ヤンネ・トゥオミネンが死んだ。彼の魔竜も死んだ。
私たち四人が着いた時には、ヤンネの死体はすでに近くの民家に運び込まれていた。暗く狭い居間に、物言わぬヤンネは横たわっていた。
死体が纏っている飛行服は、血と混合濃縮エーテル液によって赤黒く染まっていた。彼の両脚は滅茶苦茶に砕かれており、右腕は中ほどから失われていた。
「それにしちゃ、綺麗な
私の隣にいるヘンリクが、驚いたように言った。
私はその言葉を聞いて、不愉快な気分になった。たしかに、ヤンネの顔は綺麗だった。だが、それは「ある意味で」という追加の言葉を必要とした。彼の顔は砕けておらず、目も鼻も揃っていた。どこも欠けた部分はなかった。血色こそ失われているが、その肌は未だに白く、美しかった。
だが、ヤンネは安らかではなかった。彼は目を見開いていた。目には怒りが込められていた。怒り以上に、それは憎悪を示していた。顔全体が、彼がその死の瞬間まで抱いていたであろう一つの感情を明白に伝えていた。私は彼のその歪んだ顔が、なにかに似ていると思った。
ややあって、私はそれに気づいた。これは、オオカミの顔にそっくりだ。何かに挑みかかり、敵意を剥き出しにしたオオカミの顔にそっくりだ……ちょうど口から飛び出している長い犬歯が、私のその思いをさらに補強した。
セッポがタバコを咥え、火をつけながら言った。
「本人もきっと安心してるだろう。部隊一の伊達男にふさわしい死顔だからな……」
セッポがそのように言うのは、彼としてもヤンネの死顔に衝撃を受けたからであろうと思われた。ヤンネは温厚な男だった。このような顔を、彼は生きている間にしたことは決してなかった。
なぜ、こんな顔をして死んだ? なにが、そこまで憎かったんだ? 私は心の中で、そう問いかけた。当然のことながら、死体は答えなかった。
ここは最前線にほど近い。ドロドロという、遠雷のような赤軍の砲声が外から聞こえてきた。
きっと、前線には多くの死体が転がっているだろう。敵と味方の死体、人間と魔法生物の死体……ねじくれ、焼かれ、砕かれ、引き裂かれた死体……
それに比べれば、ヤンネの死体は上等な部類と言えた。
深々と一服し、煙を吐き出したセッポが、しみじみとした口調で言った。
「それに、大戦果を挙げたしな」
私はセッポに問いかけた。
「ヤンネの最期を見たのか?」
セッポは私に向かって頷いた。
「ああ、しっかりと見たよ。奴はあの時、一直線に突っ込んで、投弾寸前の敵の編隊長機を撃ち落とした。おかげで敵の爆弾は全部外れた。その後もヤンネの奴、よせば良いのに旋回を繰り返して暴れ回って、しまいにゃ魔竜の脳味噌を撃ち抜かれた。後は地上に真っ逆さまでな……」
私はその話を聞いて不思議に思った。およそ、ヤンネらしからぬ戦いぶりだった。慎重で、ともすれば臆病で、しょっちゅう「俺は死なん、絶対に死なん」と言っていたヤンネにしては、あまりにも勇敢すぎる最期のように思われた。
まるで、戦いの最中に突然人格が変わったかのようだ。人格が変わる。そのようなことがあるのか? 私はヤンネの顔を見た。そして、あるのかもしれないと思った。
近くに寄って死体を見ていたエルモが、怪訝な顔をした。エルモは言った。
「ん? これは……?」
セッポがエルモに言った。
「どうした、エルモ?」
エルモは答えた。
「いや、ヤンネのマフラーを見ろよ。こいつ、いつの間にこんなマフラーをしていたんだ?」
エルモが死体の首元を指し示した。そこには、見るも鮮やかな赤色のマフラーが巻かれていた。
血よりも暗く、薔薇よりも明るい、真紅のマフラーだった。
奇妙なことに、マフラーはまったく汚れていなかった。ヤンネの死体はボロボロだというのに、マフラーは洗濯したてのように綺麗だった。
マフラーの材質は絹だった。新品そのもののように、それは美しい光沢を誇っていた。
一緒に見ていたヘンリクが、頭をかきながら言った。
