ラインの娘   作:ほいれんで・くー

27 / 52
27. 処刑場に舞うシュメッターリング

 その年の降誕祭の夜を、ハインリヒは一人で過ごさねばならなかった。

 

 彼は高い塔の最上階に位置する、狭い一室にいた。いたというよりも、彼はそこにいなければならなかった。彼はそこに閉じ込められていた。その部屋は通常の牢獄のように、じめじめとした剥き出しの石壁と堅固な鉄柵によって仕切られた部屋ではなかったが、その中にいなければならない彼自身は紛れもなく囚人だった。

 

 部屋には寝台と書き物をするための小さな机と椅子、それに簡易便器があった。それらに加えて簡素な魔石ランプがいくつかと、大量の書物を収めた本棚が壁を覆っていた。

 

 今頃、ここから四百キロ離れた王都の王城では、華やかな降誕祭の祝宴が開かれているだろう。寝台の上でハインリヒは溜息をついた。戦時下ではあるが、冬季ということもあって戦線は安定している。おそらく国内中の貴族や大領主が集まっているはずだ。父王フリードリヒは華美を嫌うが、政治的交渉と工作の格好の機会である祝宴を疎かにするようなことはしないだろう……

 

 なにしろ、第一王子を廃嫡したのだ。父王は、王子ハインリヒをただのハインリヒにし、塔に閉じ込めてしまった。すぐにでも次の後継者を指名する必要がある。そのためには、形ばかりでも有力者たちの意見を聞いておかねばならない。春が来れば父王はまた南へ外征に赴くことになる。その前にこの問題を解決しておく必要があるのは自明のことだ……ハインリヒは窓へ目をやった。窓は煉瓦と厚板と漆喰で完全に塞がれていた。

 

 去年の降誕祭は、ハインリヒが主役だった。父王は南の戦線に出征中で、冬の真っただ中に反乱を起こした独立諸都市を制圧するため、直接軍勢の指揮を執っていた。

 

 ハインリヒは、祝宴のために王城に参集した貴族たちが一様に浮かべていたへつらいの笑みを、未だによく覚えていた。彼らは口々に、ハインリヒに対して言った。

 

「王子殿下、来年こそは殿下の飛躍の年でございますぞ。どうぞ我々をお使いになって、この王国を良き方向へとお導きになってくだされ……」

 

 何を馬鹿なことを言う、とハインリヒはいまさらながら思った。彼ら貴族は王子に使われる気などまったくなかった。彼らの慇懃すぎるほどの態度の裏には、ある種の感情が隠されていた。若く世間知らずの王子を利用し、支配してやろうという、黒い欲望と侮り……だが、自分はそれを知っていたのではないか? 自分こそ連中を利用してやろうと思っていたのではないか?

 

 ハインリヒは再度深く溜息をついた。すると次の瞬間、彼の右脚の(すね)に痛みが走った。彼は思わず手を伸ばした。しかし、(すね)があるはずの部分には何も存在しなかった。

 

 幽霊痛というやつだ。彼はうんざりした。右脚が無くなってから、すでに半年は経過している。それなのに、この不可解な痛みに慣れることはない……

 

 寒気は一段と厳しく感じられた。傷跡の痛みは百足(むかで)の這いずりにも似ていた。寝台の上で毛布に包まって体を温めていなければ、体力を消耗してしまうのは明らかだった。だが、そのようなことはハインリヒにとってもはやどうでも良いことだった。彼は、未練がましく体力を温存していたところで意味がないことを理解していた。

 

 どうせ、春には処刑される身だ。

 

 するとその時、たった一つの出入口である鋼鉄のドアが何者かによって叩かれた。四回、鈍い金属音が室内に重く鳴り響いた。

 

 寝台から起き上がりつつ、ハインリヒは訝しんだ。こんなことはこれまでになかった。食事の時間はもう四時間も前に終わっている。それに、食事の時でもドアがノックされることなどない。ドアの下部に設けられた隙間から、音もなく食事が差し出されるのが普通なのだ。なぜドアを叩く?

