ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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25. 憧憬のエンゲルイェーガー

 弾丸は命中した。

 

 二百五十メートルほどの距離があったが、何か大いなる力に導かれたように弾丸は飛んでいった。少なくともそのように私には思われた。標的は眉間に弾丸を受けて、その場に崩れ落ちた。

 

 隣で息を殺していた娘が、標的が倒れたのを見るや即座に駆け出そうとした。それを私は片手で制止した。

 

「いや、まだ安心してはならない。最近の奴らはますます頑丈になってきている。まだ生きているかもしれん。銃に弾丸を込めろ」

 

 装填を終えた私たちは、油断なく銃を構えたままそれに近づいた。今回の獲物もかなり大きかった。白銀の液体が地面に飛沫のように飛び散っていた。それは獲物の血液だった。獲物は奇怪な姿をしていた。真っ白な胴体の腰のあたりには三つの首が並んでおり、背中には純白の翼が生えていた。クモのような八本の脚は縮こまっていた。

 

 たしかに、死んでいるようだ。娘も同じことを考えたのだろう。そっと溜息を吐くのが私の耳に聞こえた。

 

 私はナイフを取り出しつつ、獲物を再度観察した。私は視線を走らせながら娘に言った。

 

「この顔は、ラインハルト爺とゲルトルード、それと村に派遣されてきた兵隊のエックハルトだな……卵管はついていない。まだ成熟前だったのだろう。いいかアガーテよ、何度も教えているように、こいつの死体は高く売れる。皮は大砲の弾も通さないし、血は魔術の触媒に使える。肉は食えないが、骨は削れば良い刃物になる。もしこれらを売らないとなると、俺たちは銀の弾丸が買えない。銀の弾丸が買えないということは、つまり、狩猟ができなくなるということだ。解体は非常に重要な仕事だ。さあ、この間教えたようにやってみろ。まずは血抜きからだ」

 

 娘は臆した様子もなく、涼やかな声で答えた。

 

「はい、父さん」

 

 私からナイフを手渡された娘は無言で、順序良く獲物を解体していった。その光景を見て、私はほくそ笑んだ。良し、良し。アガーテは立派な狩人になった。黒髪の美しい、怜悧そうな顔立ちをした私の娘は、狩人としてここに立っていて、狩人として今、手を動かしている。こんな状況でなければ、誰かと恋をしていたのかもしれない娘……

 

 これならば、独力で獲物を仕留めることができる日もそう遠くはないだろう。

 

 娘は、私が教えることをあたかも乾いた砂が水を吸い込むように学んでくれた。だがそれでも、ここまでくるのにはずいぶんと時間がかかった。それだけ、この狩猟は危険なのだ。

 

 なにしろ、天使(エンゲル)を狩るのだから。

 

 

☆☆☆

 

 

 私が初めて銃を手にしたのは、八歳の時だった。その銃は軍から払い下げられたマスケット銃で、父から譲り渡されたものだった。幼い私の背丈に匹敵するほど長く、それまで手にしたどの道具よりも重いその武器は、どう考えても小さな私の手に余る得物(えもの)だった。

 

 だが、八歳の私は高揚していた。いや、高揚というよりもそれは全能感に近かったかもしれない。今こうして手にしているのは玩具(おもちゃ)ではなく、本物の銃であり、紛れもなく生き物の命を奪う力を持っている! この銃によって世界に干渉し、支配する力を与えられた! それになにより、なりたい存在になることができる!

 

 そう、父さんのように!

