ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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 夢現の境界を超越するのは、愛だけなのか。



12. イレーネの世界

 奇妙な夢を見ている。

 

 だいたい、僕は夢見(ゆめみ)が良いほうではない。むしろ、悪夢ばかり見ると言っても良い。

 

 果樹園でリンゴ狩りをしていたら、もいだ果実に手と足が生えて、歌いながら隊列を組んで行進を始める夢を見たり、あるいは、柔らかいケーキを口いっぱいに頬張ったら、ガリッと硬いものを噛む感触がして、吐き出してみると歯が全部抜け落ちていたという夢だったり……とにかく、ろくな夢ではない。そんな夢ばかり見てしまう。

 

 古代人たちは、夢見というものをことさら重要視したという。例えば、メディアの王アステュアゲスは、娘マンダネの子宮から葡萄の樹が生えて、その枝葉が全世界を覆う夢を見て仰天したという。アステュアゲスは祭司に相談した。祭司の夢診断によると、これは王国の支配権がマンダネの息子に奪われることの暗示だというので、王はマンダネの子供を殺すように命じた……そんな話を僕は本で読んで知っている。

 

 そういった古代人たちの夢診断に倣えば、僕は毎晩とんでもない運命を予告されているようなものだ。もいだ果実が分列行進をしたり、歯が抜け落ちたりという夢は、どう考えても吉兆を暗示しているとは思えない。

 

 僕は今、奇妙な夢を見ている。その今見ている夢の内容なのだが、これは悪夢ではない。確かに奇妙ではあったが、実は僕はこれをすでに知っている。

 

 不定期にだが、僕は何度も同じ夢を見ているのだ。物心ついた頃から、もう何百回となく、僕はそれを見ている。

 

 僕は高いところにいる。ピンク色の大空と紫色の大地が見渡せる、天高く雲を腰掛けとするような、そんな高いところに僕はいる。

 

 眼下には、沢山の人たちがいる。彼らは豆粒(まめつぶ)、いやゴマ粒のように小さい。彼らは古代ローマ人のトガのような、ゆったりとした白い衣服を身に纏っている。整然とした正八角形の隊列を組んで、全員が跪いている。手を固く組み、頭を深く下げ、なにやら真摯に祈りを捧げているようだ。そう、それは仏教でいうところの、五体投地というものによく似ている。

 

 やがて、一人の妙齢の女性が人々の前に立った。彼女は色鮮やかな緋色のトガを身に纏っていて、その髪の色は美しい銀色だ。彼女は石造りの大きな祭壇の前に立って、天に向かって恭しく一礼した後、なにやら祝詞(のりと)のようなものを読み上げ始める。

 

「……我らが光、我らが生命の源、主よ、永遠なる真実よ。汝の他に我らの望みなし…」

 

 だいたいこんな言葉が続く。どうやら彼女は巫女か、祭司長か、そういう立場の人間のようだ。

 

 長い祝詞が終わると、集団礼拝はクライマックスへと突入する。僕はこれが嫌いだ。夢を見る回数が重なるごとに、だんだんと過激になってきているからだ。

 

 今回は、赤い毛をした可愛らしい仔牛が連れてこられた。仔牛は何頭もいた。仔牛はそれぞれ金のモールと黄色い織物で飾り付けられていた。祭司長は、鈍色も鮮やかな銀のナイフを取り出すと、それを仔牛の喉へ向かって振るう……

 

 仔牛の哀れな断末魔の叫びが響く。金の皿が滴る血を受ける。儀式は粛々と進行する。

 

 息絶えた仔牛から心臓が取り出され、それが祭壇に捧げられる。心臓には香油と香料植物の粒が振りかけられる。祈りの言葉、焼かれる仔牛の肉、立ち上る灰色の煙、漂ってくる燃える脂の臭い……

 

 何度見ても、ここだけは嫌な場面だ。でも、どうしても僕はそれから目を離すことができない。

 

 

☆☆☆

 

 

「おはようございます、泉美(いずみ)様」 

 

 女性の声が僕を覚醒へと導いた。清らかな声だった。目を開けると、そこには若い女性がいた。見目麗しい女性だった。

 

 綺麗なプラチナブロンドの髪だった。ホワイトブリムを被っていて、端整な紺のメイド服をスレンダーなその身に纏っている。瞳は蒼く、怜悧な輝きを放っていた。

 

 イレーネだ。

 

 彼女を見て、僕は安心した。今日も無事にあの夢から脱出できたのだという感慨が湧いてきた。僕は強いて平静さを装って、彼女に返事をした。

 