「おかしいな、ヤンネはいつも緑のマフラーをしていたはずなんだが。ほら、あの酢漬けキュウリのような色をしたマフラーだよ。似合ってないのに、本人は験担ぎだとか言って、いつもそれを巻いていた」
私も、そういえばヤンネはいつも緑のマフラーを巻いて出撃していたことを思い出した。
腕を組んで、何やら考え込んでいたセッポが、あっ、と声を上げた。
「このマフラー、どこかで見たと思ったんだが……これは、死んだマウノのマフラーじゃないか?」
エルモが頷いた。
「ああ、そうだ。この赤色には俺も見覚えがある。これはマウノのマフラーだ。マウノ・レヘトヴァーラのお気に入りだったマフラーだ」
ヘンリクが疑問を呈した。
「いや、それはおかしいだろ」
ヘンリクは私たちの顔を見回した後に、また言葉を続けた。
「マウノのやつは二週間前、イタメリ海で、敵の輸送艦に爆弾を抱えたまま突っ込んで死んだ。奴も、奴の魔竜も木っ端微塵に吹っ飛んで、何も残らなかったじゃないか。なら、なんで奴のマフラーがまだここにあって、ヤンネがこうして巻いてるんだ?」
セッポがやれやれとばかりに首を左右に振った。
「別に、おかしくはないだろ。きっと、マウノは最後の出撃の時にこの赤いマフラーをしていかなかったのさ。で、たぶんヤンネがこれを受け継いだんだ。なんせ、マウノの遺品整理をしたのはヤンネだからな」
ヘンリクはなおも表情に疑問の色を浮かべていた。
「……俺は、マウノの奴が前に『赤いマフラーがない!』と言って大騒ぎをしたのを覚えてるぞ。そんな奴が、赤いマフラーをしないで出撃するなんてことがあるのか?」
二本目のタバコに火をつけたセッポが、ヘンリクの疑問を打ち消すように言った。
「そりゃ、したんだろう。じゃなきゃ、こうしてここにマフラーが残ってるわけがない。それともなんだヘンリク、お前は海に沈んだか爆発で燃えてなくなったかした赤いマフラーがひとりでに戻ってきて、ヤンネの首回りに収まったとでも言うのか?」
そう言われてはヘンリクも反論のしようがないようだった。彼は言葉に詰まった。
「いや、そうは言っていない。そんなことはあり得ない。ただ、俺は、その……」
私は、そろそろ話を締め括ることにした。私は言った。
「いい加減おしゃべりは終わりだ。ヤンネを車に運ぶぞ。基地に帰って、棺桶に入れてやらねば」
私たちはあらかじめ用意しておいた戸板に死体を載せると、四人がかりで車へ運んだ。
暗い空からは真っ白な粉雪が途切れることなく降っていた。踏み締められた雪が夏の虫の鳴き声のように、ギシギシと音を立てた。
戦友の死体は思ったよりも軽かった。死体の顔は、まだ怒りの表情を浮かべていた。なおも砲声は鳴り響いていた。
☆☆☆
セッポが死んだのはその一週間後だった。
私たちはその日、戦隊の全力である十騎で出撃し、カルヤラ地峡の赤軍地上部隊へ攻撃をかけた。各々が十発の小型爆弾を抱え、戦車や補給車両からなる縦列を、超低空で襲撃した。
敵の対空射撃は熾烈だった。トラックを改造した対空車両は、私たちに向かってシャワーのように弾丸を吐き出した。緑色の尾を引く曳光弾が、地上から天空へ
それでも、最初に攻撃を仕掛けた戦隊長は無傷だった。戦隊長は爆弾を投下し、敵の小型戦車一両を撃破した。その次に続いた私も、一発も被弾しなかった。それから続々と攻撃した仲間たちも、さしたる損害を受けなかった。
セッポは一番最後に攻撃した。弾丸を撃ち尽くしたのか、対空射撃は弱まっていた。セッポも私たちと同様、難なく攻撃を終えるだろうと思われた。
私は上空警戒をしつつ、彼の襲撃ぶりを見物していた。彼と彼の魔竜は、大胆にも敵の縦列のすぐ真上で何回も旋回を繰り返し、爆弾を落とし、銃撃を続けていた。彼は数分以内に敵の小型戦車を五両も破壊した。
なんとも危なっかしいことをする、少し欲張りすぎだ。そう思っている間にセッポはさらに高度を落とし、今度は小山のように大きな敵の重戦車に攻撃を加えようとした。
