「どうだねオルリック君、ご満足していただけたかな?」
受話器に向かってオルリックは、概ね快適だが、ただシャワーの出が少し悪い、と静かに答えた。
「そうかね。それは良くないな。ポルスカ国でも一番と評判のブリストル・パデレフスキ・ホテルも実態はそんなものなのかね。しかし料理と酒は最高だろう? ああ、君は酒を飲まないのだったか……うんうん、そうだろうとも。野戦病院帰りの身からすれば美味さも格別なはずだ……」
なおも一方的に話し続ける電話の向こうの声は、いつもと同じく奇妙に弾んでいた。
この「女」はいつもそうだ。オルリックはぼんやりと思った。どこか尊大で、芝居がかった口調でいつも話す。何が面白いのか、それとも単に酒でも飲んでいるのか、いつ聞いてもその声には喜色が滲み出ている。
受話器の向こうの存在は、まだしゃべり続けていた。
「それにしても、前線では大活躍だったじゃないか。なんだっけ、共産主義者の秘密兵器を……そうそう、魔力戦車だったかな。魔力戦車を三両も立て続けに破壊したじゃないか。小さい頃はチビで泣き虫だったオルリック君が、今や立派な祖国の英雄だ。私としても誇らしい限りだ。素晴らしい酒壺だよ、まったく君は」
オルリックは溜息を吐きつつ答えた。アンタが指し示したとおりに動いただけだ、俺の実力ではない。それに、アンタはあの時「絶対に大丈夫だ」と確約したのに、結局俺は負傷して半月も野戦病院にいなければならなくなった。
やることにどこか隙があるな、「神」と自称する割には。
彼なりに精一杯の嫌味を込めて言ったつもりだったが、電話の向こうの存在にはまったく
「それでも君は戦果を挙げて、表彰状と勲章をもらったじゃないか。新聞記者共も君に群がり寄ったじゃないか。ラジオで放送もされたし、看護婦からもチヤホヤされたじゃないか。『オルリック将軍は兵卒の苦労を知っている人だ』と称賛されたじゃないか。何より君はちゃんと生きていて、今は一流ホテルで美味い食事と快適な睡眠を楽しみ、そして私と元気に電話で話している。いったい、神でなければ誰が君にここまでしてやれると思う? 『自称』ではなく、正真正銘の『神』でなければ?」
受話器を首と肩で挟みつつ、タバコに火をつけたオルリックは、軽く一服した後に言った。
なあアンタ。仮に、もし本当にアンタが神であるならば、どうしてただの男である俺に対してそこまでしてくれるんだ? そうだ。アンタのおかげで、俺は今やポルスカの英雄だ。あの時から始まって今に至るまで、学問もなければ魔力もなく、おまけに信仰心もない、一切の取柄がないこの俺に対して、なぜアンタはここまで……
電話の主は答えた。
「君が願い、私が叶える。それが私の使命だからだよ。暇つぶし半分の使命さ。あとはそう、私と同じ名前を持っているからかな。メルクルィとは、やはり良い名前じゃないか。まあこれからもよろしく頼むよ、私の大切な酒壺、メルクリィ・オルリック君よ。たっぷりと酒を
その後も電話は三十分以上は続いた。電話が終わった時、時刻は十八時半を回っていた。おそらく外は真っ暗になっているに違いなかった。灯火管制のために厚い木の板で塞がれた窓を一瞥した後、オルリックは食堂へ行くために椅子から立ち上がり、部屋を出ることにした。
ドアを開けた時、包帯で巻かれた脇腹が痛んだ。どうせなら、さっきの電話でこの痛みを除いてくれるように頼むべきだったかもしれない。オルリックはそう思った。本当にあの女が神ならば、それも容易いことだろう。
こんな時、そっと寄り添ってくれる人がいれば……少しばかりよろめきつつ、彼は廊下を歩いていった。
☆☆☆
メルクルィ・オルリックは二十二年ほど前、ちょうど世紀が改まった頃にこの世に生まれたらしい。「らしい」というのは、彼が生まれた正確な年月日が分からないからである。
彼は捨て子だった。雪がちらつく寒空の下、ヴィエルコポルスカ県の田舎の、ある孤児院の前に、小さなパン
凍死せずに拾われたということにすべての幸運を使い果たしてしまったのか、孤児院でのオルリックの生活は悲惨そのものだった。肌が青白く、線が細くて、紫色の唇をした彼は、その外見に違わず生命力が乏しくて、しばしば病気になった。おまけに彼は気が弱くて要領も悪く、他の孤児たちにいつも虐められていて、食事では毎度のようにパンを奪われていた。
孤児院の院長は邪悪な人間ではなかったが、あまり善良な人間でもなかった。国からの補助金目当てというだけで孤児院を経営していたわけではないが、しかし孤児たちに充分な教育や躾を与えようとすることもなかった。そんなわけで、オルリックは何も物事を知らないまま、体だけが大きくなっていった。
十五歳の時に孤児院を半ば追い出される形で後にした彼は、日雇い労働者として糊口を凌ぎつつ、その日その日を過ごした。愛することも愛されることもない毎日だった。孤独そのものだったが、彼はその孤独感すらも言葉に表すことができないのだった。彼は何度も職を変えた。どの職場にも彼は馴染めなかった。
転機となったのは、戦争だった。オルリックが十六歳の時に、エウロパ世界は未曽有の大戦争に突入した。軍隊に入れば空腹や寒さに悩まされることはない。功績を挙げれば昇進だってするし、除隊後は年金も支給される。そんな売り文句に騙された彼はすぐさま入営することを決めた。彼はポルスカ人の一兵士として、ポルスカ人の支配者であるルーシ人たちの指揮下で戦うことになった。
何も知らないオルリックにとって戦争は刺激的だったが、それ以上に生命の危険に満ちていた。貧弱だった彼の体格は初年兵教育の段階で幾分か改善されており、また彼はそれなりに要領というものも学んでいたから、彼は孤児院の時のように仲間たちから虐められるということはなかったが、より大きな問題だったのは敵の存在だった。
