ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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アレクサンデル・クルチャトフ「祖国は自力で成し遂げた(Родина делала сама.)」


11. 真っ白なマナ

 司祭は気の毒そうな顔をして私に言った。

 

「典型的なビエールィ魔法原虫性の胃腸炎ですな、リディア・ウロジーミロヴナ。ここの風土病です。いえ、心配は要りません。毎日薄い粥だけを食べて、神様にお祈りをすれば、一ヶ月で回復します。ただし、絶対安静ですよ」

 

 十字の傷跡のあるやや禿げ上がった(ひたい)を撫でながら、司祭はベッドで横になっている私に、療養生活中の注意点をこまごまと説明した。決して粥以外は口にしないこと、飲酒は控えること、外出も控えること、等々……

 

 話が終わると、司祭は椅子から立ち上がった。彼は言った。

 

「あとでアンナを寄越します。貴女に神様のお恵みがありますように」

 

 寝台に横になったまま、私は型通りに司祭に礼を言った。彼が部屋から出ていくのを見送ってから、私は大きく溜息をついた。

 

 まったく、つくづく私には運がない。

 

 従軍時代の後遺症を癒やすために転地療養を勧められ、連邦首都から東南に四千五百リーグ離れた辺境の、このネシャースチエ村にやって来たのはつい半月ほど前のことだった。

 

 ここには電気も、エーテル自動車も、魔石ラジオもない。黄土と、埃と、日干し煉瓦だけの(ひな)びた村だった。

 

 到着当初、村西方のシンの荒野から吹いてくる爽やかな風と、雪深い本国では拝めない暖かな日光に私は感動した。

 

 しかし、感動は次第に幻滅へと変化していった。

 

 私はいちおう教師としてここに赴任してきたのだが、教師としての仕事はないことが早々に分かった。教育に限らず、医療相談や裁定、告解など、すべての精神的事柄に関する権威は、この村においてはただあの司祭のみが担っていた。どこから来たのかも分からない余所(よそ)者、しかも女である私の言うことなど、誰も聞いてくれなかった。

 

 当の司祭からも、私は釘をさされた。司祭は丁寧な、しかし冷たい口調で私に言った。

 

「ここでは、科学と魔術と政治の話はしないようにお願いします。ここの村人に必要なのは、ただ神の言葉だけです」

 

 おまけに、この年は記録的な凶作だった。村人たちはどうやって冬を越そうかと、非常に気を揉んでいた。例年ならばふっくらとした柔らかな白パンを食べられるこの時期に、村人たちは薄いカラス麦の粥を啜って飢えを(しの)いでいた。

 

 私は仕事もしていないのに、貴重な食糧を食い潰す存在だった。私は明らかに、村にとってお荷物だった。

 

 そして、この病気である。痛む腹を抱えて、私は毛布を(かぶ)った。兵隊時代に運を使い果たしたのだろうか? そういえば、戦地において(から)くも命を拾ったことなど数知れない……

 

 

☆☆☆

 

 

 毛布の向こうから、女の子の明るい声が聞こえてきた。

 

「先生! 入りますよ!」

 

 声を聞いて、私は毛布の中から顔を出した。素早いノックの後にドアが開かれて、白いエプロンドレスを身に纏った一人の少女が部屋に入ってきた。その手には粥の皿が載った盆があった。

 

 アンナが来てくれた。

 

 この地方の人間特有の浅黒い肌と黒い髪をした彼女は、綺麗な蒼い目をきらきらと輝かせて、元気な声で私に告げた。

 

「先生! お粥を持ってきました! これから毎日、私がお世話しますからね!」

 

 その可憐な顔立ちでアンナはにっこりと笑った。私も笑みを返した。

 

 この村に来て、唯一良かったと思えることがあった。それが、このアンナとの出会いだった。彼女はまだ十五歳だった。彼女は早くに両親を失い、教会で育てられたという。

 

 他の村人が私に対して無関心か敵意かのいずれかを向けてくる中で、アンナだけが私に優しく接してくれた。彼女はその瞳と同じくらい、美しく澄みわたった心を持っているようだった。

 

 私はすぐにアンナが好きになった。アンナは賢かった。彼女にはもちろん学問的な知識はなかった。だが、彼女は人の話をよく聞き、その性格は素直で、なにより明るかった。

 

