ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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「報告を受け検疫官が当該船に急行したところ、すでに罹患者の姿はなく、船長以下全員が『天使が降臨した』という不可解な証言を……(後略)」(オスティア検疫機関の報告より)


16. センチュリオン号の100日

 十年前のことだ。

 

 当時の私は、豊かだった。前年に発表した長編小説が大いに世間で評判を博し、私は名声と財産を一挙に得るという幸運と栄光に包まれていた。

 

 並の作家ならばこの成功に味を占めて、どっかりと腰を落ち着けてしまうところだろう。それまで不遇をかこっていた分、彼らは今まで味わえなかった暖衣飽食を貪り、証券と不動産を手に入れて、昼は悠々自適の社交生活を楽しみ、夜はワインの苦みと煙草の渋みで神経を昂らせつつ、月と星とを友にして作品執筆に(いそ)しむ。

 

 苦労はもはや時の彼方へ。安逸で快適な作家生活は、黄金のように輝いていて、しかも乳と蜜のように甘く、味わい深い。誰が好んで、これ以上の苦労を背負いこもうとするだろうか……?

 

 だが、私は違った。もともと私は共和国の女兵士だった。それと、生まれ持っての強い自尊心も合わさり、私は「安楽」というものに強烈な嫌悪感を抱くような精神構造を有していた。私は、都市の一角に安穏と永住する気には到底なれなかった。

 

 ここで得た資金と名声は、さらに良い作品を生み出すための糧にしなければならない! 私はそう考えた。なぜなら、ひとつの成功は、次なる成功の元手に過ぎないのだから! 私は手に入れた金をどのように使うべきか考えた。そして私は、この西エウロパ世界から東方へ二千キロ離れた、オリアン地方へ取材旅行に赴くことにしたのだった。

 

 二千年前、聖女マルタはかの地で伝道布教に従事し、そして昇天したという。自分と同じ名を持つ彼女の伝記をいつか書こうと、従軍時代から私は計画を立てていた。オリアン地方は異教徒の支配する地であり、魔法という名の邪術と、奇病と迷信とが蔓延る地であるが、近年は政治的に安定していた。ちょうど新たに港がひとつ開かれ、外国人の受け入れも活発化しているとのことだった。取材へ行くには絶好の機会であるように私には思われた。

 

 そんなわけで、私は出立した。供も連れず、軍隊時代に使っていた短剣と連発式の短銃と大きな背嚢だけを持って、私はラティニウム共和国のオスティア港から船に乗った。船はほどなくして、遥か海の彼方(かなた)のオリアン地方へと旅立った。

 

 取材旅行は順調そのものだった。資料の収集は大変(はかど)った。聖女被昇天の地を訪れた時は、感動がひとしお胸に募り、私は一人涙を流した。盗賊に遭遇することもなく、病気になることもなく、実に幸運に恵まれたまま、私は半年に渡ってオリアン地方のほぼ全域を巡った。そして、幾ばくかの寂しさと、それ以上の満足感を持って、私は帰りの船に乗った。

 

 その船の名は「センチュリオン号」といった。小型の蒸気機関を搭載した機帆船だった。百人隊長という意味の外国風の勇ましい名前を持っているが、その船は名前に反して少女のように小さく可憐な船だった。乗員は船長以下十名で、乗客は私を含めて十二名だった。主な積み荷は、郵便物と小麦とのことだった。

 

 海は穏やかで、風は優しかった。航海中、私は船長と航海長の二人と仲良くなった。年配の船長は私が作家だと聞くと、「先生」と呼んでくれるようになった。ただ、彼が時折ゴホゴホと、気がかりな響きを持つ空咳を繰り返すのが気になった。どうやら船長は持病を抱えているようだった。

 

 若く精悍な顔つきをした航海長は無口な性格だった。私が話しかけても、彼はあまり返事をしなかった。だがそれでも、彼は私に好意のある眼差しをしばしば向けてくれた。それは私が従軍し、何回か叙勲されたことを話を通じて知ったからかもしれなかった。

 

 船長と航海長の二人は知的で、職務熱心で、まさに海の男としての矜持(プライド)が全身に漲っていた。

 

 しかし、一般の船員たちは話にならなかった。彼らはまったく酷いものだった。オリアン地方で新規に徴募したその八人の水夫たちは、全員例外なく肌が浅黒く、身体中にびっしりと刺青(いれずみ)を入れていた。彼らは狡そうな目つきを常に辺りに配っていた。彼らは自分たちの職務に関して熱心とはとても言い難く、ノロノロとした動きで至極大儀そうに甲板勤務をし、隙を見つけては酒を飲み、その上なんとも呆れることに、夜には船底で博打を打っていた。

 

 見かねた私は船長に言った。「どうしてあんなヤクザ連中を雇ったのですか?」 いざこの船が非常事態に陥った時に彼らが活躍してくれるとは私には思えなかった。というよりも、彼らが何かしらの非常事態を引き起こしはしまいかと、私は懸念していた。

 

 船長はやや眉を下げて、空咳をニ、三回してから答えた。

 

「実はオリアンで停泊中、もともとの船員の大半が風土病に罹患してしまってね。それでも運航を遅らせるわけにはいかないから、現地の口入(くちい)れ屋に依頼して、臨時の船員を雇ったんだよ。彼らは、船に来た当初は従順で大人しかったのだが……海の上を進むにつれて、次第に本性を現してきたというところかな。まあ、オスティアに帰ったら、彼らにはすぐにこの船から降りてもらうつもりだ。あんなヤクザ者たちをまともな船員として扱うのにも、もはやうんざりしてるのでね……」

 

 

☆☆☆

 

 

 私はしきりと嫌な予感を覚えていたが、結局それは当たらなかった。航海は嵐もなく順風に恵まれた。舟は、二週間後には目的地である共和国のオスティア港に辿り着いた。

 

 ゆらゆら揺れる波の上での生活に別れを告げ、さっさと家に帰って取材した資料を整理し、新作の執筆に取り掛かりたい……そう思って荷物を纏めて船を降りようとした私と、また別々の思惑を抱いていた他の乗客たちには、最後の難関が待ち構えていた。

