ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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34. また、ピエールは一日を繰り返す

 さほど美味くもない安物のコーヒーを飲みながら、あの世に転がっている岩石のように固くなったバゲットを食べるのが、ピエール・デュプレシの毎朝の食事だった。

 

 裕福というわけではないが特に貧困に喘いでいるわけでもない彼がそのような粗末な朝食をあえてとるのは、ひとえに神経を覚醒へと導くためだった。朝毎(あさごと)泥濘(でいねい)のようにぬるく纏わりつく眠気と疲労感から解放されるためには不味いものを辛抱して食べるしかないのだと、彼はそのように考えていた。

 

 赤と黄の絵具が溶け混ざったような朝焼けの光が、窓から薄く差し込んでいた。久しぶりに、今日は晴れるようだった。こじんまりとした田舎家の居間には、古ぼけた家具や調度品や、埃の被った魔石ラジオが置かれていた。バゲットを噛み締める音とコーヒーを啜る音、それから、先ほど配達されたばかりの新聞がめくられる音だけが虚ろに響いていた。

 

 ピエールはふと、新聞のある記事に目をとめた。それはフランシュ=コンテのある町で起きた事件について述べていた。一ヶ月前、ニコラ・オベール氏の邸宅が深夜何者かによって「焼き討ち」され、氏と氏の老母が「殺害」された事件について、捜査当局は二十二歳の「若者」ジョルジュ・ベルナールを「放火罪」の容疑で逮捕したという。ベルナールは容疑を認めており、「祖国の裏切り者」である「対ゲルマニア協力者」に、「正義」の鉄槌を下すために火をつけたと供述しているらしい。

 

 その「対ゲルマニア協力者」という語が、ピエールの意識を著しく刺激した。心臓の鼓動が一挙に早まるのを彼は感じた。吸い込まれるように彼の視線が紙面の上を動いた。彼は何度も記事を読み直した。「焼き討ち」、「殺害」、「正義の鉄槌」などといった単語が、視界の中で踊り狂っていた。

 

 薄く禿げた彼の頭に、じっとりと脂汗が滲んだ。記事はある町で起きたある事件について淡々と報道しているに過ぎなかったが、彼にとっては、それが自身の運命を予言しているもののように思われてならなかった。

 

 やはり世間は、俺たちのような存在を心の底から許しているわけではないらしい。既に冷え切ってしまったコーヒーを喉を鳴らして飲み干しながら、ピエールは苦々しく思った。世間の中でも、特に若者どもは、俺たちのような「裏切り者」をどうしても許しておくわけにはいかないようだ。田舎でひっそりと暮らして、あの時代を忘れようとしている、今は無害そのものである存在を、若者たちは殺したくてたまらないらしい……

 

 ピエールが記憶している限り、この類の事件は今年に入ってから五件以上起こっていた。いずれも被害者は彼と同世代の中年男性で、犯人は二十代の若者だった。事件の度に、左派系新聞の論説委員はもったいぶった言辞で以て「戦後世代の破壊衝動の発露」だの「階級間闘争の新局面」だのと述べ立てていたが、彼にとってそれらはすべて空言(そらごと)にしか思えなかった。

 

 彼は彼なりに、事件の本質を見抜いているつもりだった。若者たちにとって、俺たちを殺すことは、いわば「やむにやまれぬ」行為なのだ。ピエールは、以前から考えていたことを確認するかのように、そう思った。彼らはおそらく、その行為を正当なる自己実現の手段と見なしているに違いない。自分を自分らしくしたいという願いこそ、特に若者に顕著な欲求なのだから……

 

 青い紙箱から両切りの煙草を一本取り出すと、ピエールはそれを(くわ)えて、マッチを擦って火を点けた。勢い良く吐き出された煙が、薄く空間へ広がっていった。視界の端で小刻みに揺れる煙草を見て、彼はようやく、自分が震えていることに気が付いた。自分は、弱くなった。そう思うのと同時に、彼は、その自己分析をすんなりと受け入れている自分自身すらも見出していた。

 

 いつしか、日が高くなっていた。冷たかった空気も和らいでいた。そろそろ仕事に取り掛からねばならない。ピエールは灰皿に煙草を押し当てて乱雑に火を揉み消すと、椅子にかかっていた上着を羽織り、居間の出口へと痩せ細った体を動かした。

 

