ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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13. 冷獄のラウラ

 泥濘のような睡眠から、エリクは目を覚ました。 

 

 目覚める前、エリクは夢を見ていた。それともそれは夢ではなく、昂奮(こうふん)した精神と錯綜した神経系がいびつに組み立てた幻影であったのかもしれない。彼は、ある女の姿を眠りの中で見つめていた。

 

 女は美しかった。女は雪のように白銀に輝く長い髪だった。氷よりも冷たい、白く怜悧な顔立ちをしていた。その美しさは人間とは思えぬほどの、崇高な雰囲気を伴っていた。いや、崇高というよりも、どこか魔性の気配がした。

 

 女は目を閉じていて、祈るように手を組み、跪いていた。女は身じろぎ一つしなかった。だが、しばらくして、女は何か啓示を受けたように体を震わせた。そして、夢を見ているエリクの方へ、その澄んだエメラルドの瞳を向けると、女はわずかに笑みを浮かべて、そっと口を開いた。

 

「エリク様……」

 

 夢の余韻は、目覚めた直後のエリクにぬるく纏わりついていた。

 

 彼は視線を窓へ向けた。外はまったき暁闇(ぎょうあん)だった。だが、あの死と氷の山である、偉大なるトロス山脈の威容は、闇を突き破ってエリクの網膜に映り込んでいた。

 

 宿の建て付けの悪い窓枠から、山岳地帯特有の冷涼な空気が密やかに入り込んできた。それが、未だ余韻に囚われているエリクの曖昧な意識を、多少はっきりとさせた。

 

 そうだ。今日は、あの山に登らなければならない。彼はそう思った。あの山から青い血液のように流れ出ている、あの氷河へ、そしてあの氷河に傷口のように開いているクレバスへ、何としてでも行かねばならない……

 

 それが、新たな運命の出発点なのだから。彼の意識はようやく完全な覚醒を果たした。

 

 彼は、痩せ衰えた身体をようやくの思いで寝台から起こした。白髪で覆われている頭部を気だるげに打ち振りながら、エリクは部屋から出ていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 魔術士であるエリクがこの世に生を受けたのは、わずか十八年前のことだった。だが、この十八年間こそは、人類がそれまでの歴史で体験したいかなる時代と比較にならないほどに濃密で、陰惨だった。そして、それ以上に、栄光に満ちていた。

 

 彼が生まれる二年前、世界の片隅に魔王が降臨した。

 

 魔王は眷属を増やし、領土を侵し、人類の血と涙と肉片を大地にばら撒きながら、獰猛に勢力圏を拡大した。人間の軍は勇猛果敢に戦い、そして各地で惨敗を重ねた。

 

 そんな暗い時代において、エリクは国内で有数の実力と伝統を持つ魔術の名門に生まれた。

 

 宮廷魔術最高顧問官である彼の父親は、我が子がその身に秘めている魔力の強さに目を見張った。エリクが立って歩くことができるようになると、父親は息子が将来の決戦における(かなめ)となるように、厳しい教育と訓練を授けた。

 

 鍛錬の合間に、父親は決まって訓戒を垂れたものだった。

 

「エリク、お前は人類の希望だ。お前が身に宿す魔法力こそ、魔王討伐に欠くべからざるものである。固く身を持せよ。女人と交わってはならぬ。女人の肌の温もりを覚えてはならぬ。女人を知ればお前は、その身に宿す力をすべて失い、ひいては、世界は破滅するであろう。これを己が絶対の戒律とせよ」

 

 外の世界を知らず、女性を知らず、エリクは城の中でただひたすらに修練に励んだ。彼に転機が訪れたのは、十四歳の時だった。

 

 彼が魔王を封印するための大魔法をついに習得したその日の晩、城に、ひとりの少年が忍び込んできた。警備兵の目をかいくぐって、少年はエリクの寝室に忍び込んだ。少年は、可愛らしくあどけない顔に溌溂とした笑顔を浮かべて、こう言った。

 

「僕はロドルフォ。魔王を倒すための仲間を探しているんだ。もし、君さえ良かったらなんだけど、僕と一緒に来て、魔王討伐のために力を貸してくれないかな?」

 

 このロドルフォこそ、後年魔王を討ち果たし、全世界にその名を轟かせることになる勇者その人であった。

 

 エリクは、しばらく考えた後、ニッコリと笑って少年の手を握った。そして二人は暗闇を冒して城を抜け出した。エリクは故郷から離れて、果てしない世界救済の旅路へとその足を踏み出したのだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 初めは、気楽な二人旅だった。

 

 ロドルフォはエリクより二歳年下だった。だが彼は、身に余るほどの大剣を自由自在に操っては魔物を切り払い、勇者たる資質を事あるごとに示した。

 

