つ、罪の意識に囚われた勇者がすべてを昇華するまで。

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2017年にpixivに投稿したエタ連載、「向こう傷の勇者」を再編成、加筆、完結させた短編です。
2019/1/12 誤字訂正と少し加筆しました。


向こう傷の勇者

 命の大樹に向かったあの日、イレブンは何が原因かはわからないが、すっかり別人のようになっちまって、オレたちが知らず知らずのうちに求めてしまっていた、「勇者」そのものになったとばかり、思っていた。

 

 少しばかり、いや、少しとは言い難いが、幼いとしか言いようがなかったあのやわらかい笑顔も、ふとした時にぼうっとして、なんとものんびりしているやつだなと思わせたスキのある様子も、全部どっかに置いてきちまったんだ、と。

 

 ひたすら真っすぐに立っていて、欠片も迷いもなく剣を振るい、眼光は恐ろしいほど鋭く強い、……そうだ、オレがデルカダールの牢獄で想像していたような「勇者サマ」になっちまったんだ。

 

 どこか頼りなかった勇者サマがどんな状況でも頼れる、何でも誰でも救っちまって、どんな悪い状況も覆すような「勇者サマ」になったことは歓迎すべきことのはずってか?

 

 そんなこと、歓迎できるかよ。

 

 あんな、生まれながらに勇者だからって、伝説の再現そのもののような人間がイレブンなわけじゃない。

 

 田舎者で、おどおどしていて、世間知らずで、のんびりしていて、ちょっと一時期表情が乏しい時もあったが、よくオレたちと笑い合っていたのに。

 

 なのにそれを今は欠片も匂わせずに……次々と信じられないような出来事が起こっても、今の「勇者サマ」は表情こそ取り繕ったように驚いたようであっても本物の動揺をオレたちに見せなくなったんだ。

 

 動揺を見せない。つまり、感情を押し殺しちまったか……それか、裏の社会でたまにいる、地獄を経験した挙句、性根がねじ曲がったり、内面を全部失っちまったやつみたいだった。

 

 妙だよな、あいつが田舎から出てきて、そんでデルカダールの牢獄から今の今までずっとオレと一緒に旅をしてきたっていうのに。どこで変わるっていうんだ?

 

 それでも勇者の剣を手にしてからのことならまだ、勇者ローシュのような存在の記憶を紋章の力で見たとか、引き継いだとか、力を剣から得たとかでまだ分からなくもない、が。

 

 イレブンが変わったのは、思えば、命の大樹へ向かう前にラムダでふらふらっとどっかに行っちまった後からだったように思う。

 

 だが、それでもあくまで「別人のように」変わっただけだ。そっくりそのまま別人になったのだとは思えなかった。

 

 デルカダール王が長年ウルノーガに操られていたように、イレブンも誰かに操られているんじゃねぇかと考えなかった訳じゃないが、こうも変わっちまっても行動の端々にイレブンだとはっきり思わせるものがあって、疑うのはそれ以上やめた。あぁ、イレブンには違いはなかった。

 

 やわらかさを失った目の光も、鋭く凛々しい眼差しはイレブンのものには違いない。

 

 そうだな、今はもう、ほぼ完全に感情を見せちゃくれない鉄壁の顔をした「勇者サマ」だが、まだ、変わっちまってから最初の方はそうでもなかった気もする。

 

 一番顕著だったのは、あのホメロスがウルノーガに殺された時の、心底驚いて、それからあんなに憎らしい野郎で散々オレたちが追い回されたりしたっていうのに……痛ましげに目を伏せたことだな。

 

 グレイグのおっさんには悪いが、あの時点でオレたちのホメロスに対する印象でいいものは一つもなかった。それはイレブンも同じだろうに、お優しい勇者サマだなと思っていたからよく覚えている。

 

 他にも、邪神が復活してから各地で起こった異変を駆けずり回って解決していた途中で見かけた、特に関わりがあったわけでもないやつをみて酷くほっとした顔をしたり、ああそうだ、人間を見てって意味で目に付いたのはベロニカに対してだな。

 

 しばらく、ベロニカをただ見るたびに泣きそうな顔をしていたぐらいだ。もちろん、ベロニカに身に覚えがある訳じゃあない。

 

 歴戦の勇者そのものと言って良いほどの力を手にして、その力を振るって、そして手の届かない存在のはずの勇者サマが人間臭くも愛される、あの笑顔を見せなくなって、いっそ危ういほどの世界への献身と、勇気ある振舞いってやつを何の迷いもなくやるようになって。

 

 かと思えば、見たこともないほど鋭い切れ味の武器を……どこでレシピを手に入れてきたのか、そしてそんなに鍛冶の腕がよかったのかと少し疑うが……差し出して使うように……こちらが何も言えなくなるような凍り付いた無表情で言ってのけるようになった。

 

 オレたちと明らかに距離をとるようになったっていうのに、これまた見覚えのない、いくつか傷のついた……つまり、「誰か」が使っていただろうナイフをひっそりと懐かし気に眺めていたり、そっと触れていたりするんだぜ? あぁ、そうだ、心底愛おしげに目を細めて。

 

 どうかしていないわけもない、どこか痛々しく何かを失った様子のイレブンを見てオレが、何もしなかったわけじゃない。

 

 他のやつらももちろんイレブンの様子がおかしくなったことに気づいていて、そのことについて話し合ったことも、あんまりにも様子がおかしい時に直接どうかしたのかと尋ねたこともある。

 

 そして何をしても収穫はなく、イレブンはさらにオレたちと距離を置く。それは確かな拒絶ではなかった……が、明らかに線を引かれていたってわけだ。

 

 イレブンとの会話がないわけじゃない。話しかければ今までと同じように返ってくる。ただ、あの、前のような屈託のない笑顔も、気安さもなく、言葉を慎重に選んだ様子のイレブンが、なんとか取り繕って言葉を返しているといったありさまだ。

 

 それをこう、なるべく刺激しないように遠回しに指摘したって……「なんでもないよ」としか返ってこない。

 

 そんなはずはないのに、だ。

 

 まさに暖簾に腕押し、何をやっても意味がない。そんな日々が続いていて、オレたちもそりゃあ、まいっていた。世界の問題はどんどん解決していくが、イレブンとオレたちの関係はなにも解決しないわけだから。

 

 ……あの日、までは、本当に、なんの手がかりもなかったな。

 

 邪神ニズゼルファはウルノーガより何倍も強敵だと空を見上げるだけで感じる気配で分かっていたから、力を鍛えるのにおあつらえ向きなネルセンの試練を受けることにひたすら集中していた日々が続いていた。

 

 そうだな、時期は……命の大樹に登ってから九か月ってとこか。

 

 あれは……特に前兆はなく、不意に「何か」がオレに重なって、溶け合ったような感覚と強烈な違和感が襲った。いろんなものがオレの中に返ってきたような不思議な感覚だった。

 

 だというのにあと一歩、何かが思い出せなくて。ベロニカだけはその感覚がなかったのか首をひねっていたが、それ以外の全員が多かれ少なかれ、喉元につかえたような違和感を感じていた。

 

 だがあの日は違和感なんてロクに追求しているヒマはなかったな。……違和感とほぼ同時にイレブンがぶっ倒れたからだ。

 

 そして、鬼気迫る勢いで戦っているうちに、とうとう自分の回復まで疎かにするようになっちまったのかと寄ってたかって服を引っぺがしてまで治療しようとした……距離を置かれすぎて距離感をつかみ損ねたオレたちが暴走した結果だが……とき、だ。