私は思わず、無線機に向かって怒鳴っていた。
「やめろ、セッポ! もう良い! 切り上げろ!」
セッポはほとんど運動エネルギーとスピードを失い、空中にほぼ静止したようになっていた。そんな状態で攻撃を続行するのはあまりにも無謀だった。
無線機は正常に機能していたはずだ。私の声も聞こえていたはずだ。だが、セッポは攻撃をやめなかった。彼の魔竜の両翼に取り付けられた速射魔力砲から、オレンジ色の弾丸が発射された。吸い込まれるように弾丸は重戦車に命中し、装甲の薄い天板部分を貫通した。
重戦車は爆発した。数秒経ってから、セッポの魔竜が爆発した。敵の対空射撃が、ついに彼を捉えたのだった。ランスカ=ブリタンニア原生種ハイブリッドに特有の非生物的な金属音混じりの咆哮が、離れた場所を飛んでいる私の耳にもはっきりと聞こえた。
それは断末魔の叫びだった。セッポの魔竜は小爆発を繰り返しながら、低く低く
セッポと魔竜は、友軍の勢力圏内で見つかった。
捜索に当たった歩兵部隊の曹長がわざわざ基地にやってきて、詳しいことを話してくれた。
「セッポ・ハータイネ少尉の攻撃は、地上の我々も見ておりました。重戦車を撃破してくださって本当にありがたかった。あれは我々の砲撃をすべて弾き返しますから。少尉殿は我々の恩人です……少尉殿と乗騎の魔竜は、残念ながらほぼ原型を留めないまでに焼け焦げておりました。わずかに残ったご遺体は棺桶に納めて、すでに後方へ送っておきました。それから……」
曹長は、私の隣で話を聞いていたヘンリクに、ヒラヒラとした何かを差し出した。
それは真紅のマフラーだった。見間違えるはずはない。それは、ヤンネが死んだ時に首に巻いていたあのマフラーと同じものだった。
曹長は低い声で言った。
「少尉殿が墜落した場所の近くに、このマフラーがありました。樹の
私たちは顔を見合わせるばかりだった。
☆☆☆
私たちは搭乗員待機室にいた。その半地下式の部屋は薄暗く、骨の髄まで凍るように寒かった。私たちの間に、会話はなかった。
だが、私たちが黙っていたのは寒さのせいではなく、ある想念が各々の頭の中を駆け巡っていたからだった。
たまりかねたように、エルモがヘンリクに向かって口を開いた。
「なあ、ヘンリク。そのマフラー、捨てちまったらどうだ」
真紅のマフラーを指先で弄んでいたヘンリクは、思考の海に溺れていたのか一瞬返答が遅れた。
「……ん、ああ? なんだエルモ、なんだって?」
エルモが再度、同じ調子で問いかけた。
「捨てたらどうだって言ってるんだよ、その真紅のマフラーを」
ヘンリクは眉をしかめた。目つきは険しかった。彼は言った。
「なんで捨てる必要があるんだ。こいつは良い品だぜ。良い手触りだ。こいつを首に巻いて空に上がったら、さぞかし快適だろうよ」
エルモが、敵意まで感じられるほどに張り詰めた声で言った。
「お前は、なんとも思わないのかよ」
ヘンリクは短く答えた。
「なんだよ」
エルモは言った。
「不吉だとは思わないのかって、俺は訊いてるんだよ」
エルモの難詰するような口調に、ヘンリクはわざとらしく肩をすくめた。こういう時にこういう軽い態度をとるのが、ヘンリクという男の性格だった。ヘンリクは言った。
「まあ、たしかに。これの今までの持ち主は、全員死んでるよな。最初はマウノで、次がヤンネ、その次がたぶんセッポだ。それで、どういう理由かは分からんが、持ち主は死んでるのにこのマフラーだけは生き残っている。だから、このマフラーは持ち主を死に追いやる呪われた品なんじゃないかと、エルモ・ペクリ飛行士殿はお考えになったわけだ。違うか?」
そう言われたエルモは、ヘンリクを睨むような目つきをした。しかし、彼はじっと口を閉じていた。
ヘンリクは話を続けた。
「まあ、そう考えるのも別におかしくない。俺たちは飛行士で、飛行士ってのは迷信だとか験担ぎってのを大事にするもんだ。ただ、俺はそういうのを信じない。いっさい信じない」
私はここで口を挟んだ。
