ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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28. 南冥のカッサンドラー

 その島にいる限り、()だるような暑熱と湿気から逃れることはできない。その日の天候も、残酷なまでに雲一つない快晴だった。

 

 島の各所から、爆発音が連続していた。爆発音は鬱蒼とした密林に木霊(こだま)し、次第に吸い込まれていった。音が消えようとするその次の瞬間には、また新たな音が生まれた。密林に棲む動物や鳥たちは、当初こそ驚き慌てたが、今ではもう爆発音に慣れ、まどろみを貪っていた。

 

 爆発音は、石灰岩で構成された島の地面に穴を穿(うが)つための、発破の音だった。ツルハシやスコップを人間の膂力で振り下ろすだけでは、この島の硬い岩の大地に工事を施すことはできなかった。火薬の力に頼ることなしに、それを完遂することは不可能だった。

 

 何しろ、総数二万数千名にもなる将兵を収容するための陣地を作り上げようというのだ。要求される火薬の量は膨大だった。

 

 午前の最後の発破が終わったその時、護郎(ごろう)は、濛々(もうもう)と巻き上がる土煙を見やりつつ、(ひたい)に流れる汗を手で拭った。彼は刈り込まれた黒い髪の上に略帽を被り、伍長の襟章が付いた薄手の生地の防暑衣(ぼうしょい)に身を包んでいた。彼はやや小柄で、同僚たちと比べると頭一つ分背が低かった。

 

 それでも、際立っていたのは、護郎の目つきだった。それは、その体格に比して異様なまでに鋭かった。いや、それは彼だけではなかった。彼の周りにいる同僚たちも、同じように烈しい光を放つ目を持っていた。

 

 煙が晴れた時、そこには大きな横穴が出来上がっていた。山腹にいくつもの横穴が整然と並んでいた。護郎の隣にいる中隊長はそれらを眺めつつ、煙草に火を点けて悠然と一服してから、満足げに言った。

 

「よし、これで最低限の退避壕は出来上がったというわけだ。これで俺たちの戦車を艦砲射撃と空襲から守れるだろう。まったく、最初にこの島に来た時はどうしたものかと思ったが……」

 

 護郎は後方に目をやった。そこには彼の部隊が装備する魔力式戦車が並べられていた。濃緑色を基調として、黄土色や茶色の帯で細かな迷彩塗装が施された魔力式戦車は、ちょうど中天に差し掛かろうとする太陽の凶暴な光を受けて、鈍い輝きを放っていた。

 

 壮観だ。護郎はそう思った。流石は帝国陸軍の最精鋭である、俺たち戦車部隊だ。これだけの数がいて、これだけの優秀な乗員が揃っていれば、必ずや敵と面白い戦争ができるだろう。

 

 そうでなければ、あの酷寒の大地から、わざわざこのような南の海の果てに来た甲斐がない。護郎も中隊長に倣って、煙草に火を点けた。一仕事を終えた後の一服はやはり美味い。敵を倒した後ならば、きっと格別な味わいがあるだろう……護郎はまだ敵と戦ったことがなかった。

 

 護郎が煙草の煙を吐き出していると、中隊長が軽やかな身のこなしで戦車の上へ飛び乗った。腰に両手をやって、中隊長は自らの部下たちに声をかけた。

 

「よし、これより昼食。午後は出来上がった壕に早速戦車を入れるぞ。細かな作業は残っているが、とりあえずはそれで作業は一段落だ。夜は外出を許可する。久々にガラパンの街で遊んで来い。だがくれぐれも、伝統ある帝国の戦車部隊の名誉に傷をつけるような真似はしないように……」

 

 外出という言葉を聞いて、隊員たちの間に喜びの気配が満ちた。「ビールを飲むぞ」という声が口々に発せられた。しかし護郎は、あまり面白いとも思わなかった。彼はまだ未成年で、酒が飲めなかった。

 

 夜はどのように過ごそうか。彼は自分が、仲間たちが出払って空っぽになった宿舎の中でひっそりと、アンペラで編まれた寝床に横になって時間を潰している光景を想像した。そして、それならばいっそ街に出て、酒は飲めないにしても、歓楽街が発する悦楽の空気を味わってみようかと思った。

 

 本当は、思う存分戦車を乗り回したいのだが。護郎はまた汗を拭うと略帽を被り直し、仲間たちと共に食事へ向かった。

 

 

☆☆☆

 

 

 帝国首都から二千四百キロ離れた南の大洋に、この世から見捨てられたようにひっそりと浮かんでいるその島の名前は、ススペ島といった。帝国の南洋委任統治領レウコネシア諸島の中でも最大の面積を誇るススペ島は、サトウキビ生産の一大拠点であるだけではなく、他の委任統治領の島々との交易の中継地点でもあった。

 

 極彩色の花々に、樹々から零れんばかりに実る甘味豊かな果実の数々、極楽鳥に小さなサルに野ブタたち……年間を通して変わらぬ酷暑と、日に数回訪れる肌を刺すような激しいスコールを除けば、ススペ島はこの世の楽園と言っても良かった。

 

 その島の状況が一変したのは、その年に入ってからだった。

 

 戦局は悪化していた。帝国が、大洋の向こう側にある巨大民主主義国家に奇襲攻撃を加え、華々しい戦果と共に開戦の狼煙を上げたのはすでに三年前のことになっていた。敵は緒戦での大損害から次第に立ち直り、今では大艦隊を整備して、次々と南の島々を帝国から奪い返していた。帝国側の守備隊は例外なく全滅し、世界最強を誇った海軍はじりじりとその保有戦力を失い続けていた。

 

 ススペ島を奪われれば、帝国本土は直接攻撃に晒される。島を奪われ、飛行場を占領されれば、そこに大型爆撃機が配備されることになる。爆撃機は大編隊を組んで帝国の中枢を直撃し、経済・工業地帯を焼き払い、戦争遂行能力を根絶させるだろう。

 

 帝国の最高指導部は以前よりその可能性に気付いてはいたが、対応は後手後手に回っていた。ようやくススペ島を絶対国防圏の最重要拠点とし、決戦のため戦力と資材を大量に送り込むことを決定したのが、その年の二月だった。

 

 すでに六月になろうとしていた。敵はすぐそこまで迫っており、今は息を潜めているかのように大規模な活動を見せていないが、おそらく一ヵ月も待たずしてススペ島に来寇(らいこう)するだろう。そのように予測された。

 

 それに対して、ススペ島の防衛体制は充分とは言えなかった。兵力の頭数はなんとか揃えることができ、島に二万数千もの兵員が送りこまれたが、防御陣地の設営は遅々として進まなかった。武器弾薬の備蓄も充分ではなく、また燃料も少なく、陸戦の(かなめ)である魔法生物兵器に至っては一頭たりとも配備されていなかった。

 

 それというのも、輸送船が片っ端から攻撃され、沈められたからだった。海はすでに敵の手に落ちていた。穏やかな海面の下には、暗く冷徹な殺意を秘めた潜水艦が群れをなしており、魚雷を磨きつつ獲物を待ち構えていた。

 

 護郎が所属する戦車部隊は、一番幸運な部類に属していた。彼らはもともと大陸の酷寒地帯で国境線を守っていたのだが、急遽ススペ島を防衛するために南洋に送り込まれることになった。輸送船の乗員たちは護郎たちに向かって盛んに潜水艦の脅威を吹聴し、「沈められた時は急いで船から離れろ、渦に巻き込まれて死んでしまうぞ」などと言っていたが、幸いにも彼らの船団は一隻の損害も出さなかった。

 

 島に到着し、五十両あまりの魔力式戦車は港からガラパンの街の中心部へ堂々の行進を行った。それを眺める将兵と一般住民たちの目には、歓喜の色が滲み出ていた。戦車の操縦席からその様子を見た護郎は誇らしさで胸が一杯になったが、戦車長が言った言葉に愕然とした。

 

「あーあー。こんなに喜ばれるとはなぁ。責任は重大だぞ。聞けば、輸送船が沈められて魔法生物兵器は全部コンテナごと海の底らしいし、重砲も半分しか届かなかったらしい。混合濃縮エーテル液もこっちには全然備蓄がないとか……今や、俺たちがこの島の中核戦力というわけだ」