 

 そのような感慨は、幼さゆえはっきりと言葉によって表現することはできなかった。だが、あの高揚感こそが狩人としての私の原点であるのは間違いない。

 

 だが、そのように浮ついた気持ちでいる私に対して、青い鳥の羽根飾りのついた帽子を被った父は、厳かな面持ちをしつつ言った。

 

「マックス、俺たちが暮らす森に獲物はいない。いるのは、ただ敵だけだ。一方的に狩られる存在などおらず、一方的に狩る存在もいないのが森という場所なのだ。これから毎日、銃の修行に励め。そして、心を鍛えろ。敵に殺されないように、なにより、森に呑まれないように」

 

 窘めるような父の言葉を聞いて我に返った私は、素直に頷いた。猟師が狩猟に夢中になって森の奥深くへ入り込み、結局戻ってこなかったという話は、それまで何度となく聞かされていた。それに森の獣たちも、時には猟師たちに襲い掛かり、逆に命を奪うこともある。

 

 それでも、私がはじめに考えたのは、銃の修行でも心を鍛えることでもなく、父のことだった。私が六歳の頃、森に巨大で獰猛なイノシシが出現し、幾人もの猟師を傷つけ、殺したことがあった。そのイノシシは森を出て、ついには村にまで侵入してきた。それを仕留めたのは、父だった。父は村の人々から英雄として讃えられ、その功績が認められて領主から森林官補の役職まで与えられた。

 

 私も父のように立派な猟師になりたい。この仕事を始めた理由は、このように何ら変わったところのない、平凡なものだった。とはいえ、その平凡さこそが私を猟師にしてくれたのだと思っている。たった一人で闇すら飲み込む深き森に立ち向かい、神と自然によって与えられ育まれた温かな命を銃弾一発で無惨に奪うことの、その重大さについて考えてしまったら、私はきっと猟師にならなかっただろう。

 

 銃を手にしたその日から、私は修行に励むことになった。私はさっそく銃が撃てるものと期待したが、父は私に弾薬を渡さなかった。そのかわりに私が命じられたのは、体力作りと、銃の分解整備だった。毎朝銃を担いで父と共に森に入り、日が暮れるまで歩き続けて、私は父の狩猟を隣で見て学んだ。罠の仕掛け方、風の読み方、気配を消して隠れ、待ち伏せする方法、殺した獲物を手早く解体する技術に、火薬の調合と弾丸の作り方……日が沈む頃には父と共に村に帰るか、あるいは森の中で野営をした。

 

 夕食後は、一日を振り返るための時間に充てられた。以前教えられたことを覚えていなかった場合、父は怒鳴ることこそなかったが、静かな面持ちの中に失望感をうっすらと滲ませていた。私はそのような父の顔を見るとただ申し訳なくて、一生懸命に励んだ。やがて眠る時間が来ると、父は私を抱き寄せて、二人で安らかな寝息を立てた。

 

 私は、父と共に森で過ごす夜が好きだった。森は、父が言うように、敵が充満する戦場だったが、それと同時に、私の童心を刺激する格好の遊び場でもあった。父の温もりを感じつつ、フクロウの鳴き声をまどろみの中で楽しみ、夜の闇の中で自分の呼吸を暗い森の息吹に溶け込ませていく。それは同世代の子どもたちがするありとあらゆる遊びの中で、最も面白いものであると、私は幼心に感じていた。

 

 下積みは四年間続いた。初めて獲物を仕留めたのは十二歳の時だった。その日、私たちは親一頭と仔三頭のイノシシの家族を見つけた。父が親を撃ち、私が仔を撃った。父は正確に獲物の頭部へ弾を送り込んでいたが、私の弾は右前脚に当たった。残った仔は逃げ去った。痛みと苦悶に泣き叫ぶ仔を前に、私はしばし呆然としていた。父は無言で私にナイフを手渡した。私はそれまで父がやってきた通りに、仔の喉を掻き切った。溢れ出る赤い血の生々しいまでの鮮やかさと温かさに、ようやく私は命を奪うことの意味について理解した。

 

 その後、私は順調に猟師として成長していった。十七歳の頃には、もう父と一緒ではなくとも、一人で森に入り一人で獲物を仕留めることができるようになっていた。村人たちは「流石はハンスの息子マックスだ、次の世代もこれで安泰だ」と口々に言った。父のように村に害為す大物を撃つ機会こそなかったけれども、私は一歩一歩着実に、幼い頃に憧れた父の姿に近づいていた。私はそんな自分自身に心から満足していた。

