ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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 ありふれた悲劇、なんと嫌な響きだろう!
 高みにあって下界を眺める幸福な者たちには分かるまい!
 呵責と悔恨の泥沼の中でのたうつこの私の気持ちだけは!


15. となりのヴァレンティーヌ

 こんな境遇でも、それを家と呼んでしまうのが不思議だった。

 

 不安げな音を立てる梯子を登って、私は腰を屈めて小さなドアを開けた。家具一つない、(かび)と埃と湿気に満ちた灰色の空間が目に入った。

 

 珍しいことに、兄が起きていた。兄はおが屑の詰まった薄いマットレスに横になったまま顔をこちらに向けて、表情も変えずに言った。

 

「エリザ、おかえり。仕事で虐められなかったかい?」

 

 私はだらしなく自分の床に横になった。行儀悪く手枕をして、私は兄に返事をした。

 

「別に。いつもどおりだよ」

 

 ありふれた、これまでに何度も繰り返された会話だった。いつもならばここで途切れる。だが、今日は違った。兄は少し咳き込むと、あまり関心もなさそうに私に言った。

 

「ところで、下でヴァレンティーヌに会ったんじゃないか? 声がしたが」

 

 私も気乗りしない風に答えた。

 

「会ったよ。夜の仕事で疲れてるだろうに、なぜかモップで階段掃除してた」

 

 私の返事から二呼吸ほど置いてから、兄は意外なことを言い出した。

 

「彼女、どうしたんだろうなぁ。昨晩は早めに帰ってきて、部屋に何か物を運び入れているみたいだった。隣から一晩中ゴソゴソと音がしてて……まあ、夢だったのかもしれないが」

 

 その言葉をすべて聞く前に、私はすでに眠りの世界へ落ちていた。兄の話に興味がないわけでもなかったが、べっとりと体と精神にはり付いた疲労感に抗うことはできなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 私たちは逼塞(ひっそく)していた。

 

 私たちの住処(すみか)は、共和国のありとあらゆる汚物と悲哀と貧困を掃き寄せたような、首府東地区のスラム街の集合住宅(インスラ)の、屋根裏部屋だった。その狭いたった一間だけの家で、十四歳の私は、日中は病気で寝たきりの兄の世話をし、夜は酒場で給仕の仕事をして糊口を凌いでいた。

 

 両親はいなかった。従軍商人だった父は魔族との戦争でごくありふれた死を遂げていた。母は流行り病でこの世を去っていた。いずれも、私がまだ物心つく前の話だ。

 

 十歳年上の兄は、幼い私を養うために懸命に働いた。レンガ積みや荷運びといった日雇いの仕事から、魔族ゲットー内における非合法の取引、魔法薬の治験など、兄はありとあらゆる方法で日々の糧を稼いだ。

 

 私が八歳になった頃、兄は軍隊に入った。折から魔族たちが「最終戦争」を唱えて、国境線へ大挙押しかけていた。軍は一人でも多く兵士を欲していた。

 

 兵営へ面会に行った時、兄はニッコリと笑って私に言った。

 

「一兵卒でもちゃんとした給料が出るのが我が共和国の良いところだ。貧乏生活とはもうオサラバだよ。お前を学校に行かせてやるからな」

 

 兄は純粋だったし、私も幼かった。二人の前途は善きもので溢れているだろうと私は信じていた。

 

 次に会った時の兄に、かつての溌剌さは見る影もなかった。全身に包帯が巻かれ、虚ろな目をして寝台に横たわる兄を見て、茫然と立ち尽くしたのを覚えている。

 

 傍にいた看護卒は「四肢が満足なだけまだマシだ」と、慰めにもならないことを私に言った。 

 

 兄は、戦場で何があったか決して話さなかった。私もそれを尋ねなかった。兄からはいっさいの陽気さが消えた。兄は無表情となり、いつも黙っていた。私はそれが怖かった。そんなわけだから、当然得られるはずの傷痍軍人恩給がなぜ支給されないのか、その理由を尋ねることもできなかった。第一、私は当時、そんな制度がこの世に存在することすら知らなかったのだ。

 

 流れに流れて、私たちはこのインスラの最上部に漂着した。陰気と悲哀と無気力を建材にした、監獄のようなこの一室に、私たちは息を殺すようにして暮らしていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 完全なる幸福というものが存在しないように、完全なる不幸というものも存在しないらしい。私たち兄妹にとって生活は不幸そのものだったが、それでも何らかの幸福はやはりあった。

 

 私たちは、隣人に恵まれていた。その隣人の名前は、ヴァレンティーヌといった。彼女は若かったが、具体的な年齢はちょっと分からなかった。彼女は透き通るような白い肌をしていて、長く艶やかな黒髪と、熾火(おきび)のような赤い瞳がそれと好対照を成していた。

 

 だが、彼女が美しかったのは、その外見のためではなかった。

 

 インスラの屋根裏部屋は並ぶように二つに分かれていて、左側に私たち兄妹が、右側にヴァレンティーヌが住んでいた。

 

 私たちが入居すると、彼女はすぐに挨拶に来てくれた。そして私たちの置かれた状況を理解すると、彼女は初対面なのにもかかわらず私の手をとって、いかにも真心のこもった声音で言った。

 

「エリザ、なにか困ったことがあったらすぐに私に言ってちょうだい。私があなたのお姉ちゃんになってあげるわ」

 

 その言葉に偽りはなかった。ヴァレンティーヌは本当に親切だった。食べ物や衣類、ロウソク、時にはお金まで、彼女は私たち兄妹に分けてくれた。私も時には彼女へお返しをしたが、受けた恩恵とは比べるべくもなかった。