 

 強烈な違和感が、気持ち悪くなるような、最悪の違和感、焦燥感になったのは。

 

 イレブンの体に見覚えのない古傷が、目の前で刻まれていくのを目にしたんだ。胸の真ん中にひときわ目立つ丸く爛れた傷が深く刻まれて、それを信じられない心地で見ているうちにオレまで頭がガンガン痛んで、腕や足にしびれるような痛みが走った。

 

 予感はしていたが、服をまくってみて見れば痛みのもとには傷跡がきっちりあったさ。イレブンよりはうっすらとした古傷だが、負った覚えのないものが。そして、負った覚えがないというのにどうしてかしっくりくる傷跡が。

 

 とりあえず、深く刻まれていても古傷は古傷できっちり塞がっていて、それ以上の治療のしようもなく、それ以上の悪化もないことを確認した。イレブンを宿屋のベッドに寝かせるとまた、会議だった。

 

 古傷はイレブン以外だとグレイグが顕著だったっけか。だがそれより不思議だったのは、グレイグのおっさんには少し遠慮のような引いたところを感じていたのにそれがすっかりなくなっていたことだったか。

 

 そうであるのが当たり前だと、仲間としているのが当然だと……いやまあ、これだけの期間、共に行動しているのだからそろそろ引け目を感じないでもらった方が当然なんだが……そう、すんなりと飲み込めた。

 

 いい変化には違いないが、決定的な何かがオレたちを変えた感覚は得体がしれないだけに気持ちが悪い。

 

 それにその時の会議といったって、何一つ分かっちゃいないのに何の解決策が見いだせる? 結局ベロニカ以外に負った覚えのない傷が現れたことぐらいしかわからなかったし、その間もずっと、イレブンは不気味なほど静かに眠っていた。

 

 身体中、回復魔法があれば残るはずのない傷跡が全身におびただしい姿はどうしたって痛ましく思える。あぁ、そういえば、ああいう引き攣れた傷の残り方には覚えがあるな。

 

 薬草の手持ちが少ない緊急事態に、なけなしの薬草で出血だけをなんとか止めて、そのまましばらく放置してから魔法で一気に治したって傷だ。……そんな、緊急事態なんて、オレたちに起きたことなんてないのにな。

 

 

 

 

 

 

 身に覚えもなく倒れたボクが目覚めたのは、どうやらその日の夜だった。当然、ぶっ倒れたボクを担いでネルセンの試練を受ける訳にもいかなかったみたいで、みんなはキメラの翼でダーハルーネに向かい、そのまま宿をとったみたいだった。

 

 ざざーん、ざざーんと遠くに聞こえる波の音と、微かな潮の香り。そしてソルティコやナギムナー村ではありえない湿気の強い空気だ。間違いない、と思う。

 

 目を覚ますと小さなランプの明かりが灯っていて、あぁ夜まで眠ってしまったのかと悟った。なんで倒れたかなんてボクにも、その時は分からなかったからどうみんなに説明しようか頭を抱えた。

 

「イレブン、目を覚ましたか」

「カミュ」

「顔色は……そこまで悪くないな。良かった」

「……」

 

 同室は今まで通りカミュだったらしく、そのまま手馴れた様子で熱を測られたり、顔や目を覗きこまれたりするのに抵抗する気もなくなってしまった。

 

 カミュは名実ともに「お兄ちゃん」だから、年下のボクが抵抗してもなんだかんだ言い含められて同じ結果になってしまうことぐらい分かっていた。面倒見のいい彼に無抵抗でいて、もう大丈夫だと自分でわかってもらった方が楽でいい。

 

 自分でもかつての彼らが忘れられないせいで到底真摯とは言い難い態度をとっていたのに、その上もうカミュの贖罪は果たされたっていうのに、カミュはずっと、牢獄にいた時の優しさからなにも変わらずにいるように、思う。何故だろうか。何故なんだろう。ただ優しいから、……それだけ? そんなはずはない。

 

 正確には、何も聞かないでくれていたってこと、とつく優しさに違いない。みんな。そして、カミュも。本当にみんなは優しい。ボクはそんな「みんな」を置いていったのに。

 

 ……その、甲斐甲斐しい介抱の最中に気づいた。時を渡ったあの日に消えていた、かつての傷跡が全部、体に戻ってきていることを。その数はボクの未熟の証だ。その深さはボクの迂闊さの証拠だ。そして胸の傷は、絶対に忘れちゃならないボクの罪そのものだ。

 

 当然、みんなもカミュも覚えがないから、目覚めるまで相当心配させて、やきもきもさせたと思う。もう、何かしらの説明をしない訳にはいかないだろうな。

 

 ああ、怒られるかな。それとも、黙っていたことや、今までの態度や、かつての時の仲間を置いてきたことで見放されて、失望されて、呆れてもう何も言われないかな。

 

 どっちにしても、かつての「カミュ」なら烈火のごとく怒ったに違いないと懐かしく思い出す。記憶喪失になったことのない、ボクらとはぐれたことの無いこのカミュはかつての「カミュ」と違って、ボクにあの狂おしいほどの執着を見せることは無くなっていたから。

 

 そうだ、「あの時」では「カミュ」の目に届かないところで怪我をして、それを少しの時間でも治さないで戦っていたらどんな顔をされるのか毎回想像がつかなかったぐらいだから。

 

 それがない今は酷く気楽で、そして、心が冷たく冷たく凍るよう。

 

 ボクの目の前にいるカミュは、ボクに勇者なんてやめちまえ、なんて言わない。いっそ心中でもするか、と軽い口調で言ったりしない。巻き戻した世界は結束力をあの時のように見せないけれど、そんなに追い詰められるほど残酷な世界じゃないから。

 

「イレブン」 

「この、傷のことの説明でしょう、分かってるよ」

「……イレブン」

「分かって、るよ……」

 

 カミュの声はいつになく、そしてどこまでも優しかった。咎める様子もなかった。かつてのように、こういうことで怒ってはくれない、穏やかに優しいカミュだった。

 

 手を引かれながら、みんなが待っている広い部屋に連れられていく。

 

 あぁ、実感する。記憶を失っていても、ボクが何かをやらかしたら怒って、泣きながら怒って、それほどまでに想ってくれて、浅ましいボクの弱音を受け止めてくれる「カミュ」はもういない。 

 

 それがはっきり分かって声が震えた。彼らの前でもう、無様に泣いたり、怒ったりしないと、どこまでも完璧に「勇者」をやりきろうと誓ったのに、元々対して強くもないボクだから、勇者のメッキがもう、ボロボロだった。もともと猫かぶりは得意じゃない。経験値の差だって、もうとっくの昔に埋まっている。

 

 懐にある、「カミュ」が愛用していて、そしてあの時にボクに託した短剣を握りしめる。今のカミュに渡した、もっと攻撃力の高い……あの時は作ることが出来なかった短剣とは比べるまでもない性能のものだけど、それがボクにはどこまでも大切な御守りで、握り締めていると「カミュ」がボクを励まして、叱咤して、抱き締めてくれているように思えた。

 

 御守りで落ち着こうとしても、怒った様子すらないのに、カミュの顔を見るのは怖くて、俯く。

 

 きっと、きっと、怖がらせないように優しく微笑んでいると思ったから、そして同一人物とはいえ、あの時の君ではないカミュに、ここで縋ってしまったら申し訳が立たないと思って、それで、無様に目も合わせられない。

 