 

 このまま敵を迎え撃って、果たして敵を海に追い落とすことができるのか。不安げに呟く戦車長に、護郎は内心で軽く苛立ちを覚えた。なんの、俺たちは帝国陸軍の精鋭だ。兵器や物資がなくとも、敵を撃滅することなど容易いことだ。そのために訓練を積み、ここまで腕を磨いてきたのだから……

 

 そんな護郎を待っていたのが、穴掘りだった。戦車部隊には優先的に工事用の資材が割り当てられ、作業は順調に進んだが、そのために時間を割かれてしまい、魔力式戦車を乗り回すことはまったくできなかった。そもそも燃料がなかった。部隊全体で演習を行ったことなど、上陸後一週間目に一回行ったきりで、実弾射撃訓練もしていなかった。

 

 徐々に護郎も、薄い不安を覚え始めていた。このままで良いのか? 敵が来た時、存分に戦えるのか? それを紛らわせるために、彼は毎晩ひそかに宿舎を抜け出し、自分の戦車の中に入って、レバーとフットペダルに手足を添えるのだった。

 

 敵が来たら、俺の戦車で踏み潰してやる。逃げ惑う敵兵を追い伏せ、追い散らし、機関銃で薙ぎ払って、砲弾を撃ち込み……そんなことを妄想するのが、彼にとっての一番の慰めとなっていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 午後、壕は無事に完成した。護郎たちは横穴に収められた魔力戦車の点検と整備を手早く終えた。そして彼らは待ちかねたと言わんばかりに、油とエーテル液で汚れた軍服を着たまま、ススペ島最大の街ガラパンへと、夕暮れの迫る空の下トラックに乗って繰り出した。

 

 トラックは荒々しい運転で、デコボコの道をひた走った。揺れる荷台の上で、護郎の向かい側に座っていた軍曹が、思い出したように口を開いた。

 

「なあ、みんな、知ってるか? この島の神社にはすげえ美人がいるらしいぞ」

 

 その言葉を聞いて、仲間たちの視線が軍曹に集まった。誰かが言った。

 

「へえ、美人か。それはちゃんとした、帝国の人間だろうな? 現地人ではなくて」

 

 軍曹はにやりと笑みを浮かべて答えた。

 

「そうらしい。ガラパンの街の外れの小山の上にある、素須辺(すすぺ)香取神社で巫女をやってるらしいんだが、とにかく目の覚めるような女だって話だ」

 

 誰かが答えた。

 

「ふーん、一度お目にかかりたいものだな。こっちにきてからというもの、綺麗な女をまったく見ていない。南の楽園と聞いていたのに、落胆していたところだ」

 

 溜息まじりのその言葉に、軍曹はやれやれというふうに頭を振った。

 

「それがな、その巫女を見た奴は誰もいないって話なんだ。島民たちはよく知っているらしいんだが、兵隊たちでその女を見た奴は誰もいない。どうやらここ最近、ずっと神社の奥に籠っているらしい」

 

 誰かが言った。

 

「そりゃまた奇妙だな。どういうことだ?」

 

 軍曹は答えた。

 

「分からん。まあ巫女だからな。宮司と一緒に戦勝祈願でもしてくれているんじゃないか。まあとにかく、会いに行っても無駄足だろう。それに、街には他に女もいる。まずは酒でも飲んで、それから女たちのところに行こうじゃないか……」

 

 その話を横から聞いていた護郎の心の中に、ふとある記憶が蘇った。

 

 故郷のお姉さん、あの村の外れの森の中にひっそりと建っていた神社で巫女をしていたお姉さん、彼女は元気だろうか? 俺が少年戦車兵として軍隊に入る時も、彼女はそっと手を握って静かに励ましの言葉を投げかけてくれた……

 

 護郎が思い出に浸っている間に、トラックはガラパンの街に到着していた。今回の外出は、外泊が許されていた。集合は明朝七時だった。仲間たちは二人連れ、三人連れになり、思い思いにそれぞれが目指す店へ向かって歩いていった。面倒見の良い、中隊長車の砲手を務めている曹長が、護郎に「一緒に行かないか」と誘いの言葉をかけたが、護郎はそれを断った。

 

 彼の足は自然と、街の外れへと向かっていた。先ほど車内で軍曹が言っていた、素須辺(すすぺ)香取神社、そこへ行ってみたい。確固たる目的があって行くわけではないが、飲めない酒を無理に飲んだりするよりは意味があることだろう。幼い日の記憶を少しでも取り戻せば、日頃の単調な作業で疲れ切った心を少しでも癒せるかもしれない。

 

 護郎は道中で何回か住民に道のりを尋ねつつ、神社へ向かって歩を進めていった。彼が急な階段を登り、ようやく朱色の鳥居の前に立った時には、すでに日は完全に海へと没していた。夜空には真円に近い大きな月が浮かんでおり、煌めく星々が強烈なまでの輝きを放ち始めていた。

 

 彼を除いて、周りには誰もいなかった。遠くの方から、歓楽街のにぎやかな音が聞こえてきた。神社の社殿(しゃでん)は樹々の中で、暗く不明瞭なシルエットをぼんやりと浮かび上がらせていた。

 

 辺りを見回して、護郎は胸の中が何やら温かいもので満たされるのを感じた。南の島の神社ということだから、その外見と雰囲気は内地のそれとは異なっているだろうと彼は予想していたが、この神社は内地のそれとさほど変わらなかった。

 

 手水鉢(ちょうずばち)で手と口を清めた後、護郎は略帽を小脇に抱えつつ、恭しい態度で参道を進んだ。拝殿の前で歩みを止め、賽銭箱に五銭銅貨を投げ入れると、彼は二回礼をし、二回拍手をして、一瞬「何を祈願しようか」と考えた。だが、即座に戦いに勝つことと敵軍撃滅のことを彼は祈ると、また頭を下げた。

 

 その時、彼は背後に誰かの気配を感じた。振り向こうとした瞬間、声がかけられた。

 

「……護郎ちゃん? あなたは、護郎ちゃんよね?」

 

 懐かしい、聞き覚えのある声だった。

 

 その声の主に顔を合わせた瞬間、護郎の心臓は早鐘を打った。彼の目の前で静謐な雰囲気を纏いつつ立っている女性は、記憶の中の姿そのままだった。流れるような、美しい長い黒髪がかすかな風に靡いていた。闇の中に白い小袖と緋袴が浮かんでいた。女性にしてはやや長身の、ほっそりとした優美な体だった。どこか眠たげな、しかし深い知性と慈しみを感じさせる目が、護郎を見つめていた。

 

 まさか、いや、しかし……この人は……かすかに震えの帯びた声で護郎は言った。

 

「まさか……あなたは、イヨ姉さん……?」

 

 その問い掛けに、イヨと呼ばれた女性は笑みを浮かべた。彼女はしずしずと音を立てずに護郎の傍へ歩み寄ると、頭を下げてから、おもむろに口を開いた。

 

「うふふ、やっぱり、護郎ちゃんね。ここに来てくれると『分かっていた』わ」

 

 しばらく、二人は見つめ合った。やがて、イヨは言った。

 

「ねえ、せっかく会えたのにここでお話をするのも面白くないし、社務所の方へ行きましょう。積もる話もあるでしょうし……」

 

 その数分後には、護郎とイヨは社務所の一室で向かい合って正座をしていた。社務所は住居も兼ねているようで、床には畳が敷かれていた。護郎は久々の畳の感触を味わうこともなく、目の前のイヨを呆然と見つめていた。

 

 護郎は、イヨの肌の白さに見とれていた。きめの細かい、透き通るような白い肌は、この南国においては酷く場違いで、美しすぎるもののように思われた。この島に来た人間は例外なく真っ黒に日焼けするものだが、イヨはどういう手段によるものか、日差しを避けることができているようだった。

 

 しばらく、二人は何も話さなかった。弱々しい光を放つ電灯に一匹の大きな蛾が体当たりを繰り返す音だけが、部屋の中に響いていた。

 