 

 それは魔法検疫だった。オリアン地方からやってきた船に対して、共和国は例外なく検疫を実施していた。

 

 理由は、魔法伝染性突発変異病(morbus mutationis magicae、通称変異病)であった。ここ数世紀、西エウロパ世界に大いなる災厄として君臨しているこの魔法性の伝染病は、オリアン地方を由来としていた。当局はその水際対策に血道を上げていた。

 

 変異病とは、端的に言えば、人間を異形化させる病である。罹患した者は、感覚器官が鋭敏化し、それまで不可能だった魔力・魔法の行使が可能になるといった初期症状から始まって、次第に姿形が異次元の生き物へと変化する。

 

 かつて、変異した人間が巨大なドラゴンになって、文化と学問と金融の街フィオレンツァ市を焼き尽くすという大事件があった。また、兵員輸送船の丸ごと一つが変異病に侵され、乗船していた一個連隊が丸ごと異形化し、その怪物兵団がオスティアに上陸して進軍を始め、首都があわや占領されかけるという事件もあった。

 

 無論、身体が異形化しても、その性格と理性は元のままという事例のほうが遥かに多い。変異した人間は魔物そのものになるのではなく、見た目が異形化しただけの人間に過ぎないのだ。だが、この病気に対する人々の恐怖は、並大抵のものではなかった。

 

 それでも医学と魔法学が発達した現代においては、その検疫方法も洗練されたものとなっていた。昔は魔法科医師が体温計や聴診器や杖などを持って船内を駆けまわり、一人一人を診て回ったものだったが、現在では特殊な機械がその代替役を果たしている。プリズム式魔力波測定装置がそれだった。

 

 七色の特殊偏光ガラスのレンズがはめ込まれたその機械の前に立ち、身体から発せられている魔力波を測定する。魔法の使えない人間でも一定量の魔力素を身体に有しており、それが波長となって体外に放出されているというのが定説だそうだ。波長が暖色系ならば、それが極端なものでない限り「問題なし」で、暗色系ならば魔力波に異常があるということになる。魔力波が異常ならば、それは変異病の疑いが濃厚というわけだ。

 

 私たちは、桟橋の上で順番に機械の前に並んだ。測定結果が出るのは二日後とのことで、検査を受けた後は船に戻らなければならなかった。

 

 あのオリアン人の水夫たちが、聞こえよがしに文句を垂れているのが聞こえてきた。

 

「せっかく上陸して女と酒を楽しもうと思ってたのによ。また二日間も船の上なのかよ」

 

 その時、どよめきが聞こえてきた。目を向けると、機械の前には一人の少女がいた。少女を取り囲むようにして、検疫官たちが口々に何かを言い合っていた。

 

 その少女を、私はそこで初めて見た。二週間の航海の間、私は船の中で彼女を見たことはなかった。歳の頃は十六くらいだろうか? その長い金髪は金糸のように美しく滑らかで、顔立ちは可憐そのものだった。だが、彼女は気の毒なほどに困惑した表情を浮かべていた。

 

「美しい女が常に波乱を起こす」という格言がある。それは神話の時代から言い伝えられている格言であるが、私はこれが大嫌いだ。しかし、この時はなぜか、それが頭に浮かんだ。美しい女も、醜い女も、美しい男も、醜い男も、同じように波乱を起こしてきたはずであるのに……

 

 航海中に覚えていたのとはまた別種の、高熱で炙られるような嫌な予感を、私は覚えた。このままなにごともなく検疫を突破できれば良いのだが……そう思いながら私は船のタラップをのぼって、また狭い船室へと戻っていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 二日後の昼前になって、乗客・乗員の全員が上甲板に集められた。

 

 そこには船長が立っていた。彼は表情を引き締めていた。私は、なにかあったなと直感した。それを裏付けるように、船長は淡々とした、強いて事務的な口調で私たちに告げた。

 

「諸君、私は船長として、(つら)い事実を報告しなければならない。先日行われた検疫において、私たちの中に『魔法伝染性突発変異病』に罹患している疑いのある者が発見された。当局は定められた共和国検疫法に則り、本船を100日間の魔法検疫隔離処分に付する旨を、私に通告した」

 

 声を発する者はいなかった。全員が息を呑んで船長の言うことを聞いていた。船長はさらに言った。

 

「これから本船は桟橋を離れ、港外において100日間隔離されることになる。乗客の諸君には大変申し訳ないが、どうか共和国の公益と安全のために耐え忍んでいただきたい。船上の生活に関しては、私は船長として可能な限り便宜を図るつもりである。そして船員諸君。諸君らは船乗りとしての矜持にかけて、己の職責を全うしてもらいたい。なお、給料については特別手当を加算した上で、100日後の上陸時に一括して支給する……」

 

 呻き声がそこここから漏れた。それぞれがそれぞれの反応を見せた。泣いて抱き合う若い夫婦、茫然として船長を見つめる中年の男性、声もなく甲板に崩れ落ちる三人の修道女たち……

 

 突如、怒号が響いた。それはあのオリアン人の水夫の一人から発せられていた。

 

「とんでもねえ! こんなひでえ話があってたまるか! せっかくこれから上陸だってのに、これじゃ目の前の御馳走に(クソ)をかけてかき混ぜるようなもんだぜ……!」

 

 その水夫はひときわ大きな体格をしており、顔には幾筋もの刀傷があった。海の獣も怯えさせるようなものすごい表情を浮かべて、水夫は飽くことなく罵詈雑言を吐き続けた。

 

 船長はそれに答えなかった。代わりに、航海長が鋭い声で彼を叱責した。

 

「クロッコ! 貴様、口を慎め!」

 

 それでもクロッコというその水夫はなおも罵声を上げ続けた。

 

「だいたい、その何とか病とかいう疑いが掛けられている奴はどこのどいつだ! そいつのせいで俺達が100日間も監獄生活を送ることになるんだぞ! いったい誰だ、そいつは!」

