ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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19. レーテーより来たりしもの

 教会新暦一七四五年の、初夏のことであった。

 

「目が覚めたら白だったんです」

 

 少年ハンスは顔面を蒼白にして、開口一番私にそう打ち明けた。

 

 より詳しく話してほしいと私は言った。私の言葉に、ハンスはしばらく沈黙した。彼は全身を小刻みに震わせ、視線を診察室全体に泳がせていた。エーテル生成器、マンドラゴラやトリカブトの根の粉末の詰まったガラス瓶、一角獣の角の模型、多色刷りの人体解剖図……そのどれにも目をやりながら、彼には何も見えていないようだった。

 

 どうやら、強い緊張状態にあるようだった。

 

 急かさず、私は彼が再び口を開くのを待った。ややあって、彼は意を決したように言った。

 

「目が覚めたら真っ白だったんです。覚えていたことを、忘れてしまったんです。本当に真っ白なんです。何も思い出せないんです。入学は一ヶ月後に迫っているのに、今まで勉強してきたことが何も思い浮かばないんです……」

 

 それは、一昨日の朝に起こったという。

 

 一ヶ月後に控えたギムナジウム入学のためにこのバーベンベルク市にやって来たハンスは、その朝、いつもと何も変わりなく目を覚ました。

 

 彼はいつも、目が覚めた直後には、寝台の上で古典語の活用を口にすることにしていた。それは彼の習慣だった。その習慣のおかげで、地元の学校での古典語の成績は常にトップだったという。その朝も彼はいつも通り、昨晩覚えた単語の活用形を口に出そうとした。

 

「でも、思い出せなかったんです。不定法すら思い出せなくて……そんなことは今まで一度もなかったのに……」

 

 驚き、恐怖に駆られた彼は他の単語を試してみた。しかし、それも思い出せなかった。ごく単純な単語も思い出せなくなっていた。

 

「本当に、頭が真っ白になってしまったようで……今まで頭の中のノートにびっしりと書き付けてあったことが、何もかも消えてしまったようで……」

 

 もしかしたら時間が経過したら元のとおりに思い出すかもしれないと思い、一日を過ごしてみたが状況は変わらず、悩んだ末に私のところへ来たという。

 

 私はなるべく穏やかな口調で彼に尋ねた。今も古典語の活用が一切思い出せないのですか? 動詞「amo」の活用形を言ってごらん。

 

 ハンスは答えた。

 

「amoの直説法能動相過去完了ですか? えっと、あも、あも……あまー……ダメです、思い出せません……えっ? 現在形でも良いのですか? えっと……あもー、あまーす、あまっと……あまー……あまー……」

 

 少年の言葉は次第に弱々しくなっていった。ついに彼はすすり泣きを始めた。

 

 そんな彼を慰めつつ、私は医師として考えを巡らせていた。記憶障害なのは間違いない。だが、何が原因なのだろうか?

 

 ハンスが落ち着いてから、私は問診を続けた。何か前日に変わったことはありませんでしたか? あるいは、いつもと違うことをしませんでしたか? ハンスは答えた。

 

「いいえ、いつも通りです。いつも通り朝六時に起きて、午前も午後も勉強をして、夕食を食べてから消灯まで復習をして、それから寝ました」

 

 次に私は、何か変わったものを食べたり飲んだりしなかったかと尋ねた。

 

 この街にはモグリの薬剤師がいて、彼らは学生や生徒相手に「記憶力が向上する」という触れ込みで偽魔法薬を売りつけることがある。田舎から出てきた真面目な若者がよく騙されてそれを買ってしまうのだが、それを飲んだところで無論効果はなく、それどころか一時的な記憶障害に悩まされたりする。

 

 一種のズルに手を染めてしまったという罪悪感から、偽魔法薬を飲んだ若者はなかなかそれを打ち明けない。私は、このハンス少年もそれなのではないかと推測していた。

 

 しかし彼は、力なく首を左右に振った。

 

「いいえ、何も。おそらく先生は僕がインチキ魔法薬を飲んだとお考えなのでしょうが、僕はそんなものを決して飲みません。第一、そんなものにお金をかけるのはもったいないですし……」

 