 空には千切(ちぎ)れたような白い雲が、二、三浮かんでいた。前日の雨で地面はぬかるんでおり、所々に水たまりができていた。彼は家から出ると、敷地の裏手へ向かった。そこには、三棟のガラス張りの温室が横一列に並んで建っていた。温室はどれも大型の納屋ほどの大きさで、中にはウマほどの背丈の特別に品種改良された青緑のハンノキが、列を成して植えられていた。温室の中央部には浅い人工泉が掘られており、透明な水が太陽の光を反射していた。

 

 温室に入ることなく、ピエールは三棟それぞれの周囲を歩いて、異常がないことを確認した。ガラスは数日来の風雨によって茶色く汚れていた。また拭き掃除をしなければならない。そう思いつつ、彼は離れた場所に建っている木造の飼料置き場へと向かった。低い軋み音を立てる扉を開けると、彼は中から一抱え程もある大きな袋を取り出し、肩に担いだ。その重みに骨格が悲鳴を上げたが、彼はそれを無視した。

 

 地面を踏みしめるように歩き、ピエールは左側の温室に入った。壁面に掲げられた気温計と湿度計を見て、それが正常な値を示していることを確かめると、彼は中央の泉に向かって進んだ。植えられたハンノキの(こずえ)が肩や肘に当たり、かすかな音を立てた。

 

 澄んだ泉の中には、薄緑の水草がゆらゆらと揺れていた。彼は、袋の中身を泉のコンクリート製の(ふち)に沿ってばら撒き始めた。それは、細かく砕かれたクルミと、粗挽きされたソバの実だった。飼料が描く太い白い線が泉を一周すると、彼は袋の口を閉じ、また肩に担いで、次に起きるであろうことを見守った。

 

 ほどなくして、周囲の木々からざわめきが起こった。

 

 それは無数の羽音だった。遠い地平線の彼方からやってくる嵐の前触れのような、低い呻き声にも似た音が次第に高まると、その次に球形の光がぽつぽつと、緑の葉と枝の間に出現した。光は様々で、白いものもあれば、ピンク色のものもあった。いずれも呼吸をするかのように明滅し、おぼろげな輪郭を空間に浮かび上がらせていた。

 

 数百もの光は、しばらく様子を窺うようにその場に滞空していたが、危険はないと悟ったのか、徐々に人工泉の周りに集まってきた。光が飼料のすぐ傍に着地すると、羽音も消えた。

 

 光の正体は、無数の小さな妖精だった。妖精たちはピエールの親指ほどの大きさで、人間とそっくりの姿形をしていたが、背中にはトンボやチョウのような羽が生えており、両足もまた、昆虫とよく似た黒く華奢な構造をしていた。

 

 妖精たちはおしなべて無表情で、無言だった。飼料の前に跪くと、妖精たちは大事そうにクルミやソバの実を抱え上げては齧りついていた。その場には食物と自分以外には何物も存在しないかのように、彼らは摂食行動に耽っていた。

 

 ピエールは、慣れた手つきで一匹の妖精を()まみ上げた。その妖精はメスだった。黄金色の羽を有していて、胸部は豊かに膨らんでいた。ほっそりとした腹部を持つ、優美な個体だった。尖った長い耳と、細かな粒子を繋げたような金髪を持ったそれは、食事を中断させられたことに抗議するかのように手足をばたつかせた。その力強さを確かめると、彼は妖精を解放した。妖精はまた食事へと戻った。健康状態に異常はないようだった。

 

 満足げに、ピエールは温室内を見渡した。ここ数日の激しい風雨は、温室内の妖精たちに何ら悪影響をもたらさなかったらしい。病気をしているもの、怪我をしているものがあれば、すぐにでも拾い上げて群れから隔離する必要があるが、見たところその心配も要らないようだ。肉付きが良く、食欲も旺盛な妖精たちは、二か月後の出荷時期までに充分に成長するだろう……

 

 彼は隣の温室に飼料を撒くべく、その場を立ち去った。ふと彼は、新聞を読んだ時に感じたあの暗い感情が薄らいでいることに気づいた。やはり自分にとって、仕事だけが精神を安定させてくれるものらしい。彼は誰にともなく頷いた。信仰や哲学ではなく、仕事という実践的な行為こそが、自分を自分らしく生かすものなのだ……

 

 そこまで考えてから突如として、またもやあの文言が彼の脳裏をよぎった。「焼き討ち」、「殺害」、「正義」……ピエールの思考は目まぐるしく変転した。自分にとっては、妖精を養殖するというこの仕事が何よりも自己を生かすものである。それと同様に、彼ら狂信的な若者にとっては、対ゲルマニア協力者をこのフランク共和国から排除することが、何よりも自己実現をもたらすものであるに違いない。その論理的な妥当性や是非はさておき、彼らは固くそれを信じているはずだ。

