ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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32. 魔族少女のリデンプション

 火崎(ひざき)リツが守備隊参謀に連れられて向かったその建物は、山の中腹にあった。かつて食糧庫として使用されていた建物は、鉄筋コンクリート製の堅牢な造りをしていた。潮風と日差しによって退色しているが、濃緑色をした帯状の迷彩模様は遠くからでもはっきりと目にすることができた。

 

 その日も猛暑だった。ちょうど昼過ぎで、凶悪な太陽光は空高くから何憚ることなく島に降り注いでいた。揺らめく陽炎の中には鳥の影すら見えず、ただ、波の音と唱和するようにセミの鳴き声だけが響いていた。

 

 建物までの道は一キロにも満たない。だが、通い慣れたはずのその短い道が、今のリツにとっては非常に長いもののように感じられた。暑さのせいばかりではなかった。それは彼女の内心でうごめく、単なるざわめきと言うにはやや激し過ぎる、のたうつような葛藤のせいだった。

 

 リツはまだ若かった。彼女は数ヶ月前に十七歳になったばかりだった。小作りな顔、澄んだ赤い瞳と涼しげな印象を与える高く細い鼻梁(びりょう)、桜色の唇、それらは彼女が成熟した際に醸し出すであろう、魔族特有の妖艶さと美しさを暗示していた。それでも、彼女の短く切った藍色の髪の中から生えている、水牛のような尖った二本の角は未だに伸び切っていなかった。

 

 リツの隣を行く参謀が、ふと歩みを止めた。ちょうどそこには、青々と葉を繁らせた一本の棕櫚(しゅろ)の木が、大きな黒い影を作っていた。参謀は豊かに盛り上がった胸元から銀のシガレットケースを取り出すと、その島ではすでに貴重品となっている、真っ白で真っ直ぐな煙草を二本抜き取った。

 

 参謀は一本を(くわ)えて火を()け、もう一本をリツに向かって差し出した。ふっと紫煙を吐き出すと、参謀は、知的な艶のある声で言った。

 

「火崎、ちょっと休憩しようじゃないか。こう暑くてはやりきれん」

 

 吐き出された煙が炎熱の如き大気へと細く溶けていった。リツは煙草を好まなかったが、恭しい態度で参謀からそれを受け取った。一滴の大粒の汗が巻紙に落ち、黒い点を作ったが、しかしそれもすぐに乾燥して消えてしまった。リツも煙草に火を点けた。

 

 どこかぎこちない手つきで煙草を吸うリツを、参謀は目を細めて眺めていた。(ひたい)から生えている一本の長い黒い角が、日差しを反射して輝いていた。参謀は言った。

 

「火崎、お前はあまり煙草を吸わないのか」

 

 リツは答えた。

 

「はい、父が『煙草は吸うな』と」

 

 参謀はかすかに頷いた。

 

「そうか、父の言葉か……」

 

 しばらく、沈黙が辺りを包んだ。リツは、頭の角と腰から()げた軍刀が、いやに重く感じられた。煙草のまとわりつくような煙と香りのせいも相まって、彼女は自分の意識が、暑熱の中へと溶けていくかのような錯覚に捉われていた。

 

 どうにも、ここが現実の世界とは思えない。リツはぼんやりとそう感じた。この島に来てから、いや、そもそもあの事件が起きた時から、ずっと夢を見ているような気がする。息苦しくて、蒸し暑い、焦点の定まらない夢だ。自分ではない自分が勝手に動いているのを、どこか遠くから、なす術もなく眺めているような感覚……

 

「それにしても火崎、あの時はお手柄だったじゃないか。敵機撃墜とはな」

 

 突然耳に飛び込んできた参謀の声に、リツの意識は現世へと引き戻された。指に挟んでいる煙草から、細長い灰が地面へと零れ落ちていくのが見えた。彼女は、反射的に姿勢を正すと、参謀に答えた。

 

「はい、ありがとうございます」

 

 リツの返事に、参謀は軽く首を縦に振った。そして、短くなった煙草を道の脇に無造作に投げ捨てると、リツに向かって先へ進むよう、顎で示した。二人はまた激しい陽光を浴びながら、建物へ向かって歩き始めた。

 

 参謀は独り言のように、リツに向かって口を開いた。

 

「……尋問によると、あの艦上機は空母『龍驤(りゅうじょう)』から発艦したらしい。龍驤といえば開戦時にこちらの軍港を奇襲した艦だし、三月の市街地大空襲でも主力を担っている。お前は間接的にその仇を討ったことになるな」

「はい」

 

 何を今更、そのような分かり切ったことを言うのだろうか。内心そう思いつつ、ごく簡潔な返答をするリツに、参謀は振り返ることもなく言葉を続けた。

 

「嬉しいだろう、この監獄のような島から抜け出せる機会を得て。ようやく『流刑』もおしまいというわけだ」

 

 リツは一瞬、返答を躊躇った。その次に彼女の口から出て来たのは、ごく当たり障りのない言葉だった。

 

「いえ、敵機を撃ち落としたのは嬉しく思いますが、御奉公の機会を失うのは残念なことです」

 

 参謀はにやりと笑みを浮かべた。いつの間にか、二人は山の麓に辿り着いていた。参謀はちょっとだけ視線を上へと向けてから、またリツに言った。

 

「はは、健気なことだな。それでこそ私の(めい)だ。そう、お前としてはそう答えざるを得ないだろう。まあそれも、しっかりと『アレ』を果たしてからのことだが……どうだ、斬れそうか?」

 

 その問いがなされることは、リツには予想できていた。彼女は今度こそ、はっきりと即答することができた。

 

「はい、斬ります」

 

 見張り所に立っている、機関短銃を抱えた哨兵が参謀に敬礼した。それに軽く手を上げて応えつつ、参謀はリツに向かって頷いた。

 

「うん。そうだ、その意気だ。その意気さえあればいつもどおり、何の問題なく斬れるだろう。それに、斬ってもらわなければこちらがお膳立てしてやった意味がない。お前は、この島から出なければならないのだからな……」

 

 急な斜面を数分間登った後、二人は建物の中に入った。建物の中は薄暗く、()だるような湿気がこもっていた。見張りの兵の「異常ありません」という言葉を後目に、二人は奥まった一室へと足を踏み入れた。

 

 その部屋の中央部には、一つの金属製の大きな檻があった。猛獣を捕らえるのに用いる、非人間性の象徴のような檻だった。

 

 その中に、一人の男が座り込んでいた。男は汗で黄ばんだシャツに、破れかかった茶色の飛行ズボンを履いていた。血の滲んだ包帯が巻かれた黒髪の頭には、角は生えていなかった。ちょうど食事を終えたところのようで、盆の上の(わん)(さら)には何も入っていなかった。

 

 俯いていた男は、参謀とリツが部屋に入った音を聞いて顔を上げた。リツを見た男は、薄く驚きの表情を浮かべた。

 

 心もち胸を逸らせた参謀が、眼光も鋭く、男に向けて冷たく言い放った。

 

梨本(なしもと)少佐、貴官の処刑が決まった。斬るのは、ここにいる火崎リツだ。処刑は三日後の払暁(ふつぎょう)。それまでにせいぜい覚悟をしておくことだ」

 

 言葉を聞いて、男はその両目を大きく見開くと、清流の魚のようにぶるっと体を震わせた。しかし数秒後には元の平静さを取り戻して、今度はリツを男は見つめ始めた。

 

 黒い、濁り一つない綺麗な瞳だった。リツは思わず顔を背けたくなった。彼女はそれを必死に(こら)えた。

 

 男は視線を逸らすことなく、リツに向かって口を開いた。

 

「そうか、君が私を斬るのか。少し残念な気がしないでもないが、君に斬られるのならば文句はない。君は私が得た、最後の友人だからな」

 

 友人という言葉を聞いて、参謀はリツに怪訝そうな顔を向けた。リツは即座に言った。

 

「お前は私の友人ではない。お前は敵で、ただの捕虜だ」

 

 男は、何かを察したように頷いた。

 

「そう……そうだったな。私は捕虜で、君は敵だ。そう、それだけの関係だった。ここではそう言っておこう」

 

 ほんの数秒黙ると、男は参謀に向かって、さきほどよりも幾分か明るい声で言った。

 

「ところで参謀殿、煙草をもらえないか? 重大なことを聞かされたせいか、どうにも今だけは、吸いたい気持ちが抑えられなくてね……」

 

 火を点けた煙草を参謀が檻の隙間から差し込むのを見ながら、リツはぼんやりと思考を巡らせていた。

 

 そうだ、彼の言うとおりだ。彼は捕虜で、私は彼の敵だ。これが正常な関係なのだ。やましいところは何もない。軍律に(のっと)って処刑するだけだ。

 

 だから、いつもと同じように、問題なく斬ることができるはずだ。言い聞かせるように、リツは腰の軍刀の(つか)をそっと撫でた。

 

 

☆☆☆

 

 

 その島の名前は多禰島(たねじま)という。筑紫国(つくしこく)本島から南方へ百キロほど離れた海上に位置する多禰島は、漁業と小規模な農業の他にさしたる産業もない、小さな平凡な島だったが、しかし古くから罪人の流刑地として知られていた。

 