 

 その声を聞いて、後ろの方に立っていた少女が、びくりと体を震わせた。それは、あの金髪の少女だった。

 

 その様子を、クロッコの仲間の水夫が目ざとく見出していた。

 

「おい、この小娘がそうなんじゃないのか! なんだか顔色が悪いぞ!」

 

 他の水夫たちも便乗して騒ぎ始めた。

 

「そうだ! そういえばコイツがあの機械の前に立った時に、役人どもが騒いでいたぞ! そうだ、たしかにコイツだ、まちがいねえ!」

 

 少女へ、甲板にいる全員の視線が向けられた。特に水夫たちのそれは、憎悪で赤黒く濁っていた。水夫たちは歯ぎしりをしつつ、叫んだ。

 

「コイツのせいだ! コイツのせいで俺達は巻き添えを食らったんだ……!」

「畜生が! ふざけやがって!」

「おい、なんか言えよ!」

 

 水夫たちは続々と少女に詰め寄り、取り囲もうとした。少女はぶるぶると、恐怖で体を震わせていた。このままでは暴力沙汰は避けられないだろう。私は腰にさげている短剣に手を伸ばしかけた。

 

 その時、見かねた船長が怒気を露わにして叫んだ。

 

「やめろ、お前たち! その人はこの船の大切な乗客だ! もし指一本でも触れてみろ、お前たちを全員海に叩き落すからな! それに、誰に疑いが掛かっているかまでは俺も知らされていない。憶測で判断するのはやめろ! おい、航海長、あの子を船長室へ連れていけ」

 

 少女は航海長と共にその場から去っていった。水夫たちは口々に愚痴や恨みつらみを溢していたが、船長から勤務へ戻るように言われると、いかにも不承不承というふうにその場から去って部署へ戻っていった。乗客たちも船室へ下がるか、甲板に残るか、船長の元へ走るか、それぞれの行動をとった。

 

 私としては、隔離に関してこれといった感慨もなかった。特に急ぎの用事はない。100日間は流石に長いが、しかし船室に籠って資料を纏め、草稿を書くのならば、大して地上での生活と変わりはないだろう。

 

 ただ一つ気になったのは、水夫たちの異様なまでの激昂ぶりだった。あの怒りが後日、妙な形で暴発しなければ良いが……病気がちの船長は、はたしてあのような連中を100日間も抑え込み続けることができるだろうか?

 

 それに、あの少女だ。私は、彼女が立っていた場所に目を向けた。あの子は、小さな子だった。可哀想に、あの子は震えていた。あの子はいったい、どうなるのだろうか……? このまま穏便にことが済めば良いが。そう思いつつ、同時に私は、そうはならないだろうという確信に近いものを抱いていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 政治犯にとっての無上の喜びとは牢獄に入れられることであるという。なぜなら、投獄によって自分の思想信条の正しさが(かえ)って証明されると、彼らは信じるからである。

 

 だが、私たちはそのような強い信念に支えられた政治犯ではなかった。私たちはつまらないほどに普通の、単なる人間だった。身に覚えのないことによって100日間もの間、ゆらゆらと安定しない船の上で、粗食と乏しい娯楽に耐え、ひたすら無為に、虚無の日々を過ごさねばならない。それは紛れもなく、人間性と尊厳を著しく傷つけられることであった。

 

 センチュリオン号はその日から、オスティア港沖に錨を下ろす、100日間限定の「監獄船」となった。といっても、実際には犯罪者を収容しているわけではないから、陸上の当局からの支援は、最上とは言えないまでもなかなか行き届いたものだった。

 

 港から定期的に何艘かの小舟がやってきて、センチュリオン号の舷側に横付けする。そうして、新鮮な野菜、果物、食肉、医薬品などを補給してくれる。これらの費用は共和国が全額負担しているのだと船長は教えてくれた。

 

 しかし、娯楽や嗜好品は、私たち乗客の自己負担だった。本が欲しいとか、強い酒が欲しいとか、コーヒーやゲーム用のカードが欲しいなどといった要望を船長に届ければ、それは数日後に小舟に載せられて船にもたらされた。だが手間がかかっている分だけ、その費用は通常よりも割増しとなっていた。私は紙とインクがほとんど尽きていたので、他の客が酒と肴と新聞を頼む中、それらを最初に注文した。

 

 初めの一週間は、まだ船内は平穏だった。乗客たちは日が出ているうちは甲板を歩き回ったり、日光浴をするなどし、夜になると船室で思い思いに時間を過ごしていた。あの日、凄まじい形相で不満を露わにしていた水夫たちも、少なくとも表面上は船長に従っていた。彼らは甲板掃除や各部設備の手入れを、実にノロノロとしたペースであったけれども、それなりに(おこな)っていた。

 

 私にとって、船長は格好の話し相手だった。午前中に船室で書きものの仕事をし、午後は船長室に赴く。私は船長にこれから書く小説の構想を話し、船長はこれまでの航海の話をする。あるいは、互いの従軍話に花を咲かせたりもした。こうして私は、けっこう楽しく時間を過ごすことができた。

 

 そんなふうに過ごして十四日が、つまり二週間が経った頃に、私はふと気になったことを船長に尋ねた。

 

「船長、そういえばあの女の子、水夫たちに絡まれていたあの可哀想な女の子ですが……あの日以来、彼女は甲板にも食堂にも、姿を見せませんね」

 

 船長の表情に一瞬、固いものが見えた。しかしそれをすぐに消すと、船長は鷹揚に頷いた。

 

「ああ、彼女のことですか。ご心配なく、彼女は元気にしていますよ」

 

 私はその言葉に違和感を覚えた。答えは明瞭だったが、どうにも歯切れが悪いように思われた。私はさらに言った。

 

「なにか、彼女は大変なことになっているのですか? その、いわば、ちょっと人前に出られないような、そういうことになっているのですか……?」

 