 一方、エリクは鍛え抜かれた魔法を駆使して、ロドルフォに強力な援護を提供した。

 

 背中を預け合って、窮地を乗り越えて、二人は友情を確固たるものとしていった。

 

 エリクは、彼の戒律についてもロドルフォに話した。

 

 ある時、村を悩ませる邪龍を討伐した後のことだった。祝賀会の席で、エリクは村の娘たちにつきまとわれた。悲鳴を上げたエリクは、その場から逃げ出して、部屋に閉じ籠ってしまった。

 

 やがて、ロドルフォが理由を訊きに来た。エリクはロドルフォに事情を話した。自分は魔王を封印する大魔法を習得していること、だが、戒律を守らなければその力が失われること……そして、戒律厳守を骨の髄まで叩き込まれたせいで、一種の女性恐怖症になっていること。そんなことを彼は話した。

 

 ロドルフォは金髪をかき上げながら言った。

 

「その戒律って……?」

 

 こういうことにはまだ知識も経験もない友人に、エリクは端的に答えた。

 

「つまり、女人と接触をしてはならないということだ」

 

 ロドルフォは頷いた。

 

「……そう、女の人と付き合っちゃダメなんだね。分かったよ。それじゃあこれからは、僕が君に代わって女の子と話をするよ」

 

 ロドルフォが「接触」という語をどのように理解したのかは定かではなかった。しかし、エリクにとっては友人が事情を理解してくれたというだけで充分だった。

 

 ロドルフォは言った。

 

「でも、酷い話だなぁ。だってさ、全人類のうち、半分が男で、半分が女なわけでしょ? だから、君は『半分だけ話ができない』も同然なんだね……」

 

 二人の名声は日に日に高まった。旅路を共にする仲間は順調に増えていった。重厚な鎧に身を固めた戦士ディオメデス、鷹の目を持つ弓兵フランチェスカ、二刀流の剣士アドリアーノ、治療師モニカ……

 

 様々な苦難があり、様々な楽しみがあった。相変わらずエリクは、女性であるフランチェスカやモニカとあまり交流を持たなかった。だが、誰もそれを怨みに思わなかった。彼の特殊な事情についてはロドルフォが説明していたし、それに、死を恐れず前面に出て勇者を守り、言葉には出さないながらも仲間を深く思いやるエリクの心映えは、しっかりと仲間たちに伝わっていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 そんな勇者一行に彼女が加わったのは、旅を始めて二年が経った時だった。

 

 その日、エリク達は、魔王軍が繰り出してきた新型の機械化合成魔獣と戦った。彼らは死力を振り絞って、辛くもそれを撃破することができた。それはカデシュの街の近郊でのことだった。

 

 小山のように大きなその魔獣は大型の魔力砲を背負っていた。魔獣は都市一つを灰燼に帰するほどの火力を有していたが、冷却系の弱点を見抜いた勇者の的確な戦術指揮により、結局は荒野にその残骸を晒すことになった。

 

 その残骸の動力炉を調べたエリクは、意外なものを発見した。

 

 動力炉の中に、一人の少女がいた。年齢は、十四、五歳だろう。少女は意識を失っていた。

 

 ローズクォーツの魔力カプセルに格納されている少女は、この世のものとは思えぬ美しさだった。雪のように白銀に輝く長い髪に、氷よりも冷たい、白く怜悧な顔立ちをしていた。

 

 少女を見た時、エリクは生まれて初めて、ある種の胸のときめきを感じた。

 

 カプセルを大剣でこじ開けると、ロドルフォは少女を抱き起した。彼は怒りを口調に滲ませて言った。

 

「魔王軍め……きっと、この子を動力炉の冷却装置に使っていたんだ。体の自由と意識を奪って、冷却用の魔力を供給する源として、この子を利用していたんだよ……」

 

 少女は修道会病院に運び込まれ、治療と看護が加えられた。意外なことに、少女の看病に当たったのはエリクだった。

 

 戒律を忘れたことはない。それに、女性はまだ少し、怖い。

 

 だが、彼は少女の境遇に深く同情していた。

 

 寝台に横たわり、浅い呼吸を繰り返す少女の額を優しく撫でながら、エリクは思いを馳せた。父からは教えと庇護を受けた。だが、そこに愛はなかった。父は、自分の才能を愛していたが、自分を愛してくれたことはなかった……

 

 敵のために自由を奪われ、戦いの道具として利用されていたこの女の子は、自分と少し似ている……彼には、そんな気がした。

 

 一週間後、少女は目を覚ました。少女はあまり喋らず、表情も動かなかった。記憶も曖昧なようで、名前すら思い出せないようだった。

 

 エリクは、エメラルドの瞳でじっと見つめてくる少女に、こう告げた。

 

