ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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30. レイチェルが嗅いだ戦争

 飛蝗(ひこう)の如き敵艦上機の大群は、ようやく去っていった。シェン市の港湾施設と在泊船舶に台風のような勢いで襲い掛かった敵は、無数の爆弾とロケット弾の雨を降らし、黒々とした魚雷を放出して、勝利の勢いに乗る大艦隊の威容を思う存分見せつけた。

 

 港内のあちこちで火災が発生していた。巨大な起重機は中ほどから折れ、白く大きい混合濃縮エーテル液貯蔵庫は爆発して青黒い煙を噴き上げていた。赤いレンガ造りの倉庫は余すところなく爆砕され、中に詰め込まれていた貴重な物資は火炎と共に灰になっていった。

 

 無事な船はほとんどなかった。船体の中央部に航空魚雷を受け、真っ二つに折れたB型戦時標準船が右手に見えた。そうかと思えば、そのままの姿を保ったまま沈降し、汚泥の溜まった海底に着底した小型タンカーが左手の岬近くに確認できた。桟橋付近には機銃掃射で穴だらけにされたタグボートが擱座(かくざ)しており、その周囲には未だに帆が紅蓮の炎に包まれているジャンク船が数隻漂っていた。

 

 地上に地獄が現出したかのような、そんなシェン市の港の中を、レイチェルは実に気のない様子で歩いていた。彼女の純白の毛皮は少し(すす)に汚れていた。だが、その耳はピンと立っていて、ヒゲにも気品が宿っていた。貴婦人たる矜持は、多少の空襲で損なわれたりはしなかった。

 

 空を艦上機が乱舞していた時は汚い溝の中で息を殺していたレイチェルだったが、今ではもう、いつも通りの日常を楽しんでいた。鋭い目で何か食べられるものがないか探し、耳を動かして危険なものを聴き分ける。時折立ち止まって、自慢の嗅覚を働かせることも忘れない。

 

 不思議なことに、人間の姿は見えなかった。どこかに隠れているのだろうと、レイチェルはぼんやりと思った。そのまま隠れて出てこなければ良いのに。わが物顔で道をのし歩く人間が、レイチェルは嫌いだった。

 

 いつの間にか石畳が途切れて、レイチェルは浜辺に辿り着いていた。いつもなら、浜辺は彼女の絶好の食事場だった。気の良い釣り人のおじさんが小魚を分けてくれるし、どこか不機嫌そうなおばさんが解体した魚の内臓を投げてくれたりもする。小うるさい子どもが棒を持って追いかけてくることもあるが、そんな時はさっと走って町の中に入ればすぐに撒ける。色々と問題はあるが、彼女はそんな浜辺を気に入っていた。

 

 だが、浜辺は変わり果てていた。砂浜に打ち寄せる波は船舶から漏れ出したエーテル液が混ざって青紫色を帯びており、()えがたいまでの甘い香気を放っていた。レイチェルの繊細な嗅覚は、その匂いの中に普段嗅ぐことのない血生臭さも感じ取っていた。それは生き物の血の匂い、死の匂いだった。

 

 ここで、レイチェルはようやく人間を見つけた。人間は死んでいた。死んだ人間はひとつではなかった。浜辺には人間の死体がいくつも流れ着いていた。頭がなくなったもの、手足が千切れているもの、見かけは様々だが、どれもぴくりとも動かない点では共通していた。いずれも波に洗われて、死体の肌は奇妙なまでに青白くなっていた。

 

 人間の死体の周りには、小魚の死骸が数え切れないほど打ち上げられていた。その虚ろな青い目ときらきら光る銀色の鱗は、さきほどまで空を飛び回っていた飛行機をどこか彷彿とさせた。海中に落ちた爆弾が生み出した強烈な爆発と水圧で、内臓をズタズタに破壊された小魚たちは、まるで棺桶の中へ入れる別れ花のように、人間の死体を彩っていた。

 

 魚を見てレイチェルは、ちょっとだけ食欲がそそられた。これだけの数の魚に労せずしてありつけるなど、滅多にないことだった。日に日に食べ物は少なくなっていく一方だった。特に、町の中でまともな食べ物にありつけることは、今ではもうほとんどなかった。レイチェルは魚があまり好きではなかった。だが、食べられる時に食べておくのが、厳しい野良猫生活を生き抜く上での要諦であった。

 

 彼女はひたひたと足を運び、こわごわと鼻先を小魚に近づけた。そして次の瞬間、ぷいと顔を背けた。やはり、この甘い匂いは()えられない。彼女は苦々しくそう思った。小魚たちはどれもエーテル液をたっぷりと吸い込んでいた。仮に匂いを我慢して食べたところで、きっとお腹を壊してしまうだろう。彼女はそう直感した。そして、それは正しかった。混合濃縮エーテル液は生物にとって毒物に他ならない。それを摂取することは、薬を与えてくれる飼い主がいないレイチェルにとって、死を意味する。

 

 彼女はそっとその場を離れることにした。そろそろ人間が来る頃合いでもあった。人間たちは道端で猫が死んでいても見向きもしないくせに、人が死んでいると大騒ぎをして用もないのに大勢が集まってくる。そういう時の人間たちは大抵極度に興奮していて、近づこうものならば大声を張り上げて腕を振り回してくる。

 

 苛立ちと、怒りの臭いを発している人間に近づいてはならない。レイチェルはここ数年の間に得た経験でそれをよく知っていた。

 

 町に行けば、何か食べ物が手に入るだろうか? レイチェルは歩きながら考えていた。状況から推し量るに、その可能性は高い。数週間前にあった市街地への爆撃のせいで、シェン市に住む猫たちのテリトリーの境界線は曖昧になっていた。やたらとレイチェルにアピールしてきた、不細工なオスのボス猫、彼もあれ以来姿を見せていなかった。これまで行くことのできなかった場所へ足を伸ばせば、おそらく何かにありつくことができるだろう。残飯でも、生ゴミでも、ドブネズミでも……

 

 それでもレイチェルは結局、彼女のテリトリーから外に出ることはなかった。育ちの良いものがほぼ例外なく持っている慎み深さというものを、彼女もまた持っていた。確かに生活は苦しいが、火事場泥棒のような真似をするほどまでに落ちぶれているわけではない。それに、こういう時に慣れないことをすると碌な目に遭わない。歩き慣れていない街路で良くない人間に出会えば、きっと大変なことになる。慎み深さとは結局、命を守るための生存方略なのだった。

 

 幸い、ねぐらは無事だった。路地裏にひっそりと置かれている腐りかけた木製のゴミ箱の下は、充分に雨風を凌ぐことができた。それに、ここは静かだった。褐色の軍服を着た酒臭い兵隊たちも、鼻水を垂らした汚らしい人間の子どもも来ない。相変わらず空腹ではあったが、レイチェルは強いて満足するよう自らに言い聞かせた。