 

 考えている間にも、ドアが再び音を立てた。同じように、連続する四回の重々しい音が響いた。寝台から降りることもなく、ハインリヒは声を上げてそれに答えた。

 

「入るが良い。わざわざ許可を求めるには及ばない。私は単なる囚人なのだから。そのドアを開けることも閉めることも、私にはできない」

 

 彼の声を受けて、ドアの向こうの存在は叩くのを止めた。一分ほど、静寂があたりを包んだ。やがて、鍵が軋む音を立てて、その後にドアがまるで恥じらうかのように開いた。

 

 そこに立っていたのは、黒いフードとローブに身を包んだ人物だった。背丈からすると、どうやら男のようだった。男は両手で小さな白い箱を持っていた。無言でハインリヒが腰かける寝台に近づくと、男は軽く頭を下げ、それからその白い箱を何冊か本が置かれている机の上にそっと置いた。

 

 男は無言のまま立ち去ろうとした。ハインリヒは男に声をかけた。

 

「降誕祭の夜に、いったい何の用か。その箱はなんだ」

 

 だが、男は声を無視した。そのまま音もなく歩みを進めると、男は音を立てずにドアを閉めて、去っていった。

 

 ハインリヒは寝台を降りると杖を手に取り、失われた右脚の代わりにしつつ、机へと向かった。

 

 彼は椅子に座った。しばらくの間、彼は身じろぎもせずに男が置いていった箱を見つめた。箱は上質の厚紙で出来ていた。蓋には王家の蝶の紋章が刻印されていた。おそらく、送り主は王家の者、つまり父王だろう。彼はそう推測した。

 

 いったい、この中身は何だろうか? すぐに彼の頭に浮かんだのは、毒薬だった。きっと、父王が私を殺すために寄越したものだろう。粉薬か、それとも水薬か……いずれにせよ、それは王国の魔術師に調合させた、服用した者をあたかも自然死であるかのように殺す毒薬に違いない。処刑台で首切り人に王家の血を受け継ぐ者の首を落とさせるのは、たとえそれが反逆者であっても、王の権威に傷がつくものだ。

 

 いや、どうかな? ハインリヒは考え直した。父王はそんなことに頓着しない。平気で首切り人に息子の首を(おと)させるだろう。殺す時は方法を選ばないのが父王だ。では、この箱の中身はなんだ?

 

 ハインリヒは一つ深呼吸をした後、箱を開けた。だが、中に入っていたのは、彼の予想とは異なるものだった。

 

 箱には一枚の紙が入っていた。紙にはただ一言だけ記されていた。

 

「私からあなたへ」

 

 その雄渾(ゆうこん)な筆跡に、ハインリヒは見覚えがあった。これは、父王の字だ。それにしても、これはどういう意味なのだろうか? 父王が「余」ではなく「私」と書くのも、息子のことを「あなた」と呼ぶのも、これまでに一度もなかったことだ。いったい、父王は何を言わんとしているか、何を伝えようとしているのか……

 

 しばらく彼は、その謎の記述について考えていた。やがて、彼はもう一つ、あることに気が付いた。

 

 紙の右上に、小さな真珠のようなものが張り付いていた。紙をひっくり返しても、それは落ちなかった。純白で、真球に近いその何かは、指先で軽く触れると、ほのかな温かみを持っていることが分かった。

 

 これが毒薬なのだろうか? それとも、何か別種の魔道具だろうか? ハインリヒには判断が付きかねた。

 

 一時間ほど、彼は迷った。これが毒薬ならば、私はすぐにでも死ぬことができる。だが、もし違ったら? もし、この真珠のような玉に別の意味が込められているとしたら……?

 

 ハインリヒは結局、それを飲まないことにした。何も降誕祭の日に死ぬことはあるまい。彼はそう思った。それに、父王の思惑どおりに死ぬというのも、気が進まないことだ。彼は寝台に戻ると毛布を被り、ほどなくして寝息を立て始めた。

 

 その夜、ハインリヒは夢を見た。幼い頃、王城の花畑で女の子とかくれんぼをして遊んだ時の記憶が、夢の世界で蘇った。ハインリヒが彫像の陰で息を潜ませていた彼女を見つけると、女の子は楽しそうに笑って、彼に抱きついてきた。

 

 女の子は言った。

 

「ハインリヒ様、これからもアネシュカがどこかに消えてしまったら、今のように見つけ出してくださいね……」

 

 ああ、アネシュカ、きっとそうするよ。彼はそう答えようとしたが、声は水気の多い粘土のようで、喉の奥に詰まってしまった。

 

 

☆☆☆

 

 