 枕元に盆を置いたアンナが、私の顔を覗き込んできた。彼女は心配そうな声で言った。

 

「先生、やっぱり顔色が悪いですね……今日の授業は、もういいですからね」

 

 私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。彼女のたっての希望で、今日から個人授業をするつもりでいたからだった。

 

 アンナはせかせかと室内を動き回って、湯を沸かす準備を始めた。ドレスのフリルがふわふわと踊っていた。彼女は言った。

 

「あっ、そうだ! 先生が元気になったら、村外れのお花畑に遊びに行きましょう! この時期だとお花はそれほど咲いていないんですけど、あそこには年中、綺麗な蝶がいっぱい飛んでいるんです。真っ白で、大きな蝶が……えっ、捕まえて標本にするって? ひどいわ、先生!……」

 

 

☆☆☆

 

 

 その日の夜のことだった。私は読書を終え、灯りを消し、そろそろ寝ようとしていた。

 

 突然、大爆発音が鳴り響いた。私は驚き、ベッドの上で体を硬直させた。

 

 ガタガタと家屋全体が振動した。窓も、家具も、食器も、すべてがビリビリと鳴っていた。

 

 これほどまでに強烈な爆発音は、戦場でも聞いたことがなかった。野戦重砲の一斉射撃でも、大型の航空爆弾でも、大火力魔法でも、これほどまでの音を立てることはできない。

 

 夜空から、星でも落ちてきたのだろうか?

 

 私は窓から顔を出して、周囲を見回した。すると、西方のシンの荒野の上空に、光の柱が立っていた。柱は三本あった。眩いばかりに光り輝いていた。

 

 三本の光の柱は、しかし美しくはなかった。それらは不気味なほどに白く、凄まじいまでの存在感を放っていた。私の目には、それらは十字架のように見えた。

 

 村人たちも外に出て、この怪異を目の当たりにした。しばらくは呆然としていたようだったが、やがて彼らは騒ぎ始めた。彼らは口々に「おお、神よ!」とか、「不吉だ!」などと(わめ)いた。

 

 しかし、数分もすると光の柱は忽然と姿を消してしまった。どこを見渡しても、その痕跡すら認められなかった。不思議なこともあるものだと、村人たちはブツブツ呟きながら家の中へ戻っていった。

 

 辺境特有の気象現象だろうか? 私は訝しみながら、ベッドに横になった。その割には、村人たちは驚いていた。私は考え続けていた。つまり、あの光の柱は村人たちにとっても未知のものだということになる。であるならば、あれは気象現象ではなく、もっと別の、何か違う原因から発生した事象だろう。それは何か? 私はしばらく考えを巡らせた。しかし、何も思いつかなかった。

 

 私は疲れた。疲れと共に、眠気が湧いてきた。いずれにせよ、すぐに消えてしまったということは、害もないということだろう。私はそう思うことにした。それにしても、まったく、とんだところに療養に来てしまった……そのように嘆く気持ちは、次第に夢の中に溶けていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 日の出前に起きるのは、私の兵隊時代からの習癖だった。その日も私は、いつも通りの時間に起きた。壁の時計は朝の四時半を示していた。

 

 ほどなくして私は、ベッドの上で横になったまま、家の外から漂ってくるある異様な雰囲気を感じとった。

 

 静かすぎる。不自然なまでに静かだ。

 

 この雰囲気を、私はよく知っていた。これは、雪が降り積もった明け方の空気とよく似ている。故郷で私は、しばしばその空気に触れていた。

 

 私は窓を開けた。

 

 目に飛び込んできたのは、一面の白だった。

 

 屋根も道も、空き地も塀も、教会の尖塔も、見渡せる限り、その一面がすべて、白い何かに覆われていた。

 

 それは雪ではなかった。今はその季節ではないし、そもそも、この辺境に雪が降ることは決してない。

 

 いったい、これはどういうことか? 私が思案している間に、村人たちも目覚めたようだった。村のあちこちで村人たちが大騒ぎをする気配が伝わってきた。

 

