ラインの娘   作:ほいれんで・くー

22 / 40
22. ボクのマルタ、私のマルタ

 アングリアの空から降る雨は、長くしつこい。この時期の雨は特にそうだった。霧のように細かな雨粒が風に煽られながらふわふわと落ちてきて、ようやく伸び始めた新緑の草花をびっしょりと濡らしていた。そんな雨だけれども、それほど陰鬱ではないし、むしろ爽やかな感じさえする。

 

 でも、ボクはなんとなく憂鬱だった。いや、どちらかと言えば不安な心地がしていた。理由のない、上手く言い表すことのできない不安感が、今朝からずっとボクの心の中を満たしていた。

 

 初夏の雨を浴びようとして、幼い仲間たちは狭い格納庫から外に出て、きゃあきゃあと歓声を上げていた。彼女たちは芝の上を転げ回ったり、翼をバサバサと羽ばたかせたり、仲間同士でじゃれあったりしていた。

 

 ボクたちはまだ若かった。体はとても大きくて、いつもエネルギーを持て余していた。許されるならば毎日でも出撃をして、果てしない大空を急上昇したり急加速したり、敵を追いかけ回したりしてエネルギーを発散させたかった。

 

 少し離れたところに、何人か男の人が立っていた。彼らは黒い傘をさしていて、嫌な臭いのするタバコを吸いながら、ボクの仲間たちが遊んでいるのを飽きることなく眺めていた。

 

 ボクの耳は、彼らが会話する低い声をしっかりとキャッチすることができた。ボクは意識を集中させた。

 

「こんな雨の日なのに、ドラゴンというのはまったく元気で無邪気なもんだ。うちの子犬と変わらないよ」

「子犬にしちゃあ少し大きすぎるがな。うっかりじゃれつかれでもしたら死んじまう」

「聞いたところによると、サーカス団員の中で一番死にやすいのは調教師らしいな。子どものドラゴンに懐かれて、じゃれつかれて、潰されちまうらしい」

「へえ、割に合わねぇ仕事だな。ドラゴンを扱うってのに。どうせ危険手当も出ねぇんだろ……」

 

 あまり面白い話でもなかった。期待を裏切られたような気がして、ボクはがっかりしてしまった。気を取り直して、ボクは読書に戻ることにした。目の前には大判の聖書が書見台に拡げられていた。この聖書は、二ヶ月ほど前から読み始めたものだった。

 

 ふっと軽く息を吹きかけてページをめくると、そこにはちょうど、こう書かれていた。

 

「『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである』」

 

 その言葉に、ボクはハッと胸をつかれる思いがした。マルタ、それはボクの名前だった。まるで聖書の中で、ボク自身がそう言われたかのような気持ちがした。

 

 多くのことに心を配って思い煩っている……たしかに、その通りかもしれない。ボクは他の仲間たちと比べて頭が良い。だから、ボクは人間たちのように考えて、人間たちのように思い悩んでいる。今日だって何も考えずに外に出て、気持ちの良い雨を思う存分浴びれば良いのに、なんだか不安な気持ちが消えなくて、たった一人で格納庫に残って、こうして聖書を読んでいる……

 

 その時、コツコツとコンクリートを踏む足音がした。足音はこちらへとやってくるようだった。ボクは長い首を巡らせてそちらを見た。

 

 そこにいたのは、もう一人のボクだった。

 

 それは小さくて翼を持たない、スラリと細い体をした、人間のボクだった。それはマルタ、もう一人のマルタだ。長くて綺麗な金髪、雪のように真っ白な肌……氷のようにキリリとした顔立ちなのに、目つきはどこまでも温かい。優しくて甘い、人間の女の子の匂いがする。彼女はかっこいい黒い軍服の上に、茶色の飛行ジャケットを羽織っていた。

 

 マルタはボクの顔のそばに立つと、そのほっそりとした手と指で、ゆっくりと体を撫でてくれた。低く、それでいてよく通る声で、彼女はボクに話しかけた。

 

「聖書を読んでいたのか、マルタ。偉いぞ。でも、仲間たちと一緒に外で遊ばないのかい?」

 

 今日はあまり気分が良くないの。そういう気持ちが、フンとボクの鼻から漏れ出た。息は聖書にぶつかって、パラパラとページを送らせた。

 

 そんな様子を見て、マルタは苦笑いをした。ボクを撫でつつ、彼女は言葉を続けた。

 

「そうかそうか。まあ、気分が乗らないのなら仕方ない。それに、君は頭が良いからな。他の娘たちとは気が合わないんだろう。ところで……」

 

 一旦言葉を切ると、彼女は歩いてボクの正面に回った。そして、その紫色の瞳でボクの目を覗き込むと、一段と真剣な面持ちをして言った。

 

「ところで、マルタ。明日の作戦はちょっと厄介そうなんだ。もしかしたら、これまでのどんな戦いよりも(つら)いものになるかもしれない。私も全力を尽くして戦うつもりだ。マルタ、君も頑張ってくれるね? この戦争に生き残って、生まれ故郷のポルスカに帰るために、君も私に力を貸してくれるね?」

 

 もちろん! ボクはゆっくりと、右目だけで瞬きをした。マルタはふっと笑ってくれた。

 

「いい子だね、マルタ。とっても素直で、頑張り屋さんのマルタ、もう一人の私……心配しないで。私と君なら、絶対にニェムツィ人たちの空から生きて帰ることができるさ……」

 