 

 俺がこの仕事をやめられないように、彼らも決してやめることはないだろう。俺のような、祖国の裏切り者を一人残らず殺し尽くすまでは……ピエールは呆然として、温室の入口で立ち竦んだ。煙草を吸おうと彼は胸ポケットに手を伸ばしたが、そこには潰れた空き箱が一つ入っているだけだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 その生き物がこの世に出現した正確な時期は分からない。人間が人間として地上で活動を始めた、まさにその日を特定することができないように、その妖精が今の姿と生態を有するようになったその瞬間は、どれほどの調査を重ねたところで判明するはずがない。

 

 それでも、部分的なことならば分かっている。かつてエウロパ大陸の北の大地には、優れた種族が生息していた。優美な姿態、流れるような長い金髪、繊細な尖った耳……それは人間とよく似ているが、人間がどれほど高みにのぼったところで決して並び立つことはできないであろうと思えるほどの、超越的な美を誇る種族だった。その種族は妖精と呼ばれていた。

 

 妖精たちは深い森に住み、魔法を使い、木の実を食べ野獣の乳を飲んで暮らしていた。彼らは穏やかな気性をしていたが、外敵に対しては戦闘を躊躇うことなく、生来得意とする弓矢と魔法で応戦した。勇猛果敢な古代ゲルマニアの戦士たちが唯一恐れたのが妖精たちであったほどに、彼らは森の中では無敵の存在だった。

 

 そんな妖精たちにも弱点はあった。彼らは人間の五倍以上の寿命を持っていたが、その半面、繁殖能力が非常に低かった。彼らが人間よりも圧倒的に優れた能力を持ちつつも、森から出て平原で暮らすことがなかったのは、おそらくこのことが深く関係していたのだろう。森の中にいれば数の少なさは問題にならず、戦闘によって死者が出る可能性も低くなる。森で生きることは、彼らの生存戦略の根本だった。

 

 初めの頃は、人間と妖精との接触は少なかった。人間は妖精たちを恐れて必要以上に森に近寄ることはなく、何より両者の生活圏が物理的に離れていた。だが、次第に人類が農耕社会化し、森を切り開いて農地を拡大するようになると、不幸な衝突が続発した。人間たちは相変わらず妖精たちを恐れていたが、それよりも経済的な関心が優越した。領主や豪族たちは軍隊を組織し、犠牲を払いながらも妖精を討伐しつつ、森を我がものとしていった。

 

 十世紀中頃に発行された一連の教皇教書によって妖精の討滅が正式に認可されると、人間と妖精との武力衝突はさらに増した。数世紀にわたるその闘争の結果は、妖精たちの敗北と衰退だった。十二世紀初頭の「オスニングの森の大反乱」以降、衰退の程度は著しく、バヴァリア王国のある教区の報告によれば、「熟練の狩人でさえ妖精を肉眼で見たことのある者は百人中二、三人に満たず」、「数世代の後にはこの世から妖精が消滅することはまず疑いようのない」ほどであったという。

 

 人間はこれまで、多種多様な生物を絶滅させて社会と生存圏を拡大してきた。妖精も、その例の一つになろうとしていた。しかしここに至って、妖精たちの中に、劇的で、根本的な変化が生じた。

 

 それが初めて確認されたのは十五世紀の中頃だった。いつの間にか、妖精たちは姿形を変え、魔法を捨て、言語を捨てていた。身長は三十分の一ほどになり、背には虫の羽が生え、足もまた虫と同様になった。寿命も極端に短くなり、二年以上生きるものは稀となった。人間の平手打ち一発で粉々になるほど、妖精たちは脆弱になった。

 

 彼らは自ら、不可解なまでに無力で、無害な存在となったが、その代わりに得たものがあった。それは、高い繁殖力だった。それまでは男女の妖精の間で百年に一人子どもが生まれる程度だったが、虫のように小型化をしてからは、彼らは一度に数百もの卵を産むようになった。

 

 一回の繁殖期で膨大な数の妖精が生まれ、その半分以上が死ぬことになるが、生き残って次世代を生み出す数もまた多い。それは妖精たちの、新たなる生存戦略だった。ライオンやトラは無類の強靭な肉体を持ち、最強の哺乳類として自然界に君臨しているが、繁殖力という点ではイエネコにまったく及ばない。それと同じく、妖精たちは強さを捨て、あえて弱きものとなることで、高い繁殖力という別種の強さを得たのだった。

