ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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 運命が僕らを(めあ)わせた。
 まだ歩みを止めることは許されない。



14. 一粒だけのチョコ・アソート

 地獄に堕ちた。

 

 (あおい)は地獄に堕ちてしまった。

 

 碧はいつの間にか地獄に立っていた。

 

 閻魔様の裁きや、オシリスの天秤や、ペテロの門などといったものはなかった。決して上には戻れないという絶望感を抱かせるような落下を味わうこともなかった。

 

 しばしの休憩がもう終わる。ぼんやりと周囲を見回した後、碧はカバンを持って立ち上がった。とぼとぼと、行くあてもなく彼は歩き始めた。

 

 碧は、彼自身が記憶している限りでは、高校生だった。十七歳のはずだった。身に着けている詰め襟の黒の学生服と黒革のローファー、それに白いシャツを見ても、その記憶はおそらく確かなものだろう。彼はそう思った。

 

 彼は、やつれ、疲労し、青褪(あおざ)めていた。女の子のように可憐で、母親の自慢だったあの美しい容貌は、すっかり地獄に相応しいものへと変貌していた。

 

 彼は行く手に目をやった。大地は見渡す限り平坦で、真っ白だった。その白は、無数の骸骨と、漂白したような砂礫(されき)と、干乾びた蟲の死骸によって構成されていた。

 

 無数のピンク色の亀裂が地面を走っていた。亀裂からは、腐臭を放つ黄緑色の瘴気が噴き出ていた。その瘴気に、真っ黒になるほど羽虫が(たか)っていた。

 

 耳障りな、ブンブンという羽音だった。

 

 枯れ木を踏み折ったような、鋭い音がした。碧は思わず足元を見た。彼は骨を踏んでいた。黒革のローファーが、一本の細長い骨を踏み折っていた。形と大きさと強度から見て、女性か、子供の大腿骨だろう。

 

 よくあることだ。気を取り直して、碧はまた歩き始めた。彼はさらに多くの骨を踏みしめ、蟲の死骸を踏み潰し、亀裂と瘴気を避けながら、漫然と前に進み続けた。

 

 彼は空を見上げた。大気は紫色で、赤色と橙色の無数の妖星が煌めいていた。時折紅い稲妻が走り、ドロドロという不気味な遠雷が響いた。

 

 何時間か、それとも何日間か、碧は歩き続けた。

 

 ひときわ大きな骸骨の山を登った後、碧は一息ついていた。眼下には白い大地が広がっていた。頭上には紫色の大気が虚無を示していた。いつもと何も変わりがなかった。

 

 何もないというのが、この地獄なのだろうか? 彼はそう思った。つらいこと、苦しいこと、悲しいこと、そういったことで地獄は満ちているのではなかったのか? 彼は考えた。いや、そうではないのだろう。本当の地獄とは、つらいこと、苦しいこと、悲しいこと……そういったことがなにも起こらないことなのだ。なにもない。なにも起こらない。いつまでも同じで、いつまでも変わらない。彼は納得した。やはりここは地獄なのだろう。彼はまた歩き出した。その納得は、もう何度も、数えきれないくらい繰り返された納得だった。

 

 少し前に、彼は何人か他の人と出会った。彼らはみんな碧と同じように無言で、目は虚ろだった。彼らはボロボロの服を着ていて、今にも倒れそうなほどに覚束ない足取りで、ひたすらに歩みを続けていた。

 

 そして、いつの間にかいなくなっていた。

 

 彼らは、何者だろうか? やはり、彼らもこの地獄に堕ちた人間なのだろうか? その罪は何だったのだろうか? 彼らは何を考え、どこへ向かっているのだろうか……?

 

 埒もないことを思案しつつ、ぼんやりと座り込んでいた碧は、突然、ある強烈な衝動に突き動かされた。

 

 猛烈な飢餓感だった。

 

 彼は腹を抑えて、呻吟した。この(こら)えきれないほどの飢餓は定期的にやってきた。飢餓を覚えると、何もかもが考えられなくなり、身体の自由は奪われ、五感すら(うしな)われてしまう。しかも、それは回を追うごとにますます酷くなっているのだった。

 

 碧はカバンを開けた。何か食べられるものはないかと、彼は乱雑に中身を取り出し始めた。ノートと教科書が出てきた。薄い財布が出てきた。筆箱に収められた文房具に、ハンカチに、ティッシュに、スマートフォン……