 マルタの声は、ボクの心に染みわたっていった。あたかも、雨が大地を濡らして潤いを与えるのと同じようだった。朝からなんとなく気もそぞろで落ち着かなかったボクの精神は、いつの間にか、朝焼けに照らされた静かな海辺のように平穏を取り戻していた。

 

 子守歌を歌うように、マルタがボクに囁いた。

 

「私たちは、ずっと一緒だ。これからも、そして死ぬ時も一緒だ……」

 

 

☆☆☆

 

 

 六年前に、ボクはこの世に生まれた。人間たちの暦では一九三七年のことらしい。東エウロパ大陸のポルスカ国、その中央を流れる大河ヴィスワ川のほとりにあるマルボルクという街の外れで、ボクは生まれた。

 

 生まれて初めてボクが見たのは、人間の女の子だった。女の子は何も服を着ていなくて、裸だった。女の子は、なぜか目を(ぬぐ)っていた。生まれたばかりのボクの鼻は、なにやら湿っぽい匂いを嗅ぎ取っていた。涙という言葉は、その時のボクはまだ知らなかった。

 

 女の子は手を伸ばして、卵から出たばかりで粘液にまみれているボクを抱き上げると、そっと抱き締めて頬をすり寄せてくれた。やがて、彼女は言った。

 

「よく生まれてきてくれたね、待っていたよ。私はマルタ。マルタ・コニェツポルスキ。これからはずっと、君と一緒だよ」

 

 柔らかい唇で、マルタはボクにそっとキスをした。なんでそんなことをするのか、その意味が分からなくてボクはただ目を瞬かせていた。でも、それはまったくいやな気分ではなかった。彼女はさらにボクを持ち上げて、自身の眼前に掲げた。彼女はボクのことを隅々まで見た後に言った。

 

「……ふむ、たしかにないな。やはりハイブリッド種はすべてメスなのか……ああ、ごめんね。君は女の子なんだね。なら、名前はどうしようかな……?」

 

 突然不安定な体勢になった上に、心地よい温もりも消えてしまって、ボクはとても不安な気持ちになった。それを紛らわせるためにボクは短い両脚をバタつかせた。喉からキィキィ、ピィピィという声が漏れた。

 

 マルタは言った。

 

「ああ、すまない。よしよし、良い子だ……」

 

 マルタはまたボクを抱いてくれた。ふっくらとした胸がボクを優しく包んだ。それからしばらくマルタは無言で何かを考えていた。

 

 やがてボクを抱き直して目と目を合わせると、彼女はゆっくりと言い聞かせるように言葉を発した。

 

「決めた。君の名前はマルタ。私と同じ名前だ。飛行士とドラゴンとは一心同体で、何があっても決して離れない。飛行士とドラゴンの仲は、血筋よりも濃くて親子よりも強い絆で結ばれている。だから、君のことは私と同じ名前で呼ぶことにするよ」

 

 そして彼女は、それから何度も見ることになる、彼女特有の優しいながらも気高い笑みを浮かべた。

 

「これからよろしくね、マルタ」

 

 ここまでのボクの語りを聞いて、ドラゴンというものは生まれた直後からずいぶんとはっきりと物事を見ることができて、言葉もしっかり操ることができるものだと感じる人もいるかもしれない。だけど、それは間違いだ。ボクは普通のドラゴンと同じく、いや、それどころか、普通の人間の赤ん坊と同じく、生まれたその時はボンヤリとしていた。

 

 このように語ることができるのは、ボクが人間の言葉を知っていて、それによって記憶を再構成することができるからだ。

 

 ボクは、普通のドラゴンとは明らかに違っていた。例えば、他の子たちの頭には角が二本しか生えていないのに、ボクの頭には角が三本生えていた。それに何より、ボクは人間の言葉を自然と理解することができた。

 

 マルタがボクに言葉を教えてくれた。彼女はいついかなる時でも、ボクを抱いて、ボクに話しかけてくれた。彼女は散歩をしながら、花の名前や動物の名前、天気や風の名前をボクに教えてくれた。夜になると、彼女は絵本を読み聞かせてくれた。ボクがそのうち大きく重たくなって腕に収まらないようになっても、彼女は言葉を教えるのをやめなかった。こうしてボクは、徐々に人間の言葉を学んでいった。

 

 ある日、枯れ草色をした立派な軍服を着た男の人がやってきて、マルタに話しかけた。その時のことはよく覚えている。男の人は言った。

 

「コニェツポルスキ少尉、もう一人のマルタの具合はどうだね? 順調に成長しているかね?」

 

 マルタはかっこよく背筋を伸ばして答えた。

 

「戦隊長殿、もう一人の私はすくすくと成長しております。今でははっきりと、人間の言葉を理解しております。空を飛べるようになるまでに、十歳児相当の語彙力を獲得できるでしょう」

 

 男の人は大きく頷いた。

 

「なるほど、素晴らしいな。流石は特別に取り寄せたアングリア・フランツィアのハイブリッド種だ。もしドラゴンが自律的思考能力を獲得することができれば、空中戦において既存のあらゆる兵器を凌駕する戦闘力を発揮できるだろう。何しろ、高性能な火器管制装置を積んでいるようなものなのだからな……ふむ、素晴らしい。素晴らしいドラゴンだ」

 

 男の人は何度も「素晴らしい」という言葉を繰り返した。マルタが言った。

 

「ええ、私の自慢の娘です」

 

 マルタの言葉を聞いて、男の人は笑った。

 