 

 前脚と後ろ脚を器用に折りたたむと、レイチェルは静かに目を閉じた。彼女は半分起きていて、半分寝ていた。彼女はおぼろげな夢の中で肉を食べていた。今ではもう顔を忘れかけてしまっている、かつての飼い主が切り分けてくれた、血の滴るような大きな牛肉の塊、それが彼女の前にあった。とても良い匂いがする。はしたない音を立てて、彼女は肉にかぶりつき、貪った。

 

 無心になって食べていると、そっと頭を撫でられるのを感じた。飼い主が自分の頭を撫でていた。彼女は少し苛立たしくなって、抗議の声を上げた。今は食事中だ。邪魔をしないで欲しい。飼い主は笑って、「ごめんね」と謝った……

 

 物音がして、レイチェルの意識は急速に覚醒した。見ると、視界の隅を何かが横切るところだった。それは、間違いなくドブネズミだった。考える間もなく、彼女は反射的にゴミ箱を飛び出すと獲物を追った。

 

 一分も経たずして、彼女は獲物を捕らえることができた。牛肉とは比べ物にならないし、臭いし、肉が落ちて骨ばっているが、やはりネズミは美味かった。レイチェルは喉を鳴らして肉片を呑み込んだ。これで数日間は、何も食べないで済むだろう。その後は? そんなことを考える必要は彼女にはなかった。その時その時を生きることができるから、レイチェルはレイチェルという猫であり続けることができるのだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 もともと、レイチェルは飼い猫だった。彼女はシェン市のアングリア租界の一角にあるこじんまりとした綺麗なアパートメントで、年老いた人間の夫婦に飼われていた。まだまだ小さな子猫の頃に夫婦に貰われた彼女は、たっぷりとエサと愛情を与えられて育った。

 

 レイチェル自身はまったく覚えていないことであるが、彼女はシェン市から遠く離れた場所で生まれた。彼女は、グレートアングリア島のウェスト・ミッドランドという州の、コヴェントリーというほどほどに大きな街で、四人姉妹の末っ子として生を受けた。尤も、猫に姉妹だの末っ子だのといった概念が通用するのかは分からない。だが、彼女はいかにも末っ子的だった。ひ弱で、甘えん坊で、そして可愛らしかった。

 

 彼女はなかなか変わった経歴を持っていた。彼女は空を飛んだ猫だった。生後数週間が経って、まだ手のひらに乗るくらいの大きさでしかなかった彼女は、母猫の乳房から無理やり引き剥がされると、とあるアングリア空軍の飛行士に引き取られ、そのまま飛行機に乗せられてしまった。飛行機は柔らかな草地から飛び上がるとそのまま東へ向けて飛び続け、広大な大陸を横断し、ついにはこのシェン市の外れのプードン飛行場に着陸した。

 

 その飛行士は、ある世界記録に挑戦していたのだった。人間以外の生物を積載して、無補給・無着陸で大陸横断飛行を成し遂げるという、前人未到の記録に飛行士は挑もうとしていた。小振りなコンデンスミルク缶一個にも満たない重さの子猫でも、人間以外の生物であるのは間違いなかった。

 

 飛行士は見事それに成功した。折しも世界的に大戦争勃発の気配が濃厚に漂っていた時期でもあり、平和的な冒険飛行を成し遂げた飛行士は大いにメディアに取り上げられ、名を上げた。小さな子猫も多少その名声に(あずか)った。彼女は「空飛ぶ子猫」として、新聞に写真付きで紹介された。その時の彼女には名前はまだなかった。

 

 しかし、残念ながら、飛行士はあまり猫が好きではなかった。彼は猫を飼うつもりなどなかった。彼は早々に飛行場の人間に子猫を預けると、そのまま飛行機に乗って今度は西へ向かって飛び立ち、二度と帰ってくることはなかった。

 

 飛行場の人間たちも、子猫にあまり興味を持たなかった。人間が三人もいればその中に猫好きが一人はいるものだが、不運なことに彼女はまったく顧みられなかった。租界に住む老夫婦がたまたま飛行場へ散歩に訪れて子猫の姿を目にしなかったならば、彼女はきっと、子猫のうちにこの世を去っていたことだろう。

 

 老夫婦は引き取った子猫にレイチェルという名前をつけた。その名は、若くして新型流行性感冒(インフルエンザ)で死んでしまった一人娘からとったものだった。そんなこともあってか、真っ白でふわふわとした可愛らしいレイチェルは、ただの猫にしては過ぎたるほどの待遇を受けて大きくなっていった。老夫婦はレイチェルを過剰なまでに可愛がった。しかし、愛においては質的な問題はあっても量的な問題はない。老夫婦はそのことを弁えていたから、レイチェルはすくすくと育っていった。

 

 毎日与えられるミルクは脱脂粉乳ではなくちゃんとした生乳で、それに茹でた鶏肉までつけてもらっていた。日曜日は夫婦がローストビーフを焼く日だったが、レイチェルは焼かれる前の肉を分けてもらうのが常だった。

 

 可愛がってもらったという温かな記憶を、おぼろげではあるがレイチェルは未だに保持していた。紅茶の匂い、ミルクの匂い……蓄音機から流れる古典音楽の音色、夫のしわぶき、妻の鼻歌……優しく背筋を撫でる指先と手のひらの感触……柔らかなクッション、滑らかなシーツ……家からは出してもらえなかったし、他に猫の友達もいなかったが、その頃のレイチェルは満たされていた。彼女は大いに満足していて、毛艶も良くて、丸々と太っていた。

 

 状況が変わったのは、数年前の冬のことだった。

 

 それまでも遠く家の外から、何かが爆発したり連続的に爆ぜる音が聞こえてきたりしていたが、その日のそれは以前とは比較にならないほど大きな音だった。町のあちこちで爆発音が聞こえ、窓ガラスが割れる音がしたり、人間が金切声を上げたりしていた。重苦しくサイレンが鳴り響く中、レイチェルは怖がってベッドの下に隠れていた。老夫婦はじっと黙ったまま椅子に座り、手を合わせて、静かに祈っていた。

 

 やがて、敵がやってきた。その街に来たのは、大陸の東の海上にぽつんと浮かぶ島国の軍隊だった。島国は「帝国」と自称していた。帝国軍によるシェン市の外国人租界の制圧は、わずか数日という短期間で達成された。租界の守備隊と警察部隊が降伏した後、褐色の軍服に身を包んだ帝国軍の兵士たちは着剣した銃を担ぎ、半壊した街で堂々たる分列行進を行った。

 