 鉄格子が(はま)った小さな窓から、黎明の薄光が差し込んでいた。まだ夜明けからさほど時間が経っていないようだった。ハインリヒはしばらくまどろみを楽しむことにした。目覚めているのか、それとも眠っているのか、その曖昧な感覚が彼に安らぎを与えてくれた。死も、このようなまどろみの中だったら素直に受け入れられるだろうのか……? そんなことを彼は考えていた。

 

「お目覚めかね」

 

 突然聞こえてきた声に、ハインリヒは耳を疑った。素早く身を起こすと、彼は辺りを見わたした。しかし、室内に何も変わったところはなかった。

 

 幻聴だったのだろうか? そう思うのと同時に、また声がした。

 

「お目覚めかね、ハインリヒ。寝起きに悪いが、どうかこちらに来てくれないか? そう、机の方に来てほしい」

 

 知的で、冷静さを(たた)えた声だった。ハインリヒは机に目をやった。相変わらず、その声の主の姿は見当たらなかった。彼は自身の心臓が高鳴るのを感じつつ、苦労して移動すると、机の前に座った。

 

 そこでようやく、彼は声の主を見つけた。それは箱の中にいた。

 

「はじめまして、ハインリヒ……ふむ、驚いたような顔をしているな。まあ、それも当然か」

 

 それは、大きな芋虫だった。長さは六センチほどもあった。芋虫は親指のような太さをしていて、体色は鮮やかな紫色をしていた。

 

 だが、何よりもハインリヒにとって意外だったのは、その芋虫に人間の顔がついていたことだった。頭頂部にはまばらに金髪が生えており、太い眉も同じく金色だった。鼻はなかった。口はあったが、唇はついていなかった。目は人間そっくりで、赤い瞳が輝いていた。

 

 それはまさに怪物だった。怪物というにはいささか小さすぎたが、やはりそれは異形で、普通ではなかった。絶句しているハインリヒに、芋虫は言った。

 

「せっかくお目にかかったのだ。こちらも名乗りたいところではあるのだが、あいにく私には名がなくてね。芋虫、とでも呼べば良い。よろしく、ハインリヒ」

 

 芋虫は目礼をした。礼のつもりだろうか? 怪物が礼を弁えているなど聞いたことがない。そんな埒もないことを考えつつ、ハインリヒの口は自然と開いていた。

 

「お前は、どこから来たのだ? いったいいつ、この部屋に入ってきたのだ?」

 

 彼の問いに対して、芋虫はあからさまに眉をしかめた。

 

「聡明な君らしからぬ、愚かな問いだな。だが、答えよう。私はどこから来たのでもない。ここで生まれたのだ。夜が明ける前、私はここで生まれた。一般的な芋虫と同じく、卵から生まれたのだよ」

 

 ふと、ハインリヒの中で思い当たることがあった。あの紙に貼り付いていた玉、あれが卵だったのだろうか? それにしては、その紙がどこにも見当たらなかった。

 

 彼の考えを読んだように、芋虫はゆったりとした口調で言葉を発した。

 

「そう、私の卵は一枚の紙に産み付けられていた。私は卵の殻を破ってこの世に姿を現した後、まず猛烈な空腹感を覚えた。だから、最初に卵の殻を食べた。それでも飢えは収まらなかった。だから、紙を食べた。やや腹は落ち着いたが、それでも食欲は満たされなかった。だから、そこにある本を食べた。一冊を丸ごと食べてしまったが、良かったかね? 大事な本だったら申し訳ないが……」

 

 ハインリヒは呆然と芋虫の言葉を聞いていた。たしかに机の上に置いておいた本が一冊、革の装丁を残して、中身のページがすべて失われていた。

 

 芋虫は淡々と言葉を続けた。

 

「本を一冊食べたことで私の空腹は収まった。すると、今度は自分の体が窮屈に感じ始めた。私は脱皮をすることにした。無事にその難事業を終えると体が大きくなり、私は自分が知性と言語を得たことに気が付いた。ちょうどその時、君が目覚める気配がしたから、声をかけたというわけだよ……」

 

 ようやく、ハインリヒは声を出すことができた。

 

「お前は、いったい何者だ?」

 

 もぞもぞと芋虫は体を動かした。どうやら困惑しているようだった。

 

「何者か、とは、随分と難しい質問をしてくれるな。それに答えることはできるが、さて……?」

 