 

 彼女は日中ずっと部屋にいて、陽が落ちる頃になって外へ出ていくのが常だった。彼女は薄化粧をして、簡素だが体のラインを際立たせる魅力的なドレスを着て、部屋を出る。雪の結晶をあしらった銀の髪飾りをつけて、彼女は音もなく階下へ降りていく。

 

 何を職業にしているか、当時の私でも察しがついた。

 

 

☆☆☆

 

 

 その日の晩、私はいつも通り酒場で立ち働いていた。ただでさえ手に余る大きなジョッキを両手で何個も抱えるように持って、卓から卓へと怒鳴りつけられながら運ぶ仕事だった。

 

 酔って肌を赤黒くした客が、仲間たちに向かって得意げに話しているのが私の耳についた。

 

「おい、聞いたか。一週間前のゲットー蜂起の件だが……」

 

 仲間の一人が陽気な声をあげた。

 

「知ってるよ。魔族共の最後の悪あがきだろ? 一匹残らず踏み潰したって話じゃないか」

 

 嘲るような口調で、最初に話を切り出した客が言った。

 

「ふん、『一匹残らず』ね、なんともめでたいこった」

 

 その言葉に、仲間たちはむっとしたような表情をした。

 

「なんだその言い方は。事情通みたいなツラぁしやがって」

 

 客は平然として答えた。

 

「ところが、俺は本当に事情通なのさ。ここだけの話だが、当局の追及を逃れた奴が一匹いるらしい」

 

 仲間たちは興味を惹かれたようだった。彼らは身を乗り出した。

 

「ほう。それで? そいつはどんな奴なんだ?」

 

 客は大きな声で言った。

 

「それがな、例の『金髪』らしいんだよ。蜂起の首謀者だ。一番重要な奴を逃したってんで当局は血眼で探していたらしいが、ついに明日事実を公表するらしい。通報者には賞金一千ドゥッカーテンだとよ!」

 

 その賞金という言葉は、奇妙なまでに大きく響いた。酒場は一瞬静まり返った。だが、すぐに元の喧騒へと戻った。

 

 ふたたび湧き起こった音の波の中で立ち働きながら、私は考えていた。

 

 その事件については、もちろん知っていた。首府には魔族専用の居住区、通称ゲットーが設定されていて、そこでのみ魔族たちは生存を許されていた。

 

 ゲットー内の彼らは、戦線での魔族軍の動きに呼応して、ついに暴動を起こした。

 

 いや、暴動などという言葉では生ぬるいだろう。それは紛れもなく反乱であり、蜂起であり、戦闘だった。魔族たちの死に物狂いの反抗に治安当局は手を焼き、最終的には軍隊まで投入された。

 

 激戦の末、ゲットーの中のかの種族は、一人残らず殲滅された。三日前に捕虜が公開処刑されたばかりだった。

 

 その日私は、兄の薬を得るために共和国広場方面へ向かわねばならなかった。そこには「不埒なる魔族の反逆者共」が処刑される様を見物するために、大勢の人間が集まっていた。

 

 私は、汚れた下着だけを身につけた魔族たちが、粗末な馬車に乗せられて市内を引き回された末に、広場に連れて来られるのを目撃した。

 

 藍色の肌をした彼らは昂然と胸を張っていた。だが、彼らのいずれもやつれていて、傷ついていた。真っ蒼な血が(ひたい)から流れていた。

 

 あまりにも美しすぎるほどに鮮やかな、その蒼が、妙に私の目に焼き付いた……

 

 突然、店長の怒声が響いた。

 

「おい、エリザ! なにをぼんやりとしてやがる! さっさと運べ!」

 

 私は思考を打ち切って、仕事を再開した。

 

 私は皿とジョッキを運び、卓を巡った。時間が経つにつれて、疲労が募ってきた。ぼんやりとした頭で、私はまた考え始めていた。

 

 一千ドゥッカーテン、それはどんな金なのだろう? 人生をまるごと買うことはできないが、夢をひとつ買うことはできる金額だ。いや、夢など要らない。現実を変えるだけで良い。そう、それだけあれば、あのインスラに別れを告げる。今の、生活とも言えない生活から脱出することができる……

 

 

☆☆☆

 

 

 私が仕事を終えて帰ってくるのは、いつも日が昇ってから数時間経ってからだった。私は疲れ切った体に一千ドゥッカーテンというイメージを吹き込んで無理やり動かした。足を引き摺るように階を登って、私は屋根裏に通じる梯子の下に辿り着いた。

 

 奇妙な光景が、そこにはあった。

 

 ヴァレンティーヌが、モップを持って床を掃除していた。そんなことは常にないことだった。

 

 思わず、私は彼女に問いかけた。

 

「おはよう、姉さん。どうしたの、床掃除なんてして? そんなことをしても、誰の得にもならないのに」

 

 彼女は、私を見ると、なぜか一瞬息を呑んだ。だが、その次にはもう彼女はいつもの笑顔を浮かべていた。彼女は言った。

 

「おはようエリザ。なんだか今日は気分が良いのよ。お掃除したい気持ちになっちゃって。ここだけじゃないわ。インスラの階段を全部綺麗にしたの。気付かなかった?」

 

 そういえば、ここまでの階段はすべてチリ一つなく掃除され、磨かれていた。私は感心したような、呆れたような声を出した。

 

「姉さん、掃除してくれてありがとう。でも、ほどほどにしておきなよ。余計な体力を使うと悪い病気になるよ」

 