敵のニェミェツ人たちは強かった。機関銃と砲兵、魔術兵と火力魔法で武装した敵軍は、茹でたジャガイモでも潰すかのように、ルーシ軍とポルスカ人の部隊を手酷く痛めつけた。オルリックの初陣は、彼の所属する中隊のほぼ半数が戦死するという無惨なものとなった。
オルリックは今でもあの時のことを覚えていた。中隊長が
何も感じず、何も考えず、オルリックは遮二無二前進を続けた。やっと巡ってきた幸運のためか、彼は傷一つ負わなかった。しかし、部隊の突撃は完全に破砕されていた。はじめに誰かが退却だと叫んだ。彼もまた退却した。戦場には仲間の半数が死体として残された。
これとまったく同じような戦いが、その後も延々と続いた。オルリックは何度も敵陣に向かって突撃し、退却し、敵軍の突撃を阻止し、白兵戦をくぐり抜け、連日連夜行われる敵の激しい砲撃をやり過ごした。
戦いを経験するにつれて、オルリックは無数の「神」という言葉を聞くようになった。信心深いポルスカ人たちは戦場においても、「神のために!」とか「おお神よ、お助け下さい」とか「神よ、俺を家に連れて帰ってくれ」などと口々に叫び、喚いていた。だが、オルリックは、神が兵士たちの願いを聞き届けたところを一度も見たことがなかった。
彼が特に仲良くしていた仲間の一人に、「なにごとも神様の
男はある時の突撃の後、行方不明になった。砲弾か魔法の直撃を浴びて飛び散ったのだろうと言われていたが、数日後、敵の陣地を奪取してから男の死の真相が明らかになった。
男は縛り上げられて、全身を切り刻まれていた。その死に顔は苦痛と恐怖と絶望で醜く歪んでいた。死んでから切り刻まれたのではない。死ぬまで切り刻まれたのであろう。それは明白だった。将校でもない、ただの一兵卒である男がこのように惨たらしく殺されたのは、なんでもない、単に敵が退屈しのぎとうっぷん晴らしをしたかったからだった。
「これが『神様の御心のままに』の結果なのか」と一人の戦友が泣きながら呟いた。「そんな神なら、出会ったらすぐにぶっ殺してやる」 オルリックは隣で、その呟きを呆然と聞いていた。
そんなこともあって、オルリックは次第に神を信じなくなった。塹壕内での礼拝の時も彼は居眠りをするようになったし、それまで読めもしないのに後生大事に持っていた聖書も彼は捨ててしまった。それどころか、彼は神に祈る仲間を嘲笑うようになったし、新兵が震えながら聖句を口にしているのを見るや、思いっきり殴りつけることまでするようになった。
神など、この世に存在しない。信じられるものは何もない。ただ運があるだけだ。
別段、その考えはオルリックに特有のものというわけではなかった。戦場を支配していたのは塹壕と鉄条網と機関銃と砲兵だけではなく、無神論的価値観もそうだった。オルリックはやや熱心な無神論者というだけだった。
☆☆☆
そんなオルリックが、ひたすら神に祈る瞬間がやってきた。
従軍からおよそ二年後、彼は初めて負傷した。
酷い傷だった。もう何度目になるのか分からない突撃、その準備の最中、彼から少し離れたところで一発の野砲弾が炸裂した。呆れたことに、それは味方が撃った砲弾だった。暴発だったらしいが、そのようなことはよくあることだった。
オルリックは全身に破片を浴びてその場に崩れ落ちた。彼の周りにいた兵士たちはもれなく腕が千切れたり首がもげたりしたのだから、五体満足な分だけ彼は幸運だった。
かすかに息をしていた彼は後方に送られて、野戦病院で手術を受けることになった。
しかし、生き残ったことが幸運であるとは必ずしも言えない。あの時即死していればまだ良かったかもしれない。オルリックは野戦病院に着いてしばらく経った後、自力で意識を取り戻してしまった。ふと隣を見ると、彼が加わるはずだった突撃をおこなって重傷を負った兵士たちがずらりと並べられていた。その一番
途切れ途切れの意識の中、オルリックの耳に突然凄まじい、それでいてくぐもった悲鳴が聞こえた。見ると、一人の兵士が汚い木の棒を噛まされ、数人の看護婦に全身を押さえつけられていた。兵士は、軍医によってノコギリで脚を切断されている最中だった。
麻酔などなかった。医薬品は常に不足していたし、魔術師や回復術師などはさらに少なかった。
「祈りなさい!」 年配の看護婦が叫んでいた。「祈りなさい! 祈るのよ! 神に祈りなさい!」
ゴリゴリという骨を削る音と兵士の絶叫が入り混ざった。やがて、ボトリという鈍い音が聞こえた。軍医が脚を切断し終えたのだった。「さあ、次だ」 処置を終えた軍医がそう言うと、脚を切断された兵士は荒々しく手術台から除かれ、次の兵士が載せられた。
「ダメだな」 兵士を一瞥した軍医は、汗を拭いつつ言った。「これも切る」
そしてまた「手術」が始まった。兵士の絶叫が響いた。ゴリゴリという骨を削る音が絶叫に混ざった。「祈りなさい!」 看護婦が叫んでいる。「祈りなさい! 祈るのよ! 神に祈りなさい!」 脚が落ちる鈍い音がする。「さあ、次だ」 軍医の低い声がする。
だんだんとオルリックの番が近づいてきた。思わず彼は自分の体に目をやった。軍服のところどころから血が流れ、砲弾の小さな破片が無数に食い込んでいた。特に大きな破片が右腕の肘のあたりに突き刺さり、皮膚と肉が裂けて、黄色っぽい骨が見えていた。力を入れてみても、腕はピクリとも動かない。
間違いない。彼は息を呑んだ。軍医がこれを見たら、確実に腕を切り落とされるだろう。
オルリックは恐怖した。前線でどんなに砲弾や火力魔法を浴びせられても怖気づかなかった彼だが、今は全身の激痛を忘れるほどに恐怖に震えていた。
このままでは右腕を切られる!