 内心をピタリと言い当てられて、私は少なからず動揺した。そして、これほどまでに聡明な若者が突然理由なく「目が覚めたら頭が真っ白」になるという事態の異常性を、初めて認識したような気持ちになった。

 

 次に私は、家族や友人に不幸がなかったかと尋ねた。ハンスは表情を変えずに答えた。

 

「いえ、そういうこともありません。私の周りの人たちはみんな壮健です……」

 

 心因性のショックによるものでもないらしい。その後も違った角度から二、三の質問をしたが、それらしい原因は特定できなかった。

 

 ただ、ハンスが忘れてしまったのは古典語の活用だけであり、他の学問的な知識はしっかりと覚えていた。それが判明した時、彼の顔に僅かながら血色が戻った。

 

 出かかった溜息を何とか押し殺して、私はとりあえずの診断を下すほかなかった。記憶喪失を我が国では、神話に登場する「忘却の川レーテー」にちなんで「レーテー病」と呼称している。これもその一種ではないか。とにかく今は安静にしてしばらく勉強から離れること、活力が湧く魔法薬を処方する、必要ならば診断書も作成する……私はそのようなことを言った。

 

 彼は俯いたまま答えた。

 

「ありがとうございます。あっ、そう言えば……関係ないとは思いますが、その夜は何か悪夢を見たような覚えがあります」

 

 私は先を促した。悪夢とは? それはどんな夢でしたか? 彼はさらに言った。

 

「悪夢というか、気味が悪いというか……ズルズルと、何かが這いずるような音がするだけの夢でした。でも、そんなことはこの病気と関係ないですよね……」

 

 確たる診断が下せないことほど医師として悔しいことはない。悄然とした足取りで去っていく彼を見送りながら、私はレーテー病について念入りに調査しなければ、という思いを強くした。

 

 

☆☆☆

 

 

 だが、「目が覚めたら真っ白」という事態に見舞われたのは、ハンス一人ではなかった。

 

 その翌日には別の学生が来た。オットー=フリードリヒ大学で応用魔法技術を研究しているその学生は、ハンスと同じように血の気の失せた顔をして私に訴えた。

 

「目が覚めたら頭の中が真っ白で……自分が昨日描いた新型の実験器具の図面を前にしても、何も思い出せないんです。何か変わったことですか? いえ、しがない貧乏学生の日常生活にそうそう変わったことなど起きませんよ……」

 

 彼も問診の結果、忘れてしまったのはごく一部の知識だけだったことが判明したが、しかしその原因を特定することはできなかった。

 

 私の元へ訪れたのは学生だけではなかった。今度は街の工場に勤務する若い男性が、同様の症状について私のもとへ相談しに来た。

 

「俺は古代詩の暗唱を趣味にしてて、これまでにコンクールで三回も入賞したことがあるんだ。けっこう高尚な趣味だろ? 発表が三日後に迫っているから、今朝も起きたらすぐに特訓しようとしたんだが、まったく思い出せなくなっちまって……あ? 酒なんて飲んでないよ! 酒は記憶の大敵だって言うからな……」

 

 男だけではなかった。一週間も経たずして、女の中にも「目が覚めたら真っ白」になった者が出始めた。

 

 靴屋の二階で子どもたちに簡単な読み書き算術を教えている二十代の女性は、目が覚めたら、その日友人の結婚式で歌うことになっている祝い歌を、歌詞からメロディーに至るまですっかり忘れてしまったと言った。

 

「三ヶ月前から練習を積んできたんです! それなのに、たったの一晩寝ただけで忘れてしまうなんてことがあり得るのでしょうか? 本当に、忘れてるって気づいた時は頭が真っ白になったみたいで……」

 

 半月ほどの間に、突発性レーテー病を訴える人間は二十人を超した。いずれも十代から二十代の若い男女だった。全員が健康で、その前日まで何の問題もなく暮らしていた。

 

 共通点は、全員年齢が若いこと、夜寝て朝目が覚めたら「頭の中が真っ白」になったこと、忘れたものは学問的知識や教養であることの三点だった。しかし、これらの共通点から原因を導き出す仮説を組み立てることはできなかった。

 