 帝国軍は外国人に対し、望む者に祖国送還の便船に乗ることを許可する旨の布告を発した。租界の住民が消えることは現地経済の停滞を意味したが、帝国軍はそれよりも敵国の諜報活動と破壊工作を憂慮したのだった。帝国軍は一隻しか船を用意していなかったが、予想以上に希望者が殺到し、結局は三隻に船が増やされた。

 

 レイチェルの飼い主夫婦も、船に乗ることにした。もともと二人はシェン市に永住しようと思っていたわけではなかった。ただ、銀行支店長職という激務を終えた後の余暇を楽しむために、二人はそこに一時的に居を構えていたにすぎなかった。アングリア本国には資産が蓄えてあるし、小さいながら持ち家もある。異人種の帝国軍の顔色を窺いながら暮らすことなど、夫婦には考えられないことだった。

 

 ただひとつ、老夫婦にとって誤算だったのは、レイチェルを連れていくことができないということだった。理由は定かではなかったが、帝国軍は動物・ペットの(たぐい)の乗船を禁止した。おそらくそういったものまで積んでしまっては、必要な船舶数がさらに増えるとでも考えたのだろう。あるいは検疫上の問題を考慮したのかもしれない。いずれにせよ、レイチェルはシェン市に置いていかれることになった。

 

 老夫婦がどのように折り合いをつけたのかは分からない。あるいは、折り合いなどつけなかったのかもしれない。それでも二人は選択をし、決断をした。

 

 その朝、老夫婦はいつもより念入りに、深く愛おしむようにレイチェルを撫でると、何も言わず、荷物を持って外に出ていった。ドアが閉まる音を聞いて、クッションの上で眠っていたレイチェルはちょっとだけ顔を上げたが、また前脚の間に顔を埋めた。二人がいつものように買い物へ出かけたのだと彼女は思ったのだった。

 

 すぐにまた帰ってくるだろう。帰ってきたら、また遊んでくれるだろう。

 

 しかし、半時間ほど経って、彼女は突然クッションから跳ね起きた。彼女はドアに向かって走った。猫が生まれつき持っている何らかの直感が、その時、彼女に強く働きかけていた。

 

 匂いが、ない。レイチェルの直感をあえて説明するなら、そういうことだった。空気が、これまでにないほど匂いを失っていた。そのことがレイチェルをいっそう急き立てた。

 

 これまでとは異なり、ドアには鍵がかかっていなかった。それのみならず、ドアは半開きになってさえいた。そのようなことは、これまで一度もなかった。するりとドアの隙間から抜け出ると、レイチェルはアパートメントの狭い階段を走り下りた。

 

 暗いエントランスから街路に出ると、彼女は一目散に潮の匂いのする方向へと走った。たまにバスケットに入れられて老夫婦と一緒に散歩をしたことはあったが、これまで彼女は、自分自身の脚でシェン市の街路を走ったことはなかった。すぐに足が痛くなってしまったが、彼女はそれでも走り続けた。

 

 走っているうちに、彼女の周りには彼女と似たような動物たちが増えてきた。いずれも毛艶の良い、優しそうな顔立ちをした、首に首輪を巻いている犬猫たちだった。彼らは鳴き声を一つも立てず、しかし息を切らしながら、集団となって港へ向かって走った。彼らは一様に、体から怯えの匂いを発していた。彼らはレイチェルと同じく、曰く形容しがたい、ある直感に突き動かされているようだった。

 

 そして、ついに彼らが波止場に辿り着いた時、その直感の指し示すものが明らかになった。

 

 彼らは港外へ進路を取る、大きな客船を見た。客船は三隻あった。いずれも甲板上にぎっしりと人が立っていて、シェン市の見納めだとでも言うように、ずっと立ち尽くしていた。

 

 犬たちは吠えた。猫たちは吠えなかった。波止場には無数の犬と猫たちが集まっていた。彼らはみな、去り行く白い三隻の船を見ていた。あの船の中に、大好きなひとたちがいる! 彼らは飼い主を呼び戻すかのように、飽きることなく吠え続けた。中には海に飛び込んで、船を追おうとする犬までいた。悲しみの匂いがあたりに満ち溢れていた。

 

 やがて船は遠くになり、見えなくなった。次にそこへやってきたのは、人間だった。

 

 人間たちは手に手に棍棒や網を持っていた。次の瞬間には、犬や猫たちの上げる悲鳴と、人間の怒号が辺りに木霊した。人間たちは動物たちの毛皮と肉を狙っていたのだった。外国人の旦那方の手を離れたのだから、この動物たちはもう誰のものでもないのだった。誰のものでもないものは、早い者勝ちで手に入れることができる。それがこの大陸における基本通念の一つだった。

 

 悲鳴が響いた。振り下ろされた棍棒が骨を砕く、ボキボキという音が連続した。苦しげな喘鳴が聞こえた。糞尿の臭いがさっと走った。混乱の中を、レイチェルは駆けた。彼女は走って、走り続けて、気づいた時には見知らぬ路地裏に逃げ込んでいた。自慢の白い毛皮は泥に汚れていたが、幸いなことに彼女はまったくの無傷だった。

 

 その日、彼女は怯えた気持ちを癒すこともできず、震えながらゴミ箱の下で身を休めた。夜になっても、遠くから犬や猫の鳴き声が聞こえてきた。人間たちの狩りはまだ続いているようだった。レイチェルは空腹も忘れていた。彼女を満たしていたのは、ただ恐怖と、夫婦に捨てられたという絶望の感情だけだった。

 

 ただの飼い猫だったレイチェルが、その後どうやって野良猫として順応していったのか、その経緯については定かではない。たぶん、彼女は類まれな幸運を持っていたのだろう。思えば彼女をこの大陸に連れてきたあの冒険飛行も、途中で何度も墜落の危機に陥ったのだが、そのたびに不思議なほどの幸運に恵まれて飛行士は機体を立て直したものだった。飛行士はそれについて「自分の運が良いからだ」と自惚れていたが、なんのことはない、同乗者である子猫の運が良かっただけだった。

 

 レイチェルが狩りと喧嘩の技術を覚え、テリトリーの概念を理解し、人間を避ける方法を習得した頃には、もう一年近くが経っていた。彼女は見る影もなく痩せていたが、代わりに筋肉がついていて、顔つきもどこか精悍になっていた。人間による野良猫狩りもほぼ確実に躱せるくらい彼女は狡猾になったし、時には人間に甘えてエサをねだるふてぶてしさも身につけた。

 

 あのアパートメントで老夫婦に養われていた毎日とは、比較にならないほど惨めな生活であるのは間違いなかった。だが、それでもレイチェルは気品を失わなかった。彼女はどこか凛としていた。最初の頃は怯え、恐怖し、寂しさに身を震わせていたが、日が経つにつれて彼女は強くなっていった。喧嘩で負けたことはなかったし、エサの奪い合いで退いたこともなかった。発情期でも、彼女はオス猫の誘いをすべて蹴った。彼女は弱いオスと子どもを作りたくなかった。