「ハハハ! 君はこのドラゴンを『娘』と呼ぶのか! 自分の素肌の温もりで卵を孵したのだから、それも当然といえば当然か。やはり君に任せて正解だった。これからもしっかりと頼むぞ。最近は国境の空が怪しい。いつニェムツィ人とZSRRの連中が攻めてくるか分からん。噂によれば、どうやら奴らは秘密協定を結んだらしいからな……」

 

 マルタはいつも、ボクのことを自慢の娘と呼んでくれた。けれども、ボクはあまり自分のことを誇れなかった。というのは、ボクは臆病で怖がりな性格をしていたからだ。

 

 まだ飛ぶことができず、しかしもう自分の両脚で歩けるようになったある日のことだった。ボクはマルタと一緒に草原を散歩していた。ちょうど花々が綺麗に咲き乱れている頃で、ボクはその香りを楽しみ、周りを飛ぶ虫たちの乱舞を眺めながら歩いていた。

 

 突然、目の前に飛び出してきたものを見て、ボクは体も心も凍りついた。

 

 それは猫だった。大きな黒猫で、耳の片方が裂けていた。その口にはすでに息絶えている野ウサギをくわえていた。野ウサギの死体からは、赤い血がぽたぽたと滴っていた。どうやら黒猫は、狩りを終えて寝ぐらに帰るところのようだった。

 

 思わず、ボクの口からピィッという鳴き声が漏れた。野ウサギから流れ出る血の臭いはあまりにも強烈で、生臭かった。それに、ボクにはその猫の極端に細い瞳がとても恐ろしく感じられた。ボクは大急ぎでマルタの足元に駆け寄ると、頭を彼女の靴の間に潜り込ませた。

 

 そんな怖がりのボクにマルタは呆れることもなく、しゃがみこむと、頭をそっと撫でてくれた。

 

「よしよし、怖がることはない。あれはただの猫だ。君よりも体が小さくて、爪も牙も短い。何も怖くないぞ。ほら、もうあっちへ行ってしまった……」

 

 体がもっと大きくなって、翼が伸びて、爪も牙も鋭くなって、空を自由自在に飛べるようになってからは、ボクの心も少しは強くなった。少なくとも、ちっぽけな猫にまで怯えるような臆病さは消えた。けれども、怖がりなのはあまり変わらなかった。

 

 初めて空中射撃の訓練に出たその日、ボクは吹き流しの標的を曳航する飛行機の爆音が恐ろしくて、顔を真っ直ぐにしていられなかった。ボクの飛行は乱れがちになって、照準がどうしても定まらなかった。

 

 でも、ボクの背中の操縦席に座っているマルタは苛立つこともなく、ボクを叱咤激励してくれた。

 

「もう一人の私よ、怖がるな! あんなのはただの機械だ! 変な音を立てるだけの、ただの機械! 君は大空の支配者であるドラゴン、機械なんて敵ではない! さあ、顔を真っ直ぐにしろ! 弾を当てるんだ!」

 

 不思議なことに、マルタの声を聞くとボクの心はいつも安らかになる。その時も、そう言われた直後から、ボクは前を飛ぶ飛行機がまったく怖くなくなった。ボクはぴったりと吹き流しの後方三十メートルにつけることができた。マルタは冷静に発射ボタンを押して、五十発の訓練弾のほとんどを標的に命中させた。

 

 ボクはその後もマルタと一緒に飛び続けた。ある時は単騎で、ある時は他のドラゴンと飛行士たちと一緒に編隊を組んで、ボクは色んな飛び方を学んでいった。急上昇、急旋回、急降下……どの飛び方も面白かった。息も凍るような高高度と、地虫も見えるほどの低空をボクとマルタは飛んだ。日差しの強い昼間と、星々の煌く夜空をボクたちは飛んだ。機関砲の撃ち方、写真の撮り方、爆弾の落とし方……いろんな戦い方をボクたちは学んだ。

 

「すべては敵を倒すためだ。マルタ、君は戦うために飛ぶんだよ」

 

 マルタはしょっちゅうボクにそう言った。敵というのはよく分からなかったけれども、ボクは彼女のことを信じていたし、彼女と一緒なら何も怖くはなかった。敵を倒すのも、たぶん吹き流しを撃つのとそんなに変わらないのだろうと思った。

 

 そんな生活が二年続いた。ボクはマルタになって、マルタはボクになっていた。ボクたちの区別は曖昧になっていた。それほどまでに、ボクたちの心はぴったりとひとつになっていた。

 

 そして、ついに敵がやってきた。

 

 その前の夜から人間たちは苛立っていて、ピリピリとした雰囲気が飛行場に漂っていた。明け方、耳障りなサイレンの音が響きわたると、ほどなくして人間たちがバラバラとどこかから駆け寄ってきた。集まった人間たちはまた散って、どこかへ去っていった。

 

 少し経ってから、薄く油の臭いのする青い服を着た整備兵たちがやってきて、ボクたちの背中や翼に次々と装備を取り付け始めた。混合濃縮エーテルタンクの中身が満たされて、機関砲には弾帯が挿し込まれた。重たくて分厚い装甲板が操縦席の周りに立てられて、ボクの頭にも鋼鉄製のヘッドギアが装着された。その重さはどこか心地良かった。

 