 

 最後に出てきたのは、大きな平たい箱だった。箱は包装されていた。まだ未開封の箱だった。上質の茶色の包み紙には、凝った意匠のエンブレムが印刷されていた。

 

 それは、箱の中身がチョコのアソートであることを示していた。

 

 血走った目で碧は箱を見つめた。熱に浮かされたような手つきで、彼は包み紙を破ろうとした。

 

 だが、次の瞬間には彼は動きを止めた。彼は深呼吸をすると、箱をそっとカバンへと戻した。

 

 このチョコは、決して食べてはいけない。

 

 かわりに彼は、ノートのページを一枚破り取って、それを丸めて口にねじ込んだ。彼はゆっくりと紙を咀嚼し始めた。紙は砂の味がした。これで、飢餓が去るまで耐えるしかない。

 

 半時間も経っただろうか。飢餓感は消えていた。碧は、また歩き始めた。彼は歩きながら、本当は、ここは地獄ではないのかもしれないと思った。実のところを言うと、彼は飢餓感を好ましく思っていた。それはつらく、苦しく、悲しいことであったが、少なくとも「起こったこと」だった。そういう飢餓感があるのならば、ここは地獄ではないのかもしれない。本当の地獄ならば、きっと飢餓感すらもないだろう。本当の地獄は、なにもなく、なにも起こらないはずであるから……

 

 彼は、また飢餓感が来てくれないかと期待した。それはなかなかやってこなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 歩きながら、碧はまた思った。なぜ、自分はこのような地獄へと来てしまったのか? この、地獄にしては少し中途半端な地獄へと、なぜ自分が堕ちてしまったのか?

 

 罪を犯した記憶はない。(ばつ)を受けなければならないほど、呪われた存在だとも思わない。

 

 地獄といえば、彼が覚えている限り、死ぬ直前の世界のほうがよほど地獄だった。それはいかにも、世間の一般通念に沿った形での地獄だった。

 

 その日の朝、空が突然閃光に満ち溢れ、地表に無数の光の粒が降り注いだ。光の粒はあらゆるものを穿(うが)ち、発火させ、灰へと変えていった。

 

 空に呼応して、大地も唸り声を上げて人間に襲いかかった。無数の地震が起き、無数の地割れが生じ、火山が噴火し、地殻変動によって大地は(ねじ)れ、炎とマグマが噴出した……

 

 あの状況は、おそらく日本だけではなかっただろう。碧はそう思った。きっと、全世界で同時に起こったことだろう。ある宗教を信ずる人からすれば、あれはさしずめ最後の審判というところだろう。

 

 原因など分からないが、人類が滅び去ってしまったのなら、その究明などもはやどうでも良いことだった。

 

 しかし、それでも碧には気がかりなことがあった。

 

 自分がどうして死んだか、それが思い出せない。最期に何を思い、何を欲して死んだのか……何を為したのか、何を叫んだのか?

 

 そして、小春(こはる)には会えたのだろうか? 

 

 大好きな小春、笑顔の眩しい、元気一杯な小春……自分は彼女と一緒に、あの時最期を迎えられたのだろうか?

 

 もう何度目になるか分からない疑問を飽きることなく反芻しながら、碧は地獄の大地を進んでいった。足を引きずり、飢餓を楽しみながら、彼は歩き続けた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ここには時間の観念がない。昼もなければ夜もない。

 

 だから、ここ数日の間に、としか言いようがなかった。碧は、ここ数日の間に、他の人々と一緒に歩くようになっていた。

 

 年齢も性別も、人種も職業も別々の、様々な人たちだった。背広を着たサラリーマンがいた。ビジネススーツのOLがいた。普段着の年配の女性が、作業着を着た男性と並んで歩いていた。黄色い帽子をかぶった子どもが、病院着の老人の後ろにいた……

 

 皆が皆、暗い顔をし、疲労感に満ち満ちていた。だが、誰も一言も声を漏らさなかった。

 

 碧は、その集団の真ん中にいた。ここに来てからずっとそうしてきたように、彼は無心になって、ただ歩みを進めていた。

 

 突如、大地が振動し、轟音が響いた。次に、醜悪な甲高い鳴き声が聞こえた。

 

 無意識に沈潜していた碧は、ハッとしてその視線を先頭の集団にやった。前方は砂埃に覆われていて、よく見えなかった。それでも彼は、視線を絶やさなかった。

 