 

 そんな生活をレイチェルが続けていた一方で、人間たちの世界は大きな変化を迎えつつあった。

 

 大陸に侵攻した島国の帝国軍は決定的な成果を得ることができないままに、大洋の向こうにある巨大民主主義国家と新たに戦端を開いていた。レイチェルの祖国であるアングリア国とも、帝国は干戈(かんか)を交えることになった。陸に、海に、空に、壮烈で無益な激闘が続いた。

 

 帝国の敗色は濃厚だった。彼らの艦隊は壊滅し、精鋭を誇った陸軍は各地で玉砕を続けていた。本土の工場と経済地帯は爆撃によって焼き払われ、食料と物資は不足していた。海には潜水艦と機雷の群れが待ち構えており、大陸で収奪した食料と資源を運び込もうとすれば、輸送船は十中八九捕捉され、撃沈されてしまうという状況になっていた。

 

 レイチェルが暮らしているこのシェン市は、大陸における帝国軍の一大拠点だった。南方の資源地帯と帝国本土との中間地点に位置するこの街は、大陸随一の巨大港湾設備を誇っていた。戦争の初期に帝国軍が国際社会からの非難を甘んじて受けてまでシェン市を占領したのは、彼らが戦争を遂行する上でこの街が不可欠だったからである。

 

 だが、シェン市にもそろそろ死が訪れつつあった。市街の大半は大型爆撃機による空襲で燃え落ち、崩れ落ちていた。それまで無事だった港湾施設と船舶も、この間の敵艦上機の大乱舞で壊滅してしまった。

 

 人間たちは、そろそろ戦争が最終局面に差し掛かりつつあることを感じていた。一方、レイチェルら猫たちはそんなことには一切無頓着だった。彼女たちが考えていたのはただ一つ、どうやってその日の空腹を満たすか、それだけだった。その時その時を生きねばならないのは人間たちも猫たちも同じだったが、猫たちの方がそれに長けていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 あの空襲の日以降、レイチェルの体調は次第に悪化していった。彼女は腹が痛み、下痢を繰り返していた。出てくる便は青紫色で、臭気の中に奇妙な甘い匂いが混ざっていた。

 

 彼女は知る由もなかったが、その原因はドブネズミにあった。ネズミたちは浜辺に打ち上げられた小魚を貪り食い、あるいは燃え残った食料や物資を漁ったが、それらはいずれも混合濃縮エーテル液に汚染されていた。ネズミたちはせっせとそれらを胃の腑へと送り込み、たっぷりとエーテル成分を体に蓄積させて、そしてレイチェルら猫たちに食べられたのだった。

 

 それはいわゆる、生物濃縮という現象だった。しかしただの猫であるレイチェルにそのようなことが分かるわけもなかった。ただ、聡明な彼女は、もうこれ以上ドブネズミを食べるのはやめるべきだと理解していた。

 

 レイチェルはその日の午後、路地裏から出て、ふらふらとした足取りで浜辺へと向かった。数日間絶食したおかげでエーテルのほとんどは体から抜けていたが、今度は栄養が不足していた。下痢のせいで体力も消耗していた。一刻も早く、彼女は何かを食べる必要があった。

 

 そんなふうに心身ともに弱っていたからだろうか、レイチェルは背後から近づいてくる人間を察知するのに一瞬遅れてしまった。気づいた時には、彼女は網の中にいた。弱った体に残っている全力を出して彼女は抵抗した。だが、却って網は全身に絡みついてしまい、ついに彼女はいっさい身動きができなくなってしまった。

 

 レイチェルは、彼女を捕らえた人間の顔を見た。薄ら笑いを浮かべているその男は前歯が欠けていて、顔面は垢に覆われていた。()えた臭いが漂ってきた。その人間は、大陸の民のようだった。その日その日、その時その時を生きていくだけで精一杯の人間のようだった。猫の肉を食べるのか、それとも毛皮を剥いで売るのか。おそらく、その両方だろう。

 

 それは非難に値することか? まったくそうではない。男も生きねばならなかった。しかしレイチェルにはレイチェルなりに生きねばならない理由があった。

 

 猫狩りの男はしばらく、網の中でもがき続けるレイチェルを眺めていた。だが、彼は次第に、いつまで経っても大人しくならない猫を苛立たしく感じてきたようだった。彼は網を持ち上げると、石畳の地面へレイチェルを思いっきり叩きつけようとした。

 

 数秒も待たずしてレイチェルの命が儚くなるという、その瞬間だった。

 

 横合いから鋭い声がした。

 

「おい、やめろ!」

 

 人間の男の、張りのある大きな声だった。猫狩りの男は動きを止めた。レイチェルの命は、すんでのところで救われた。

 

 猫狩りの男は怪訝な表情を浮かべて、声が発せられた方へ顔を巡らせた。そして、そこに立っていた人物を見て、急に卑屈な笑顔を浮かべ始めた。

 

 そこにいたのは、兵士だった。兵士は帝国軍の褐色の軍服に身を包んでいた。百八十センチ以上の背丈を誇る大柄の肉体を、戦闘と実務によって鍛えられた筋肉が覆っていた。襟章には軍曹の階級を示すマークがついていた。いかにも精強な兵士という風貌だったが、ただその顔立ちだけは、どこか童顔ともいえる幼さを残していた。

 

 その軍曹は、厳しい目つきで猫狩りの男を睨みながら言った。

 

「弱い猫を虐めるな。そいつを放してやれ」

 

 彼のその言葉は大陸の民の話す言葉ではなかった。しかし猫狩りの男はその意味を正確に理解したようだった。彼は網からレイチェルを出すと、卑屈な笑みを浮かべたまま。いずこへともなく歩み去ろうとした。

 

 すると軍曹は、胸ポケットから煙草の箱を取り出しながら、男に対して口を開いた。

 

「おい、ちょっと待て。代わりにこれを持っていけ」

 

 軍曹は煙草の箱を差し出した。猫狩りの男は一瞬、呆気にとられたような顔をした。その次に、一瞬だけ彼の顔に怒りのような表情が浮かんだ。だが、さらにその次の瞬間には、男はまたうすら笑いに戻っていた。男は煙草の箱を押し頂くような手つきで受け取ると、今度こそ足早に去っていった。

 

 軍曹は去り行く男の後ろ姿をしばらく眺めた後、網から出されてもなおもその場に留まっているレイチェルに視線を移した。軍曹は言った。

 

「ほら、あいつはもう行ってしまったぞ、にゃん()。さっさとどこかへ行け。また悪い人間に捕まったら大変だぞ」

 

 しかしレイチェルは、動かなかった。先ほど全力で暴れたせいで、彼女は体力を使い果たしてしまっていた。石畳に座り込み、荒く息を吐いて、彼女はじっと動かなかった。

 