「ほほう、どうして?」
長い金色の髪の毛をかき上げてから、ヘンリクは答えた。
「俺は運命論者でもないし、予定説を信じているわけでもない。俺は、生きるのも死ぬのも人間の努力と心掛け次第だと思っている。今までそう信じて戦ってきたし、それでちゃんと生き残ってきた。これからもそうだ。この赤いマフラーが不吉なものだとお前らが信じるのは勝手だ。だが、俺としては『こんな赤いマフラーごときに俺が殺されるわけがない』と思っている」
突然、部屋に設置された内線電話のベルが、けたたましく鳴り響いた。近くにいたエルモが飛びつくようにして受話器を取ると、数秒も経たずして叫んだ。
「緊急出動! ヘルシングフォシュに敵爆撃機の大編隊が接近中!」
ヘンリクは私にニヤリとした笑みを浮かべた。彼は言った。
「良い機会だ。俺はこの赤いマフラーを巻いていく。俺の考えの正しさをお前らに証明してやるよ」
☆☆☆
ヘンリクは帰ってこなかった。赤いマフラーを巻いたまま、彼は凍りついた大空に散った。
緊急出動した私たちは、なんとか敵の編隊を捕捉することができた。
敵から見て二時の方向に私たちは飛んでいた。しかし、すでに敵は爆撃針路に入っていた。これから射線を確保しようとしたり攻撃態勢を整えようとしたりしたら、投弾を阻止することができないのは明らかだった。
焦る私たちを
それはヘンリクだった。彼の首に巻かれた赤いマフラーが、妙にくっきりと私の目に映った。
戦隊長が叫ぶノイズ混じりの声がヘッドフォンから聞こえた。
「おい、ヘンリク! 勝手に編隊から離れるな! 戻ってこい!」
返答はなかった。他の仲間たちも口々に、彼に戻ってくるよう怒鳴った。だが、その間にもヘンリクは無言で、ぐんぐん敵編隊へと突き進んでいった。
そして、十秒ほど後にそれは起きた。私は声を上げた。
「あっ!」
ヘンリクとその魔竜は、敵の編隊長機に体当たりをした。右翼の付け根部分に頭から突っ込まれた敵機は、安物のライターのようにパッと火を吹くと、次の瞬間には満載していた爆弾が爆発し、巨大な火の玉となった。
大小無数の破片となって、敵機は空から一瞬で姿を消した。ヘンリクもその魔竜も、塵ひとつ残さずにこの世から消滅した。
さらに、驚くべきことが起きた。吹き飛ばされた敵機のエンジンが敵の二番機に当たり、その二番機も爆弾が誘爆して消し飛んでしまった。
敵はヘンリクの自殺攻撃を目の当たりにしてパニックを起こした。首都ヘルシングフォシュの市街地手前の何もない雪原に爆弾を捨てると、敵はそれまで緊密に組んでいた隊形をバラバラにし、算を乱して逃走を始めた。
呆然としていた私たちは一瞬行動が遅れたが、気を取り直して追撃を開始した。最終的に私たちは、ヘンリクに墜とされた二機も合わせて、六機の敵爆撃機を撃墜した。首都に被害はなかった。
紛れもない勝利だった。だが、基地に帰った私たちの心は重かった。
全員が着陸すると戦隊長は即座に皆を呼び集め、こう言った。
「ヘンリク・レフティネンは立派だった。立派に敵を阻止した。大戦果を挙げた。だが無謀だった。あんな攻撃をする必要はなかったのに」
これまで一度も泣いているところを見たことがない戦隊長が涙ぐんでいるのに、私は気づいた。彼は泣きながらさらに言った。
「生きている限り、俺たちは飛び続けることができる。戦い続けることができる。今後、一切の体当たり攻撃と自殺的攻撃を禁ずる。どんなにそれが必要だと思われたとしても、絶対にそれをしてはならん! 分かったな……」
私とエルモは足を引きずるようにして、搭乗員宿舎に戻った。六人部屋には今や、私とエルモの二人しかいなかった。
寝台に腰掛けたエルモが、うなだれながら言った。
「マウノも、ヤンネも、セッポも、ヘンリクも死んじまった……四人とも手柄を立てたが、でも、死んじまったら何にもならない」
私もやりきれない思いだった。私は言った。