 私は彼女の返事も聞かず、溜息をついて、梯子を上っていった。私の背後で、ヴァレンティーヌは、いまだ黙々とモップを動かし続けていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ゆっくりと腐っていくような、それでいて何も変わり映えしない生活において、ヴァレンティーヌの階段掃除はちょっとした事件だった。

 

 だが、私たちの愛する隣人は、その次の日からはもっと変わった事件を起こしていった。

 

 その日の午後、私はいつものように洗濯物を抱えて公衆洗濯場へ向かった。共和国から受けている恩恵らしい恩恵といえば、この無料の公共施設くらいなものだった。

 

 空は曇っていた。大気は湿っていた。おそらくこの天候では洗濯物は生乾きになるだろう。いつものことだった。

 

 何事もなく、インスラから二ブロック離れたそこに着いた。私はかごを下ろして、退屈な洗濯仕事を始めた。

 

「こんにちは、エリザ」

 

 澄んだ優しい言葉で挨拶をして、誰かが私の隣に腰を下ろした。目を遣るまでもなく分かった。それは、ヴァレンティーヌだった。

 

 珍しいこともあるものだと私は思った。彼女はいつも、もっと人入りの少ない時間帯に洗濯をしているのに、どうして今日はこんな時間に来たのだろう?

 

 いつも彼女が人入りの少ない時間帯に洗濯をする理由、それは、彼女の職業のせいだった。彼女は蔑まれていた。現に、周りの女たちは私たち二人を、いやヴァレンティーヌを遠巻きにして、ひそひそと何かを囁き合っていた。

 

 貧者は富者を怨まない。貧者は貧者を怨むのだ。それもとりわけ、比較的富んでいる貧者を怨むものだ。それが財であれ、美貌であれ、なにかしら富んでいる「同類」を、貧者は怨む。ヴァレンティーヌはその境遇と比して、明らかに美しすぎた。そしてそんな彼女がそういう仕事をして、それなりに収入を得ているのだから、蔑まれるのは当然と言えば当然だった。

 

 私は視線を洗濯桶に向けたまま言った。

 

「姉さん、洗濯しに来たのか、それとも陰口を叩かれに来たのか、どっちかに絞ったほうが良いよ。一度に多くのことをしようとすると、横着してると思われるよ」

 

 私の言葉に、彼女は薄く笑って答えた。

 

「ふふ、忠告をありがとう。でも、今日は仕方ないのよ。どうしても外せない用事ができちゃって、今しか洗濯する時間がないの……」

 

 さりげなく、私はちらりと隣を一瞥した。ヴァレンティーヌは、男物の肌着を洗濯していた。

 

 肌着には、鮮やかな蒼い染みがついていた。

 

 訝しむ私の内心を見通したように、彼女は呟くように言った。

 

「お客さんがね、ワインを溢しちゃったの。それで、私に洗濯して欲しいって……」

 

 蒼いワイン? そんなものが存在するのだろうか? 少なくとも、酒場では見たことがない。

 

 それから毎日、彼女は私と同じ時間に洗濯をした。そして彼女はいつも、蒼い染みがついた男物の肌着を洗っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 些細な違和感は、その後も継続した。その次の日には、こんなこともあった。

 

 私の午後は洗濯から始まり、それが終わるとインスラの一階にある汚い食堂へ行く。食堂で薄い粥を、穴の開きそうなほどに古い鍋に半分だけ買い、それを持って帰って兄に食べさせる。食事が終わったら薬を飲ませ、着替えさせ、場合によっては体を拭いてやる。

 

 そんな仕事が終われば、働きに出る時間がもう迫っているのだった。

 

 酒場の喧騒と店長の嫌みをすでに頭の片隅で再生しながら、私が梯子に足を掛けようとした、その時だった。

 

 私の目は、ある一点へと吸い寄せられた。

 

 光の当たらない壁際に、蒼い染みがあった。銅貨一枚より小さな、それでいて存在感のある染みだった。

 

 なぜか、私はヴァレンティーヌの洗濯物を連想した。あの洗濯物についている「ワイン」の染み、それとまったく同じ色であるように私には思われた。

 

 気遣うような声を下から受けて、私の意識は急速に現実へと引き戻された。

 

「エリザ? どうしたの?」

 

 梯子の下にはヴァレンティーヌがいた。何が入っているのか、大きな袋を彼女は抱えていた。私は返事をした。

 

「……ああ、姉さん。ごめんなさい、邪魔だったわね。今、下りるから」

 

 私は梯子を下りた。下りてから気が付いたのは、ある匂いだった。それは彼女の袋から漂っていた。鼻の奥を焦がし、胃の腑を締め付け、舌下腺を刺激する匂いだった。それは美味なものの匂いだった。脂の匂いだ。

 

 久しく嗅いだことのない、焼肉の匂い。それは非日常の匂いだった。

 

 ヴァレンティーヌが言った。

 

「あら、エリザ、どうしたの、そんな顔をして……? ああ、この匂いのせいね?」

 

 私は随分とだらしのない顔をしていたようだった。表情を引き締めた時には、ヴァレンティーヌは袋から肉の串焼きを一本取り出していて、私に差し出していた。

 

 彼女は微笑みながら言った。

 

「はい、これをあげる。大丈夫よ、私の分はまだまだあるから」

 

 彼女の気前の良さ、親切さは今に始まったことではなかった。だが……なにか、おかしい。私は言った。

 

「姉さん、いったいどうして急に焼肉なんて買ったの? 前に、肉は嫌いだって言ってたじゃない」

 