 いや、他にも共通点らしきものならばあった。全員がそう言ったわけではないが、前夜に悪夢を見たという者が何名かいた。いずれも「気味の悪い、何かが這いずるような夢」だったと言うが、しかし夢が忘却と関連しているとは医学的見地からは考えられなかった。これまでのところ、そのようなことが医学的に実証されているわけではない。

 

 その後も患者の数は増え続け、そして患者自体も変わりつつあった。患者は次第に三十代から四十代にまで年齢層が拡大し、時には五十代以上の人間も症状を訴えるようになった。

 

 鍛冶場の親方を務める五十代の男性は、目が覚めたらその日会合で話すつもりでいたスピーチの内容をすべて忘れてしまっていた。

 

「ガキの頃から今になるまでずっと鉄と炉を相手に仕事してきて、司教様みたいに人前で偉そうに何かを喋るなんて初めてのことだったんだ。だから、スピーチをしてくれと頼まれた時から、毎日毎晩たくさん練習したんだよ。好きだった酒もやめて、ひたすらスピーチの練習をした。メモを見ながらスピーチするのは三流のやることだって聞いたから、一言一句間違えないように完璧に覚えたんだ。そしたら、目が覚めたら何も思い出せないんだよ! 先生、頼むからなんとかしてくれ……」

 

 私は頭を抱えた。ここに至って共通点から外れた患者が出てきてしまったのだ。そして未だに原因は特定できない。最初のハンスの件から一ヶ月が過ぎ、患者の数はすでに四十人を超えていた。

 

 その月のバーベンベルク市医師会の定例会で、私は突発性レーテー病について報告した。すると、私の第五区だけではなく、隣接する第一区と第四区、及び中央区からも同じ報告がなされた。そのいずれも第五区と隣接する地域である。ただ、患者数は第五区と比較して有意に少なかった。

 

 これは、謎を解く上での一つのヒントとなり得るのではないか? ふと、あることを思いついた私は、他の医師が見つめる中、卓上に市の地図を広げた。私は患者たちの所在地を赤いバツ印で地図上に示してみた。バツ印は円形に分布し、その中心はちょうど、第五区の南東にある工業排水浄化施設にあった。

 

 すぐに激しい議論が展開された。ある医師は浄化施設から漏れ出る毒素が原因だと論じ、さっそく調査すべきだと声を上げた。ある医師はそれに反対して、これは新種の伝染病であり、工業地帯である第五区から排出される瘴気(ミアズマ)が原因だと断じた。

 

 他にもさまざまな仮説が唱えられたが、大方は毒素か瘴気かの二つに区分された。

 

 だが、私はそのいずれにも与することはできなかった。毒素にしても瘴気にしても、第五区のほとんどの人間は毎日それを吸い込んでいるはずで、その割には患者の数が少な過ぎるように思われた。患者は一日に一人か、多くて三人しか増えていないのだ。他の毒素や瘴気を原因とする疾患では、より爆発的に患者数が増加するのが常である。

 

 何か別の、もっと合理的な仮説を立てねばならない。しかし、それは分からなかった。私は考えに整理をつけられないまま医師会館を辞した。診療所に帰ると、また新たな患者がやって来ていた。

 

 原因は特定できていなかったが、とにかく症状は軽減させなければならなかった。この一ヶ月の間、私は患者の失われた記憶を取り戻すべく様々な療法を試した。しかし、伝統的な瀉血から催吐剤の投与、浣腸、エーテル吸入、温水療法などは、まったく効果がなかった。私は既存の医学の限界を感じざるを得なかった。

 

 記憶喪失に対して効果のある魔法製想起薬はすでに国内で開発されていたが、バーベンベルク市にその備蓄はなく、他の市から取り寄せるしかなかった。私はそれを発注した。私は実りのない治療を繰り返しながら、それが届くのをじりじりと待った。苛立ちに比例するかのように、夜、私の飲む酒の量は増えた。

 

 そうこうしている間に、第五区で大事件が起きた。市評議会議長が記憶を失ってしまったのだ。

 

 前日夜、議長は第五区にある友人宅を訪れ、夜遅くまで政治的な議論に熱中した。帰るには遅い時間であったから、議長は急遽友人宅で一泊することにした。翌日は戦勝記念日であり、議長は中央区の議事堂で演説をすることになっていた。議長は寝台に横になるなり、すぐに寝てしまった。