 しばらく、沈黙が船長室の中に満ちた。船長はおもむろにパイプを取り出すと、もったいぶった手つきで葉を詰め、手慣れたふうに火を点けた。肺に持病を抱えているのに、この人は煙草を吸うのかと私は思った。そしてその次に私は、いや、持病があっても、今の彼には煙草が必要だったのだと考え直した。私の問いは、それだけの重さがあったのだ。

 

 ゆらめく紫煙が天井へ昇っていった。長い一服が終わった後、船長は口を開いた。

 

「……マルタさん。あなたは私の友人だし、それにとても信頼できる方です。だから、あなたにだけはお教えしましょう。ちょっと私についてきてください」

 

 そう言うと船長は立ち上がって、私を促して歩き始めた。私たちは船長室を出た。途中で何回か配管に頭をぶつけながら、私は船長に付いて歩いていった。

 

 数分後には、船長と私は、船底のその場所の前に立っていた。

 

 石炭庫の鋼鉄製の扉がそこにあった。扉には大きな錠前が掛かっていた。船長がその扉の向こうへと語りかけた。

 

「アンジェラさん、船長です。入っても良いですか?」

 

 中から、かすかに声が聞こえた。

 

「どうぞ、お入りください」

 

 それは森閑な庭園に潜む小さな妖精が発するような、可憐で澄んだ声だった。

 

 船長が錠前を外して、重い扉を開けた。

 

 そこには、あの少女がいた。あの時と変わらない美しい金髪が、まっさきに私の目に映った。

 

 半永久魔石灯の青白い光に照らされた彼女は、折り畳み式の簡易ベッドに腰を掛けていた。その蒼い瞳で、彼女は私たちをじっと見つめていた。

 

 船長が恭しく礼をしてから言った。

 

「アンジェラさん、この人は乗客のマルタさんです。あなたの安否を気遣っておられたので、今日ここに来てもらいました」

 

 少女は僅かに頷くと、私の方へ視線を移した。私は、努めて明るい声で彼女に挨拶をした。彼女も私に挨拶を返した。

 

 船長はそれから、アンジェラがなぜこんなところにいるのかの説明を始めた。

 

 実を言えば、検疫担当官から罹患の疑いのある者について、船長は知らされていたのだった。それはやはり、アンジェラだった。彼女の魔力波は七色のスペクトル厶のうちの何色でもない、きらびやかな「黄金」であったらしい。これほどまでに極端な反応は前代未聞だったという。

 

 船長は彼女の処遇に悩んだ。水夫たちは明らかに彼女に敵意を抱いている。このままでは彼女の身に危害が及ぶかもしれない。それに、変異病は伝染性であるという。もし本当に彼女がそれに罹患しているならば、この船が隔離されているように、彼女をも隔離しなければならない。しかし、若い女の子を密室に閉じ込めるというのは、どうしても心理的に抵抗がある……

 

 思い悩む船長を気遣ったのか、アンジェラは自分から申し出た。「私は大丈夫ですから、どこか人目のつかない場所に私を閉じ込めてください」 それでも船長は、まだ他にもっと良い方法がないか考えた。そして、船長はついに断念した。彼は断腸の思いで彼女を閉じ込めることにした。

 

 アンジェラはそれ以来、船の中で一番頑丈で、かつ人目に付かない石炭庫の中にいるのだった。元々鍵が設置されていなかった扉には、彼女自身が望んで、真鍮製の大きな錠前が掛けられた。

 

 彼女は落ち着いた口調で私にその理由を言った。

 

「もし私が突然変異をして暴れ出したら、大変なことになると思うので……」

 

 私は彼女の精神性に瞠目(どうもく)した。戦場でもなかなか見られないような自己犠牲の発露だ。そのように私には思われた。

 

 食事は航海長と、たまに船長自らが運んでくる。時々、本を差し入れたりもするとのことだった。なるほど、そう言われてみると、たしかに彼女のベッドの脇には本が積まれていた。その中には、驚いたことに私が書いたものもあった。この子が私の本を読むのか。内心、私はほくそ笑んだ。作家にしか味わうことのできない喜びが、私の仲に満ちた。私は彼女の感想が聞きたくなったが、その時は黙っていた。

 

 最後に船長は私に対して、ある提案をした。

 

「マルタさん。もしよろしければ、これからはあなたに食事を運ぶ役をやっていただきたいのです。航海長はあの水夫たちの統制で忙しいですし、それに私は……その、恥ずかしい話ですが、最近どうしても咳が止まりませんので……」

 

 そう言うなり、船長は咳き込み始めた。船長は恥じ入るように顔を背けた。このような事態になったのには、自分の健康上の問題も大きく関わっている。船長はそう思っているようだった。

 

 やがて船長は言った。

 

「……それから、アンジェラさんの話し相手にもなっていただけませんか? マルタさんは作家で、見聞が広く、お話もお上手ですから、穏やかで知的なアンジェラさんの話し相手にはピッタリの方だと思います。それに、お互い女性ですしね……」

 

 私は快諾した。これからよろしくと言って私がアンジェラに握手を求めると、彼女は言った。

 

「良いのですか? 私は変異病の疑いがあるのですよ? 握手なんてして、もし先生にまで病気がうつったら……」

 

 彼女は私のことを「先生」と言った。それがなんだか面白かった。私は、その時はその時でまた考えると彼女に答えた。怖々とした手つきではあったが、彼女は私の手を握り返してくれた。冷たい手だったが、絹のように滑らかな感触がした。

 

 

☆☆☆

 

 

 アンジェラはたしかに変異病の罹患者かもしれない。だから彼女と接触することは、私自身も感染のリスクを負うことになる。それでも私は、彼女と毎日会うことにした。

 

 これほどまでに特異な状況下にある人間を観察することは、創作活動において多大なる利益を産むだろうという打算もあった。たとえ大都市を隅々まで探したって、こんな人間を見つけることはできまい。しかし、それはどちらかといえば口実に過ぎなかった。私は、自分がそれほど情に厚い人間とは思っていなかったが、どうやら私は、年若くして罪もなく「牢獄」に押し込められた少女を、純粋に気の毒に感じているようだった。