「おはよう、イレーネ」

 

 だが、イレーネには僕の内心などお見通しのようだった。いつものクールな無表情に、少しこちらを気遣うような色が見えた。彼女は言った。

 

「大丈夫ですか、泉美様? お顔の色があまりよろしくないようですが……?」

 

 そう言うとイレーネは、僕の手を取って脈をとり始めた。彼女のつけている香水の上品な香りがほのかに漂ってくる。

 

 具合が悪い時は、いつもこうやって僕の状態を確認するのが、小さい頃からの彼女の習慣だった。

 

 彼女の細い指はひんやりとしていた。精緻な氷彫刻のような指だった。僕の体温で溶かしてしまわないか、いつも心配になる。

 

 イレーネは言った。

 

「……いつもより脈拍が乱れています」

 

 僕は苦笑いをした。

 

「ははは……君に隠し事はできないな。そう、また例の夢を見たからかもね」

 

 僕はイレーネに夢の内容を説明した。いつものように、大勢の人間が礼拝をしていて、祭司長が祝詞を読み上げて、仔牛が生贄に捧げられて……

 

「前に見た時よりも、仔牛の数が増えていたよ。それに、表情は遠くて見えなかったけど、祭司長の祝詞を上げる調子が、なんだか激しかったように感じた。そう、なんだか、いつもより鬼気迫るような感じで……」

 

 あらゆる話題の中で何が一番つまらないかといえば、それはきっと他人の夢の内容を聞かされることだろう。それでも、イレーネは真剣に僕の話を聞いてくれた。まるで、あたかもそれが大事件であるかのように、彼女は僕の話を聞いていた。

 

 僕がひととおり話し終えた後、イレーネは瞳にうっすらと慈愛の色を滲ませて、静かに言った。

 

「お可哀そうに、さぞかしご気分を害されたことでしょう……幸い、今日は良いお天気です。少し外へおいでになるなどして、気分を変えましょう。今日一日はどうか心安らかに、楽しくお過ごしください」

 

 

☆☆☆

 

 

 僕は体が弱い。はっきりいって、虚弱体質だ。それに年々酷くなっている。

 

 数年前までは、まだ自分の足で歩くことができた。もっとさかのぼれば、一応駆けっこだってできた。それが今では、車椅子なしでは移動すらできない。

 

 原因は不明だ。生まれ持っての体質なのか、それとも後天的なものなのか、それすらも不明だ。

 

 僕が生まれた神門(ごうと)家は代々身体頑健な人が多い。祖父は健康なまま百歳まで生きたし、伯父は世界的な登山家だ。父も実業家としても激務を毎日こなしながら、健康上の問題は何一つ抱えていない。母の家系も似たようなものだ。

 

 それなのに僕ときたら、小さい頃からすぐ発熱はするし、黄疸は出るし、不整脈になるし、ありとあらゆる病気になるのだ。正直、立っている時間よりもベッドで横になっている時間のほうが長いだろう。

 

 家がこれほど裕福で、行き届いた医療を受けられなかったなら、とっくの昔にこの世界にお別れをしているところだ。

 

 でも、僕は幸せだ。それは、イレーネがいるからだ。彼女が付きっ切りで僕のお世話をしてくれているから、僕は安心して毎日を過ごすことができている。

 

 イレーネは、まさに僕の守護天使だ。決して良好とは言えない僕の健康状態を神が憐れんで、彼女が遣わされたのかと思われるほどだ。

 

 彼女は、僕が生まれて間もない頃、僕の両親によって拾われた。屋敷の門前にゆりかごに寝かされて、彼女は置き去りにされていたらしい。産着にはカードが一枚挟まっていて、それには「Irene」とだけ書いてあったという。父と母は、この捨て子を我が子として育てることにした。

 

 僕と兄妹のようにイレーネは育てられた。彼女はとびきり優秀だった。物静かで感情をあまり表に出すことはないけれど、彼女は勉強も運動も抜群にできるし、行儀作法も完璧だ。音楽も、その他の教養も豊富で、ありとあらゆる分野に彼女は天才的な能力を発揮する。

 

 父も母も、イレーネを自慢の娘だと言って誇っている。

 

 でも、そのイレーネは、不思議にも自分自身のことを僕の姉妹だと言ったことは一度もない。顔色一つ変えず、彼女はいつもこう言う。

 

「私は、泉美(いずみ)様にお仕えする者です」

 

