ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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26. ウォルフの掃除は終わった

 その日の朝もウォルフは、まだ誰も来ていない教室にカバンを置くとすぐに飼育小屋へ向かった。飼育小屋は中庭にあって、ガラス張りの温室の隣にひっそりと佇んでいた。

 

 彼は小屋の前に立つと鍵を回し、建付けの悪いドアをなるべく音を立てないように開けた。

 

 中には、ウサギたちがいた。大きいのが十二羽もいた。いずれも異なった毛の色で、血肉の通ったただの生き物にしてはあまりにもか弱く、愛らしい姿をしていた。よく肥えていて毛並みも良く、元気に溢れているウォルフの自慢の動物たちは、彼の姿を見ると、鼻をひくひくとさせながら足元に摺り寄ってきた。

 

 ウォルフは満足げにウサギたちを眺めた後、持ってきた袋の中身を床にぶちまけた。それは大量のキャベツの切れ端だった。ウサギたちはすぐにキャベツに群がると、一心不乱に齧り始めた。彼の母がザワークラウトを作る時に切り捨てた、食べるには硬すぎる部分をウサギたちは何の苦もなく口にし、飲み込んでいった。

 

 彼は二羽の純白のウサギを撫でながら、優しい声を投げかけた。

 

「アデーレにカール、今日もお前たちは一緒なんだね。本当にお前たちは仲が良いね」

 

 小川のせせらぎのようなウサギたちの咀嚼音を耳にしながら、ウォルフは満足感に浸っていた。他ならぬ彼が、このウサギたちをここまで大きくしたのだった。それは並々ならぬ熱意と努力の賜物だった。

 

 食事が終わった後、彼はウサギたちを小屋の隅に追いやりつつ、箒を手に取って掃除を始めた。

 

 ふと、彼は入口に誰かが立っている気配を感じた。振り向くと、そこには生物の教師がいた。中年の、頭が禿げかけた教師はウォルフに薄く笑みを投げかけると、おもむろに口を開いた。

 

「やあウォルフ、おはよう。ウサギたちは元気かな?」

 

 穏やかすぎるほどのその声音に、ウォルフは内心予感するものがあった。すぐに、彼の舌下にほろ苦いものが走った。彼は答えた。

 

「はい、先生。ウサギたちは元気です」

 

 ややぶっきらぼうなウォルフの短い返答に教師は気分を害した色もなく、満足げに頷いた。そして、なんということはないというふうに言った。

 

「そうか、それは良かった。じゃあ、この中から二羽、見繕ってくれ。今日の生物の授業で、ウサギの生体解剖をしたい。一羽は通常のジエチルエーテルで、もう一羽は例のニガヨモギとアスフォルデルの魔法薬で麻酔をかける。なるべく肥えていて、健康なやつを頼むよ。そうだ、そこの二羽、そのぴったりと寄り添ってる白い二羽だ。それが良い。それを頼む」

 

 教師が指さした先には、アデーレとカールがいた。ウォルフは即答しなかった。彼の顔に強い拒否の気配を感じとった教師は、やれやれといったように吐息を漏らした。

 

オオカミ(ウォルフ)という名前なのに、どうしてそんなにウサギ(ハーゼ)に執着するのかね。こんなのはただの家畜だよ。家畜だ。それに、こいつらは君の所有物じゃない。君に預けているだけだ。授業で使うとなったら、すぐにでも差し出してもらわないと困る。君ももう十四歳だろう。それくらいは分かるはずだ。それにな……」

 

 教師はシガレットケースから一本の煙草を取り出すと火を点け、軽く一服した後に言った。

 

「二週間後には、このウサギたちも全部軍に供出されることになっている。前線では飛行帽と防寒具が不足している。毛皮が必要なんだ。そう、このウサギたちは資源なんだよ。国防力形成に必要な資源だ。あまり生き物などに愛着を抱かないことだな。我が帝国の分別ある大人は、生き物ごときに入れ込んだりしないものだよ……」

 

 その日、生物の授業が終わった後、ウォルフは二羽のウサギの亡骸を抱えて、中庭の外れに墓を作った。アデーレとカールの墓だった。ウサギのように、こじんまりとした可愛らしい墓だった。

 