 

 アンジェラは、話し上手というより聞き上手だった。彼女は澄んだ眼差しに知的な光を宿して、私の話を熱心に聞いてくれた。

 

 毎日色々なことを彼女には話した。故郷のこと、家族のこと、書いた本の裏話、オリアンでの旅で出会った風変わりな連中……戦争で経験したことは、あえて話さなかった。そんなことを話して何になるのか。

 

 役目を引き受けてから二週間ほど、つまり船が隔離され始めてから三十日ほどが過ぎた頃になると、アンジェラはだんだん自分のことを話すようになってきた。

 

「父は商人でした。母については知らないんです。母は、私を産んでからすぐに亡くなったと……父はよく母のことを、『天使だったよ』と言っていました。父は幼い私を連れてオリアン地方に渡り、そこで貿易業を始めたんです。ですが、その父も伝染病で……父の死後、私は、このままオリアンにいてもどうにもならない、エウロパに渡って新しい人生を始めようと決意しました……でも、まさか検疫に引っかかるとは思ってもみませんでした。皆さんに迷惑をかけて本当に申し訳ないと思っています……先生にも……」

 

 私は彼女の言葉を打ち消して言った。

 

「病気になるのは迷惑でもないし、罪でもないわ。もしそうなら、この世は罪人で溢れかえることになる。検事も裁判官もまったく足りないくらいにね。あなたは何も悪くないわ。だから申し訳ないなんて、言わなくて良いのよ。それに、『罪なくして牢に入るは至上の徳行』とも(ことわざ)で言うし……」

 

 彼女は私の言葉に聞き入っているようだった。私は、これを機会として、以前から気になっていたことを彼女に尋ねることにした。

 

「アンジェラはこの船をおりた後、どこか行くあてがあるの?」

 

 彼女は無言のまま、首を左右に振った。その表情にどこか悲愴な色があった。私は、思わず言葉を発していた。

 

「アンジェラ、もしよければ、しばらく私の家に身を寄せなさい。そこでゆっくりと、今後のことについて考えるのよ。それに、あなたは(つら)い目にたくさん遭ったんだから、たっぷり休養しないと……」

 

 私の言葉を聞いて、彼女は大きく目を見開いた。そして大粒の涙を目からこぼすと、彼女はかすかな声で言った。

 

「……嬉しいです。先生、ありがとうございます……」

 

 ふと、この状況は非常に小説的ではないかと私は思った。だが彼女の涙を見ると、その考えがどことなく不純なものに思われて、私は内心で自分自身を恥じた。

 

 

☆☆☆

 

 

 私とアンジェラが船底で友情を育んでいた頃、甲板の上の状況はどうなっていたか?

 

 船長と航海長は、変わり映えのしない日々が過ぎるにつれて緩みがちになる士気を少しでも向上させようと、懸命に努力していた。しかし悪いことに、船長の肺の病は徐々に悪化していった。

 

 船にやってきた定期診断医は、船長の病を「肺炎」と診断した。慢性の肺炎が過労と心労で重症化しているのだろうという見立てだった。陸上の病院に移り、清浄な空気を吸って、新鮮な肉と果物を食べれば治るだろうと医師は言った。だが、船長はその提案を言下に否定した。船長は責任感の強い男だった。彼は、次第に船長室の床から起き上がることが少なくなってきた。それでも彼は、航海長と協力してなんとかして船の規律を保とうとしていた。

 

 航海長も船長の意に沿って、疲れも見せずに働いていた。彼はけっして表情を変えなかった。いや、彼はその雰囲気すらも変えなかった。彼を変えられるものなど何もないと思われるほどだった。

 

 だが、彼ら二人の熱意とは裏腹に、例の水夫たちは、時が経つにつれて手のつけようがないほどに堕落の一途を辿りつつあった。

 

 ある夜、酒を酌み交わしながら航海長と話していた時、彼は水夫たちの頽廃ぶりについて教えてくれた。

 

「奴らもこちらが監視してよく言い聞かせている間は、まあ働くのだがね。だが、私と船長がいなくなると、もうダメだよ。乗客の一人が教えてくれたのだが、奴らはしょっちゅう仕事をさぼっては酒を飲み、カードとサイコロ博打に興じているらしい。しかも、狡猾なことに見張りを立てているようで、私がその場を抑えようとしてもすぐに逃げ去ってしまうんだ。組織を腐敗させるのは、君もよくご存じだろうが、酒と博打だよ、間違いなく……」

 

 悪いことに、最近は乗客たちも、水夫たちの悪い遊びに参加しているようだった。普段は立派で真っ当な生活を送っている人間も、このように閉塞感が満ち満ちた状況においては、酒と博打に流れるのは仕方のないことだった。

 

 そろそろ隔離開始から六十日目を迎えんとするセンチュリオン号は、次第に海上に浮かぶ悪徳の市となりつつあった。

 

 

☆☆☆

 

 

 事態が動いたのは、七十日目に差し掛かろうとする、その日の夜だった。私はアンジェラとの楽しい会話を終えた後、ふと、久々に船長と話をしようと思った。

 

 船長室に赴くと、そこには寝台に横になった船長と、その他にひとりの意外な人物がいた。それは乗客の一人である、中年男性のニコロだった。

 

 驚いたことに、ニコロの右頬は、無惨にも赤く腫れあがっていた。船長は私の姿を認めると、口を開いた。

 

「おお、マルタさん。良いところに来てくれましたね。どうかあなたもニコロさんの話を一緒に聞いてください」

 

 ニコロは相当痛むのか、しきりに頬を抑えながら、涙声でポツリポツリと話し始めた。

 

 彼はもともと堅実な性格で、酒も煙草も、ましてや博打もしない人間であるらしい。しかし、状況が状況であるし、また人間関係が壊れるのも恐れていたので、彼は他の乗客に誘われるままに、次第に酒や博打に参加するようになったという。

 

