ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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01. キヨのメタモルフォシス

「ようこそ、はるばる遠いところからおいで下さいました」

 

 老人は私に挨拶した。その声は思ったよりもはるかに若々しく、明瞭だった。老人は数日前から体調を崩しているとのことで、今は床に()せっていた。

 

 挨拶を返してから、私はここに来た目的を話した。

 

 私は作家で、帝国時代の魔法生物兵器の開発と運用について取材している。

 

 ある日、私は防衛庁戦史編纂室の室長から「阿波県T市にある老人がいて、彼は黎明期の魔法生物兵器開発に民間人として協力したらしい」と教えてもらった。私は、紙の記録だけでは分からない、貴重でユニークな情報を必ずや得られるであろうと、東京府より六百五十キロメートル彼方(かなた)のこの地へやってきたのだった。

 

 説明を聞いて、老人は微かに頷いた。

 

「なるほど、確かに私は、若い頃に軍に協力したことがあります。あなたのお望み通りの内容ではないかもしれませんが、とにかくあの当時のことをお話ししましょう。それに……」

 

 そこまで言ってから老人は、床の間に置いてある黒い壺に目をやった。柔らかそうな絹の座布団の上に乗せられたそれは、一見何の変哲もない、ただの丸い小さな壺だったが、しかしどことなく異様な雰囲気を醸し出していた。老人は言った。

 

「こうしてあなたがここに来たということは、ついに話すべき時が来たということなのでしょう。私の生涯を決定づけた、あの過ちについて話すべき時が……」

 

 老人は静かに、淡々と、それでいて声に僅かに躊躇いの色を滲ませつつ、私に語り始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

「私の出身は紀伊県の山奥で、一族は大阪幕府時代からほぼ二百五十年間、代々妖怪や化生(けしょう)を退治、捕獲する仕事をしておりました。ああ、今では妖怪や化生のことを西洋式に魔法生物と総称するのでしたね。そう、維新後も同じように、私の一族は家業を続けておりました」

 

「状況が変わったのは、我が国が初の対外戦争を行った時です。大陸の帝国との戦争の際、敵軍の後方攪乱を行うために、バケモノたちを敵地に送り込むことを陸軍は考えたのです。私たち退治屋はその時代の流れにうまく乗って、大いに成功を収めました。私の一族も家運を高めたものです。ちょうど私の祖父の代のことでした」

 

「父は祖父の事業を引き継いで、堅実ながらも大胆な経営方針をとって、その後のエウロパ大戦では国産のバケモノを輸出して大いに資産を増やしました。私も幼い頃から父について仕事を学びました。十二歳の頃には初めて単独で妖怪を捕まえることができました。筑後県を悩ましていた河童を一度に五匹も捕まえたので、父はずいぶんと喜んでくれました」

 

「その父が急死したのです。私が十五歳の時でした。いえ、妖怪に返り討ちにされたとかそういうわけではなく、スペイン風邪のせいでした」

 

「瀕死の父は私を枕元に呼んで、こう言いました。『お前に教えておかなければならないことはまだたくさんあるのに、こうしてこの世を離れなければならないのは無念だ。息子よ、ただ一つだけ重要なことを教えておく。軍は私たちの上得意だが、しかし決して深入りするな。特に、奴らが立てた計画には関わるな。必ず距離を置くのだ……』 その晩に、父は息を引き取りました」

 

「尊敬する父の死に私は深く悲しみましたが、しかしこれからは一家の長として事業を盛り立てていかねばなりませんでした。ですが、この時一つの不幸に見舞われました。エウロパ大戦後の世界的な軍縮の波を受けて、我が国でも軍事予算が削減されたのです。それはつまり、私たちのバケモノをもう以前ほどには軍が買ってくれないということを意味していました」

 

「なす術なく二年が経過しました。私たちの事業は大幅に縮小しました。このまま仕事が来なければ、先祖伝来の家業を畳まなければならない。そんな覚悟を私はしておりました」

 

「そんなある日、私のもとへ一人の陸軍軍人がやってきたのです。彼は斎藤と名乗りました。陸軍兵器局第六課に所属していて、魔法生物兵器開発を担当していると言います」

 

「彼は開口一番こう言いました。『これからは、バケモノは捕獲するのではなく、作り出す時代である』と。詳しく話を聞きますと、どうやら陸軍の方針としては、今後はエウロパの列強に見習って、人工的な魔法生物兵器の開発と生産を行うのだそうです。大戦時、列強はドラゴンを改造して飛行兵器として運用し、また、武装を搭載した人工モンスターの数々を突破兵器として戦線に投入していました。我が国もその新技術に追従しなければならないと、彼は言うのです」