 四歳になった頃、イレーネは母に、「この世界では、人にお仕えする時には、どんな服装をするのですか?」と訊いたという。それは四歳児が言えるような言葉ではなかったが、母はイレーネが頭の良い子だと知っていたので、さして不思議に思わなった。母は冗談交じりに「それはメイド服よ!」と答えた。すると、どこから調達したのだろうか、次の日からイレーネはそれに身を包んで、僕の(かたわら)にいるようになった。

 

 どうしてイレーネは「お仕えする者」と言うのだろうか? 拾われた身であることを自覚しての一歩引いた態度ゆえなのか、それとも、どうしようもないわだかまりを内心抱えているからなのか? ある時、どうしても気になって、僕は彼女に言ったことがある。

 

「イレーネ、僕は君のことを本当の家族だと思っているよ。僕にも、父さんと母さんにも遠慮することはないんだよ。イレーネ、どうか『お仕えする者』なんて、そんなよそよそしいことを言わないで」

 

 それに対して、彼女は涼やかにこう答えた。

 

「もったいないお言葉です。私にとって、泉美様は光であり、生命の源です。一方的に恩恵を(こうむ)る者が、恩恵をもたらして下さる方に向かって同じ家族であると名乗るのは、不敬千万でございます」

 

 僕には、それにどう反論したものか見当もつかなかった。

 

 事実、彼女は本当に献身的に尽くしてくれている。でも僕は、そこまでしてもらうだけの価値と意味が自分にあるとは思えないのだ。ありがたいと思いつつ、いつも僕は少しばかりの心苦しさを感じている。それはなんとも贅沢な心苦しさだろう。

 

 仕事が多忙を極めて両親とも一年の大半を海外で過ごす中、僕の生活のすべてを支えてくれているのはイレーネだ。僕は彼女の優しい声によって朝に目を覚ます。食事はすべて彼女が手ずから作ってくれる。外に出歩く時、彼女は僕の車椅子を押してくれる。夏は日傘をさしてくれて、冬はあたたかなコートを羽織らせてくれる。

 

 まるで、僕を神だと崇めているかのように、彼女は恭しく仕事をする。

 

 奇妙な関係だ。何一つできない僕に、完全無欠なイレーネが、まさに滅私の精神で仕えてくれている。

 

 僕は彼女を愛している。言うまでもなく、一人の女性として彼女を愛している。イレーネが家族の一員として一緒に育ったなら、決してこんな感情を抱くことはなかっただろう。彼女が仕える者として「在る」から、僕はこんな思いを抱くことになってしまった。今のところ、僕はこの思いを隠している。でも、もしかしたらイレーネには、すべてお見通しなのかもしれない。

 

 僕の人生における最大の謎は、イレーネそのものだ。僕は、謎は謎のままでも良いと思う反面、謎は解き明かされてこそ謎であるとも思う。彼女は、どちらなのだろうか?

 

 

☆☆☆

 

 

 奇妙な夢を見た夜から、数ヶ月が経った。その日は僕の十九歳の誕生日だった。

 

 両親とイレーネが、僕の誕生日のお祝いをしてくれた。イレーネが料理を作ってくれた。

 

 帰国間もない父さんと母さんは、酷く疲れているはずなのに、明るい笑顔を浮かべて僕を祝福してくれた。

 

「泉美、体の弱いお前を置いて父さんも母さんも仕事ばかりにかまけていて本当に済まない。こうしてお前が無事に十九歳の誕生日を迎えることができて、とても嬉しい」

 

 僕は父さんの言葉に口を挟んだ。

 

「いいえ、僕が生きていられるのは、父さんと母さんが仕事をしてくれているからです。それになにより、イレーネがいてくれるから。彼女のおかげで、僕は毎日、何不自由なく過ごすことができています」

 

 テーブルについているのは三人だけだった。イレーネはメイド服のまま、直立不動で僕の傍らに控えていた。

 

 僕は彼女へ顔を向けた。イレーネは僕をじっと見ていた。美しい、透き通るような蒼い瞳と、僕の目が合った。僕は言った。

 

「イレーネ、いつも本当にありがとう」

 

 彼女は恭しく頭を下げた。

 

「もったいないお言葉でございます。私のほうこそ感謝を申し上げなければなりません」

 

 そんな僕たち二人を見て、父さんと母さんは笑っていた。母さんが言った。

 

「イレーネ、またそんな他人行儀なことを言っちゃって! 私としてはちょっと複雑な気持ちだわ!」

 

 父さんも言った。

 