 

 種の絶滅という事態を目前にして、妖精たちが生き残りを懸けて何らかの魔法を行使したのか、それとも大いなる意志と自然の摂理がそのように為さしめたのか、あるいは単なる突然変異だったのか。いずれにせよ妖精たちはこの世に存続し続けることを許された。人間たちもまた、新たなる妖精たちを受け入れた。というのは、それまでは単なる経済上の障害でしかなかった妖精たちに、新たな側面、つまり資源としての価値を認めたからだった。彼らは観賞用や愛玩用として、そして何より、食用として人間に利用されるようになった。

 

 小さな妖精たちは、豊富な栄養を持っていた。特に魔術師たちにとっては良好な魔力源であり、肉を乾燥させて粉末にしたものは、即効性の精力剤となった。戦地に赴く魔術師団は必ず妖精の乾燥肉を携帯するようになり、一般の人間もまた、貴重な万能薬としてそれを珍重した。エウロパ大陸が他の文化圏との交易を活発化させた時には、東方からの香辛料と引き換えという形で、大量の妖精の肉と羽が輸出された。人間と似た姿形であることから、当初は食用にすることを忌避する向きもあったが、それも次第に消滅した。

 

 増大する経済的関心の必然的な帰結として、人間たちは、森にて妖精を捕獲するだけに飽き足らず、彼らを養殖することを思いついた。その技術が成熟するまでには膨大な資金と時間が費やされ、数え切れないほどの破産者が生まれたが、十七世紀後半から十八世紀初頭にかけて、遂に妖精の人工育成が産業として定着するに至った。「養精家(ようせいか)」という職業形態が確立したのである。

 

 ピエール・デュプレシは、そのような養精家の一人だった。

 

 彼は四十五年前に生まれた。彼の生地であるフランク共和国北東部、ムルト=エ=モゼル県、コンフラン=アン=ジャルニジー村は、数世紀にわたって養精産業で栄えた土地で、彼の父親もまた、代々続く養精家だった。デュプレシ家は数々の新しい品種を生み出した伝統と権威のある一家で、王国時代においては貴族や富裕商人との取引も盛んだった。

 

 だが、時代が経つにつれて、一家の繁栄のほどは衰微していった。何か大きな失敗があったわけではないが、大革命以降、デュプレシ家の家産は徐々に徐々に目減りし、ピエールの祖父の代においては、一家はフランク国に数多くいる養精家の一つに過ぎなくなっていた。二十世紀初頭の世界大戦時には、一家は軍への妖精納入で一時的に隆盛を取り戻したが、戦後の不況の煽りを受けて、それも儚いものとなってしまった。

 

 崩れかかった古ぼけた屋敷にいくつかの温室、使用人といえば年老いた者が数人いるだけで、家長である父親が自ら飼料袋を運ばねばならない。ピエールが生まれた時のデュプレシ家の状況は、衰退を絵に描いたかのようだった。

 

 それでもピエールは、幸せだった。両親が歳をとってからの一人息子として生まれた彼は、世間一般と比較してかなり多めに愛情を注がれて育てられた。もちろん、彼は養精家になるという定めが生まれた時から課せられており、その意味では不自由と言えたが、彼自身にとって幸いなことに、彼は妖精を育成することが好きだった。

 

 妖精は通常、初夏に産卵をする。オスの妖精が焦燥感に苛まれるように空中を乱舞し、メスがぼんやりとその光景を見つめ始める時が繁殖期の始まりで、ほどなくして妖精たちはペアを作ってハンノキの中へと姿を隠す。ペアはそのシーズンに一回きりの関係で、妖精たちはその時その時で違う相手を選ぶ。

 

 交尾が終わると、メスの妖精は水中へ飛び込み、泉の中の水草に抱きつくようにして、無数の微細な卵を産みつける。卵が孵化するまで、水は常に清潔なものでなければならない。幼いピエールが最初に父親から任された仕事は、人工泉の水を毎朝交換することだった。栓を抜き、バルブを捻るだけの作業だが、そのためには毎朝太陽が昇る前に寝台から起きなければならない。それでもピエールは、一度たりとも休んだり怠けたりすることはなかった。

 

 ピエールは、泉を覗き込んで、卵がどのような変化をするのかを見るのが好きだった。初めは透明で、目を凝らさなければ見つけることができないほど小さな卵も、一週間、二週間が経過すると次第に白濁して目立ってくる。三週間ほどもすると、折りたたまれた手足と頭部がはっきりとした輪郭を纏い、孵化直前の頃になると、踊るように卵の中で体を動かすのが確認できた。