 周りの子たちはガチャガチャと体を捩り、ギャアギャアと鳴き声を上げて騒いでいた。でも、時間が経つにつれて、次第に彼女たちは大人しくなっていった。その代わりに漂ってきたのは、不安な気持ちの混ざった匂いだった。これからどうなるんだろう? なんだか、落ち着かないな。匂いはそう語っていた。みんな、自分のパートナーが来てくれるのを待っていた。

 

 半時間ほどしてから、飛行士たちがやってきた。全員暖かそうな飛行服を着ていて、純白の長いマフラーを首に巻いていた。マルタの出で立ちもまったく同じだった。彼女はボクの頭をいつものように優しく撫でると、目を覗き込みながら、なんということはないというふうに言った。

 

「いよいよ敵が来たよ、マルタ。大丈夫、訓練通りにやれば何も問題はない。帰ってきたら、美味しいお肉を食べさせてあげるからね」

 

 返事の代わりに、ボクはフンと一つ鼻息を吐いた。マルタは満足そうに頷いた。

 

「さあ、行こう。侵略者たちに『ポルスカ空軍ここにあり!』と思い知らせてやるんだ!」

 

 その日、ボクとマルタは初陣でありながら、敵であるニェムツィ人の大きな爆撃機を一機と、小さな戦闘機を二機撃墜した。

 

 初めに見えたのは、爆撃機の大編隊だった。それはボクが初めて目にする敵だった。見た目には、あまりボクたちの飛行機と違いがなかった。ボクは匂いを嗅いだ。匂いも、あまり違いがなかった。でも、それは間違いなくボクたちの敵だった。敵からは、刺すような殺気が感じられた。目には見えないし、匂いにも嗅げないけれど、それは間違いなくボクに感じられた。

 

 訓練通りにボクは体を動かして射撃位置についた。背中のマルタは狙い澄まして機関砲を発射した。爆弾をたくさん抱えた爆撃機はボクたちの射撃を受けると、鉄の翼の付け根からメラメラと真っ赤な火炎を吐き出して、数秒後には大爆発を起こした。

 

 自分たち自身でそんなことをしでかしておきながら、ボクは呆然とそれを眺めていた。敵というのは、こんなにも脆いのか。そう思った。周りを見ると、仲間たちも次々と敵を爆発させていた。地上には撃ち落とされた敵機の残骸が突き刺さっていて、真っ黒な煙を上げていた。

 

 急に、上空に何かの気配を感じた。それと同時に、背中のマルタが鋭く叫んだ。

 

「マルタ、上だ!」

 

 操縦桿の指示が翼に伝わるのを待つまでもなく、ボクは体を急旋回させた。その次の瞬間、緑色の細かなシャワーが、それまでボクの翼があったところを通り抜けていった。敵の戦闘機が上から撃ってきたのだった。

 

 それからは、無我夢中だった。ボクたちと敵とは狭い空に入り乱れて、追いつ追われつ、撃ったり撃たれたりを繰り返した。いつの間にか敵は消えて、空は静かになった。その後、ボクとマルタは飛行場に帰った。

 

 地上に降り立つと、操縦席から下りたマルタが、労うようにボクの頭にポンポンと手を当てた。

 

「よくやったね、マルタ。明日もこの調子で頼むよ……」

 

 ボクたちはそれから一ヶ月あまりの間、毎日飛び続け、毎日敵と戦った。

 

 マルタのおかげでボクは傷一つ負わなかった。ボクたちはかなりの数の敵を撃ち落とした。でも、仲間たちは次第に減っていった。

 

 珍しく出撃のなかった日、格納庫で上等な肉を食べているボクのところへマルタがやってきた。彼女は笑みを浮かべながら、ボクに新聞を見せてくれた。

 

「これを読んでごらん、マルタ。私たちのことが書かれているよ」

 

 ボクはマルタから文字を教えてもらっていたし、毎日暇があれば本を読んでいたから、難なくそれを理解することができた。新聞には、最初に大きな文字でこう書かれていた。

 

「空の有翼騎兵、歴史的大勝利!」

 

 その下に、細かい小さな字でこう書かれていた。

 

「卑怯卑劣にして残虐なるニェムツィ軍に対し、我が軍は陸に空に必死の戦いを繰り広げているが、その中でも輝かしき戦功を打ち立てているのが『空の有翼騎兵』として名高い飛行第一一一中隊である。中隊はすでに大小合計二百もの敵機を撃墜している。特に目覚ましい活躍をしているのは女性飛行士であるマルタ・コニェツポルスキ中尉で、彼女は自身と同じ名であるドラゴン『マルタ号』に騎乗して、これまでに爆撃機五機、戦闘機九機を撃墜している。二人のマルタは、まさにポルスカの空の守護者であろう……」

 

 誇らしい気持ちがボクの中で膨らんだ。ふんと鼻息を漏らすと、新聞紙は遠くへ飛んでいってしまった。それを見たマルタは声を上げて笑っていた。マルタがそんなふうに笑うのは、とても久しぶりなことだった。

 

 ずっとこうしてマルタと一緒に飛び続けることができて、戦い続けることができれば良かったのに……状況はそれを許さなかった。ポルスカ軍の決死の抗戦も虚しく、ニェムツィ軍は進撃を続けていた。ブズラ川でボクたちの軍隊は破滅的な大敗北を喫した。その上、東の国境からはZSRRの真っ赤な軍隊が押し寄せていた。

 

 ボクたちドラゴンと飛行士は、外国に脱出することになった。

 