「僕は、君のことをラウラと呼ぶことにするよ。ラウラ、僕が初めて名付けた、大切な名前。僕と君との、絆の証」

 

 その名前は、ふと彼の心の中に浮上してきたものだった。彼は、その名で彼女を呼ぶことが、必然であるように感じた。ラウラと名付けられた少女の瞳が、少しだけ輝いた。彼女は呟くように新しい名前を繰り返した。

 

「ラウラ……」

 

 エリクは、微笑みかけた。

 

「そう、ラウラ。君にはきっと、本当の名前があるだろうけど、これから僕は、君のことをラウラと呼ぶよ」

 

 ラウラと名付けられても少女は、相変わらず口数が少なく、表情を変えることがなかった。彼女は臆病で、わずかな物音にも怯える様子を見せた。勇者やその仲間が話しかけると、彼女は困惑したように顔を曇らせて、俯いてしまうのが常だった。

 

 ただ、エリクだけは例外だった。ラウラは彼によく懐いた。エリクのほうも、時間があればラウラに話しかけ、魔術の手ほどきをした。二人は一緒にお茶を飲んだり、晴れわたる野原で花を()んだりした。

 

 仲間たちはそんな様子を見て、「まるで本当の兄妹のようだね」とからかうように言ったりした。エリク自身も、次第にそのような気持ちになりつつあった。

 

 名づけから数週間が経った。彼らは次の目的地の情報を集め、装備を更新した。カデシュの街から出発する準備がいよいよ整ったその日、エリクはラウラに問いかけた。

 

「これからは過酷な旅になると思う。それでも僕は、君と一緒に旅をしたい」

 

 ラウラは頷いた。彼女は言った。

 

「はい、エリク様。私はあなたの望むままにします」

 

 その日から、勇者一行に新たな仲間が加わった。

 

 

☆☆☆

 

 

 ほどなくしてラウラは、優れた魔術士としての才能を発揮し始めた。彼女は初陣で、強力な魔力耐性を持つ魔物を正面から氷結魔法で圧倒した。それを皮切りに、彼女は日々エリクから伝授される魔法の奥義を次々と我がものにして、難敵や強敵を撃破していった。

 

 旅を始めてから半年も経たずに、ラウラはエリクに匹敵するほどの、勇者一行の後衛戦力の中核となっていた。彼女はエリクにぴったりと寄り添っていた。彼女は彼と呼吸を合わせ、最上級の凍結呪文を吹雪のように連発して戦場を凍りつかせた。ラウラは、次第に敵味方の双方から名声と称賛と畏怖の念を込めて、「冷獄」と渾名されるようになった。

 

 それが、良くなかったのかもしれない。

 

 ある時、勇者一行はハラブの平原で魔王の野戦軍主力と戦闘した。この敵を打ち破れば、あとは峨々(がが)たる永久氷山のトロス山脈を越えて、魔王の居城へとたどり着くことができるはずだった。

 

 雑兵を斬り伏せ、追い散らして、彼らは敵の本営に突入した。彼らは敵将と対峙した。

 

 シュムミリという名の敵将は、精神攻撃を得意とする強敵だった。その女悪魔は勇者たちを人智を超えた力で翻弄したが、最終的にはそれを上回る勇者の精神力を前にして膝を屈した。

 

 勇者が首を刎ねようとしたその時だった。シュムミリは、突然、その黒く長い爪をエリクに差し向けると、禍々しい桃色の魔力光を放った。

 

 光線はそのまま彼に直撃するかと思われた。それをラウラが遮った。

 

「エリク様、危ない!」

 

 彼女は地面に崩れ落ちた。それと同時に、勇者の大剣の一閃が敵将の首を刎ねていた。

 

 ゴロリと音を立てて地面に転がった首は、不吉なことを呟いた。

 

「我が君に逆らう愚か者共よ、お前たちには死すら生温い。その呪いは決してとけぬ。哀れな人間共よ、お前たちは互いに互いを呪いながら破滅するのだ」

 

 気を失って、ぐったりと脱力したラウラをエリクは抱き起こした。勇者は、転がった首に大剣を振り下ろした。

 

 エリクはすぐさま、習得しているすべての診断魔法をラウラにかけた。しかし、呪いとして一般的な毒や恐慌、精神錯乱、知能減退などの症状は見られなかった。

 

 ほどなくして、ラウラが目を覚ました。エリクの琥珀色の瞳と、ラウラのエメラルドの瞳が見つめ合った。エリクは安堵のため息を漏らした。

 

「ラウラ、無事で良かった……」

 

 ラウラは答えた。

 

「エリク様……」

 

 彼女は、ニッコリと笑った。いつも無表情な彼女に似つかわしくない、不自然なほどに晴れやかな笑みだった。

 