 

 妖精が孵化するのは、決まって晩夏の満月の夜だった。卵の膜を破って水中に出た妖精たちは、そのまま泳いで岸へと向かい、全身で呼吸をするようにしていったん休憩をする。この時ネズミやゴキブリといった害虫がいると、悲惨な結果を招く。羽どころか、髪の毛すらも生え揃っていない幼い妖精たちに抵抗をする力はなく、生きながらに肉体を貪り食われることになる。ピエールは、父親に言われるまでもなく、孵化の時期が近づくと念入りに温室内の清掃を行うようにしていた。

 

 泉のほとりに体を並べて肩を喘がせている妖精たちは、一時間から二時間ほどが経つと、今度はおぼつかない足取りで周囲に植えられているハンノキへと向かい、つるりとした頭部を苦しげに振りつつ、(みき)をよじ登り始める。彼らは本能的に木登りの方法を知っているのだろうか、その技術は確かなもので、脱落するものはほとんどいない。

 

 枝の先端に辿り着くと、妖精たちは腰を下し、一様に満月を眺め始める。満月から放たれる月光を浴びて、生まれたての妖精たちの青白い半透明の体は確固たる血色を帯び、背中から羽が伸びてくる。伸びた羽が乾燥し、自由に羽ばたかすことができるようになる頃には、既に月が沈み、朝日が昇っているのだった。

 

 妖精たちは孵化したその日から自在に空を飛び回り、摂食行動を開始する。彼らが主として食べるのは、クルミ、ヘーゼルナッツ、クリといった木の実や、粗挽きされたソバの実、あるいはカラスムギなどの雑穀で、その他、週に二度は牛乳を必要とした。いずれも一匹の妖精が必要とする量は少なかったが、一つの温室で五百匹から千匹もの数を飼育する以上、日々消費される飼料は膨大だった。

 

 一ヶ月が経過し、ほぼ髪の毛も生え揃う時期になると、妖精たちの最初の選別が行われる。手足が曲がっているもの、背骨が湾曲しているもの、肌の色が悪いもの、羽が破れているものを注意深く見つけ出し、容赦なく麻袋に詰めて廃棄の対象とする。麻袋には選別終了後に二酸化炭素ガスが注入され、選ばれなかった妖精たちは殺処分されることになる。

 

 その作業を遂行するための技術は、知識によってのみ得られるものではなく、ある種の才能とも言えるものが必要とされた。そして、ピエールはしっかりとそれを父親から受け継いでいた。彼は妖精の飛び方を一目見ただけで、それが健康で正常な個体であるかを判別し、悪い個体を見つけた時は、瞬時に手を伸ばして捕まえることができた。

 

 まだ六歳にもならないピエールが天賦の才を有していることに気づいた父親は、積極的に彼を作業に参加させた。そのおかげで、十四歳になる頃には、彼は熟練の養精家に引けを取らないほどの選別の技量を持つまでになっていた。

 

 最初の選別が終わり、実り豊かな秋が過ぎる頃には、妖精たちの成長もほぼ終わる。雪が大地を覆い、池や沼の水面に厚い氷が張る季節になると、二回目の選別が行われることになる。それは、聖誕祭(クリスマス)に向けた出荷のためだった。

 

 選別対象は主に二種類に分けられた。一つは来年の繁殖期まで飼育するもの、もう一つは、特に見栄えが良く、しかし体力に乏しく多くの子を残せそうにない妖精で、これらは瓶詰(びんづめ)にされて商品化された。妖精が単体で瓶に入れられることはなく、決まってオス・メスのペアとして組まれた。瓶詰(びんづめ)の妖精が年を越せることは稀だったが、聖誕祭という短い期間に購入者とその家族の目を楽しませるには充分だった。

 

 瓶の中には木や紙で作られた小さな家と、ハンノキの小枝が置かれ、それから食物として、小皿に注がれたハチミツが入れられた。選ばれた妖精のペアは、生まれて初めての、そして最後となる冬を、この牢獄のような狭い空間で過ごすことになる。妖精たちは至極従順で暴れることはなく、閉じ込められてもぼんやりとした視線を辺りに巡らせるだけだが、夜になると決まって羽を動かして、闇の中でも光り輝く鱗粉を振りまくのだった。

 