 重犯罪者や政治犯が船で送り込まれ、監視を受けながらひっそりと一生を終えるという、ただそれだけの島だった。近代に入って流刑そのものが廃止されてからは、それも歴史の一幕でしかなくなった。

 

 そんな島がにわかに重要性を増したのは、戦争が始まってからだった。

 

 敵は、宣戦布告と同時に筑紫国に攻撃を加えた。神籠島(かごしま)湾の軍港を空母機動部隊で以て奇襲攻撃した敵は、筑紫国の主力艦三隻を瞬く間に葬り去り、その勢いのままに上陸部隊を繰り出してきた。

 

 凄惨な地上戦が各地で繰り広げられた。それは、絶滅戦争の様相を呈していた。敵は、筑紫国の人間を「魔族」と呼んだ。頭に角を生やし、魔力を持ち、強靭な肉体を持つ住民たちは、敵にとって同じ人間ではなかった。姿形は異なれど、古くから相互に交流を持ち、同じ言語と風習を有し、共に歴史を育んできたという文化的な背景は、まったく無視された。男は言うに及ばず、老幼婦女子の別なく、敵は徹底的な殺戮を行った。

 

 海上での戦いでは遅れをとった筑紫国だったが、地上戦では辛くも拮抗状態へと持ち込むことができた。元来が肉体的能力に秀でた種族でもあった。敵は火力において優越していたが、筑紫国の魔族たちはそれをものともせずに接近戦を挑み、白兵戦で敵を圧倒した。

 

 敵は海に追い落とされ、それ以降は新たなる兵力を上陸させることもなかった。敵は艦艇と航空機によって筑紫国を包囲し、じわじわと締め上げる作戦に切り替えた。

 

 ここに至って多禰島(たねじま)は要塞となった。島には飛行場が整備され、レーダー基地も設置された。沿岸を警備する駆潜艇と小型潜航艇の補給拠点となり、防衛のための陸上兵力も増強された。

 

 敵の爆撃によって連日のように死傷者が続出する多禰島であったが、しかしこの島で任務に就くことを望む者は男女問わず多かった。特に、女性の志願者が多かった。それはとりもなおさず、この島が最前線だからだった。この島に来れば、憎き敵に一矢を報いることができる。たとえ自分は死ぬかもしれないが、親兄弟を焼き殺した敵を道連れにできる可能性がある……

 

 だが、火崎リツがこの島に来たのは志願してのことではなかった。彼女は、昔の罪人のように、この島に流されてきたのだった。

 

 火崎家は代々、剣術によってその名を知られてきた家系だった。神籠島だけではなく、筑紫国本島全体に渡ってその名は轟いており、諸流派の全てを合わせて門下生は千名以上を数えた。

 

 リツの父はその一大派閥の当主であった。彼は変幻自在の太刀(たち)(すじ)と正確な間合いの読み方で、五百戦無敗の勇名を誇っていた。

 

 尚武(しょうぶ)の気風を尊ぶ筑紫国において、火崎家の社会的地位は高かった。リツの父は筑紫国最高指導者の個人的な剣術指南役を務めており、歩兵大佐の階級まで持っていた。神籠島(かごしま)にある広大な屋敷には幾人もの使用人が立ち働いており、ガレージには外国製の自家用車が何台もボディを鈍く光らせていた。

 

 戦争前、毎日のように筑紫国の有力者や門下生たちが訪ねて来ては、首を垂れてリツの父に教えを乞うた。リツはその光景を、誇らしげな顔をして眺めるのだった。

 

 しかしリツの父は、ある側面においてはそれまでの火崎家当主とは明確に異なっていた。彼には強い社会的使命感があったのである。それは積極的に刑務所へ赴き、刑務官のみならず、犯罪者たちへも剣術の稽古をつけるという形でよくあらわれた。「剣によって悪心を断ち、剣によって善心を養う」という信念を持っていた彼は、道場よりもむしろ刑務所での指導のほうを好むほどだった。

 

 どのような罪を犯していても平等に、剣を学ぶ者として扱う。そのようなリツの父を、指導を受けた収監者たちは深く尊敬していた。出所した者たちは真っ先に火崎家の屋敷へと向かい、父に稽古を申し込むのが常だった。

 

 リツはそんな彼のたった一人の娘として何不自由なく暮らし、成長した。父から直接受ける剣術の稽古は厳しかったが、道場以外での父は優しく、愛情深かった。リツが欲しいと言ったものは必ず与えられ、行きたいと言った場所には必ず連れて行ってもらえた。彼女は、わがままというほどではなかったにせよ、恵まれた者にありがちな驕慢(きょうまん)を無意識のうちに心の中に宿しつつ、大きくなっていった。

 

 そして彼女自身、その驕慢に見合うほどの剣術の才能を有していた。同年代の中では負け知らずで、年上の男子に対してすら勝利を収めることもしばしばだった。

 

 なにより、彼女は相手の隙をつくことが上手かった。隙がなければ、それを作ることができた。相手が隙を生むよう、彼女は誘うことができた。彼女は生まれながらにそのような技巧を身につけているようだった。

 

 父はよく幼いリツを抱き上げると、「お前が男だったらなぁ」と溜息をついたものだった。リツの母は彼女がごく小さい頃に亡くなっており、父は後妻を娶ることがなかった。将来は、分家の男を婿として迎えることになるだろう。リツは、なんとなくそのように感じながらも、それに不満を持つことはなかった。それが天が自分に与えた運命なのだと、彼女は知っていた。

 

 そんなリツの生活の根底を覆したのは、やはり戦争だった。彼女が十四歳の時に戦争が始まった。

 

 開戦時、敵の艦上機の群れは軍港のみならず、神籠島市街地をも空襲した。火崎家の屋敷の敷地にも爆弾が落下し、壮麗な道場は見る見るうちに火炎に包まれた。

 

 父はその時、ちょうど不在だった。リツは道場の火災をなんとか消し止めようと、必死になって消火作業に当たった。彼女は使用人たちと共にバケツで水を運び、先頭に立って猛火と対決した。だが火は人間とは違い、隙を見せなかった。外出先から急遽父が駆けつけて来た時には、既に道場は完全に焼け落ちていた。

 

 (すす)で真っ黒になって泣いているリツを、父は責めた。それは生まれて初めて彼女が見るような、激しい怒りだった。彼は娘を火が噴くような鋭い眼光で見つめると、激しく叱責した。

 

「道場などは、また新しく建てれば良い。形あるものは必ず壊れるのだからな。だが、お前のその姿はなんだ。たかだか敵の空襲と火災ごときに打ち負かされるとはなんという恥さらしだ。お前には敗者としての汚辱が染み込んでしまっている。そんなことでは、お前に家を預けて出陣することはできん。もっと強くなれ」

 

 リツはその言葉を震えながら聞いた。かつて彼女を可愛がってくれていた父の姿はそこにはなかった。そもそも彼女が十四歳を迎えた頃から父はそれまでとは異なって極端なまでに厳しくなっていたが、それにしてもこれほどまでに怒りをぶつけられたことは初めてだった。それは彼女が人生で初めて覚える敗北感であり、恥辱感でもあった。

 

 父は、武門の長らしく即座に出陣した。ちょうど、敵が本島各地へ上陸作戦を展開し始めた頃だった。瞬く間に門下生たちが父の元に参集した。軍は父を長として独立大隊を編成し、前線へと送り込むことを決定した。

 

 ここで父はあることを申し出た。刑務所にいる犯罪者たちをも部下に加え、彼らが戦果を挙げたならば、恩赦を与えて欲しいと彼は言った。

 

 父は、犯罪者たちが刑期を終えて出所したところで、必ずしも幸せに社会復帰できるわけではないことを知っていた。元犯罪者であるという烙印は、一生ついて回る。ならば、たとえ死の危険はあっても戦場で武勲を立てる機会を与え、社会に受け容れられる素地を作ってやるべきではないか。それに、銃弾飛び交う前線で国家に奉公したという経験は、犯罪者たちにとっての誇りとなるだろう。その誇りこそが、彼らがその後平穏な生活を営む上で必要になるのではないか。

 

 軍は難色を示したが、父と個人的に友誼を結んでいた最高指導者は提案を快諾した。全戦線で絶対的なまでに兵力が不足しており、たとえそれが犯罪者であっても戦線に送り込みたい戦況だった。

 

「敵の指揮官を倒した者は無罪放免、下士官兵を斬った者は一人につき一年の刑期を免ずる」

 

 おおまかにはそのように取り決めがなされ、父の独立大隊は発足した。各地の刑務所から志願者が殺到した。それらのいずれも、父がそれまでに指導したことのある者たちばかりだった。

 

 リツも従軍を望んだ。しかしそれは言下に却下された。

 

「技量未熟な足手まといを戦場に連れて行くわけにはいかぬ。お前は家を守り、父の帰りを待っていろ」

 

 リツは(ほぞ)を噛んだ。父の言葉は尤もだと思う反面、父はもう自分をかつてのようには愛していないのだろうかと彼女は感じた。以前の父ならば、なんでも自分の言うことを聞いてくれたのに。悔しさと寂しさが入り混じった気持ちだった。

 

 出撃した大隊は大隅(おおすみ)半島に上陸した敵部隊に果敢に斬り込みをかけ、損害を出しながらも、多大なる戦果を挙げた。

 