生きたまま、意識のあるまま右腕を切られる。それはこの世のどんなことよりも恐ろしいことのようにオルリックには思われた。銃で撃たれることも、銃剣で突かれることも、魔法で焼かれることも、この恐怖の前には比べるべくもない。
その時、彼の耳を看護婦の叫びが貫いた。
「祈りなさい! 祈りなさい! 祈るのよ! 神に祈りなさい!」
それを聞くやいなや彼は反射的に、自覚するよりも早く、祈り始めていた。神様、助けてくれ! 目を閉じて、彼は心の中で叫んだ。これまでアンタを信じなかったのは謝る! アンタを信じている奴を殴ったり罵ったりしたことも謝る! 助けてくれ! 腕を生きたまま切り落とされるのだけは嫌だ! 助けてくれ、助けてくれ! 俺はオルリック、メルクルィ・オルリックだ! 神様、早く助けてくれ……!
その時、彼はなにやら声を聞いた気がした。女の声のような気がした。
「おお、なかなか真に迫った祈りをする奴がいるじゃないか。どれどれ……おお、これはなかなか良い酒壺になりそうだな。あの方のせいで、いったいどうしたものかと思案していたところだが、これだけ良いものがすぐに見つかるとは。ふむ、さて……」
その声は随分長く聞こえていた気がするし、数秒しか聞こえなかったような気もする。オルリックは、いつの間にか手術台の上に横たえられていた。
軍医が暗く濁った目で、彼をさっと眺めた。そして、軍医はおもむろに口を開いた。
「ダメだな」 軍医はノコギリを手に取った。「これも切る」
絶望感がオルリックの精神を満たした。その瞬間だった。それまで動かなかった右腕が、不思議なことにゆらりと動いた。まるで、何者かの見えざる手によって持ち上げられたように、不自然でぎこちない動きではあったが、右腕はたしかに動いた。軍医はそれを見ると僅かに首を
「うむ……動くには動くのか。しかたない。後でくっつけてみよう。おい、次の奴を載せろ。大丈夫だ、コイツはすぐには死なん。ちょっとどかしておけ……」
こうして、オルリックは麻酔なしで右腕を切断されることから逃れたのだった。
☆☆☆
それからも、オルリックには幸運が続いた。
彼の右腕は後遺症もなく、奇跡的に元通りになった。全身に食い込んだ断片を摘出する手術も成功した。破傷風になることもなかった。
彼はより後方のもっと快適で大きな病院に送られることになった。その病院がある土地は保養地として名高かった。その地の気候は温暖で、吹く風も穏やかで、柔らかな日光に恵まれていた。このような場所に送られるのはルーシ人の高級将校か、魔術兵か、あるいはよほどの戦功を挙げた兵士くらいだったが、なぜかオルリックは単なるポルスカ人の一兵卒でありながらそこへ行けることになった。
病院は明るく、清潔だった。一兵卒にも個室が与えられた。世話をしてくれる看護婦たちはみんな若く元気に溢れており、中にはポルスカ語を話すことができる者もいた。良い食事も相まって、オルリックはみるみるうちに傷を癒し、体力を回復させていった。
オルリックは一年近くもそこにいた。
軍医から、早ければ一週間後には退院できると告げられたその日の午後、彼は一階にあるサロンに来ていた。普段は将校たちで満たされているその場所は、その時に限って何故か誰もいなかった。彼は革張りのソファにゆったりと腰掛けると、タバコに火をつけた。
深々と一服した後、ふと、ある物が彼の目に留まった。それは電話機だった。ソファの前には小奇麗な白い布がかけられた小机があり、電話機はその上に乗っていた。高級ホテルにあるような瀟洒な意匠のその電話機は、真鍮部分が曇りひとつなく磨き抜かれており、午後の日差しを浴びて得も言われぬ存在感を放っていた。
紫煙をくゆらせつつ、オルリックはそれをぼんやりと見つめていた。見つめながらも、彼の考えていることは電話機のことではなかった。彼は、さきほど軍医が口にした一言を思い出していた。
「しかし、カルテによれば君は高い確率で死んでいたはずなんだがなぁ。死にはしないまでも、右腕を失ってもおかしくはなかった。これもすべて、神の配剤というものかもな。医療に携わっていると、時々神の存在を強く感じることがある。君の場合もそうだ……」
オルリックはタバコを乱雑に揉み消した。バカなことを言う! 彼は苛立っていた。バカなことを! 神などいるわけがない! もし神がいるならば、そもそも俺があんな負傷をするはずがない。いや、この大戦争だって起きるはずがない。仮にいたとしても、この世に人間は数えきれないくらいいる。その中の一人である俺を、どうして神が選ぶんだ? 俺が神によって生かされたなんてことはあり得ない。俺が生き延びたのは、ただの運だ。あの時祈ってしまったのは、決して俺の本心からではない……
突然、けたたましい音を立てて、目の前の電話機のベルが鳴った。学問のない頭で懸命に考えに耽っていたオルリックは驚いてひっくり返りそうになったが、気を取り直すと、今度はそれを見つめ始めた。
なおもベルは鳴り続けていた。いったいなぜ? 誰を呼び出している?
おずおずと、彼は電話機に手を伸ばした。なぜか取らなければならない気がした。
彼はそっと受話器を耳に当てた。
聞こえてきたのは、女の声だった。
「ハロー、ハロー。繋がっているかな? やあ、はじめまして、メルクルィ・オルリック君。私の大切な酒壺よ」
プツプツというノイズ混じりの音声は、なぜか奇妙に陽気な色を帯びていた。声は、オルリックの心臓の鼓動をわけもなく早くさせた。数十秒間の沈黙を挟み、彼はようやく一言だけ口から発することができた。
なぜ? なぜ俺の名を知っている?