 数秒後、そこから姿を現したのは、一つの異様なシルエットだった。

 

 地から躍り出たのは、巨大なミミズのような怪物だった。怪物は毒々しいピンクの体色(たいしょく)をしていた。その口の周りには鋭く輝く無数の牙が生えていた。全身が茶色の粘液に覆われていた。

 

 怪物は、近くで呆然として立ち尽くしていたひとりの人間にその醜悪な頭部を近づけると、環状の筋肉と口部とを機敏に駆使して、一気に丸呑みにしてしまった。

 

 それを見た人たちは、声もなく逃げ出した。

 

 走る碧の周囲で、次から次へと怪物が地面から出現した。怪物は咆哮を上げて、獲物を捕らえていった。響くのは、巨大なミミズの鳴き声と、骨が砕ける音と、粘液の滴り落ちる音だけだった。人間の叫びは聞こえない。

 

 背広のサラリーマンが怪物に追われているのを碧は見た。すると、サラリーマンは、近くにいた病院着の老人を殴り倒した。

 

 身代わりにしたのだ。

 

 怪物は、地面に倒れた老人を新たな標的に定めると、その巨体を踊らせた。

 

 サラリーマンだけではなかった。碧以外のすべての人間が、身代わりにしたり、身代わりにされたりしていた。

 

 碧は、幸いにも捕まらなかった。彼の周りには、誰もいなくなってしまった。

 

 彼は気落ちすることなく、さらに歩みを進めていった。彼はチョコの箱が入ったカバンの持ち手を握りしめた。やはり、ここは地獄ではないのかもしれない。彼はそう思った。いかにも地獄のような出来事が起こってしまった。ミミズの怪物が出てきて、人を食う。その出来事はいかにも地獄らしいがゆえに、かえってここが地獄ではないことを強く暗示している。そのように碧には思われた。

 

 だが、だからといって、それがなにか自分と関係があるというのか? 彼は歩き続けた。彼の歩く大地にはなにもなく、なにも起きなかった。彼は納得した。やはりここは地獄だろう。それはもう、幾度も繰り返された納得だった。

 

 

☆☆☆

 

 

 どういう偶然の力が働いたのか、積み重なった骨でちょうど穴が隠されていたようだった。碧は骨でできた蓋を踏み抜いてしまった。ふちに掴まる間もなく、彼は深さ十メートルはある穴の底に落ちてしまった。

 

 落下の衝撃で、彼は意識を失った。

 

 気がつくと、隣で誰かが寝ていた。

 

 碧と添い寝をしていたのは、紺の冬服のセーラー服を着た骸骨だった。頭蓋骨には長い髪が生えていた。髪はすべて真っ白だった。骨のあちこちに、黄色い皮膚の欠片と軟骨の残骸が付着していた。

 

 この女の子も、穴に落ちて、そのまま白骨になったのだろうか?

 

 その死体が身につけている制服の濃緑色の襟に、碧の目は吸い寄せられた。そこには校章が刻まれていた。

 

 かつて彼が通っていた中学校と同じ校章だった。

 

 それが刺激となって、彼の記憶中枢は爆ぜるような放電音を放ちながら、過去の情景を精神のスクリーンに映写し始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 そう、小春だ。

 

 碧の中学校の思い出には、常に小春がいた。

 

 彼女と彼は、入学式の日に会った。校門で彼が母と一緒に写真を撮っていた時、声をかけてきたのが小春とその両親だった。

 

 成り行きで、彼は初対面の小春と二人一緒に写真に収まった。それが彼女との最初の出会いだった。

 

 小春は、とにかく明るい子だった。彼女はクラスの誰とも仲良くおしゃべりをし、分け隔てなく友情を振りまいた。打ち解けず、物静かで、ともすると陰気な印象すら与えがちな碧とは、まさに正反対だった。

 

 数ヶ月経って、碧と小春は一緒に登下校をするようになっていた。道すがら、彼女はよく話した。飼っている犬のこと、亡くなったおじいさんのこと、昨日食べたお菓子のこと、好きなアイドルのこと……

 

 彼女は、よく忘れ物をした。そのたびに、隣の席だった碧は、教科書や資料集を見せてあげた。

 