 軍曹は顎に手をやってしばし考えると、おもむろに腕を伸ばしてレイチェルを軽々と抱き上げた。

 

「にゃん太、お前どこか悪いのか? ふむ、病気なのかもしれないな……よし、俺がこのまま船まで連れて行って、お粥を食わせてやろう。うちの国の米は美味いぞ。それに、今となっては米は貴重品だ。米の粥を食ったら、すぐに元気になるだろう。さあ、行こう……」

 

 軍曹はレイチェルを右肩の上に乗せた。彼女は逃げなかった。これまで幾度となく彼女を救ってきた動物的な直感が、この人間は悪い存在ではないと教えていた。軍曹からは、煙草のきつい臭いが漂っていた。しかし同時に、どこかホッとするような匂いもしていた。このままこの人間についていけば、きっと美味しいものが食べられるだろう。レイチェルは目を閉じた。

 

 軍曹は脇目も振らずに港の中を進んでいった。港の中は、相変わらずの惨状だった。沈没し、マストだけを残した小型輸送船があった。赤錆を一面に浮かび上がらせた、放棄された掃海艇があった。撃墜された航空機の残骸が漂っていた。破壊された対空砲座は片付けられていなかった。地面のそこかしこに大穴が開いており、機械の部品が散らばっていて、誰もそれを気にしていなかった。

 

 しばらく歩き続けた軍曹は、やがて一隻の船の前に来ると、歩みを止めた。ポンポンと肩の上のレイチェルを軽く叩くように撫でながら、彼は言った。

 

「ほら、着いたぞ。ここが俺の家だ。名前は『厚福丸(こうふくまる)』だ、よく覚えておくんだぞ、にゃん()

 

 大きな体をしているのにも拘わらず、軍曹は小さなタラップを実に軽やかな動きで登っていった。軍曹が登りきる前に、レイチェルは肩からジャンプして、厚福丸の甲板の上にさっと降り立った。甲板は剥き出しの金属で出来ていて、表面にはところどころ錆が浮かんでいた。小さなクレーンが一基備え付けられていて、その後ろにある塗装の剥げた船橋(ブリッジ)は簡易便所のようにみすぼらしかった。

 

 あまり立派な船とは言えなかった。それでもレイチェルはひとまず安心した。少なくともここには、自分を網で捕まえたり、棒で殴り殺そうとしたりする悪い人間はいないはずだ。錆とペンキの臭いはするが、悪い人間の臭いはしない。

 

 鼻をひくひくと動かして状況を分析していたレイチェルは、また抱き上げられた。レイチェルを抱いた軍曹が言った。

 

「さあ、兵員居住区に行こう。今はちょうど昼飯時だ。佐竹に頼んだら、にゃん太のためのお粥の一杯でもすぐに作ってくれるだろう」

 

 半時間も経たずして、レイチェルは暗く蒸し暑い船内の一室で、粥にありついていた。粥はちゃんとした米で出来ていたが、どこか水っぽく、しかも雑穀が混ぜられていた。しかしレイチェルはそれを喉を鳴らして食べた。粥からは、栄養の匂いがしていた。

 

 そんな彼女を軍曹は椀と箸を手にしつつ、満足そうに眺めていた。

 

「食え食え、よく食え。食って元気になれ。元気のない猫なんて、愛嬌のない女のようなもんだ」

 

 食事が一段落した頃、レイチェルの周りに座っていた他の兵士たちが、軍曹に話しかけ始めた。

 

「渡辺班長、こいつはいったいどこから連れてきた猫なんですか? 自分はてっきり、このシェン市の猫は全部、民国の人間に食われちまったもんだと思っていましたが」

 

 軍曹が答えた。

 

「おう。このにゃん()もまさに食われる寸前だったよ。猫狩りに捕まっててな、網の中で藻掻いていた。気の毒に思ったから助けてやったんだよ。もし犬だったら、きっと助けなかったな。俺は猫好きなんだ。なんだか具合が悪そうだったから、船まで連れてきちまった」

 

 兵士の一人が言った。

 

「それにしちゃ随分と食欲があるようですがね、この猫。でも、良いんですか? 船に猫なんて乗せて。なんかこう、海の神の祟りとかないんですか?」

 

 軍曹は呆れたように言った。

 

「馬鹿だな、昔から船乗りは猫を可愛がるもんだろうが。ネズミを獲ってくれるからな。それに白い猫は幸運の象徴だと親父から聞いたことがある。ほら、土佐(とさ)県の音無(おとなし)神社かどこかでは、白猫が船乗りを守る神の使いとして祀られているとかなんとか言うじゃないか。きっと俺たちにも御利益があるだろうよ」

 

 他の兵士が言った。

 

「渡辺班長、妙に船と海について詳しいですね」

 

 軍曹は胸を張って、どこかわざとらしい口調で言った。

 

「そりゃ陸軍ではあっても、俺たちは船乗りだ。俺たちは大陸派遣軍船舶司令部直属の、船舶護衛分隊なんだからな。お前たちももっと誇りを持て。促成栽培のなんちゃって船乗りが海の男としての誇りを持つなんて、難しい話かもしれんがな。ハハハ……」

 

 その晩、レイチェルは久しぶりに毛布の上で睡眠を取ることができた。軍曹が彼女のために特別に寝床を作ってくれたのだった。毛布は汗臭かったが適度に柔らかく、寝心地は悪くなかった。猫好きという軍曹の言葉に偽りはないようだった。安らかな寝息を立てて眠り始めた彼女を、軍曹は起こさないように、そっと優しく撫で続けた。

 

 軍曹は、この厚福丸に搭載された対空火器を操作する兵士たちの班長だった。厚福丸は排水量千五百トン程度の小型貨物船で、建造されてから既に三十年以上が経過している老朽船だった。機関が全力を発揮しても七ノット程度しか船足が出ず、旋回能力も低かった。空と海に敵が溢れかえっている状況では、まず真っ先に沈められそうな船だったが、それでも今日まで何とか生き延びてきた。

 

 船に搭載されている兵器は、三丁の重機関銃と、対潜水艦用の軽迫撃砲と、敵から鹵獲した小型の速射砲だけだった。これらを操作する七人の兵士を束ねるのが、この若い軍曹というわけだった。

 

 次の日の朝、軍曹はレイチェルを抱いて船長室へ行った。船長はそろそろ六十歳に差し掛かろうかという男性で、頭髪が禿げており、気の毒なほどに痩せていた。

 

 軍曹は大きな声で、船長にレイチェルを紹介した。

 

「船長殿、事後承諾になりますが、私の分隊に新しい隊員が昨日加わりました。名前はにゃん太、ネズミ捕り要員です。こいつは口がきけませんので、私が代わりに着任を申告します」