「犯罪者部隊、壮烈無比なる戦いぶり」

「筑紫国の武門の誉れ、赫々(かくかく)たる戦果」

「名指揮官火崎大佐、敵一個連隊を包囲殲滅」

 

 父を讃える報道は途切れることがなかった。リツは、毎朝配達されてくる新聞を眺めて、父に関する記事を探し、スクラップするのが日課となった。特に、筑紫国の最高指導者が直々に父を(よみ)する声明を発した時は、彼女は記事を(がく)に入れて飾ることまでした。

 

 しかし、父は手紙の一本すら送ってくることがなかった。電話さえもなかった。リツは当初こそ手紙をこまめに書き送っていたが、そのうちやめてしまった。父の気持ちを乱してはいけないと思ったからだった。

 

 開戦から一年が経ち、戦況は膠着(こうちゃく)した。敵の上陸軍は破砕されていた。封鎖が始まった。

 

 父は戦線からリツの待つ家へと戻ってきた。帰って来るなり、父は防具を身につけると、庭でリツと剣術の稽古をし始めた。戦場での気迫をそのまま持ち帰ってきた父の剣技は凄まじいもので、リツは何度も地面に倒された。防具が意味を為さないほどに強烈な打突だった。稽古が終わると、父はリツを冷たく見下ろし、「稽古が足りん、もっと強くなれ」と言った。

 

 リツは、父の真意を理解しかねた。なぜ父は、一年間も離れ離れになっていた私に対して、これほどまでに(つら)い、厳しい態度をとるのだろう? なぜ父は、私に優しい言葉をかけてくれないのだろう? なぜ父は、私がなにか言葉を投げかけると、不機嫌そうな顔をして黙ってしまうのだろう……?

 

 平和な日々がしばらく続いた。敵機の来襲も少なく、錦江(きんこう)山の火口からたなびく噴煙も穏やかだった。そして、ある日突然、そのような平穏な日々は終焉を迎えた。

 

 その夜、屋敷は憲兵隊に包囲された。寝所に踏み込んだ憲兵たちは父に手錠をかけると、装甲車に乗せて憲兵本部へと連行した。

 

 リツも、父と同時に逮捕された。護送車の中で揺られながら彼女は、まだ夢の続きを見ているかのような心地がしていた。数日後に父が法廷で国家反逆罪として死刑を宣告された時も、独房にいた彼女にはそれが現実のことのようにはどうしても思えなかった。

 

 その頃、筑紫国の最高指導者は、独裁権力を有する者にありがちな疑心暗鬼に陥っていた。敵の奇襲を何とか持ちこたえ、改めて国内の情勢を見渡した彼は、自分の周囲に見えざる敵が満ちているように感じてならなかった。

 

 思えば敵が易々(やすやす)と軍港を奇襲し主力艦を撃沈し得たのも、また、各地にすみやかに上陸作戦を展開できたのも、内通者がいたからではないだろうか? 内通者たちは今も国内に身を潜めており、今度は最高指導者たる自分を排除するための工作を、密かに進めているのではないだろうか?

 

 憲兵隊からの報告も、彼の疑念を一層深めさせた。スパイ容疑で検挙される者の数は月を追うごとに増していた。その中には有力者の子弟の姿さえ見えた。彼は、自分が権力を掌握するために作り上げた捜査機関によって、逆に精神の均衡を欠いてしまっていた。捜査機関は陰謀と内通と反乱の可能性ばかり告げていた。開戦以来の激務と疲労が彼の心身に著しい打撃を与えていたのも影響していたのかもしれなかったが、根本的には、やはりそれは彼の性格上の欠陥から起こったことだった。

 

 ちょうど、逮捕された者が大規模な反乱の計画を自白した。その者は連日の拷問の結果、苦し紛れにありもしない計画を口走っただけだったが、憲兵隊はそれを「確度の高い情報」として報告した。その中には、リツの父親の名前もあった。最高指導者はそれを信じた。近しい存在ほど自分にとって害為すものであると彼には思われた。

 

 犯罪者部隊の結成を進言し、戦場でそれを率いていたのも、すべては反乱を起こすための布石ではないか……?

 

 リツの父は法廷において、まったく自己弁護を行わなかった。父は死刑を宣告されてもただ一言、「自分は祖国に忠誠を誓うものである」とのみ言った。他の者たちが見苦しく命乞いをする中で、彼の気高さは際立ったものだった。

 

 その誇り高い姿が、却って悪い方向に作用してしまった。最高指導者はそれまでリツの父を恐れていたが、その恐れが急速に憎しみへと転化した。奴は指導の名のもとに俺の頭を木刀で殴り、蹴とばし、地べたに転がしたではないか。あれはきっと、俺に恥をかかせて陰で笑っていたのに違いない。忠誠だのなんだのと言っているが、ではその程度がどれほどのものか、確かめてやろうではないか……

 

 それまで、最高指導者は冷酷な男ではあったが、残忍な性格では決してなかった。そうであればこそ、彼は筑紫国での最高の地位を得ることができたのだった。だが、その時を境にして彼は極端に変わってしまった。

 

 リツはその夜、独房から引き出されると、手錠を嵌められたまま中庭へと連れ出された。

 

 そこには大勢の兵士たちと、政府の高官たちが佇んでいた。リツは手錠を外されると、あるものを手渡された。それは刀だった。彼女は知らなかったが、それはかつて父が友情の印として最高指導者に譲り渡した、名工の手になる刀だった。

 

 しばらくして、中庭にある人物が連行されてきた。それはリツの父だった。父には目隠しがされていた。怖れを見せることもなく、父は堂々とした歩みをしていた。息を呑み、身じろぎ一つできないリツの前で、父は地面に跪かされた。

 

 周囲は(しわぶき)一つない静寂を保っていた。これから何が起こるのか、誰もが理解しているようだった。隣にいる係官が身振りでリツに促した。その刀で、父親の首を()ねろ。そういうことのようだった。

 

 その時、その瞬間に関して、リツは断片的な記憶しか持っていない。

 

 震える手で鞘を払い、その中から姿を現した濡れるような刃が、月光を浴びて怪しく輝いていたこと。なぜか声をあげてはならないと強く思っていたこと。ふらつく足取りで父の背後に立ったが、その背には一分の隙も見出せなかったこと。

 

 そして、父が「リツよ、怖れることなく見事に父の首を刎ねてみせよ」と言ったこと……そういった切れ切れの光景や感情しか、彼女は思い出すことができない。

 

 見ていた者たちの言葉によれば、リツは美しく鋭い太刀筋で、一刀のもとに父の首を切断したとのことだった。そして、地面に転がり落ちた父の首を拾い上げて、二言か三言、言葉を投げかけたらしい。

 

 そのことを聞かされたリツは、自分がどうしてそれほどまでに冷静に刀を振るうことができたのか、不思議に思った。

 

 父を本当に愛していたのならば、仕損じてもおかしくはなかったのではないか? 彼女は思った。なぜ自分は動揺もせずに、父の首筋を断ち切ることができたのだろうか? その問いは、必然的に次の問いを導いた。

 

 本当に自分は、父を愛していたのだろうか……? 自分は、怖れることなく見事に父の首を刎ねてみせた。なぜ、そんなことができたのか? リツの疑問は、谷間の気流のように堂々巡りを繰り返した。

 

 リツはその後、多禰島(たねじま)へと流された。

 

 彼女の罪状も父と同じく国家反逆罪であったが、特別に許されて流刑となったということだった。多禰島守備隊の参謀を務めている彼女の叔母は、「お前が上手に父の首を刎ねたから刑が減じられたのだ」と言った。リツはそれを、気性の激しい叔母なりの、精一杯の慰めの言葉であると受け止めた。叔母の愛情深さをリツはよく知っていた。

 

 現地召集という形で、リツは軍属として守備隊に組み込まれた。それからは陣地構築や弾薬運搬という、ごくつまらない作業をして彼女は日々を過ごした。参謀である叔母は何かと便宜を図ってくれて、リツがある時から守備隊の剣術師範として働けるようにしてくれた。だが、彼女はどうしても周囲と溶け込むことができなかった。周りの者たちもまた、顔色一つ変えずに父親の首を刎ねたというリツを不気味に思って、積極的に話しかけることはなかった。

 

 次第に、リツは新しい仕事を課せられるようになった。それは、処刑だった。

 

 それは守備隊指揮官が、剣術一家の出身であるリツのために特別に用意した仕事ということだった。叔母はそれとなく反対したらしいが、効果はなかった。処刑という仕事は指揮官からの提案という形ではあったが、実質的には命令に他ならなかった。ただの軍属に過ぎないリツにそれを断ることはできなかった。

 

 彼女が初めに斬ったのは、一人の脱走兵だった。脱走兵は若い男で、体格は小さく、角も貧弱だった。その目は常に怯えた色を纏っており、口調もオドオドとしていた。彼は手紙で故郷の母が病気であることを知り、帰りたい気持ちが抑えられなくなったのだと法廷で弁明した。刑場に引き出されてきた時、彼は見る者が哀れを催すほどに取り乱した。リツは、彼の首を一刀の元に斬り落とした。

 

 それからもリツは、何人もの脱走兵や軍律違反者を処刑した。

 