 その次の瞬間、ラウラはエリクに抱きついた。

 

 これまでにも軽く抱擁を交わすことはあった。苦闘の末に強敵を倒して感極まった時、あるいは難所を突破して、美しい朝日を見て仲間みんなで喜びを分かち合う時……そんな時に、エリクとラウラはごく控えめに、肩を抱き合うことはあった。

 

 しかし、この抱きつき方は少し様子が違った。ラウラはしっかりとエリクの腰に手を回していた。彼女は愛おしげに顔をすり寄せて、甘えるように彼の胸の中に頭を埋めていた。

 

 ラウラはしきりに彼の名を呼んだ。

 

「エリク様……エリク様……」

 

 エリクは、困った顔をして勇者を見た。勇者は、ただ苦笑いをするだけで何も言わなかった。

 

 戦勝を祝う宴の席でも、ラウラはいつも以上にエリクにくっついていた。散会しても、彼女は決して離れようとしなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 最後の難関、雪と氷に覆われた峻険なトロス山脈を越える。それには綿密な調査を重ね、万全の準備を整えねばならなかった。勇者一行は解放されたイスパルタの街に入り、英気を養うことにした。

 

 ここでの滞在中、エリクは、ますます様子がおかしくなっていくラウラを見て不安感を募らせていた。

 

 それまでも、彼女はいつもエリクと一緒にいた。だが、今の彼女はただ一緒というには、あまりにも距離が近すぎた。ラウラは彼の服の洗濯を、頼まれもしないのに自分から買って出るようになった。食事の時などはぴったりと彼の傍らにいて、彼女は匙を持ち上げては彼に食べさせようとする。

 

 街周辺の魔王軍残党の討伐任務の際も、ラウラはエリクと決して離れなかった。勇者が他の仲間と彼を組ませようとすると、断固として抗議するのだった。

 

「私はエリク様と離れたくありません。勇者様のご命令でも、これだけは譲れません」

 

 エリクのみならず、他の仲間たちも違和感を覚えるようになっていた。なにかがおかしい。なにか、異様なことがラウラの中で起こっている。そう思いつつも、彼らは行動に移さなかった。ラウラがエリクのことを好いているのは分かりきっていた。もし、ここ最近のラウラの異常な行動が、実は決して異常なものではなく、ラウラの心からの行動なのだとしたら? それを制止することは、やはり残酷なことだろう……彼らは仲間思いだった。彼らはもう少し様子を見ることにした。

 

 エリクは、仲間たちとはちょっとだけ違うことを考えていた。彼はラウラにかけられた呪いについて、なんとなく理解し始めていた。そして、その呪いを解くのはおそらく自分には至難だろうということをも、彼は理解しつつあった。この呪いは、自分よりも異性との付き合い方を知っている人間にとっても、非常に厄介なものであるのに違いない……それでは、どうする? 自分にはなにができる? ラウラのために、自分はなにをしてやるべきなのか? 彼は結論を出せなかった。

 

 苦悩を深めるエリクを余所(よそ)に、ラウラはますます生き生きとして、輝いていった。冷獄というにはあまりにも彼女は生命力にあふれていた。その肌はますます白く透き通り、しかし瑞々しく艶ややかだった。彼女は楽しそうだった。そして、もっと楽しみたいようだった。彼女はエリクと楽しみを分かち合いたいようだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 エリクが彼女にかけられた呪いの真相について把握したのは、数週間後のことだった。

 

 魔王軍は、機能を停止した機械化合成魔獣を近郊の村に遺棄していた。それが息を吹き返し、害を及ぼすようになったという通報があった。

 

 勇者ロドルフォは、エリクとラウラにその討伐を頼んだ。折悪く、他の仲間たちは別の任務のために出動していた。

 

 その魔獣がいる村へは、往復だけでも二日はかかる。ちょっとした旅行になる予定だった。出発する前、エリクは勇者から銀のタリスマンを渡された。

 

「旅に出る時、僕のおばあさんから託されたものだよ。何かあった時はこれを使って。祈りを込めれば、効力を発揮するよ」

 

 勇者が想定するその「何か」については、エリクも分かっていた。心の中で、彼はほんの少しだけロドルフォに対して反感を抱いた。ラウラが自分に対してなにかをするというのか? なるほど、そうかもしれない。しかし、その可能性についてロドルフォは過大視しているのではないか? もう少しラウラのことを信頼しても良いだろうに……それでも彼はそれを素直に受け取って、首から下げた。彼は勇者に礼を述べた。

 