 あぁ、「カミュ」。置いてきてしまったはずなのに、君も、負った傷も。なのにどうして君じゃなくて傷だけを取り戻してしまったんだろう。そんなもの、要らない。傷を見ては君との思い出を悲しく反芻するだけだ。

 

 「カミュ」。そして、「みんな」。ボクが過ぎ去りし時に置き去りにしてきてしまった仲間たち……ボクは、情けないことに、ちっとも成長していない。

 

「どうしたんだ……いや、いつからなんだ?」

「それは、分かってるでしょう」

 

 いつから、なんて。白々しいよ。それは分かってるでしょう、君にも。他のみんなにも。

 

 あぁ、懐かしい。頬の下の方から首筋にかけて走る傷跡がちょっと突っ張って少し喋りにくいんだ。

 

 ……この傷も戻ってきたんだね。あの時の「カミュ」は、記憶を取り戻してからボクの顔を、この傷を見て泣き笑いみたいな顔をして、随分男前になったな、なんて心にもないことを言っていたっけ。

 

 ボクはあの時、笑えたんだろうか。辛い記憶がすべてを押し流して、分からない。

 

 あの時は、そう、怒られるんじゃなくて、そう言ってくれるのを、ボクが望んでいるとお見通しだった「カミュ」の優しさだった。

 

 顔に傷、なんてまるで歴戦の戦士のようだけど、負った理由は至極くだらない。

 

 魚から人間に戻ってから、這う這うの体で最後の砦に向かうまでに、セレンさまに助けてもらった命だというのにどうにもやりきれない気持ちが勝って、それで、傷を負いすぎて力尽きそうだった時に魔物に追撃されただけのこと。

 

 あのときは……暗い大地、太陽のない空、凶暴化した魔物、ムウレアへのジャゴラの襲撃を目撃したばかりで半狂乱になっていたせいで、ベギラマとかメラミとかの攻撃魔法を連発した後だったから。

 

 魔力もとっくに尽きていて、手持ちには薬草が残りたったの一枚きりだったんだ。それでもなんとか傷の止血には成功したけれど、傷跡がしっかり残っている傷の一つになってしまった。そのあと、なんとか辿り着いた最後の砦は物資が不足していて、到底命に別状のない傷を治す余裕もなかった訳だし。

 

 ボクも、少し眠ればなんとか傷を塞げるだけの魔力が回復するってわかっていたから傷を治してくれだなんて言わなかったな。そして次の日にも早速治したのだけど、中途半端に傷を塞いでいたせいで深い傷跡が埋まることはなくってこのざまだ。

 

 少々引っぱられて喋りにくいっていうのは不便ではあるけれど、ボクの至らなさを忘れないでいられるというのは、悪くは無い。もちろん良いわけはないけれど。

 

 そういえば、とボクの隣に座ってボクが本当に大丈夫なのかどうかまだ見分しているカミュの右腕をそっと掴んだ。ここには確か、「カミュ」が負った、ボクをかばって腕を切り落とされかけた時の傷があったのだけど……ボクに傷跡が戻ってきているということは、カミュにもあるんじゃ……と、不安になったからだ。

 

 カミュは予想はしてたのか、小さくため息をつくと袖をまくり上げた。

 

 そこには、ボクよりはうっすらとしていたけれど、確かにあの時の傷跡があった。……あぁ、かつての傷が、カミュにもあるってことは、ほかのみんなにも……つまり……。

 

「イレブン。……オレも、他のやつらも、傷跡についてのどんな謝罪も受け入れないし、必要ないと思っている」

「そん、な。セーニャも、マルティナも、傷が……あんな、ボクのせいなのに?」

 

 ボクはばっと顔をあげてカミュを見た。カミュは顔をあげたボクの顔をしばらくあきれたように見ていたけれど、ゆっくりと首を振る。

 

「イレブンのせいだなんて誰も思っちゃいない。今のお前は説明しないといけないとか考えているだろ? 伝言であり、オレからの言葉でもあるが、無理に説明なんてしなくていい。オレたちのことを思いやらなくていい。ただ、イレブンが言いたいならば聞く。それだけだってことを……分かってくれよな」

「すぐに説明するさ」

「おい、話聞いてたか?」

「うん」

 

 ああ、カミュはどこででも、優しくて困るから、ボクは無理矢理話を打ち切った。そうでもしないとあの「カミュ」と同じように、でも全く違う意味の優しい表情を浮かべるカミュに今すぐ縋ってしまいそうだった。

 

 泣きついて、そして優しくされてしまってはいけない。

 

 ボクは自分の罪の深さを理解しているんだ。まだ世界は安全じゃない。ボクはかつてと同じだけの時間をかけても世界を平和にできなかった。その上、未婚の女の子たちに、大切な仲間たちに傷なんて必要のないものを押し付けてしまった。

 

 ああ、あの、魔王の手がボクの胸を貫いた時の傷が久しぶりにじくじく痛む。忘れてはならないボクの、最も大きな罪の痛みだ。

 

 それを堪えてベッドから立ち上がろうとすると、いきなりカミュがボクの肩を掴んだ。ボクの顔を凝視しながら。

 

 ……ううん、頬の下の方から首筋にかけて走る傷を見て、だ。この傷は深い。深いわりには幸いなことに、明るいところじゃなきゃはっきりとわからない。俯いていたから分からなかったんだろう。

 

 逆に言えば、明るいところだと誰にでもわかる傷だけど。

 

 だから今、気づいたんだろうなあ。多分、ボクが眠っている間は体の傷に気を取られていて気づかなかったんだと思う。

 

 そういえばこの傷、出血がひどくて、血を止めたといっても所詮薬草一個分のもの、再会したエマには血みどろすぎて悲鳴をあげられるわ、母さんに会えた時には嬉しさより先に貧血の限界でこれまたぶっ倒れるわで散々だったっけ。

 

 魔王の傷と違って思い出がどれもこれも覚えていたくないレベルで散々だからある意味戻ってきてほしくないところでは、あったね。

 

「これは、何だよ」

 

 カミュの綺麗で器用な指先が傷跡をなぞる。くすぐったくて、目を細めた。するととがめられたと感じたのか、少しだけカミュは狼狽えたけれど、引く気配はない。

 

 ……あのときは、非常事態だったから、あの程度の追及で済んだけれど、あの執念深い「カミュ」とカミュは同一人物なわけだから、これは面倒なことになったかもしれない。

 

 ううん、あの時と違って、カミュとボクは互いがなければ立っていられないような状況でもなければ、あの時のように共通のことを共有して、そして、ボクが脆く弱い勇者で頼りなくて、カミュなしにはどうにもならなくて、カミュはそのことがどうしてかまんざらでもないようにいて、支えてくれた、そんな歪な関係ではないのだから大丈夫といえば大丈夫なのだろうけど。

 

 でも、あの時の執着を見せた時の「カミュ」とそっくり同じ目を、カミュはしている。この青い夜の海の瞳がどろりと妖しい光を帯びて。

 

 ボクは、努めて冷静な声で言った。

 

 この、今を生きる君は、出来損ないの勇者にすがるべきじゃない、と頭の中で呟いて。

 

「傷跡だよ、未熟者の」

「そういうことじゃない」

 

 男前でしょ。そう君の言葉を真似することはできなかった。

 

 カミュは、ボクをそのままベッドに押し倒した。……いや、これは、そういう意味じゃないだろうけれど。どちらかというと、あの狂ったような執着を見せた「カミュ」がボクを問い詰めるとき、自分以外を見せないようにする時のやり方だ。

 

 恐ろしく整った顔が、今は本当に恐ろしい。息がかすかに顔にかかる。目が近い。瞳の奥の、普段はあるきらめきが遠い。あるのは飲まれそうなほどの、夜の海。

 

「傷を負ったのはある程度仕方のないことかもしれないが、こんなに出血しやすく分かりやすいところにこんな傷跡が残ってるのは何故だ? 傷は塞がっていてもぼろぼろで、どんな激しく酷い有様だったんだ?