「そうだぞイレーネ! 少しは泉美を放っておいて、自分のためだけに時間を使っても良いんだぞ……」

 

 楽しい時間はすぐ過ぎ去ってしまう。このお祝いが終わったら、父さんと母さんはすぐに出発しないといけなかった。

 

 それでも僕は、イレーネばかり見ていた。彼女はいつもながらの無表情だったが、わずかに笑みを浮かべているようにも見えた。

 

 

☆☆☆

 

 

 奇妙なことは夢の中だけで、現実は穏やかで平和なものだと思っていた。

 

 そんな認識を覆す出来事が起きたのは、その晩のことだった。

 

 就寝する前、僕はベッドの上で誕生日のカードを見ていた。父と母のものから、神門家一族のみんなのものまで、すべてのカードを重ね合わせると分厚い本のようになった。それを一枚一枚、僕は丹念に読んでいった。

 

 面白かったのは、登山家の伯父からのものだった。細かい字で、びっしりとメッセージが書かれていた。

 

「おじさんは今、世界で最も人命を奪っていると評判のK2の登頂を目指している。まあ登頂よりも、ゴミ問題の解決に関心があるのだが。泉美よ、よく登山家が人生を山登りに(たと)えたりするが、おじさんとしてはあまり上手い譬えだとは思わない。なるほど、人生は山あり谷あり、起伏に断崖絶壁、登り切れば後は下山だけ、というのはそのとおりなのだが、それには常にゴミの問題が付きまとうのだ。人は何かを成し遂げようと思えば、必ず何かを汚さずにはいられない。泉美よ、お前はよく手紙で自分の体の弱さを嘆き、自分は何事もなしえないと悲痛な呻きを漏らしているが、おじさんからすると、何事もなさないというのは理想的な『善き』生き方なのだ。だって、ゴミを出さないんだからな。だからお前は、お前のために何事かをなしている人のために常に祈り、感謝の念を捧げなさい。ところで、イレーネとはどこまでいったかな?」

 

 僕は次々とカードを読んだ。最後の一枚になった。それは、父の得意先の社長が送ってきた四角四面なカードだった。

 

 それを読み終えた時だった。

 

 一枚のカードが、葉が枝から離れるように、カードの束から零れ落ちた。それは金箔で縁取られた、絹のように手触りの良い二つ折りのカードだった。

 

 あれ? こんなカード、あったっけ? カードはもう全部読んだはずだけど……そう思いつつ、僕はそれを手に取って、開いた。

 

 差出人の名前は書かれていなかった。中には、青い文字でメッセージが書かれていた。

 

(しゅ)よ、我らの光よ。二千年の長きにわたり、我らの尽きることなき生命の(みなもと)として()り続ける(かた)よ。我らは全身全霊をこめて、主の御生誕を賛美いたします。願わくば主よ、我らの贈り物をどうかお納め下さい。それはあなたのすぐそばにあります」

 

 意味不明の、狂人が書いたとしか思えない内容だった。でも、それはなぜか僕の精神をひどく(たかぶ)らせた。

 

 僕は声に出して、それをもう一度読んだ。

 

「それはあなたのすぐそばにあります」

 

 自分で言っておきながら、僕はその文言の響きに(おのの)いた。何か見てはいけないものを見てしまったように、僕はカードをすぐに閉じた。灯りを落して、僕はシーツの中にもぐりこんだ。あまり丈夫ではない心臓が、ドクドクと異様に高鳴っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 幸せな気分のまま寝付いて、幸せな夢を見ることができたなら、どんなに満ち足りた思いになれるだろう。でも僕は、あんな変なカードを見た後だったからか、例によってまた奇妙な夢を見てしまった。

 

 今度の夢は、いつもの「あれ」とは違っていた。

 

 蝋燭(ろうそく)の火に照らされた薄暗い石造りの室内で、一人の女性が水晶玉に向かっていた。それは例の夢に出てくる、あの祭司長だった。

 

 彼女は一方的に水晶玉へ向かって言葉を紡いでいた。

 

「……およそ二千年前、父祖の下した決断は間違ってはいませんでした。しかし、もはや限界です。陽は(かげ)り、生命の源は枯れつつあります。あなたは今まで、とても良くやってきたと思います。しかし、もはや事態は一刻を争うのです。私たちはすでに最後の一手を打ちました。私たちはあれをそちらへ送り込みました。あれは決定的なきっかけとなるでしょう。あとは、あなたにしかできないことです。それしか世界を救う方法はありません……」