 度重なる死闘と激戦を繰り広げたエリクとラウラにとって、半壊した機械化合成魔獣など物の数ではなかった。ラウラは、エリクに対して攻撃を仕掛けようとする敵に向けて激しい憎悪の色を浮かべると、最大出力で魔法を放ち、敵を氷結して粉砕してしまった。そのような彼女を見るのは、やはりエリクにとって初めてのことだった。

 

 その晩、エリクはあてがわれた宿舎の寝室で、一人横になっていた。

 

 いや、いつの間にか横になっていたと言ったほうが良かった。

 

 彼の記憶は曖昧だった。もはや慣れつつある、ラウラとの距離が近すぎる食事を終え、一緒に茶を飲んだところまで彼は覚えていた。しかし、その後の記憶がなかった。

 

 首が、手足が、体が動かない。そのことに気付いたエリクは、当初敵の罠を疑った。食事に毒を盛られたのだろうか? あり得ることだ。村に魔王軍の隠密(スパイ)なり工作員が隠れていて、自分の食事に毒を盛る。あるいはあの魔獣は自分とラウラをここにおびき寄せるための囮で、自分はそれに引っかかってしまったのかもしれない。彼は内心で舌打ちした。

 

 次に彼が考えたのは、ラウラのことだった。彼女は毒にやられていないだろうか? はやく助けに行かねばならない。

 

 そう思った瞬間だった。彼は足元に黒い人影があることに気が付いた。なにかが、そこにいる。そこでなにかが、蠢いている。敵だろうか?

 

 掠れた声で、彼は誰何(すいか)した。

 

「お前は、誰だ……?」

 

 返事はなかった。人影は徐々に移動してきた。それがついにエリクの視界に入った。思わず彼は息を呑んだ。

 

 それは、ラウラだった。ラウラは何も身につけていなかった。彼女は生まれたままの姿だった。

 

 ラウラは彼の名を呼んだ。

 

「エリク様……」

 

 白い肌と銀の髪は、窓の外から差し込む月光に照らされて輝いていた。意外なほどに、ラウラの肉体には豊かな起伏があった。ラウラはそのエメラルドの瞳を妖しく光らせていた。欲望の光が瞬いていた。

 

 しかし、それ以上にエリクの目を惹いたのは、彼女の頭部だった。そこには二本の角が生えていた。くるりと曲がっており、ヤギの角とそっくりだった。さらにエリクは、彼女の腰に目をやった。そこには一本の尻尾が生えていた。邪龍のような、銀の鱗に覆われた尻尾だった。

 

 ラウラは、薬によって拘束されたエリクの体に(またが)った。彼女はあたたかく、しめっていた。彼女はゆっくりと、いたぶるような手つきでエリクのシャツのボタンを外すと、彼の肌に指を這わせ始めた。冷たい、しなやかな指先だった。それが感覚を(たかぶ)らせるように、彼の全身をゆっくりとなぞっていった。

 

 ラウラは笑った。ぞっとするほど妖艶な笑みだった。彼女は言った。

 

「うふふ……エリク様……」

 

 エリクは叫んだ。

 

「ラウラ、何を……!? やめ、やめてくれ! 私の事情は知っているだろう!」

 

 ラウラはエリクの言葉にじっと耳を傾けた。だが、彼女は彼を見つめると、焦らすように答えた。

 

「ふふ、エリク様……やめてほしいですか……? そうですよね。だって、もし、しちゃったら、力がなくなっちゃいますからね……でも、だめです……」

 

 彼女は明らかに、自分と肉体的な交渉を持とうとしている。そういうことを耳でしか聞いたことのないエリクでも、さすがにこれから起こるであろう事態を予測できた。

 

 なんとしてでもそれは避けねばならない。彼は焦った。魔王に対する切り札となる封印魔法は、自分が女人との交わりを断つことによって練られた聖なる力がなければ行使できない。

 

 そして彼は、改めて確信の度合いを深めた。やはり、あの女悪魔がかけた呪いとは、情欲を昂らせるものだったのだ。対象に抑えきれないほどの恋慕と情欲の念を抱かせ、交合させようとする呪い。ラウラに角が生え、尻尾が生えたのは、その副反応だろう。大した呪いではない。力を倍加させるものでもないし、病や毒を振りまくものでもない。だが、この場合においては、破壊的な威力を持っている。

 

 女悪魔は自分を狙ったらしいが、ラウラでもその目的を果たすのに適役だった。彼は内心で呻いた。どこから情報が漏れたのかは分からないが、自分の持つ秘密は、とっくの昔に敵側に露見していたのだろう……

 

 素早く考えを巡らせるエリクの上で、ラウラはいつしか切なそうな息遣いをするようになっていた。

 

「はぁ、はぁ……あぅ……エリクさまぁ」

 

 彼女の瞳は濁っていた。彼女が呪いによって理性と判断力を失っているのは明らかだった。やがて彼女はエリクの肌を撫でるのを止めると、その手を彼の下着へと伸ばした。彼女は言った。