 仲間と共謀して小舟で本島へと脱出しようとした年老いた応召兵たち。志願してこの島に来ておきながら、覚悟が鈍り、死の恐怖に堪えられなくなって逃げ出そうとした女性兵士。禁止されているにも拘わらず、肉体的な関係を持ってしまった若い二人の男女の兵士……いずれもリツは、顔色一つ変えることなく、彼らを斬った。

 

 彼女が敵を斬ることはなかった。敵が上陸してくることはなかった。空襲の際に撃墜され脱出した敵機の搭乗員たちも、大半は重傷を負っていて処刑をするまでもなく死亡したし、あるいは、生きたまま捕えられそうになれば、例外なく拳銃で頭を撃ち抜いて自決した。敵は、自分たちがどれほど「魔族」から憎まれているのか、よく承知しているようだった。

 

 リツはいつしか、島内の者たちから「処刑人」と呼ばれるようになっていた。

 

 どうせ、自分は一生この島から出ることはない。処刑を終えるたびに、リツはそう感じた。たとえあの最高指導者が死に、国家反逆罪を免じられても、自分の犯した罪が許されることはない。この手で愛する父を斬ったという罪は、生きている間に雪がれることなど決してないのだ。

 

 それならば、この島に居続けたほうが良い。処刑という誰もが忌避する仕事をすることによって、また拭いきれぬ罪を重ね続けることになっても、ここにいたほうが良い……次第に、リツはなにも喋らなくなっていった。

 

 二年近くが経過した。戦況に変化はなかった。敵は相変わらず筑紫国の海上封鎖を続けており、三月の市街地大空襲の後にも、散発的な攻撃を繰り返していた。最高指導者はその狂気の度合いを深め、いまや本島全土に恐怖政治を敷くまでになっていた。しかし、それが却って抗戦能力を維持するのに役立っているようだった。

 

 一部では講和の可能性が囁かれるようになっていた。敵にとっても、海上封鎖は国家経済に与える負担が大きいという話だった。国外においては、相互の外交担当者が密かに会談を開いているとの情報もああった。

 

 だがリツにとって、そのようなことはどうでも良いことだった。戦争が終わろうが、継続しようが、彼女はこの島に「処刑人」として居続けるつもりだった。すでに、彼女が斬った人数は二十人に達しようとしていた。

 

 そんな情勢下の、ある初夏の日の朝のことだった。リツの前に、彼が現れたのは……

 

 

☆☆☆

 

 

 リツがその男と出会ったのは、二週間前のことだった。

 

 その日、勤務のため港の監視所にいたリツは、突如として島内全域に響き渡った空襲警報のサイレンを耳にし、身を固くした。慌ただしく兵士たちが走り回り、船から荷を受け取っていたトラックが退避所へ向けて走り去っていった。

 

 十数分後には、敵機の群れが港の上空に姿を現した。それは艦上戦闘機と艦上爆撃機の編隊で、合わせて三十機が数えられた。敵機はしばらくの間、様子を窺うように高射砲の射程外を飛び、それからまっしぐらに港へ向けて突撃を開始した。

 

 すでに多禰島の航空戦力は壊滅しており、空を守るのは高射砲しかなかった。各陣地は一斉に砲火を繰り出した。それに臆することもなく、敵機は続々と降下してきた。どうやら敵が目標としているのは、前日の夕方に入港したばかりの弾薬輸送船のようだった。輸送船は貨物の陸揚げをしている最中で、動くことができなかった。

 

 輸送船の周りに巨大な水柱が林立した。機銃掃射の連続的な金属音と、地上から放たれる重い射撃音が交差した。甲高いエンジン音に混じって、陣地の兵士たちの叫び声が聞こえてきた。

 

 リツはどこかぼんやりとした心地で、その光景を眺めていた。あの輸送船が被弾すれば、積載している弾薬が誘爆して、港全体が跡形もなく吹き飛ぶだろう。そうなれば、自分も即座に命を落とすことになる……だが、彼女は防空壕に逃げ込む気も、その場から遠く離れる気も起きなかった。

 

 輸送船は未だに健在だった。どうやら敵機は、対空砲火に阻まれて正確な爆撃ができないようだった。それを編隊の指揮官は見て取ったのだろう。今度は上空を警戒していた戦闘機隊が低空へと降りてきて、対空陣地に向けて攻撃を開始した。大口径の機関砲弾が降り注ぎ、陣地は一つ、また一つと沈黙していった。

 

 撃たれた女性兵士が土嚢に血塗れの手をかけ、苦しみに満ちた顔をして倒れた。それを見るや、なぜかリツの足は自然と動いていた。彼女は一番手近な陣地へと走り込んだ。陣地の中は血の海と化していた。撃ち砕かれ、折り重なっている死体をどけて、リツは機関砲の砲手席についた。辛くも生き残っていた兵士が給弾手の役を務めた。彼女は上空を乱舞する敵機に向けて射弾を送り込み始めた。

 

 前に撃ち方だけは教わっていたが、高射砲を実戦で撃つのは、リツにとって初めてのことだった。それでも彼女は的確な射撃を続けた。真正面から突っ込んでくる敵機にも、彼女は正確に照準を合わせることができた。

 

 リツの射撃が一機の戦闘機に白煙を吹かせたその時、それまで上空で輪を描くように飛んでいた一機の爆撃機が、業を煮やしたかのように降下した。なんとしてでも輸送船を撃沈する覚悟のようだった。空色の機体の胴体には、真っ赤な帯が描かれていた。それはどうやら指揮官機のようだった。リツはそれまでに、敵爆撃機の動きをよく観察していた。敵機が旋回し、投弾しようと態勢を整えたその一瞬の隙をついて、彼女は砲口を向け、射撃ペダルを踏み込んでいた。

 

 放たれた一連射は、吸い込まれるようにして敵機に命中した。敵は見る間に火を噴いたが、爆撃はやめなかった。墜落と引き換えに爆弾が放たれた。しかし、それは外れた。敵機は海面にほど近いところで機首を引き起こすと、しばらく低く飛び、そして港外にほど近い海岸へ不時着をした。他の敵機は墜落した指揮官機の安否を気遣うように飛び回っていたが、やがて燃料切れが近づいたのか、機首を巡らせて飛び去っていった。

 

 リツは敵機が去ったのを見ると、陣地から出て、さきほど敵が不時着した地点へと向けて足を早めた。何が自分自身をそういった行動へと走らせるのか、彼女は理解できなかった。ただ、彼女はそれを見たいと思っただけだった。

 

 十分も経たずして海岸に辿り着くと、そこには一人の男が立っていた。それは間違いなく敵だった。男は筑紫国の男とは違い、体格が小さく背も低かったが、しかし兵士らしい精悍な雰囲気を漂わせていた。頭からは血を流しており、手には拳銃を持っていた。

 

「動くな」

 

 そう言いつつ、リツが軍刀を手にして駆け寄ると、男は拳銃を彼女に向けた。最初、男は無惨なほどに険しい顔をしていた。だが彼女の顔を見た瞬間、男はなにか驚いたような表情を浮かべた。男は即座に銃を投げ捨てると、両手を上にあげた。

 

「降伏する」

 

 臆面もなく、男はそう言った。激しい抵抗を予想していただけに、リツは呆気にとられた。そんな彼女の脇を、銃を抱えた兵士たちが駆け抜けていった。兵士たちは敵の男を取り囲み、各々が二、三発殴打を加えると、銃剣を突き付けながら司令部へ向けて連行していった。

 

 その男は、梨本と名乗った。階級は少佐だった。

 

 梨本は、守備隊司令部による尋問によく答えた。自分が三万トン級の正規空母「龍驤(りゅうじょう)」の艦上爆撃機隊の隊長であること、開戦時の神籠島湾の軍港奇襲にも参加したこと、それ以来最前線で飛び続けていること、三月の神籠島市街地空襲にも部下を率いて飛んだことなど……彼はよく話し、よく語った。

 

 司令部では、彼を生かしておくべきか、それとも処刑するべきか、意見が割れた。梨本は市街地に爆弾を落としたという。それは疑いようのない戦争犯罪であり、処刑の対象である。しかし、今は講和の機運が高まりつつある。彼を生かしておいて、敵軍との交渉の材料とすることもまた検討する価値がある。

 

 結局、司令部は本島に判断を委ねることにした。だが、回答はなかなか送られてこなかった。

 

 リツは空襲の翌日、捕虜が捕えられている建物へ行った。

 

 リツにとって、あの男は生まれて初めて目にした「生きた敵」だった。それまでの彼女にとっての敵は、金属製の物体に過ぎなかった。空から襲い掛かり、爆撃と機銃掃射を繰り返すだけの機械の群れ、それが敵だった。その中から生きた人間が出て来たのを見た時、彼女の中に、言葉で言い表すことのできない、ある不思議な感慨が芽生えていた。一晩経っても気持ちが収まらなかった彼女は、その感慨の正体を確かめたい気持ちになった。

 

 本来ならば許可なく捕虜と会うことは禁じられている。だが、リツにはなぜかそれが許されていた。処刑人という独自の立場が、それを可能にしたようだった。あるいは、参謀が配慮を示したのかもしれなかった。

 

 ちょうど夕暮れ時だった。狭い窓からは残光が入り込んでいた。それに照らされている檻の中の男を見た時、リツは軽い失望感を覚えた。男は床に敷かれた藁の上にだらしなく横になっていた。尋問の疲れを癒すために、どうやら寝ているようだった。彼は見るからに平凡で、痩せており、敵というにはあまりにも弱々しく彼女の眼に映った。