 書道の時、小春が道具一式を家に忘れてきたことがあった。碧は自分のものをすべて彼女に貸した。最初、彼女は遠慮していたが、碧がじっと見つめると、諦めたように道具を受け取った。彼女は言った。

 

「ありがとう、あおちゃん。あおちゃんは、すごいね。大切なものを躊躇しないで人に渡すことができて……」

 

 書道の教師は年配の女性で、多少ヒステリックな性格だった。その教師は、道具を忘れたと申告する碧を、教室はおろか校内中に響きわたるほどの甲高い声で怒鳴りあげた。これが分かっていたから、碧は小春に道具を貸したのだった。

 

 高校生になっても、碧と小春は一緒だった。もともと成績の良くなかった小春だが、彼女は一生懸命勉強をして碧と同じ高校に入学した。

 

 中学生の頃とは違って、小春は少し大人しくなった。何か劇的なきっかけがあったわけではない。おそらく、肉体が成長するにつれて、精神がそれに釣り合う形で成熟したのだろう。

 

 それでも、彼女は碧と離れることはなかった。

 

 それに対して碧は、あまり変化らしい変化はなかった。中学生の頃と変わらぬまま、彼は一人物静かに、教室の片隅で本を読んでいた。

  

 ただ、以前ならば月影のような陰気さを醸し出していた彼の表情は、高校生になってからは幾分か明るくなっていた。

 

 きっと、小春がいたからだろう。

 

 高校二年の二月十四日、帰り道、薄い夕陽の中で、小春は碧に小さな箱を渡してきた。箱の中身は手作りの、ハートの形をしたミルクチョコだった。小春は言った。

 

「……ねぇ、この場で食べて! 他の子たちは、家でゆっくりと味わって食べてほしいなんて言うかもしれないけど、私はこの場で、今すぐに感想が聞きたいの。あおちゃん、お願い。ここで食べて!」

 

 少しは大人になったのかなと思っていたが、子供らしいせっかちさはまだまだ残っている。内心そのように呆れつつ、碧はチョコを口に運んだ。

 

 チョコは上品で、控えめな甘さだった。碧は、初めて味わう滋養を舌に感じた。

 

「それって、たぶん愛の味だよ!」

 

 彼が感想を言うと、小春がにっこりと笑ってそう言った。

 

 

☆☆☆

 

 

 生きていた頃のこと、過去のことは思い出せるのに、直前のことは奇妙に曖昧で、はっきりとした形で思い出すことができない。

 

 小春の笑顔も、声も、手のぬくもりも思い出せるのに、自分がどうやって這い上がってその深い穴から抜け出したのか、碧は思い出せなかった。

 

 彼はまた地表を歩いていた。今度は、彼は道に沿って歩いていた。いつから自分が道に出たのか、それも彼は思い出せなかった。

 

 すべては空腹のせいだと碧は思った。痛みも、恐怖も、眠気も、寒さも感じないが、空腹だけは生きていた頃の何倍もの威力を伴って、彼を幾度となく(さいな)み、そして喜ばせた。飢餓感はやはり、なにかしらの「起こったこと」だった。彼はいつもそれを待ち望んでいた。

 

 飢餓感が襲ってくるたびに、彼はカバンの中のチョコの箱を開けようと衝動的に手を伸ばす。そして、そのたびに、彼は急ブレーキをかけたように踏みとどまる。

 

 これは、小春にあげるものだ。だから、食べてはいけない。

 

 道は、細かく砕かれた骨で舗装されていた。歩きやすかったが、ところどころに尖った骨片が突き出ていた。もし転べば、たちまち血塗れになるだろう。

 

 声が聞こえた。

 

「……おーい」

 

 幻聴かと、最初に碧は思った。しかし、間をおいてもう一回、さらにもう一回と声が聞こえてきた。

 

 向こうで、一人の男性が地面に横たわっているのが見えた。碧は歩いて、その男性の近くまで行った。

 

 男性は口を開いた。

 

「やあ、君」

 

 男性の両足は、膝から下がなかった。何かに食い千切られたような、生々しい傷口が広がっていた。

 

 男性は言い訳をするように言った。

 

「でっかくて真っ赤なアリに襲われてね、足を持っていかれたよ。もうここから動けない。ところで……」

 

 蒼白な顔をして、男性は碧に笑いかけた。

 

「初対面の君に頼むのはなんとも厚かましいと自分でも思うんだが、なにか食べ物をくれないか? もうずいぶん長いこと、何も食べてないんだ……僕は、もうすぐ消えると思う。最後に、何か口に入れてから消えたい」