 

 

☆☆☆

 

 

 転機となったのは、私が二十歳になった時だった。

 

 その日、村に従卒を連れた一人の将校がやってきた。黒い軍服に銀のサーベルを()いた、いかにも威風堂々とした彼は、その容姿に見合わぬ甲高い声で言った。

 

「我が王国は東方の魔族たちの侵攻を受け、未曾有の危機にある。軍は射撃技量に秀でた健康優良なる男子を欲している。猟兵として志願する者はいないか? 志願した者は王国軍最精鋭たる猟兵連隊に配属され、除隊後は森林官補として(ろく)を得るであろう」

 

 村には私たち親子の他に猟師が何人かいたが、いずれも軍務に身を置くにはいささか年老いていた。必然的に、私が志願することになった。

 

 出発する前夜、父は滅多にないことに酒を飲み、そして就寝時には私を呼び寄せた。幼い頃と同じように、私は父と抱き合って寝た。

 

 私には、父の気持ちが痛いほど分かった。母はすでにこの世になく、子は私だけだった。魔族は剽悍(ひょうかん)にして精強であり、戦場にいけば十中八九命はない。いくら私に天性の射撃の才能があっても、生きて帰れるかは分からなかった。

 

 私は翌朝、日が昇る前にそっと寝台を抜け出し、前夜に纏めておいた荷物を持って村を出た。道を進み丘に登って、ふと村の方を振り返ると、薄靄(うすもや)の中に人影が見えた。私はそれを、父だと確信した。

 

 戦場は、予想に違わず過酷だった。私は猟兵として、主に敵の指揮官の狙撃に従事した。軍から支給された銃は、私がこれまで使っていたマスケット銃を遥かに上回る性能を持つライフル銃だった。どんなに整備し、使い慣れたマスケット銃でも有効射程は二十メートル前後であるのに対し、ライフル銃はその十倍以上の距離にいる標的に対して正確に弾丸を送り込むことができた。

 

 王国軍は私たち猟兵連隊の活躍もあり善戦したが、魔族たちは遥かに強大だった。赤紫色の肌をし、人間よりも二回りも大きい体格を持つ彼らは、弾丸を一、二発受けただけでは死ななかった。頭部、特に眉間に、鉛ではなく銀で出来た弾丸を正確に命中させなければ、彼らは即死しなかった。

 

 怖れを知らぬはずの兵士でありながら、私たちは魔族を怖れた。単なる敵ならばそこまで怖れる必要はなかったが、しかし魔族はあらゆる生き物を、特に人間を好んで喰らう存在だった。彼らはなるべく人間を生かして捕らえ、生きたまま切り刻むか、大釜に投げ込むかして、人間の新鮮な肉を味わうのが常だった。彼らは紛れもなく私たちの捕食者であり、私たちは怖れ、逃げ惑うだけの被捕食者であった。

 

 また、魔族は繫殖力が高かった。人間よりも遥かに早い間隔で、彼らは子どもを産み、育て、そして戦線に投入した。将軍たちが戦術の冴えを見せて魔族の一個軍団を壊滅させても、彼らにとってはさしたる損害とならないのが常だった。

 

 私は戦争の最後の年に、それまで敵の歩兵隊長を十五人、魔術師を十人、砲兵指揮官を四人狙撃した功績で勲章を授けられた。だがその頃には戦線は崩壊し、王国の滅亡は時間の問題となっていた。

 

 ここで、奇跡が起こった。

 

 突如として魔族に白い軍勢が襲い掛かった。その白い軍勢は「天使(エンゲル)」と呼ばれた。無論、それは本当の天使ではなかった。それは王国の魔術研究団が開発した、人工的な生物だった。天使たちは王都防衛戦にて初めて投入され、瞬く間に魔族の軍勢を四散させた。

 