 ウォルフは墓穴を掘った時に土で汚れてしまった手を水道で洗うと、そのまま家路に就いた。

 

 その晩、彼はアデーレとカールを抱いている夢を見た。夢の中のウサギたちは元気で、ふわふわとしていた。目覚めた時、彼は自分の目から涙が零れていることに気付いた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ウォルフが十歳の時、戦争が始まった。

 

 彼の祖国である「帝国」は壮麗にして無惨な戦争を始めた。大陸随一の魔法科学と魔力工学技術を誇り、人口においても経済規模においても他国に抜きん出ていた帝国は、二度目となる世界大戦の引き金を引いた。優れた兵士と魔術師、高性能な兵器に新型の魔法術式……帝国は周辺諸国を次々に侵略し、征服して、占領地の国民たちを圧伏し、富を収奪した。

 

 当時、まだ幼かったウォルフには、同年代の子どもたちと同じく、戦争というものの実態を理解できていなかった。彼はただ戦争を、胸躍るもの、カッコいいもの、楽しいものとして受け取っていた。

 

 ウォルフが十二歳の時、故郷の街で郷土連隊が凱旋パレードを行った。彼は黒い純粋な瞳で、整然と隊伍を組んで行進する兵士たちを見た。青紫色のエーテル排気煙を噴き上げ、荘重な響きを立てて走る魔力戦車に興奮した。黒いマントをはためかせ、装具の銀色も鮮やかな魔術兵たちが、太く長い軍用魔術杖を掲げて歩調を合わせているのを見て、彼は自分もああいうふうになりたいと思った。

 

 そんなウォルフの隣で、父が彼の手を握りながら、ごくごく小さな声で言った。

 

「緒戦は上々だった。ポルスカ人も、デーン人も、フランク人もやっつけた。アングリア人も自分たちの島に逃げていった。問題はこれからだ。これからが勝つか、負けるかの分かれ道だ。あの兵士たちも、これからはきっと……」

 

 父の言葉に、ウォルフは軽い反撥を覚えた。父さんは、何を言っているのだろう? ぼくたちの国は勝ったじゃないか。これでもう戦争は終わるのに、どうしてそんなに気弱なことを言うんだろう……?

 

 そんなウォルフの幼稚な考えとは裏腹に、戦いはますます激化した。彼が見た凱旋パレードから一年後、帝国は東方のルーシ人たちの国に四百万の大軍をもって攻め込んだ。当初、帝国はルーシ人たちの国を一気呵成に呑み込む勢いを見せたが、次第に進撃の速度は鈍り、ようやく敵首都広場の尖塔を望見できる地点に辿り着いた時には、猛烈な寒気が押し寄せていた。

 

 その後、帝国は負け続けた。無数の敵を殺し、捕らえ、住民を連行し、殺し、食料と財産を奪い尽くしたが、帝国はそれ以上に敗北を重ねた。精鋭は次第に少なくなり、年老いた兵士が本国から戦線へと送られるようになった。

 

 ウォルフが十六歳になった時、彼の父も召集された。行く先はルーシ人たちと熾烈な戦闘を繰り広げている、東部戦線だった。父は出征前日、母と、ウォルフと、まだ六歳にしかならない弟を居間に集めて、厳粛な面持ちをしつつ言った。

 

「お前たちがつまらない希望にいつまでもしがみつくのに俺は()えられない。だから言っておく。俺は死ぬ。生きて帰らない。ルーシ人に殺されるだろう。明日からは俺がもうこの世にいないものとして考えてくれ。ウォルフ、お前はもう十六歳だ。母さんとエルンストを守ってやることができる。後は頼んだぞ」

 

 父はそれから半年後に死んだ。薄く青い紙に印刷されたたった一通の戦死公報には、死の詳しい状況などは書かれておらず、ただ「壮烈なる戦死を遂げた」とのみ書かれていた。とうの昔に覚悟していたはずなのに、ウォルフたちはその夜、ただひたすらに泣いた。

 

 ウォルフたちの生活は貧しかった。ほんの少しの遺族年金など、日々のパンを買うにも足りないものだった。戦況が悪化するにつれて物資は不足し、食料と日用品の価格は暴騰していた。母は朝早くから夜遅くまで兵器工場で働いた。ウォルフも学校に行くことをやめて、昼は製革工場で働き、夜は消防団の一員として訓練に励んだ。