 一瞬、考えるような色が彼女の表情に浮かんだ。しかしそれは瞬く間に消えた。彼女は答えた。

 

「ちょっとね、今の贔屓のお客さんがちょっと大変な人なのよ。私も体力をつけないといけないから……あら、ごめんなさい、こんなこと、エリザに話す内容じゃなかったわね……あ、そうだ」

 

 袋に手を入れると、彼女はゴソゴソと中身をまさぐった。彼女は果物を取り出すと、それを私に差し出した。

 

「これ、あげるわ。これ、お兄さんの大好きな物でしょう? これでちょっとでも病気が良くなるといいわね」

 

 それは、大きくて新鮮な桃だった。甘い香りがツンと鼻をついた。

 

 ただ桃を見つめて立ち尽くす私を後目(しりめ)に、彼女は梯子を上っていった。その足取りは、どことなく忍びやかで、それでいてふんわりと軽やかであるように感じられた。

 

 

☆☆☆

 

 

 私の疑いが決定的になったのは、その一週間後だった。

 

 仕事を終え、明け方に帰ってきた私は、インスラの一階で偶然ヴァレンティーヌと鉢合わせた。

 

 彼女は、今仕事から帰ってきたところだと言って微笑んでいた。だが、私は一つの異変に気が付いた。

 

 ヴァレンティーヌが仕事の時に必ず着けている、あの銀の髪飾りがなかった。私はそのことを尋ねた。

 

「姉さん、髪飾りがないけど、どうしたの? どこかに落としたの?」

 

 あれは、彼女が言うには母親の形見とのことだった。失くしたとすれば、さぞや悲しいだろう。

 

 だが、彼女から返ってきた言葉は意外なものだった。

 

「ああ、あの髪飾りね……とっても好きだったし、母さんの思い出が詰まっていたけど、昨日、質に入れたわ」

 

 私は目を見開いた。彼女の優しい性格からして、大切な形見をあっさりと手放すとは思えなかったからだ。驚いている私に、彼女はなんということはないというふうに言った。

 

「エリザ、そんなにびっくりしないでいいのよ。どうしてもお金が必要になっただけだから……」

 

 私はたったの一言、ただ「なんで?」と訊いた。彼女は答えた。

 

「えっ、理由? それは、お仕事の話だから、あまりお話ししたくないわ……」

 

 そう言われては、私も問いをそれ以上重ねるわけにはいかなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 尽きることのない思案を頭の中で巡らせながら、私は階段を上った。

 

 となりのヴァレンティーヌ。彼女は最近、以前よりも綺麗になった気がする。もともと彼女は美しかったが、今ではそれに加えて、どことなく生命力を感じさせる、明るい雰囲気を纏っている気がする。

 

 はじまりは、あのモップ掃除だった。次は、謎の蒼い染みがついた洗濯物だ。

 

 それから贅沢な食事……贅沢といっても、焼肉と桃だが……とにかく、私たちからすれば贅沢だ。そのいずれも、私たちのような生活をしている者にとっては、黄金のように貴重なものだ。

 

 ヴァレンティーヌがいくらか私たちよりも経済状況がマシだとはいえ、彼女は慎ましい性格をしている。そんな彼女が贅沢をしようなどと、突然思いつくものだろうか? しかも彼女は、その後も毎日、焼肉と果物を買ってくるのだ。自分で食べるのか? 仕事に必要な「精をつける」ために?

 

 極めつけが、髪飾りだ。お金が必要になったのだと彼女は言う。あれだけ食事に金を掛けていたら、やはり財布は平たくなるだろう。しかしそれなら、贅沢を止めれば済む話である。なぜ無駄に金を使い続けるのだろうか? あの控えめで慎ましいヴァレンティーヌが、なぜ?

 

 明らかに、彼女は変わった。急激に、理由もなく彼女は変わった。いや、「理由もなく」? そんなことがあり得るのだろうか? やはり、なにかしら理由はあるのだろう。そして彼女は、それを隠蔽している。そのように私には思われた。

 

 私は屋根裏部屋に帰った。

 

 そこには横になった兄と、もう一人、白衣を着た年配の男性がいた。

 

 白衣の男性は、その平たくて大きな顔に人懐こそうな表情を浮かべて、私に挨拶をした。 

 

「おお、エリザさんですか。こんにちは。今、お兄さんを診ようとしていたところです」

 

 私も先生に挨拶をした。

 

「こんにちは先生、いつもありがとうございます」

 

 この人は、カリーニという名前だった。カリーニは医師だった。彼には定期的に兄を診てもらっていた。彼は善意と愛に溢れた医師で、スラム街を巡っては病人を金も取らずに治療していた。本人はそれを「自分の宗教的な使命感のためだ」と言っていた。だが、実際のところはそうではなく、ただのお人好しなのだろうと私は思っていた。お人好しの中でも、彼はかなり上等な部類のお人好しだった。私と兄は、カリーニ医師が好きだった。彼は私たちがヴァレンティーヌと同じくらい、尊敬と親愛の情を抱いている人だった。

 

 兄と医師は会話をしていた。医師は言った。

 

「どうですか、ジュゼッペさん。変わったことはありませんか?」

 

 兄は静かに答えた。

 

「妹と隣人が良くしてくれるもので、最近は特に心安らかです。ただ、夜中に時々幻聴がするんですよ」

 

 医師は少しだけ表情を引き締めた。

 

「幻聴? 詳しく聞かせてください」

 

 兄は答えた。

 

「夜中、寝入っている時に、どこかから低く男の声が聞こえてくるんです。その声の内容は、あまりよく分かりませんが……」

 

 医師は首を傾げた。

 