ハハハと電話の主は笑った。
「そりゃあ知ってるさ。だってあの時、君は私に祈っただろう? あの精肉店の倉庫のような野戦病院で、君は随分と真摯に私に祈ったじゃないか。『助けてくれ、助けてくれ! 俺はオルリック、メルクルィ・オルリックだ! 神様、早く助けてくれ……!』ってさ。だから君の名前はよく知っている」
理解が追いつかず、彼は沈黙を続けた。その表情は強張り、受話器を持つ手は震えていた。
電話の向こうからまた声がした。
「うむ? 私の声はちゃんと聞こえているかな? まあ、聞こえていることにして話を続けよう。オルリック君、まずは無事のご回復おめでとう。あの時、私は君を助けつつも『まあ、五分五分かな』などと思っていたよ。いや、君の生命力を見くびっていた、謝る。さすがはメルクルィという名前を持つだけはあるな」
オルリックの反応を求めもせず、なおも電話の向こうの女は話し続けた。
「いや、それにしてもあの時は心を打たれたよ。熱心な無神論者が懸命に神へ助けを求めるものだから、つい手を貸してしまった。そう、文字通り私が手を貸したんだよ。君の千切れかけていた右腕だが、あの時ふっと動いたのは、なにを隠そう私が持ち上げてやったからなんだ。それに、それを軍医が見たとしても果たして『切らない』判断を下すのか定かではなかったからね。だから、ちょっと私が軍医の耳に霊感を吹き込んでやったんだ。『これを切るのは医学の敗北なんじゃないか』ってね。軍医は聞き容れてくれたよ」
そこまで話してから、電話の主はふぅと溜息をついた。
「それで、私がほんのちょっと目を離していたら、いつの間にか君の手術が成功していた。私はその時直感したね。『コイツはなかなか仕込みがいのある、良い酒壺になるぞ』ってね。だから、大切に君を扱うことにした。君のような一兵卒では絶対に来ることができないような保養地に来られるようにしたのは、この私なんだよ。回復が早まるようにってね。驚いたかね?」
声を聞いているうちに、オルリックの精神はだんだんと平静を取り戻しつつあった。それでも彼は何も答えなかった。電話の主は少し不満そうな声を発した。
「むぅ、少しは何か話してくれても良いじゃないか。私はいわば、君の守護神なのだよ? 感謝しろとは言わないが、少しくらいはお喋りに付き合ってくれても良いじゃないか。これでは独り言を言っているのと大して変わらん」
オルリックは、ようやく口を開いた。ただ一言だけ、お前は誰だ、と言った。電話の主は答えた。
「ああ、申し遅れたね。私の名前はヘルメス。君たち人間がとっくの昔に忘れ去ってしまった神様のひとつさ」
狂人か。彼が最初に感じたことはそれだった。前に仲間から聞いたことがある。戦争が始まってから頭のおかしくなった奴がたくさん出てくるようになって、特に銃後の女たちにそういうのが多いと。病院に押しかけてきて勝手に兵士の妻を名乗ったり、兵士を家に連れ込んで腐った料理を食べさせたり、半裸で前線を歩き回ったり……
この女もそうだろうか? オルリックが考えを巡らせていると、電話の主が先に言葉を発した。
「おっと、オルリック君。どうやら私のことを狂人か何かだと思っているようだね。だが安心したまえ、私は狂ってはいないよ。いや、狂人ほど『自分は狂っていない』と言うそうだが、しかし正常な精神の持ち主だって同じように言うだろう? それによく考えてみたまえ」
女の声は、少しテンポを落とした。まるで小さな子どもによく言って聞かせるかのようだった。
「私が神ではなく狂人だとしたら、なぜ君が負傷した時のことを克明に知っている? なぜ、あの時の君の祈りの文句を知っている? どうしてあの時、君の右腕を動かすことができたのかな? どのようにして君をこの高級保養地に送ってやったんだい? すべて人智を絶しているとは思わないかね? まさに、神にしかなし得ないこととは思わないかね?」
説得力がある。そう感じつつも、オルリックはまだ半信半疑だった。電話の主はまた声を弾ませて言った。
「まあ、信じられないのならばそれで良いさ。たぶん、そのうち信じるようになるだろうし、それに私がこうして電話をかけた目的は他にある」
それはなんだ、とオルリックは言った。女はフフフと笑った。
「いや、君のことがいたく気に入ったからね。さっきも言ったが、これからも引き続き、私は君を助けてあげることにしたんだ。改めてよろしく、私の大切な酒壺よ。とまあ、それを伝えたかった。ああ、気にしなくて良い。なにも無償の善意というわけではない。君を助けることは私にとって大いに利益のあることなんだ。さて……」
ごほんという咳払いが聞こえた。
「電話を切る前に、一つ君に良いことを教えておこう。神様からのご託宣だと思って聞きたまえ。君はこれから順調にそこを退院して、また戦線に戻ることになる。戦線に戻ったら、君の軍隊はイチかバチかの大攻勢をニェミェツ軍に対して行うことになる。これは結局失敗して、君も死ぬことになっているんだ。モイライの話を盗み聞きしたから間違いないよ。いや、人間の命とは儚いね。でも、それでは私が困るんだ。だからね……」
女は一旦言葉を切って、それから締めくくるように言った。
「私がこれから言う忠告に従いたまえ。君は攻勢初日に地雷原に迷い込んで爆死するんだが、しかしそこを突破しさえすれば敵の司令部を直撃することができるんだ。そうすれば君は大手柄だ。一挙に昇進することだって夢じゃない。私はその時、君の視界に『安全地帯』を示してやろう。それに従って歩けば、君はなんの危険もなく地雷原を踏破できる。良いかね? その時が来たら躊躇することなく私の指し示すところに従うんだよ」
いつの間にかオルリックの喉は渇き切っていた。掠れた声で彼は、そんなことが信じられると思うのか、と答えた。声は答えた。
「いやあ、たぶん信じると思うよ。今は信じられなくとも、その時がきたらきっと信じるね。だって、私の指示を信じる以外に助かる道はないんだからさ。じゃあ、これで私の用件はおしまいだ。残り少ない休養期間を存分に楽しんでくれたまえ。君には期待しているよ、私の可愛い酒壺よ」
その酒壺っていうのは一体なんなんだ、とオルリックは相手が電話を切る前に問いかけた。
「ああ、すまないね。私にとって、君はいわば酒壺なんだよ。ディオニュソスは葡萄酒を
電話はプツリと音を立てて切れた。オルリックは受話器を手にしたまま、ぼんやりとこれまでの会話の内容を反芻していた。
本当に、さっきの電話は現実のことだったのだろうか?