「どうせ今回のヘンリクの件も、新聞は『英雄的犠牲精神』として書き立てるだろうな……」
その後の一週間、相変わらず戦いは続いたが、戦死者は出なかった。
凍結したラートカ湖を続々と渡ってくる敵の大部隊を攻撃するという、うんざりするほど血生臭い任務を終えて帰ってきたその日、私は自分の寝台に信じられないものが置いてあるのを見た。
それは真紅のマフラーだった。ヘンリクと共に爆発して大空に消えたはずのマフラーが、鮮やかな赤い光沢を放って私の寝台の一隅に幻想的な存在感を示していた。
☆☆☆
当初、エルモはマフラーが戻ってきたことに恐怖していた。だが、数日経ってから、彼はそれを熱烈に欲しがるようになった。
理由は、彼の母と妹の死だった。彼の母と妹は赤軍に殺された。敵機の面白半分の機銃掃射によって殺されたとのことだった。
エルモは泣きながら私に言った。
「そのマフラーを俺に寄越せ! 俺はどうしても奴らに復讐しなければならない! 妹はまだ十四歳だったんだぞ!」
マフラーがあったところで敵は殺せないだろう。そう説く私に、エルモは激しくかぶりを振った。
「俺はこれまで、そのマフラーが持つ意味を誤解していた。それを巻いて出撃したら死ぬものだと俺は思っていた。たしかに、それはそうかもしれない。だけどな、マウノにもヤンネにもセッポにもヘンリクにも、別の共通点があった」
それはなんだと、私は言った。エルモは確信に満ちた口調で答えた。
「それは、あいつらは大戦果を挙げてから死んだということだ! それを巻けば必ず赤軍を殺せるんだ! 俺一人の命と引き換えに、侵略者共を大勢殺せるんだ! さあ、それを俺に寄越せ!」
エルモは自暴自棄になっている。私はそう思った。天涯孤独の身となり、戦争が終わっても一人ぼっちで生きていかねばならないという絶望感が彼を支配していた。これまで何度も出撃を重ねているのに、さしたる戦果も挙げていないという焦燥感もあるのかもしれない。それらが彼をして、真紅のマフラーに異常に固執させているようだった。
今にも私に掴みかからんばかりに興奮しているエルモを何とか宥めて、私はこう言った。
「まあ、待てよ。俺に良い考えがあるんだ」
私は、努めて冷静に言った。
「お前の考えにのっとるなら、このマフラーにはどうやら赤軍を殺す力があるようだ。じゃあ、そんな赤軍を殺すマフラーならば、敵にくれてやれば良いじゃないか。そのほうがこちらにとっても都合が良いだろう。実は明日、単騎で敵の野戦飛行場を偵察するように命令されてる。俺がマフラーを持っていって、偵察がてら奴らの頭の上に投げ込んできてやるよ。真紅のマフラーだ、赤軍の奴ら『自分たちの軍旗と同じ色だ』と、喜んで身につけるだろうよ……」
エルモは強硬に反対し、なおも私にマフラーを寄越すよう要求した。私は持論を繰り返した。最終的に、エルモは私の考えを聞き入れてくれた。
☆☆☆
翌日の早朝、私は空にいた。敵飛行場まで一時間だった。愛騎の魔竜の調子は良く、濃縮エーテルの混ざった赤紫色の呼気を盛んに鼻腔から噴出していた。
私の膝の上には真紅のマフラーがあった。私はそっと、それを手に取った。首に巻けば「呪われる」かもしれない。だから決して巻きはしないが、しかし、敵にくれてやる前にもう一度よく見ておきたい……
思えばこのマフラーは、この短い間に随分と多くの命を奪ったものだ。私はそう思った。死んだ四人の戦友は気の良い奴らだった。全員が将来に夢を抱いていた。マウノには婚約者がいたし、ヤンネは大学に行きたがっていた。セッポは画家志望だったし、ヘンリクは海外旅行をしたいと言っていた。
いや、マフラーのせいではないだろう。私は思い直した。彼らを殺したのは、決してこのマフラーではない。彼らを殺したのは紛れもなく赤軍だ。あの侵略者共だ。村々を焼き、首都に爆弾を落とし、多くの人々を虫ケラのように殺した、あの悪魔共だ。
奴らさえ来なければ、四人の戦友も死ぬことはなかった。未来を奪われることもなかった……!