 

 リツが無言で男を見つめていると、やがて彼は目を覚ました。そして、あの時と同じような驚きの表情を男は顔に浮かべた。

 

 男はおもむろに口を開いた。

 

「やあ、君はあの時の女の子だね。わざわざ会いに来てくれたとは光栄だ……」

 

 男はやや口調を明るくさせて、また言った。

 

「ところで、煙草を持っていないかな。君たちに捕まって以来、一本も吸っていなくてね。さっき尋問された時にも頼んだんだが、『捕虜の分際で生意気だ』と、逆に一発殴りつけられてしまってね」

 

 苦笑いをしつつ、男はわざとらしく左の頬を擦った。そのあまりにも鷹揚な態度に、リツは毒気が抜かれる思いがした。

 

「煙草は吸わない」

 

 そうリツが答えると、男はいかにも残念そうな顔をして、それから悪びれもせずに言った。

 

「じゃあ、次にここに来る時に持ってきておくれ。どんな種類のモノでも文句は言わない。あと、ついでに果物の缶詰でもあれば嬉しいな。私はミカンの缶詰が大好きでね。そうそう、私の名前は梨本というんだ。梨本多郎(たろう)。平凡な名前だから覚えやすいだろう? それで、君の名前はなんというんだい?」

 

 リツは、ほんの少しだけ躊躇いを覚えた。だが、次の瞬間には勝手に言葉が口から漏れ出ていた。

 

「火崎リツ」

 

 その一言だけを言うと、彼女は部屋から出て行った。

 

 翌日、リツは梨本のもとへ煙草と果物の缶詰を持っていった。梨本は笑って彼女を出迎えた。前日に殴られた頬は、青黒く変色していた。

 

 梨本はよく喋る男だった。リツが何も訊いていないのに、彼は身の上話を語った。

 

「私は東京府の下町の出身でね。でも親が裕福だったから、大学まで何不自由なく進学することができた。勉強にはあまり力を入れなかったな。一番楽しかったのは中学生の頃に模型飛行機作りに熱中したことだ。図書館で航空力学の本を借りて、自分なりの工夫を加えて……雑誌に記事を投稿したりもしたよ」

 

 梨本はよく煙草を吸った。煙を吐きつつ、彼は話し続けた。

 

「大学に入ってからは、もっと飛行機のことを知りたくなった。休日には友達と一緒に河川敷に行って、軽グライダーを飛ばしたりしてね。そのうち、旅客機のパイロットになって全国を飛び回ってみたい、大勢の人を乗せて、世界の空を飛んでみたいと、大それた思いを抱くようになった。それで民間の航空会社に就職しようとしたんだが、全然ダメでね。知識と技術があっても、コネがないと受け付けてもらえなかったんだよ。だから海軍に入ることにしたんだ。仕方なくね」

 

 リツはなにも言わなかった。それでも梨本は言葉を発し続けた。

 

「でも、海軍っていうのはなかなか厳しい世界でねぇ。君は知らないだろうが、飛行機っていうのは自由に飛び回ることができないんだよ。予め飛行計画書を提出して、それに則って飛ばないといけないから。それにどうでも良いような規則が多くてね。そろそろ我慢の限界だとなっていたところで、君たちの国と戦争になってしまった。そうなったら、一応私も男だから、軍隊をやめるわけにもいかない。否応もなく母艦に乗ることになってしまった……」

 

 リツが差し入れた煙草を美味そうに吸いながら、梨本はどこか遠い目をした。

 

 リツは梨本の話を聞きながら、その話がすべて真実を述べているわけではないだろうと思った。伝え聞くところによると、敵の中でも特に海軍のパイロットは最精鋭に属する存在で、狂信的なまでの戦闘意欲と強靭な意志がなければ操縦者として任官することはできないという。この男は「仕方なく」海軍に入ったというが、そのようなことはあり得ないはずだ。

 

 もしや、私に媚びているのだろうか? リツはそう思った。この男が置かれている状況は、あまり良いとは言えない。食事は雑穀と根菜が多く混ざった飯が一椀に、漬物が一切れに過ぎない。水もあまり飲むことができていないようだ。部屋の中は常に熱気がこもっていて、夜になっても涼風を浴びることすらできない。無害な男を装うことで、自分に煙草や缶詰などを運ばせてくる。そのような心づもりなのではないだろうか?

 

 なんという情けない敵だと、リツは呆れるような気持ちと共に、怒りにも似た反感を覚えた。彼女は思わず、それまでなかったことだが、自分から口を開いていた。

 

「仕方なく海軍に入り、否応もなく母艦に乗った。ならば、市街地に爆弾を落としたのも、港の輸送船を沈めようとしたのも、『仕方なく』だったのか? 私たちを殺すのも『仕方なく』なのか?」

 

 梨本はその問いを聞いて、目を数回瞬かせた。そして、口の端を緩めると、ゆっくりと首を左右に振った。彼は言った。

 

「きっかけがどうであれ、それがいつの間にか自分固有の仕事になってしまうことがある。確かに私は熱意をもって海軍に入ったわけではない。艦上機に初めて乗った時も、こんな小さくて不格好な飛行機には乗りたくないと思ったさ。人ではなく、爆弾を載せるのも嫌だった。でもね、仕事に関しては『仕方なく』などと思ったことはない。いつも大事な任務だと思ってやってきた。そう、私にしかできない任務だと思ってね」

 

 梨本はまた煙草に火を点けて、悠然と吸い始めた。煙を吐き出す時は、律儀にも彼はリツからを顔を背けた。

 

「こう見えても不器用な男でね。適当に折り合いをつけることができないんだ。それに、一度仕事を始めたらつい熱中してしまう。最初は嫌だった爆撃訓練もだんだん面白くなってきてね、点数を上げるために躍起になっていたら、いつの間にか艦隊のトップになっていた。そのおかげで神籠島の軍港を空襲した時も、主力艦のど真ん中に爆弾を命中させることができた。功績が認められて、大勢の部下を持つようになっても、仕事への熱意は消えなかった。市街地攻撃にも精力を傾けたよ。どこに爆弾を落としたら効率的に焼くことができるかと、一晩地図を見つめながら考えたりしてね……」

 

 その言葉を聞いて、リツは訊かずにはいられなかった。

 

「その任務が、何の罪もない民間人を殺すことだと、お前は知っていたのか? 年端のゆかぬ子どもたちや身重の女性たちをも殺すことだと、知っていて爆弾を落としたのか?」

 

 髪の毛が逆立っているのを、リツは感じていた。梨本の手元の煙草は、既に半分ほど燃焼していた。彼は灰を落とすとしばらく床を見つめてから、低い声で、しかしはっきりと言った。

 

「知っていた。君たち『魔族』を生きたまま焼き殺す任務だと、私は承知していた。爆弾と焼夷弾で女子どもを問わず皆殺しにする。すべて知っていたさ。尤も、私自身もこれから殺すことになる『魔族』なるものがどのような存在であるかは、ごく狭い個人的な経験の中でしか知らなかったが」

 

 かすかな悔恨のような感情が垣間見えた気がした。リツは再度口を開いた。

 

「知っていて、なぜ爆撃することができた? それほどまでに、私たちが憎かったのか?」

 

 だんだんと声がうわずっていくのをリツは自覚していた。そんな彼女を、梨本はじっと見つめていた。その目は、彼女が生まれて初めて見る、不思議な色合いを纏っていた。

 

「……言っただろう、私は不器用な男だと。仕事となったらやめられなくなってしまう。たとえ憎くはなくとも、仕事とあれば爆弾を落とさなければならない。それが私にしかなし得ない仕事だったからだ」

 

 梨本はいったん言葉を切った。そして最後に、呟くように彼は言った。

 

「むしろ、今でも心の底から君たちを憎んでいれば良かったのだが……」

 

 会話はそこで途切れた。リツは無言で部屋を出た。彼女は兵舎への帰り道を歩きながら、梨本が言ったことの意味について考えていた。

 

 果たして自分は、彼にあのような問いを発する資格があったのだろうか? 彼女はぼんやりと思った。

 

 梨本は憎しみによってではなく、ただそれが自分にしか果たせない仕事だと思ったからこそ爆撃をしたと言った。では、自分はどうだろうか? 自分はこれまでに二十人以上もの同国人を処刑している。そこに感情を介在させたことはない。それが、この島においては自分にしかなし得ないことなのだと、リツは最近そう思うようになっていた。それが自己を納得させるための、一種の方便であるとは知りつつも、彼女はそう思っていた。

 

 そういう点では、私は梨本と同じだ。彼女は素直にそう思った。そして、その直後に心中に湧き起こったある考えに、彼女は顔をしかめた。では、父を斬ったのも、私にしかなし得ない仕事だったのだろうか? あの場においては、私だけが父を斬ることができたのだろうか?