 静けさに(こら)えかねたように、護郎が先に言葉を発した。

 

「こんな南の島でイヨ姉さんに会えるとは思いませんでした。てっきり、故郷の足柄(あしがら)県の神社にまだいるものと……」

 

 そう言う護郎を、イヨは穏やかな目つきで見つめていた。イヨは言った。

 

「あら、私は護郎ちゃんとここで会えると『知っていた』わ。だから私は別に驚かない。でも、会えて嬉しいのは確かだけどね」

 

 護郎はその彼女の言葉に、少しばかり眉をひそめた。

 

「姉さん、その『知っている』というのは、また例のアレですか?」

 

 イヨは頷いた。

 

「ええ、その通りよ。例の、私の『予知』能力」

 

 イヨはクスクスと笑った。そんな彼女の様子を見て、護郎の眉間の皺の険しさがさらに増した。

 

 この人は、まだそんなことを信じているのか。自分に予知能力があるということを、この人はまだ信じているのか……

 

 故郷の足柄県、その山深い村の小さな農家に、護郎は五男として生まれた。学業成績が優秀で、その上身体頑健で腕白だった護郎は村の子どもたちのリーダー的存在となっており、ありとあらゆる悪戯で大人たちを困らせたものだった。

 

 そんな護郎を叱りつけられる人物といえば、彼の父親と母親と、それからイヨだけだった。彼よりも十歳ほど年上のイヨは神社の宮司の一人娘で、女学校にこそ通っていなかったが、知性と思いやりを兼ね備えた性格で村の者たちから愛されていた。そんなイヨに穏やかな口調でいたずらを咎められると、護郎の荒ぶる幼心は静けさを取り戻すのだった。

 

 だが、イヨは村の者たちから愛されると同時に、恐れられてもいた。彼女にはある特殊な能力があると、村の者たちは盛んに噂していた。

 

 イヨには、予知能力がある。それもただの予知能力ではない。彼女は奇妙な予言をする。

 

 護郎が六歳の頃のある秋、大暴風雨が村を襲った。幸運なことに、さしたる被害はなかったが、その翌日イヨは巫女装束のまま村の往来の真ん中に出て来て、道行く人々にあることを告げて回った。

 

「隣村とこの村を結ぶ山道で、三日後の午後一時に、大きな山崩れがあります。どうかその日はその道を通らないようにしてください」

 

 あながち妄言(もうげん)とも言えなかった。たしかに、雨水を大量に含んだ山肌は、時間が経ってから一気に崩れ落ちることがある。しかし、村人たちは笑ってその言葉を聞き流した。「三日後の午後一時に」という、奇妙なまでに具体的な時間への言及が、却って信憑性を薄めていた。

 

 だが、イヨの予言は的中した。三日後、まさに彼女が言ったその時間に山崩れが起きたのだった。幸い村から死者や怪我人は出なかったが、隣村の住人が何人か巻き込まれて死んでしまった。

 

 村の人々は不思議なこともあるものだと思ったが、その時は「これは単なる偶然だ」ということで結論付けた。しかし、その後も似たようなことが頻発した。

 

 ある時は村長の娘の急病と死を、またある時は魔法生物の出現を、別の時には倉庫の火災を……イヨはそのいずれにおいても正確な日時と出来事の詳細を予言し、的中させた。

 

 そして、最も奇妙なことには、相次ぐ事件を経るにつれてイヨの予知能力の正確さを理解するようになっていながらも、村人たちがその時その時では「なぜか」イヨの予言を信じないということだった。

 

 次第に、イヨは気味悪がられるようになった。彼女はなお愛されてはいたけれども、村人たちは近寄らなくなった。そして、あれは予知能力なのではなく、イヨが何らかの力で事件を起こしているのではないか、とまで言われるようになった。

 

 そんな中でも、護郎はイヨとの交流を欠かさなかった。成長するにつれて乱暴な性格が落ち着いてきた彼は、学校が終わるとすぐにイヨの元へ行き、日が暮れるまで神社の中で遊んでいた。

 

 ある日イヨはどこか思いつめたような顔をして、護郎に言った。ちょうどその前日、村一番の働き者が、彼女の予言通りに急死したところだった。

 

「ねえ、護郎ちゃん。護郎ちゃんは私が怖くないの?」

 

 護郎は不思議そうな顔をしてイヨを見つめた。

 

「怖くないよ。イヨ姉ちゃんは優しいし、いつも遊んでくれるから」

 

 イヨは身を屈めて護郎と同じ目線に立つと、彼の手をそっと握ってから言った。

 

「それじゃあ、私の『予知』能力は? みんな私の予知を気味悪がっているけど、護郎ちゃんは怖くない?」

 

 護郎は激しく首を左右に振った。

 

「怖くないよ。みんなはどうしてかイヨ姉ちゃんの予言を信じないけど、僕は信じているから。これからもイヨ姉ちゃんの予言を信じるって、約束するよ」

 

 それを聞いて、イヨは儚げな笑みを浮かべた。

 

「ありがとう、護郎ちゃん。じゃあこれからは、護郎ちゃんのためだけにこの『予知』能力を使うことにするわね。護郎ちゃん、これから何か知りたいこと、予め分かっておきたいことがあったら、いつでも私に言ってね……」

 

 それからのイヨは護郎に言ったように、予言をしなくなった。時間が経過するにつれて村人たちの恐れは消えていき、彼女の日常はまた平穏を取り戻した。

 

 一方、護郎はイヨに予言を求めることは、あえてしなかった。しかし一度だけ、彼は彼女に予言を訊いたことがあった。それは彼が小学校上等科を修了して、少年飛行兵になるか、それとも少年戦車兵になるか迷っていた時だった。

 

 問われたイヨはしばらく目を閉じて、じっと何かを考えるようだった。いや、考えるというよりも、彼女は目に見えない何かを、閉じられた(まぶた)越しに見ようとしているようだった。

 

 しばらくしてから、彼女は言った。

 

「護郎ちゃん。あなたが戦車兵になったら、護郎ちゃんはあまり活躍できないけど、生きてここに帰ることができるわ。でも飛行兵になったら、たくさん活躍するんだけど、結局は死んでしまうみたい。護郎ちゃんはどっちが良い?」

 

 護郎は迷った末、戦車兵になることにした。もちろん飛行士として活躍はしたかったが、両親から軍隊に行くことは死ぬことを意味すると反対されていたこともあり、それならば生きて帰れる戦車兵のほうが良かろうと、彼は素朴に考えた。

 

 護郎はイヨのいる村から離れ、十四歳の時に少年戦車兵として帝国陸軍に入営した。以後休むことなく猛烈な訓練を続け、ついに彼は精鋭たる魔力式戦車部隊の一員となった。

 

 その間、護郎はイヨのことを時折思い出し、彼女の奇妙な能力について考えることがあった。

 

 あの予言だが、能力というものではないだろう。帝国には超能力者部隊が存在するが、未来を予知する力など聞いたことがない。きっとイヨ姉さんには、何らかの直感が備わっていただけだろう。思えばあの時の相談も、戦車兵ならば死なないという予言をしたのは、飛行機というものは必ず落ちるものだとイヨ姉さんが思っていたからに違いない……

 

 そのイヨが、なぜかこの島にいるのだった。

 

 敵の潜水艦によって完全に孤立させられた、絶対国防圏の中核とは名ばかりの、張り子の虎のようなこの島にイヨはいる。護郎はそのことについて尋ねようとしたが、しかしイヨはその機先を制するように、彼に向って口を開いた。

 

「なんで私がこの島にいるのか、不思議でしょう? でも、不思議でもなんでもないのよ。実はね、護郎ちゃんが軍隊に行った後、父さんが死んじゃって……神社には新しい宮司さんが来ることになったんだけど、私、どうにもその人が気に入らなくてね。変な目で私を見てくるから……」

 

 イヨは続けて話した。

 

「だから、思い切って内地から飛び出すことにしたの。ちょうど南洋本庁が神職補助員の募集をしていたから、それに応募したら、すぐに通っちゃって。だからここに来たのよ。もう三年になるわ。この島に来た直後に、戦争が始まったから」