 

 碧にとってそれは懇願のように思えたし、もしくは単なる独り言のようにも思えた。視線を合わさないように、彼は男性を見た。男性は、どこか遠くを見ていた。その目から光は失われていた。

 

 あげることができるものは、カバンのチョコしかない。そしてそれを、渡すわけにはいかない。あれは、小春のものなのだから。碧は男性を無視して、通り過ぎようとした。

 

 しかし、その時ふと、彼の頭の中で声が再生された。小春の声だった。あの薄い夕陽と、チョコの甘みに包まれて、彼女がはにかむように自分に告げた言葉が蘇った。

 

「私、あおちゃんが好き。あおちゃんは無口で冷たいように見えるけど、本当はとっても温かくて、優しい人だって私は知ってる。一番大切なものを惜しみなく与えることができる、そんな温かい人だから、私はあおちゃんが大好きになっちゃった……」

 

 数歩行き去り、また戻って、碧は男性の前に立った。彼は震える手でカバンから箱を取り出した。愛惜するように包装を撫でてから、彼は思い切ったようにそれを破った。

 

 彼は箱の蓋を開けた。その中には、整然と区分けされたさまざまな種類のチョコのアソートが、三十粒あった。同封されていた説明書きがはらりと落ちた。

 

 碧は一粒をつまみ上げて、男性の口元にそっと差し出した。

 

 男性はチョコレートを口の中で転がした。やがて、男性は言った。

 

「……ありがとう、うん、これは、コーヒー味だね。僕の一番好きなチョコだ……本当にありがとう、ここに来て、初めて人の優しさに触れられた……」

 

 男性の眼窩から涙が零れ落ちた。ごくりと喉が動いた。掠れた声で、男性は言葉を続けた。

 

「お返しといってはなんだが、一つ良いことを教えるよ。あそこの空に、白い綺麗な星があるだろう? そう、あれだよ。あの星の下には救いの女神様がいて、どんなことでも一つだけ、願い事を叶えてくれるそうだ。行ってみたらどうだい……」

 

 碧は男性の言った方向へ視線を向けた。たしかに、遥か遠くの空に、他の妖星とは明確に異なった、聖浄な輝きを放つ白い星があった。

 

 男性はさらに言った。

 

「大事なことが一つある。そこに行き着くまでに、自分がなぜここに来たのか、それを思い出さないといけない。そうでないと、救いの女神には会えないよ……」

 

 碧はしばらく白い星を見つめてから、おもむろに視線を戻した。

 

 男性は、真っ白な一山の砂になっていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 道はちょうど、あの星の下へと続いているようだった。碧は以前と変わらぬ調子で歩みを続けた。なにもなく、なにも起こらなかった。

 

 彼が男にあげたチョコは、ホワイトデーのお返しとして用意したものだった。

 

 碧には父がいなかった。だから彼は、ホワイトデーに何を返すべきか尋ねることができなかった。母に訊くのも、なんとなく彼には躊躇われた。これは、自分自身で考えないといけないことだ。彼はそう思った。

 

 スマホで検索をすると、愚にもつかない記事ばかりがヒットした。参考になりそうな情報だけを拾い、彼なりに筋道を立てて考えて、やはりお返しにはチョコしかないと彼は結論した。

 

 こつこつ貯めた小遣いが八千円ほどあった。これで、高いお店の上等なチョコを買おう。

 

 手作りのチョコに対して、店の高いチョコ。だが、不器用な自分にはこうするくらいしか彼女の真心に応えることができない。

 

 小春は怒るだろうか? いや、彼女ならきっと怒らないだろう。二人で並んで、説明書きを一緒に読んで、笑いながら選んで、食べさせあって……

 

 その夢は今、ちょうどコーヒー味一個分だけ欠けてしまった。しかし、碧はそれを残念とも思わなかった。

 

 小春は怒るだろうか? いや、少しは怒るかもしれないが、きっとそこまで怒らないだろう……

 

 その時、また声が前方から聞こえた。

 

「おーい、おーい……」

 

 顔を上げると、向こうに小さなシルエットがいくつか見えた。

 

 それは、これ以上はないとばかりに痩せこけた、子どもたちだった。子どもたちの腹部は、溜まった腹水によって膨らんでいた。

 