 

「お召し物、脱がしてさしあげますね……」

 

 その時、突如として、エリクが首から下げているタリスマンが白く清らかな光を発した。

 

 ラウラは悲鳴を上げた。

 

「きゃあっ!?」

 

 光を浴びたラウラは、力を失って倒れた。彼女はエリクの体の上に倒れ込んだ。気を失った彼女からは、角も尾も消え失せていた。

 

 ロドルフォは、このことを見通していたのだろうか? エリクは自分の上の重みを意識しまいと、そのようなことを考えた。見通していたからこそ、あの時タリスマンを渡してきたのだろうか? いや、きっと勘だろうな。彼はそう思った。これまで幾度も自分たちを救ってきた、あの未来予知のような勘。今回もそれに救われたのだ……

 

 あくる朝、それとなくエリクはラウラに探りを入れた。昨晩はよく眠れたかい? ラウラは明るい顔をして、「はい」と答えた。彼女は、前夜の出来事をまったく覚えていないようだった。

 

 何気ないふうを装いながら、エリクは彼女にいくつかの解呪魔法を試みた。だが、効果はないようだった。

 

 帰ってから、彼は勇者に相談した。勇者は顔を曇らせて、呻くように言った。

 

「ああ、可哀想なラウラ! あの悪魔は、僕たちが仲間割れをして自滅するのを狙っていたんだろう。ラウラが君の力を奪ったとなれば、僕たちが激怒するだろうと、あいつは考えたに違いない。そのほうが、単純に死を与えるより、やつらの嗜好に合うからだ。やつらは、人間同士が争うのを見るのが大好きだからね」

 

 解呪魔法は効果がない、いったいどうしたら良いだろう? エリクがそう言うと、しばらく勇者は沈黙した。ややあって、勇者は言った。

 

「……仕方がない、ラウラには僕から説明をするよ。これからは彼女をフランチェスカとモニカに見てもらって、夜は君に近づけないようにさせる。気の毒だが、今のところそれ以外に良い方策はない。君は、他に解呪の方法がないか調べて欲しい。山越えまで時間がないが、できるだけのことはしよう」

 

 そう言ってから、勇者は溜息をついた。彼は呟くように言葉を足した。

 

「……僕はね、人間が人間らしく生きていけるような、そんな世界を目指している。だから、それを脅かす魔王が許せない。でもね、怒りはそれだけではないんだ。僕は僕自身に、怒りを覚えている。魔王を倒すために、僕は君とラウラの自由が奪われていることを黙認しているんだからね」

 

 自由? 自由とはなんだい? そのようにエリクが言うと、ロドルフォは真剣な顔をして言った。

 

「それは、決まってるじゃないか。君とラウラがつながる自由だよ。もちろん、性的な意味で」

 

 あけすけな言葉にエリクは絶句し、そして顔を赤くさせた。そんなエリクを見て、ようやく勇者は少しだけ笑った。

 

 

☆☆☆

 

 

 山越えの時が来た。季節はちょうど冬に入っていた。通常ならば、この時期に永久氷山であるトロス山脈を越えることは不可能であるばかりか、自殺行為ですらある。山では猛烈な吹雪が吹き荒れ、雪崩も頻発する。

 

 しかし、あえて行かなければならなかった。春になれば魔王軍は山々に展開して、勇者一行を阻むものと予想された。そうなればもう前進の見込みはない。それに、危険を冒す分だけ奇襲の効果は高くなる。勇者の決意は固かった。

 

 結局、ラウラは置いていくことになった。あれから数週間、彼らはなんとか彼女の呪いを解こうと努力した。エリクは寝る間も惜しんで、考え得る限りの解呪魔法を組み合わせ、精神力を振り絞ってそれを行使した。だが、そのどれもが失敗に終わった。

 

 なお悪いことに、ラウラに掛けられた呪いは夜を追うごとに力を増していくようだった。彼女の全身には、奇妙な桃色の紋様が浮かぶようになった。その角はますます大きく太くなり、尻尾も長さを増していった。夜ごとにエリクのもとへ行こうとするラウラを抑え込むのは、もはや限界に達しつつあった。

 

 出発の三日前、勇者とエリクとラウラは三人で話し合った。そして、彼女は居残ることに同意した。

 

 彼らを驚かせたのは、彼女が自発的に街の牢に入ったことだった。

 

 滅多にないことに、ラウラは多くの言葉を紡いで、はっきりと意志を示した。

 

「きっと私は、また夜になると呪いに意識を奪われて、エリク様を襲ってしまうでしょう。だから、みんなが出発して、私が到底追いつくことのできないくらい距離が離れるまで、いえ、みんなが魔王を討ち果たすその時まで、私はこの牢で待ちます。私にできるのはもう、こうすることくらいしかありませんから」