 絶体絶命の私たちを救った天使たちは、しかし、まったく天使らしからぬ姿をしていた。天使たちは魔族をそっくりそのまま白く塗り替えたような容姿をしていた。魔族のコウモリのような黒い翼は白鳥のような純白の羽となっていて、赤紫の肌は病的なまでの青白さに置き換わっていた。その目には瞳がなかった。ただ夜の獣のように、目は爛々と光り輝いていた。

 

 戦いの後、たまたま魔術師から話を聞く機会があった。彼は得意げにこう語った。

 

「我々が開発した天使には、二つの特徴がある。それは成長をし、増殖をするということだ。つまり、我々がいちいちフラスコを揺らしたり培養槽に薬液を注いで製造をしなくても、彼らを野に放つだけで自動的に増えていくのだ。そう、まるで魔族共のようにね。とりあえず王国内に蔓延る魔族を一掃するために、すべての町と村に天使を送る予定だ。王国から魔族を追い出したら、次は奴らの本拠地に天使を送りこむ。数年もすれば、魔族の国は天使の国になっているだろうよ……」

 

 私はその言葉を聞いて、一抹の不安を覚えた。たしかに、あの天使たちは魔族たちを一方的に殺戮する力を持っている。その点だけを見れば、神の軍勢といっても良かった。

 

 しかし一方で私は、天使たちに怖れにも似た何かを感じていた。私は戦いの中で、一体の天使が魔族を殺す光景を目撃していた。天使は剣や槍や銃を使わない。天使は目から黄金色の光を発すると、それで魔族を動けなくし、そして普段は皮膚の下に隠されている大きな口で一呑みにしてしまう。その口には上下二列に生え揃った鋭い牙があり、ぬめぬめとしたよだれが垂れていた。魔族が上げる断末魔の悲鳴、その後に続くボリボリという骨を砕く咀嚼音……それがしばらく続いた後、天使の姿はまた変わっていくのだった。数分後には、天使はさきほど食らい尽くした魔族の姿そっくりになっている。

 

 まるで、肉食獣だ。私はそのように感じた。本当の天使が持っているであろう愛や慈しみはまったく感じられなかった。ただ食欲に従って敵を食らい尽くすだけの存在、そんなものを「天使(エンゲル)」と呼んで良いのか? いや、オオカミのような肉食獣ですら満足したらそれ以上獲物を追わないのに、私たちの天使は違うのだ。私は、一匹の魔族を捕食した天使がすぐに次の魔族に襲いかかり、そして食らい尽くすところも見ていた。まるで無限の食欲を持っているようだった。あるいは、食欲などというものをそもそも持っていないのかもしれない。

 

 私は魔術師に言った。

 

「あの天使たちだが、本当に魔族しか襲わないんだろうな? 人間を襲ったりはしないだろうな?」

 

 私の問いに対して魔術師は、学問のある者が無学な者を嘲笑う典型的な態度で以て答えた。

 

「そんなことはあり得ないな! 我々はその点をしっかりと考慮に入れて天使を設計した。魔族を襲い、魔族を食らい、魔族の姿と能力を引き継いで、かつ増殖するというのが、設計の基本コンセプトだ。どうだい、今私が述べたことをもう一度口に出して繰り返してみたまえ。その中に『人間を襲い、喰らう』などという要素が含まれているか……?」

 

 戦争はその後、数ヶ月もしないうちに終結した。魔族たちは王国から駆逐され、本国に逃げ帰っていった。私たち猟兵の招集もほどなくして解除となった。王国の戦費はすでに枯渇しており、大規模な軍勢を維持することは不可能になっていた。私たちはお役御免というわけだった。それに、王国は天使に全幅の信頼を寄せているようで、私たち人間の兵士をもはや必要としていないようだった。

 

 王国全土にばら撒かれた天使たちは、どうやって回収されるのだろうか? まさか、そのままというわけではないだろう。きっと、「その点もしっかりと考慮に入れて」設計されているに違いない。だが、もしそうでなかったら……? そのような疑問を抱きつつ、私はライフル銃と勲章と、森林官補の任命状を手にして村に帰った。