セーニャもじいさんもお前も回復の魔法を使えるくせに傷の出血だけをなんとか取り繕ったって跡だろう? それを後から強力な魔法でふさいだってとこだろう? なあ、周りは、オレは何をしていたんだ? イレブンを一人にして、イレブンはこんな傷を放置して進まなきゃならないほど切羽詰まってたってことだろう? 顔に傷だぞ? 

絶対に、絶対に残しちゃならない傷なのに、残ってるってことはそうなんだろ? なんで……」

「カミュ!」

 

 それ以上、聞きたくなかった。カミュが自分のことで苦しむ顔も、そしてボクを責めるつもりがだんだん自分を責め始める様子も、見たくなかった。

 

 昏い色を宿していた瞳はボクの声ではっと元の深い海の輝きを取り戻し、近すぎる顔を慌てて離した。

 

 いつもの表情、いつもの色だった。

 

「わ、悪い……」

「……気に、しないで。気になるのは当然だから。でもこの傷は本当にみんなのせいじゃないんだよ。ボクがただ、未熟で、迂闊で、魔物に後れを取った。それだけなんだよ、カミュ」

 

 そっと傷跡に手を添える。刻まれた凹凸が指先をザラつかせ、それは思ったよりもはっきりとしていた。深い傷跡だとは思っていたけれど、あの時はまじまじと鏡で、塞がって問題のない傷の様子を確認したりする余裕はなかったから、想像より見た目が酷くてカミュを動揺させたんだろうなと思った。

 

 傷は暗いところなら見えにくいと慰めのような言葉で教えてくれたのは、そういえば「カミュ」だったから、気を遣ったのかもしれない。それに……盗賊だった「カミュ」なら夜目が効くだろうから……ああ、完全に慰めの言葉だったってことだ。

 

 優しいカミュのことだから首という急所に傷をつけていたらそりゃあびっくりもするだろうね……。

 

 そして今度こそベッドから立ち上がろうとするとカミュは手を取り、起こしてくれた。……いや、今度は手にたくさん戻ってきた傷跡が見たかったんだろう。

 

 手は深い傷跡こそ少ないけれど、手にも無数の傷跡がある。もちろんどれもこれもボクの至らなさによるものだ。カミュの手にもあったはずだけど、ボクより傷の薄いカミュには、とりあえず目に見えてわかるような傷跡がないようでほっとした。

 

 じっと見て、ゆっくりじっくりと見分して、手をぐっと握られた。思いつめたカミュの表情を見て分かってるよ、なんて暗に説明するなんて言わなきゃよかったと少し後悔した。でももう遅いわけで。ここまできて、こうも動かぬ「なにもない」はずもない証拠があるのだから。

 

 やっぱり話さないなんて無理な話で、それに、みんなにも傷があるわけだし。

 

 そしてそれとは別にボクはカミュという人間が、この世界では随分その気が薄いのか、はたまた押し隠しているようだけど、案外あんな関係になる以前から「勇者」という「相棒」の存在に執着をしていて、嫉妬深くて、そうだ、「あの時のカミュ」の言葉で言うなら「我慢ならない」らしい。

 

 えっと、自分の知らないボクのことがあるのが、だそうだ。執着が過ぎてあまりにも熱烈すぎるから今のカミュには当てはまらないと思うけれど。

 

 ただ、やっぱり、カミュという存在に違いはなくても命の大樹の一件からずっとよそよそしく、踏み込まれないように一線を引いて接していたボクのことを、かつての「カミュ」のようにがんじがらめにしてくるかと聞かれれば果てしなく微妙だ。

 

 縋る理由がないから。

 

 ただ、あの時は。無理矢理砕け散りそうになる心を集めて、最後まで決して諦めてはならないと何度も繰り返し唱えて、前へ進み続けたかつての日々の中では。

 

 あの絡みつく蜘蛛の糸ごとき執着と、繋ぎとめてくれる彼の寄り添いが拠り所だったのは確かで、隣にいてくれることが本当に心地よくて、今でも夢で「カミュ」を求めることが少なくないのは確かだった。

 

 ボクが、耐えなければならない孤独にそろそろ耐えかねていることも、だからこそ、理性の上ではかつての悲劇、かつての異変がなかったこの世界で、なおさらカミュという自由な存在をボクが邪魔してはいけない。

 

 ボクは手を離す。君はボクを引き寄せない。それでいいじゃないか、それで。

 

 あの時みたいにつなぎとめてくれる必要はないんだ。ボクはあの時よりは強い。ボクは今度こそ、大樹を守れた。……守れなかった人も、いたけれど。カミュはもうボクを繋ぎとめる必要はないんだと、今度はこのことを自分に繰り返し唱えていかなくちゃならない。

 

 そんな、考え事をしながら、カミュの心配性な手にひかれて歩いていたから気づかなかった。かつてのあの、昏い瞳とそっくり同じ目でカミュがボクを見ていたことに。

 

 当然だろうけれど、聡いカミュはかつての「カミュ」の存在に気づいていたから、「嫉妬深い」カミュが許すはずがなかったんだ。

 

 ……ボクは、カミュのものだった。カミュがあの世界で立っているために必要なものだった。相棒と呼びながら、ボクを君は所有していた。

 

 それ故に、失念してはいけなかった。あの執着は、あの、勇者という存在ごとボクを包み込んで、ボクに囁いて、ボクを進ませて、ボクを、どうしても手放したくなくて。

 

 でも、「カミュ」は勇者をも所有していたから、進ませないわけにはいかなかった「カミュ」、いや、カミュが、そう簡単にボクをその蜘蛛の糸、海原の檻から出してくれるはずもないんだってことに、気づかなきゃいけなかった。

 

 ボクだって、あの心地よい腕の中から出たくなかったんだ。でも、一度は飛び出した。勇者として立たせてくれる存在から目を背けた。

 

 そして、二度目は本当に、二度と離されるわけはないって。なんでボクはすぐに気づかなかったんだろう。その二度目は、カミュがこの時ボクの手を引いたその時に違いない。だけど君は優しくて、ボクの呪縛が解けるのをただ見守っていてくれたんだ。

 

 

 

 

 

 

「何から言おう? 何が気になる? この期に及んで黙ってることはもうないよ」

「全部って言ったら困るか?」

「困るよ。だって今も何から言おうか迷ってるんだから」

 

 イレブンは困ったように、眉を下げた。その様子は今までの九か月のように言葉を選んだものでも、表情を取り繕ったものでもない。それがオレには嬉しかったが、イレブンの表情が依然として晴れることはない。

 

 むしろ、話さなければならないことは気を重くしているらしく、向こう傷を隠すかのようにうつむいていた。

 

 顔の傷も、当然幻のように消えることはない。イレブンの顔にある傷は、少し見ただけだから本職にもじっくり見てもらわねぇと詳しいことは分からないが、無くしてしまうのは難しそうに見えて、オレはまた悔しく思った。

 

 イレブンを守り切れず、そのくせそんなイレブンを見てきた、イレブンをこうも自分の内に閉じこもらせ、イレブンを孤独にした「オレ」が憎らしくて仕方がない。

 