ふと彼が目をあげると、そこに看護婦が立っていた。彼女は丁寧なポルスカ語で話しかけてきた。
「まあ、オルリックさん。どうしたんですか、電話なんて手にして。それでどこかに電話をかけようとしてもダメですよ。それ、電話線が繋がってませんからね。造りが良いので、飾り物としてそこに置いてあるんです……」
一週間後、オルリックは無事に退院した。彼はまた最前線へと向かった。結局のところ、軍隊以外に彼の拠り所はどこにもなかった。
☆☆☆
謎の女の予言は、現実のものとなった。
オルリックが戦線に戻ると、そこらじゅうで大攻勢の噂が囁かれていた。後方の基地に集積される大量の武器弾薬、物資を見ても、その噂の確度はかなり高いものであるように思われた。
戦線に帰って来るや、オルリックは下士官に任じられた。彼は新たに持つことになった部下の兵士たちの面倒を見つつ、その日がやってくるのをじりじりと待っていた。
本当にあの予言の通りになるのだろうか? 彼はいつもそのことを考えていた。だとしたら、ヘルメスとかいうアイツは本当に神なのだろうか? いや、まだ分からない。俺が地雷原に迷い込んだ時に、それが初めて分かるはずだ……
戦争は四年目に差し掛かろうとしていた。大量の人命を失い、経済が停滞し、食料と生活物資が欠乏する中で、支配者ルーシ人たちの間で革命の機運が高まっていた。皇帝は悪化を続ける状況を一挙に打開するために、ついに大攻勢を命令した。
そして、二週間に及んだ作戦が終了した。ルーシの軍勢は最初こそニェミェツ軍の前線を食い破り、そのまま後方へと浸透する勢いを見せたが、予備兵力の枯渇から作戦目的を達成することができず、最終的には敵の逆襲を受けて総崩れとなった。
オルリックは生きていた。彼は相変わらず五体満足で、今は連隊司令部の外でタバコを吸っていた。
一服を終えた彼は、司令部の周りを散歩することにした。相次ぐ激戦で完全に廃村となった村に兵士以外の人影はなく、家々は例外なく崩れ落ちていた。
彼は何の気もなく、ある民家に立ち入った。この家にはまだ屋根が残っており、大きな居間もあった。
何か面白いものでもあるかもしれない。オルリックが居間に入ったその時突然、大きな音が彼の耳朶を打った。連続的に鳴り響くその音は、間違いなく電話機のベルだった。見ると、居間の中央に朽ちかけたテーブルがあり、その上に埃を被った、古ぼけた電話機がのっていた。
ある予感に
案の定、聞こえてきたのはあの女の声だった。
「やあメルクルィ・オルリック君。私の大切な酒壺よ。壮健かな? 壮健だろうね。君は私の予言に従ってくれたんだからね」
アンタか。オルリックは言った。今度は何の用だ。
「おおっと。お礼の一つでも言ってくれるものと思っていたが、少し冷たい反応だね。まあ、それでも別に良いか。どうだね、あの時の私の指示は的確だったかね?」
数瞬の沈黙を挟んだ後、実に役に立った、とオルリックは短く答えた。
女の予言のとおり、攻勢初日に彼は地雷原に踏み込んでしまった。彼の前を進む兵士の足元が突然爆発して土埃が巻き起こった。次の瞬間には、その兵士は両脚を失って泣き叫んでいた。それを見た兵士たちは口々に「地雷原だ!」と叫んだ。ある者は退却しようとしたが、その者もまた地雷を踏んで脚を失った。彼らはいつの間にか地雷原の中央部へ入り込んでいたのだった。
このままでは全滅だ。敵も気付いて砲撃してくるかもしれない。すぐにでも動かなければならないが、動けば十中八九地雷を踏むことになる……
オルリックが絶望と焦燥に駆られたその時、彼の視界に突如として白く光り輝く帯が映し出された。帯はくねくねと曲がりくねっているが、どこまでも途切れることなく先へ続いており、なぜか安心感すらも与えてくれた。
これがあの女の言う「指示」なのか? しかし疑っている時間はなかった。彼は意を決して、白い帯の中を走り始めた。俺に続け! 俺の後ろにぴったりついてこい! と彼は叫んでいた……
それからはやられる者もなく、オルリックと彼の仲間は半時間後には地雷原を突破していた。しばらく進むと敵の師団司令部があった。彼らは短時間の戦闘の後、敵の司令部要員を全員捕虜にした。その中には師団参謀長もいた。捕らえられた敵の高級将校たちは皆、茫然としていた。野蛮で知能の乏しいポルスカ人如きに捕虜にされるとは、彼らはとても信じられないようだった。
それはまごうことなき大戦果だった。オルリックが今日司令部に呼び出されたのも、その時の功績を認められて叙勲されることになったからだった。
彼がピカピカと輝く勲章を撫でながらあの時の事を思い出していると、受話器の向こうから満足げな声が聞こえてきた。
「うんうん、そうだろうとも。これでも、人間を導くことに関しては、私には実績があるのだよ。君たちのご先祖を私は幾度となく助けて来たし、数々の有益な教えと導きを与えてきた。失敗するわけがない。どうだい、勲章の重みは? いや、おめでとう、おめでとう! これまでの苦労が少しは報われただろう? いや、それだけじゃない。これまで空っぽだった君という酒壺の中に、ちょびっとかもしれないが、貴重で飲みごたえのある酒が、今初めて溜められたわけだ。どうだい、嬉しいだろう?」
まあな、とオルリックは答えた。少しはアンタのことを信じても良いかと思う。ただ、神とは思えないが。そう彼が続けると、電話の主はハハハと笑った。
「まだ私が神であることを信じ切れていないのか。それも無理はないか。両親を知らず、愛も知らず、孤児院で泣いて暮らして、ようやくこれから人生を自分で切り拓いていくという時に戦争勃発でつらい軍隊生活。そんな生い立ちでは神を、いや人ですら信じることはできないか。だが、これからはもっと私を信じるようになるよ。ところで、また私から話を聞きたいかね?」
知らず知らず、オルリックはごくりと唾を飲んでいた。この女は、また何かの予言を俺に伝えようとしているのだろうか?