 

 出発の日の朝、エリクはラウラの牢へ行った。ラウラはすでに目を覚ましていた。エリクとラウラは無言で見つめ合った。二人は、牢の鉄格子越しに指を触れ合わせた。それで充分だった。エリクは背を向けて、牢から出ていった。彼の後ろで、すすり泣きの声が聞こえた。彼も少しだけ泣いた。

 

 

☆☆☆

 

 

 猛烈な吹雪だった。視界はまったくなかった。目の前は真っ白に塗りこめられていて、目前の指先すら見えなかった。

 

 エリクは、仲間とはぐれてしまった。彼らは用心に用心を重ねてルートを選択し、万全な装備を整えた。だが予期しないことに、彼らは魔王軍の雪上部隊の奇襲を受けたのだった。

 

 いつもならすぐにそばにラウラがいて、背後を気にせずに、思う存分魔法戦が展開できるのだが……エリクは思うようにならない戦いを、ただ夢中で繰り広げていた。

 

 そのうち、彼は自分が孤立していることに気が付いた。なんとしてでも仲間と合流しなければならない。彼は焦った。いつ新手が現れるか分からないし、そもそも一人ではこの吹雪の中を生き延びることはできない。

 

 しかし、当てどもなく歩き続けるわけにはいかない。それは自滅を意味する。それに、目の前に突然現れた障害に、彼は歩みを止めざるを得なかった。

 

 それは白い地面にぱっくりと黒い口を開いていた。それは、地獄の底にまで通じていそうなほどに深い、クレバスだった。

 

 彼はその場から離れると、氷結魔法を駆使していびつな雪洞を作り上げた。彼はその中に避難した。戦闘の疲労と、ようやく得られた温もりによって、彼の意識はまどろみの世界へと落ちていった。

 

 吹雪は轟々と、嵐の海の怒濤のような音を立てていた。雪洞の隙間から寒風が入り込んできた。それでもそれは、彼が寝息を立てるのを妨げなかった。

 

 何時間が経ったのだろうか。

 

 エリクは眠りの中で、何かがそっと肌を這う感覚を覚えた。次に彼は息苦しさを感じた。彼は意識を覚醒させた。

 

 エリクの体の上に、何かがいた。その何かは、彼の名を呼んでいた。

 

「エリク様……」

 

 それは、ラウラだった。

 

 否、それはラウラとは到底言えなかった。彼女は変わり果てていた。それは異形の女体だった。彼があの夜に見た二本の角は、さらに禍々しく(ねじ)れていた。全身にはびっしりと刺青のように桃色の紋様が走り、手足を銀色の鱗が隙間なく覆っていた。

 

 彼女の背には、蝙蝠のような一対の黒い翼が生えていた。きっとそれを羽ばたかせて、ここまで飛んできたのだろう。エリクはそう思った。牢の鉄格子など、彼女の魔力の前では(アメ)細工同然だったに違いない……

 

 エリクの精神は凍り付いていた。そうしている間にも、ラウラだったものは彼の衣服を脱がそうとしていた。

 

 だが、次の瞬間には、彼の頭脳は思考力を取り戻していた。彼は勇者からもらったタリスマンをかざした。タリスマンは聖なる光を発して、彼女に浴びせかけた。

 

 ラウラは声をあげた。

 

「あぁ、まぶしい……」

 

 半ば予想していたことではあったが、タリスマンはまったく効果がなかった。エリクは杖を取ろうと手を伸ばした。しかし、それより一瞬早く、杖はラウラの尻尾に絡み取られてしまった。尻尾は杖をへし折った。

 

 そしてラウラは、先ほど折った杖を放り投げたばかりの尻尾を伸ばして、エリクの体に巻き付けた。強い力だった。尻尾の鱗は剃刀のように鋭く、彼の体に傷をつけた。彼の服は赤い血で染まった。骨が軋む音を彼は聞いた。

 

 情欲に濁る瞳で彼を見つめると、溜息をつくようにラウラは言った。

 

「エリク様……さあ、ひとつになりましょう……?」

 

 ここに至って、エリクはもはや逃れられないことを悟った。

 

 このまま自分は為す術もなく、あの女悪魔の呪いのままに力を失って、そしてかけがえのないラウラを失うことになるのだろうか……?