 

「彼は話を続けました。『ついては、あなたに本邦初の人工的なバケモノ製造に関する、基礎的研究の協力をしていただきたい。謝礼は成功報酬で二十五万円』と。唐突に提示された破格の報酬に私はとても驚きました」

 

「父からは軍とは深く関わるなと遺言されていましたが、家運は傾いており、この仕事を断ればもう次はないかもしれません。報酬が高すぎることに一抹の疑問を感じはしましたが、やがてそれも消えました。詳細な計画を聞くまでもなく、私は承諾してしまいました」

 

「最後に、斎藤は口調を一変させて、私に奇妙な質問をしました。『ところで、君は女性を知っているかね?』と。当然、私はまだ女性を知りませんでしたから、ただ軽く頷くと、彼は『それは良かった。やはり打ってつけだな』と満足げに言いました。彼は帰っていきました」

 

「後日明かされた計画の概要は、次のようなものでした。薩摩県の南方の海には神霊が住まう無数の島々があり、その中の一つ、本土から五十キロメートル離れたところに位置する無人の道昭(どうしょう)島には、竜美姫神(たつみひめかみ)という女神がいる。この女神と交渉して神々の権能を調査し、バケモノ兵器製造に関する基礎的データを収集して欲しい、とのことでした」

 

「あなたならば既にご存じでしょうが、もともと我が国における妖怪や化生(けしょう)といったバケモノは、神々が信仰や霊格を失い、零落した姿であると言われています。それゆえ、神々そのものを研究しその霊力を解析することは、新型のバケモノ開発で大いに有益であるのです。そのように計画書も主意を述べていました。ですから、私もそれにはなんら疑いなく同意したのです」

 

「しかし一般的に女神というものは疑り深くて、人を遠ざける性質があります。その女神とスムースな交渉を行うためには、なにかしらの下準備が必要でした。私は策を練りました。ともすれば卑劣とも言えるような策です」

 

「私は凶暴なイノシシの化生を予め三頭用意し、船で島の沖合まで行ってから、秘密裏にそれらを島に向かって解き放ったのです。それから二ヶ月間、私は待ちました」

 

 

☆☆☆

 

 

「頃合いを見て、私は島へと上陸しました。ここでも念を入れて、私は遭難者を装いました。船が難破し、身一つで島に打ち上げられたように装ったのです。事前に体重を落とし、ボロボロの服を着て。ですが、化生を退治するのに必要な小刀だけは腰に差していました」

 

「ちょうど夏の頃でした。島は一面の緑に覆われ、南国特有の色鮮やかな花々が咲き乱れておりました。非常に美しかったのをよく記憶しております。砂浜は真っ白で、海は太平洋とも瀬戸内とも違う、澄んで輝く緑色をしていました」

 

「しばらく砂浜に横たわっていると、何かが近づく気配を感じました。放っておいた化生だろうか、と最初は思いましたが、しかし感じられる雰囲気は醜悪なものではなく、ひんやりとしつつも(あたた)かなものでした」

 

「顔を上げると、そこには少女がいました。少女はしゃがんで私の顔を覗き込んでいました。能面のように無表情でした。白い可憐な着物を纏っていて、顔は幼いながらも凛として美しく、しかしどこか超然としていました。手足は西洋人形のように繊細です。驚いたことに、目は金色で、髪は青みがかった黒でした。肌の白さと相まって、この世ならざる存在であることを強く暗示していました」

 

「私は確信しました。この少女こそ、目的の竜美姫神(たつみひめかみ)であると。ですが、私はあえて自分から口を開かず、彼女が話すのを待ちました」

 

「しばらく私の顔を見ていた彼女は、ややあって私に問いかけました。『人間よ、あなたの名前は?』 私は安太郎(やすたろう)と、自分の名を答えました」

 

「彼女は頷くと、私についてこいと仕草で示しました。とりあえず、第一関門は突破したようでした。私はほっとしました。邪悪な女神は自分の領域に人間が入ることを許さず、そのまま殺してしまうということもありますから、この時は内心とても緊張していました」

 