 一般的な子どもたちが祝祭のご馳走とプレゼントを待ち焦がれる雪深い冬は、ピエールにとっては仕事の日々の一幕に過ぎなかった。父親と共に温室の中に入り、観察眼を働かせて選別対象を選りすぐり、目の細かい網籠(あみかご)に妖精を傷つけないようにして収容する。昼間は多くの網籠を運ぶために温室と屋敷を往復し、夜は使用人たちが小物を入れラベルを貼った瓶に妖精のペアを詰める。単調だが、それなりに神経を使うことを要求される仕事だった。

 

 しかしピエールは、それが何よりも楽しかった。彼にとっての遊びとは、兵隊人形で戦争ごっこをすることでも、仮面をつけて木の棒を持って追いかけっこをすることでもなく、まさしく妖精を扱うことにあった。瓶と小物と妖精が一体となり、一つの商品として完成されていく過程を、彼は幼気(いたいけ)ながらも真剣な眼差しで見つめていた。街へ商品が売りに出される時には、彼は必ず父親が操る馬車に便乗し、自分の手がけた「作品」群に人々が群がり寄るのを満足そうに眺めるのだった。

 

 冬が終わり春が来て、ハンノキの間でひっそりと息を殺すようにして暗い時間を送っていた妖精たちが、楽しげに飛び回り淡い光を発散するようになると、彼の遊びはますます楽しさを増した。

 

 寂しげな樹々に緑が芽吹き、花々に虫たちが群がるその季節には、妖精たちも一段と食欲を増し、筋線維を発達させ、夏に向けて生殖能力を成熟させる。朝と夕に二度の食物を必要とし新鮮な水をも欲する妖精たちのために、ピエールは父親と共に忙しく立ち働いた。温室内には妖精が出す排泄物と食べかすが常に散乱するため、こまめな掃除が欠かせない。彼は暇さえあれば箒と塵取りと火ばさみを持って、温室の中を歩き回った。

 

 生命の(よろこ)びを謳う緑の春が終わると、日差しの厳しい乾いた夏がやって来る。その時こそが、養精家にとっての本番だった。この時期、妖精たちは目的別に、主として三種類に分けられることになる。一つは繁殖用、もう一つは食肉・薬剤加工用、そして三つめが、品評会用だった。

 

 品評会においてはことさら優れた姿形を持つ個体が選ばれ、県中央で開催される大会へ出展されることになる。プロポーションの良さ、生殖能力の強さ、髪の毛の艶やかさ、羽の美しさ、光の色合い……批評家の前に出された妖精たちは様々な観点から評価され、富裕層や好事家、あるいは品種改良に熱心な他の養精家たちに買われていく。ただの一匹だけに一万フランもの値が付くことも稀ではなかった。

 

 ピエールは八歳の時に初めて、父親に連れられてナンシーで開かれている大会へ行った。その会場は十六世紀に建てられた、広壮な商工会館だった。薄暗い室内には柔らかなベルベットが被せられた台座が整然と立ち並び、その上に意匠を凝らした金や銀の籠が置かれていた。籠の中では、県各地の養精家たちの技術と労苦の結晶である妖精が、仄かながらも美しい光を放ちつつ、静かに羽を休めていた。幼いピエールはそれらを、貪るように見て回った。

 

 父親が出品した、チョウの青い羽を持ち黄金色の光を放つメスの妖精は、二番目に高い値が付けられた。妖精は首都に住む有名な資産家の代理人によって買われていった。人々が口々に父親を誉めそやすのを見て、ピエールは我がことのように誇らしく思った。

 

 だが、大会の間ずっと愛想良く笑顔を浮かべていた父親は、帰りの汽車の中で、一転して不満げな表情をした。

 

「昔、俺たちデュプレシ家は、貴族だけではなく、王家にまで妖精を卸していたんだ。太陽王直々の命令で家臣が妖精を買いに屋敷まで来たこともあったという。俺たちの家がその頃生み出していた妖精は、大きく、優美で、何より美しい光を放っていた。羽は透明で、日光を浴びると虹色に輝いたという。大革命の混乱で、その品種は失われてしまったが……それに比べれば、俺が今回出品した妖精など、トカゲとドラゴンほどの違いがある……」

 

 父親のその一言は、幼いピエールの柔軟な精神に強い刺激を与えた。彼はおぼろげながらに、そのような虹色に輝く妖精を自分の手で生み出したいという欲求を抱いた。それは、あまりにもささやかではあったが、確かに野心と言えるものだった。さらに言えば、それは非常に純粋な野心だった。伝統ある家に再度栄光をもたらそうだとか、金銭を得て屋敷を建て直そうだとかいうことを、彼は考えなかった。彼はただ、そのような妖精を自分だけの技術でこの世に再現したいとだけ思った。それは養精家にしか持ち得ない野心だった。