 しばらくの間、沈黙が部屋を満たした。すると、ドアの方から音がした。ハインリヒが目をやると、そこにはトレーに載せられた食事があった。

 

 芋虫は箱の中から外へ身をもたげると、ドアの方を見やった。芋虫は言った。

 

「ふむ、ちょうど食事の時間のようだな。どうだね、一緒に食事をしながら、私のことについて話そうではないか」

 

 ハインリヒは言った。

 

「一緒に食事だと?」

 

 芋虫は静かに頷いた。

 

「そうだ。君はあのトレーに載っている粗末な黒パンと、薄いスープを食べる。一方、私は紙を食べる。いや、紙というより、文章だな。文章が書かれている紙が食べたい。本を一冊見繕ってくれないかね。私がさきほど食べたのは、つまらない年代記だった。年代記というものは中身がないのに、理解するには妙に頭を使う。今度は頭を使わない、騎士物語のようなものが良いのだが……」

 

 ハインリヒは本棚から適当な本を一冊取り出すと、芋虫の前に広げてやった。芋虫は短い足を動かして這いずると、ページの上に登った。ハインリヒは芋虫が登ったのを見届けた後、ドアの方へよろよろと歩いていった。彼は食事のトレーを持ち上げて、それを運んだ。

 

 やがて、二人は向かい合って食事を始めた。

 

 王子は黒パンを千切りながら、芋虫に再度問いを投げかけた。

 

「それで、芋虫よ。お前はいったい何者なのだ。なんの目的があってこの牢獄へやって来たのだ」

 

 芋虫はささやかな咀嚼音を立ててページを食べていたが、それを止めると、王子に顔を向けた。

 

「私は何者であるのか? 私は、贈り物だよ。私は、君の父から君に向けて贈られた、いわば愛玩動物だ。いや、虫のことを愛玩動物とは言わないかな……それに、私に課せられた使命はとても重大なものだ。ただの愛玩動物には到底見合わないほど重大な使命を私は帯びている……」

 

 芋虫はいったん言葉を切ると、再度口を開いた。

 

「とにかく、私は降誕祭の贈り物だ。紛れもなく君の所有物であると言って良い」

 

 ハインリヒは、芋虫の言葉に反駁した。

 

「そのようなことはあり得ない。王が私に贈り物をするなど、あるはずがない」

 

 芋虫は答えた。

 

「どうしてそのように言う? 父親というものは息子を愛するものではないのかね? 息子を愛するから、息子に贈り物をするのではないのかね?」

 

 芋虫の反論に、ハインリヒは苛立たしげにパンを噛み締めた。スープを一口含んで飲み込んだ後、彼はまた口を開いた。

 

「小さな虫よ。私は反逆者なのだ。王の絶対的権威に反抗し、軍を率い、脆くも一撃で敗北し、王位継承権を剥奪され、今はこの尖塔に幽閉されている。いずれ王は、私に死を賜るだろう。王が私を愛しているはずがないのだ」

 

 王子の言葉を聞きながら、芋虫はしばらくページを食べ進めていた。すでに本の三分の一ほどが食べられていた。それなのに、芋虫の大きさは変わっていなかった。芋虫は糞さえ出していなかった。ハインリヒはそのことに気付いて、この芋虫の異常性を改めて認識した。

 

 芋虫は時間をかけて大きな紙片を食べ終えると、穏やかな口調で言った。

 

「ふうむ……そういうものなのかね。しかし、私が王によってこうしてここに送り込まれ、君と話しているということは、少なくとも君が送らざるを得ない単調で退屈な幽閉生活をほんのちょっとでも紛らわせていることにならないかね? であるなら、君の父は、君の孤独を癒すために私を贈ったと考えられるのではないかね? それはやはり、愛情のなせるところではないかね?」

 

 賢しげなことを言う芋虫に、ハインリヒは突如として怒りを覚えた。ただの芋虫の分際で、私と父の関係について論ずるとは許せん。彼は木のスプーンを振り上げた。

 

 そんな彼の様子を見ても、芋虫はまったく顔色を変えなかった。

 

「短気を起こすのはやめたまえ。先ほどの私の言葉が君を怒らせたのなら、私は素直に謝ることにしよう。殺したいのなら、殺しても構わない。私は君の所有物なのだからな。だが、本当に私を殺して良いのかね? 父の愛については虫である身ゆえよく分からないが、とにかく私が君の慰めとなるのは間違いない。幽閉生活において誰も話し相手がいないというのは精神をひどく患わせるというではないか。先ほど食べた年代記にはそうして発狂した者について書いてあったが……」