「ふむ……それは単に、隣の人の話し声では……? いえ、ヴァレンティーヌさんは部屋にお客を連れ込むような人ではありませんでしたね……」

 

 その兄の話は、私にとっても初耳だった。二人は、とりあえず様子を見るということで話を終えてしまったが、私にとってその情報は違う意味を持っていた。

 

 隣の部屋から、低い男の声。となりには、ヴァレンティーヌがいる。

 

 

☆☆☆

 

 

 下まで見送りに出た時に、カリーニ医師は気がかりなことを私に告げた。

 

「申し上げにくいのですが……お兄さんの脈拍と呼吸についてなのですが、以前よりも弱っています。体力が明らかに落ちているのです。ここ最近、戦地帰りの兵隊たちの間で謎の病気が流行っています。そうならないためにも、ここを離れて、もっと空気の良い、日の光が当たる、広い部屋に引っ越すべきでしょう……」

 

 そんなことは不可能だ。そして、それは医師も承知していた。彼は、職業的使命からそれを私に勧告したのだ。

 

 私は礼を述べた。医師は少しだけ頷いた。彼は私に背を向けて、次の診療先へ向かって歩き出した。

 

 ぼんやりと去っていく医師の後ろ姿を、私は目で追った。ふと、道の向こう側にあるインスラの影で、ニ人の男が鋭い目つきであたりを見回しているのが見えた。

 

 この界隈では見たことのない二人だった。

 

 その男たちは、インスラの一階の各店舗を巡り、売り子や店主に何らかの聞き込みをしているようだった。しばらくすると、男たちは連れだって去っていった。

 

 一体なんだったのだろうか? そう思いつつ、視線を横に逸らすと、そこには真新しい貼り紙がしてあった。

 

 貼り紙は多色刷りで、似顔絵付きだった。似顔絵の下に、大きな文字でなにか文言が書かれていた。一千ドゥッカーテンの文字が踊っていた。それは例の、ゲットー蜂起首謀者に関する貼り紙だった。

 

「重犯罪者、魔族、内乱罪、『金髪』の逮捕につながる情報を提供した者には、賞金を与える。なお、『金髪』は重傷を負っている……」

 

 こんなスラムにまで貼り紙をするという治安当局の無用な勤勉さに私は呆れた。だが、その次の瞬間、ある考えが私の脳裏に閃き、全身に戦慄が走った。

 

 逃亡魔族が重傷を負っている。この文言を見て、今まで頭の中で脈絡なく駆け巡っていた情報が、一つの体系だった思考として急速に結実し始めた。

 

 あの洗濯物の蒼い染み、あれは魔族の血液ではないか? 私は魔族の血が蒼いことを、たしかにこの目で見て知っている。

 

 あの焼肉と果物、あれは傷を癒すための栄養源なのではないか? 魔族であろうとも、怪我をしたならば栄養のあるものを食べねばならないだろう。

 

 兄の幻聴、それは魔族が夜、傷の痛みに呻いているのではないか?

 

 そして、あの日のヴァレンティーヌの、あのモップ掃除。あれは、床に落ちた蒼い血液を拭きとって、証拠を湮滅(いんめつ)するためだったのでは?

 

 彼女は、あの「金髪」の魔族を匿っているのではないか……?

 

 

☆☆☆

 

 

 その考えに辿り着いてから、私の心は、煩悶と苦悩に満ちたものとなった。

 

 となりの住人が、魔族を匿っている。それを当局に密告すれば、私たちは一千ドゥッカーテンを手に入れられる。一千ドゥッカーテン、目も眩むような金貨の山だ。

 

 それだけの大金があれば、人生が一変するとまではいかないだろうが、少なくとも現状を変えられる。兄と私はこのインスラから抜け出し、もっと広くて快適な部屋を借りて、余った金は投資に回す。私は学校へ通って、もっと良い職を得ることができる……

 

 それに、密告するのは人間ではない。魔族だ。同じ人間を密告するのは抵抗感があるが、魔族ならば何も問題はない。むしろ、市長や大司教からお褒めの言葉だって頂けるくらい、それは「立派な」行為だろう。

 

 証拠ならいくらでもある。ここに至って、私の頭の中ではすでに、隣のヴァレンティーヌの部屋で魔族が匿われていることは確定事項となっていた。

 

 だが、私の心は(こら)えきれないほどに苦しみ、そして歪んだ。

 

 あのヴァレンティーヌ、彼女の優しい笑顔、素敵な澄んだ声、数々の思いやり……それを思い出す度に、私の心は密告から遠ざかった。

 

 密告すれば、当然彼女も罰せられるだろう。罰、それは死刑を意味する。

 

 ヴァレンティーヌを死に追いやって、私たちは人生を変えるのか?

 

 それとも、彼女がどんな気持ちで魔族を匿っているのかは分からないが、彼女の意志を尊重して、そのまま黙っておくべきなのか?