 

 祭司長は言葉を終えた。沈黙があたりを包んだ。じりじりと、蝋燭の燈心の焦げる音だけが聞こえた。しばらくして、別の声が響いた。

 

「全ては、あの方の望むままに。私はすべてを捧げます。そして、もし拒絶されたなら……」

 

 声は水晶玉から聞こえていた。僕ははっとした。この声には聞き覚えがあった。僕はいつもこの声を聞いていた。自分の声よりも慣れ親しんだこの声は、間違いない……

 

 祭司長が目を吊り上げて、甲高い声で言った。

 

「もし、拒絶されたら?」

 

 水晶玉は、静かに言葉を放った。

 

「私は滅びます。そして、世界も滅びるでしょう……」

 

 

☆☆☆

 

 

 夢は夢に過ぎませんと、ある医者は僕に言った。しかし、そう簡単に割り切れない思いが、その朝目覚めた後もしつこく付きまとった。

 

 いつも見る夢、集団礼拝、祭司長……そして、ゆうべの夢の、あの水晶玉、イレーネの声を発する水晶玉……

 

 あれは、本当に夢の世界の話なのだろうか?

 

 イレーネを思う僕の気持ちが、夢という形をとって具現化しただけという可能性はある。脳内神経の単なる短絡と混線に過ぎないという可能性もある。だけどあれは、そうと言い切るには、あまりにも現実感がありすぎた。

 

 

☆☆☆

 

 

 それからもしばしば、僕は祭司長と水晶玉の夢を見た。内容は似通っていた。回を重ね、あの声を聞けば聞くだけ、それがイレーネのように思えてならなかった。

 

 僕は夢から目覚めるたびに、あの誕生日カードを読み直した。根拠はなかったが、僕は夢とカードになにか関係があると感じていた。

 

「それはあなたのすぐそばにあります」

 

 僕のすぐそばにいるのは、イレーネしかいない。ならば、カードの言う贈り物とは、イレーネに他ならないのではないか?

 

 イレーネにカードを見せようか? 一度ならず僕はそう考えた。おそらく、彼女は何の反応も示さないだろう。どこまでいっても、夢は単なる夢でしかないのだから。だから、さっさと彼女にカードを見せてしまえば良い。

 

 それでも、僕は迷い続けた。そう、万が一ということがある。それが、どうしようもなく怖かった。

 

 イレーネは、僕にとって現実感を肯定してくれる唯一の存在だ。彼女がいるから、僕は無為のままに生きねばならないという絶望感を味わわずに済んでいる。彼女がいるから、僕は生きながらに死んでいるようなこの乾いた生を受け入れることができる。

 

 もし、カードを見せることによってイレーネを失ってしまったら? 彼女がカードを見る。彼女がなにごとかを言う。そのなにごとかは、夢と関係している。もし、そんなことになったら? もし、彼女が夢という非現実そのものと密接に関係があることを思い知らされたら、僕は果たして正気でいられるのだろうか?

 

 そんな怖れが増大する以上に、僕の知りたいという気持ちは高まっていった。夢と彼女との関係を、僕は知りたかった。イレーネに秘められているかもしれない真実を、僕は知りたかった。

 

 僕は悶えていた。こんな苦しみは初めてだった。どんな病気も、これほどまでの苦しみをもたらしたことはなかった

 

 

☆☆☆

 

 

 密かに煩悶する僕の一方で、イレーネにも少しだけ変化があった。

 

 表面的には、彼女は何も変わらなかった。朝起きてから僕と一緒に食事をし、一緒に本を読み、一緒に散歩をする。そのすべてにおいて、イレーネは何も変わっていないように見えた。

 

 しかし、僕は彼女の微妙な変化にすぐ気が付いた。

 

 まず、彼女はなかなか僕と目を合わせてくれなくなった。これまでイレーネは、僕と会話する時には真っ直ぐ視線を合わせてくれていた。でも、あの気がかりな夢の次の日から、彼女の視線は何となく上滑りになった。少なくとも僕はそういう印象を覚えた。

 

 それから、彼女は緊張感を発するようになった。それは態度や言動には決してあらわれなかったが、僕は彼女の纏う雰囲気からそれを察することができた。

 

 僕は彼女に声をかけた。

 

「ねえ、イレーネ。こっちを見て」

 

 彼女は答えた。

 

「はい、泉美様」

 

 彼女はこちらに顔を向けた。僕たちはしばらく見つめ合った。やっぱり、視線がどこか合わない気がした。

 