 

 

☆☆☆

 

 

 村は荒廃していた。聞けば、魔族の部隊が襲来し、破壊と略奪の限りを尽くしたとのことだった。しかし、死んだ者は少なかった。父が村人たちを連れて森に避難し、魔族たちから逃れたとのことだった。

 

 やはり父は父だ。私はそう思った。父は年老いてしまったが、あの魔族を翻弄するなど、いまだ村の英雄に違いない。幼い頃に憧れた父の姿そのままだ。私は一刻も早く父に会いたかったが、しかしその姿はどこにもなかった。

 

 私の帰還を聞いた村人たちが周りに集まってきた。彼らは一様に浮かない顔をしていた。やがて鍛冶職人のオットーが、おずおずと口を開いた。

 

「例の天使が来て、村から魔族は消え去ったんだ。俺たちは村に帰って、しばらくは再建に精を出していた。そしたらな、二週間前、村長のところの孫娘のエルザがいなくなったんだ。『森の天使に会いに行く』と言って、そのまま姿が見えなくなった。そもそも最初に誰かが一緒について行けば良かったんだが……ハンスは、『俺が探しに行く』と言って、森に入った。それっきりハンスも帰ってこなくて……」

 

 話を聞いた私は、即座に森に行くことに決めた。その時、私は戦場でも感じたことのない胸騒ぎを覚えていた。魔術師は確かに言った、「人間を襲い、喰らうなどということはあり得ない」 だが、あの天使らしからぬ天使には、何か隠された秘密があるような気がしてならなかった。

 

 引き止める村人たちを説得して、私はライフル銃を持って森に入った。父が向かいそうな所を私は熟知していた。父とは八歳の頃から一緒に狩猟していたのだ。父はおそらく、村から十キロの地点にある仮小屋へ向かうはずだ。まずはそこへ行くことにした。

 

 トウヒとブナが密生する森はいつも通りの深閑さを(たた)えていた。だが、言いようのない緊張感を孕んでいるようにも感じられた。

 

 ほどなくして、私はその理由に気が付いた。鳥の鳴き声がしない。それに、小動物の姿が見当たらない。そして、シカやイノシシなどの大型の動物がどこにもいない。森に棲む生きとし生けるものすべてが、忽然と姿を消してしまったようだった。

 

 二時間ほど森の奥へ進むと、私は奇妙なものを見つけた。それは倒木の陰に隠れるように、整然と列をなして立ち並んでいた。

 

 それは一抱えほどもある、青白い球体だった。それがびっしりと、地面に植え付けられていた。それは蝶や蛾の卵のような形をしていたが、とてつもなく大きかった。そっと手で触れると、驚くべきことにそれは熱を持っており、静かに脈打っていて、薄く粘液まで纏っていた。今まで何度も森に入ったが、このようなものは見たことがなかった。

 

 明らかに異常な物体だった。

 

 その時、私の脳裏にはっと閃くものがあった。「天使は増殖をする」とあの魔術師は言った。もしや、その増殖とはこれなのでは?

 

 これは、天使の卵なのではないか?

 

 この卵と思われる物体の色は、天使たちの肌の色とまったく同じだった。これは、天使がここに産み落とした卵の群れなのでは……?

 

 考えに耽る私の耳に、突然、声が聞こえた。

 

「おーい」

 

 それは、父の声だった。苦しい戦陣生活でも忘れることのなかった父の声、懐かしい、温もりのある声……それが聞こえた。

 

 私は周囲を見渡し、叫んだ。

 

「父さん! 父さんですか!」

 

 しかし、父の姿はどこにも見当たらなかった。それでも、父の声はなおも聞こえてきた。

 

「おーい、おーい。息子よ、こっちだ、こっちに来てくれー」

 

 鬱蒼とした樹木によって奇妙に反響した声は聞き取り辛かったが、どうやら森のさらに奥からこちらへと発せられているようだった。私は銃を手に取ると、すぐにそこへ向かった。

 

 私を呼ぶ声はなおも続いていた。歩きつつ、私はふと違和感を覚えた。

 

 父は「おーい」などと私を呼ぶような人だったか?