 

 言葉を聞いているうちに、ハインリヒの感情は平静を取り戻していた。彼はスプーンを下ろした。

 

「……たしかに、私は会話に飢えている。たとえ小さな芋虫一匹であっても、今の私にとっては貴重な存在だ」

 

 芋虫は満足そうに頷いた。

 

「よろしい。賢明な判断だ。では、まず食事を終えてしまおうではないか。会話をするにも栄養が必要だ」

 

 ハインリヒと芋虫は無言で食事を進めた。芋虫は結局、本を一冊食べ切ってしまった。

 

 それにしても、芋虫が話し相手か。ハインリヒは内心で独り言ちた。とても自分には見合わない相手だと彼は思った。芋虫には未来がある。芋虫はやがて(さなぎ)となり、羽化して蝶となる。一方で、私には未来などない。未来という無限の財産のある者が、未来を閉ざされた者と会話をする……

 

 なるほど、大した贈り物だ。ハインリヒはそう思った。

 

 

☆☆☆

 

 

 一週間が経った。その間、彼らはよく話をした。ハインリヒは芋虫が深い知性を持ち、かつ落ち着いた性格をしていることを知った。次第に、彼は自分の身の上について話すようになった。

 

「私がこのような境遇に身を落とすことになったのは、すべて父王の暴政が原因だ。王は国内政治を顧みず、外征に次ぐ外征を繰り返した。大陸南部の半島の支配権を握るためだ。だが独立諸都市の勢力は強く、王の軍勢を以てしても完全に制圧できなかった。民は重税に苦しみ、貴族たちは度重なる軍役に耐えられなくなった。そこで、私が()つことにした……」

 

 日が経って少しばかり長く太く成長した芋虫は、そこで口を挟んだ。

 

「本当に君は『起った』のかね?」

「どういう意味だ、その言葉は?」

 

 王子の反問に対して、芋虫は大儀そうに体を動かした。本の上から箱の中へ移動してから、芋虫は答えた。 

 

「話を聞くと、君はどうやら利用されたようだな。『起った』のではなく、君は『起たされた』のだ。貴族たちは王の居ぬ間に国内政治の実権を握ろうとし、その旗印として君を担ぎ上げた。君はまんまとそれに乗せられて、その結果大失敗をした。右脚を失ったのも、戦闘による結果なのではないかね。随分と高い代償を君は払わされたようだな」

 

 ハインリヒは眉をひそめた。だが、芋虫の言葉に反論はしなかった。

 

「……その通りだ。王の軍事的才能は、私の予想を遥かに上回っていた。それに、王は決して国内政治を軽んじていたわけではなかった。むしろ、外地に長く身を置いている分だけ、情報収集には熱心だったようだ。私が叛旗を翻したのを知るや、父はすでに雪深くなっている大山脈を越えて、神速とも言える速さで軍をこちらにかえして来た。こちらが兵力を結集する前に、父は私が率いる軍を補足すると、たった一回の会戦で粉砕してしまった。私の右脚は砲弾で打ち砕かれたのだ……」

 

 一旦言葉を切ると、ハインリヒはやや顔を曇らせて、再度口を開いた。

 

「無論、私は貴族たちの思惑に気付いていた。彼らが父の絶対的な王権に楔を打ち込むために私を利用しようとしていることを、私は察知していた。だが、私は敢えて()つことにした。それはひとえに、民の窮状を救わんと願ったからであるが……」

 

 突然、芋虫が遮るように口を挟んだ。

 

「そうかね? 本当に? 民を救いたいというただそのためだけに、君は()ったのかね?」

 

 無粋とも言える芋虫の問いに、ハインリヒは鼻白んだ。

 

「どういう意味だ、それは」

 

 芋虫は、その赤い瞳でじっとハインリヒを見つめた。

 

「この一週間、君と話をしていて気付いたことがある。君はどうやら、父を憎んでいるようだ。暴政と君は言うが、君の父の対外政策には一定の意義が認められるように私には思われる。半島の大教会に対して王権による政治の優位性を確立することは、王国の繫栄には不可欠ではないのかね。そうであるならば、王の体外政策はこの国に消耗を強いるものではあっても、暴政とまでは言えまい」