「彼女の寝所は、島一面を覆う森の中にありました。それは石造りの祠でした。小さな納屋くらいの大きさだったと記憶しています。荒れ果てていて、遥か昔に作られたのであろう木製の祭壇は原型を留めていませんでした。私は彼女に導かれるままに祠に入りました。そこで横になって休むように、彼女から言われました」

 

「彼女は透き通るような、それでいてとても可愛らしい声で言いました。『ここで英気を養いなさい。治るまでここにいて良いですよ』と。私は頷くと、言われた通りそのまま夜まで寝ることにしました」

 

「夜、とてつもなく大きな咆哮がどこかから聞こえてきました。私は目が覚めました。ハッとして起き上がって周りを見渡すと、少女が隅でガタガタと震えているのが見えました」

 

「『あの鳴き声は何ですか?』と、答えをすでに知っているのに私は問いました。あの咆哮の主は、私が前にここに送り込んだ化生に間違いありませんでした」

 

「少女はか細い声で答えました。『数か月前、いきなりバケモノが私の島に現れました。バケモノは三匹いて、毎晩毎晩あのような叫び声を上げては島を荒らしまわっているのです』」

 

「私は、自分がこれから討伐しに行くと言いました。しかし彼女は私を引き止めました。『きっと殺されてしまいます。私も前にこの島から出ていくように彼らに言いましたが、まったく聞き入れられませんでした。彼らは凶暴で、大きくて、素早いです。戦ったらどうなることか。この祠に入れば安全ですから、どうかここにいてください』」

 

「私は急がないことにしました。その時は彼女の言葉を聞き容れて、それから三日三晩待ち続けることにしました。深夜になると、祠の周りを化生たちが鼻息も荒くドカドカと足音を立てて歩き回り、強烈な獣臭を撒き散らしました。彼女はそのたびに震えました。私はそっと彼女に寄り添い、大丈夫です、私が回復したらすぐさまあんな奴らは残らず討伐してみせますと、慰め続けました」

 

「その間の食事ですか? 食事は、彼女がどこからともなく卵と鳥肉を持ってきてくれました。どうやって得たのか訊くと、彼女が言うには『私は、神様ですから』とのことでした。おそらく、それは彼女の権能の一つだったのでしょう。食事のみならず、私は彼女の一挙手一投足をひそかに観察して、データの収集に勤しみました」

 

「そして、ついにその晩がやってきました。私は小刀を引っ掴んで出撃しようとしました。その時、彼女が私の腰にひしとしがみ付きました。彼女は私に『ご武運を』と言い、驚いたことに、私の唇にそっと接吻しました。初めての経験でした。しかも相手が女神であるということに、私は少し茫然としました。私は気を取り直すと外に出ました」

 

「元より私が自分で捕まえ、選んで、ここに送り込んだ化生です。対処法を知らなければ、一般人のみならず訓練された兵士ですら殺されてしまうような相手でしたが、私は難なく三体とも討伐しました。倒した時には、水平線に朝日が顔を覗かせていました」

 

「砂浜で夜明けの陽射しを浴びつつ刀の血糊を拭いていると、彼女が駆け寄ってきました。彼女は私に抱きついて、泣きながら言いました。『ご無事で良かった。あなたが死んでしまったらどうなることかと……』と。私も彼女を抱き寄せました」

 

「もうお分かりでしょうが、これはすべて私の計画通りだったのです。女神の信頼を手っ取り早く得るために、彼女の安全を脅かすバケモノを送り込んで、それを倒す。これこそまさに自作自演という奴ですよ……」

 

「その時の私は、不思議な気持ちに駆られておりました。一つは『これで仕事がやりやすくなったぞ』という満足感がありました。しかし、それ以上に感じたのが、この少女をこれほどまでに怯えさせ、心配させてしまったという罪悪感でした」

 

「思えば、彼女はとても献身的でした。彼女は祠で臥せっているふりをしている私に毎日たくさん食物を持ってきてくれて、綺麗な水で体を拭くことまでしてくれました。そして今は、彼女は私を抱きしめて、私の無事を心の底から喜んでいます」

 

「それまでの人生で感じたことのない、奇妙な胸の高まりを私は覚えていました。人生経験に乏しい私でも、しばらくして気付きました。私はこの少女に恋をしてしまったのだと」

 

「二人で朝日に照らされて波の音を聞きながら、私はふとこんなことを口にしていました。『君を、私だけの名前で呼んで良いかい?』と。彼女は不思議そうな顔をしましたが、何も答えずじっと私を見つめていました。私は言いました。『君を、キヨと呼びたい。どこまでも清らかな君を、私はキヨと呼びたいんだ』」