 

 護郎はその言葉に驚いた。彼は少年戦車学校に入った後、一度として故郷に帰ったことがなかった。学校の教育方針は苛烈の一言で、迫りくる戦争のために休暇と休日を返上して少年たちに訓練を施していた。学校を終えるとすぐに彼は大陸の実戦部隊に配属されてしまったため、結局今日になるまで故郷について、時折両親から来る手紙を除いては、彼は何も知ることができないでいたのだった。

 

 イヨは、言葉を続けた。

 

「それにね、ここに来るのは父さんの願いでもあったのよ。父さんは亡くなる前から、『もう一度南の島に行ってみたい』とずっと言っていたの。前の戦争の時、軍艦に乗って、このススペ島を占領する作戦に参加したことを父さんはいつも懐かしんでいた。だから、父さんをここに連れてきてあげようと思って……お墓はあの村にあるけど、遺骨の一部はここに持ってきてあるわ。ほら、これよ。私のお守りにしているの」

 

 そう言うと、イヨは(たもと)から小さな袋を取り出した。それは金糸で細かな刺繍が施された、紫に染められた絹の袋だった。

 

 イヨは護郎を見て、にっこりと笑った。

 

「戦争が激しくなって、この島から出られなくなるのは分かっていたわ。でもね、私は何も怖くなかったの。だって、護郎ちゃんが戦車に乗って、この島に来てくれると予知していたから。今日この晩に護郎ちゃんがこの神社に来るのも、私には全部分かっていたのよ……」

 

 護郎は黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。その間にも、彼の心の中にはある一つの問いが膨れ上がっていた。

 

 はたして、俺たちは敵に勝てるのだろうか? イヨ姉さんを守れるだろうか?

 

 しかし、彼はそれを口に出すことはなかった。訊いたところで何になる? もし負けるという予言をイヨがすれば、自分は帝国軍人としてそれを不快に思うだろうし、信じることもないだろう。だが、信じないとすれば、それは幼い日のあの約束を破ることになる。

 

 ここは、訊かないでおくほうが良いのだ。彼は思いをぐっと胸の奥深くへ押し込むと、強いて明るい顔を作って、イヨに話しかけた。

 

「イヨ姉さんとここで会えて、本当に良かった。大丈夫、敵は全部俺たちの魔力式戦車でやっつけますから。知ってますか、俺たちの魔力式戦車は世界水準以上の非常に優秀な性能をしていて、開戦時には連合軍の戦車や装甲車を一方的に破壊したほどなんです。だから、敵が来ても一網打尽にして、海に蹴落としてやりますよ……」

 

 彼の言うところを聞きながら、イヨは静かに、しかしどこか壊れてしまいそうなほど繊細な笑みを浮かべていた。

 

 最後に、護郎は締めくくるように言った。

 

「イヨ姉さん、敵が来たらすぐに防空壕に避難してください。神社を守ろうだなんて考えちゃいけませんよ。敵は我が国の宗教なんて、邪教だとしか思ってないのですからね。良いですか、ここからほど近いタポチョ山には大きな洞窟があって、そこは地方人(民間人)が避難できるように整備されています。食料と水も備蓄されているんです。俺たちが敵をやっつけるまで、そこにいてください。大丈夫、必ず敵はやっつけますから……」

 

 しばらく、沈黙がその場に満ちた。ややあって、イヨが呟くように言った。

 

「護郎ちゃん、予知能力っていうのは、なんて残酷な力なのかしら。どんなに正確に未来を見通すことができても、誰にもそれを信じてもらえない。信じてくれる人がいたとしても、果たしてその未来を教えることが、その人にとって本当に幸せかどうか分からない」

 

 その時、初めて護郎はイヨが深く疲労していることに気が付いた。その外見にはまったく疲れの色はなかったが、それが彼女の内面の疲れの程度を暗示していた。

 

 イヨは静かな声で話を続けた。

 

「ほら、あなたは知ってるかしら、あのヘラスの神話のカッサンドラーを。彼女は絶対に的中する予言をする力がありながら、誰にもそれを信じてもらえないという呪いがかけられていた」

 

 溜息をついてから、イヨは言った。

 

「私も、あるいはカッサンドラーなのかしらね。この南冥(なんめい)の世界にたった一人のカッサンドラー……」

 

 護郎は言った。

 

「そんなことはない! 俺は、イヨ姉さんを信じてますよ!」

 

 半ば反射的に答えた護郎に対して、イヨは微笑みを返すだけだった。

 

 その晩、護郎は社務所に泊めてもらった。別の一室に布団を敷いてもらい、護郎はそこに疲れた身を休めた。イヨは、別室で寝るとのことだった。宮司は所用でススペ島から八キロ離れたところに浮かぶテイニアン島へ出かけていて不在だった。

 

 まんじりともせず、護郎は夜を過ごした。ある予感に胸をときめかせ、いやそのようなことを望んではならないと思いつつ、彼は冴えた目を強いて閉じさせようと苦心した。

 

 彼がようやくまどろみの中に落ちそうになったその時、襖が音もなく開かれた。そこに立っているのは、どうやらイヨのようだった。彼女はそっと護郎が眠る布団に近寄ると、彼の枕元に跪いた。

 

 イヨは、寝たふりをしている護郎の頭を、優しくそっと撫でた。愛おしむように、また懐かしむように彼の頭を撫でるイヨの手は、熱を孕んだ南洋の夜の大気とは対照的に、どこまでもひんやりとしていた。

 

 護郎はその優しい愛撫によって、次第に意識が遠のいていくのを感じた。そして完全に眠りに落ちる直前に、イヨ姉さんはきっと予知によって俺が寝ていないのを知っていたのだろうなと彼は思った。

 

「かわいい護郎ちゃん……大丈夫、護郎ちゃんはきっと生きて故郷へ帰れるわ……」

 

 そんな言葉が、彼には聞こえたような気がした。

 

 

☆☆☆

 

 

 最後の逆襲は失敗した。ススペ島守備隊は壊滅的打撃を被り、戦闘能力を完全に喪失した。

 

 深夜、護郎は密林の中を彷徨っていた。仲間は他に三人しかいなかった。ボロボロになった軍服、破れかけた水筒、乾パンがいくつか入っているだけの雑嚢、それは敗残兵の姿だった。武器は銃剣と、戦車から取り外した機関銃が一丁だけだった。弾倉は二つで、弾は合計で六十発しかなかった。

 

 急斜面を登ろうとして、護郎は目の前の蔓草へ手を伸ばした。すると、何か大きくて重たいものが音を立てて滑り落ちてきた。すんでのところでそれを避けた護郎は、それが死体であることに気が付いた。強い腐臭が彼の嗅覚を刺激した。頭と足を失い、すでに腐敗して膨れ上がったその死体は、彼と同じ帝国陸軍の軍服を着ていた。

 

 彼は辺りを見渡した。薄い月明りに照らされたその森の中には、そこら中に死体が積み重なっていた。味方の死体もあれば、敵の死体もあった。いずれも原型を留めているものはほとんどなく、一部白骨化しているものもあった。

 

 残っているのは、何人だろうか。護郎はぼんやりとそう考えた。つい数時間前に行われた最後の突撃で、生き残りは玉砕したに違いなかった。二万数千名の兵力が、わずか一週間ほどの戦闘で文字通り消滅したとは、その渦中に身を置いていた彼にしても信じられないことだった。

 

 敵が上陸してきたのは一週間前のことだった。その朝、海上に日が昇るのと同時に、空を埋め尽くさんばかりの敵艦上機の大群がススペ島に襲い掛かった。敵機はガラパンの街に爆弾とロケット弾の雨を降らせ、飛行場周辺の対空火器を一掃し、海岸線のトーチカ群を破壊して回った。

 