 

 芋虫は、続けて言った。

 

「そして、そのことを君はしっかりと理解しているようだ。君がこれまで語ってきたことは一種の建前で、本当は何か別の意図が隠されている。そのように私には思われてならないのだが……」

 

 核心を突かれて、ハインリヒは言うべき言葉を失った。少しの間、魔石ランプの燈心が焦げる音だけが聞こえた。

 

 しばらくして、彼は言葉を発した。

 

「……その通りだ。私は、王を憎んでいる。それはごく個人的な、つまらない理由によるものだ。王位継承者としてあるべき者が抱いてはならぬ感情を、私は捨て去ることができなかった」

 

 芋虫は表情を変えずに言った。

 

「それは、アネシュカのことかね?」

 

 思わぬ人名が出て来たことに、ハインリヒは驚愕の面持ちを隠せなかった。ハインリヒの顔を見つめつつ、芋虫は言った。

 

「そう驚かなくても良い。なぜ私がその名を知っているのかといえば、答えは簡単だ。君は毎晩(うな)されている。そして君は決まってある名前を、うわ言のように叫ぶのだ。『アネシュカ』とね。そのアネシュカと君との間に、何があったのかね」

 

 この芋虫にはなんでもお見通しらしい。ハインリヒは全てを包み隠さず話すことにした。

 

「……アネシュカと私はもともと、結ばれる運命だった。アネシュカはベーメン大公の娘で、私とは幼馴染だった。互いに好意を抱いていて、将来を誓い合っていたし、それに王も当初は結婚には賛成だった」

 

 ハインリヒは言葉を続けた。

 

「だが一年前、王はそれを突然破談にした。王は私の結婚相手として、バーベンベルク大公の娘を選んだ。防衛政策上の必要、というのが王の挙げた理由だった。事実、その通りだった。王国の安全保障は、バーベンベルク家との繋がりを強化することなしには確保できなかったのだ。それを分かってはいたのだが……」

 

 芋虫は相変わらずの無表情のまま、ハインリヒの言葉を静かに聞いていた。ハインリヒは言った。

 

「アネシュカは絶望し、病を得て、死んでしまった」

 

 ハインリヒは自分の声が震えるのを感じた。

 

「私はその時初めて、王に対して明確な憎悪を抱いた。国と民のことを思うのならば、私はアネシュカへの愛と彼女との思い出を捨てて、新しい婚約者と結ばれるべきだったのだろう。だが、私はもう王の傀儡(かいらい)として生きるのに()えられなかった」

 

 ハインリヒは言葉を切った。アネシュカは死んでしまったのではない。私が殺したのだ。他ならぬこの私が彼女を絶望の淵へと追いやり、彼女を病ませ、彼女を殺した。すべては私のせいだったのだ。彼はそう思った。

 

 ややあって、彼は言った。

 

「……何も考えずに父に従って生きてきた結果が、アネシュカの死だった。貴族共の思惑に敢えて乗ったのは、そうする以外に、悲しみを癒すことができそうになかったからだ……」

 

 ハインリヒの目に、涙が浮かんだ。

 

「今もアネシュカのことを夢に見る。彼女の魂は、まだこの世を彷徨っているに違いない。失意のままに死んだ者は、決して天へと昇ることができないと聞く……」

 

 涙はしばらく瞳を潤して、やがて静かに流れ落ちた。

 

 部屋に沈黙が満ちた。ややあって、芋虫が口を開いた。

 

「君は、王家の紋章がなぜ蝶なのか知っているかね?」

 

 唐突な問い掛けに、王子は怪訝な顔をした。それでも、彼は答えた。

 

「初代国王が西方の異教徒の大軍と決戦した際、一匹の蝶が剣の先に止まり、敵陣のほころびを示したことで、勝利を得た。それが由来だと聞いている」

 

 王子の言葉に、芋虫は頭を軽く左右に振った。

 

「いや、それだけではないのだ。実は、蝶の紋章には他に意味が隠されている。いいかね、蝶は『魂を運ぶ者』なのだ。私のような芋虫はいつか(さなぎ)となり、そして繭を破って、新たに蝶として生まれ変わる。蝶は空を自由に飛び回り、花の蜜を吸うが、それと同時にこの世に漂う魂を導き、新たなる生へと誘うのだよ。それは永遠の命を暗示している。だから王家は、蝶を紋章として採用したのだ。まあ、教会の教えはこのことを異端と断ずるだろうがね」