 

 父は寡黙で、滅多なことがない限り自分から口を開くことのない人だった。それに、私のことを「息子よ」と呼ぶのもおかしい。父は私のことを必ず「マックス」と名前で呼ぶのに……?

 

 すぐに、父は見つかった。

 

 父は頭だけを出して地面に埋まっていた。その顔は奇妙に歪んでいた。媚びるような、へつらうような、にやけた笑みを浮かべていた。父がこのような顔をしたことなど、記憶にある限り今までに一度もなかった。

 

 それよりも驚いたのは、父の顔の白さだった。父の顔は天使とまったく同じ色の、青白いものとなっていた。

 

 訝しむ私を余所に、父は相変わらずにやけた笑みを浮かべつつ、異様なほどに陽気な声を上げた。

 

「息子よ、こっちだ、早く来て、助けてくれ。落とし穴に(はま)ってしまったんだ、助けてくれ」

 

 落とし穴に嵌る? そんなことがあり得るのか? いや、父ほど狩猟を熟知しているものはいない。落とし穴に嵌ることなど絶対にあり得ない。私は父に意識を向けつつ、素早くライフル銃に弾丸を装填した。そして、おもむろに父の頭部に向けて照準した。

 

 声が震えそうになるのを抑えて、私は言った。

 

「お前は、いったいなんだ?」

 

 父はにやけながら答えた。

 

「お前を愛する、ハンスだよ」

 

 聞き終わるのを待つまでもなく、私は引き金を引いた。父は口に出して「私を愛する」などとは絶対に言わない。父は言葉ではなく、行動と態度で私に愛を伝える人だからだ。

 

 だから、これは偽物だ。轟音と共に発射された鉛の弾丸は、数瞬も待たずして父らしきものの眉間に吸い込まれた。

 

 絶叫が響いた。その声は、もはや父のものではなかった。次の瞬間、地面が激しく振動した。濛々(もうもう)たる砂塵を巻き上げて、地下から父らしきものの本体が姿を現した。

 

 それは怪物だった。

 

 巨大な怪物だった。イノシシの胴体に人間の上半身がそそり立っていて、下半身には無数のシカの脚が生えていた。背中からは純白の翼が伸びており、尻尾のある場所には粘液に覆われた円筒形の物体が突き出ていた。

 

 私は、上半身のある部分に目を奪われた。そこには少女の顔があった。かすかに見覚えのあるその顔は、おそらく村長の孫娘エルザのものだろう。少女の顔も、奇妙な笑みを浮かべていた。

 

 眉間を手で押さえながら、怪物はしばらくのたうち回っていた。ややあって、怪物は血で濡れた肉が台座から落ちるような、場違いなほどに生々しい音を立てた。見ると、その臀部にある円筒形の物体から、何かを地面に産み落としたようだった。

 

 それはさきほど見た、あの卵だった。円筒形の物体は卵管だった。愕然とする私に、怪物は言った。

 

「腹が減ってよう、卵を産むと腹が減ってよう。だから息子よ、お前が欲しいんだよう」

 

 見る間に怪物の上半身の腹部に切れ込みが走り、そこから大きな口が姿を現した。見覚えのある口だった。天使が魔族を丸呑みにした時に見せた、あの口と同じだった。怪物はその大口を開けたまま、私に向かって突進した。

 

 だが、怪物はその巨体を持て余し気味のようだった。私は間一髪のところで突進を避けた。怪物は勢いあまって転倒した。私は距離を取り、銃に弾丸を装填しようとして、一瞬動きを止めた。

 

 その時、私は考えていた。さっき撃った鉛の弾丸は効かなかった。もう一度撃ったところで効果はないだろう。ならば、銀の弾丸ならばどうか? 魔族を殺すことができる、銀の弾丸ならば……?