 私はまたベッドに横になった。早朝恒例の鋭い腹痛に襲われたからだった。詳しいことは、また後でアンナに訊くとしよう……私は腹を抱えて、痛みに耐える態勢をとり始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 粥を持ってきてくれたアンナは、頬を紅潮させて、この白い事件について詳しく話してくれた。

 

「朝、水を汲もうと外に出たら一面の白で、本当にびっくりしました。近所のみんなも口々に『これは何だろう』ってずっと言ってて。地面に三センチくらい降り積もってるんです。触ってみたんですけど、粉っぽくて、でも湿っていて、湿っているのに綿みたいに軽くて、おまけに、蜜のような甘くて良い香りがするんです」

 

 アンナはサモワールでお茶を沸かしていた。彼女はさらに言った。

 

「そしたら、あの村一番の大食らいのピョートル・アレクサンドロヴィチが、その白いのを口に入れたんです。みんな『あっ!』と叫びました。でも、ピョートルはケロッとしてて、『こりゃあ、物凄く美味(うめ)ぇぞ! こんなに美味(うめ)ぇものは、今までに食ったことがない!』って喜ぶんです。それからは、みんなも食べ始めて……ほら、みんないつもお腹が減っているでしょう」

 

 わたしはお茶を一口飲むと静かに、貴女もそれを食べたのかとアンナに尋ねた。

 

 アンナは首を左右に振った。

 

「いいえ、その時は食べませんでした。司祭様に食べて良いものか訊いてみないといけないって思ったから……みんなも私の意見に賛成しました。それで、連れ立って教会に行ったんです。行くと、司祭様はもうすべてご存知でした。司祭様は、村のみんなを集めなさいと言いました」

 

 アンナはいったん言葉を切って、私の顔を見つめた。私はゆっくりと頷いて、続きを促した。アンナはまた話し始めた。

 

「全員が集まると、司祭様は聖書を手にして言いました。『昨晩の三本の光の柱は、主が我々にお恵みを垂れられる(しるし)だったのです。そして、今朝になって村に降り積もった白い物体は、これこそ窮乏の村に神が食物として与えられたパン、「マナ」なのです。これからはこのマナを日々の糧として、この飢饉を乗り越えようではありませんか』 司祭様はそのように仰せになりました」

 

 そこまで話すとアンナは、黒い壺を私に示した。壺の中には、白いものがいっぱい詰まっていた。それはマナだった。甘い香りがした。アンナは言った。

 

「それから私達は家に戻って、壺とか容器とかを持ち出して、マナを集めたんです。マナは村の中だけじゃなくて、外の野原とか畑にも厚く降り積もっていて、とても集め切れないくらいたくさんありました」

 

 そう言うと、アンナは大きな木製の匙を壺に突っ込んで、マナを口へと運んだ。彼女はマナをよく咀嚼し、うっとりとした表情を浮かべた。

 

「うん! やっぱりすごく美味しい! 舌が溶けちゃいそう! 司祭様がお誕生日にくれる砂糖菓子も美味しいけど、これはそれ以上だわ! やっぱり神様の贈り物だからかしら。ねえ、先生?」

 

 アンナはマナの詰まった壺を私の枕元に置いた。彼女はそれを、私にあげると言った。

 

 それからも私たちはしばらくお喋りをした。アンナは帰っていった。帰り際に彼女は言った。

 

「これからもっとマナを集めにいくんです! もっと、郊外のほうへ! 村の中のマナは、もうほとんどなくなってしまいましたから……」

 

 

☆☆☆

 

 

 アンナが去ってからも、私の心中はある疑念に満たされていた。

 

 私は黒い壺の、その白い中身を見た。この白いものは、本当にマナなのか? 遠い昔、王国を脱出し、約束の地を目指して荒野を彷徨う民が飢えに悩まされた時、神は食べ物をお恵みになった。それがマナである。私は指先で、壺の中身をつついた。この白いのが、あの霊妙なる食べ物なのか?

 

 いったい、聖書に出てくるマナが、この現代において降ってくるなど、あり得るのだろうか?

 

 村人たちは司祭に盲従している。司祭の言う事ならば間違いはないと彼らは信じ切っている。だが、このような異常事態をすべて「聖書のとおりだ」と片付けて良いのだろうか? 科学的魔法技術全盛のこの時代にあって、聖書にすべての説明を求めて良いのだろうか? 神の死んだこの唯物論的現代世界にあって、そのような態度は是認されるのだろうか?