 

 王子は言った。

 

「いったい、何が言いたいのだ?」

 

 睨むような目つきの王子に、芋虫ははっきりと視線を合わせた。

 

「悲しみを抱いたまま死んだアネシュカの魂は、今もなおこの世に留まっているかもしれない。だが、彼女はいつか蝶に導かれて、生まれ変わって新たな生を送ることになるのではないかな。君が泣こうが嘆こうが、彼女は彼女の命の法則に従って、また別の世界へと旅立っていく。蝶という協力者は必要かもしれんがね。そう考えれば、あなたも少しは楽になるのではないか……」

 

 ハインリヒは、それにすぐに言葉を返すことができなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 春が近づいてきた。それは草木が芽吹き、獣たちが長き眠りから目覚め、そして人間たちが戦を始める季節であった。

 

 ハインリヒの処刑は、王が軍勢を進発させるその前日に行われることになった。その夜、黒いローブの男があの時と同じように無言で入ってきて、一枚の紙を置いていった。それはハインリヒの元養育係が書いて寄越したもので、それに処刑の日取りがはっきりと記されていた。

 

 彼はその紙を芋虫にやった。すでに卵から孵って数ヶ月が経っていた。芋虫は脱皮を繰り返し、見違えるほどに大きくなっていた。

 

「最近、奇妙なまでに食欲が増していてね。どうやら、私はもうすぐ(さなぎ)になるようだ。私が蝶になるか、それとも()になるかは分からないが、とにかくとても美しい存在として生まれ変わるのは間違いない」

 

 芋虫の言葉に、ハインリヒは薄く微笑んだ。彼は言った。

 

「そして私は、羽の生えた君を見ることはない。君が今食べてしまった紙に書いてあったように、私は二週間後には処刑される。そろそろ君ともお別れというわけだな」

 

 自分の死がいつ訪れるのかを知っても、ハインリヒの心は至極穏やかなままだった。芋虫のおかげだと彼は思った。あれから芋虫とは随分多くの会話を積み重ねた。幼い日の出来事、アネシュカとの思い出、家庭教師から受けた教育、父との会話、初陣、敵を殺したこと、母の死……

 

 会話を通じて、ハインリヒはそれまでの人生に整理をつけることができた。

 

 アネシュカのことを思うと、未だに彼の胸の内に悲しみが蘇った。だが、王に対する憎しみは、いつの間にか消えていた。王は王なりに、王国の未来について考えていたのだ。そして、息子から激しく憎まれようとも、王国の更なる繁栄と安寧のための苦しい決断を下したに違いない。彼はそう思うことができた。

 

 芋虫がいなければ、このような心持ちには決してなれなかっただろう。だが……

 

 考え込むハインリヒに、芋虫は言葉を投げかけた。

 

「どうやら君には、何か心残りがあるようだな。この(さい)だから言ってみたらどうだね?」

 

 ハインリヒは、芋虫に目を向けた。芋虫は丸々と太っていて、悠然と箱の中で寛いでいた。ハインリヒは言った。

 

「……アネシュカを失った悲しみを、私は忘れることができない。私はそれを抱いたまま死んでいくだろう。王への憎しみは消えてしまった。今となっては、王の政治も少しは理解できた。王も苦しみつつ、考え抜いて、一つ一つ決断を下していたのだろう。だが、君が言うように一つだけ、私には心残りがある。それは、はたして王が私を愛していたのか、ということだ。はたして王は、私が処刑された後、悲しんでくれるだろうか……?」

 

 あるいは王が肉親の情に絆されて、処刑を取りやめるかもしれない。だが、そんなことはあり得ないだろうとハインリヒは思った。王は国法の厳格な守護者にして執行者である。反逆者は必ず処刑するだろう。

 

 私は、王が愛するに足るほどの人間だったのだろうか? ハインリヒの顔は曇った。

 

 すると突然、芋虫は薄く笑みを浮かべた。初めて見せるそのどことなく不敵な笑みに、ハインリヒは驚いた。

 

 芋虫は背筋を伸ばすと、堂々たる口調で言った。

 