 続いて、敵の艦隊が島周辺に押し寄せた。海は敵艦船に覆い尽くされており、あたかも艦船の中に海水がちらほらと姿を覗かせているようだった。堂々たる艦容をこれでもかと誇示しつつ、敵艦隊は島に艦砲弾の雨を降らせた。戦艦と巡洋艦から放たれる無数の巨弾は、まさに鉄の暴風だった。海岸線の陣地と、隠蔽が不十分だった防御設備はすべて破壊された。

 

 苦心して作り上げた横穴の退避壕は、護郎の魔力式戦車部隊を完全に守ってくれた。その中で護郎は、はたしてイヨ姉さんは無事に避難できただろうかと考えていた。聡明な彼女のことだから、きっとすぐに山の防空壕へ行ったに違いない……そうであってほしい。彼は気を落ち着けるために、むやみに煙草を吸った。

 

 島を舐め尽くさんばかりに入念に行われた艦砲射撃の後、敵は何百隻もの上陸用舟艇に乗って島に殺到して来た。艦砲射撃から生き残り、海岸線を防備していた部隊は最後の一兵まで戦い、敵に出血を強いた後、打ち破られて脆くも全滅した。

 

 司令部は、即座に魔力式戦車部隊に逆襲を命じた。戦車部隊指揮官の大佐は、これまで訓練を積んできた通り、薄暮に戦車部隊単独での攻撃を行うことを主張した。しかし司令部は、歩兵との共同攻撃をすべきだと反論した。議論の末、結局は司令部の主張が通った。

 

 護郎たちは口々に不満を漏らした。

 

「何を馬鹿な! 司令部は戦車の戦い方について何も知っちゃいないんだ!」

「これまで一緒に訓練もしたことがないのに、ぶっつけ本番で戦えるわけがない。歩兵は却って足手まといになるだけだ」

「それに、歩兵たちが集まるまでには夜中になっちまう。それまでには敵も防御を固めているだろう……」

 

 隊員たちの危惧は、現実のものとなった。魔力式戦車部隊が、それぞれの車両に歩兵を数人ずつ乗せて出撃したのは、結局夜中の一時を回ってからのことだった。

 

 攻撃目標は、海岸近くのオレアイの村にある敵無線局、および敵砲兵陣地だった。参加兵力は、十五トン級の中戦車が二十両に、八トン級の軽戦車が十両だった。規模としてはこの戦争でも類を見ないほどの大部隊での戦車攻撃だったが、護郎たちは暗い予感をひしひしと覚えていた。

 

 うまくいかないのではないか? なにかが噛み合っていない。しっくりこない。どうも、調子が合わない……

 

 魔力式戦車は、排気管から青紫色のエーテル燃焼炎を吐き出しながら、二列縦隊で前進した。本来ならば、戦車部隊は二列横隊で前進するのが戦術的な常識であった。だが、密林に囲まれた狭い道路を進むには縦隊になるほかなかった。三十両にもなる大部隊の立てる走行音は、島中に響き渡るほど大きかった。

 

 護郎は、きっと敵はもうこちらの動きに気付いているだろうと思った。彼は狭い操縦席で、レバーとフットペダルを休むことなく動かし続けた。夜になっても島は暑かった。機関から発する熱も合わさり、車内の温度は摂氏四十度を超えていた。護郎はあたかもバケツで水を浴びたように汗で濡れていた。

 

 先頭を進む連隊長の戦車が、ついに敵の前線に到達した。その瞬間、敵陣から夜空へ向かって一斉に、数えきれないほどの照明弾が打ち上げられた。昼間のように戦場は明るくなった。護郎たち戦車部隊は脇目も振らずに敵陣へ突入していった。

 

 敵はすでに中口径の対戦車砲と、歩兵用の小型対戦車火器を多数揚陸していた。装甲の薄い魔力式戦車は次々に被弾した。敵の砲弾はほぼ例外なく装甲を貫通した。弾薬が誘爆する紅蓮の炎と、混合濃縮エーテル液が爆発する青紫色の炎が、活火山のように噴き上げられた。

 

 それでも鍛え抜かれた戦車兵たちは敵の火点を捕捉し、正確に射撃を加え、一線、また一線と、味方の損害に構わず敵の陣地を踏み越えていった。

 

 護郎が操縦する軽戦車は、いつしか孤立していた。戦車長は「前へ! 前へ!」と連呼しながら、さかんに砲を操作して敵に射弾を送り込んでいた。護郎の隣に座る機銃手も、手当たり次第に敵兵に向かって銃弾を撃ちまくっていた。車内に硝煙のにおいが満ちていた。

 

 護郎に恐怖はなかった。彼はただ、上手く戦車を走らせることに夢中だった。弾の破片が車内に飛び込み、跳ね、護郎の顔を傷つけた。血が噴き出たが、護郎はそれを拭くこともなく戦車を操縦し続けた。

 

 すると突然、彼の戦車に大きな衝撃が走った。数秒後には、車内に焦げたような臭いが満ち溢れた。戦車長が絶叫した。

 

「機関部に被弾した! このままだと爆発するぞ! みんな脱出するんだ!」

 

 護郎はハッチを開けて、転がり落ちるようにして車外へ出た。機銃手も脱出しており、その手には取り外した機関銃を持っていた。戦車長は最後に車外へ出て来た。彼は腰にさげた軍刀を抜くと、それを上段に掲げて、敵陣へ向かってまっしぐらに突撃していった。白刃が闇の中で光っていた。

 

 護郎が隣を見ると、そこには中戦車が疾走していた。見る間にその戦車は敵の集中砲火を浴びた。搭載していた弾薬が爆発し、戦車の砲塔は空中へ高々と吹き飛ばされた。弾け飛んだ機関銃弾がぴゅんぴゅんという、どこか滑稽な音を立てていた。エーテル液が燃える甘い臭いが護郎の鼻をついた。肉の焦げる臭いがそれに混ざっていた。

 

 突撃していった戦車長に続こうと、護郎は伏せていた地面から起き上がろうとした。そこを、機銃手に止められた。

 

「作戦は失敗だ! このままだと犬死にになる! ここはいったん本部まで後退して、また新しい戦車に乗ろう! 予備車両がまだいくつかあったはずだ……」

 

 護郎は素早く考え、そして同意した。彼ら二人は時折現れる敵兵に向けて機関銃で応射しつつ、元来た道をじりじりと退却していった。無事に出撃地点に帰り着いた時には、すでに夜は明けていた。

 

 戦場には、三十両の戦車の残骸が残された。爆発し、燃え尽き、燻ぶっている、鋼鉄の巨獣の亡骸……それは敗北そのものだった。反撃は完全なる失敗に終わった。出撃した人員百余名のうち、生きて帰って来たのは三分の一に満たなかった。指揮官の大佐も帰ってこなかった。

 

 それから二日後に護郎は、予備の軽戦車に乗って、仲間の八両と共に再度出撃した。だが、この攻撃も不成功に終わった。その頃になると敵は大量の戦車と野砲を陸揚げしていて、濃密な火力組織を構築していた。もはや数両の軽戦車でどうにかなる戦局ではなかった。護郎の戦車は最初に被弾をし、燃え上がった。炎上する戦車から脱出できたのは、護郎だけだった。

 

 車両を失った戦車部隊の隊員たちは、武器を持って密林に入り、その後は歩兵として戦った。護郎も機関銃を手にして、敵の歩兵と撃ち合いをした。

 

 初めて敵兵を撃ち殺した時、彼の心はまったく高揚しなかった。残り少なくなっている煙草に火を点けて一服しても、まったく美味くなかった。ここに来た時は、敵を殺したらさぞ格別な味がするだろうなどと、考えていたっけ……護郎は自嘲の笑みを浮かべた。

 

 自分は戦いに何を期待していたのか? 喜びと、楽しみと、高揚と……それから、煙草の美味さ。そんなものはどこにもなかった。

 

 徐々に戦線は縮小した。最終的に、守備隊はススペ島最高峰であるタポチョ山に追い詰められていた。山では激戦が続いた。銃剣でえぐり、手榴弾を投げ合う接近戦が繰り広げられた。

 

 数日後、司令部はもはやこれ以上の抗戦は不可能であると判断し、残存兵に最後の突撃を命令した。帝国陸軍は降伏を認めていなかった。敗北とは、すなわち玉砕を意味した。

 

 それは突撃ではなく、敵の手を借りた集団自殺だった。無論、護郎たちもそれに参加することになった。彼は、祖国から与えられた使命を果たせなかった以上、死んでお詫びするのが帝国軍人に相応しい最期だと思った。

 

 そのように覚悟していた護郎だったが、それでもイヨのことを考えずにはいられなかった。まだ彼女は生きているのだろうか? ここに来るまでの森の中で、一般住民たちの死体もたくさん見た。敵は見境なく殺しまくっている……もし、本当に彼女に予知能力があるのだとしたら、あるいは、生きているかもしれないが……予知能力で、爆撃から逃れられるのか?