 

 ある夜、ウォルフの街を敵の爆撃機の大編隊が襲った。それはアングリア人たちの重爆撃機だった。彼らは高射砲の弾幕と夜間戦闘機の迎撃を意に介さず、夜空から爆弾と焼夷弾の雨を降らせた。市街地と軍事施設、工業地帯の別なく、アングリア人たちは街を徹底的に焼き尽くした。それは地獄の業火というにも生温いものだった。

 

 ウォルフは無意味な消火活動に奔走した。消防団の貧弱なポンプと放水車では、街を包む炎にはまるで無力だった。戦線に送られず街に残っていた年老いた魔術師たちも命を削って盛んに水魔法を行使したが、結果は変わらなかった。

 

 炎は生き物のように揺らめき、建物を舐め、人を呑み込み、水すらも燃やした。三日後、街は燃え尽きた。彼が通った学校も、黄昏時に渡った橋も、甘いものを買い食いした市場も、すべて燃えた。さながら、街は巨大な骸骨だった。煤と埃で全身を真っ黒にした彼が、かつて家があったところに行くと、そこには瓦礫の山があるだけだった。

 

 ウォルフは母と弟を探した。かつてウォルフは父から「みんなを守ってやれ」と言われていた。だが結局、その言葉を守ることができなかったことを彼は知った。母と弟は共同防空壕で生き埋めになっていた。大型爆弾が直撃したとのことだった。彼が対面したのは、千切れた母の左腕だけだった。巻かれていた腕時計がなければ、おそらく判別できなかっただろう。彼は、白い靄がかかったような頭で、果たして二人は苦しんだのか、それとも即死できたのかと、そんなことを考えていた。

 

 すでに祖父母もなかった。他に親戚もいなかった。たった一人だけになってしまったウォルフを引き取ったのは、軍隊だった。他に行くところはなかった。入営した時彼が思ったのは、これでとにかく飢えと渇きを癒せるだろうということだった。彼の精神はあまりにも擦り切れていた。家族の死と、自分だけが生き残ったことの意味を考えることができないほどに、彼は消耗していた。

 

 食べて、寝れば、きっとまたぼくは悲しむことができるだろう。ウォルフはそんなことを思っていた。だが、軍隊は悲しみを必要としていなかった。命令されなければ悲しむことすらできないのが軍隊であることを、ウォルフはようやく知った。軍隊のシステムが内面化されていくにつれて、彼はいつしか涙も出なくなっていた。

 

 虐待同然のような訓練期間を経て、ウォルフはついに前線に送られた。そこは帝国の辺境に位置する、元はフランク人たちの住んでいた土地だった。敵はすでにすぐそこまで迫っていた。

 

 彼は右も左も分からぬまま、手に余るほど長くて重い旧式な銃を持って戦場を這いずり回った。彼は一度も銃を撃たなかった。いや、撃てなかった。彼はウサギのように隠れたり逃げたりするのに必死で、敵の姿さえまともに見たかどうかも怪しかった。仲間たちは次々と死んでいき、残ったのは彼だけだった。

 

 気づけば、彼は捕虜になっていた。その経緯に関する記憶が、彼の頭からはすっぽりと抜け落ちていた。だがウォルフは、そんなことはどうでも良いと思っていた。どうせ、大したことは起こっていないだろう。たぶん、なんとなく銃を捨てて、両手を上にあげて、隠れていた汚い家畜小屋かそれとも森の藪から出て行って、敵に向かって歩いていっただけだろう……

 

 ウォルフが収容所で捕虜生活を始めて四ヶ月後に、帝国は無条件降伏をした。しかし、ウォルフは国に帰ることができなかった。彼はある任務のため、フランク人の軍隊に属することになった。

 

 もっとも、国に帰ることができたところで、彼には何もなかったのだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 そのフランク人の男は、見るからに剛健だった。大柄の骨格に分厚い筋肉を纏っていて、カーキ色のシャツは力強く隆起していた。日差しを受けた軍曹の階級を示す襟章が、嫌にウォルフの目についた。