 碧は歩み寄っていった。飢餓で引き攣る胃袋を上から抑えつつ、彼はカバンの中のチョコ、その中のどれをあげるべきかを思案していた。

 

 

☆☆☆

 

 

 数年か、それとも数十年か、あるいは百年は経ったのかもしれない。

 

 長い、とても長い時間が過ぎ去ったのはたしかだった。幾度も飢餓感に苦しめられ、それを楽しみ、幾度も怪物に追いまくられた。なにもなく、なにも起こらない大地を進んだ。なにかがあり、なにかが起こった。

 

 碧は、ついに白い星の下に辿り着いた。

 

 そこには、小さな丘があった。丘は緑だった。丘の上には小さな白い家があった。

 

 ふらふらと、碧は家へと進んでいった。丁寧に刈り込まれた垣根に囲まれて、よく手入れされた花畑と、澄んだ泉があった。空気は甘く清浄だった。柔らかな光が満ちていた。

 

 鼻をくすぐる香りがした。これは、パンが焼ける匂いだ。碧はそう思った。魂が完全に摩滅してしまうほどに長い時の流れの中でも、幸せな匂いの記憶は未だに残存していた。

 

 時間をかけて碧は丘を登った。彼は家の前に立った。ノックもせずに、彼はドアを開けた。家の中は塵一つなく掃除されていて、白いテーブルと、二脚の椅子と、かまどがあった。かまどではやかんが火にかけられていて、しゅうしゅうと湯気を飛ばしていた。

 

 女性の声がした。

 

「こんにちは、碧くん」

 

 水晶のように透き通った、それでいてたおやかな声だった。

 

 なぜ、気づかなかったのだろうか? 椅子には、一人の女性が座っていた。

 

 女性はシルクのドレスを身に纏い、七色に輝く後光を背負っていた。しかし、光に包まれているせいで、その顔はよく見えなかった。

 

 これが、救いの女神様だろう。碧はひとり、頷いた。

 

 女神は青い陶器のティーカップを手にして、お茶を飲んでいた。女神は言った。

 

「よく来てくれたわね、(あおい)くん。ずっと待っていました。さあ、ここにかけて、一緒にお茶を飲みましょう」

 

 碧は、それを断った。そして、カバンからチョコの箱を取り出すと、彼は静かに、しかし決然として言った。

 

「女神様、お願いがあります。これを、このチョコレートを、小春に届けて欲しいんです。きっと、小春は天国にいます。どうか僕の代わりに天国へ行って、これを小春に渡してください」

 

 数秒の間をおいて、女神は答えた。

 

「……中身を、見せてもらっても良いかしら?」

 

 碧は箱を差し出した。女神は箱を受け取って、蓋を開けた。

 

 中身は、一つしか残っていなかった。それはハートの形をした、一粒のミルクチョコだった。驚いたように女神は言った。

 

「あら、一個だけなのね」

 

 碧は答えた。

 

「はい。一個だけです」

 

 碧は、弁明するように言った。

 

「ここに来るまでに、いろんな人と出会いました。みんな、お腹を空かせていました。足を失った男の人、やせ細った子供たち、目が見えなくなった女の人、赤ちゃんを抱いたお父さん……僕は、その人たちにチョコを一粒ずつあげました」

 

 女神はじっと彼の話に聞き入っていた。碧は、女神の顔から発せられる光が僅かに薄くなったように感じられた。彼は話し続けた。

 

「一個だけでも残って良かったと思っています。あと一人でもいたら、僕はきっと最後の一個もあげてしまったでしょうから……お願いです、小春に、たった一粒ですけど、これを届けてください」

 

「なぜ?」と女神は尋ねた。「あなたが天国に行くようにお願いをすれば、あなた自身でその子にチョコを渡せるでしょう。私はこの地獄から、あなたを連れ出すことができます」

 

 碧は首を左右に振った。彼は言った。

 

「それはできません。僕は、小春のために、ここに居続けないといけないから」

 

 彼は道中で、ついに思い出していた。あの最期の時を、そして、自分が地獄に堕ちた理由を……

 

 炎の海に、破壊の光の粒子が降り注いでいた。すべてが燃えていた。碧と小春は抱き合っていた。もう数分もせずに、二人は焼き尽くされて、一握の灰になるだろう。小春は泣いていた。碧は泣いていなかったが、ただ悲しかった。

 