 

 そうだ、祖国に詫びるのではない。第一に詫びねばならないのは、イヨ姉さんに対してだ。護郎は頭を振って、考えを改めた。

 

 死なねばならない。

 

 しかし、結局護郎は突撃に参加しなかった。集合した時、司令部の参謀が思い出したかのように「戦車部隊の生き残りはいるか」と声を上げた。彼と、他に五、六人ほどの仲間がそれに答えると、参謀は驚きの表情を浮かべ、次に、わざとらしく呆れたように言った。

 

「なんだ、それっぽっちしか残ってないのか……お前たち、ここに残って陣地を守っておけ」

 

 それが参謀の恩情であることに、護郎たちはすぐに気付いた。呆然とする護郎たちを置いて、傷ついた兵たちは足を引き摺りつつ、あるいは杖をつきながら出撃していった。空っぽになった陣地で護郎たちはしばらく相談をした。そして彼らは、今後も山で可能な限り遊撃戦をすることにした。

 

 最後の突撃は、敵に察知されていた。夜が明けた頃には、兵士五百名分の肉塊と骨片が戦場を覆っていた。総司令官とその幕僚たちは、夜が明ける前に自刃して果てていた。

 

 ススペ島守備隊は玉砕した。戦闘は掃討戦の局面に移行した。

 

 

☆☆☆

 

 

「……起きて……護郎ちゃん……起きるのよ……」

 

 闇の中に沈んでいた護郎の意識は、聞き覚えのある声を聞いて急速に覚醒へと導かれた。彼が目を開けると、強烈な太陽光が彼の視神経を焼いた。

 

 俺は、いったい、どうなったんだ。彼はそれまでのことを思い出そうとした。そうだ、俺は、仲間と一緒に森を移動している時に、敵のパトロール部隊と遭遇して……俺が残って敵を食い止めようとしたんだ! それで、目の前で手榴弾が爆発して、意識を失った……

 

 どろりと、彼の(ひたい)に何やら生温かいものが流れた。手で触れると、それはべったりとした真っ赤な血液だった。

 

「護郎ちゃん、しっかりして。早くここから離れましょう」

 

 再度、声がした。彼を心の底からホッとさせる、聞き覚えのある穏やかな女性の声だった。ハッと打たれたように護郎が横を見ると、そこにはイヨが立っていた。

 

「護郎ちゃん、そろそろ敵がやってくるわ。ここから移動しましょう」

 

 不思議なことに、イヨは、あの夜神社で会った時とまったく変わらない姿をしていた。身に纏っている白い小袖と緋袴には汚れ一つなく、彼女自身も傷一つ負っていなかった。濡烏の黒髪も、入浴直後のように美しい艶やかさを保っていた。

 

 思わず、護郎は声を上げた。

 

「イヨ姉さん、生きていたんですか……良かった。怪我はありませんか……?」

 

 その声は奇妙に掠れていた。それを聞いて護郎は、自分はもう死んでいるのではないかと思った。

 

 イヨは微笑んだ。そっと護郎の傍に歩み寄ると、彼女は(たもと)から白い手ぬぐいを取り出して、彼の頭部に仮包帯を施し始めた。

 

「ありがとう、護郎ちゃん。私なら大丈夫よ。それより、ここから早く移動しましょう。もう十五分もしたら、敵が十人やってくるわ。仲間を殺されて、すごく殺気立っている敵がやってくる」

 

 なぜそれが分かるのかなどと護郎は問わなかった。イヨが言うのならば、それはその通りなのだろう。彼はその時、素直にそう感じた。彼は言った。

 

「それなら、すぐに行きましょう。でも、どこへ……」

 

 考える彼に、イヨは即座に答えた。

 

「まずは護郎ちゃんの傷を癒さなければならないわ。ここから二時間ほど北東へ歩いたところに、兵隊さんたちが残した物資の貯蔵庫があるの。地面の下に隠されているから、まだ敵にも見つかっていないはずよ。そこに行って、とりあえず空腹を満たしましょう。さあ、付いてきて……」

 

 二人は密林の中を歩き始めた。護郎は足を引き摺りつつ、苦労して歩みを進めた。それとは対照的に、イヨは滑るように先へ先へと歩いていった。彼女が履いている真っ白な足袋と草履が、護郎の目についた。それらは泥にも、草の汁にも汚れていなかった。

 

 森の中は、死臭に満ちていた。砲弾の破片に切り裂かれ、内臓を露出させた死体。頭骨が砕かれ、零れ出た脳に真っ黒に蠅が集っている死体。見た目には眠っているようだが、顔を近づけるとびっしりと蛆が死肉を食い荒らしている死体。骨、肉片、血で汚れた樹木、兵器と装備の残骸の数々……

 

 死臭を嗅いだせいか、護郎は軽い頭痛を覚えた。

 

 物資貯蔵庫は、イヨの予言の通りそこにあった。二人は黙々と食事をした。

 

 貪るように護郎は食べた。それに比べて、イヨの食べ方は至極ゆったりとしたものだった。小さな乾パンを一つだけ、時間をかけて食べた後、イヨは遠い目をしながら語った。

 

「こうして一緒にご飯を食べていると、昔のことを思い出すね。村のお正月、みんな神社に初詣に来てくれて、私は御神酒(おみき)とお餅を振舞って、護郎ちゃんは私が出す端からお餅を食べちゃって……喉に詰まらせかけたから、必死に私が背中を叩いてあげたら、護郎ちゃんは怒ったよね。力が強すぎるって……」

 

 護郎は、ここに来るまでに気になっていたことをイヨに尋ねた。

 

「イヨ姉さん、どうして俺を見つけ出すことができたんだ。いやそれよりも、どうやって今まで生き抜いてくることができたんだ。敵はもう、そこらじゅうにいるのに……」

 

 その時、護郎の脳裏にある考えが去来していた。まさか、イヨ姉さんはもう死んでいるのでは? 自分の目の前にいるのは、彼女の幽霊なのでは? それならば服が汚れていないことにも、滑るような歩き方にも納得が行く……

 

 彼は言った。

 

「まさかイヨ姉さん、あなたは……」

 

 だがイヨは、そのような護郎の考えを見抜いていたようだった。彼女は食事の手を休めると、護郎の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。

 

「ふふ、護郎ちゃん。これが幽霊の手かしら? 私の手って冷たいけど、幽霊ほどひんやりとはしていないはずよ」

 

 その言葉のとおり、イヨの手には温もりがあった。イヨは護郎の頭を撫で続けた。彼女は、また言った。

 

「それに、幽霊が食事をするかしら? ほら、私は今こうやって、護郎ちゃんの前で乾パンを食べているわ。だから、安心してね……」

 

 イヨの言葉は、充分な説明になっていなかった。それでも護郎は、強いて納得することにした。なんにせよ、今この場にイヨ姉さんがいてくれるのなら、これほど心強いことはない。彼は言った。

 

「これから、どうしようか」

 

 腹が満ちた後にやって来たのは、不安だった。このまま山中を当てどもなく彷徨い続けていたら、いずれ敵に見つかってしまうだろう。一人ですら逃避行を続けるのが難しいのに、ましてやただの女性であるイヨを連れたままでは……血で汚れた彼の顔が曇った。

 

 すると、イヨは彼を慰めるように、穏やかな口調で言った。

 