彼が肯定の声を発すると、受話器からは喜色に溢れた声が響いた。
「よろしい、よろしい。なかなか素直になってきたな。では、これからのことを教えてあげよう。そう、良いニュースと悪いニュースがあるんだ。悪いニュースというのは、君は今日、でっかい勲章をもらって晴れ晴れとした気分なのだろうが、しかしその勲章は三十八日後には無価値となる。というのは、君たちを支配しているルーシ人たちだが、彼らの国家が崩壊するからだ。革命によってね。で、良いニュースというのはだね、君たちポルスカ人がついに独立する。共和国としてね。めでたいことだよ! 百三十年の長きにわたる隷従と屈辱から、君たちはついに解放されるんだ」
オルリックはあまり驚かなかった。彼としてもそれは予想していたからだった。彼は静かに続きを聞いた。
「政府首班はクレメンス・ピウスツキ。今はヘルヴェチアで固くて臭いパンを食べている。彼が軍隊を指揮して、ルーシ人とニェミェツ人をポルスカの大地から追い出すための独立戦争を始めるんだ。実に感動的だね。で、ここからが重要だ。よく聞きたまえ」
女は声のトーンを幾分か落とした。
「いいかね? 君にはこれから進むべき道が二つある。一つは安直な道で、もう一つは険しい道だ。だが安直な道の先には何もなく、険しい道の先には輝かしい成果と未来が待っている。そう、あたかも『岐路に立つヘラクレス』だ。凡人として死ぬか、英雄として死ぬか? 安直な道には綺麗な女の子たちが立っていて君を誘っているが、険しい道には
オルリックは苛だたしそうに頭を振った。もっと分かりやすく、具体的なことを言ってくれと彼は言った。声は答えた。
「ああ、すまない。多弁になるのは私の悪い癖なんだ。なにしろ私は『雄弁』も司っているからね。ふむ、そうだな。言い換えれば、君は戦争が終わったらどうするのかということなのさ。除隊するのか、それとも戦い続けるのか。またあの実りない日雇い労働に戻るのか、それとも新生ポルスカ共和国軍に参加して栄達を望むのか。どうするかね?」
オルリックは、少しばかり逡巡した。だがすぐに、俺の居場所は軍隊にしかない、と彼は答えた。
電話の主はあからさまに喜んだ。
「よしよし! それでこそ私の大切な酒壺だ! 実を言うとね、ここで君が除隊すると言おうものなら即座に電話を切って、今後永久に君とは関わらないようにしようと思っていたのさ。これではいっさいの見込みなし!ってね。ピウスツキの新しい軍隊に参加するなら、君は常に戦果を挙げ続けてぐんぐん昇進するし、まだまだ空っぽの君という酒壺の中には酒がたっぷり注がれることにもなる。それは私にとって非常によろしいし、あの方もきっと喜ぶ……おっと喋りすぎた」
わざとらしい咳払いが二回聞こえた。女は何事もなかったように話を続けた。
「さて、これから君がどうすべきかを教えよう。いいかね、まず君はピウスツキに真っ先に会う必要がある。彼に早々に助力を申し出ることで、手っ取り早く信頼を得るという寸法さ……」
電話はそれからも一時間ほど続いた。
不思議なことにその間、誰もオルリックを見咎めるものはなかった。
☆☆☆
それからのオルリックは、急速に英雄としての道を駆け上り始めた。
ルーシの国家が崩壊し、大混乱の中で誰もが右往左往する中、彼はまるで何かに導かれたようにピウスツキのもとに駆け付け、創生間もないポルスカ人の新しい軍隊に幹部として加わった。
跋扈する敵軍を追い払うための戦いは常に激しく、厳しかった。彼らの新しい軍隊は時には敗走し、時には滅亡寸前にまで追い込まれたが、それでも最後は必ず勝利を得た。
そのうち、ルーシ人だけではなく、ニェミェツ人の国でも革命が勃発し、人類始まって以来の大惨事となったエウロパの大戦争は、なし崩し的に終結した。
独立戦争終結時、オルリックは共和国軍の中将となっていた。元は孤児院出身で、文字も読めず、単なる一兵卒でしかなかった男としては驚異的なことだった。のみならず、彼は国家元首となったピウスツキとも個人的なつながりを有していた。それも、とても深いつながりだった。
独立戦争の最中、オルリックはピウスツキの
独立後も戦いは終わらなかった。国家主権は打ち立てたものの、多くの領土はいまだにルーシ人の支配下にあった。革命後に共産主義者たちによるソビエト政権が樹立されたルーシは、再三に渡るポルスカ側の「領土回復要求」を黙殺した。ほどなくして、ピウスツキは開戦を決意した。
二十二歳になっていたオルリックは、このポルスカ・ソビエト戦争でも活躍を続けた。その予言者のごとき先見性は些かも衰えていなかった。彼は常に最前線に立ち、ある時は手ずから機関銃を撃ちまくり、ある時には騎馬にまたがって敵陣に無謀とも言える突撃を敢行した。
ソビエト軍が新兵器である魔力戦車を初めて投入してきた時も、オルリックは一歩も退かなかった。まるでなにをどうすれば敵の戦車を破壊できるのかを予め知っていたかのように、彼は部下たちが制止するのも聞かずに自ら爆弾を抱えて走り、重傷を負いながらも短時間で三両の敵戦車を破壊した。