 博打の席には乗客のほとんどが並んでいた。また、例のオリアン人の水夫たちも揃っていた。胴元は乗客の一人だった。だがニコロには、どうにもその後ろに立っている水夫のクロッコが、真の胴元なのではないかと思われた。

 

 その最初の晩、ニコロは大勝した。まったく博打をしたことがなかったのに、彼は不思議なほどに勝ち続けた。最初の一週間が終わる頃には、儲けた金は原資の五倍にまで膨れていたという。このようにして博打の究極の愉悦を一番最初に、しかも強烈に精神に叩き込まれたわけだから、彼が博打にますますのめり込むのは当然だった。

 

 しかし、その後は何度やっても勝てなくなっていったと彼は言った。たまに大勝して気炎を上げることもあったが、全体的に見るとやはり金は減っていった。

 

 ついに軍資金がなくなった時、水夫のクロッコは嫌らしい表情を浮かべてニコロに近寄った。彼は、持ち物を抵当に入れて借金をしないかとニコロに持ちかけたという。

 

 流石に、彼はそれに躊躇いを覚えた。だが、博打に参加しないと船内の人間関係から弾き出されることになってしまう。それに、やはり日々の無聊を慰めてくれるのは博打だけだった。彼は、はじめは懐中時計、次に上着と、だんだん持ち物を手放していった。しまいには、トランクの中に大事にしまっていた有価証券まで彼は出すようになった。

 

 ニコロは葛藤した。このままでは船にありながら財産のすべてを失うことになりかねない。それに、やはり賭け事は良くないことだ。彼は意を決して博打をきっぱりとやめることにし、それだけでなく、周りの乗客にも博打をもうしないよう呼びかけた。他の人々も彼と同じように博打のやめ時を探っていた時であったから、全員がニコロに賛同した。

 

 そしてその日の夜、ニコロは乗客を代表して、水夫のクロッコに「もう、あなたたちとは付き合わない」とはっきり宣言したのだという。

 

 するとクロッコは、何の前触れもなく右手を振り上げると、二コロの頬を拳骨で思い切り殴りつけた。クロッコはドスの利いた声で脅し文句を並べ立てた。

 

「ふざけるんじゃねぇ! やめるもやめないも、それを決めるのは俺たちだ! テメェらの勝手になってたまるか! 誰が今までテメェらの世話をしてやったと思ってるんだ! いいか? 財布がモノを言わねえように、テメェらもモノを言っちゃならねぇんだ」

 

 あまりにも酷い言いようだった。ニコロは殴られた痛みにもめげずに、二言三言、抗弁した。するとクロッコは不気味な笑みを浮かべて言ったという。

 

「まあ、どうしてもやめたいって言うなら、やめても良いさ。止めはしねぇよ。だが、船から降りたらどうなるかな……?」

 

 そんなわけで、ニコロはすごすごと引き下がった。だが、もはや事態は容易ではないところまで来てしまったと彼は自分の船室で思い直した。すべてを船長に話そうと決意して、彼はここに来たのだという。

 

 船長は深くため息をついた。ゴホゴホと咳き込むと、彼は自分の意見を述べた。

 

「船長としては、彼らを処罰するしかありません。私の力不足のために、私は船内の風紀紊乱(びんらん)を止められなかった。そのことに責任は感じますし、また責任を取らねばならないでしょうが、クロッコたちが罪を犯したのもまた事実です。明朝、クロッコを呼び出して尋問し、場合によっては港湾当局に引き渡します。マルタさん、あなたの意見はどうでしょうか?」

 

 私は率直に答えた。

 

「断固たる措置をとるべきでしょう。彼らがやったことは賭場の違法開帳です。共和国の刑法ではそれは重禁錮刑ですよ。隔離期間はあと三十日ほどで終わりですが、このまま事なかれ主義的に彼らを放置したら、さらに良くないことがきっと起こります。私はそう思います」

 

 船長は頷いた。

 

「そのとおりです。明日の朝、クロッコを船長室に呼び出して、航海長とニコロさん同席のもとで話をします。あなたも来ていただけますか? 朝食後に、航海長があなたを呼びに行きます」

 

 承諾してから、私は船長室を出た。私は夜空を見上げた。月は幽霊のようにぼんやりとした光を放っていて、ベタ凪の海面は鏡面のように青白く輝いていた。

 

 いつもよりもなお、センチュリオン号は静まり返っていた。ネズミの足音ひとつ聞こえなかった。その静けさに、私は言い知れぬ不安感を覚えた。しかし、それをあくび一つで強いて呑み殺すと、私は寝室へ向かうために昇降口を降りた。

 

 

☆☆☆

 

 

 私の部屋は、一般客室とは離れた場所にあった。船長の好意で、もともとは船医用に作られた部屋へと、私は最近移ったのだった。それは書きものの仕事に集中するためだった。

 

 明くる日の朝、激しい物音で、私の眠りは乱暴に打ち破られた。部屋の外からは怒号と、悲鳴と、破壊音が響いてきた。時計を見ると、夜明け前の四時だった。

 

 私はすぐに荷物の中から護身用の短剣と短銃を取り出した。それをベルトにぶち込み、何発かの弾丸を上着のポケットに突っ込んだ。それから私は、深呼吸を二、三回して精神を落ち着かせた。

 

 間違いない。クロッコたちが反乱を起こしたのだ。

 

 おそらく奴は、前夜ニコロが船長室に行ったのを目撃したのだろう。そして、陸上の当局に引き渡されるのを察知したのに違いない。だから奴は先手を打ったのだ。

 

 となると、奴が最初にやろうとすることは間違いなく、船長室の制圧だろう。私は考え続けた。船長と航海長を拘束、もしくは殺害して船の支配権を奪い、乗客を人質にして船を動かし、オリアン地方へ逆戻りする腹積もりではないだろうか……?

 

 船長室へ加勢しに行くべきだと考えてから、突如、私はゾッとした。

 

 そうだ、アンジェラは!?