 だがイレブンは、「オレ」とオレを同一視しない。ならばオレも応えなくてはならない。

 

「端的に言ったら、そうだなあ。ちょうど今の時期ぐらいだったかなあ。ボクは今から過去に戻ってきたんだよ。信じられる? ボクも……この記憶と、この傷が返ってこなくちゃみんなに言う気はなかったし」

「過去、とは、今のことじゃろうか……」

「うん、ロウじいちゃん。そうだね、今は、みんなにとっては今だね。ボクはそうだ、それなら未来から来たってことになるのかな。大樹が落ち、おびただしいほどの人が死んで、ボクも、大切な人を失って、そして、『魔王』ウルノーガを倒し、大樹をよみがえらせたけれど……失った命は当然戻らなかった未来から」

 

 イレブンはそっと頬の傷を撫でた。そしてオレの傷跡のあたりを見つめ、ロウじいさん、セーニャ、シルビア、グレイグ、マルティナ……そして最後にあの泣きそうな目でベロニカを見た。

 

「ああ、今度では失わなかった」

 

 泣きそうな、ではなかった。久しく見た、イレブンの感情らしい感情は、安堵の涙となってぽたりと彼の膝を濡らした。

 

 

 

 

 

 

「知っている人も、近しい人も亡くなった」

 

 イレブンは自分の体を抱き締めるように腕を回した。震えを抑えるように。

 

「特にベロニカはボクらを守って死んだ」

 

 揺れる金髪のお下げを、潤んだ目で見て、微かに笑う。それは安堵の色をしていた。他に死んだ人間のことを教えるつもりは無いらしい。

 

「大樹は魔王に勇者の力を奪われ、そして落ちた」

 

 胸の傷を見られたことを察していたのか、胸元に軽く手を当てて見せる。あの背中にまで及んでいた胸の中心の傷の意味。

 

 あんな場所をあんな傷跡が残るほど大きくえぐり取られて、無事だったはずがない。だが、お前はそれを過去の事として語る。

 

 ただ、すべて自分の咎なのだと告げるようにイレブンは続ける。

 

「大地は崩れ、焼き払われた。太陽は奪われ、山は崩れ、海には脅威が襲った」

 

 穏やかな世界しか知らないオレたちに告げたくはなかっただろう、優しいお前の表情はだんだんと凍てつき、目はこの世界の「もしも」へ向く。

 

「たくさんの人がその時に死んだ。多分、あの時死んだ人は大樹に還ることは出来なかった」

 

 大樹の愛し子は、それでもきっと暗い世界を照らし、導き、大樹の代わりに死にゆく人々をきっと慰めたのだろう。

 

「凶暴化した魔物に侵略され、デルカダールは滅んだ」

 

 イレブンの目には、今日も変わらぬ活気があるデルカダールではなく、瓦礫と化した祖国のような有様であるデルカダールが映っている。今いるダーハルーネはどうだったのだろうか。穏やかな世界を見ながら、幻影に怯える。

 

 だが、それは、イレブンにとっては、イレブンだけには幻影ではなく本物だったのだ。

 

 そんなお前はオレたちを通して「オレたち」を見ない。かつてを通して今を見ない。だが、その過ぎ去りし時をお前は決して忘れることが出来ない呪いがはっきりと蝕んでいた。

 

「魔物によって、またたくさんの人が死んだ」

 

 それは自分が殺したとでも言うように、それくらい強い口調だった。

 

 あの時。ホメロスの奇襲が成功し、ウルノーガに勇者の力を奪われたなら。たしかにその未来は来たのかもしれない。だが、その「オレたち」は必ずイレブンのせいではないとも言ったろう。

 

 それは「オレたち」の罪でもあったのだから。

 

 イレブンを知る者ならば、誰が責めるものか。だがイレブンは、その心を凍てつかせて、自分を一人で責め続けた。

 

「ボクは、真実を知って仲間になったグレイグと共にバラバラになった仲間を集めた。……大樹の崩壊でボクらを救って亡くなったベロニカ以外の全員を揃えたあと……先代勇者たちのように、ボクらは勇者の剣を作った。力を合わせて、祈りを込めて」

 

 その剣はイレブンの手元にない。隠しているわけではなく、本当にないのだろう。二振りの勇者の剣は両方とも目の前で入手している。つまり、「未来」に置いてきたか、折れたのだろう。

 

「……あの日、勇者の剣が奪われたから、奪われなきゃ……」

 

 もう、責めるな。

 

 そう言いたかったが、誰も口を挟めない。

 

「同じように奪われたオーブを取り戻し、ケトスに乗ってウルノーガの居城に乗り込み、倒した。ボクたちはそれを成せた。大樹はよみがえり、世界はほとんど元通りになった」

 

 語られる、勇者イレブンの喪われた軌跡。滅びに瀕した世界を救った旅路。

 

「でも、当然だけど、失った人は戻らなかった」

 

 そして、勇者はすべてを自分の咎と見る。

 

 安堵の涙も乾かぬ中、イレブンは語り続けた。時折、大きく走る向こう傷が邪魔らしく、手を添えて少し口篭ることもあったが、どんなに辛そうな顔をしても話すのをやめようとはしなかった。

 

 順を追って話す中、イレブンは仲間の傷を一つ一つ詫びながら、どうして負ったのかを語った。どんなにもういいと言われても、その傷を癒せなかったのも、負うことになったのも自分が未熟者だったからだと言い、頑として撤回しようとはしなかった。

 

「ボクらは、あの世界を救えた。それは間違いなかったけれど、救った先でボクらが見つけたのは……世界そのものを巻き戻して悲劇をなかったことに出来る、夢のような話だった」

 

 神の民の里も無事ではなかったから、すべてが終わってから里の堕ちた跡に気づいたんだ。そう、イレブンは語りながら、微かに顔を顰めた。

 

 

 

 

 

 

 かつての仲間たちとの別れのあの日を思い出すたび、悪夢に襲われるのを知っていた。でも、自分が悪夢に悩まされるくらいはもう、大したこととは思っていなかった。

 

 また、悪夢を見ようとも、魘されることはあってはならないから、自分に強力な眠りの呪文をかけることで表面上は普通に寝ているように取り繕うことも、過去の世界で周りの睡眠を脅かすことが出来なかった中で仲間たちと編み出していたことだし。

 

 邪神によって狂暴化した今ほどではないとはいえ、狂暴化した魔物がどう動くかがわからなかったから、魘されて声をあげるなんて、できなかったから。

 

 あのときは、見張りを一人残してロウじいちゃんとラリホーを仲間たちに掛け合って眠り、ともかく睡眠をとって無理やり体を動かしていたなと懐かしく思い出した。

 

 息ができないほど執着して、だが、確かに強固な絆で結ばれていた日々を。カミュ以外とも、強い依存の絆で結ばれていた。

 

「あの、忘れ去られた塔の上、そこでボクは時のオーブを勇者の剣で、砕いた。そうすれば過ぎ去りし時に戻れると知ったから。みんなは、勇者しか戻れないと聞いて止めたけど、ボクは、今度は救えると知ったから、戻るとすぐに決めたんだ。

みんなの決意を込めた剣を折って、ボクはこの過去の世界に来て、みんなの勇者に成り代わって、世界を救うことにした。

この世界で、過去に愚かな失敗を犯すはずだったとはいえ……あの頃のボクがどこに行ったかは、ボクは知らない。……ううん、さっきまではボクの体は過去のボクのものだった。でも、さっき全て重なって、時間が追いついたみたいだから、今度こそ彼は消えたんだろうね」