 

 もし司祭が間違っていたら、どうなる?

 

 背筋に寒いものが走った。不吉な予感がした。

 

 

☆☆☆

 

 

 だが、私の予感など単なる杞憂に過ぎなかったようだった。あの日から一週間が経った。村は活気を取り戻していた。むしろ以前よりも陽気な雰囲気に包まれていた。

 

 その日も、アンナが私へ粥を運んできてくれた。彼女の肌は健康的で美しいツヤを帯びていた。前から可愛らしい娘だったが、今はもっと綺麗になった。私はそう思った。アンナは明るい声で言った。

 

「マナのおかげなんです。マナを食べると元気になって、頭がスッキリとして、お肌のツヤが増すんです。村の人たちもみんなそう言っています。中にはマナを水に溶いて、それを体に塗る人もいて……寝たきりだったソーニャお婆ちゃんも、マナを食べてからベッドから起き上がれるようになって、今ではみんなと一緒にマナを集めてます」

 

 ベッドの脇に腰掛けたアンナは、蒼い目を輝かせていた。彼女はさらに言った。

 

「司祭様の仰った通り、やっぱりこのマナは神様からの贈り物なんだって、今ではみんな信じてます。もちろん、私もです」

 

 私は、あいにくこの病気のせいでマナが食べられないから、残念だと言った。アンナは笑って言った。

 

「本当に! 早くご病気が治ると良いですね。でも、あのソーニャお婆ちゃんが治ったくらいだから、もしかして先生も食べたら……?」

 

 私は、内心を秘しつつ答えた。だんだんこのお粥にも愛着が湧いてきた、貴女が作ってくれているからだろう、それに、司祭様は粥以外は食べるなと言った……

 

 アンナは嬉しそうな声をあげた。

 

「嬉しいです! これからもお粥ならいくらでも作ってあげますからね! あっ、そういえば……一つお話するのを忘れてました。あの大食らいのピョートルなんですけど、最近家から出てきてないんです。『元気だけが俺の取り柄』なんて普段から言ってるから、多分病気ではないと思うんですけど……」

 

 その時、私はアンナの黒い髪の中に、何本かの白い毛を見た。若く健康なアンナに、なぜ白髪が? しかし、うら若い乙女にそんなことを告げるのは躊躇われたので、私は黙っておいた。

 

 

☆☆☆

 

 

 変化は、その次の日から徐々に現れ始めた。

 

 朝、部屋に入ってきたアンナを見て私は愕然とした。

 

 彼女の髪も、肌も、白くなっていた。

 

 驚いて固まっている私に、アンナは暗い顔をして話しかけてきた。

 

「一晩で……一晩で、先生みたいに白い肌になっちゃいました。村のみんなも一緒なんです、髪も肌も白くなって……ちょっと不安になって、司祭様にお話を伺いに行きました。司祭様も白くなっていました。司祭様は(ひたい)の傷跡を撫でながら、『これはマナを食べたことによって、私達が浄化されている証拠です』と仰られました」

 

 でも、とアンナは俯いて話を続けた。

 

「私にとって、黒い髪と浅黒い肌は、死んだ父と母を思い出させてくれる何よりのものでした。私、マナを食べることで髪も肌も白くなってしまうなら、お腹が減っても良いからもう食べないって、決めたんです。でも……」

 

 アンナは顔を上げた。その目尻には涙が浮かんでいた。彼女は涙声で言った。

 

「でも、マナを食べないと、体の調子がすごく悪くなるんです! マナを食べないと、フラフラして、目もぼんやりして……心臓がドキドキするし、手も震えるんです。普通のお粥を食べても、なんだか泥を食べてるみたいに不味く感じられて……マナを食べたら元通りになるんですけど……だから、もうマナはやめられません」

 

 

☆☆☆

 

 

 明くる日の朝、凄まじい勢いで扉が開き、アンナが飛び込んできた。彼女は私に抱きつくと、その蒼い瞳からボロボロと涙を零して、嗚咽を漏らし始めた。

 

 私は優しく彼女の背中を撫でてあげた。そうやって落ち着かせてから、何があったのかを訊いた。アンナは震えながら答えた。

 