 

 私は出口が見つからない精神の迷宮に閉じ込められていた。その中を、私は絶叫しながら、狂ったように走り回っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 だが、私たちのような貧者にとっては、猶予というものですら手の届かぬほどに高価なものである。そのことを思い知らされる時が来た。

 

 その日、酔客に殴られて腫れあがった頬を抑えながら帰った私は、すぐに兄の異変に気が付いた。

 

 いつもならすぐにお帰りと言ってくれる兄が、何も言わなかった。私は兄に駆け寄った。薄い床材が軋んだ。私は言った。

 

「兄さん!」

 

 兄の顔は真っ赤になっていた。兄は大粒の汗を浮かべ、歯を食いしばっていた。(ひたい)に手を触れると、尋常ではない高熱だった。兄が容易ではない事態に陥っていることは、すぐに分かった。

 

 私はインスラを飛び出して、カリーニ医師の診療所へ駆け込んだ。幸い、彼はそこにいた。事情を告げると、彼はすぐに準備をして、私と一緒に走った。

 

 彼は私たちの部屋に入ると、診察を始めた。やがて、彼は真剣な顔をして私に告げた。

 

「怖れていた事態がついに起こってしまいました。これは以前あなたにお話をした、例の兵隊病です。高熱が出て呼吸器不全となり、数々の合併症を併発して、一ヶ月以内に死に至ります」

 

 私は、お定まりの質問しか発せなかった。

 

「治療法はないんですか!?」

 

 医師は、静かに首を左右に振って否定した。

 

「今までどんな魔法薬を用いても、この病気は治りませんでした。一説には魔族軍が戦場でばら撒いた毒ガス兵器が原因とも……とにかく、今できることは、熱を下げて、瀉血をし、自然の力と神の御心に任せるだけです」

 

 私は打ちのめされた。兄の死は避けようのないものなのだろうか? 私は叫ぶように言った。

 

「本当に、手だてはないんですか!? 何か、特効薬はないんですか!?」

 

 医師は、じっと私の瞳を見据えた。重々しく、彼は言った。

 

「……一つだけ、可能性はあります。それは、最近になって共和国の薬学研究所が開発した、新型の魔法薬です。ただ、それは非常に高価で……」

 

 医師は言葉を一旦切ると、諦めを促すように私に言った。

 

「最低でも、八百ドゥッカーテン。手に入れるにはそれだけの金が必要だと、私の友人の研究者はそう言っていました」

 

 

☆☆☆

 

 

 カリーニ医師は帰った。私は言われた通りの方法で兄を看護した。いつしか日が暮れた。酒場は、無断で欠勤した。店長に叱責されるだろうが、もはやどうでも良いことだった。

 

 夜、私は兄の枕元で泣いていた。

 

 兄は、助けることができるのだ。ヴァレンティーヌを当局に密告すれば、おそらく、ほぼ間違いなく、一千ドゥッカーテンが手に入る。その金で新型魔法薬を買えばよい。

 

 だがそれをすれば、ヴァレンティーヌは死ぬことになる。魔族協力者として、彼女は共和国広場で火刑に処されるだろう。生きたまま肉を焼かれ、魂まで灰にされる、あの残酷無惨な極刑によって彼女は死ぬ。

 

 兄をとるか、それとも愛する隣人をとるか? 私にはどうしても決心がつかなかった。

 

 目から涙が零れ落ちるのと共に、ヴァレンティーヌの思い出が蘇った。

 

 私が襤褸(ぼこ)の服を着ているのを見かねて、新しい服を買ってくれた彼女。自分も飢えているだろうに、私たちに食べ物を分けてくれた彼女。優しい笑顔と言葉で、疲労しきった自分を慰めてくれた彼女……

 

 いつか、約束したことがある。

 

「ねえ、エリザ。お兄さんが元気になったら、三人で郊外へピクニックに行きましょう。美味しいパンと、サラミと、葡萄酒を用意して、あなたと私は花輪を作って、それをお兄さんに(かぶ)せてあげて……」

 

 その記憶を再生している裏で、私の理性が囁いていた。冷たい声だった。

 

 なにを嘆いている。なにも問題はないではないか。ヴァレンティーヌは、たしかに私たちの恩人だ。だが、恩人とはいえ、彼女は祖国を裏切った犯罪者だ。魔族を匿うなど許されるわけがない。一方で、兄はお前の唯一の肉親だ。どちらを取るべきか、もはや言うまでもないだろう……

 

 本当は気づかないだけで、隣人を売ると、もう心を決めているのではないか……? ふとそんなことが頭に浮かんで、私は(おのの)いた。そんなはずはないと、私は口に出して言おうとした。だが、出てくるのは泣き声だけだった。

 

 

☆☆☆

 

 

「エリザ」

 

 兄の声が部屋に響いた。それはここ数年では聞いたこともない、意志の強さを感じさせる声だった。兄は言った。

 

「エリザ、ありがとう。今まで本当に迷惑をかけた」

 

 私は言葉もなく、兄の手を取った。高熱が嘘であるかのように冷たい手だった。兄はさらに言った。

 

「エリザ。僕が戦争でどんな目に遭ったのか、今まで言ってなかったね。最後になるから、話しておくよ」

 

 兄は、天井を見つめたまま、訥々(とつとつ)と語り始めた。

 

 兄は前線で活躍し、下士官にも昇進した。兄は上官の覚えもめでたかった。このまま戦争が終われば、共和国から勲章が授与されることは確実だったという。

 

 しかし、その望みは唐突に潰えた。ある日の明け方、兄は突然憲兵隊に逮捕された。兄は連行され、牢に繋がれ、連日激しい拷問を受けた。

 

 容疑は、敵軍への軍需物資の横流しと機密情報の漏洩だった。密告があったというのだ。

 

 結局、真犯人が見つかって兄の無実は証明された。しかし、その頃には、兄は再起不能になっていた。

 

 軍は、事件をなかったことにした。兄の軍歴は抹消された。

 

「密告によって、僕の人生は終わってしまった。僕はあの時、死んだんだ」

 

 いいかい、と言って、兄は体を傾けて私を見つめた。兄の目は澄んでいた。その弱々しい光の奥に、確固たる意志が見て取れた。兄は言った。

 