 

「だが、目が覚めてみると、演説の内容をすべて忘れていたのだよ。前夜友人の前で演説の予行までしたのだから、覚えていないはずがないのだが……何? 今レーテー病が第五区で流行っている? そんな報告は受け取っていないぞ!」

 

 私は市の衛生委員会に突発性レーテー病に関する報告をこまめに送っていたが、衛生委員会は議長へ報告するのを怠っていたらしい。議長は激怒した。彼はただちにより大規模な対策を講じるように衛生委員会に命じた。だが、大規模な対策といったところで、結局実際の治療に当たるのは私たち末端の医師なのである。

 

 今回の一件で、第五区を襲っている異常事態は急速に全市に認識されることになった。第五区は「忘却の街」と呼ばれるようになり、市民は記憶を失うことを怖れて第五区から遠ざかるようになった。

 

 私は、第五区の健康と医療を司る者として忸怩たる思いに駆られたが、しかし未だに原因を特定することもできず、対症療法を確立することもできなかった。衛生委員会は毎日のように私に報告を求めた。ますます、私は夜に飲む酒の量が増えていった。

 

 それから二週間後になって、待望の想起薬がバーリン市から届けられた。まず被験者を選定して、投与の効果を見極める必要があった。患者たちのほとんど全員が名乗りを上げたが、私は結局一人の少年を選んだ。

 

 それはハンスだった。もう二ヶ月近くの時間が経っていたが、彼の古典語の記憶は未だに戻っていなかった。彼は想起薬が届けられたその日に私のもとにやってきて、自分を実験台にするよう熱烈に訴えた。

 

「どうなっても良いです! どうか僕を選んでください!」

 

 私が彼を選んだのは彼のその言葉も理由の一つだったが、より大きな理由は政治的な力学だった。というのは、ハンスは市の有力者の甥だったからである。この間の事情について、私はあえて多くを書くつもりはない。

 

 結果から言うと、想起薬は効果がなかった。想起薬は精神上に存在する障壁を魔術的に取り除くことで、塞がれていた記憶の回路を開通させるという薬理作用を持つと説明されていたが、ハンスの古典語の記憶はまったく戻らなかった。

 

 その他、三人の被験者に想起薬を投与したが、効果は認められなかった。部分的に記憶が戻るということすらなかった。

 

 私の報告を受けて、医師会は「想起すべき記憶そのものが『白に塗り替えられたように』抹消されている故に、想起薬は効力を発揮しない」という公式見解を表明した。だが、そんなことは事態の解決に何も寄与しなかった。

 

 なおも突発性レーテー病患者は増え続け、第五区からは住民の脱出が相次いだ。なにも、生きる上で必要不可欠な知識が失われるわけではない。だが、どんなものにせよ記憶が突然理由もなく失われるのは恐ろしい。

 

 それは静かな恐慌だった。通りからは人気(ひとけ)が消え失せ、商店や居酒屋への客足は遠のいた。経済的損害は甚大なものとなったが、それ以上に人心の荒廃が問題となった。

 

 毒素説や瘴気説を裏付ける証拠も見つからなかった。調査の結果、第五区の浄化施設は、汚染というほどには汚染されていないことが分かった。また、未知の毒素も検出されなかった。瘴気に関しても同様だった。

 

 ここに至って、原因究明は完全に暗礁に乗り上げた。私は無力感に打ちひしがれ、酒量を過ごすことが多くなった。いっそのこと、私自身が記憶を失ってしまえば良い。それなら少しは申し訳が立つ。そんな絶望的な気持ちだった。

 

 ハンスの来訪から三ヶ月が経過した。季節は秋になりかけていた。

 

 ようやく、事態が大きく動いた。

 

 その日の午前、ある患者が記憶障害を訴えて私の診療所を訪れた。彼は非常に興味深い事実を報告した。

 