「……昨日、一週間以上もピョートルが家から出てこないのはやっぱりおかしいってことになって、みんなで彼の家に行ったんです。鍵が掛かっていたから、仕方ないから()じ開けて……そうしたら、家の中には、中には……」

 

 ぶるりと、アンナは大きく身震いをした。彼女は言った。

 

「中には、すごく大きな芋虫がいました。芋虫は真っ白でぶよぶよで、太くて長くて、人間みたいに大きいんです。芋虫は家の中に入ってきた私たちには無関心みたいで、床の上を這いずり回っているだけでした。ピョートルはどこにもいなくて、空の壺がいっぱい転がっていました。みんな怖くなってしまって、芋虫を家に閉じ込めました。窓を板で塞いで、扉に釘を打って……」

 

 そこまで言ってから、アンナは私を強く抱き締めた。

 

「あの芋虫はピョートルなんじゃないかって、私は思うんです。みんなも口には出しませんけど、きっと同じ考えだと思います。それに、私、気になったから、家に帰って自分の体をよく見てみたんです。そうしたら……」

 

 そこでアンナは言葉に詰まった。

 

 私は、話したくなければ話さなくて良いと言った。

 

 しかし、アンナは決意を固めたようだった。彼女はおもむろに立ち上がると自分の服を脱ぎ、上半身を晒した。

 

 彼女の両脇腹に、何か異様なものが生えていた。芋虫の脚のような突起物が、一定の間隔を置いてそれぞれ五つずつ並んでいた。

 

 私は顔を近づけてそれを見た。突起物は、生き物のように動いていた。

 

 アンナは、消え入りそうな声で言った。

 

「先生、私、いったいどうしたら……」

 

 私は彼女を慰め、もうこれ以上マナを食べないよう勧告した。そうするしかなかった。たぶん、マナを食べずにはいられないだろうと、心の奥で諦めを抱きながら……

 

 

☆☆☆

 

 

 三日後になって、ついに決定的な事態が発生した。

 

 覆い難い疲労感を顔に浮かべて、アンナはその大事件について語った。

 

「突然、ピョートルの家が崩れたんです。半壊した家の中から大きな白い蝶が出てきました……蝶は、小型の飛行機くらいはありました。その蝶はふわりと飛び上がると、さっと舞い降りて、その近くにいたサーシャを細長い脚で捕まえました。蝶はサーシャを捕まえて……捕まえて……」

 

 アンナは顔を手でおおった。

 

「あのストローみたいな口を、サーシャのお腹に突き刺したんです!」

 

 しばらくアンナは泣いていた。やがて、彼女は言った。

 

「それで、蝶はサーシャの中身を吸い尽くしてしまいました。サーシャは空っぽの袋みたいになってしまいました。みんなは銃を撃って、なんとかその蝶をやっつけたんですけど……蝶の肉と体液がマナと同じ味だと気づくと、みんな群がりよって死体を食べてしまいました……あんなに優しかったみんなが、まるで野犬みたいに吠えあって、口を真っ白にして、暴れて……」

 

 

☆☆☆

 

 

 その事件の次の日から、村の至るところで繭が張られ、そして白い蝶が生まれ続けた。

 

 アンナから聞いたところによると、蝶は村人を襲って体液を吸い、村人は逆に蝶を狩って屍肉を貪り食うという地獄絵図が村中で繰り広げられているという。

 

 窓越しに眺めるだけでも、その様子はよく見て取れた。断続的な銃声と、叫び声と、絹を裂くような悲鳴が、朝から夜まで、ひっきりなしに聞こえてきた。

 

 村の指導者である司祭は、数日前から姿を見せなくなっていた。アンナによると、司祭は教会の一室に閉じこもって、ずっと聖句を唱えているという。収拾不能な事態を前にして、神頼みをしているのだろうか?