 

 エリクは、ラウラの顔を見つめた。その顔からは、もはやあの怜悧な美しさは消え失せていた。彼女は、魔物とまったく同じの、人類への憎悪と嗜虐心に満ち満ちた表情をしていた。

 

 自然と、胸の内からこみあげてくる言葉があった。彼は言った。

 

「君の名前は、ラウラ。それは僕が初めて名付けた、大切な名前。僕と君の、絆の証」

 

 言葉が届いたその時、ラウラの瞳に一瞬だけかつての清純な輝きが戻った。その機会を逃さず、彼はそっとラウラを抱き寄せた。

 

「呪いを解く方法なんて、もうこれ以外には考えられないよ」

 

 彼は彼女と唇を合わせた。砂糖よりも甘く、氷よりも冷ややかな味がした。

 

 彼の体を締め付けていた尻尾の圧力が、徐々に弱まっていった。

 

 口づけで呪いが解けるのか? そんなおとぎ話のようなことがあるのか? 彼はそう思った。だが、事実として解けた。それで良いと彼は思った。

 

 ラウラは両腕で彼をそっと抱き締めると、いつもの静かな声で言った。

 

「エリク様……ありがとうございます。私は、またあなたに救われました」

 

 そこでラウラは自身の姿を(かえり)みた。彼女は表情に幾分か羞恥の色を見せた。

 

「ああ……私、こんな格好でエリク様に……ああ、もう……」

 

 だが、すぐに彼女は強い意志を漲らせて、エリクに告げた。

 

「エリク様。呪いは解けましたが、しかしそれは一時的なものに過ぎません。完全に解呪されていないと、私の感覚が告げています。このままでは、またあなたを襲ってしまうでしょう。さらに強くなった呪いの力で……そうなったらもう、あなたの優しい口づけも意味をなさないかもしれません」

 

 ラウラは、潤んだ瞳でエリクを見つめた。彼女は言った。

 

「エリク様に、お願いがあります」

 

 彼女は杖を彼の手に握らせた。それは、彼女の杖だった。ラウラは、そっと自分の手をも彼の手に重ねた。

 

「私を、封印してください。外にあるクレバス、あの冷獄に、私を封じ込めてください」

 

 エリクは動揺した。そんな彼を見て、ラウラは微笑んだ。

 

 それは呪いに強制されたものではない、彼女の清純な魂が生み出した真なる笑みだった。

 

 ラウラは言った。

 

「魔王を討ち果たしたら、私を迎えに来てください。大丈夫です。私はエリク様を愛していますから。愛していますから、いつまでだって待てます……」

 

 

☆☆☆

 

 

 エリクは、装備を身に纏って宿を出た。暁闇は柔らかな朝の陽ざしに追いやられた。トロス山脈は薄墨の衣を脱いで、その白銀の威容を示し始めていた。

 

 あれから、ずいぶんと時が経ってしまった。彼は嘆息した。

 

 あの後、勇者一行は吹雪の雪山を突破して魔都に突入した。彼らは魔王を見事に討ち果たした。魔王はエリクの放つ封印魔法によってその全能の力を拘束され、勇者によってとどめを刺されたのだった。

 

 だが、エリクにとっての本当の戦いは、その後に始まった。

 

 最後の決戦の時、エリクは力を限界以上に行使してしまった。それにより、彼の肉体は急速に衰えた。魔法力も赤子同然にまで落ちてしまった。

 

 それでも、彼の気力が萎えることはなかった。

 

 彼は魔都にとどまり、魔王軍の秘密文書を収集し、呪いについて情報を集めた。それらを分析し、実験を重ね、また分析した。なんとか光明を見出したのが、つい先月のことだった。

 

 これで、ラウラにかけられた呪いはきっと解けるだろう。ずいぶんと彼女を待たせてしまった。

 

「おーい!」

 

 声を聞いて、ふとエリクは視線を上げた。そこには、手を振る仲間たちがいた。ロドルフォが笑っていた。

 

 エリクは手を振り返した。

 

 さあ、いこう。ラウラを迎えて、みんなでまた新しい旅を始めるために。

 

 エリクの固い表情は、雪解けのように緩んだ。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「ラウラの冷獄」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第96回「とける」に応募した作品です。2019年3月10日公開。

 当初はシリアスギャグ(?)のようなものを想定していました。南極の大地の氷の下に閉じ込めておいたヤンデレの元カノ。ある日、突然の地殻変動により封印がとける。主人公はそれをいち早く察知し、各地を転々とし逃げ続けるが、次第にヤンデレの元カノの影は日増しに濃くなって行くように……という筋。

 ですがやはり私にはまだヤンデレを書けるだけの筆力と度胸がありませんでした。二転三転した結果、今回のようなお話に落ち着きました。

 作中、主人公サイドはイタリアを、魔王サイドは小アジアをイメージソースにしています。

 次回もお楽しみに!

※加筆修正しました。(2023/06/29/木) 改稿に際してもっと「つっこんだ」描写にしても良かったのですが、いちおうR15ということになっているので適当に加減しました。
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