「密告は、魂まで汚れる行為だ。それは決して、誰も助けやしない。自分自身でさえも助けない。エリザ、この国では密告が横行している。密告によって良い生活を送っている奴らがいる。でも、奴らと一緒になってはならないよ……」

 

 そう言ってから、兄は力を使い果たしたのか、首をがっくりと落として意識を失ってしまった。かすかながら呼吸はしていた。

 

 私は、兄の死を受け入れつつあった。

 

 

☆☆☆

 

 

 どのくらい泣いていたのだろうか。私はいつの間にか、兄の傍で座ったまま眠ってしまっていた。

 

 ある音が、私を覚醒へと導いた。誰かがドアをノックしていた。声が聞こえてきた。それは、どことなく涙ぐんでいるような調子を帯びていた。

 

「エリザ、私よ。ヴァレンティーヌよ。大事な話があるの。お願いだから、出てきて、私の話を聞いてくれないかしら……?」

 

 私はドアを開けた。彼女の顔が見えた。ちょっと前まで泣いていたんだなと私は思った。そして、きっと彼女のほうも同じことを思ったに違いないと私は思った。

 

 ヴァレンティーヌは、少しだけ私の顔を見つめた。彼女は言った。

 

「エリザ、私の部屋に来てちょうだい」

 

 私は頷いた。ついに、私の抱いていた疑念の真偽が判明する時が訪れた。しかも、あまりにも唐突かつ、性急にそれは訪れた。私の精神はそれに対処しきれず、まったく思考力を欠いていた。

 

 ぼんやりと、言われるがままに、私は彼女に手を取られて、隣の部屋の前に行った。彼女がドアを開けた。私は逃げたかったが、体は勝手に動いていた。私は腰を屈めて部屋の中に入った。

 

 奥に、誰かが横たわっていた。暗闇の中でも分かる、燃えるような金髪が見えた。

 

「やあ、君がエリザだね。待っていたよ」

 

 それは、若くて低い、うっとりするような男性の声だった。

 

 魔族の姿が次第にはっきりと見えてきた。魔族は藍色の肌をしていた。宝石のような紫の両目だった。全身に真っ白な包帯が巻かれていた。背中には一対の黒い翼が生えていた。ふわふわとした和毛(にこげ)が翼を覆っていた。

 

 絞り出したような声が、私の喉の奥から発せられた。

 

「あなたは……金髪の……」

 

 彼は、ニッコリと笑って言った。

 

「そう、私がゲットー反乱の首謀者、魔族の『金髪』さ。真の名はグレモリー。人間たちは頑なに私の真の名を呼ぼうとしないが」

 

 息を呑んで、私は魔族を見つめた。彼はあまりにも、一般的な魔族のイメージからかけ離れていた。その顔貌は端整で、表情は温和だった。私の不躾な視線を受けても、彼はニコニコと笑っていた。心からの笑みであることが、なぜか私にはよく分かった。

 

 彼は親しげな口調で私に言った。

 

「もっと近くに寄ってくれ。これからひとつ、大事なことを君に言うからね」

 

 恐るべき反逆者、神と人倫と教会の敵たる魔族……それなのに、私は彼に恐怖心を抱かなかった。これまで私を苦しめてきた疑念が本当だったという衝撃と感動も、私はなんら覚えなかった。私はただ、呆然としていた。

 

 私はおずおずと彼の傍らに近寄ると、そこに置かれていた小さな椅子に腰を下ろした。

 

 

☆☆☆

 

 

 魔族はしばらく私を見つめて、それから口を開いた。

 

「ヴァレンティーヌの言っていたとおりだ。君は、可愛い子だね。本当に、君たちは血の繋がった姉妹のように見えるよ……さて」

 

 美しい魔族は、私の背後に立つヴァレンティーヌに視線を投げかけてから、おもむろに口を開いた。

 

「エリザ、私がここにいるということを、当局に密告しなさい。それで得たお金で、君のお兄さんの病気を治しなさい」

 

 あまりにも思いがけない言葉に、私の思考は凍り付いた。それに構うことなく、彼は言葉を続けた。

 

 事の始まりは、蜂起に失敗し重傷を負って、このスラム地区へ逃げ込んだ夜だったという。血を流し過ぎ、意識が朦朧とした彼は、路地裏で倒れてしまった。

 

 それを助けたのがヴァレンティーヌだった。

 

「傷ついた身で梯子をのぼるのは大変でね。彼女が親切に手を貸してくれたから良かったが、一人では難しかっただろう」

 

 ヴァレンティーヌは、親身になって彼を看護した。傷を洗い包帯を巻き、肉と果物の食事を与え、時には銀の髪飾りを質に入れて高価な魔法薬まで購入し、彼女は懸命に魔族の治療に専念してきた。

 

「初めは信じられなかったよ。親切そうにしているが、所詮は人間だ。こうして安心させておいて、後で売るんじゃないか? 何度もそんなことを思った。でも、彼女と毎日一緒に生活をしていたら、そんな考えはいつの間にか消えてしまった。楽しい毎日だった。安らぎに満ちていた。こうしてこのまま二人で生活していけたら、なんて思ったよ」

 

 私は叫んだ。とめどなく流れる涙は未だに尽きなかった。

 

「じゃあ、このまま傷を癒して、ヴァレンティーヌと一緒に街を出れば良いじゃないですか!」

 

 彼はかぶりを振った。

 

「それはできない。実を言うとね、私はもう死ぬんだ」

 

 

☆☆☆

 

 

 ヴァレンティーヌが崩れ落ちた。彼女は顔を手で覆い、嗚咽を漏らした。

 