 

 手の無数の傷跡をなぞりながら、少し前まで目立つ傷のない手を握りしめて、笑い顔を無理やり作った。

 

「もっと詳しく言えば、もっと、……みんなの心に影を落とすことはまだあったよ。でも、それは言ったってしょうがない。どうやったって、もう、『過ぎ去りし時は戻らない』。

これからボクらは力をつけ、邪神ニズゼルファという全ての元凶を倒さなくてはならないんだ。それが終わったら、きっと、『みんな』を捨てたボクの役目も終わる。勇者として、役目を果たせる。みんなが本当の意味で幸せになるんだよ。ボクはそれを待ち望んでる」

「イレブン、お前、全部終わったらまさか」

「まさかじゃないよ、カミュ。君が危惧するようなことは無い。ボクには邪神を倒したあとにすべきことが出来たからね。まだまだ立っていないといけないさ。

あのね、傷跡の完全な治療法を探そうと思うんだ」

 

 正直、ボクの心は嫁入り前の女の子たちや世界的スターの体にボクのせいでついた傷跡がたくさんあることは我慢ならなかったし、傷跡というのはご老体にとってはしばしばひどく痛むものであると知っている。

 

 いくら歴戦の将軍だとしても、勇者に同伴した将軍の体がぼろぼろになって帰ってくるなんてデルカダールの人々からしたら不安の種だし、カミュみたいなこれから幸せになるべき人が何かしらのハンデになりかねないことがあるなんて耐えられない。

 

 ボクは憂いを断ちたかった。それだけで、でもそれならば、ボクはまだ、前を見れる。

 

 

 

 

 

 

 大空のような、かつて見る者を安心させた青い輝きは今はただ、前を見つめ続ける無機質な宝石のようだった。

 

 押し殺された意志はすでに奥の方に押し込められ、勇者たれと自分に暗示をかけ続けたそのものの姿で、まさに勇者然と慈悲深くイレブンは、今度は優しく微笑んだ。笑顔そのものは完璧だった。

 

 上辺だけならば、それは、優しく微笑む勇者。見るものを安心させ、救いを求める者に手を差し伸べる伝説の体現者。

 

 だが、それなりに長い時を同じくしていたオレたちには、いくら隔たりがあった期間が長かったといえども、その心は悲鳴をあげているように見えるんだがな。

 

 そんな顔をさせたいんじゃねえ。お前も幸せになるべきなんだ。いろんな言葉が頭の中を渦巻いて、だが口には出せない。

 

「セーニャやマルティナに傷は絶対に残せないよ。カミュやグレイグやシルビアの傷は大抵ボクのせいだし、ロウおじいちゃんの傷はボクがムウレアで不甲斐なく眠っていたあいだのものがほとんどだった。それにボクだって傷を消したいし」

 

 そこに居たのは、大樹の勇者になり果てたイレブン。大樹の意思がどうなのか、オレ風情に分かりやしないがおそらくはこうはなってほしくはなかったろうよ。最低限の情があるならな。

 

 世界の意志に従い、勇者たる行動を取り続けるあやつり人形。しかし、幸いなことなのか……オレにははっきりと瞳の奥の、本来のただの少年の姿が見えていた。

 

 焼き払われ、村人のいなくなったイシの村で涙すら零せずに心の悲鳴をあげた、一人の少年が。

 

 イレブンは、まだ、イレブンだった。削り取られ、押し殺し、だが自分を消し去ってはいなかった。

 

「ねぇ、その、『過ぎ去りし時』のこと、教えてくれる?」

 

 重い沈黙を破った声は、優しかった。

 

「ベロニカ……?」

「私のこと、助けてくれてありがとう。でも、その世界でもきっちりイレブンは世界を救ったんでしょ? その時のことを……聞きたいわ」

 

 イレブンはベロニカの顔をまじまじと見つめ、ふっと息を吐いた。どこか、今までオレたちにみせてこなかった疲れや感情をあらわにしてくれているようだったが、口から出たのは相変わらず勇者然とした、お綺麗な言葉だった。

 

「……話すこと自体は構わないんだよ。でも、もし、それで、もしも、みんなに記憶が欠片でも戻ったら嫌なんだ。人々は団結したし、尊いこともあったけれど、みんなみんな……苦しんだ。あんな爆発に巻き込まれて死んだときの記憶なんて、欠片でも知ってほしくない」

「でも今は……」

「イレブン一人が苦しんでいるように見える、だろ、ベロニカ? そんなことは許せ……いや、『許さない』。洗いざらい話してオレたちにも背負わせろよ、なぁ?」

 

 気づいた時には、イレブンの顔が目前にあった。見開いた目、そしてそのは瞳いっぱいに映るのはイレブンの心を占める、オレの知りえない何かに嫉妬するオレの醜く歪んだ顔。

 

 そんな、見せないようにしていた醜い部分が露わになっているというのにイレブンは懐かしいものでも見たように目を細めた。

 

 ああ、もしかしたら、その未来の世界のオレはお前にこの表情を見せていたのかもしれない。聞く限り、過酷なんて簡単に言っていいほど甘い状況ではなかっただろう。ただでさえ、イレブンには、お前には。

 

 見せないように、だが確実に執着していた。すべてを救う勇者の内に秘められた、大人になりきれていない少年に。

 

 距離の隔たりができてから、以前のように笑い合うことも、話し合うことも少なくなり、その片鱗はきっとうまく隠せていただろうよ。

 

 だが、そんな余裕がない時ならば、もしかするとイレブンだけが知るオレはもっと醜い執着をイレブンにぶつけ、そしてそれをイレブンは受け入れたのかもしれない。

 

 想像しているだけなのに、昏い昏い感情が溢れるほどにこみ上げる。そんなにイレブンのすべてに執着してなんとか立っていたであろう「オレ」ではなく、今ここにいるオレだけがイレブンの元にいることに、確かに悦びを感じてだ。

 

 イレブンのそばにいることも出来なかったオレ。だが、イレブンの様々なものを奪わせ、壊され、それを止めることが出来なかったのに、もっともイレブンの近くにいたオレ。

 

 だが、その手を離した、愚かなオレ! 世界を救ったのなら、勇者というイレブンの生まれながらもった哀れな役割を盗んで捨ててしまえなかったのか!

 

 もう戦わなくていいと、どうして言ってやれなかったんだ。

 

 この哀れな少年に、どうして赦しを与えなかったんだ! もう戦わなくていいのだと言い聞かせて、母親のもとに返してやろうとは思わなかったのか!