 あえて、僕は普段言わないことを口にしてみた。

 

「うん、今日も可愛いね、イレーネ。すごく可愛い」

 

 そう言われた瞬間、イレーネの顔がみるみるうちに赤くなった。そして、すぐにその色は引いていった。その一連の流れはあまりにも早かったので、見間違えかと一瞬思ったくらいだった。

 

 イレーネの精神状態は、たしかに変化しているようだった。

 

 僕の気のせいだとは思えなかった。ずっと一緒に過ごしてきたのだ。彼女の感情の機微を察知すること、これだけは僕が唯一持つ能力だと言っても過言ではない。

 

 なぜか、祭司長のあの言葉がまた頭の中で蘇った。「あとは、あなたにしかできないことです」

 

 もしかして、イレーネも僕と同じように悩んでいるのだろうか? ふとそんなことを僕は考えた。あの美しい無感情の相貌の下で、彼女も「自分にしかできないこと」を為すべきか、それとも為さざるべきか、苦悩のうちに考えているのだろうか?

 

 ……なんとも、こんなことを考えるなんて。夢と現実を混同しつつあるようだ。僕はそう思った。どうやら心の最深部で、僕は夢とイレーネに関係があると確信しつつあるようだった。僕はその心の働きを、あえて止めようとはしなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 そうこうしているうちに、僕は抜き差しならない状況に立ち至った。

 

 その日、僕たちはいつものように昼食を食べ終えた。

 

 これから少し外に出ようかと言っていた、その時だった。僕は胸に強い痛みを覚えた。頭の中が真っ白になるような、言語に絶する激しい痛みだった。うめき声すら上げず、僕は車椅子から崩れ落ちた。

 

 イレーネが叫んだ。

 

「泉美様、泉美様!」

 

 彼女がこんなに必死な声を出すのは、初めて聞いた。僕は薄れゆく意識の中で、埒もないことを考えていた。

 

 彼女の応急処置は迅速で、的確だった。僕はすぐに病院へ運ばれた。最先端の医療技術により、僕は何とか一命をとりとめた。

 

 行動に移すか、移さないか。それを悩むことができるのは一種の特権だ。肉体的な健康に恵まれた人にだけ、その特権がある。僕は何本も(くだ)を繋げられた状態で、そんなことを思った。

 

 医師からは多臓器不全だと言われた。心臓だけではない、どこもかしこも弱っている。もって三週間だと、医師は言った。

 

 原因は未だに不明だった。どうやら僕の肉体は、植物が枯れ果てるように、生命力を急速に失いつつあるようだった。

 

 死が目前に迫って、僕はようやく決心がついた。どうせ死ぬのなら、イレーネのことを知り尽くしてから死にたい。こんな状況にならなければ行動に移せない自分の心の弱さに少し嫌気がさしたが、それはどうにもならないことだと諦めた。

 

 無理を承知で、僕は医師に家に帰してくれと頼んだ。渋い表情を浮かべて医師はしばらく考えて、それから承諾してくれた。

 

 

☆☆☆

 

 

 僕は今、家のベッドに横になっている。傍らにはイレーネがいる。彼女は僕の手を取って、俯くようにしてその(ひたい)を押し付けている。

 

 まるで、祈っているかのようだった。

 

 連絡を受けて、父さんと母さんは急遽帰国の途上にある。だが、帰ってくるのは明日だ。

 

 話を切り出すなら、二人きりの今しかない。

 

 僕は、イレーネに言った。

 

「イレーネ、もう何回も話しているよね。小さい頃から見ている、あの不思議な夢。たくさんの人が祈っていて、たくさんの生贄が捧げられて……もう、祭司長の長い祝詞(のりと)も覚えちゃったよ」

 

 はっと息を呑む音が聞こえた。彼女は顔を上げた。蒼い瞳が潤んでいるのが見えた。僕はさらに言った。

 

「でも、最近見るのは違う夢なんだ。そこには祭司長がいて、彼女は水晶玉と喋っている。その水晶玉からは……」

 

 僕は、ちょっとだけ言葉を切った。そして、また言った。

 

「不思議なんだけど、君の声がするんだよ」

 

 僕の言葉を聞いて、何か言おうとしたのか、イレーネの口元がわなないた。

 

 そんな様子を見て、もう僕はそれ以上言葉を費やすことができなかった。僕は震える手で、あのカードをイレーネに差し出した。

 

「これを、読んで。きっと、僕の夢と関係があると思う」

 