 

 軍曹は、二列に並んだ三十人の少年兵たちを前にして、大きなだみ声で言った。

 

「俺はお前たちが子どもだからといって容赦はせん。お前たちはブタだ。帝国の魔術主義の狂信者だ。俺たちフランク人の大地を侵略した帝国の大人共と何ら変わらん。だが、俺たちの国は野蛮な帝国と違い、文化国家だ。教育には力を入れている。これからお前たちがブタではなく人間として生きて行くために必要な更生の機会を、俺たちは用意した。それが文化国家としての使命だからだ」

 

 そこで一旦言葉を切ると、彼はウォルフを見つめ、前に出るよう顎で示した。ウォルフは逆らうことなく、前に出た。軍曹は言った。

 

「おい、ブタ。これからお前たちが何をやるか、分かるか?」

 

 ウォルフはなるべく大きな声でそれに答えた。

 

「いいえ、軍曹殿!」

 

 虚勢を張っていることを感じ取ったのか、軍曹は蔑むような表情を浮かべた。

 

「分からんのか。やはりお前たちはブタだな。いいか、お前たちが今日からやるのは、『お掃除』だ! 分かるか、お掃除だ! ブチ()いた反吐(へど)の後片付けは、反吐を吐いた奴がやるべきだよな。お前らブタは帝国が撒き散らした反吐の後片付けをする! どうだ、汚物漁りの得意なブタがまっとうな人間になるには、おあつらえの任務だろう。掃除ほど人間的な仕事はないからな!」

 

 それから軍曹は、具体的なことを話し始めた。彼が語るには、これからウォルフ達少年兵が行うのは、帝国が森林地帯に敷設した地雷の撤去作業とのことだった。帝国は侵入してくる敵を防ぐため、その森を地雷の巣に変えてしまったとのことだった。

 

「帝国がこの森にばら撒いた地雷は九千発! しかもこの地雷は、ただの地雷じゃない! お前たちの邪術が生み出した、魔力式自律自走地雷だ! 意味は分かるか? 地面に埋まって敵が来るのを待つだけの機械式地雷ではなく、自分で思考し、敵を見つけ、近づいてきて爆発する地雷なんだ! まったく、とんだ帝国の置き土産だ。これまでにベリーを摘みに森に入った地元住民が何人も死んでいる。とっくに戦争が終わったのにもかかわらずだ! お前たちはこれを命にかえても掃除しろ!」

 

 軍曹の言葉の後、メガネをかけた痩身の伍長がやってきて、ボソボソとした声で模型と図を用いて説明を始めた。

 

「魔力式自律自走地雷は、未だ謎が多い。動力源も管制方法も、何も分かっていない。だが、見た目と基本的な仕組みは分かっている。見た目はこの模型の通り、野ウサギとそっくりだ。素早く走り、穴に身を隠し、敵が来たら足元から飛びついて爆発する。だが、見分ける方法はある。両耳が青白い円筒形の物体に置き換わっていて、緑色に発光しているからだ。それが信管になっている。奴らを見つけたら、まず深呼吸をしろ。精神を落ち着けるんだ。地雷は、標的の負の情動反応を探知して接近してくる。殺意や敵意、敵愾心、恐怖……そのいずれも奴らを引き寄せ、爆発させる」

 

 伍長は淡々と説明を続けた。

 

「標的を見つけたら、心を平常に保って、近づけ。奴らを抱き上げたら、首の後ろを探れ。そこにボタンがついている。それを押した後、信管となっている耳を左から引き抜け。ただし、ゆっくりとだ。焦って強引に引き抜くと爆発する……いいか、くれぐれも平常心を保つことだ。恐れたり、敵意を向けたりしてはならない。さあ、この模型でこれから実践演習だ。まずそこのお前、前に出てやってみせろ……」

 

 ほどなくして、少年兵たちは森に送られることになった。訓練期間は一週間に満たなかった。当然、武器はなかった。地雷を、しかも正体不明の魔術兵器を無力化しなければならないのに、少年兵たちは銃剣一本すら持つことが許されなかった。

 

 初日、まだ樹々が闇を纏い(こずえ)が僅かに朝日に照らされているだけの早朝に、軍曹は言った。

 