 

 そうではない、とリツは首を振った。あの時の私は、やはり拒否をするべきだったのだ。泣いて、取り乱して、父を殺すくらいならば自分も一緒に死ぬと言うべきだったのだ。父を本当に愛していたのならば、私はそのように振る舞って然るべきだったのだ……

 

 私は父を愛していたはずだ。だが、それは単なる思い込みに過ぎなかった。愛していなかったからこそ、私はあの時、父を斬ることができたのだ……そのように自分に言い聞かせながら、リツは胸ポケットから煙草を取り出し、震える口に咥えて火を点けた。吐き出した煙は夜闇の中へ消えて行った。

 

 だが父は、私を愛してくれていたはずだ。彼女の思考は続いた。それならば、なぜ父は最期の瞬間、私に対して、「怖れることなく見事に父の首を刎ねてみせよ」と言ったのだろうか? なぜ父はあの時、「私と一緒に死んでくれ」と言ってくれなかったのだろうか?

 

 もしかすると、私が本当のところは父を愛していなかったように、父も私を愛してくれていなかったのではないか……?

 

 込み上げる嫌悪感がリツをむせさせた。彼女は脇道へと煙草を投げ捨てた。煙草の火は、スコールで出来た水溜りに落ちて、軽い音を立てて消えた。

 

 もうあの男のところへ行くのはやめよう。リツはふらつきながらそう思った。あの男と会うと、精神が乱されてしまう……

 

 すでに島は夜を迎えていた。闇の中で熱気だけが蠢いていた。リツは熱気の中を歩いていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 それでもリツは、梨本の元へ足を運ぶのをやめられなかった。

 

 前日にあのような会話をしたのにも拘わらず、梨本は何食わぬ顔をして、また彼女が持ってきた煙草を吸っていた。彼は他愛のない話をし、「君たちはいつもあんなに不味いものを食べているのか」とか、「今度はモモの缶詰があったら持ってきて欲しい」などと言った。

 

 数日間、そのようなことが続いた。次第に、リツは梨本に対して、敵でも味方でもない、奇妙な感覚を抱くようになっていた。

 

 あの男は間違いなく戦争犯罪者だ。いずれは処刑されるだろう。リツはそう思うのと同時に、次のようにも考えるのだった。だが、私は毎日彼に差し入れを持って行って、彼の話すことを真面目に聞いてやっている。それはなぜなのか……? 憐憫ではないだろう。ならば、同情か? 彼女は迷うままに、建物へ通い続けた。

 

 その日、リツがいつものように部屋に入ると、梨本は常にないことに黙り込んでいて、じっと彼女の顔を見つめ始めた。やがて彼は口を開いた。

 

「しかし、信じられないな。君が私を撃ち落としただなんて。これでも私は一応、ベテランパイロットと呼ばれる存在なんだがな」

 

 そう言われて、リツは心臓が跳ね上がるような感覚がした。

 

「誰から聞いた?」

 

 リツは、そのように答えるのが精一杯だった。彼女の顔色が青白く急変したのを見るや、梨本は安心させるように声をあげて笑った。

 

「ははは、そんな顔をしなくても良い。参謀殿が教えてくれたんだよ。最近彼女ともだんだん仲良くなってきてね。聞けば、君は彼女の(めい)っ子らしいじゃないか。彼女にとっても、君は自慢の親戚だろうね……ところで、一つ訊いても良いかい? いったいどうやってあの時、私の機に弾を当てたんだ?」

 

 どう答えたものか、リツには容易には分からなかった。彼女はあの時、ただ彼女が得意とする剣術と同じように思考し、砲口を向けたに過ぎなかった。それは身に沁みついた習慣がなしたことだった。その習慣をあえて言葉に表すならば、それはたったの一言に尽きた。

 

「飛び方に隙があった。その隙をついただけだ」

 

 それを聞いた梨本はしばし呆然としていた。そして、部屋の外にも響くような大きな声で笑い始めた。

 

「ははははは! そうか、そうか、隙があったか! なるほど、それなら納得がいったよ。私には確かにあの時、隙があった。部下たちがなかなか輸送船に爆弾を当てられないのを見て、つい頭に血が昇ってしまってね。指揮官でありながら、『よし、それじゃあ私があれを沈めてみせる!』と気負ってしまった。それがきっと隙を生んだんだなぁ、はははは……!」

 

 ひとしきり笑った後、梨本はリツに向かって、何か輝かしいものを見るかのような眼差しを向けた。

 

「それにしても君は若いのに、戦いの極意を心得ているようだ。何か武術でもやっているかい? いや、愚問だったな。その腰の軍刀を見れば分かる。それは飾りじゃないんだろう? 君はきっと、剣術のプロか何かだね。そうでなければ錯綜した戦場において、隙なんていう不確かで一瞬の間に過ぎ去るものを捉えることはできないはずだ」

 

 リツは肯定も否定もしなかった。彼女はなんとなく、この男に対して自分から剣術家であることを名乗りたくはなかった。

 

 自分は、今は一個の処刑人に過ぎない。そして、処刑人は剣術家ではない。剣術家とは、一対一で、互いの全精力を懸けて対等に命のやり取りをする存在だ。だが、抵抗のできない罪人の首を刎ねるのは、剣の技術を必要とはすれど、その精神性からは程遠い。処刑人は機械に過ぎない。

 

「できれば、私が処刑される時は、君に頼みたいものだ。君ならば、きっと私を上手に処刑してくれるだろう」

 

 考えに半ば沈み込みながら、檻の上方をぼんやりと眺めていたリツは、梨本が言った言葉に衝撃を受けた。彼女は反射的に口を開いていた。

 

「何を馬鹿なことを言う。まだお前の処刑が決まったわけではない」

 

 梨本が捕らえられてからすでに二週間以上が経過していた。参謀の話では、本島の司令部に梨本の処置について指示を仰いでいる最中とのことだった。通常の単なる軍律違反者の処刑ならば、回答は数日も経たずして送られてくる。それに対し、この件においては異様なまでの日数がかかっている。それは、本島においても処刑か、それとも生かしておくのか、意見が分かれていることを予想させた。

 

 もしかしたら、司令部は梨本を殺さないでおくのかもしれない。本島に連行して、現在水面下で進行していると一部で言われている、講和条件協議のための材料とするのかもしれない。合理的に考えれば、処刑よりもその可能性の方が高いのではないだろうか……?

 

 リツはそのように考え、そして、自分がいつの間にか心のどこかでこの男の生存を願っていることに気づいて、愕然とした。

 

 梨本は、そんな彼女をにこやかな顔つきで見つめていた。その目は奇妙なまでに透き通っていた。彼は口を開いた。

 

「いや、なんとなく分かるんだよ。私はこの島で死ぬんだと思う。予感というのかな。『たぶん、きっと当たるんだろうな』という感覚さ。前にもこんなことがあったんだ。可愛がっていた部下が出撃前に思い詰めた顔をしていて、『そんなに気を張るなよ』と言ってやったんだが、たぶん死ぬだろうなと思った。本当にそいつは死んでしまったよ」

 

 いったん梨本は言葉を切った。その途端、部屋の中に耳に痛いほどの蝉の鳴き声が入り込んできた。蝉の声に紛れるようにして、梨本は言った。

 

「……君を見ていると分かるんだ。『私はきっと、君に殺されるんだろう』とね。いや、それは単なる願望なのかもしれない。どうせ殺されるのならば、君の手にかかって死んだ方が良いと、私は心のどこかで願っているのかもしれない。私は、単に死にたいだけなのかもしれない」

 

 思わずリツは、軍刀の(つか)を握り込んだ。もう片方の手は、背後に回した。手の震えを隠すにはそれしか方法がなかった。彼女は平静さを装った声で言った。

 

「どうして、私なんだ」

 

 言わずもがななことを言う、とでも言いたげな表情を梨本は浮かべた。

 

「そりゃあ、君が私の友人だからね。しかも決して分かり合うことはないと言われてきた、魔族の友人だ。友人に殺されるのならば、全然惜しくはないさ」

 

 リツはその言葉の真意を図りかねた。彼女は答えた。

 

「……お前は私の友人ではない。お前は私の敵で、ただの捕虜だ」

 

 梨本は何も言わなかった。踵を返すと、リツは部屋から出た。日は既に傾きつつあった。

 

 長い夕陽だった。蝉たちはまだ鳴いていた。日に照らされたリツの影は細長く、頼りなかった。道は乾いていて、何も落ちていなかった。

 

 本当に友人だと思っているのならば、私に斬られたいなどと言わないはずだ。歩きながら、リツはそう自分に言い聞かせた。むしろ、彼が私のことを本当の友人だと心の底から思っているのならば、私に助命を乞うべきだろう。彼は、私が参謀の姪であることを知っているのだから。

 

「助けてくれ」と彼は私に言うべきなのだ。なぜそう言わない? リツは煙草を取り出すと、火を点けた。

 

 歩きつつ、煙草を吸いながら、リツは彼の不可解な心境について考え込んでいた。どうして「助けてくれ」と彼は言わないのか? 疑問は煙のようだった。熱を持っているが、まとまりがなかった。

 

 そうだ、自分が彼の友人であるはずがない。決して、友人などであるはずがない! それは空言(そらごと)のように、彼女の脳内に響いた。

 

 いつの間にか、リツは兵舎に辿り着いていた。粗末な食事を終え、寝台に横になってから数分が経った後、彼女は呼び出しを受けた。

 

 リツを呼び出したのは参謀だった。

 

 参謀はリツに、梨本の処刑が決まったことを話した。司令部からの返答は、「適当ニ処置セヨ」とのことだった。参謀は嬉しそうな顔をしてリツに言った。

 