 彼女の手もまた、かすかに震えていた。彼女は僕からカードを受け取ると、そのメッセージへ視線を走らせた。僕は彼女に言った。

 

「『それはあなたのすぐそばにあります』 それは、君だね? そうだよね、イレーネ?」

 

 カードを閉じると、イレーネはため息をついた。彼女は目を瞑った。胸に手をやって、彼女は何度も、何度も、深呼吸をした。その息遣いからは、明らかに彼女の内面の葛藤が感じられた。

 

 苦悩するイレーネは、美しかった。僕の胸に彼女への愛しさがこれまでにないほどに募った。僕はすぐにも彼女を抱きしめたかった。それでも、僕は思いとどまった。今、彼女は戦っているのだ。それならば、僕は彼女の戦いを見届けなければならない。

 

 イレーネはまだ目を閉じて、深呼吸をしていた。僕はずっとそんな彼女を見ていたかった。しかし、数秒もすると彼女は目を開けた。蒼い瞳は潤んでいて、熱がこもっていた。その熱は僕に伝わった。僕の体は深奥から熱くなった。

 

 やがてイレーネは、口を開いた。深夜に雪が降り積もるように、彼女は言葉を紡いだ。

 

「はい、泉美様。このカードに書いてある贈り物とは、私のことです」

 

 視線がはっきりと絡み合うのを感じた。イレーネは泣いていて、僕も泣いていた。イレーネは身を乗り出すと、僕と唇を重ね合わせた。

 

 

☆☆☆

 

 

 生まれて初めて味わう疲労感と、例えようのない満足感があった。知るべきことをやっと知ることができたような、そんな達成感もあった。

 

 僕たちは一緒に横になっていた。僕を抱きながら、イレーネは全てを話してくれた。

 

「泉美様に隠していたことは二つあります。一つは、私がこの世界の人間ではないこと。もう一つは、私の元の世界が、泉美様の生命力によって成立していたことです」

 

 およそ二千年前、僕の世界だと約二十年前だが、イレーネの世界は滅びる寸前だったという。神の恩寵が消え果てて、地は乾き、水は涸れ、生命は生まれながらにして死にゆく、そんな終末をその世界は迎えていたらしい。

 

「座して世界の終わりをただ待っていたその時、天空に新しい存在が降臨したのです。それは穏やかな緑の光を放ち、温かで、慈愛に満ちていました。世界はまた、命と豊かさを取り戻しました。尽きることなき生命力を授けて下さるその方を、私たちは新たなる神と崇めました。それこそ、泉美様だったのです」

 

 イレーネは僕を強く抱きしめた。柔らかな彼女の真っ白な素肌は、滑らかでしっとりとしていた。

 

「泉美様がいてくださったから、私たちの世界は存続し得たのです」

 

 しかし、神はいずれ消え去るものだと彼女たちは知っていた。以前の神も終末の世界に突然現れ、そして唐突に消えてしまったという。

 

「その代の祭司長は決断しました。今度こそ神を失うわけにはいかないと。神を崇めるだけでは足りない、神をお守りしなければならないと祭司長は考えました。世界中のあらゆる叡智を結集して、新たなる神について徹底的な調査が行われました。その結果、この世界に顕現しているのは神のお力だけであること、神の本体は違う次元におわしますことが判明しました。そして、違う次元にいるご本体の命が失われれば、この世界の神のお力もまた消えることが分かりました」

 

 イレーネはそっと溜息をついた。

 

「そこで、神がお生まれになった次元へと、付き人を送り込むことになりました。それが、私だったのです。次元旅行の適性を持っていたのは、その世界では私だけでした。行けば元の世界へ戻ることはできず、わずかな交信が可能なだけ。孤独な旅でしたが、私は覚悟していました。世界を救うためならば、どんな孤独にも耐えよう。そのように思っていました」

 

 使命とはいえ、たった一人で異次元へとイレーネは転生した。どれだけ心細かっただろう。どれだけの重圧に耐えてきたのだろう。僕はそう呟いた。彼女は微笑んだ。

 

「初めは、ただ神様にお仕えすることだけを思っていました。私が泉美様をお守りしなければ、世界が滅びる。その使命感だけで生きていました。でも、あなたの優しさに触れて、あなたの笑顔を見て……私の心に二つの思いが生まれました。それは愛と、恐怖です。私は泉美様のことを愛してしまいました。愛してしまいましたから、私のこともすべて知っていただきたくなりました。ですがもしそのことを打ちあけて、この世界の仕組みと私の存在の意味が発覚したら、泉美様は私を否定し、そして私はすべてを永遠に失ってしまうかもしれない……そのように、私は恐怖しました」