 

 小学校に通うようになり、文字を覚えると、彼はますます普通の遊びから遠ざかり、本棚に無数に収められている妖精に関する書物を読み耽るようになった。妖精の生態や歴史、養殖技術や流通などといった本から、植物学、魔法薬学、畜産学に至るまで、彼の読書の幅は拡がっていった。無論、まだ未成熟な彼の頭脳では高度な内容を理解することなど到底不可能だったのだが、それでもそれは、知的基礎をしっかりと構築するための訓練としては充分すぎるほどだった。

 

 両親はそんなピエールのことを、早熟な天才だと見なすようになっていた。その見方には親の贔屓目(ひいきめ)というものが多分に含まれていたが、ピエールにとっては良い影響を及ぼした。両親はただの養精家としては滅多にないことに、彼を県外の寄宿制の中等学校へやることにした。いずれは高等畜産専門学校に進学させ、年を追うごとにますます機械化と工業化が進む現代的な養精業を営めるような、そういう養精家にしたいと両親は願った。ピエールは中等学校へ進学し、親の期待によく応え、勉学に励んだ。

 

 生れながらに器用で要領の良いピエールは、学校での退屈な学課もそつなくこなし、数々の良き友人すらも得ることができた。読書の習慣も、彼は継続した。空いた時間に仲間の輪から外れ読書に耽る者は、学校という閉鎖的な空間においてはたいていの場合排除と虐めの対象となるものだが、ピエールの場合は違った。彼は仲間から一目置かれており、自然と尊敬された。彼の学校生活は充実していて、喜びと楽しさに満ちたものだった。

 

 それでも夜中になるとふと、彼は寝台の中で、妖精のことを思い出しては歯噛みをするのだった。知識と教養を得て、友人たちと遊ぶ。それは楽しいことであるし、恵まれていると言えることだったが、彼の本当の喜びはそこにはなかった。

 

 彼はいつも、両親が暮らす屋敷と、温室のことを思っていた。早朝、人工泉の栓を抜きバルブを捻って水を換え、重い飼料袋を運んで餌を撒き、温室内を丹念に清掃する。一匹一匹の妖精を観察し、優良な個体にはピンクの厚紙のラベルをつけ、ノートに記録する。ハンノキの剪定(せんてい)をし、ガラスを拭き、適切な飼料配合比率を研究する。そういった仕事こそが、彼に真の喜びをもたらすものだった。

 

 休暇の時期になると、ピエールは友人たちからの誘いをすべて断って、一目散に家へと向かった。荷物を置くや否や、彼は母親が止めるのも聞かず、真っ先に温室へと飛び込み、熱心に立ち働いた。父親は呆れたような顔をしてそんな彼を見ていたが、嬉しげな様子を隠しきれていなかった。

 

 ピエールは幼い日に抱いたあの野心を、まだ忘れてはいなかった。日光を浴びると虹色に光り輝く、透明な羽を持つ妖精を生み出すことに、彼は学校にいる間ますます焦がれるようになっていた。かつて王と王妃の目を楽しませ、廷臣たちが立ち並ぶ宮殿の大広間に乱舞したであろう、デュプレシ家の栄光の象徴……今は失われてしまった、かつての高度な技術の結晶を復興することを、彼は相変わらず夢見ていた。

 

 だが結局、六年間に及ぶ中等学校時代において、ピエールはその端緒ですら見出すことはできなかった。彼はそれを、余計な学問に時間を費やし過ぎたせいだと考えた。もっと妖精と触れ合い、妖精のことを妖精自身が知っている以上に知ることなしには、それは不可能であると彼は思った。

 

 中等学校を優秀な成績で卒業し、高等専門学校への入学資格を得たにもかかわらず、ピエールが学業をこれで終わりとし、また家で働きたいと父親に申し出たのは、そのような事情からだった。父親は意外そうな顔をしたが、ピエールの言い分に認めるべき点があることを承知していた。頭ごなしに否定をするのではなく、父親は数日間、ピエールと真剣な議論を重ねた。

 

 父親は諭すようにピエールに言った。

 

「お前は天性の養精家だ。だからこそ、より幅広い知識を得なければならない。時代はどんどん進歩と発展の度合いを高めている。俺たちのような古いタイプの養精家は、いずれゲルマニア式の機械工業制の養精産業に駆逐されてしまうだろう。フランク国の伝統ある養精家が、粗暴で無粋なゲルマニア人に遅れを取るわけにはいかない。お前にはもっともっと学問を積んで、伝統と最新の科学的知見を融合させた、我が国独自の養精産業を生み出してもらいたいのだ……」