 

 船長は苦笑いを浮かべた。この軍曹はいつもこんな調子だ。子どもっぽく、全力で軍隊生活を楽しんでいる……彼は軍曹とは対照的な、ごく静かな声を発した。

 

「はいはい、渡辺さん。いくらこの厚福丸が小さな船とはいえ、猫の子一匹程度ならば受け入れる余地はありますからね。着任を許可しましょう。でも、この船にはネズミはいませんよ。オンボロ過ぎていつ沈むか分からないから、ネズミはとっくの昔にぜんぶ逃げ出しているんです……」

 

 しばらく、船長と軍曹は雑談を続けた。レイチェルは、そこらじゅうから漂ってくる機械油とエーテル液の臭いに辟易としていたが、一方でこの環境に安心感を覚えている自分自身をも見出していた。

 

 この船に乗っていれば、きっと安全だ。ご飯も食べられるし、寝床は温かくて柔らかい。なんだかいつもゴトゴトといううるさい音がするし、空気の臭いも酷いけれど、街にいるよりはマシだろう。それに、背中や喉を優しく撫でてもらえるし……

 

 ただの猫であるレイチェルには、その時彼女の後ろで交わされていた会話の内容を、理解することができなかった。船長が沈痛な面持ちをして言った。

 

「渡辺さん、本船は予定通り、一週間後にチンタオへ向けて出港します。積み荷は穀物とその他生活物資。ありがたいことに、船舶司令部は弾薬輸送について考え直してくれたようです。しかしやはり、護衛艦はつけてくれないとのことですが……」

 

 軍曹は頷いた。

 

「けっこうなことではありませんか。当初の予定通りこの厚福丸に弾薬なんか積んだら、ちょっと機銃掃射を喰らっただけで大爆発を起こしてしまう。穀物なら燃えはするでしょうが、爆発はしない。貴重な弾薬をこんなボロ船で運ばせるのは、流石にお偉方も躊躇したんでしょう……それにしても護衛艦なしとはなぁ」

 

 船長は目を伏せながら尋ねた。

 

「渡辺さん、どうでしょうか。あなたたちの火器だけで、この船をしっかり守れるでしょうか? 運良く敵に出くわさないままここまで生き延びてきましたが、流石に今度ばかりは……」

 

 軍曹は明るい声で答えた。

 

「こっちの重機関銃の性能は良いですよ。撃てばよく当たります。でも敵の爆撃機は装甲が厚いですから、落とすところまではいかんでしょう。まあ爆撃の狙いを逸らせてやって、こっちは回避に専念すれば……助かるかもしれませんな。敵の潜水艦に関しては、まあせいぜい見張りをしっかりやって、魚雷を無事に回避できるよう祈るしかないでしょう」

 

 船長は溜息をついた。

 

「神頼みというわけですか。まあ、人事を尽くして天命を待つとも言いますしね。やれるだけやってみましょうか」

 

 軍曹は慰めるように言った。

 

「まあまあ船長殿、そこまで深刻にお考えになることもないですよ。私は生まれつき強運でしてね、これまで四回ほど死に損なっていますが、結局死んでいませんし、五体満足です。今回の航海も、きっと何事もなく済むでしょう。それに……」

 

 そこまで話すと、軍曹はレイチェルを抱き上げた。

 

「白い猫を乗せた船は、あらゆる災厄から逃れるんでしょう? このにゃん太がいれば、きっと大丈夫ですよ」

 

 船長はしばらくレイチェルを見つめていたが、やがてほっと溜息を一つ吐くと、ふふふと笑い声を漏らした。

 

「渡辺さん、あなた、色々と勘違いされてますよ。まず、船に乗せるのは白い猫ではありません。黒い猫です。海に棲む妖怪は、黒いものを怖がりますからね。それから、その猫ですが……渡辺さんは『にゃん太』と呼んでおられますけど、股をよく見て御覧なさい。この猫は、メスですよ。お嬢さんです……」

 

 

☆☆☆

 

 

 一週間後、厚福丸(こうふくまる)は予定通りに出港した。船倉には麻袋に詰められた陸稲米と梱包された綿製品、それにセメントの袋が積み上げられていた。セメントは、出港直前になって司令部が輸送するよう命令してきたものだった。そんな重量物を積んでは船足が鈍ると船長は抗議したが、結局聞き届けられることはなかった。

 

 軍曹は船長に対して「きっと何事もなく済むでしょう」と豪語した。しかし敵は正確に厚福丸の情報を掴んでいた。これまではあまりにも小さく、かつ老朽化した船であったために優先攻撃目標から外されていた厚福丸であったが、先の空襲によりほとんどの優秀な船舶が沈んでしまったことで、ようやく攻撃目標としてクローズアップされるに至ったのであった。

 

 出港してから一日が経った夜、厚福丸の無電室はしきりに敵潜水艦が発する電波をキャッチしていた。それは攻撃の前触れと思われた。船長は見張りを厳重にするよう命令し、軍曹も班員をすべて見張りに立たせたが、やがて敵潜水艦からの電波は途絶えてしまった。船長たちは警戒態勢を解き、最低限の見張り員を除いて、休息に入った。

 

 船橋には、船長と軍曹の二人が残った。彼らは薬缶(やかん)のお茶を飲みながら、敵の動きについて話し合っていた。船長が言った。

 

「渡辺さん。電波が消えたということは、敵潜は私たちを見失ったのでしょうか?」

 

 軍曹は答えた。

 

「いえ、そんなことはないでしょう。敵潜水艦は優秀な電波警戒機を搭載しているという話です。暗闇でもはっきりとこちらの位置を掴めるのだとか」

 

 船長が首を傾げつつ、また言った。

 

「それでは、距離が離れたとか? 振り切ったとか」

 

 軍曹は苦笑いをした。

 

「この船の足の速さについては、船長殿のほうが詳しいでしょう。それに、セメント袋なんて余計なものを積んだせいで、こちらはもっと速度が落ちている。潜水艦のほうが速いでしょうな」

 

 船長の表情は曇ったままだった。

 

「それじゃあ、なぜ敵は沈黙したんでしょう?」

 

 軍曹は低く唸った。

 

「うーむ、単独で攻撃するよりは、仲間を呼び集めてこちらを包囲してから一気にやる、なんてことも考えられますが、それよりもありそうなのは……」

 

 レイチェルはその時、眠りの世界の中にいた。彼女はすでに船内の生活に順応していて、エンジン音のうるささにも、混合濃縮エーテル液の臭気にも慣れていた。

 

 彼女のお気に入りの場所は船橋の操舵室の片隅だった。昼間はそこに軍曹がいて、おしゃべりをしたり遊んだりしてもらえた。彼女は夜もそこで寝ることにしていた。

 