「喜べ、火崎。これでお前をこの島から出してやることができる。しかも、無罪放免という形でな。戦争が始まってすぐの頃に定められた法律があっただろう、『敵の指揮官を倒した者は無罪放免、下士官兵を斬った者は一人につき一年の刑期を免ずる』というあの決まりだ。まだあの決まりは効力を発揮しているんだ。梨本少佐は疑いようもなく『敵の指揮官』だし、それに市街地を無差別攻撃した戦争犯罪人だ。要件には合致している」

 

 参謀はリツを見つめた。深い紫色の瞳だった。亡き母も、同じ瞳をしていたのだろうか? そんな益体もないことを思っていたリツに、参謀はきっぱりとした口調で言った。

 

「奴を斬れ。そうしたらお前は晴れて自由の身だ」

 

 リツは姿勢を正して答えた。

 

「はい」

 

 しかし、次にリツの口から出て来たのは、彼女自身でも予期していない言葉だった。

 

「しかし……しかし、私は国家反逆罪を犯した身です。指導者様が、それをお許しになるかどうか……」

 

 参謀は表情を引き締めた。

 

「それについては、おそらく問題はない。というのはな……これは姪であるお前だからこそ話すのだが、ここ数ヶ月の間、指導者様は体調が優れないようなのだ。きっとこの年が終わるまでに、何かが起こると思う。大きな政治的変動を伴う、何かがな。だからお前は、何も心配しないで梨本を斬れば良い。それがお前の贖罪(リデンプション)になる」

 

 わざわざ強調するように、参謀は「贖罪」という言葉を「リデンプション」という外国語で表現した。それを聞いてなお、リツの口が閉じることはなかった。

 

「ですが、梨本は捕虜です。戦場で斬るのではなく、単に捕虜を斬っただけでは、それは処刑であって倒したことにはならないのでは……?」

 

 語尾に近づくにつれて薄れていくリツの声に、参謀は薄く笑った。

 

「そう言うと思ったよ。だから、その点については私の出番というわけだ。梨本の死は『脱走を企て、弾薬庫を爆破しようとしたところを、偶然付近を警戒中だった火崎リツが発見した。梨本は抵抗を試みたので、火崎は彼と数分間の格闘をした末に、斬殺した』と報告書に記載すれば良い。参謀である私が書くのだから、それは公式の疑いようのない報告だ。それに第一、こんな最前線の島にまで事実関係を確認しに来る本島の者など、いるわけがない。仮にいたとしても、情勢が情勢だしな……」

 

 シガレットケースから煙草を一本取り出して一服すると、参謀は口調を変えてリツに言った。

 

「そう、情勢が情勢なのさ。リツ、分かっているかい? あのデブの指導者気取りがくたばりかけているこんな不安定な情勢でなければ、あんたを本島に帰してやることはできないんだよ。今が絶好のチャンスなんだ。どさくさに紛れてと言ったら聞こえが悪いが、こういう機会でもないと、あんたはもう一生この島から出られないんだよ」

 

 そこには参謀の姿はなく、姪を思う一人の女性だけがいた。リツは頷いた。それを見ると、参謀はリツに煙草を一本押し付けた。

 

「リツ、あんたにはこれからも長く、日の光の当たる場所で人生を送って欲しいんだ。伝統ある火崎家の剣術を絶やすわけにはいかない。それにあんたのお父さんだって、私と同じ気持ちのはずだよ。さあ、分かったなら今日はもう寝なさい。明日、私と一緒に梨本のところへ行こうね。あいつにだって、悔い改める時間が必要だろうさ。三日間、せいぜい死の恐怖に苛まれて、今まで自分が犯してきた罪について考え直せば良い……」

 

 リツはその言葉を聞きながら、自分の叔母に降りかかった不幸について思い出していた。叔母は夫と二人の子どもを敵艦上機の攻撃で失っていた。空襲下、夫は側溝の中に子どもたちを隠し、自分がその上に覆い被さって火炎から守ろうとしたが、そのまま焼死してしまったとのことだった。子どもたちも結局は炎から逃れることができなかったらしい。そのことを考慮すると、これまで叔母がリツに、自由に梨本と会話をすることを許していたのは不思議なこととも言えた。

 

「いいね、リツ。斬れるね? 処刑人としての最後の仕事だよ。斬れるね? 斬ってくれるね?」

 

 念を押すような叔母の言葉に、今度こそリツはしっかりと頷いた。彼女はそうせざるを得なかった。

 

「はい、叔母様。斬ります」

 

 リツはその夜、軍刀を抱いて寝た。せめて慰めとなるような夢が見たかったが、結局彼女は何も夢を見なかった。起きた時には、彼女は全身にじっとりと寝汗をかいていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 梨本は、参謀が差し出した煙草を、実に美味そうに吸った。その行為に、彼は自身が持つ生命力のすべてを込めているかのようだった。

 

 話がしたいのならば、存分にするが良い。そう言って、参謀は一足先に部屋から出て行った。

 

 リツは参謀が立ち去ったのを見届けると、檻の前に静かに腰を下ろし、梨本に向かって静かに口を開いた。

 

「不用意なことを言ってもらっては困る。これまでに何回も会って話していることを、参謀に気取られるではないか……」

 

 本当は、こんなことを言いたいわけではないのに。しかし、それでは何を言えば良いのだろう? 慰めだろうか。それとも、罵詈雑言だろうか……? リツは考えあぐねていた。

 

 一方、梨本はリツの言葉に耳を傾けながら、残り短くなった煙草を深々と吸うと、満足げに煙を吐き出した。

 

「いや、参謀殿はとっくにすべてご存じのようだね。私と君がちょくちょく会っていることは見張りの兵から報告があっただろうし、こうやって話ができるように取り計らってくれたのもその証拠だと思うよ」

 

 リツは、梨本を見つめた。彼は穏やかに微笑んでいた。先ほど死を宣告されたとは到底思えないほどの落ち着きようだった。リツは、問いを投げかけずにはいられなかった。

 

「何も思わないのか。お前は三日後に斬られるというのに。それも、私の手によって……」

 

 梨本は、なんということはないというようにそれに答えた。

 

「君は剣術のプロなんだろう? それならなんの心配もいらない。きっと痛みを感じる間もなく、すっぱりと私の首を落としてくれるだろうさ。私は痛がり屋だからね、せっかく一生に一度しかない死という貴重な機会を、痛みのせいで楽しめないのではやりきれない」

 

 飄々としたその口ぶりに、リツは苛立つ思いを抑えられなかった。この男は、初めて会った時からずっとこんな感じだ。筑紫国の男だったら絶対に見せないような、軽薄な態度を取り続けている。どうして死を怖れないのだろうか。なぜ、首を斬る私に対して怒りや怖れを見せないのだろうか。私が斬った者たちは、みな怯え、震えていたというのに……

 

 本当に私の友人だと思っているのならば、怒って欲しい。リツはそう思った。怒れないのならば、怖がって欲しい。せめて、命乞いをして欲しい。そうしたら、自分も思いを断ち切ることができるのに。

 

 考えに耽るリツに対して、梨本はにこやかな顔をして言った。

 

「今日はもう帰った方が良いんじゃないかな。私よりも、君の方が動揺しているように見える。帰って、美味いものでも食べたらどうかな。そうだ、私への差し入れのための缶詰を、代わりに食べるのはどうだろう。もう明日からは、ここに持って来なくても良いものだからね」

 

 ここに至って、リツの感情はついに心の器から溢れた。彼女は叫んだ。

 

「なぜ……なぜ、お前はそういう態度が取れるんだ! 死ぬんだぞ!」

 

 リツはさらに言った。

 

「三日後にお前は私に斬られるんだ! なぜ悲しまない! なぜ怒らない! お前は誰にも知られることなくこの島で死ぬんだぞ! それで良いのか……!」

 

 叫ぶうちに、リツの両目から涙が流れ出ていた。父を斬った時以来、一筋たりとも流したことのない涙だった。

 

 梨本は何も言わずにリツを見ていた。その涙を見て彼は満足そうに頷くと、ようやく口を開いた。

 

「やはり似ているな。君は彼女とよく似ている。涙を流すところまでそっくりだ。たぶん、偶然に過ぎないのだろうが……」

 

 思いもかけない言葉に、リツは梨本の顔を見返した。彼は話を続けた。

 

「前に君は、私に訊いたね。君たちが憎くはないのかと。あの時私は言葉を濁したが、本当のところを言うと、ある時までは心底憎んでいたんだ。我を忘れるくらいにね」

 

 梨本は窓の方へ顔を向けた。

 

「大学時代、私には愛する人がいた。君のように赤い瞳をしていて、美しい黒髪の、綺麗な長い二本の角を生やした女の子だった。気立ての良い、優しくて愛情の深い子でね。彼女は筑紫国から来た留学生だった。私と一緒に航空力学を学んでいた。いつか自分が設計した飛行機に彼女を乗せて、世界を飛んでみたい。そう思っていた。でも彼女は、戦争が始まる気配が強まると国に帰ることになってしまってね……涙を流してお別れをしたよ。ちょうど就職も上手くいっていなかった私は、自棄(やけ)気味に海軍に入った」

 

 淀みなく、梨本の話は続いていった。

 