「護郎ちゃん、不安に思うことはないわ。あなたはきっと生きて帰れる。それは確かよ。ここでもう少し休んだら、また移動しましょう。今度はここから南に一キロ離れたところに、小さな洞窟があるの。二日前に敵が掃討したばかりだから、しばらくは敵が来ないはずよ。そこで護郎ちゃんの体力が回復するまで、じっとしていましょう……」

 

 その言葉を聞いて、護郎は勇気づけられる思いがした。そうだ、この人はただの女性ではない。予言能力を持つ、特別な女性だ。彼はそう思った。この人と一緒なら、きっと最後まで敵に見つかることなく逃げ続けることができるはずだ……

 

 三時間ほど、二人はそこで休んだ。頭痛は止まなかった。(ばつ)のように頭が痛んでいた。罰のような痛みであるから、護郎はそれを甘受した。いつしか護郎は、イヨに寄り添うようにして眠っていた。イヨは、血の滲んだ包帯が巻かれた頭を癒すように、いつまでも飽きることなく撫でていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 どれだけ時間が経ったのか、護郎には見当も付かなかった。二週間か、それとも一ヶ月か? 密林に満ちていた死体の肉が虫に食い尽くされ、あるいは風雨に洗い流されて白骨化し、伸びゆく植物に半分取り込まれるほどには、長い時間が経ったのは明らかだった。

 

 仲間の兵士たちの姿は、一人として見かけることがなかった。敵のパトロールも、そのうち姿を見せなくなった。時折遠くの方から響いてきた射撃音と爆発音も、いつしか止んでいた。森には鳥たちが戻り、歌声を響かせるようになっていた。それは生命を歌っていた。生命の歌は、能天気で無神経な響きだった。少なくとも、護郎にはそう感じられた。彼の頭痛はまだ続いていた。

 

 イヨはその間、予言によって護郎を助け続けた。彼女の予知は悉く的中した。目指す場所には必ず食料があり、薬があり、休息する場所があった。

 

 その間、護郎は何度も、森を出て敵に投降しようかと考えた。自分一人なら死んでも良い。だが、イヨはどうしても助けたい。いくらイヨの力によって助けられているとはいえ、このままずっと密林を彷徨うわけにもいかない。軍人としての名誉について考えなくもなかったが、彼にとってはイヨのほうがより重要だった。

 

 しかし、彼がそのことを口に出そうとするたびに、イヨが先回りをするかのように言うのだった。

 

「護郎ちゃん、今はまだダメよ。今密林から出たら、護郎ちゃんは殺されてしまう。もう少し待って。もう少ししたら、護郎ちゃんにとって最善の未来がきっと見えるはずだから……」

 

 日に日に、護郎の頭痛は激しさを増していた。拾った医薬品を使うと、それは少し和らいだが、完全に消え去ることはなかった。

 

 あの時、目の前で爆発した手榴弾の破片が、頭の中に入っているのかもしれない。護郎はそう思った。だとしたら、自分はもう助からないだろう。あるいはもう自分は死んでいて、幽霊となってイヨと歩いているのかもしれない。だが、そうだとしたら、この痛みは不可解だと彼は思った。痛みは生の証拠であった。

 

 その日も二人は、山の中腹にある洞窟に、身を潜めていた。

 

「イヨ姉さんが今日まで生き残ってこれた理由が分かったよ。これだけすごい力なら、この地獄を生き抜くのも不思議じゃない。もしイヨ姉さんが男だったら、帝国の超能力者部隊に入れたかもしれないね」

 

 薄暗い洞窟の中、周囲に白骨が散らばっているその狭い空間で、護郎は軽口を飛ばした。

 

 それに対して、イヨはいつも通りの静かな声音と表情で答えた。

 

「いいえ、違うわ。生き残ったのは『私であって、私ではないもの』なの」

 

 護郎は首を傾げた。イヨはさらに言った。

 

「いうなれば、カッサンドラーの力だけが残ったのよ。呪いに打ち勝って、私の言葉を信じてくれる人のために、私の力はまだこの世に残っている……護郎ちゃんのために、私は力を残したのよ。今、その力は、護郎ちゃんの頭の中に宿っている……」

 

 意味深長な言葉だった。それを理解しようとしたその瞬間、突然、護郎の頭に(きり)が揉みこまれるような激痛が走った。彼は呻き、悶えた。イヨは彼に鎮痛剤を飲ませた。痛みが落ち着いたのを見計らってから、イヨは言った。

 

「護郎ちゃん、ごめんね。苦しいよね。もう、あなたに残された時間は少ないみたい。このまま頭痛が続くと、あなたは死んでしまう。でも、助かる方法があるの。さっき、やっと得ることができた予言。聞いてくれる?」

 

 激痛によってわき出た涙で滲んだ目で、護郎はイヨを見つめた。

 

「イヨ姉さんの言うことなら、どんなことでも従うよ」

 

 イヨは、彼を見つめつつ、常にないことにきっぱりとした口調で言った。

 

「ガラパンの街に行って、あるものを探してちょうだい。それを見つけた時、あなたはきっと助かるわ」

 

 護郎は言った。

 

「でも、ガラパンの街はもう敵が占領している。行ったら確実に捕虜になる。そんなことは、軍人として……」

 

 本当はそうする他ないと分かっているのに、護郎の口は抗弁をしようとした。するとその時、イヨは突然彼を抱きしめた。

 

「護郎ちゃん。私、護郎ちゃんにはこの先もずっと、元気に生きていて欲しいの」

 

 しばらく、イヨは護郎を抱きしめていた。彼女はさらに言った。

 

「護郎ちゃんにはまた内地に帰って、私の神社でお正月にお餅を食べて、村の人たちと笑い合って楽しく暮らしてもらいたいの」

 

 イヨは一度言葉を切ると、また言った。

 

「だから、お願い。ガラパンの街に行って。そして、それを見つけて。それを見つけるまで、私が予言で助けてあげるから……」

 

 イヨの体は、奇妙なまでに重量感がなかった。それにも拘わらず、護郎は人生で初めて覚える温もりを感じていた。

 

 自然と、彼の口は動いていた。

 

「分かりました。イヨ姉さんの言うとおりにします。俺は、イヨ姉さんが好きだから」

 

 イヨは、にっこりと笑った。

 

「ありがとう、護郎ちゃん。私も、護郎ちゃんが好き」

 

 まるでそうするのが当たり前であるかのように、二人は唇を重ね合わせた。イヨの唇は湿っていて、温かみがあった。だが、どこか空虚な味がした。護郎は、その理由をおぼろげながらに理解していた。

 

 この口づけは、きっと、死の味がしているのだろう。

 

 

☆☆☆

 

 

 その夜、二人は出発した。密林を抜け出したのは、次の日の夜半だった。ガラパンの街までの道は敵の工兵部隊によって舗装が施されており、数十分おきに敵兵を乗せた小型四輪車が通り過ぎていった。二人は敵の目を盗みつつ、道を急いだ。

 

 夜明けまであと一時間ほどを残した時分になって、二人はついにガラパンの街に入った。街は焼け落ちていた。廃墟と化し生活基盤とインフラを喪失したこの街に用はないのか、敵の姿はどこにも見えなかった。

 

「私の神社、あの素須辺香取神社へ行って。その階段の下に、私たちの探し求めているものがあるわ」

 

 イヨの言葉の通りに、護郎は歩いていった。今や頭痛は頻繁に訪れるようになっていて、立っているのでさえやっとという有様だった。目は霞み、隣にいるはずのイヨの姿すらはっきりと見ることができなかった。彼は、覚束ない足取りで、微かに残る記憶を頼りに、燃え尽きた街を進んでいった。

 

 街には、死体が溢れていた。どれも例外なく、真っ黒に炭化しているか、白骨化していた。護郎は幾度となく骨を踏んだ。踏まれた骨は枯れ枝が折れるような音を立てた。彼は何度か転んだ。転ぶたびに、骨の破片が彼の体に食い込んだ。

 

 朦朧とする護郎の意識の中に、イヨの声が飛び込んできた。

 

「ここよ、護郎ちゃん」

 