 

 考えている間に、私の手は勝手に動いていた。上着のポケットに入れていた銀の弾丸を装填すると、私は怪物が再び起き上がるのを待った。

 

 怪物は起き上がると、叫んだ。

 

「卵をよう、産みたいんだよう。卵を、卵を!」

 

 これは、断じて父ではない。ただの怪物だ。そう自分に言い聞かせながら、私は引き金を引いた。銀の弾丸は、今度こそ怪物の眉間を撃ち抜いた。怪物はあっけなく動きを止めた。

 

 私は油断せず、銃を構え続けていた。すると、死んだはずの怪物の巨体が嘔吐の音を立てた。上半身の口から、何かが吐き出されていた。それは折れた銃と、青い鳥の羽根飾りがついた帽子だった。いずれも父の物だった。

 

「父さん……」

 

 父はきっと、怪物と最後まで戦ったのだろう。だが、鉛の弾しか持っていなかった父は怪物に勝てなかったのだ。私は帽子を拾い上げると、頭にかぶった。生臭い粘液も、私にはまったく気にならなかった。

 

 最期の瞬間まで、きっと、父は憧れの父だったのだ。私は村へ帰った。

 

 

☆☆☆

 

 

 魔術師たちは誤っていた。天使は魔族を喰らうことで、容姿と能力を引き継ぐことができる。だが、それによって魔族が持つ「生きとし生けるものを喰らう」という本能すらも引き継ぐことに、魔術師たちは気付いていなかった。

 

 魔族を喰らった天使は行動と思考に変化が生じ、周囲のあらゆる生命を喰らい尽くす存在となった。そして、捕食活動によって得た栄養を用いて、天使は大量の卵を産むようになった。魔族の強烈な繫殖力が自己増殖という天使の機能を増幅したのだった。充分な研究期間があれば魔術師たちもそれに気付くことができたかもしれない。だが、あの当時の王国は追い詰められており、時間はなかった。

 

 父と少女エルザの死を悲しむ間もなく、村はその日から異形の天使の襲撃に脅かされることになった。どうやら私が倒したあの天使は、森中に卵をばら撒いていたようだった。卵は数日の成熟期間を経てから孵化し、中から白くて大きな芋虫のような幼体が生まれる。芋虫は積極的に小動物を捕食し、脱皮を繰り返して次第に成長し、ついには大型動物まで捕食するようになる。その段階で増殖が可能となるのだ。

 

 私は毎日森に入っては卵を探して壊し、芋虫を潰し、時には村人を捕食した天使を射殺した。銀の弾丸は天使の死体を売って手に入れるか、あるいは村人たちのなけなしの財産を鋳つぶして作ることができたが、森に入って天使を狩ることができるのは私だけで、絶望的なまでに人手が足りなかった。若者たちは危険な村を離れて都市へ逃げてしまい、村に残ったのは老人たちだけだった。それが人手不足に拍車をかけた。

 

 王国全土で、天使たちは猛威を振るっていた。魔族の国も天使によって壊滅したとの噂が流れてきたが、そんなことは私にとって、もはやどうでも良いことだった。

 

 後継者を作る必要を私は感じていた。私は老いた。あの日、父を喰った天使を殺してから、もう三十年近くになっていた。毎日休むことなく森の中で実りなき戦いを繰り広げていた私は心身共に消耗した。水面を覗くと、実年齢よりも二十歳は老けて見える顔がそこにあった。私の髪は白くなり、歯はほとんどが抜けてしまった。

 

 唯一の望みは、娘のアガーテだった。私が三十歳の頃に生まれた娘は、物静かで控えめな性格をしていたが、その射撃の腕前と狩猟のセンスは私を凌駕していた。娘はまるで、私の父の生まれ変わりだった。妻を天使に喰われ、その天使を仕留め損ねた後、しばらく意気消沈してしまった私に代わって、アガーテは一人ですすんで森に入り、見事にその天使を撃ってくれた。