「何度も言っているように、お前たちはそれぞれの区域で単独で行動する。複数人で組むと、除去の効率が落ちる。それに爆発した時に被害が大きくなるからな。おっと、逃げようだなんて思うなよ。森は深い。何も持たないお前たちが森を抜けるなど絶対にできん。もし仮に逃げたとしたら、その分だけ残った連中の食事を減らし、標準作業量を増やす。分かったな?」

 

 そこまで言ってから、軍曹は笑みを浮かべた。それは獰猛で凶悪な笑みだったが、どこか親しみの念も込められていた。彼は笑みを浮かべつつ言った。

 

「一人三百発を除去したら、家に帰してやる。三百発を掃除しない限り、家には帰さん。腕が千切れても足が無くなってもだ」

 

 少年兵たちは森に入った。

 

 最初は集団だった。途中で集団は次第に小さくなっていった。気付けばウォルフは一人になって、担当区域を歩いていた。

 

 彼は何も感じていなかった。ブタと罵られようが、狂信者と言われようが、何も反論する気は起きなかった。家族をすべて失い、生きていくために少年兵になったのだとあの軍曹に反駁したところで、何になるだろう?

 

 彼は今ではもう、家族のこともあまり思い出さなくなっていた。父の声も、母の顔も、弟の泣き顔も、すべてがおぼろげになり、幻影と化していた。

 

 学校の、ウサギ小屋の記憶……あれも薄れていた。ウサギとは、どんな生き物だったか? あれだけ手塩にかけて育て、大きくしたウサギたち、忘れるはずがないのに……

 

 アデーレとカール、あの子たちは、どんな子たちだったっけ?

 

 どうやらぼくは、人間的な感情を失っているらしい。ウォルフは冷静に自己を分析した。こんな精神状態なら、地雷を見つけても心が動くことはきっとないだろう。それがわずかに慰めとなった。

 

 彼は地図に示されたルートを辿り、コンパスを確認しつつ、森を進んだ。地図は粗末で、縮尺も小さく、高低差も記載されていなかったが、なんとかルート通りに進めていると彼は思った。

 

 深閑な森を、ウォルフは一時間歩いた。突然、彼の目の前を、何かが右から左へと横切った。見ると、ちょうど一匹のウサギが倒木の上に駆け上がるところだった。焦げ茶色のウサギはしばらくその場でもじもじするように身じろぎし、そして座った。距離は十メートルほどだった。毛の色に反してその両耳は白く、直線的で、先端から緑色の光を発していた。

 

 一瞬、ウォルフの鼓動が高まった。これは、間違いなく地雷ウサギだ。

 

 すると、ウサギはすぐに倒木から降りて、彼に向かって歩みを進めてきた。彼は言われた通り、深呼吸をした。心という容器の中身を吐息と共にすべて捨てるように、ウォルフは深く、静かに、呼吸器を駆動させた。

 

 ウサギは歩みを止めた。ウサギはいまだにウォルフをじっと見つめていた。だが、逃げるでもなくその場に留まっていた。自分の心が完全に平静さを保っていることを自覚したウォルフは、そっとウサギに近づいた。地雷というにはあまりにも愛らしい姿をしたそれは、少しだけ後ずさりをしたが、やはり走り去ることはなく、一分後にはウォルフの腕の中で静かに抱かれていた。

 

 地雷は、普通のウサギと何も異なるところがなかった。温かく、ふわふわとしていて、足は泥にまみれており、小刻みで早い鼓動をしていた。ウォルフはしばらくウサギを撫でていた。過去を懐かしむように彼は撫でた。それでいて、本当に懐かしむことがないように彼は気をつけた。負の情動反応で地雷は爆発する。もしかしたら、懐かしいという感情でも爆発するかもしれない……

 

 彼はそっと手を伸ばすと、ウサギの首の後ろを探った。すぐに指先が、何か金属質の硬い物に触れた。それがボタンだった。あたかも絞め殺すように、ぐっと彼は力を入れた。突然ウサギは脱力し、まったく動かなくなった。

 

 彼は次に左耳を掴むと、それを回しながら頭部から外した。耳と頭部の間には二本の、それぞれ赤色と青色に被覆された太い導線が通っていた。ウォルフは腰のポーチからペンチを取り出すと、練習した通り、まず赤色の線を断ち切り、次に青色の線を切断した。