 最後の日、マルタはボクに、首都ヴァルシヴァの上空へ飛ぶように言った。眼下の市街地は連日のように爆撃を受けていて、その日もところどころに火災が起きて黒い煙を上げていた。

 

 死にかけている街を、しばらく二人で眺めた。その後、マルタが呟くように言った。

 

「父さん、母さん、妹たち。みんな、さようなら。どうかお元気で。私たちはいつか、きっと帰ってきます。きっと生きて帰って、またみんなに会いに行きます。それまで、どうか生き延びてください……私たちはきっと、戦い抜きます」

 

 それからボクたちは山を越え、海を越え、いくつもの外国を転々とした。一年後、ボクたちはエウロパ大陸の西の海に浮かぶ島国、アングリアに身を落ち着けることになった。

 

 ちょっとだけ、ボクたちは休むことができた。こんなに離れたところにも、敵はしつこくやってきた。空を覆い尽くすほどの爆撃機の群れと、それを守る無数の戦闘機がこの島の空へと飛んできた。敵は爆弾を落としてアングリアの街を焼き、多くの人を殺した。ボクたちは外国人航空隊の一員として敵を迎え撃った。

 

 時間がいつの間にか過ぎていた。一九四三年になった。ボクとマルタは元気だった。ポルスカから一緒に飛んできた仲間たちの多くは死んでしまって、ほとんど残っていなかった。ボクを除いて、中隊のドラゴンたちは新しく生まれた子たちへと交代していた。

 

 たくさん殺されて怖くなったのだろうか、敵は飛んでこなくなった。代わりに、ボクたちが敵の国の空へ攻め込むようになった。遠い遠い敵の都市へ爆弾を落としに飛んでいく、アングリアの大型爆撃機を護衛するのがボクたちの任務となった。

 

 味方を守って飛ぶ夜空は、明るい月と満天を彩る星々が美しかったけれども、危険も多かった。地上からは真っ白なサーチライトが伸びてきて、それに捕まると高射砲の射撃が飛んでくる。空には敵の夜間戦闘機がうようよしていた。油断しているとすぐに殺されてしまう。

 

 燃え盛る地上からは、焼けて焦げた肉の臭いが絶えることなく漂ってきた。それは混合濃縮エーテル液の甘い匂いと混ざって、ひどい悪臭になるのだった。ボクはその臭いが大嫌いだった。

 

 マルタは「こんなのは私たちの本来の任務ではない」とよく言っていた。彼女が言うには、ボクたちが実力を発揮するのは戦闘機相手の戦いであって、護衛任務ではないとのことだった。でも、機械でできた普通の戦闘機の三倍以上の距離を飛べるドラゴンにしか、爆撃機の護衛はできない。だから仕方がないのだと、彼女は諦めたようにいつも言っていた。

 

 任務を重ねるうちに、ボクは次第に消耗して、元気が無くなってきた。

 

 前までは、ボクは空を飛ぶのが大好きだった。敵を追いかけるのも怖くなかった。それなのに、最近はどうしても気が進まなかった。肉もそれほど食べたいとは思わなくなってしまった。マルタが飛んでくれと言うから、ボクはなんとか飛んでいるような状態だった。マルタのためなら、ボクは飛ぶことができた。でも、ボクはもう、ボクのために飛びたいとは思わなかった。

 

 そんなボクを見かねて、ある日マルタは「散歩に行こう」と言ってくれた。

 

 任務でも訓練でもない、思うまま自由に大空を飛び回る散歩に行こう。マルタはボクを優しく撫でながらそう言った。ボクは嬉しくなって、ゴロゴロと喉を鳴らした。

 

 ボクはマルタを背中に乗せて、空へと飛び上がった。人間が生きたまま焼かれる臭いもせず、上からも下からも撃たれることがない飛行は、とても楽しかった。午後だった。海岸線が蛇のように伸びていた。海の波が午後の金色の日差しを受けて、きらきらと光を反射して輝いていた。平穏なアングリアの空をマルタと一緒に駆け抜けるのはとても気分が良かった。夢みたいだった。

 

 操縦席のマルタからも、楽しげな様子が伝わってきた。彼女は言った。

 

「気持ちが良いね、マルタ。ここ最近は過酷な戦いばかりで、君には苦労をかけてしまった。いつか世界が平和になって、ポルスカに帰れる日が来たら、今度は機関砲や爆弾ではなくて、子どもたちを乗せて一緒に飛ぼうね」

 

 ボクは喉から唸り声を出した。約束だよ、と言いたかったのだ。マルタはそれを分かってくれた。

 

「ああ、約束だ。必ず君と一緒にポルスカに帰るよ……」

 

 マルタは、最後までその言葉を言わなかった。突然、彼女は緊張感に満ちた声で言った。

 

「なんだ、あれは?」

 

 それは、ボクたちから見て一時の方向にいた。それは、ボクたちと七千メートルほど離れたところを飛んでいた。低い空を忍びやかに飛んでいた。それは、大陸側の海からアングリアの海岸の上空へ侵入しつつあった。

 

 ボクはグンと速度を上げてそれに近づいた。並走するようにして飛ぶと、よりはっきりとその姿を見ることができた。それは奇妙な姿形をしていた。葉巻のように太い胴体からは四角く不格好な翼が突き出していて、背中には火を噴く大きな物体を背負っていた。不思議なことに、それにはコクピットがなかった。コクピットがないから、飛行士も乗っていなかった。

 

 これは、何だろう? ボクがそう思っていると、マルタが叫んだ。

 