「私の……私のせいなんです……私がグレモリーを殺したんです……」

 

 慰めるように、しかしきっぱりとした口調で、彼は言った。

 

「君のせいじゃないさ。君はそれを知らなかったんだし、僕はそれを何よりも心地よいものとして享受していたのだから」

 

 何を言っているのだろう? そう思案する私に、彼は説明してくれた。

 

「魔族にとって、人間の愛は猛毒なんだ。人間を愛した魔族は体の内部から腐って、最終的には命を失う。これは、私たち魔族しか知らないことだけどね」

 

 ヴァレンティーヌの無償の愛は、グレモリーの頑なだった心をほぐし、溶かし、柔らかで温かみに満ちたものに変えた。二人は共同生活を送るうちに、互いに深く愛し合うようになっていた。

 

 それが、致命的だった。彼はさらに言った。

 

「背中にめり込んだ何十発もの弾丸、それに槍傷。だが、この程度の傷なら、人間への怒りと憎悪を燃やしている限り、数週間もすれば自然に治癒するんだ。でもね、僕はヴァレンティーヌを愛してしまった。それが命を奪うということは、よく分かっているはずだったのだが……」

 

 私は、思わず尋ねていた。

 

「他に治す方法はないんですか?」

 

 燃えるように鮮やかな金髪をした魔族は、ゆっくりと頷いた。

 

「あるよ。愛してしまった人間を殺すことさ。そして、そんなことはできない」

 

 溜息をついて、彼は言葉を続けた。

 

「死を意識した時から、私はヴァレンティーヌがどうやったら救われるか、それだけを考えてきた。彼女は精一杯知恵を使って僕を匿ってくれた。だが、どうやら当局はもう、この辺りのインスラに私が逃げ込んだことに勘づいているらしい」

 

 私は、いつかの謎の男二人を思い出していた。あれはきっと、この魔族を探し回っていた治安当局の人間だったのだろう。

 

 魔族は、なおも話を続けた。

 

「このままでは私は死に、そしてヴァレンティーヌも処刑されるだろう。それだけはなんとしても避けたい。ヴァレンティーヌは、私が最初で最後に愛した人だからね。そんな時に、ヴァレンティーヌから君のお兄さんの話を聞いたんだ」

 

 彼は私を見つめながら言った。

 

「彼女は今日、偶然カリーニ医師と会って、君のお兄さんの命が危ないことを知った。それを聞いた時に、私は決心したよ。どうせなら、できるだけ多くの人間を助けてから死のうと。奇妙だと思うかい? まあ、私もヴァレンティーヌのように生きてみたくなったのさ」

 

 彼は少しだけ言葉を切った。穏やかな瞳は、まだ私を見ていた。ほんの一瞬だけ、その奥で雷光のような激情が閃いたような気がした。彼は言った。

 

「私はこれから、魅了の魔術をヴァレンティーヌにかける。そうすれば彼女は、術によって魔族に操られていたということになるから、罪に問われない。むしろ被害者として扱われるはずさ。これは君たちの共和国の刑法三十九条第二項にしっかりと規定されている。きっと大丈夫だろう……さて、エリザ」

 

 彼は私の手を取った。その手は兄と同じく、死の冷たさを持っていた。

 

「私のささやかな復讐のために、君のお兄さんを助けるために、そして何より、私の愛するヴァレンティーヌを助けるために、私の願いを聞いてくれないかい? もう一度言うよ」

 

 彼は言った。

 

「私を、密告しておくれ」

 

 私は頷くしかなかった。心のどこかで、なぜか助かってしまったという、罪悪感に似た何かを感じながら、私はもう一度頷いた。

 

 

☆☆☆

 

 

 私が了承したのを見ると、彼は満足げに微笑んだ。

 

「よし。これであとは、魅了の魔術をかけるだけだ。ヴァレンティーヌ、こっちに来てくれ」

 

 ヴァレンティーヌは、もう泣いていなかった。彼女はグレモリーの前に坐った。彼女は言った。

 

「どんな呪文を紡ぐの? グレモリー、その呪文の言葉が、最後に聞くあなたの言葉になるのね。でも私はもっと、あなたの言葉を聞いていたかった……」

 

 金髪の魔族は、優しい笑みを浮かべた。

 

「いや、言葉よりももっと素敵な贈り物だよ。それが魅了の魔術なのだから」

 

 そう言うなり彼は、ヴァレンティーヌを抱き寄せて、唇を重ねた。

 

 二人は抱き合っていた。強く、激しく、そして悲しげに、二人は唇を重ね合っていた。

 

 私はその光景を、一生忘れないだろう。




※以下、作品メモとなりますので、興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「となりのヴァレンティーヌ」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第98回「となり」に応募した作品です。2019年4月7日公開。

 コンセプトは隣人愛です。

 最初に「となり」というテーマを見た時は「なんだ楽勝じゃん」と思っていました。テキトーに転校生を出して、それを主人公のとなりに座らせて、でもそのとなりは特別なもので……とかなんとかかんとか書けば良いだろうと……

 その認識は甘かったと言わざるを得ません。

 だいたい妄想コンテストで陥りがちなミスの一つとして、「テーマに沿った情景」は考えられていても、「テーマに沿ったお話」は構築できていない、というものがあります。

 短編とはいえ「小説」なので、キャラがいて、背景があって、状況があって、事件が起こり、そしてその結果キャラになんらかの変化がある、という筋を描かなければならない。と、まあ私は考えておりますがいかがでしょう。

 次回もお楽しみに!

※加筆修正しました。(2023/06/30/金)

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