戦いの後、オルリックは高級将校用の病院ではなく、簡素な野戦病院に収容された。「兵たちと同じ苦労を分かち合いたい」 そう主張するオルリックは、かねてから広くポルスカ人たちに称揚されていたその英雄性をさらに高めた。その後、ピウスツキの鶴の一声で、彼は首都ヴァルシヴァにある最高級ホテル、ブリストル・パデレフスキ・ホテルで療養することになったが、それをとやかく言う者はもはやどこにもいなかった。
一方で、戦局は重大な局面を迎えていた。オルリックが療養のため軍隊から一時的に離れている間に、参謀本部は拙劣な作戦指導を重ねて相次ぐ敗北を喫し、逆にソビエト軍に首都近郊にまで攻め込まれていた。敵軍はヴィスワ川を挟んで続々と戦力を集結させ、決定的な大攻勢の準備を着々と整えているようだった。
決戦は、間近に迫っていた。
☆☆☆
前線に戻る一週間前、オルリックは結婚した。
相手は旧ポルスカ貴族の血を受け継ぐ、クリスティナ・コニェツポルスキだった。二十歳で、美しく、教養と気品に溢れ、なにより激しい情熱を持つ女性だった。
オルリックがホテルで療養をしている最中、クリスティナは見舞いと称して彼のもとに押し掛けてきて、彼女の方から熱烈に求婚した。エウロパ世界の伝統的な価値観とは真逆の行為だった。対するオルリックは、ちょっと待ってほしいと一言告げて居室に戻ると、半時間ほどしてから出てきた。今度は彼の方から交際を要求した。
交際期間は僅か一ヶ月だった。それでも二人にとっては充分だった。戦時中であることを考慮して結婚式はごく簡素なものとなったが、国民的英雄と国内随一の美人との結婚に共和国は沸き立った。国民にとって二人の結婚は、これからのポルスカの明るい未来を象徴しているかのように感じられた。
結婚式が終わった後、オルリックは新しい妻も連れず、「少しだけ一人にして欲しい」と部屋に閉じこもった。彼のこうした習癖は独立戦争時代から有名で、クリスティナは一言も文句は言わなかった。
オルリックが部屋に入ると、中央のテーブルに置かれた電話機のベルが激しく鳴り響いた。
彼は慣れた手つきで受話器を取った。その途端に彼の鼓膜は、受話器から響く大きな声に刺激された。
「やあ、メルクルィ・オルリック君。私の大切な酒壺よ。素晴らしい結婚式だったね。おめでとう! 私の助力があってのこととはいえ、素晴らしい伴侶を得ることができたのは間違いなく君独自の力によるものだよ」
ありがとう、本当に世話になった、とオルリックは感謝の念を伝えた。それを聞いて、電話の主は少なからず驚いたようだった。
「おや、珍しい! 君が素直に私にお礼を言うだなんて。いったいどういう風の吹きまわしかな?」
オルリックは言った。
クリスティナが押し掛けて来た時、こんな俺が結婚などしても良いのかと迷っていたのを、アンタは電話で後押ししてくれた。そのおかげで、俺は本当の幸福を知ることができた。クリスティナはとても良い女性だ。彼女は俺の生い立ちを一切気にしないで、俺のありのままの姿を見つめてくれる……
彼は言葉を続けた。
こんな人は初めてなんだ。これまで俺はアンタの指示に従って戦場を駆けずり回り、数え切れないくらいの功績を立ててきた。周りの連中も、いやポルスカの国民たちも、そんな俺を英雄として崇めた。それは確かに心地良かった。だが、その一方で俺は言いようのない寂しさを覚えていた。実際のところ、誰も本当の俺を知らないんだと。誰もが俺を英雄扱いするが、誰も本当の俺の姿を知らないし、それに知ろうともしないのだと……
タバコに火をつけようとして、オルリックはそれを止めた。そしてなおも受話器に向かって語り続けた。
クリスティナは、俺の弱さを知っている。彼女は付き合い始めてすぐに、直感的に俺の本当の姿を知ったんだ。本当は英雄と呼ばれるに値しない俺の姿を。それでも彼女は俺を愛し続けてくれた。何の見返りもなく、彼女は俺を愛してくれたんだ。俺は初めて人を愛することと、人から愛されることを知った……俺は今、生まれて初めて幸福だと感じている。
いつもは頼まれもしないのに喋り続けるのに、今回に限って静かにオルリックの語るところを聞いていた受話器の向こう側の存在は、ここでようやく口を挟んだ。
「ほうほう……ついにオルリック君も立派な大人になったわけだな。うん、素晴らしい! 愛というものについて知った君という酒壺には、今や溢れんばかりに美酒が溜め込まれている! 人間を醸造する者として、これほど嬉しいことはないね。ディオニュソスにも胸を張って自慢できるだろう。だが……」
どうした? とオルリックは問うた。何か問題があるのか? 何でも言ってくれ。これまではアンタに世話になってばかりだった。俺ができることなら何でもする。
電話の主はやや早口で答えた。
「君は知ってるかね? いや、酒を飲まない君は知らないか。酒が美味いかどうかを決めるのは、味や酒精の強さというよりも、むしろ香りなんだ。酒を口に含んだ時、あるいは酒が喉を通り抜ける時、鼻腔をふっとくすぐる香りこそが、最終的に美酒であるか否かを決定する。それで、だ。人生の幸福を知った君は、まさに酒が満々と注がれた酒壺になったわけだが、哀しいかな、肝心かなめの香りがまだついていないのだよ。これでは未完成品も良いところだ。さっき胸を張ってディオニュソスに自慢できると言ったが、これではとてもとても……」
彼は言った。では、どうすればその香りがつくんだ?