 夢の中で彼女は、軍曹と一緒に遊んでいた。

 

 白い空間の中、軍曹はレイチェルを抱き上げると、空高くへ放り投げる。彼女は数秒間浮遊感を味わうと、今度は心臓が痛くなるような落下感を覚えながら下に落ちる。軍曹は墜落する前に彼女を捕まえ、また空中に放り投げる。ふわりと煙草の匂いが彼女の鼻をくすぐる。それは軍曹の匂いだ。

 

 すると突然レイチェルの耳に、何か聞き慣れない音が忍びやかに入り込んできた。

 

 甲高い、キューンというような金属音だった。夢の世界は、いつの間にか暗い海中になっていた。何か黒くて細長い物体が、耳障りな金属音を立てながら、すごい勢いで泳いでいた。それは、レイチェルを目指しているようだった。黒い物体は彼女に近づくと、先端についた口を開けて、牙を剥いた。

 

 レイチェルは切迫した鳴き声を上げた。それを聞いた軍曹は、何かの天啓に打たれたかのように叫んだ。

 

「船長、魚雷だ!」

 

 それと同時に、見張り員の絶叫が聞こえてきた。

 

「右舷雷跡二本!」

 

 船長が叫んだ。

 

「両舷全速前進、面舵いっぱい!」

 

 船長は手ずから操舵輪に取りつくと、すかさず船を旋回させ始めた。船の動きはあまりにも緩慢だった。息が詰まるような時間が続いた。やがて、二発の魚雷は厚福丸を外れて遠くへ泳ぎ去った。敵は厚福丸の速度を過大に見て、照準コンピューターに誤ったデータを入力してしまったようだった。こんなにも足の遅い船がこの世に存在するとは思わなかったのだろう。

 

 船長は、ほっと安堵の息を吐いた。

 

 軍曹は略帽を被り直すと、はきはきとした口調で言った。

 

「敵潜水艦が浮上して砲撃してくるかもしれん。船長殿、私は部下たちを起こしにいってきます」

 

 船橋を去り際、軍曹は畳まれた毛布の上で再度眠りに入ったレイチェルを撫でて、短く声を掛けた。

 

「にゃん太、お手柄だったな。これからも頼むぞ……」

 

 結局、敵潜水艦からの追撃は来なかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 その次の日の、正午過ぎだった。レイチェルが茹でた小魚を食べていると、突然船橋の上の重機関銃が射撃を始めた。兵士の緊迫した声が響いた。

 

「船首前方、敵爆撃機二機!」

 

 レイチェルの隣に座って煙草を吸っていた軍曹は即座に立ち上がると、伝声管に向けて怒鳴った。

 

「敵機来襲! 全員持ち場につけ!」

 

 言うなり、彼は左舷に設置された重機関銃へ走っていった。次の瞬間には甲板上のハッチが開いて、中から兵士たちが飛び出してきた。船橋にはいつの間にか操舵手と船長、一等航海士が集まっており、空を睨んで敵機の動きを追っていた。

 

 その敵は、双発の中型爆撃機だった。爆撃機は二トンもの爆弾を搭載可能で、機首には六門の機関砲が備え付けられていた。彼らは今までにこの航路上において何隻かの船を沈めており、今回も自信満々といったふうに、厚福丸(こうふくまる)に襲い掛かってきた。

 

 敵機は厚福丸の左舷に回り込むと、単縦陣に突撃隊形を組み、やがて爆弾をバラバラと投下した。爆弾は水切り遊びの石のように、海面上をぴょんぴょんと跳ねながら厚福丸に向かってきた。それはスキップ・ボミングと呼ばれる爆撃法だった。それは特に低速で対空火力の乏しい輸送船を、つまり厚福丸のような輸送船を効率的に撃破するために考案された攻撃方法だった。

 

 だが、二機が投下した爆弾はすべて外れた。奇跡としか言いようのないことに、爆弾はすべて甲板の上を飛び去るか、海中深くへ沈んでいった。敵機も敵潜水艦と同様に、厚福丸の船速を大きく見積もっていたようだった。

 

 爆弾が外れても、敵機の戦意は衰えなかった。通り抜けざまに、敵機は機関砲で船上を掃射した。あちこちで兵士と船員が倒れ、血煙を上げた。血だまりが仇花のように甲板に広がった。

 

 それからの戦闘は、一方的なものとなった。二機の敵は悠々と旋回を繰り返し、すべての機関砲を撃って、厚福丸に機関砲弾を雨のように降り注ぎ続けた。機関砲から放たれた焼夷弾は厚福丸に火をつけた。次第に船は、あちこちから白煙を上げ始めた。

 

 それでもしばらく、厚福丸は抵抗を続けた。船橋と右舷の重機関銃と、船首の速射砲はほどなくして沈黙してしまったが、軍曹が自ら操作する左舷の重機関銃は射撃を続けていた。

 

 満足に動ける兵士はすでに軍曹だけになっていた。彼は一人で射撃手と給弾手の役目を果たさねばならなかった。軍曹は三十発入りの保弾板を鷲掴みにし、機関銃に装填して、次々と弾丸を発射した。

 

 レイチェルは、その光景を近くから見ていた。敵機は何度も何度も、彼女と軍曹の正面から突っ込んできた。彼女には、敵機の乗員の顔がはっきりと見えた。乗員の顔は興奮して赤らんでいて、スイカのように膨らんでいた。その首には白いマフラーを巻いていた。

 

 不思議と、レイチェルはこの状況にいっさい恐怖を感じていなかった。むしろ、綺麗だとすら彼女は感じていた。敵機が撃ち出してくる赤い機関砲弾と、軍曹が重機関銃で発射する緑色の曳光弾が空中で交差する時などは特に、彼女はそう思った。ブスブスという音を立てて機関砲弾が周りに着弾しても、彼女はまったく動かなかった。動く必要を感じていなかった。

 

 硝煙と炎の臭いが辺りに満ちていた。レイチェルは軽く身震いをした。なんとなく、彼女は居心地が悪かった。

 

 軍曹と敵機との戦いは、突如として終幕を迎えた。保弾板を手にしようと軍曹は右腕を伸ばした。それを敵の機関砲弾が貫いたのだった。弾丸は肘付近に当たった。軍曹の右腕は中ほどから千切れ飛んでしまった。それでも軍曹は冷静な表情のまま、今度は左腕で保弾板を掴み、重機関銃に装填して、再度突っ込んでくる敵機に向かって射撃を開始した。

 

 軍曹の射撃は、今度こそ敵機を捕捉した。敵機は右エンジンに被弾して、黒煙を噴き始めた。途端に二機は機首を巡らせて、遠く南西の空へ遁走していった。弾切れだったのか、燃料切れだったのか、それとも軍曹の戦意に圧されたのか……戦場においては、最後にその場に残っているものが勝者である。つまり、厚福丸は勝者だった。