「それには簡単に答えが出せる。君の父は、間違いなく君を愛していたよ。というのは、君が死を迎えた後、君の魂が再びアネシュカの魂と出会えるために、私はここに送り込まれたのだからな」

 

 自信たっぷりな口調だった。ハインリヒは声をあげて笑った。芋虫は不満げな顔をして言った。

 

「なぜ笑うのかね? これは事実なのだよ。私にはその能力がある。魔術師たちは、そのように私を創ったのだ。魂を導く力を魔術師たちは私に与えた。だから、安心して良い。君が死んだ後、私は必ず君の魂をアネシュカの元へと連れていく。君は私の背に乗って、のんびりと遊覧飛行を楽しめば良い」

 

 ひとしきり笑った後、ハインリヒは表情を元に戻した。そして、神妙な面持ちを浮かべて芋虫に言った。

 

「ありがとう。君がそう言うのなら、私は安心して死んでいけるだろう。死んだ後のことは任せたよ」

 

 その時、ふっと芋虫は口から何か白いものを吐き出した。芋虫は言った。

 

「おっと、糸が出て来たな。今夜のうちにも私は(さなぎ)になるようだ。時期的にもぴったりだな。うむ、だんだん意識も薄れてきている。君とこうして話ができるのも、そろそろ終わりのようだ」

 

 芋虫はしばらく、自分の体に向かって糸をはきかけ続けていた。体の半分ほどが糸で覆われた時、芋虫は口を開いた。

 

「そうだ、一つだけ大事なことがあった。君の魂を運ぶためには、ある合言葉が必要なのだ……」

 

 ハインリヒは言った。

 

「その合言葉とは、なんだ?」

 

 芋虫は体に糸を吹き付けつつ答えた。

 

「君はすでにそれを知っているはずだ。君の父が直接、君にそれを教えている。ほら、思い出したまえ。あの紙だよ……」

 

 翌朝、これまでにないほど充実した眠りからハインリヒは目覚めた。

 

 彼は机に目をやった。芋虫は、箱の中で大きな(さなぎ)になっていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 空は清々しく晴れ渡っていた。ハインリヒは失った右足の代わりに杖をつきながら、処刑台の横に立っていた。

 

 周りには見届け人の司法長官と少数の護衛以外、誰もいなかった。処刑人はハインリヒがよく知っている、王国随一の剣の使い手だった。処刑人は、反乱時には護衛として常にハインリヒの傍にいた。

 

 尖塔には王家の旗が翻っていた。濃紺の布地に金糸で蝶の紋章が縫い取られていた。ハインリヒはしばらく旗を見つめていた。

 

 司法長官が処刑命令書を読み上げた。ハインリヒは処刑人が促すまでもなく、自ら跪くと、台の上に首を乗せた。

 

 処刑人が声をかけた。

 

「殿下、最後にお言葉はございませんか」

 

 その声音はかすかに揺らいでいた。ゆっくりと、ハインリヒは目を瞑った。

 

 そして、風に嘯くように彼は言った。

 

「私からあなたへ」

 

 処刑場に、一瞬の煌めきが走った。直後、何かが転がる鈍い音が響き渡った。処刑人は血に塗れた長剣を投げ出すと、震える手で(ひたい)の汗を拭った。

 

 その時、どこかから、一匹の蝶が処刑場に舞い込んで来た。小鳥のように大きな蝶だった。

 

 鮮やかな紫色の羽に黄金の鱗粉を纏った蝶は、その場を踊るように一周した後、ふわりと羽ばたいて、ぐんと高度を上げた。

 

 大気の流れを捉えた蝶は、青い空の彼方へ、どこまでも遠くその先へ、ひらひらと飛んでいった。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「処刑場に舞うシュメッターリング」作品メモ

 2020年12月19日公開。

 通算二十七本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「私からあなたへ」に応募するために書いた作品です。

 久しぶりに純粋なファンタジーを書いたような気がしています。

 今回芋虫をメインキャラクターの一人として書いたのは、これまで私の作品の中で芋虫がかなり邪悪な役回りをさせられてきたことへの反省でもあります。他に、別のコンテスト「ミステリアスなキャラ」を書く上での練習としての意味もあります。

 しかしやはり一万字の短編に収めるには少し大きなプロット……これに関してはもう書いて書いて書きまくってコツを掴んでいくしかありませんね。

 次回もどうぞお楽しみに!

※加筆修正しました。(2023/07/11/火)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。