 

 ペンチ越しに嫌な手ごたえがあった。まるで血管を切ったようだった。彼は冷静に、右耳も同じように処置をした。

 

 終わった時、彼は深く溜息を吐いた。気付けば、彼の全身の筋肉が硬直していた。深呼吸を繰り返しても、強張った体はなかなか元に戻らなかった。地雷としての生を終え、もはや永久に動かなくなったウサギを撫でてから、ウォルフは持ってきた大きな麻袋にウサギと、取り外した両耳を入れた。

 

 突然、どこか遠くの方から爆発音が聞こえてきた。彼は打たれたように体を震わせた。

 

 どうやら、隣の区域の誰かが地雷を爆発させてしまったようだった。ウォルフは、いったい誰が死んだのだろうと思った。ふと、ある少年兵の顔が彼の脳裏に浮かんだ。背の低い、オドオドとした、常に怯えているような顔をした少年……たしか、名前はエーミールと言ったか……?

 

 これからは、爆発音に気を付けなければならない。彼はそう思った。爆発音に驚いて、その上もし近くに地雷ウサギがいたら、今度はこっちまで爆死してしまう。彼は袋を担ぐと、さらにルートを先へと進んでいった。

 

 ウォルフはその日の夕暮れまでに、さらに四発の地雷を「掃除」した。その間、彼は何回か爆発音を耳にした。帰還地点に戻ってきたのは三十人中二十五人だった。帰ってこなかった者の中には、案の定あのエーミールもいた。

 

 生き残った者のうち、ウォルフが一番成果を上げていた。一方で、一発も地雷を除去できなかった者が八人もいた。

 

 積み上げられたウサギと信管の山を見て、軍曹はあからさまに不満そうな顔をした。

 

「これっぽっちじゃあ仕事をしたとは言えんな。帰ってこなかった五人はどうやらくたばったようだし……残りはまだ八千九百発以上もあるんだぞ。この分だとお前らが大人になっても掃除は終わらなさそうだな……!」

 

 罰として、その晩の少年兵たちの食事は減らされた。疲れ切り、空腹を抱えたまま、ウォルフは宿舎としてあてがわれた家畜小屋の床に横になった。耐え難いほどの臭気を放つ、半ば擦り切れた軍用毛布に体を包むと、ほどなくして彼は眠りに落ちた。

 

 夢の中で、ウォルフはウサギを抱いていた。地雷ではない、普通の白いウサギだった。彼はそれを抱いて弟に笑いかけていた。ウサギを渡そうとすると、弟は怖がって逃げようとする。彼はそれを見てさらに笑ったが、ふと気付くと腕の中のウサギの耳が緑色の光を放っていた。発光の間隔がどんどん短くなり、ウサギの鼓動もそれに比例するように早まっていった。起爆寸前の兆候だった。そして……

 

 目が覚めた時には、まだ深夜だった。狭い窓から差し込む月明りを浴びながら、ウォルフは自分がびっしょりと寝汗をかいていることに気付いた。

 

 

☆☆☆

 

 

 来る日も来る日も、ウォルフら少年兵たちは森に入った。毎日何人かが死んだ。爆発で即死せずとも、救助が来ることはまずなかった。激痛に泣き叫びながら、孤独に死を待つほかないのだった。翌日になって別の者が死んだ者の担当区域を引継ぎ、死体を確認したら、フランク人は名簿から名前を抹消した。死体は回収されず、そのまま放置された。死んだ事実が確認できればそれで良いのだった。わざわざ死体の回収のために人員を割く余裕などなかった。

 

 食事はジャガイモ数個に、たまに大麦の薄い粥があるだけで、少年兵たちは常に空腹だった。栄養不足のために思考が鈍り、そのせいで手順を誤って地雷が爆発する例も多かった。

 

 それでも、少年兵たちの数は減らなかった。毎日どこかから新入りが連れて来られた。新入りは研修期間が短く、たったの三時間程度の座学を受けただけで地雷の除去に従事させられた。

 