 結局、彼はお返しを渡しそびれてしまった。彼は女神に言った。

 

「あの時、ふと願ったんです。せっかく用意したチョコは小春に渡せなかったけど、違うお返しならできるんじゃないかって……このまま二人とも死んでしまって、もし二人とも地獄に堕ちることになるなら、僕が小春の分まで地獄を彷徨うから、そのかわりに彼女は天国に行って欲しい。僕はそう願ったんです……」

 

 光はますます薄くなり、女神の顔の輪郭がはっきりとしてきた。碧はさらに言った。

 

「もう、ずいぶん長いこと、この地獄を歩き続けました。初めの頃、僕はここが地獄なのか、地獄ではないのか、分かっていませんでした。分からないままに歩き続けて、小春を探しましたが、やっぱりどこにも小春はいませんでした。ここに彼女はいないと知った時、僕はようやく、ここが地獄だと確信しました」

 

 少し呼吸を挟んでから、碧はまた口を開いた。

 

「きっと、僕の願いが通じたんだと思います。きっと、彼女は天国に行きました。それなら、僕は願いが叶った分だけ、ここにいなければなりません。でも、たぶん、彼女は寂しがっていると思います。それに、せっかく買ったものだから、彼女に渡したい……」

 

 そこまで話してから碧は少し俯き、息を呑んだ。搾り出すような声で、彼は言った。

 

「お願いです。天国の小春に、僕のお返しを、どうか届けてください」

 

 

☆☆☆

 

 

 しばらく、沈黙があたりを包んだ。地獄を放浪したすべての時間よりも長い時が経ったように、碧には思われた。 

 

 くすくすと、笑う声がした。

 

「……ふふ、あはは……」

 

 笑い声のあとに、言葉が続いた。

 

「やっぱり、あおちゃんは優しいなぁ。だから私、あおちゃんが大好きになったんだけど……でも、私の分まで地獄を歩くなんて、ちょっとやりすぎだよ」

 

 はっとして、碧は顔を上げた。

 

「ね、あおちゃん」

 

 先ほどまで女神が座っていた場所には、小春がいた。

 

 ドレスと後光を纏っているが、それは確かに小春だった。長い黒髪に、翡翠の髪留めが光っていた。かわいらしくも溌剌(はつらつ)とした表情は、あの時のままだった。小春はにっこりと、あの春の穏やかな日差しを思わせる笑顔を浮かべていた。

 

 小春は、最後のチョコをつまんだ。

 

「いただきます」

 

 そして桜色の唇を開いて、彼女はそれを口へと運んだ。しばらく彼女は、じっくりとそれを味わうようだった。やがて、彼女は言った。

 

「ふふ、美味しい……ありがとう、あおちゃん。願いごとは、いま叶えたからね」

 

 碧は、いつの間にか立ち上がっていた。小春も椅子から立ち上がった。よろよろとした、おぼつかない足取りで碧は小春に近づくと、倒れこむようにして抱きついた。

 

 彼の頭を優しく撫でながら、小春は言った。

 

「あおちゃん、ごめんね。ここに来るまでにずいぶん時間がかかっちゃった。私も、天国を歩いていたから……でも、これからはずっと一緒だよ。今度は私があおちゃんに、お返しをしてあげるね」

 

 二人は、そっと唇を重ねた。

 

 それは、チョコに似た味だった。

 

 次第に、抱き合う二人は白い光となっていった。

 

 最後に無数の光の粒子となって、二人は、天に輝くあの白い星へと旅立っていった。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「一粒だけのチョコ・アソート」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第97回「お返し」に応募した作品です。2019年3月24日公開。

 締切前日の夜23時に構想が浮かび、一気に書くつもりが2,700字を書いたところで体力が尽きて寝てしまい、起きたときには日曜は午前が終わりかけていて、「こりゃもう諦めるか」と半ば投げやりな気分になりましたが、奮起して持ち直し、なんとか書き上げました。
 
 テーマが「お返し」ということで、当初は恩返し、復讐、報復核攻撃などを考えていましたが、まあどう考えてもこの「お返し」はホワイトデーのお返しを選考委員は念頭に置いているのだろうと考え直し、今回のような話になったわけです。

 私なりに考えたホワイトデーのお返しの形、いかがだったでしょうか?

 次回もどうぞお楽しみに!

※加筆修正しました。(2023/06/29/木)
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