 

 あぁだが、わかる。オレはきっとお前だけに執着していたわけではないのだろう。多かれ少なかれ、命を預けられるほかの仲間たちにもそれは向いていたはずだ。

 

 そんなギリギリの生命線の中、取り戻せる命があると知って飛び出そうとしたイレブンを真の意味で止められただろうか。

 

 無理だ。そしてその結果、「オレ」はイレブンと永遠に分かたれたわけだ。

 

「なぁ、イレブン……」

「君は変わらない、変わらなくって、嬉しいよ、カミュ。君はいつもそうだった、そしてこれからもそうしていてよ、ね、それだけでいいんだ。カミュは背負わなくていい。話すよ、話すけれど、カミュ。それはもう、戻れない時の話なんだ」

 

 俺の醜い嫉妬混じりの目を、ぼんやりと見つめるイレブンは、もう勇者らしく微笑もうとはしなかった。

 

 何かが、音を立てることもできずに壊れてしまったように感じた。あとで思えばそれは、イレブンの所謂「理性」や「矜恃」というものだったろう。あるいはオレたちにとっては「隔たり」と呼んでいたものだった。

 

 傷まみれの体がふっと倒れる。

 

 慌てて抱きとめると、イレブンはおかしそうに、声を上げて笑った。狂ったように、あぁもう、擦り切れて、擦り切れて、奪われて、突き放して。とっくにお前は限界だったのだ。

 

 イレブンの瞳はさっきまでは物悲しい色をのせて、それでも空のように澄み渡っていたが……今は。どろりと濃い、濁ったような色になっていた。

 

 勇者イレブンでも、ただの少年でもなく。そこにいたのはなれのはて。それでも立ち上がろうと足掻く、哀れで悲しい少年だった。

 

 向こう傷が刻まれた顔は、出会った時よりも大人びているはずなのに、迷子のこどものようだ。

 

「邪神を倒したら、すべて終わるよね。今度はカミュと、みんなと、離れなくていいよね?

ねえ、カミュ、カミュ。過ぎ去りし時のカミュの、血を吐くような叫び声が思い出されるよ。みんなが泣くんだ、声恥も何もなくね。誰かが泣き叫んで、傷だらけのむくろを抱くんだ。すすり泣きながら穴を掘って、たくさんの死体を投げ込んで、土をかけて、ボク達は、やせ細った動物を捕まえて、分け合ってご飯を食べるんだ。死体を埋めたすぐあとに、誰もがそれを当たり前だと思って」

 

 ベロニカに手を伸ばす。優しくその手を握られると、安堵したようにぼろぼろと泣く。失われず、傷つけられず、犠牲にならなかった命にむかって。

 

「あぁ、ベロニカ、幻じゃない君には体温がある。

ねぇカミュ、ねぇ、変わらないね、その目、変わらないね、あの時、記憶を失っても、ボクのこと、抱きしめてくれたね……あぁカミュ、君だけは思い出してくれないかなって、期待してたのに、思い出してくれなかったね、でも、思い出してくれなくても、みんなにあんな記憶があるべきじゃないんだから、ボクは取り戻したかったのだから、これで良かったんだよ、思い出さないのが正しいのだから、そうでしょう、う、うぅ……」

 

 まくし立てるように話していたイレブンが突然うずくまって、地面を叩いた。

 

 ぼたぼたと、イレブンの涙が床を濡らした。触れれば壊れそうなイレブンに誰も、声すらかけることが出来なかった。

 

 血を吐くように、叫ぶ。うまい表現だと思う。

 

 ああ、血を吐くように、イレブンは叫んだ。なんと言っているかは、分からなかった。どうしようもなく孤独で、二度と戻らない人間を待って、だが諦めていて。

 

 だがお前は、永遠に失った剣のように折れることすらできない。

 

「ねぇ、イレブン」

 

 優しい声をかけるのは、今、オレではならない。

 

「ベロニカ」

「あたしが生きる未来を選んでくれて、ありがとう」

「……うん」

 

 イレブンはぎごちなく笑ったが、その顔は紛れもなく本心だった。取り戻せた人からの感謝の言葉は、温かな体温は、間違いなくイレブンが求めたものだったから。

 

 

 

 

 

 

 

 弱みを見せる相手というのは、良くも悪くも人間味がある。本心を覆い隠しているよりも、ボクは随分「らしかった」らしい。

 

 あれから、ボクは半端な孤独を抱えながらも、ボロを出さないように言葉を選んだり、取り繕ったりする必要なく過ごし、戦っている。

 

 腫れ物を触るような態度を取らないでくれたみんなには本当に感謝してる。

 

 でも、ボクは変わった。カミュはカミュであって、どれだけ同じ人間で、どれだけ似たような感情を見せてくれても「カミュ」ではないって、はっきり突きつけられたんだ。

 

 どれだけ祈ってもみんなの記憶が戻ることがないって、希望なんて持つだけ無駄なんだって悟ったんだ。

 

 ボクは、だから、向こう傷を持った情けない勇者として、あんまりだれとも口を聞かずに淡々と力を蓄えている。話しかけられたらもちろん無視なんてしないけど、ボクは現実を受け入れがたくて、でも、前よりはずっと穏やかだ。

 

 次の試練をクリアしたら、もうニズゼルファへ挑んでもいいと思う。

 

 ニズゼルファに勝てるか勝てないかなら、きっと勝てるさと、楽観視でもなんでもない事実として思える。

 

 あいつを討ち滅ぼしたら、古代図書館をひっくり返してでも古傷を消し去る方法を探すんだ。みんなの傷を消して、ボクの傷も消して、ボクは胸の内に「みんな」を秘めながら生きていくんだろう。

 

 でも、もし。あそこに過ぎ去りし時へ戻る秘術があるならば。

 

 ボクがそれを見つけてしまったら。その時、ボクは、どうするのだろう。

 

 かつての時はなかったことになったのさ。ボクらに傷が重なって、本当に消え去ってしまった。戻る、戻らないじゃない。戻れるとしたら救ったこの世界をまた無かったことにして、また運命のあの日に戻るってことになるだろう。

 

 それは、ダメだ。それはまたベロニカを死なせるという意味で、またあの暗い世界にみんなが散らばるという意味なのだから。

 

 だけど、だけど、みんなの前でボクの情けない姿を見せた日からかつての時がどんどん愛おしくなって、懐かしくて、戻りたくて、記憶を失ったことがあるカミュと、短い髪のセーニャと、絶望の中人々の笑顔を取り戻したシルビアと、親友と語り合えたグレイグと、魔物の力まで利用したマルティナと、ボクまで失って泣き崩れたロウじいちゃんのところに戻りたいんだ。

 

 絶望の中、村人を励ました母さんと、暗闇の中でボクに希望をくれたエマと。最後の砦になったイシの村こそ、ボクの故郷だったんだ。

 

 あの世界は、ボクの罪。

 

 失ったものが多すぎて、悲しいことが大きすぎて、ボクが砕いた世界。

 

 だけど、ボクにとってかけがえのない、二度と戻れないふるさと。

 

 あぁ。大樹よ。ボクに選択肢をもう与えないで。選ばせないで。明確な道だけ示しておくれ。過ぎ去りし時を求める手段なんて、教えないで欲しかった。

 

 勇者よ、この悪を倒しなさい、と。それだけで良かったのに。

 

 ボクに迷いを与えないで。大いなる選択はボクの咎。だけど、もう、疲れたんだ。

 

 指で向こう傷をなぞる。深く刻まれたひとすじの傷。ボクの迂闊さ、ボクの罪のわかりやすい証。触っていてももうとっくに塞がっているものだから痛くも痒くもないけれど、焦りを落ち着かせるのには丁度いい。

 

 ボクの咎の傷口そのものに触れている、という事実が冷静にさせる。さぁ、さぁ、悪を打ち滅ぼそう。勇者として事を成そう。

 

 世界をもう奪わせない。何も滅ぼさせやしない。誰も死なせやしない。

 

 勇者の手によって、勇者の星に封印されていた邪神は討ち滅ぼされ、世界は平和になりましたとさ。めでたしめでたし。

 

 そんな筋書きを完成させるんだ。

 

 

 

 

 

 

 吹雪に埋もれる古代図書館には常に明かりが灯っている。

 

 中で今日も本の虫になっているはずの相棒に真っ当な食事をさせるようにと、イレブンの保護者たちから厳命されたオレは食料をしこたま馬に積んでやってきたって訳だ。

 