 

 奴らは、100日間の隔離状態の元凶になったアンジェラを、強く憎んでいた。これを機会に彼女を殺害するかもしれない。

 

 しかし、私は思い直した。そうだ、彼女はぶ厚い鉄の扉と頑丈な錠前で守られている。すぐに破れないとなれば、奴らは船長室の制圧を優先するはずだ。今はあの石炭庫の扉の頑丈さを信頼するしかない……

 

 方針は決まった。私は船長室へ向かった。途中、私は他の客室を覗いてみた。いずれも中は滅茶苦茶に荒らされており、乗客は一人もいなかった。おそらく、乗客たちはみな、人質として甲板上へ連れ去られたのだろう。

 

 甲板に出る途中、私を拘束しようとやってきた水夫の一人と鉢合わせした。水夫は手に斧を持っていて、私を見るや即座に振り下ろそうとした。辛くもそれを避けて、私は短銃を一発撃った。次の瞬間には、水夫は物言わぬ存在となって通路に横たわっていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 一時間後、私は船長と航海長と並んで、縛り上げられていた。

 

 多くは語るまい。あの後、私は船長室で船長と航海長の二人に合流し、必死になって防戦に努めた。船長は寝台に横になりながらも短銃で一人を倒し、航海長は素手で一人を殴り倒し、私も一人を撃ち倒した。だが、クロッコが乗客を人質にして私たちの前に現れ、「それ以上抵抗するならば……」と持ち掛けてきたところで、勝敗は決してしまった。

 

 私たちは甲板にいた。乗客たちはすすり泣きをしているか、あるいは呻き声をあげていた。朝日はさらに高く昇っていた。その光をクロッコは背負っていた。

 

 クロッコは勝ち誇った表情を浮かべると、私たちに言い放った。

 

「手間をかけさせやがって……どうもありがとうよ、船長」

 

 そう言うなり、クロッコは船長の腹部に蹴りを入れた。倒れた船長の眉間に、クロッコは短銃を向けた。音を立てて撃鉄が上がった。クロッコは下卑た表情に殺意と憎悪を漲らせていた。彼は叫んだ。

 

「景気づけに、テメェの脳みそを甲板にぶちまけてやる!」

 

 その時、鋭い声が響いた。

 

「やめなさい!」

 

 いつの間に来たのか、そこにはアンジェラがいた。

 

 彼女は昇降口に立っていた。顔は青ざめ、細い足は震えているが、目つきは鋭かった。彼女は悪人たちを睨めつけていた。

 

 どうやって彼女は、あの錠前のかかった扉を中から破ったのだろうか? いや、それよりも……私は声の限り叫んだ。

 

「アンジェラ、逃げなさい! あなただけでも逃げるのよ!」

 

 クロッコは凶悪な笑みを浮かべると、アンジェラに銃口を向けた。

 

「ほお……船長の次にぶっ殺してやりたかった奴が、自分から殺されに出てきてくれたぞ。これで手間が省けたな!」

 

 躊躇なく、クロッコはアンジェラに向けて発砲した。乾いた銃声が三回連続した。

 

 私は叫んだ。

 

「アンジェラ!」

 

 私は次の瞬間、アンジェラが力なくその場にくずおれて、甲板を血で染めるのを想像した。

 

 しかし、そうはならなかった。

 

 アンジェラは平然と、その場に立っていた。彼女は我が身を守るように手を前方にかざしていた。その蒼い瞳は爛々と輝いていた。

 

 よく見ると、アンジェラの目の前の空間に、何かが浮かんでいた。それは銃弾だった。放たれた三発の銃弾が目に見えない壁に阻まれて、空中で動きを止められていた。

 

 クロッコが、目に見えて動揺した。彼は言った。

 

「な、なんだ! お前、いったい何を……」

 

 その言葉が終わる前に、突然、アンジェラの全身から眩い光が放たれた。その長い金髪は逆立ち、頭上には光の環が出現した。それを戴いた彼女は、その背中から大きく力強い真っ白な双翼を伸ばした。

 

 私は呆然として、誰にともなく呟いた。

 

「変異病……」

 

 アンジェラは変異したのだ。しかし、それは変異にしてはあまりにも綺麗な変異だった。

 

 アンジェラは軽く手を振り払った。空中の銃弾は、力を失ってパラパラと甲板に落ちた。さらに彼女は、クロッコたちに手を向けた。彼女は柔らかな黄金の色をした波動を放った。

 

「眠りなさい」

 

 波動を受けたクロッコたちは声も上げず、バタバタと倒れた。反乱は実に意外な形で幕を閉じた。

 

 

☆☆☆

 

 

 私たちはクロッコたちを縛り上げると、かつてアンジェラがいた石炭庫に放り込んだ。

 

 それが終わってから、アンジェラは事の顛末を話してくれた。

 

「今朝、目が覚めると、急に世界がとてもはっきりしたように感じました。耳も目も感覚も、すべて鋭くて、それでいてどこか拡がりがあるんです。ですから、この船で何が起こっているのかは、船底の石炭庫にいても全部分かりました。先生と船長の会話も、クロッコの声も、乗客の皆さんの悲鳴も、はっきりと聞こえてくるんです」

 

 彼女の言葉に、船長が相槌を打った。

 

「感覚器官の鋭敏化……変異病の初期症状の一つですね」

 

 アンジェラは軽く頷くと、話を続けた。

 

「どうにかしないといけないと思いましたが、でも、扉には外から鍵が掛かっています。それは自分から望んだことでしたが……本当に、あの時はどうしようもない気持ちでいっぱいでした。早くここを出たいと願っていると、不思議なことに、扉がひとりでに開いたんです。きっと、知らないうちに自分で魔法を使ったんだと思います。変異病になると、魔法が使えるようになりますから。それからは、無我夢中で甲板に上がって……」

 

 私は改めてアンジェラを見た。その姿は、大聖堂の天井画に描かれている天使そのものだった。光の環は浄福な輝きを放ち、白い翼はどんな鳥類のそれよりも美しかった。乗客たちも、口々に感嘆の声を漏らしていた。