「これは、ニェムツィの飛行爆弾だ!」

 

 敵の新兵器、飛行爆弾……ボクもそれを知っていた。ボクは前に、それについてマルタから聞いていた。飛行爆弾はパルスジェットエンジンというものを積んでいて、飛行士もいないのに飛び、目標地点上空に達すると墜落して爆発する。これまでにも何発かが首都に落ちていて、死者が出ているとのことだった。

 

 それと並んで飛んでいるうちに、急にボクは恐怖を覚えた。飛行爆弾のエンジン音は、それまでに聞いたことのない、ぞっとするような響きを持っていた。

 

 得体の知れない怪物がボクの隣を飛んでいる。その中身は大きな爆弾で、いつ爆発するか分からない……

 

 怖気づくボクを立て直したのは、やっぱりマルタだった。彼女は冷静な口調で、ボクに指示を出した。

 

「私のマルタ、怖がるな。こんなものはただの機械だ。変な音を立てるだけの、ただの機械。君は大空の支配者であるドラゴン、機械なんて敵ではないだろう? さあ、こいつの翼に、君の翼の端をちょんと当ててやれ。そうしたら、きっとこいつはバランスを崩して落ちるだろう。下には民家もない。遠慮なくやってやれ」

 

 ボクは安心した。ボクは言われたとおりに、それに翼を当てた。その途端に飛行爆弾は姿勢がおかしくなった。胴体を軸にしてくるくると回転し始めると、それは真っ逆さまに下へ落ちていった。何もない平原に墜落すると、飛行爆弾は大爆発を起こした。

 

 ほっと一息ついてから、マルタが低い声で言った。

 

「これからはもっと飛んでくるかもしれないな……ニェムツィ人め、よくぞ人殺しの方法ばかり新しく考え出すものだ……」

 

 

☆☆☆

 

 

 ボクの目の前に、たくさんの人間たちが集まっていた。張り詰めた雰囲気だった。大きな黒板には地図が貼られていた。それを棒で指しながら、アングリア空軍の軍服を着た男の人が説明をしていた。

 

「レジスタンスからもたらされた情報により、中立国ヘルヴェティア近くの街フライブルク近郊十五km地点に、敵の飛行爆弾の秘密工場が存在することが判明した。秘密工場の生産能力は月産四百発であると推測される。知ってのとおり、アングリアに対する飛行爆弾攻撃は日を追うごとに激しさを増している。我々は万難を排してでも、この工場を破壊しなければならない」

 

 男の人は淀みなく話を続けた。

 

「攻撃は、選抜された爆撃機八機を中心として行われる。敵のレーダー網を避けつつ超低空で奥地へ侵入するため、これ以上機数を増やすことはできない。諸君らポルスカ人竜騎兵部隊の任務は、この八機の爆撃機の護衛である……」

 

 こまごまとした話が、それから半時間ほど続いた。最後に、男の人は締めくくるように言った。

 

「この情報を得るために、十人のレジスタンスが殺されている。必ず作戦を成功させろ。また、万が一不時着しなければならなくなった場合は、中立国ヘルヴェティアへ降りろ。敵は諸君らポルスカ人を捕虜にすることはないが、ヘルヴェティア人ならば歓迎はせずとも殺すことはないはずだ……」

 

 男の人は去っていった。彼が格納庫から出るのを見計らって、ボクの隣に立っているマルタが、周りの飛行士たちに声をかけた。

 

「さあ、出撃の準備だ! 危険な任務だが、それは爆撃機に乗るアングリア人たちも同じだ! 彼らにポルスカ人飛行士の優秀さを教えてやろう!」

 

 おう、という力強い返事が湧き起こった。ボクも喉を鳴らした。

 

 マルタは、いつものようにボクの頭を撫でてくれた。

 

「大丈夫、心配ないさ。君と私なら、きっと生きて帰ることができるよ……」

 

 日が沈む頃、ボクたちはもう空の上にいた。ドラゴンの仲間たちは、全部で九人いた。しばらく飛んでから、ボクたちは八機の爆撃機と合流した。海峡を越えてから、ボクたちは徐々に高度を下げた。

 

 ボクたちは木々のこずえを掠めるほどの低空を飛んだ。もう五時間は飛んでいた。そろそろ目的地のはずだった。ボクは青と赤の翼端灯の数を数えた。仲間たちは一騎たりとも欠けていない。敵の迎撃もなく、夜空には雲一つない。この調子なら、攻撃はきっと大成功だろう……

 

 突然、視界がぱっと開けて、目の前に細長い大きな建物が現れた。これが、飛行爆弾の秘密工場に違いない。ボクはそう直感した。爆撃機たちがぐんと機首を上げた。爆弾投下に必要な高度を得ようとしているのだった。ボクたちも彼らに倣って、ぐんと高度を上げた。

 

 爆撃機は爆弾倉(ばくだんそう)の扉を開けると、大きな爆弾をそれぞれ八つずつ、ばらばらと投下した。八機から落とされた合計六十四発の爆弾は、一発も外れることなく工場に直撃した。紅蓮の炎と黒煙、大爆発、火災、撒き散らされる無数の破片、崩壊する高い煙突……任務は無事に達成された。ボクはほっとした。

 

 突然、地上からサーチライトの光芒が伸びてきた。それは幾筋も、まるで生き物のように動いていた。触手のように蠢くサーチライトは、空にいるボクたちを捉えようとのたうち回った。

 