 ウォルフの成績は、他を圧倒していた。彼は徐々に除去実績を上げていき、一ヶ月が経った時点で百二十発近くの地雷を掃除していた。その頃には最初の三十人のうち、生き残っていたのは彼一人だった。

 

 その日、また六発の地雷の残骸を抱えて帰ってきたウォルフに、フランク人の軍曹は滅多にないことに親しげに声をかけてきた。

 

「お前、たしかウォルフとかいう名前だったな。ふん、狼らしくない、野蛮な響きだ。フランク人は狼のことを誇り高く『ループ』と呼ぶ。だが、成果は充分だ。狼だからこそ、ウサギ狩りが得意なのか? どうなんだ?」

 

 ウォルフは表情を変えず、大きな声で答えた。

 

「はい、軍曹殿! 自分はウサギを扱うのが得意です! 学校ではウサギを飼育していました!」

 

 すると、見る間に軍曹は顔色を変えた。怒っているような、それとも憐れむような、赤黒い顔を軍曹はしていた。軍曹は言った。

 

「……ふん、お前は狼じゃない、ただのブタだ! だが、ブタは食欲旺盛だ。今晩からお前たちの食事の量を増やしてやる。分かったな、ブタ……!」

 

 久しぶりに多少なりとも腹を満たすことができる食事を終えた後、ウォルフはまた横になった。周りの少年兵たちは、すでに安らかな寝息を立てていた。

 

 彼は、この一ヵ月で、ある考えを抱くようになっていた。

 

 ぼくたちは、地雷を掃除している。でも、掃除されているのはぼくたちも同じだ。フランク人は自分たちの祖国の大地から、さっさとゲルマニア人を掃除したいのだ。彼らがこんなにも危険な任務にぼくたちを充てるのは、なるべく自分たちに被害を出さずに、かつぼくたちを早々に処分したいからだ。帝国の魔術主義者の卵であるぼくたちなら、いくらでも使い潰しても構わない。軍曹はどうやら良い人みたいだが、彼が食事を増やしてくれたのは、ぼくたちに愛着を感じたからではなくて、ただ作業効率が落ちるのを危惧したからかもしれない……

 

 軍曹は言った。掃除ほど人間的な仕事はないと。じゃあ、掃除されるぼくたちはいったいなんなんだろう?

 

 ぼくたちは、ゴミなんだろうか?

 

 迷いや煩悶を抱いてはならない。それは心の乱れに繋がる。しかし、ウォルフは考えざるを得なかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 ウォルフが二百五十発目を除去した、その次の日のことだった。

 

 彼はいつも通り、森の中にいた。彼は午前中に三発を無力化し、午後に入って一時間も経たないうちに一発を除去していた。

 

 そして、彼はそのウサギたちに出会った。ウサギは二羽いた。いずれも純白で、この上もなくふわふわとしていた。

 

 思わず、ウォルフは声をあげそうになった。

 

 アデーレとカール!

 

 二発の地雷ウサギは、アデーレとカールにそっくりだった。忘却の彼方に消え去っていたはずの思い出が、奔流のように彼の精神に流れ込んできた。

 

 それでもウォルフは、強いてそれを押しとどめた。深呼吸をした後、彼はまずアデーレにそっくりな地雷を抱き上げて、慎重に信管を抜いた。その間にも、あるイメージが彼の脳裏をよぎっていた。あの日の生物の時間、ジエチルエーテルで眠らされて、生きたまま内臓を露出させられたアデーレ……アデーレの四肢は痙攣していた。小さな心臓が動いていた。思ったよりも、内臓は色とりどりだった……彼はそのことを思い出さないように努めた。

 

 カールにそっくりな地雷は、アデーレが無力化されるのを黙って見ていた。あの時と同じだとウォルフは思った。アデーレとカールは仲の良いつがいだった。二羽はいつも隣り合っていて、いつも寄り添っていて、一緒にキャベツを齧っていた。アデーレが麻酔を掛けられている時も、腹を切り裂かれている時も、カールは檻の中からじっとその様子を見ていた。

 

 ウォルフは、カールを抱き上げた。早く終わらせてしまおう。早くしないと、ぼくの心に悲しみが蘇ってしまう。それは、負の情動だ。彼はカールのボタンを押し脱力させて、耳を引き抜くと導線を切断した。