 

 だが、アンジェラの表情は暗かった。彼女は言った。

 

「私、これからどうなるんでしょう……変異体は一生当局の管理下に置かれて、自由な生活を送ることができなくなると聞いたことがあります……」

 

 私はかける言葉が見つからなかった。異形化、それも天使のような異形化である。当局は格好の研究材料としてアンジェラを扱うだろう。それだけではない、下手をすると教会まで出てくるかもしれない。いずれにせよ、このままでは、彼女にとって良くないことになる。彼女にとって望ましい生活は、決してやってこないだろう……

 

 すると、船長が唐突に、ポツリと呟いた。

 

「……天使はどこかへ飛んでいってしまった」

「えっ……?」

 

 アンジェラと私の声が重なった。

 

 船長はそれを気にせず、さらに呟いた。

 

「絶体絶命の時に、突然、このセンチュリオン号に天使が降臨して、私たちを助けてくれた。天使は船底にいたアンジェラを連れていって、遠く、空高く飛んでいってしまった。そうだね?」

 

 船長は、乗客たちを見た。やがて、船長の意図を察した乗客たちは、口々にそうだそうだと言い始めた。そうだ、天使がアンジェラを連れていってしまった。アンジェラは消えてしまった……ふと誰かが、彼女にはお金が必要だと言った。今後の生活の資金が要る。その声に応えて、乗客たちは財布を取り出すと、彼女の前に金貨と銀貨を積み上げ始めた。

 

 アンジェラは涙ぐんだ。彼女は私たちを見渡した後、涙声で言った。

 

「みんな……ありがとうございます……元はと言えば、全部私のせいなのに……」

 

 私は山となった金貨と銀貨を袋に入れて、それをアンジェラに持たせた。私は言った。

 

「アンジェラ、後のことは気にしないで。その翼で、この船から飛んでいきなさい。もう誰も貴女を閉じ込めたりしないわ。それから……」

 

 一枚の紙片を差し出して、私は彼女に言った。

 

「寂しくなったら、ここに書かれたところに遊びに来なさい。お茶とお菓子でも出すわ……」

 

 ここでアンジェラは、初めて笑ってくれた。私たちも笑った。甲板に笑い声が満ちていた。

 

 センチュリオン号は、隔離されてから初めて、心から笑っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 あの後、私たちは陸上に信号を送った。反逆者たちは連行された。

 

 当然、私たちはことの経緯について説明を求められた。全員が「天使が船に降臨した」と答えた。当初は、「そんなことはあり得ない」と首を左右に振り続けていた担当者たちも、最終的には折れて、私たちの「説明」を受け容れてくれた。おそらく、乗客たちは変異体の魔法によって集団幻覚をかけられたとか、そういう報告がなされるのだろう。真相を知るものは私たちだけで良い。

 

 変異体、つまりアンジェラが去ったあと、私たちは再度検査を受けた。結果は、全員が異常なしだった。ただし、法による規定は守られねばならないということで、やはり100日目まで私たちは船の上で過ごさねばならなかった。船長は健康状態が悪化したため、先に下船した。彼はそれをずいぶん悔やんでいた。その後、陸上で適切な治療と看護を受けた結果、彼は元通りに回復した。

 

 100日後、港に入ってからセンチュリオン号の船倉を改めたところ、新たに驚くべき事実が判明した。小麦の(こり)の中に、何袋もの麻薬が、巧妙に隠されているのが発見された。

 

 それらの麻薬は、あのクロッコたちが積み込んだものに違いなかった。奴らは水夫として船に乗り込むその裏で、センチュリオン号を麻薬運搬船として利用しようとしていたのだ。奴らが100日間の隔離を告げられて激怒したのは、ただ船に閉じ込められるのを嫌がったからではなくて、麻薬取引が遅延するのを恐れたためだったのだろう。

 

 奴らは、ほどなくして全員が死刑になった。オスティア市の市公会堂前広場で奴らは公開処刑されたが、私はそれを見に行かなかった。

 

 あれから、すでに十年が経ってしまった。

 

 今、私は湯を沸かしていた。春の午後の柔らかな日差しが窓から居間に差し込んでいた。日差しは、その精緻なレース模様のような鮮やかな彩りをテーブルに広げていた。

 

 私は、なにか予感がしていた。

 

 今日は何か良いことが起こるような気がする。それも、この十年で一番良いことが起こるような気がする。

 

 私の心は弾んでいた。小説など書いている場合ではない。

 

 お茶は用意した。真っ白でフワフワとした生クリームと、よく熟れた桃と、砂糖をたっぷりまぶした焼き菓子も用意した。

 

 窓は開け放ってあった。そよ風が部屋の中へ入り込んできた。

 

 昨日の執筆の疲れもあって、準備を終えた私は、しばし椅子の上で微睡(まどろ)んだ。

 

 夢の中で、羽音が聞こえた。密やかな羽音だった。軽い足音がそれに続いた。

 

 天使のような、クスクスという可愛らしい笑い声が聞こえた。

 

 それはだんだん、私に近づいてきて……




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「センチュリオン号の100日」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第100回「100」に応募した作品です。2019年5月12日公開。

 構想→プロット→執筆→投稿まで12時間で仕上げました。時間がなかったのです。というわけで、エブリスタに上げたバージョンは自分としては少し完成度に不満が残る結果となりました。

 今回ハーメルンに上げたバージョンは1万4千字。エブリスタから大幅に増補改訂されております。主にエピローグ部分がそれに当たります。

「100」というテーマ、大雑把でなんでもありな印象があります。そのため構想を出すのは大変でしたが、まあ100日間、というものに落ち着きました。船の検疫隔離という重いテーマは、いずれ別の話でさらにシリアスな感じで掘り下げてみたいところです。

 次回もどうぞお楽しみに!

※2020/12/25
読み直してみたらかなり未熟な文章だったので、最初から最後まで手直しを加えました。
※加筆修正しました。(読み直してみたらかなり未熟な文章だったので以下略。2023/07/01/土)
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