 

 そんなことはない。僕は、やっと自分の生の意味を見出すことができた。僕は言った。

 

「イレーネ、僕は嬉しいんだ。僕は、今まで自分の人生を無意味なものだと思ってきた。僕の無意味な生に付き合わされる君に、いつも申し訳ない気持ちを抱いていた。でも、違ったんだね」

 

 考えるまでもなく、言葉が口から出てきた。

 

「僕がその世界に生命を分け与えたのは、きっと、君をこちらの世界に呼び寄せるためだったんだ。君を愛するために、僕は君の世界に現れたんだ」

 

 イレーネの瞳から涙が溢れ出た。僕は彼女を抱き寄せて、異世界の色をした髪の毛を優しく撫でた。

 

 僕は、最後に尋ねるべきことが一つ残っていることを思い出した。

 

 贈り物としてイレーネを受け入れることが、どうして彼女の世界の存続を意味するのだろうか?

 

 彼女はそっと答えた。

 

「泉美様は、私たちの世界に無限大の恩恵を授けてくださいました。ですが、ご本体は私たちの世界を現実のものとして認識されていないのだということが、二千年にわたる祈祷の末についに判明したのです。私がお話を伺うと、どうやら私たちの世界をたしかにご覧になっているようなのですが、あれは単なる奇妙な夢だと仰られるばかりで……」

 

 彼女はさらに言った。

 

「世界を認識しなければ、お力を適切に用いることができません。泉美様はお力を制御できないままに、生命力を発散してしまいました。幼少期からの原因不明の肉体的衰弱は、それが原因だったのです」

 

 僕はようやく得心がいった。あれだけ血生臭い仔牛たちの生贄は、なんとかして僕に「この世界も現実なのだ」と気づいてもらおうとするための、必死な願いの現れだったのだろう。

 

 イレーネは言葉を続けた。彼女は頬をほのかに赤らめていた。

 

「祭司長は、最後の手段に出ることにしました。二千年にわたる集団祈祷によって得られたエネルギーで、泉美様のお誕生日をお祝いするカードをこちらの世界へ送ったのです。それが泉美様の認識を変える、たった一つのトリガーになると信じたからです……私にできる唯一のこと、それは、泉美様の問い掛けに『はい』と答えることでした。カードのせいで泉美様が現実を拒絶するのならば、私たちの世界は滅びるわけですから、それは一種の賭けでした……」

 

 イレーネは僕を見つめた。

 

「ですが、私は信じておりました。怖れもありましたけど、それ以上に、私は泉美様を愛していましたから」

 

 そして、彼女は言った。

 

「泉美様は、見事に認識を超越なさいました。私という、この世界ではあり得ない存在を、泉美様は真なる意味で受け入れてくださいました。私たちの世界を認識されたので、これからはもう、生命力が枯渇することはないでしょう。上手く力を振るうための技術は、私がこれからお教え致します。ですから、あの……」

 

 その時イレーネが浮かべた、すべてから解放されたような笑顔を、僕は一生忘れないだろう。

 

 イレーネは言った。

 

「これからも末永くお仕えしますね、あなた」




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えてくだされば幸いです。

・らいん・とほたー「イレーネの世界」作品メモ

 エブリスタで定期的に開催されている妄想コンテスト、その第94回「発覚」に応募した作品です。2019年2月9日公開。

 キャッチコピーは「それが発覚した時、彼の愛は何処へ行くのか?」

 発覚とはまた難しいテーマで書くことを要求されたものです。それにこのコンテストは短編。8,000字以内で書かないといけないわけですから、あまり大掛かりなサスペンス劇は組めません。

 困った私は、当初ギャグテイストの作品にするつもりでした。「自分がダイエットする時に発散したエネルギーが勝手に異世界で使われてた件」みたいな感じで。ですが、これだとあまり深みのある話になりません。何より女の子が出そうにない。

 その頃、私は女の子を書くことに飢えていました。メイド服の綺麗な女の子を書きたい! そうなるとギャグテイストでは駄目です。シリアス路線にプロットを切り替えました。そうして出来上がったのが、この作品です。

 これにてストックが尽きました。次回からはエブリスタと同時投稿になります。今後ともぜひご贔屓を賜ればまことにありがたいことと存じます。

 次回もお楽しみに!

※加筆修正しました。(2023/06/28/水)

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