 

 私は胃腸炎から回復しつつあった。まだ足取りは覚束なかったが、この際そんなことは問題ではなかった。

 

 一刻も早く、この村から脱出しなければならない! 私は決意した。這ってでもこの村から逃げ出そう。

 

 私はアンナも連れ出すことにした。

 

 アンナは以前よりもさらに白さを増していた。彼女は腹部にきつく包帯を巻いていた。そうしないと、あの突起物が暴れて困るのだという。私が提案を告げると、案外すんなりと彼女は承諾した。

 

「はい、先生。先生に従います。もう、この村にはいられません。周りの人たちはみんな蝶になるか、それとも蝶に体液を吸われて死んでしまいましたし……」

 

 夜明けに私たちは落ち合うことにした。アンナは帰っていった。私はその背中を見送った。

 

 

☆☆☆

 

 

 だが、私の計画はあっさりと破綻してしまった。

 

 その日の午後、久々に寝台から降りて荷物を纏めていた私は、予想だにしない悲劇に見舞われた。

 

 突然、蝶の死体が空から降ってきて、私の部屋を圧し潰したのだった。

 

 私は瓦礫に埋もれてしまった。それで死ななかったのは奇跡と言えた。病み上がりの肉体をなんとか動かして、二日後になってようやく私は脱出することに成功した。だが、アンナとの約束の時間はとっくの昔に過ぎ去っていた。

 

 私は空を飛び回る蝶から隠れながら、村の崩壊した家々を巡り、食料や水や銃を探した。銃と弾は見つかったが、食べ物と水はなかった。どの家にも空になった壺が転がっており、部屋の中には巨大な繭がいくつも鎮座していた。

 

 往来には、むせ返るような甘い匂いが漂っていた。全身の体液を抜かれて骨と皮だけになった人間の死体が、そこここに転がっていた。いずれも脇腹に芋虫の不気味な脚があった。撃ち落とされた蝶の死骸は、柔らかく食べられる部分はすべて食い千切られていた。吐き気を催すほどに強烈な甘い香りを蝶の死体は放っていた。

 

 空からは雪のように、蝶の鱗粉が降っていた。鱗粉は空中に漂っていて、世界を白くしていた。

 

 生き残りの人間もいた。だが、こちらが声をかけてもまったく反応せず、彼は壺と銃を持って、ふらふらといずこへともなく立ち去っていった。

 

 必要なものを集め終えた私は、一縷の希望にかけて教会へ向かった。アンナはまだそこにいるかもしれなかった。私は、せめて彼女だけでも救いたかった。

 

 だが、教会は半壊していた。崩れずに残っている高い尖塔には、巨大な繭がかかっていた。他の繭よりも、二回りも、三回りも大きな繭だった。

 

 呆然と、私はその光景に見入っていた。すると、繭が目の前で破れ始めた。中で何かが蠢いていた。

 

 羽化が始まったのだ。私は息を呑んだ。

 

 その中から出てきたのは、ひときわ巨大な蝶だった。蝶は羽を伸ばして空気に晒し、乾かした。やがて、乾いた羽が広げられた。大型の爆撃機のように、蝶はその威容を尖塔の上で示した。

 

 白い巨大な複眼が私を睨みつけていた。それは捕食者の眼差しだった。私は、その蝶の(ひたい)に、十字の傷が付いていることに気がついた。それは、あの司祭の傷とまったく同じものだった。もしやと思い、私は呼びかけた。

 

 だが、蝶は大きな羽を羽ばたかせて、まっしぐらに私に襲いかかってきた。

 

 口吻が突き出された。私は地面を転がることでそれを避けた。私は銃を構えた。蝶の頭部目掛けて、私は弾倉内の六発を立て続けに撃ち込んだ。

 

 弾が命中し、破片が飛び散った。だが、まったく効果はなかった。

 

 蝶は、その巨大な体躯に見合わぬ俊敏さで体の向きを変えると、私に再度口吻を鋭く突き出した。

 

 今度は避けることができなかった。腹部に口吻が刺さり、激痛が走った。真っ白な管が私の体液を吸い出そうと、圧力を高めているのを感じた。

 

 

☆☆☆

 

 

 絶体絶命の、その瞬間だった。突如として、上空に別の蝶が現れた。新手の蝶は元司祭の蝶に馬乗りになると、その口吻を十字の傷のついた頭部に勢いよく突き刺した。

 

 私は、はっきりと見た。その新手は、アンナと同じく宝石のように綺麗な真っ青の複眼を持っていた。

 