 

「彼女は顔を赤らめました。そして、頷いてくれました」

 

「それからは楽しい日々が始まりました。島に来た当初は無表情だったキヨですが、次第に花の咲いたような、明るく可愛らしい笑みをよく浮かべるようになりました。私の本土での生活の話や他愛のない冗談にも、キヨはよく笑うようになりました」

 

「彼女と生活しているうちに、様々なことが分かりました。昔は島へ訪れる人も多く、キヨは人々と交流をして楽しく暮らしていたのだそうですが、維新後は科学主義の風潮が急速に広まったためでしょうか、徐々に参詣者が減り、ついにこの島を訪れる者はまったくいなくなってしまったのだそうです。島から本土まで距離が遠かったことも災いしたのでしょう」

 

「そんなわけで、キヨは何十年もまったく孤独な生活を送っていたのです。そんな中で、ある日突然島に凶暴なバケモノが三体も現れて、キヨは大変な恐怖を覚えました。二ヶ月間も孤立無援で、このままこの状況が永遠に続くと思って絶望していた時に、私が現れたのです」

 

「共同生活を続けて三ヵ月が経った頃でした。キヨはにっこりと笑って私に言いました。『ヤスタローは私の命の恩人です。ヤスタローは私に希望をくれました。私、ヤスタローとずっと一緒にいたいです』」

 

「ついに、キヨから愛の告白を受けてしまいました。ですがいずれ、私は本土に帰らなければなりません。報告書を纏めて兵器局にデータを送らなければ、傾いた家運を立て直すことができないのです。私は心を鬼にして、君とはいずれ別れなければならない、私は船を作って本土に戻るつもりだ、と答えました」

 

「キヨの目から涙がぽろぽろと零れました。彼女は走り去りました。一人残された私の目からも、とめどなく涙が落ちました。このままここにいて、一生キヨと過ごすことができたなら! 人間世界のあらゆるしがらみから解放されて、この楽園でキヨと思うままに幸せに暮らすことができたなら! 本当に、私はその時そう思いました」

 

「その晩のことでした。私が石の寝床に横になっていると、キヨがやってきました。キヨはそっと私の隣に横たわって、その手足を私の体に絡みつかせました。そして一言、『私と契りを結んでください』と彼女は囁きました」

 

「ここに至って、私の考えは変わりました。キヨが私を愛してしまったのは、間違いなく私のせいだ。私はその責任を取らなければならない。私は意を決して、ここに来た本当の目的を彼女に告白しました。仕事のため、家業のため、私は今まで君を利用していたのだと。あのバケモノを島に送り込んだのは他ならぬ私で、それを倒すことで君を騙そうとしたのだと……」

 

「それでもキヨは言うのです。『そんなことは関係ありません。あなたがこれまでに私に示してくださった優しさと慈しみは、決して偽物なんかではありません。私はあなたと一生添い遂げると決めたのです……』」

 

「私は彼女を抱き寄せました。そして夫婦の誓いをしました。これからずっと、死ぬ時も一緒だと……」

 

「ですが、仕事にはけじめをつけなければなりませんでした。私はメモ帳に報告をまとめました。実は、私が島に上陸してから三ヶ月経っても本土に帰還しなかった場合、陸軍が迎えに来ることになっていました。私はその迎えの人間に報告書を渡して、島に残留することにしたのです。彼らはもう三日後にも来る予定でした……」

 

 

☆☆☆

 

 

「……もう、本当はこれ以上話したくないのです。これから先は私の罪の告白です。私の生涯をかけても償いきれないほどの、最悪な行為についてお話しなければなりません」

 

「キヨと夫婦になったその次の朝、私はキヨよりも先に目が覚めました。隣で幸せに寝入っているキヨを起こさないようにして私は寝床から抜け出ると、海岸へ向かいました」

 

「結婚したからには、その記念となるものをキヨに贈らなければなりません。私は、この島の砂浜に美しい貝殻がたくさん散らばっていることを思い出しました。綺麗な貝殻を使って、キヨに髪飾りを贈ることにしたのです。若者らしい、他愛のない、ふとした思い付きでした」

 

「海岸に行くと、私は愕然としました。そこには陸軍の上陸用舟艇が三隻も着岸していたのです。小銃と軽機関銃を手にした兵隊たちが(たむろ)していました」

 