その問いに女は溜息をついた。
「いやぁ、君は絶対に聞いてくれないと思うよ。これまでのことを
もったいぶらないで早く言ってくれ。オルリックは急かした。俺はこれまでお前の言うことをなんでも聞いてきた。いまさら聞かないことなんてあるものか。
女は言った。
「じゃあ、言うがね。人間の持つ様々な美徳の中で最も高貴なものは、何を隠そう『敬神の念』なのさ。それがなければ、どんなに幸福を感じていても魂は薄汚れたままなのさ。神を敬う心があって、初めて魂という名の美酒はバラの花の如きかぐわしさを得ることができる……」
言葉が一旦途切れ、しばらく沈黙がその場を支配した。ややあって、女は言った。
「つまりだね、君が私のことを神だと認めてくれればすべて話が収まるのだが……まあ、無理かな。これまで何度も、私は自分が神であることを君に言ってきたが、君は頑なに信じようとしなかったし……」
なんだ、そんなことか。オルリックは笑って言った。ヘルメスよ、アンタは俺の神様だよ。何度だって言ってやる。ヘルメスは、俺の大切な神様だってな。
それを聞いて、電話の主、ヘルメスも笑った。
「なんだ、随分あっさりと認めてくれたな! ハハハ、これは良いぞ! ああ、やっと酒が完成した……感慨無量とはこのことかな、ハハハ! ハハハ!」
ひとしきり笑った後、ヘルメスは言った。
「ああ、そうだ。これから最後の指示を君に与えよう。ヴィスワ川の向こうのソビエト軍だが、二週間後に大攻勢を仕掛けてくる。だが安心したまえ。これまで通り私の言うことに従えば大勝利は間違いなしだ。良いかね……」
なんでも言うとおりにしますよ。オルリックは言った。すべては御心のままに、私の神様よ……
☆☆☆
どこまでも清潔だが、限りなく生活感のない白い部屋に、デスクが一つと椅子が一脚あった。デスクの上には古ぼけた電話機があり、椅子の上には誰かの影があった。
ヘルメスが、そこにいた。
彼女は二つの新聞を手にしていた。一つはポルスカ語で書かれており、大見出しには次のような文言が踊っていた。
『共和国軍、ヴィスワ川にて歴史的大勝! ソビエト軍、脆くも潰走す!』
その下には、大見出しに劣らぬくらい大きな文字で次のように記載されていた。
『国民的英雄、メルクルィ・オルリック中将戦死す』
ヘルメスはその新聞を一瞥してからデスクの上へ放り投げ、次にもう一つの新聞のほうへ目をやった。それはルーシ人の言葉で書かれていて、一面の上部にはソビエト政権の象徴である鎌とハンマーのシンボルが印刷されていた。
見出しにはこうあった。
『赤軍の輝かしき英雄、全ソビエト女性の模範、スヴェトラーナ・セルゲーヴナ・アリルーエヴァ、ブルジョワ軍指揮官オルリックを射殺せり!』
ヘルメスが記事に目を走らせていると、デスクの上の電話が鳴り響いた。彼女は受話器を無造作に取り上げると、耳にあてた。彼女は言った。
「ハロー、ハロー? ああ、これはこれはゼウスの姫神様。えっ? なんで女の声をしているのかですって? 嫌だなぁ、私に『良いと言われるまで女として生活する』という罰ゲームを課したのは他ならぬ貴女で、しかも貴女がまだ『良い』と言ってないからでしょうが……ところで、新聞をご覧になられましたか?」
しばらく受話器の向こうの存在が話すのを、ヘルメスはふんふんと頷きつつ聞いていた。そして、笑いながら彼女は言った。
「いや、これでもけっこうひやひやしましたよ。最後の最後になって、オルリック君が私を呪うんじゃないかって心配で。そしたら香りが台無しになりますからね。幸い、彼は最期まで私を信じたままでした。さぞかし素晴らしい味と香りがしたでしょう、彼の酒は。えっ、なんですって? 『詐欺師の神』の面目躍如? ハハハ、そうかもしれませんね……いやはや、貴女の秘蔵っ子のスヴェトラーナも、オルリックを殺して……いや、オルリックという至高の美酒を飲んだことで素晴らしい英雄となりましたね。そう、英雄というのは勝利の美酒を飲んでこそ英雄になるのです。下戸では英雄になれませんよ。スヴェトラーナ、これからが楽しみですね」
受話器と本体を結ぶコードを指先で弄びつつ、ヘルメスは話し続けた。
「最初に貴女が『女の子の英雄をプロデュースする』なんて言い始めた時は、まったくなんてバカな暇つぶしを考えたものだなんて思いましたけど、やってみるとけっこう楽しかったですね。私などは、貴女のスヴェトラーナが英雄として完成するための『酒』を醸すだけの端役でしたが、初めての試みにしてはけっこう上手くいきましたし。人間を育てるというのが新しい趣味になりそうです……」
そこでヘルメスはフフフと低く笑った。電話の向こうの存在がなにごとかを言った。ヘルメスは答えた。
「はあ、なんで笑ったのかですって? いえ、ゼウスの姫神たる貴女が、結果的に共産主義者という究極の無神論者共に手を貸したのがおかしくてですね。それも含めて今回の暇つぶしは楽しかったですよ。それに、貴女に是非教えてあげたいんですよ。神を信じぬ者が神を信じるようになるという、あの劇的な変化の面白さをね。それについてはちゃんとノートに記録してあるのですが……何ですって? 見たい? それじゃあ、今からそちらへ行きましょうか……」
通話が終わり、受話器を戻すと、ヘルメスはデスクの引き出しを開けて一冊の大判のノートを取り出した。
表紙に書かれた「メルクルィ・オルリック」という文字をそっと撫でて、ヘルメスはポツリと呟いた。
「神を信じぬ者が神を信じるようになる……だが、あるいは、彼は最初から神を信じていたのかもしれないな」
灯りを消すと、足早にヘルメスは部屋を去っていった。
※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。
らいん・とほたー「ヘルメスが彼を醸すのは」作品メモ
2020年3月8日公開。
通算十九本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の「次に読みたいファンタジーコンテスト『神様』」に応募した作品です。
大まかなストーリーラインは考えていたのですが、締切二日前になっても書き始めることができず「今回は見送ろうかな」とまで考えていましたが、「字数は5000字以上」というのを見て、「それならとりあえず5000字程度書いてみて、それから取りやめるか否かを考えても良いだろう」と思い直しました。
PCの前に座って書き始めるとだんだんと熱中することができ、夜中の23時から始めて翌朝の10時前には書き終えることができました。やはり何事も「とりあえず」の気持ちで始めるのが重要ですね。
お題が「神様」ということだったので神側を主人公としても良かったのですが、しかし私の個人的な観念としては「神は超越的で、不気味で、気まぐれなもの」というものがあり、そういう観念を表現するには主人公としてよりも、人間の主人公が対する存在として書く方がやりやすいのではないかと思いました。
ギリシア神話モチーフで書きましたが、勉強不足を実感しています。もっと書きつつ、そして学んでいきたいですね。
次回もお楽しみに。
※加筆修正しました。(2023/06/25/日)