「前日の夜に、自宅の外壁のペンキを塗り替えたんです。ここ最近の騒ぎで塗装屋が全員いなくなってしまったので、自分でペンキを調達して、自分で壁を塗ることにしたのですが、仕事の関係で作業を始めることができたのは夜になってからでした。適当なところで切り上げてその夜はもう寝ることにしたんですが、朝目が覚めてみると枕元に見たことのない本があるんです。妻に聞くと、それは前日まで私が熱心に読んでいた本だとのことで……」

 

 ここまでは他の患者たちとほとんど同じであった。だが、次に彼が言ったことが重要だった。

 

「妻が『あなた、その髪の毛はどうしたの?』と言うんです。鏡で見ると、私の髪や耳が青くなっていました。特に、両方の耳の穴の周りが真っ青になっていて……どこかで見た色です。しばらく考えて、これは昨日のペンキだと気づきました。他に調べてみると、床や寝台にもペンキが残ってましたし、塗り替えた外壁にも何かが這いずったような跡がついてました。先生、これはどういうことなんでしょうかね……?」

 

 話を聞いて、私は即座にその患者の家へと向かった。直感的に、「これはなにかある」と私は思っていた。彼の家は排水浄化施設から三ブロックの距離の、集合住宅の二階にあった。彼の証言通り、塗り立ての青のペンキの上には、何かが這ったような跡が二本あるのが確認できた。

 

 ペンキの跡を追うと、それは街路の排水溝へと消えていた。

 

 患者はその夜、窓を開けていたという。その年は異常気象で、気温は例年よりも高かった。かなり耐え難い暑さだった。私も、夜はいつも窓を開けていた。それは私の習慣にないことだった。私のみならず、それは他の市民の習慣にもないことだった。夜は必ず窓を閉めるというのが、このバーベンベルク市の市民というものだった。なぜなら、夜の外気は体に毒であるという観念が市にはあったからである。

 

 突如、私の脳裏に閃くものがあった。これまで原因が掴めないでいた突発性レーテー病、それは、実のところは病気ではないのではないか?

 

 病気ではないのならば、それは何なのか? 私は、ペンキの跡を再度見た。それはどこか生々しかった。どこか、生き物の気配が感じられた。そう、それは病気ではなく、未知の魔法生物による災害なのではないだろうか?

 

 魔法生物! 夜と共にいずこからやってきて、開け放たれた窓から入ってくる、なんらかの魔法生物ではないか?

 

 思えば、患者たちの中には「何かが這いずるような音」がする悪夢を見たと訴える者がいた。それは単なる夢ではなく、魔法生物の活動の証拠だったのではないか?

 

 魔法生物は排水溝から現れ、建物の外壁を登り、開いた窓から侵入して患者に接近し、なんらかの方法で記憶を奪うのではないか? 私はそのように仮説を立てた。仮説はかなり筋道が通っているように感じられた。

 

 私は診療所に帰ると、これまでの記録をすべていちから見直した。そして一週間をかけて、私はその正体不明の敵を捕獲する方法を考え出した。

 

 協力者を募り、道具を用意して、私は準備を整えた。まず、私は排水浄化施設にほど近い場所に一室を借り、部屋の中心に寝台を一つ設置した。

 

 次に窓を開けはなち、床一面にはコールタールをぶ厚く塗布した。コールタールは粘度が高い。もし体に付着すれば、行動は著しく制限されるだろう。

 

 後は、夜を待つだけであった。私は寝台に横になった。協力者たちには別室に待機してもらい、交代で私の部屋を監視してもらうことにした。

 

 私自身が囮となるのである。

 

 酒は飲まなかった。というのは、この三ヶ月の間、私は焦りと苛立ちから毎晩酒を飲み続けていたが、実はそれが魔法生物を遠ざけていたのではないかと考えられたからである。

 

 患者たちは全員酒を飲まないか、あるいは記憶を失った夜に限って酒を飲んでいなかった。酒を飲まないことが魔法生物出現の前提条件の一つではないか? それは充分に考えられることだった。アルコールを嫌う魔法生物は数多く存在するからである。

 

 寝台に横になってから、二時間が経過した。日は暮れて、外は暗かった。窓からは涼しい初秋の風が入ってきた。

 

 必ず魔法生物は来る。私には確信があった。というのは、私ほど現在「新鮮な知識と記憶」を蓄えている者は第五区にはいないからである。

 

 これまでの考えの中で、一つのミスを犯していたことに私が気がついた。それは、患者たちの失われた記憶を「学問的知識や教養」と一括りにしていたことである。しかし、よくよく考えれば歌はまだしも、スピーチや演説などは、明らかに学問的知識や教養とは別の範疇に属するものである。

 

 問題なのは記憶の内容ではなく、その鮮度なのではないか? 精神力を傾けて覚えたもの、まさに覚えたてのもの、そういったものが失われているのではないか? 鮮度の高い記憶を、魔法生物は好むのではないか?