私の内側は、突如として憎悪と殺意に塗り込められた。そうだ、私は奴らを殺さねばならない! 私は
今までどこか赤軍の連中に、同じ戦う者同士として仲間意識にも似た何かを感じていた。だが、そんなものはまやかしだった。奴らはこの世から消え去るべき存在だ……
殺さねば!
それまで巻いていた白いマフラーを外すと、私は真紅のマフラーを巻いた。すると、それまでの人生で一度も抱いたことのないような、猛烈な闘志と敵愾心が湧き上がった。顔が引きつった。犬歯が伸びて、口の外へ飛び出した。
私と私の魔竜は、敵の野戦飛行場上空に侵入した。
敵飛行場は静まり返っていた。上空に敵機の影はなかった。無警戒にも、敵の戦闘機は隠蔽されることもなくズラリと列線に並んでいた。私の存在に気付いているはずなのに、対空砲は一発も撃ってこなかった。絶好の機会だった。
思わず、私は叫んでいた。
「殺してやるぞ! 皆殺しだ!」
魔竜を素早く降下させ、私は銃撃の態勢に入った。両翼の速射魔力砲が唸り声を上げて弾丸を吐き出した。突っ込んで、撃ちまくり、何度も旋回して、私は地上の敵機を次々と燃え上がらせた。列線にあった二十機近くの敵機は、ほとんどが破壊された。
私はなおも叫んでいた。
「殺してやる! 殺してやるぞ!」
心臓が爆発しそうなほどに音を立てていた。
襲撃に気付いた敵は、慌てふためいて飛行場内を逃げ惑っている。
「死ね! 死ね!」
私は、その中の一人に目をつけた。立派な飛行服を纏った、赤ら顔の、いかにも歴戦のパイロットといった感じの男だった。その男は私に向かって腰の拳銃を抜くと、敵うはずもないのに盛んに撃ちかけてきた。
「死ね!」
私は光学照準器の真ん中に男の姿を捉えると、機関砲の発射ボタンを押し続けた。発射された弾丸は、その男を粉微塵にした。
その瞬間、私の魔竜のエーテルタンクが火を噴いた。敵の対空砲が私に直撃弾を送り込んだのだった。
魔竜が悲痛な叫びを上げるのを聞きながら、私はなおも攻撃を続行した。
次々に被弾し、傷を負い、血塗れになりながら、私は気が狂ったように叫び続けていた。
「殺してやるぞ! 殺してやる! 殺してやる……!」
いや、その時の私は、本当に気が狂っていたのだろう。
☆☆☆
気がつくと、私は全身が包帯に巻かれた姿で、病室の寝台に横たわっていた。
右足の膝から下が無くなっていた。左目も見えなくなっていた。
軍医が言うには、私は一ヶ月間昏睡状態だったらしい。
ボロボロの状態で私は基地に帰ってきた。私の魔竜は、着陸直後に絶命した。座席の私も死んでいるものと思われた。だが、真っ先に駆け寄ったエルモが、私がまだ微かに息をしていることに気付いた。基地の仲間たちは大急ぎで野戦病院へ私を運び込んだ。そういう話を軍医はしてくれた。
私が目覚めたその次の日の正午に、敵との間で停戦協定が発効した。
停戦後に、エルモは真紅のマフラーを巻いて無断で出撃した。
そのことを私が知ったのは、戦後一年が経ってからだった。
エルモは帰ってこなかった。真紅のマフラーも、今度こそ帰ってこなかった。
※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。
らいん・とほたー「真紅のマフラーは凍空に舞う」作品メモ
2020年1月9日公開。
2020年に入ってから二本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「マフラー」に応募した作品です。
呪いのアイテムという使い古されたネタ。しかし世界観と叙述の仕方に工夫を加えればなかなか読めるものになるのではないか……? という、自分なりの疑問を解明するために書いてみました。私としてはなかなか楽しんで書くことができましたが、かなりエネルギーも消耗しました。やはりホラーはエネルギーを消耗します。
モチーフはフィンランド、1939年の冬戦争です。私のこれまでの作品をお読みになった方にはお分かりでしょうが、「そしてタハティが産まれた」と同一世界の話として書いております。つまり姉妹作です。
次回もお楽しみに。
※加筆修正しました。前から冒頭をちょっと書き直したいと思っていたので、今回は良い機会となりました。感謝です。(2023/07/02/日)