「おーい」

 

 返事はない。いつものことだ。読み疲れて本に埋まって眠っていることもよくあるくらいだ。さっさと救出してメシの時間にしないとな。

 

 おびただしい本棚の前を探し回っていると、突然イレブンが上から降ってきた。片手に古びた本を持って。

 

「おわっ……びっくりさせんなよ。飛び降りて平気なのか?」

「見つけた、これ。これでみんなの傷を消せる」

 

 イレブンはまるっとオレの言葉を無視していつも通りの無表情、無感動に言った。一体今度は何晩眠っていないのか、目の下にはどす黒い隈があり、顔色は青白い。

 

 そりゃあ、こんな不健康極まりない生活を三年も休むこと無く続けていりゃこうなる。しかも放っておくといつまでもまともに眠らないし、食いもしない。

 

 賢者セニカに勇者の力を譲渡してもなお、勇者の心を失わないイレブンにはかつての半分くらいの勇者の力が宿っているらしく、その加護のおかげで絶対に過労で死なないと豪語しているからだろう。

 

 おそらく、それは事実だ。どんなに邪神にむちゃくちゃに切り刻まれてもしばらくすると死の淵からぎりぎり蘇ってくるのが勇者。決して道半ばに諦めることのない存在。それが睡眠不足程度で死ぬはずがない。

 

 だが、大樹は加護の付け方をもう少し考えた方がいい。

 

 死なないからといってこんなの看過できるかよ。

 

「良かったじゃねぇか! じゃあ今日は休もうぜ、目元がもう寝不足でどす黒いからな、ほらメシ食うか? 先に寝るか?」

「……寝る」

 

 本を握りしめたまま、イレブンはオレの方に倒れ込んできた。受け止め、ベッドに運び、布団を被せて俺は本を引っペがした。

 

 ふーん、タイトルは医術関係っぽくないな。こりゃあ探すのに苦労するわけだよな。

 

 努力家かつ有言実行のイレブンは、明日メシを食ったら本を読み込み、真っ先にマルティナかセーニャのところに飛び立ち、傷跡を消し去るだろう。

 

 続けてオレたちも治して、自分の傷も綺麗さっぱり消し去って。そして本をここに返しに来て……それからどうするんだ?

 

 オレは一週間に一度、ここに来ているのはイレブンの体調を少しでも何とかするためだが、本来は監視が目的だ。

 

 ロウじいさんもマルティナも、ペルラさんもエマちゃんも、満場一致で何をしでかすか、どこへ消えるかわからないイレブンを見張っておくべきだという結論が出たからな。

 

 熱中しているうちはいい。だが、気が抜けたらどうなるのか分かったもんじゃない。

 

 それにイレブンは、大きく環境が変わると性格ごと変わったことがあるような人間だと育ての母親は語る。慕っていた祖父を亡くしてから、悪戯好きの腕白な幼いイレブンは、今のようにどちらかと言うと物静かな性格になったという。

 

 その時は幼かったから、ということで説明がつくが、今回どうなるかなんて誰にもわかりやしない。

 

 すやすやと安らかな寝息を立てるイレブンを見ながら、だが悪い胸騒ぎはしないんだよな、と独りごちながら、跳ねてきたスライムに持ってきた野菜をお裾分けしてやった。

 

 翌日目覚めたイレブンは、見たこともないほど晴れやかで、すっきりと憑き物が落ちた顔をしていた。そこで冗談めかして本が見つかったのが嬉しかったのか、と聞くと。

 

 イレブンはちょっと悪戯そうな顔をして、見つからなかったからやっと受け入れられたんだよ、と。意味深なことを言った。

 

 

 

 

 

 

「あとボクで最後か」

「最後まで付き合うぜ、相棒」

「うん、背中とか、ボクに見えないところの傷の場所を教えて」

「おう」

 

 ベホマ、ザオリク、ベホマズン。それらを使いこなせるボクは、回復魔法が得意な方と言ってもいい。

 

 キアリー、キアリク、キアラル、ザメハ。そういう状態異常を回復する魔法は使えないから、要求された技量がそっちじゃなくて本当によかった。

 

 古代図書館の、いつの時代のものかもわからないその本には、マホイミとかいう知らない呪文の記載があった。それは回復力を過剰にして、回復魔法を攻撃に転じるというもの。過ぎたるものはすべからく毒ってことだね。

 

 でも、それをうまいこと調節すれば、体に害をなす前に古い傷跡を消し去るくらいに過剰に回復して、それで傷跡はさっぱり、というのが原理に治せるらしい。つまるところベホマのさらに上って感じだけど、何分、回復速度がなかなか遅いから実戦向けじゃない。

 

 だけどもう、魔物たちの牙は抜かれた。以前ほどの熾烈な実戦なんて滅多なことではないから、こういう魔法の方がこれから需要が出てくるだろうね。火傷の跡とかにも効くだろうから。

 

 ゆっくりと何度も唱えてきたその呪文を紡いで、まっさきにボクの罪の象徴である胸元の傷を消しにかかった。忌まわしいウルノーガのつけた傷跡は雪が溶けるように消えていく。背中にも多分跡が残っているからそのまま続ける。

 

 腕に、足に、腹に、手に、首に、無数についた切り傷の跡を治し、ぐちゃぐちゃになった傷を無理やり癒し爛れた部分をすっかり滑らかにし、触った分にはつるりとしているけれど痣のように変色している部位を元の肌の色と同じにして。

 

 みるみるうちに消えていくボクの罪の証。ボクの咎の証明。

 

 カミュは黙ってそれを見ていた。だいたい治し終わったあと、背中にある見落とした傷をいくつか教えてもらい、それも治す。

 

 さぁ、最後の傷は一つだけ。耳に近い頬から首筋へ斜めに走る深い傷跡。多分一番出血した傷。

 

 そうそう、あのあと、初めて鏡でこの向こう傷を見てみたよ。髪を下ろしていればそうそうぎょっとされるほど目立つわけじゃないけれど、明るいところならはっきりと傷があるのがわかる。髪の毛を掻き上げれば露わになる鋭いひとすじ。

 

 これはボクという勇者を最もわかりやすく表しているもの。冷静ではいられず、迂闊で、辛くも生き残った証。

 

 ボクはそこに手を当てて、傷へ呪文を唱える。普通の回復魔法よりも深い緑色の光が眩く光る。それは傷を照らし、癒し、傷跡すら消し去っていく強い魔法。

 

 ……これくらいでいいかな。

 

 ボクは傷に触れた。そこにはもう凹凸はなかった。

 

「これで終わりかぁ」

「いや、残ってるぞ」

「え?」

 

 カミュが鏡を差し出した。困惑したボクの顔にはたしかに向こう傷が残っている。ただ、傷があった場所の皮膚だけが赤く跡になって傷の形を残していた。

 

 それをしばらく眺めていたら、なんだかそれでもいい気がした。試しに口を動かしてみてもちっとも突っ張ったりしない。すっかり傷口だったところは無くなって、あるのは皮膚の変色だけだ。

 

 一つくらいなら残しておいてもいいかな。ここにはきっと、「みんな」の想いや願いが宿ってるんだ。傷跡は罪だけの印じゃないのだ、とボクはやっと思えた。

 

 向こう傷だったその場所をさする。なんだか心まで綺麗に癒されたように爽やかで、ボクはカミュに向かって笑って言った。

 

 晴れやかに。

 

「どう、男前でしょ」


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