 次の瞬間、一機の爆撃機が照らし出された。即座に、大小様々な口径の対空砲が砲弾を放ってきた。チカチカと地上が光ってから数秒後に、空中で爆炎と煙が炸裂した。花火のような、赤と黄と緑の曳光弾が乱れ飛んだ。爆撃機は必死になってサーチライトから逃れようとしていた。でも、敵は喰らいついたら放さないとでも言うように、攻撃の手を緩めなかった。

 

 このままでは、あの爆撃機は落とされてしまう。そう思っていると、今度はボクの周りが強烈な光に包まれた。ボクは目が眩んで、思わず飛行姿勢を崩しそうになった。

 

「マルタ! しっかりしろ!」

 

 背中のマルタが叫んだのと、ほぼ同時だった。ボクのおなかに、バシッと音を立てて、何かが直撃した。それから数秒も経たずに、ボクの翼は炸裂する高射砲弾の破片で穴だらけにされてしまった。胴体と尻尾も傷だらけになった。血が出ているのを感じた。痛くはなかったけれど、熱かった。

 

 ボクは声を限りに叫んだ。でも、高射砲の射撃は一向に止まなかった。鼻につくのは、むせ返るような硝煙の臭いと、破れたタンクから漏れ出るエーテル液の甘い香り、そして、赤錆のようなボクの血の匂いだけだった。

 

 周囲に爆発音が連続していた。それでもボクは、マルタの声を聞きとることができた。マルタは言っていた。

 

「急降下するぞ、マルタ! 意識をしっかり保つんだ!」

 

 言われたとおりボクは頭を下げて、地面に突っ込むように高度を下げた。そのおかげで、ボクはサーチライトの捕捉から逃れることができた。

 

 それからもボクたちは飛んだ。飛び続けた。

 

 時間が経った。月が移動していた。星々も位置を変えていた。でも、ボクは飛んでいる……まだボクたちは飛んでいた。どうして飛ぶことができているのだろう? 不思議だった。不思議に思っているうちに、また時間が経っていた。

 

 もう、何時間飛んだのだろう? 月の位置を見ればおおまかな時間を知ることができる。でも、もうボクにそんな余計なことをする力はなかった。撃たれてからかなりの時間が経っているのは確かだった。

 

 恐怖はなかった。痛みもなかった。でも、とにかく眠たかった。目を閉じたら、意識を失ってしまいそうだった。

 

 眠気に負けそうになるボクを支えていたのは、もう一人のマルタだった。彼女のことを思うと、もう少しだけ飛んでいられるような気がした。

 

 聖書の、あの言葉をボクは思い出した。

 

 そうだ、「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」 聖書はそう言っていた。ボクはここで落ちるわけにはいかない。

 

 マルタを守ってあげなければならない!

 

 ただ一つだけ、マルタだけが、ボクの無くてはならないものなのだから!

 

 いつしか、操縦席からの声も聞こえなくなっていた。どうやらボクは血を失いすぎたせいで、耳がおかしくなってしまったようだった。それでもボクには何故か、行くべき先が分かっていた。目は霞んでいて、翼には力が入らなかったけれども、ボクは真っ直ぐにそこへ向けて飛ぶことができた。

 

 ヘルヴェティアの高い山々を深く傷ついた体でどうやって飛び越えたのか、自分自身でもよく分からなかった。

 

 気がついた時には、ボクは山と谷の間にある、狭い飛行場の真ん中に着陸していた。

 

 空の端が白く、明るくなっていた。ボクの周りには銃を持った兵士たちがいた。聞こえなくなったはずの耳に、マルタの声が聞こえた気がした。

 

「ありがとう、マルタ。本当にありがとう。私のために飛んでくれて……」

 

 久しぶりに嗅ぐ匂いがした。湿っぽくて悲しい、それでいて懐かしい気持ちになる匂いだった。それは涙の匂いだった。

 

 そうか、マルタは泣いているんだね。ボクはそう思った。マルタが泣くのはこれで二度目だ。ボクはこれまで泣いてばかりいたのに、マルタは一度も泣いたことがなかった。

 

 今、ボクは泣いていない。ボクは満足していた。ボクは、たったひとつの大切なものを守ることができた。ボクはあたたかい気持ちになって、目を閉じた。

 

 

☆☆☆

 

 

 戦争が終わって、十五年が経った。

 

 ボクは、ひとりぼっちでヘルヴェティアの首都の動物園にいた。ボクは檻の中でうずくまっていた。檻の前には「本を読むことができる、高い知能を持つドラゴン」と書かれたプレートがあった。ボクは展示されていた。

 

 あの後、奇跡としか言いようがないことに、ボクは死ななかった。ヘルヴェティア人たちは大勢の医者を集めてボクを治療し、命を繋ぎ留めてくれた。以前のように高く早く飛ぶことはできなくなったけれども、そんなことはボクにとって大したことではなかった。

 

 ボクをなによりも悲しませたのは、マルタのことだった。ボクたちははなればなれになってしまった。

 

 ボクが目を覚ました時には、マルタはもう居なくなっていた。不安と心細さでボクの胸はいっぱいになった。そんな中、ひとりの太った兵士が近づいてきて、ボクに何かを見せてくれた。兵士は言った。

 

「本当にドラゴンが文字を読むのかなぁ? ほら、お前のご主人様から手紙だぞ」

 