 

 あの時、ぼくはアデーレとカールを殺した。ぼくは今日また、アデーレとカールを殺してしまった。

 

 一連の作業が終了した後、彼はしばらく放心していた。地面には二羽の残骸が転がっていた。

 

 ふと、ウォルフの中にある考えが芽生えた。そうだ。アデーレとカールはここに埋めておこう。ここにお墓を作ろう。残骸を持ち帰らないと標準作業量として加算されないが、構うものか……

 

 半時間ほどかけて、彼は二羽を埋めることができるだけの穴を手で掘った。彼はアデーレの残骸を持ち上げた。

 

 突然、音が鳴り始めた。

 

 カチカチという、時計の針が刻むような音だった。それを耳にした瞬間、ウォルフはその意味を悟った。

 

 これは、きっと、時限信管だ。

 

 彼は知らなかったが、帝国は二種類の地雷ウサギを開発していた。一つは耳を引き抜くと機能が停止するタイプで、もう一つは耳を引き抜いてから数十分経過した後に自動的に爆発するものだった。アデーレは後者だった。帝国は二千発に一発の割合で、時限信管型を混ぜていたのだった。

 

 咄嗟に、ウォルフはアデーレを投げ捨てようとした。その刹那、彼の脳裏にアデーレとカールの思い出がよぎった。楽しかったあの頃の、ふわふわとしたウサギたちに囲まれていた、温もりのある記憶……それが一瞬だけ、彼に躊躇いを生んでしまった。

 

 投げられた直後、アデーレの残骸は彼から二メートルの至近距離で眩い紫色の魔力光を放ち、大音響と共に爆発した。

 

 

☆☆☆

 

 

 ウォルフは死ななかった。

 

 爆発で重度の火傷を負い、全身に破片を浴びて、両手の指が無くなってしまったが、彼は奇跡的に生きていた。

 

 翌日、別の少年兵がそこにやってきて、まだ生きている彼を発見し、任務を放棄して軍曹のところへ報告に戻った。

 

 軍曹は即座に動いた。軍曹は少年兵と共に担架を運び、瀕死のウォルフの元に辿り着くと、彼を乗せた。

 

 ウォルフは揺れによって意識を取り戻した。彼の呻き声を聞いた軍曹が声を掛けた。その声は普段と変わらぬだみ声だったが、どこか労るような気配が滲み出ていた。

 

「おい、まだ生きてるか、オオカミ(ループ)! もうすぐ森を出る。そしたら治療を受けさせてやる。フランク人はゲルマニア人とは違って、負傷者を絶対に見捨てない。お前はよく掃除をした。三百発には少し足りないが、国に帰してやるぞ。お前の掃除は終わったんだ。だから……」

 

 ウォルフは呻き声を上げるのを止めた。そして何かを呟き始めた。その声は、奇妙なまでに透明感を帯びていた。

 

「ぼく、ぼくは……ウサギが大好きだったんです。学校ではウサギを飼っていて……毎朝キャベツをあげて、小屋の掃除もしてあげて……」

 

 数秒の沈黙があった。彼はまた言った。

 

「でも、アデーレとカールを殺してしまった……ぼくが二人のお墓を掘ったんです……アデーレとカールのお墓、まだあそこに残ってるかな……学校の中庭の外れにあるんです……」

 

 ウォルフの目から、透き通った涙が零れ落ちた。

 

「ぼく、本当にウサギが大好きだったんです」

 

 すすり泣く声が、深い静寂を湛えた森の中へ溶け込んでいった。

 

 軍曹と少年兵は足早に、無言で担架を運んでいった。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「ウォルフの掃除は終わった」作品メモ

 2020年12月15日公開。

 通算二十六本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「お掃除」に応募するために書いた作品です。

 最初は機雷掃海に関する話にしようと思いましたが、どうにもファンタジー要素を入れられなかったので、今回のような話に落ち着きました。

 これからまたこれを8000字にしないといけないのですよ……どうしたものか……

 ちなみに私はウサギを飼ったことがありません。Twitterでウサギの画像や動画を見るのは大好きですが。

 次回もどうぞお楽しみに。

※加筆修正しました。(2023/07/10/月)
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