 いつの間にか、二人はその場所に辿り着いていた。護郎は目を(みは)った。そこには、二人分の死体があった。いずれも白骨化しており、一人は大きく、もう一人は小さかった。小さな死体は大きな死体におぶさるように重なっていた。

 

 護郎の頭痛が、一層酷くなった。頭が割れそうなほどに、いやすでに割れているのではないかと思われるほどに、その痛みは激烈だった。それでも彼はなお、意識を失わなかった。

 

 イヨ姉さんの言うとおりにしなければならない。姉さんの予言を信じることができるのは、俺だけなのだから。

 

「そう、この死体。この大きな方の死体が、右手に握っているものを手に取って」

 

 隣にいるはずのイヨの声が、なぜか彼の頭の中で響いた。激痛に苛まれながらも、彼は身を屈めて、死体の右手を調べた。

 

 たしかに、死体は何かを握っていた。決してはなすまいとするかのように、死してなお、死体はそれを力強く握り締めていた。

 

 一本一本、彼は骨と化している指を解きほぐしていった。そして、手の中から出て来たものを、彼はその目で見た。

 

 それは、絹でできた袋だった。金糸で細かな刺繍が施された、紫に染められた絹の袋だった。

 

 彼は言った。

 

「これは……これは……」

 

 護郎は全てを悟っていた。彼の目から止めどもなく涙が溢れ出てきた。ふと、死体の頭部に彼の視線が移った。落ち窪んだ眼窩と目が合った。

 

 されこうべの口が動いたように、彼は感じた。同時に、頭の中に声が響いてきた。

 

「ありがとう、護郎ちゃん。そう、この死体は私」

 

 声は語った。

 

「あの朝、敵機が来た時、私は護郎ちゃんに言われた通り、山の防空壕へ逃げようとしたの。急いで神社を出て、階段を降りたら、下に親子がいたわ。お父さんと、小さな男の子。目の前で、男の子は転んで、足を挫いてしまった。お父さんは男の子を助けようとしたわ。その時、敵機が空から降りてきて……お父さんは子どもを見捨てて、逃げ出した。でも、ちょっと走ったところで敵機に撃たれてしまった」

 

 いつしか、骸骨は肉を纏っていた。そこには、素裸になったイヨの姿があった。豊かな胸の膨らみの間に小さな死体を抱きかかえつつ、彼女は話し続けた。

 

「私は、男の子を助けようとしたわ。でもその時、ある予知が頭をよぎったの。この子を助けたら私は死ぬって。一瞬、迷ったわ」

 

 イヨは護郎を見つめていた。優しい、穏やかな眼差しだった。

 

「そしたら、男の子が私を見たの。とても怖がっていたわ。私には、その男の子が護郎ちゃんに見えた。だから、その時だけ、私は私の予言を信じないことにしたの。男の子をおんぶして、私は走り出した。次の瞬間、背中に何か熱いものが刺さったような感触があって……頭の上を飛行機の影が通り過ぎて行った時には、私は地面に倒れていた」

 

 イヨの体が、だんだん薄れていった。護郎は、瞬きもせずにそれを見つめ続けていた。

 

「ここまで来れば、もう大丈夫。敵は、あなたを殺したりはしないわ。護郎ちゃんが森を出て投降しようとしたら敵に面白半分に殺される未来しか、これまで私には見えなかった。この予知をするのに、あなたの頭と精神の力を借りたの。頭痛がしていたのはそのせいよ……」

 

 護郎は、急速に自分の意識が薄れていくのを感じた。何も見えず、何も感じず、ただイヨの声のみ聞こえてきた。

 

「最後にお願いがあるの。その袋を、故郷に持って帰って。父さんはきっと、ススペ島にはもう満足しているだろうから……護郎ちゃんと一緒に帰れるなら、父さんもきっと安心すると思うわ」

 

 イヨの声には、満足しきったあたたかさがあった。

 

「私のことは気にしないで。もう私は、悩みも苦しみもない、平穏な世界にいるから……」

 

 護郎の意識は、そこで途絶えた。

 

 その時、ちょうど夜が明けた。遠い海上に姿を現した太陽は、優しく護郎を照らし出していた。

 

 

☆☆☆

 

 

 帝国が無条件降伏をしてから、二ヶ月が経った。護郎は祖国に向かう輸送船の甲板の上で、一人静かに風に吹かれていた。

 

 彼は首から小さな袋を提げていた。それは紫の絹の袋だった。イヨの父の遺骨が入ったイヨのお守りだった。

 

 イヨの予言のとおり、敵は彼を殺さなかった。死体の傍で、声も上げずにただ泣いているだけの若い男を見つけた敵の兵士は、咄嗟に向けた銃を下ろすと、彼の肩に手を置いて、煙草を一本差し出した。それは守備隊が玉砕してからちょうど四ヶ月が経った日の朝だった。

 

 収容されると、彼は軍医の診察を受けた。彼の頭には手榴弾の破片が刺さっており、先端が脳の一部にまで達していた。普通ならば即死していてもおかしくなかった。軍医は、彼の強靭な生命力に驚嘆していた。

 

 護郎にはもう一つ、首から提げているものがあった。それは補給物品を詰める木箱を改造して作った、小さな箱だった。箱の中には、骨が入っていた。

 

 それはイヨの骨だった。

 

 捕らえられた際の異常な様子とは裏腹に、収容所での護郎の態度は従順そのものだった。彼は作業を通じて敵兵と交流を深め、ついにある一つの願いを聞いてもらうことができた。

 

 ガラパンの街に行って、イヨの骨を回収したい。

 

 戦争が終わるまではその願いが聞き届けられることはなかったが、帝国が降伏したその次の日に、彼は外出を許可された。彼は街に行くと、イヨの死体があった場所まで行った。あの時からさらに時間が経っていた。時間のせいでイヨの死体は風化してしまったのか、ほとんど残っていなかった。だが辛うじて、お守りを握り締めていたあの右手だけがそこにあった。

 

 まるで、彼が来るのを待っていたかのように、右手はまだそこに残っていた。

 

 護郎は木箱を撫でながら、思った。イヨ姉さんはこうして、父親の骨と一緒に祖国に帰ることができる。イヨ姉さんは自分の遺骨を回収してくれとは一言も言わなかった。最後まで、姉さんは俺が助かることだけを考えてくれていた……

 

 密林を彷徨っていた時に、いつもイヨ姉さんは一緒にいてくれた……あれは結局、イヨ姉さんの幽霊だったのだろうか? それとも、損傷した脳が生み出した幻覚だったのだろうか? あるいは……いや、そのようなことはどうでも良いのかもしれない。彼はそう思い直した。自分がイヨ姉さんによって守られていたのは、間違いのない事実なのだから。

 

 きっと、イヨ姉さんの魂が、俺を守ってくれたのだろう。

 

 彼は船尾の方へ視線をやった。すでにススペ島は水平線の向こうへと姿を消していた。

 

「もう一度、あの島へ行こう。あの島へ行って、また骨を拾おう」

 

 そう呟くと、護郎は階段を下って、船内へと姿を消した。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「南冥のカッサンドラー」作品メモ

 2020年12月23日公開。

 通算28本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催のファンタジーコンテスト「ミステリアスなキャラが登場する作品」に応募するために執筆した作品です。

 総文字数二万二千字弱という、今までに書いた短編の中では最も長いものとなりました。書きたいものを書きたいだけ書いた結果ですね。久しぶりに文量を費やして戦闘を書けるものだからつい……

 ミステリアスなキャラ、ということだったので、ミステリアスなキャラをまず考えなければなりませんでしたが、これがまた難しい。最終的に、そのミステリアスなキャラにまつわる秘密を(部分的にでも)解き明かさないと、お話を読んだカタルシスが得られないからです。今回はミステリアスな年上巫女お姉さんにしてみました。何事も経験と割り切って書いた次第です。

 ちなみに「イヨ」は、卑弥呼の娘とされる「壱与」から名前をもらいました。

 例によって大急ぎで書いたので、今後手直しが入るかもしれません。

 次回もどうぞお楽しみに。

※加筆修正しました。(2023/07/12/水)

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