 それは紛れもなくマルタの字だった。走り書きのようなごく短い手紙には、「命を救ってくれてありがとう」という感謝の言葉と、「ヘルヴェティアに抑留されることになった、これからはしばらく離れて暮らすことになるが、必ず迎えに来るからそれまで元気にしていて欲しい」と書かれていた。

 

 手紙を読んでいるボクを見て、兵士は感心したように言った。

 

「おお、本当に手紙を読んでいるなぁ。賢いドラゴンだ。そうだ、お医者の先生たちにこのことを教えてあげよう……」

 

 ヘルヴェティア人たちが労力を払ってボクを治療したのは、軍事研究のためだった。傷が治るとすぐに、ボクは様々なテストを無理やり受けさせられた。後遺症のせいでいつも体が痛んだし、それにマルタがいなかったから、ボクは次第に体力と気力を消耗して、痩せ細っていった。

 

 期待したほどの性能を示さなかったのにヘルヴェティア人たちは落胆したのか、もう用済みとばかりにボクは動物園に払い下げられた。動物園にはたくさん食べ物があったし、自由に本を読むことはできた。ここでの生活はとても安らかだったけれども、ボクはいつも寂しさを覚えていた。そうして時間が過ぎ去っていった。

 

 ボクはぼんやりとしていた。

 

 今日もボクは食べ物を食べて、寝て、時々寝返りを打って、また食べ物を食べて、寝ることになるだろう……日々を終えるごとに、寿命が残り少なくなっているのをボクは感じていた。

 

 そろそろボクは、死ぬのかもしれない。

 

 寝ても覚めても思うのは、マルタのことばかりだった。かっこよくて、優しくて、大好きなマルタ……また本を読み聞かせて欲しい。細い指で頭を撫でて欲しい。一緒に自由な空へ舞い上がって、日の沈む地平線へと飛んでいきたい。

 

 ゆうべは、小さい頃ポルスカの野原をマルタと一緒に散歩した時の夢を見た。懐かしさと切なさに涙が出るかと思ったけれど、結局ボクは泣けなかった。

 

 そういえば、黒猫が野ウサギを仕留めていたっけ。そう、真っ赤な血が滴っていた。滴っている血がとても生臭くて……でも、なんで、ボクはあんなに怖がってしまったのだろう? 今は、何も怖くない。ただ、寂しいだけだ。いつになったら、マルタにまた会えるのかな……

 

 ふと、声がした。

 

「マルタ。こっちを向いて」

 

 聞き慣れた、でも長いこと聞いていない声だった。

 

 はっとして、ボクは長い首を上げて檻の向こうを見た。

 

「マルタ、マルタ。私だよ」

 

 そこには、もう一人のボクがいた。

 

 小さくて翼を持たない、スラリと細い体をした、人間のボク。その右足は膝から下が金属製の義肢になっていて、杖をついている。顔つきも少し歳をとっている。でも、それは間違いなくマルタだった。

 

 ボクのマルタ!

 

 見る見るうちに、ボクの視界は涙で滲んでいった。喉から声にならない声が漏れていた。

 

 泣いているボクを、マルタはじっと見ていた。そして彼女は、隣に立っているスーツ姿の男に向かって口を開いた。

 

「では契約通り、このマルタを引き取らせていただきます。すぐに彼女を檻から出してください」

 

 男はどこか不満そうな顔をして答えた。

 

「もちろん、そのとおりにします。しかし、どうも分かりませんな。もう飛ぶこともできない、寿命も近づいているドラゴンを、いくらかつての乗騎だからとはいえ、五万フランも出して引き取ろうなどとは……」

 

 マルタは、きっぱりとした口調で言った。

 

「気高いドラゴンを狭い檻に閉じ込めるヘルヴェティアの人々には理解できないでしょうが、ポルスカの空の有翼騎兵は、決して自分のドラゴンを見捨てないのです。それに、私は約束しました。必ず迎えに来て、一緒にポルスカに帰ると」

「約束? ドラゴンと約束をしたのですか?」

 

 呆れたような口調で問いを投げかける男に、マルタは笑みを浮かべて答えた。

 

「ええ、もちろん。なにしろ、もう一人の自分ですから」

 

 そして、マルタはボクに向かって、あの優しくも誇りに満ちた笑顔を見せてくれた。彼女は言った。

 

「私のマルタ! さあ、ポルスカに帰ろう!」

 

 ボクのマルタ、私のマルタ……やっと二人は一緒になれた。

 

 これからはきっと、死ぬまで一緒。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「ボクのマルタ、私のマルタ」作品メモ

 2020年7月6日公開。

 通算二十二本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の「あなたの小説が5P分マンガになる!ファンタジーコンテスト」に応募した作品です。

 主催者側から与えられたテーマは「イケメンヒロイン」でした。イケメンヒロインが出てくるファンタジーならば何でも良いとのことで、当初は楽に一本が書けるものと思っておりましたが、なかなかアイデアが出ず……キャラクターがいて、世界観があって、ストーリーのラインがある。これら三者が相互に密接に関係してこそ面白い短編が書けるので(私見です)、「イケメンヒロインがそのイケメン具合を十二分に発揮できる世界観とストーリーはなんだ?」と悩んだわけです。

 私にとってのイケメンは、真面目で優しい、何より「約束を必ず果たす」人です。二人のマルタはこのことを念頭において書きました。時間がなかったので(締切まで七時間しかなかった……)世界観などは過去作と共通のものになりました。

 次回もお楽しみに。

※加筆修正しました。(2023/07/06/木)

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。