「おい、と声がかかりました。そこには、私にこの仕事の話を持ち掛けてきたあの斎藤という軍人がいました。私は彼にこれまでの経緯を報告し、このまま島に残留する意図を伝えました」

 

「報告書をパラパラと流し読みした後、斎藤はニヤリと笑って言いました。『そうなるだろうと思ったよ。まあ、しっかりとデータは揃っている。残留を認めようじゃないか。それに、契約通り報酬も払う』と」

 

「そして、彼はこう言いました。『我々はこのまま島を離れる。だがその前に、君の花嫁を見せてくれないか? お手数だがここに呼んで来てくれ』 私は承諾しました」

 

「戻ると、キヨは起きていました。突然島に多くの人間の気配がしたことに彼女は怯えていました。ですが、私が説明すると、彼女は落ち着きを取り戻しました。そして、私たち二人は手を取り合って、海岸へ向かいました」

 

「海岸に出ると、兵隊たちが横一列に並んで、捧げ銃の姿勢をしていました。私たちを祝福してくれているんだよ、とキヨに言うと、彼女は顔を赤らめました」

 

「二人で斎藤の前に立ち、挨拶をしました。彼は『ほぉ、流石は女神様。大層お美しいですな』と言いました」

 

「次の瞬間、パンッと乾いた銃声がしました。同時に、私の腹部にバシッという衝撃が走りました」

 

「見ると、斎藤の手には拳銃がありました。彼はそれで私を撃ったのです。小さな銃口から紫色の煙がひとすじ、立ち昇っていました」

 

「私は砂浜に倒れました。キヨが叫び声をあげていました。私の意識は朦朧としていました。自分で立ち上がることができません。その間に、兵隊たちはキヨを縄で縛り上げていきました」

 

「斎藤が言いました。『よし! この男を舟艇に放り込め! 女神はそのままだ! 全員、乗船!』」

 

「舟艇は島から離れていきました。私は舟の上からキヨが身をよじり、泣き叫んでいるのをただ見ていました。キヨは『ヤスタロー! ヤスタロー!』と私の名を呼びながら、泣いていました」

 

「そうこうしているうちに、彼女の動きがぴたりと止まりました。斎藤が緊張した面持ちをしました。彼は、『さあ、いよいよだぞ……』と言いました」

 

「声が聞こえました。『おのれ……』と、声はそう言っていました。声はまた、言いました。『おのれ……おのれ……』と……」

 

「その声は、キヨから出ていました。しかし、それはいつものあの可愛らしい声ではありませんでした。地の底を這いずり回る魑魅魍魎(ちみもうりょう)が絞り出すような、深い恨みと怒りが凝縮されたような、そういう声でした。私が乗っている舟艇と、キヨがいる海岸とはかなりの距離があったのに、まるで耳元で言われているかのように、その声は明瞭に聞こえるのです」

 

「次の瞬間、キヨを縛っていたすべての荒縄がはじけ飛びました。キヨはその小さくて華奢な体をブルブルと大きく震わせました。みるみるうちに、彼女の姿形が変貌していきました」

 

「その頭からは白い角が二本生えました。口からは鋭い牙が伸びました。体は着物を引き裂いて肥大化し、太く、長くなりました。真っ白な美しい肌を、無数の黒いウロコが覆いました。彼女の体の長さは、十五メートルはあったでしょうか。金色だった目は、業火のように赤くなっていました」

 

「キヨだったものは叫びました。『おのれ、人間! よくもヤスタローを!』 そして、その口から真っ赤な炎を吐きました。膨大な熱量でした。離れたところにいる私でも、その熱さがはっきりと分かりました」

 

「一人の兵隊が茫然としたように言いました。『バケモノだ……』と……」

 

「突然、斎藤がハハハと高笑いしました。彼は言いました。『見ろ! 実験は大成功だ! 我々は人為的にバケモノを生み出すことに成功したぞ! それも巨大な神格を基にした、強大無比なバケモノを!』」

 

「それを聞いて、私はすべてを卒然と悟りました。愚かにも、私は騙されていたのです。彼らの目的はデータの収集などではなく、最初からキヨを生物兵器化するつもりだったのだと、私は悟りました。古来神々は愛する者を奪われた場合、呪いを発して神格を著しく落とし、バケモノになると言われています。まさにキヨはその通りになってしまったのです」

 