「戦争が始まった頃には、市街地に爆弾を落とさないように注意していたよ。もしかしたら、爆弾が落ちる先には彼女がいるかもしれないから。それから、もし墜落することになったら、陸地を避けて真っ直ぐに海に突っ込むつもりだった。墜ちたところに彼女がいたら大変だからね。でも、ある日私は知ってしまったんだ。彼女が処刑されたとね」

 

 リツは息を呑んだ。梨本はそれに構うことなく、独り言のように言葉を続けた。

 

「君たちの国の指導者は、私の国と少しでも繋がりのある者を潜在的な敵と見なしたらしい。外交関係者は言うに及ばず、留学生に至るまで、一人残らず逮捕して処刑した。私が彼女の死を知ることができたのは幸運だった。たまたまある外信が筑紫国における残虐行為を報道していて、その中には犠牲者の名簿も示されていたんだ。銃殺刑だったらしい。母艦の作戦指令室でそれを読んだ時に、なぜか真っ先に彼女の名前が目に飛び込んできたよ。まるで、私に知られたがっているかのように……」

 

 蝉の声が響いていた。虚ろな鳴き声だった。リツは身じろぎもせず、彼の話に聞き入っていた。

 

「それからの私は、強い憎しみに囚われた。彼女を殺した魔族は一人も生かしてはおけないと思った。最初、憎しみは敵にだけ向いていた。私は敵の兵士と兵器だけを破壊するつもりだった。だが、次第にそれは増幅していった。いつしか、たとえ女子どもであっても皆殺しにしてやると、本気で思い込むようになっていたよ。市街地爆撃に関しても、仕事のためというよりも、どれだけ惨たらしく魔族を焼き殺すことができるか、そんなことばかりを考えていた。彼女と同じ大地に住み、彼女と同じ空を見たはずの人々を殺すことしか、私は考えていなかった……」

 

 そこまで言ってから、梨本は居ずまいを正し、リツの方へ向き直った。

 

「私は憎しみという牢獄に囚われていた。いや、自分で自分をその狭い牢内に押し込むことで、悲しみと絶望から逃げようとしていたんだ。私は既に、まっとうな人生を送っていなかった。大空を飛びながらも、私の心は牢獄の中にあったんだ」

 

 梨本はちょっとだけ息を深く吸い、また吐いた。

 

「君に撃ち落とされた時も、ただ自爆するのではなく、一人でも敵を道連れにしてやろうと思った。持っているのは拳銃が一丁だけ、弾は数発しかなかったが、それで何人か撃ち殺した後に、自分の頭を撃ち抜こうと思った。それで不時着を決意した」

 

 そう言いつつ、梨本はリツの目を見つめていた。彼の目の色は温かいものだった。

 

「真っ先に駆け寄ってきた敵を見て、驚いたよ。その敵は、彼女そっくりだった。勿論、姿形は違う。髪の色も、角の形も全然違う。でも、私はその目に惹かれた。その敵の瞳は、彼女が別れ際に私に見せた、哀しみを(たた)えた瞳とそっくりだった。私は戦う意欲を失くした。君にあっさりと降伏したのは、そういうわけさ」

 

 それから梨本は、恥ずかしそうな顔をしつつ、煙草に火を点けた。

 

「毎日、君はここに来てくれた。私は次第に、自分の心の中から憎しみが消えていくのを感じていた。君の哀しみに満ちた目を見るたびに、私はこれまで自分が犯してきた罪について考えるようになった。私が爆撃によって傷つけ殺した人たち、私の飛行に殺された人たちの家族は、どれだけの哀しみを背負わせられたのだろう。どれほど多くの君と同じ目をした人々を、私は作り出して来たのだろうかと私は考えた……」

 

 煙草を吸い終えるまで、彼は話を再開しなかった。やがて、吸い口まで灰になると、彼はそれを床に押し付けた。

 

「君と話すたびに、私は自分が自由になっていくのを感じた。気取った言い方かもしれんが、私は憎しみの牢獄から解放されたんだ。君が私を解放してくれた。今はもう、何も憎くはない。すべては君のおかげだ」

 

 じっと、梨本はリツの目を見つめた。

 

「あるのはただ一つ、最終的な落とし前をつけなければならないという思い、それだけだ。私は罪を償いたい。憎しみに任せて非戦闘員を殺傷し、この世に哀しみを振りまいてしまった、私の拭い切れない罪を償いたいんだ」

 

 そこまで言うと梨本は体を起こし、端座した。

 

 そして彼は、リツに向かって深く頭を下げた。

 

「頼む。私の首を刎ねてくれ。私の贖罪の手助けをしてくれ。私の魂を救ってくれ。友人として、頼む」

 

 それはリツが生まれて初めて聞く、真摯な願いだった。生まれて初めて得た友人からの、生まれて初めて聞く頼み事だった。

 

 彼女はその言葉が、まるで研ぎ澄まされた刃のように、自分の中で複雑に絡み合っていた迷いと悩みの線を断ち切ったのを感じた。

 

 そしてリツは、卒然と理解した。ああ、私は今、この人に斬られた。その傷は痛くなかった。血も流れなかった。ただ、衝撃だけがあった。斬られたことで、彼女は初めて、斬ることが持つ他の意味を理解した。斬ることは、ただの殺しではなかった。それは生かすことであり、また生かされるということでもあった。

 

 私は今、ふたたび生き始めた。リツはそう思った。父を斬ってからずっと止まったままだった時間が、また彼女の周りで動き始めていた。

 

 しばらくの間、静寂が部屋に満ちた。

 

 リツの目は、もう涙を流していなかった。彼女は梨本に向かって、自身でも驚くほどの穏やかな口調で話しかけた。

 

「……私は父を斬った。父は濡れ衣を着せられて、娘である私に首を刎ねられた。私は、なぜ父が私に斬られたのかが分からなかった。なぜ父はあの時、私と一緒に死んでくれと言ってくれなかったのかと、この島に来てからはそんなことをいつも考えていた。だが、あなたと話して、父が私に斬られた理由が、なんとなく分かった気がする」

 

 リツは深く溜息をついた。

 

「私はあなたを斬ることで、あなたの魂を救おうと思う。あなたが私に斬られることで、私を生かそうとしてくれているように。父もきっと、そのような気持ちだったのだろう。今では、確信をもって言える。やはり父は、私を愛していた」

 

 リツは梨本を見た。梨本は彼女を一心に見つめていた。穏やかな目が燃えるように輝いていた。リツは言った。

 

「あなたは、私に贖罪の手助けをして欲しいと言った。私もあなたを斬ることで、ようやく私の贖罪を始めることができると思う」

 

 リツは、檻の前に座った。軍刀の鞘が床に当たり、金属音を立てた。

 

 彼女の脳裏には、これまで斬った二十名の者たちの顔が浮かんでいた。彼らを斬った罪は、決して消えることはないだろう。自分は一生、それを背負って生きていかねばならない。

 

 だが、もう哀しみに沈むのはやめだ。哀しみという牢獄から抜け出して、日の当たるところで歩み始めなければならない。

 

 そう、どれほど罪が重くとも、もう哀しみに囚われてはならないのだ。彼女は、ひとり頷いた。私は、父が最後に示した愛情を、ついに知ることができたのだから……

 

 ほんの少しばかりの寂寥感を覚えつつ、リツは最後の問いを投げかけることにした。

 

「だが、一つだけ分からないことがあるんだ。それが分からなければ、あなたを上手く斬ることができそうにない。教えてくれないか?」

 

 梨本は微笑んでいた。その顔は輝いているようだった。彼は言った。

 

「私に答えられるかは分からないが、なにかな?」

 

 リツは、凛とした口調で言った。

 

「父は行住坐臥、常に一分の隙もない人だった。そんな父を、どうして技量未熟な私は斬ることができたのだろうか? 未だにそれが分からないんだ」

 

 梨本は、笑って答えた。

 

「君は隙をつくことが上手だ。私を撃ち落とすことができたのも、上手に私の隙をついたからだ。お父さんは、それをよく知っていたのだろう。だから、斬られる瞬間にわざと君に対して隙を作った。君への最後の贈り物として、わざと隙を作った。そんなところじゃないかな」

 

 その言葉に、リツは微笑みを返した。

 

「そうか。でも、あなたが私に隙を作るには及ばないよ。もう充分、よく分かったから」

 

 リツの瞳に、もう哀しみは宿っていなかった。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・ほいれんで・くー「魔族少女のリデンプション」

 2021年2月7日公開。こちらも「レイチェルが嗅いだ戦争」と「フォルモサ島への飛行」と同じく、『ラインの娘』のために書き下ろした作品です。総計25,600字ほど……前後編に分けようかと思いましたが、話の統一性を重視してやめにすることにしました。

 書いている間に「短編に収めるには些か話のテーマが重い&書き切れるか不安」という気持ちがこみ上げてきましたが、これも修行の一環だと思って根性で書き上げました。新しい舞台設定で話を書いてみたいという軽い気持ちがこんなことに……

 ちなみに今回は、先に「贖罪(リデンプション)」という言葉を思いつき、それに合わせてストーリーラインを構築しました。精一杯書いたつもりですが、また気が向いたら加筆するかもしれません。

 次回もお楽しみに。

※加筆修正しました。(2023/07/16/日)

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