 

 敵機が去ったのを見届けると、軍曹はその場に崩れ落ちた。血だまりができていた。その中にいくつかの肉片が浮かんでいた。それは、撃ち砕かれた軍曹の右腕の破片だった。肉片はピンク色だった。

 

 厚福丸は今や、各所で火災が発生していた。生き残った人間が上げているうめき声や、走り回っている音が聞こえてきた。

 

 レイチェルは軍曹に走り寄った。軍曹は仰向けになり、虚空を睨んでいた。レイチェルは血で汚れることも気にせず、軍曹の顔の近くにいくと、慰めるようにその顔を舐めた。

 

 あんなに綺麗で楽しそうなことをしていたのに、どうして軍曹は動かなくなってしまったのだろう? 彼女は不思議に思った。

 

 レイチェルは、もう二度か三度、軍曹の顔をそのザラザラとした舌で舐めた。やはり軍曹は何も動きを見せなかった。軍曹は、ただ空を睨んでいた。レイチェルは鼻をひくひくとさせて匂いを嗅ぎ、最後に残念そうに一声鳴いて、そっとその場から立ち去った。

 

 二時間後、炎に包まれた厚福丸は船首を突き上げるようにして、海の底へ沈んでいった。船長と一等航海士、その他の船員五名と、軍曹の班の全員が戦死した。

 

 

☆☆☆

 

 

 陽だまりの中で、レイチェルは子猫を舐めていた。

 

 一匹を舐めていると、途端に他の子猫が自分も舐めてくれとぐずり始めるので、ほどほどのところで切り上げてやらねばならなかった。初めての子育てではあったが、レイチェルは比較的上手くそれに対処できていた。

 

 やがて、全員を綺麗にし終えると、レイチェルは横になって四匹の娘たちに乳をやり始めた。娘たちが無心になって自分の乳首に吸いつくのを感じつつ、レイチェルはそれまでのことをぼんやりと考えていた。

 

 あの厚福丸の戦いの後、彼女と生き残りの船員たちは、救難信号をキャッチして駆け付けた海軍の駆潜艇によって救助された。駆潜艇はそのままチンタオ市の港に入り、彼女たちをおろして去っていった。船員たちは猫に構っている余裕などなかった。彼女は放っておかれた。

 

 あてもなく市街を歩き続けたレイチェルは、いつしか病院の中庭に入り込んでいた。そこには美しい草花が植えられていて、虫が低く羽音を立てていた。花の香りに、レイチェルはホッとした。彼女にはそこが、いかにも落ち着ける環境のように思われた。

 

 病院の人々は、突然中庭に住み着いた白猫を邪険に扱わなかった。毎日の朝昼晩、看護婦たちは食べ物の残りをレイチェルに与えた。彼女たちは二言(ふたこと)三言(みこと)声を掛けた後、仕事へと戻って行くのが常だった。手足を失い、松葉杖をついている兵士たちも、レイチェルを優しく抱き上げ、しばらくぬくもりを楽しんでから、病室へと帰っていくのだった。

 

 レイチェルはまた毛艶が良くなって、太り始めた。かつて老夫婦に飼われていた頃よりも、彼女は二回りも大きくなっていた。彼女は毎日に満足していた。

 

 そんな彼女の元に、ある日、一匹のオス猫が現れた。

 

 オス猫は最初、中庭の入口をウロウロするだけだった。レイチェルは彼に対して特に関心を示すようなことはなかったが、追い払うようなこともしなかった。

 

 次第にオス猫は距離を()め始めた。数週間後には、レイチェルはオス猫と一緒に、中庭をねぐらとするようになっていた。彼女はそのオス猫から、ホッとするような匂いがしていることに気づいた。レイチェルの腹部には、いつしか彼女とは違う命が四つも宿っていた。

 

 四匹の子猫たちが乳をもっと飲もうと、前脚でレイチェルの腹を押してきた。彼女はなおも、今までに起こったことについて考え続けていた。

 

 老夫婦は優しかったが、自分をおいてどこかへ行ってしまった。港外へ去っていく客船を見た時に感じたあの寂しさは、未だによく覚えている。この街には猫狩りの男たちはいないが、ドブネズミもいない。あれを追いかけるのは、なかなか楽しいことなのだが……

 

 またネズミを追いたいか? レイチェルはそう自分に尋ねてみた。あまり、追いたいとも思わない。今は忙しいから……

 

 そこまで考えを巡らせてから、レイチェルは、軍曹の顔を思い出そうとした。しかし、彼女はそれを思い浮かべることができなかった。優しかったし、美味しい食べ物をたくさんくれたし、よく遊んでくれたし、最後はすごく綺麗な花火を見せてくれた。だけど、彼はいったいどんな顔をしていたっけ……?

 

 かわりに彼女が思い出すのは、匂いだった。彼からは常に煙草の匂いがしていた。そして最後に嗅いだ、濃厚な血の匂いを彼女は思い出した。そう、煙草と、汗と、血の匂い……それが今のレイチェルが持つ、軍曹に関するイメージのすべてだった。

 

 雲が分厚さを増し、日が陰ってきた。レイチェルは、乳を飲み終えて寝息を立てている子猫たちの首筋を(くわ)えて、看護婦たちが作ってくれた巣箱へと運ぶと、自分もその中に入って寝ることにした。

 

 巣箱の中には、子猫たちの匂いが溢れていた。お乳と、おしっこと、ほんのりと漂ううんちの匂い。それはレイチェルが初めて嗅ぐ、幸せな匂いだった。

 

 人間たちの戦争が終わったのは、その次の日のことだった。

 

 そして、そのようなことはレイチェルにとって、そもそもまったく関係のないことだった。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・ほいれんで・くー「レイチェルが嗅いだ戦争」

 2021年1月16日公開。今作は『ラインの娘』のために書き下ろしたものです。いずれエブリスタのコンテストで「猫」とか「匂い」とかいうテーマで募集がかかったら応募できるかもしれません。

 猫を主人公に書いてみるというのは、思っていた以上に筆力が要求されるものでした。短編でサーっと書けるものではありませんね。以前「ボクのマルタ、私のマルタ」でドラゴンを主人公に書きましたが、彼女の場合は言葉を自由自在に操ることができるのに対し、レイチェルはただの猫なわけですから、また別種の難しさがありました。

 ちなみに爆撃機と厚福丸との戦いのモデルは、五代目春風亭柳昇の手による『与太郎戦記』での記述から取りました。『与太郎戦記』、非常に面白い本なのでオススメです。

 ついにこれで『ラインの娘』も30本目の短編となりました。これからもどうぞよろしくお願いします。

 次回もどうぞお楽しみに!

※加筆修正しました。(2023/07/14/金)

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