「斎藤はなおも言葉を続けました。『攻撃衝動は学習理論と制御装置でコントロールできる。攻撃対象の選別もエウロパ製の火器管制装置でなんとかなるだろう。ハハハ、素晴らしい! 最高の兵器が生まれるのだ! おい! 沖合に待機している母船に連絡しろ! 捕獲部隊を発進させろとな!』」

 

「それを聞いて、私は怒り狂いました。その時にはすでに大量の血液を失って、意識を保つのもやっとの状態でしたが、私は最後の力を振り絞って起き上がりました。私は斎藤に体当たりをし、押し倒すと、その首を両手で絞めました。私は彼を絞め殺すつもりでした」

 

「もはや動けぬと思っていた男がいきなり動いて首を絞めてきたからでしょう、斎藤は明らかに恐怖の表情を浮かべました。ですが、次の瞬間、そばにいた兵隊が私の後頭部を銃床で殴りつけました。骨が砕ける音がたしかに聞こえました。私の意識はあっけなく飛び去りました」

 

「薄れゆく意識の中で、私は、キヨの声を聞いた気がしました。優しい声でした。彼女は言いました。『ヤスタロー、必ずあなたに会いに行くわ。きっと、どんなに時間がかかっても、またあなたに会いに行くわ……』と……」

 

「目が覚めた時、私は軍病院にいました。私は二年間もそこに幽閉されました。解放された後、私は故郷に帰りましたが、拳銃で撃たれた腹部と殴られた頭部の怪我の後遺症のこともあり、家業は廃止しました。報酬は律儀に支払われたので、私は阿波県に移住し、以後は畑を耕して過ごしました……」

 

「いえ、いまさらごまかす必要もありませんね。そうです。私が家業を廃止したのは、キヨのためです。あの美しい島で穏やかに暮らしていたキヨ、優しくて愛に溢れていたキヨ……私はそんなキヨを破滅させてしまったのです。キヨがバケモノになったのは、キヨが変身(メタモルフォシス)したのは、紛れもなく私のせいです。私は、もうそんな仕事をするわけにはいきませんでした……」

 

 

☆☆☆ 

 

 

 そこまで話すと老人は、ふっと大きく溜息をついて、私に微笑みかけた。老人は言った。

 

「その壺の中をご覧ください」

 

 老人は、手でそれを示した。私は床の間の黒い壺に近寄ると、中を覗いた。

 

 その中には、黒い蛇がいた。生きているのか、死んでいるのか、蛇はぐったりとして動かなかった。

 

 不思議なことに、蛇の頭部には小さな二本の白い角が生えていた。

 

 老人はニッコリと笑って言った。

 

「数日前に、私の家の軒下に横たわっていたんです。今まで自分から探しに行くこともしなかった私ですが、せめてこれからは、ずっと一緒にいるつもりです」

 

 東京府に戻った私は、資料を当たり、蛇型の魔法生物兵器の運用記録を調べた。

 

 キヨと思しき兵器について、私は断片的な記述を見つけることができた。どうやらキヨは火炎放射兵器としてまず大陸戦線に投入され、その後戦況の悪化に伴って比島決戦に送られたようだった。その「兵器」は、サラクサク峠で連合軍戦車に幾ばくかの損害を与えた後、猛砲撃を受けて行方不明となった、とのことだった。

 

 一週間後、手紙が届いた。手紙は私が去った三日後に老人が安らかに息を引き取ったことを述べていた。あの黒い蛇については何も書かれていなかった。

 

 私はきっと、最期まで一緒だったのだろうと思っている。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「キヨのメタモルフォシス」作品メモ

 2020年2月12日公開。

 通算十七本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「バケモノ」に応募した作品です。

 面白いと思えるような話の筋をなかなか考えつくことができず、三日三晩悩んでようやく書き上げることができました。

 最初は「南の島の孤島、ジャングルに隠された敵軍の秘密研究所に、島の妖精を改造したバケモノがいた。敵の機密文書からバケモノの情報を得た軍は、可能ならば本体そのものを捕獲しようと特殊部隊を派遣するが、バケモノは島全体を支配していて……」なんて筋を考えてましたが、どう考えても8000字の短編に収まる内容ではなく、また「バケモノ」というテーマを真正面から捉えていないこともあって、取り止めにしました。しかし孤島と軍隊というイメージは残ったわけです。

 女の子が愛ゆえにバケモノに変身してしまう、というのは日本人の精神風土に根付いている性癖なので、最終的にそれを追求した話を書き上げることができて満足しています。

 次回もお楽しみに。

※加筆修正しました。(2023/06/24/土)

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