 痛みに悶える元司祭の蝶は、アンナの目をした蝶を背中に乗せたまま、上空に飛び上がった。私は解放された。だが、傷は重かった。私は立ち上がることすらできなかった。

 

 上空では激しい空中戦が繰り広げられていた。数分か、それとも数時間か、二匹の蝶は追いつ追われつの激しい闘いを繰り広げた。

 

 やがて両者ともに力尽きた。二匹は地響きを立てて落下した。もはや、どちらも動かなかった。

 

 私の意識もまた、腹部からの大量出血により、闇の中へと消えていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 あの後、村には連邦の陸軍部隊がやって来た。彼らは防護服とマスクで完全に体を守っていた。彼らは村に転がっている蝶の死骸や、生き残りの白い人間や、羽化しかけの繭を、残さず火炎放射器で焼き尽くした。サンプルとして適当なものがあると、彼らはそれをエーテルが満ちたアルミ合金性カプセルへと収容した。

 

 もっとも、その時気絶していた私はその光景を見ていなかった。私は収容先の病院のベッドで、内務人民委員部の男からその話を聞かされたのだった。

 

 仏頂面をしたその男は、私がかつて所属していた部隊について話すと、急に態度を軟化させた。彼は親しげな口調で言った。

 

「話すなと命令されていますが、今回の事件の唯一の生き残りであり、また私の故郷から侵略者を追い出した部隊の一員だった貴女だけは特別です。お話ししましょう。先月、我が連邦は世界初の戦略魔力兵器の実験に成功しました。シンの荒野で深夜、極秘理に行われたその実験の結果、想定以上の魔力性降下物が発生しました。貴女のいた村に降り注いだ白い物体の正体はそれです」

 

 私は、その魔力性降下物が村ではマナと呼ばれ、食物として珍重されていたと伝えた。男は呆れたような顔をした。

 

「はぁ、マナ? それはとんでもない。あの真っ白な死の灰は、人体を異界の生物へと作り変える作用を持っています。紛れもない毒物ですよ。それを大量に摂取したら……失礼、それはご存知でしたね。それにしても、狂信者とは恐ろしい。やはり、十年前に宗教を復興させたのは間違いでしたな」

 

 私は、蒼い複眼を持った蝶について尋ねた。彼は資料の束を捲った。

 

「蒼い複眼ですか……いえ、そのような個体を回収したとの記録はないですね。単なる見間違えでは? ところで……」

 

 彼はいずまいを正して言った。

 

「偶然ながら貴女はあの場に居合わせ、そして国家の最高機密を知ってしまいました。まったく潔白である貴女にはまことに申し訳ありませんが、これからは貴女の自由が少し制限されます。なに、それほど大したことではありません。これも国家への奉仕の一つだと思って、せいぜい励んでください……」




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えてくだされば幸いです。

・らいん・とほたー「真っ白なマナ」作品メモ

 エブリスタで定期的に開催されている妄想コンテスト、その第91回「白」に応募した作品です。2018年12月30日公開。

 キャッチコピーは「突如村に降り積もった白い物質。それは神の恵みの「マナ」か、それとも……」
 
 この「白」というテーマ、具体的なようでかなり幅が広く、正直なところを言ってしまえば「なんでもあり」なお題です。それだけに魅力的な設定とプロットをどう作るのか、どうすれば「白」を印象的な形で表現できるのか、かなり考えました。

 書いていたのはちょうど昨年の年末。なかなかテーマが決まらず悶々としていたところ、ふと小学生の頃に見たある恐ろしい事件を扱ったテレビ番組を思い出しました。

 それは、廃病院から盗み出された放射性同位体(確か放射線治療用のものだったと思います)が民間人に出回り、大勢の人間が被曝したというものでした(検索をかけたら、ゴイアニア被曝事故としてウィキペディアの記事がヒットしました)。おお、これをヒントにしようと思いつきました。

 あとは私の好きなモチーフ、「マナ」を組み合わせて、村が変貌する過程を書けば完成です。

 ちなみに当初の予定では、語り手の主人公はラーゲリ帰りの男性ということにしていましたが、アンナが服を脱ぐシーンでの整合性が取れないので、戦地帰りの女性になりました。そのほうが書いていて楽しかったですね。

 次回もお楽しみに。

※加筆修正しました。(2023/06/28/水)
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