 

 五百体めの天使を撃ったら引退をしよう。私はそう決心した。すでに森を歩くだけで疲労感が募るようになっていた。

 

 私はその日、ついに五百体めの天使を仕留めた。そのせいで気が抜けてしまったのか、私は背後から近づく天使に気付くことができなかった。私は右腕を食い千切られた。直後、アガーテが駆けつけてその天使を撃ったが、天使は眉間を撃たれたにもかかわらず死ぬことはなく、森の奥へ逃げ去っていった。

 

 奴らは、また変化している。アガーテに応急処置をしてもらいながら、私はそう感じた。これまでも、奴らを殺し切るのに銀の弾丸一発では足りなくなっていた。いずれ奴らは、もっと変化をするのではないだろうか? より人間的になった天使たちは、人間のように考え、人間のように組織を作り、人間のように軍隊を起こすのでは……? 朦朧としながらも、私は暗い予感に怯えた。

 

 娘の力を借りて、私は荒廃しきった村になんとか帰りつくことができた。私はその後、一週間昏睡状態に陥った。

 

 ようやく目覚めた私はアガーテに、私のライフル銃と、青い鳥の羽根飾りのついた帽子を無言で与えた。

 

 娘は私の意志を理解してくれた。娘は、帽子を受け取るとすぐに頭に被り、そして銃を手にして外へ出ようとした。

 

 私は娘を止めた。

 

「もう今日は日が暮れる。やめておいたほうが良い。家にいなさい」

 

 夜は天使たちの行動が活発になる。しかし、私の心配を余所に、アガーテは静かに首を左右に振った。

 

「でも父さん、あの天使は父さんの右腕を食べたでしょう? それなら、たぶん今頃、あの天使は父さんの顔になっているはずよ。父さんの顔をした天使が生き物を食べ散らかす光景なんて、想像したくもない」

 

 たしかに、それはその通りだった。今頃、森の中には私の顔をした天使がいるだろう。だが……私はなおも娘に言った。

 

「お前は以前、母さんの顔をした天使を撃った。その上、父親の顔をした天使まで撃たせたくない。俺も昔、お前のおじいさんを喰った天使を撃った。あの時の悲しさは……」

 

 結局、私は父のようにはなれなかった。父は村を守ったが、私は村を守れなかった。これほどまでに荒廃してしまった村など、滅んでしまったも同然ではないか?

 

 あの時、父の顔をした天使を私が撃ったのは、私の憧れが永久に憧れのままに終わるということを暗示していたのかもしれない……

 

 まとまりのない私の言葉に、アガーテは滅多にないことに、不敵な表情を浮かべた。

 

「大丈夫、母さんは死んじゃったけど、父さんはまだ生きているわ。これからも父さんが一緒だと分かっているから、私はなんの躊躇いもなくあの天使を撃てる。それにね」

 

 アガーテは帽子を被り直した。冷静な表情のどこかに照れを隠しながら、娘は呟くように言った。

 

「私だって、憧れの父さんに、一歩でも近づきたいから」

 

 そう言うなり、娘はライフル銃を担いで、宵闇の迫る森へ向けて脇目も振らず走り去っていった。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「憧憬のエンゲルイェーガー」作品メモ

 2020年12月08日公開。

 通算二十五本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「この仕事を始めた理由」に応募するために書いた作品です。

 長い間オリジナル短編を書いていなかったので、今回はリハビリも兼ねてさらっと書いてみました。さらっと? いえ、やはり苦戦しました。特に、オチをどうつけるのかが悩みどころでした。

 今回は三つのプロット案を作り、その中から一番「書きたい」と思うものを選びました。そう、今書きたいものがホラーだったんですね。

 これを8000字に縮約するという大仕事が控えているのに目を背けつつ、今は「なんとか書き上げた!」という満足感に浸っておきます。

 次回もお楽しみに。

※加筆修正しました。(2023/07/09/日)

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