 

 その点、私は特に当てはまる。この一週間、私は全精神力を費やして魔法生物捕獲について考えを巡らせてきたのだ。今の私の頭脳からは、新鮮な記憶の気配が濃厚に漂っているはずである。アルコールの障壁もなしに、私の記憶はよい香りを漂わせているだろう。

 

 そんなことを考えているうちに、私は眠りに落ちていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 目が覚めたら白だった。

 

 寝起き直後のはっきりとしない視覚に、その部屋の照明は少々眩し過ぎた。

 

 協力者たちの歓声が私の耳を打った。

 

「やった、捕まえた! 捕まえたぞ!」

「先生、やりました! 捕まえましたよ!」

 

 コールタールで真っ黒になった何かの塊が、協力者の手の中でのたうちまわっていた。

 

 第五区を騒がせた一連の事件の犯人が、ようやく明らかになった。

 

 調査の結果、以下のことが明らかになった。

 

 その魔法生物は巨大なカタツムリのような姿をしており、大きさはドブネズミほどもあった。しかしながらその動作は俊敏で、這う速度は人間の歩みとさほど変わらなかった。

 

 魔法生物は眼以外に細長い触角を二本備えており、これを人間の耳の穴に挿入することで記憶を奪うことができた。このことは囚人を用いた実験で確認された。仮説の通り、奪われる記憶は「覚えようと特に努力したもの」に関連したものだった。また、アルコールを嫌うことも確認された。

 

 この魔法生物には姿を消す能力があった。ペンキやコールタールが付着して初めて存在を認識できるほどに、その能力は効果的だった。

 

 夜行性で、昼間は水の中で息を潜めているか、あるいは繁殖行動を行う。単体で子を産むことができた。更なる調査の結果、その営巣地が浄化施設内にあることが判明した。その中には八つの成体と、十の幼体が確認された。

 

 一週間後、真犯人が捕らえられた。それは、第五区にある魔法生物販売店の店主だった。彼は小アジアの某国からこの魔法生物を輸入し、商目的ではなく個人的な趣味で飼育していた。ある日、気がついたら魔法生物は飼育箱から居なくなっていた。探しようがないので、彼はそのまま諦めてしまったという。

 

 原産地において、この魔法生物は「サリャンゴ」という名で呼ばれているとのことであった。店主は裁判にかけられ、罰金刑を宣告された。

 

 魔法生物は一体を除いてすべて解剖され、標本資料とされた。

 

 残った一体はオットー=フリードリヒ大学自然科学研究所で飼育されていたが、失火により二年後に死亡した。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「レーテーより来たりしもの」作品メモ

 2020年1月22日公開。

 十六本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「目が覚めたら白」に応募した作品です。

 以前コンテストのお題として「白」があり、その時は「真っ白なマナ」を書いたのですが、まさかのもう一度の「白」関連で、公表された時は大変驚くと共に「もうネタないよ!」と思いました。

 なかなか考え付くことができず、締切一週間前までほったらかしにしてましたが、これではイカンと知恵を絞ってアイデアを出しました。一つはギャグのような感じで、死と退廃をつかさどる黒の女神が目が覚めたら白になっていた、というもの。もう一つはメモを取っていなかったので失念しましたが、確か目が覚めたら真っ白な部屋に閉じ込められていて徐々に発狂していく、というような内容だったと思います。

 二つともピンとこず、というより書く気が起こらず、さてどうしたものかとなった時に「目が覚めたら『記憶が抜けている』=頭が真っ白」というのはどうだろうと考え付きました。なお当初は女神レーテーが登場する予定でした。

 次回もお楽しみに。

※加筆修正しました。(2023/07/03/月)
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