 

 ピエールの父親は、若い頃両親に反発し、文学で身を立てようとしたことがあった。その目的は達せられなかったが、そのかわり父親は文学修行の結果として、田舎の養精家には珍しいほどの広い視野を有していた。父親が息子に言ったことは、紛れもなく父親自身の偽らざる本心であったし、深い愛情の表れでもあった。ピエールは父の言葉を尤もだと感じた。結局、彼は進学することを決めた。

 

 こうしてピエールは十八歳の時に、故郷から遠く離れた、首都の高等畜産専門学校に入学した。数ヶ月して、彼は、あの時父親の言葉に素直に従っておいて良かったと心の底から感じた。学校で教授たちによって伝授される妖精と養精業に関する体系的な知識は、独学で本を読むだけでは決して得ることのできないほど高度で深みのあるものだった。彼はここで、知識はただ学んで頭脳に蓄えておくだけのものではなく、新たに知識を生み出す源泉にもなるということを知った。

 

 幼い日に抱いたあの野心が変容を遂げていることに、彼はある時気が付いた。美しい個体を生み出すことは確かに養精家の夢ではあるが、それよりもなお重要な使命があり、それを為すのは自分であることを、彼は自覚した。すなわち、フランク国の養精産業の近代化という課題を、彼は我が事として受け容れたのだった。

 

 学業は順調だった。品種改良に関する小論文がある教授に認められ、若くして研究室を自由に出入りできるようになった日が、ピエールにとって人生最良の時だった。最良の時は二年間の長きにわたって続いた。彼は幸せだった。彼は生命力に満ちていて、黒々としてたっぷりと生えている黒髪に、豊かな頬、引き締まった若い肉体を有していた。毎朝、彼は希望と共に目覚め、嬉しそうに太陽の眩しさに目を細めていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 午前の終わり頃になると空は曇り始めた。

 

 三つ目の温室に飼料を撒き終えた後、ピエールは重い体を引きずるようにして家に戻った。疲労感が、じっとりと彼を覆っていた。温室内の掃除をしなければならなかったが、彼はすぐにそれをする気にはなれなかった。彼は戸棚にしまっておいた煙草の青い箱を取り出すと、乱雑に封を破り、椅子に腰をかけて煙草に火を点け、断続的に煙を吐き出し始めた。

 

 妖精たちはいつでも美しい。煙草の苦さを感じつつ、ピエールは思った。妖精たちは生れた時から死ぬ時まで、いつでも美しい。それは彼らが生れながらに美しさという性質を持っているからではなく、むしろ彼らが不幸というものを死ぬまで一切感じないからだろう。彼は灰皿に灰を落とすと、煙を吐き出した。

 

 彼は思考を続けた。人間も、若い時は例外なく美しい。しかし歳を取るにつれて美しさは(かげ)りを見せる。それは、肉体が劣化するからではない。そうではなくて、無意味な生を重ねる中で、若い時には想像すらしなかった、数々の不幸を知るからだ。不幸を知れば、人は美しくあり続けることはできない。不幸という粘度の高い黒い溶液は、心という器にひび割れを生じさせる。心から漏れ出た不幸は、肉体と生理的機能に影響する。腰は曲がり、肉は落ち、骨が浮き、肌はひび割れ色がくすむ。

 

 俺は醜い。弱くなった上に、醜くなった。彼は心の中で呟いた。

 

 煙草はいつの間にか燃え尽きようとしていた。考えるまでもなく、ピエールの手は次の一本を箱から取り出していた。俺は、確かにあの時までは非常に美しかった。彼は、壁の一隅にピンで留められている写真を見た。そこには若い頃のピエールが、両親と共に映っていた。入営前に家へ戻った時に撮った、人生最良の時を切り取って閉じ込めた写真は、色褪せていて煙草の(やに)で黄色く変色していた。

 

 時計が正午を指し示した。温室内の清掃は体力を使う。そのためにも何か栄養のあるものを食べなければならない。だが、ピエールはなおも煙草を吸い続けるだけだった。空腹を喫煙で誤魔化し、コーヒーで喉を潤すのが、彼の昼食だった。

 

 しくしくと痛みを告げる胃の腑に刺激されるように、ピエールはこれまでに幾度となく重ねた、自身が辿って来た人生の回想に落ちていった。

 

 あの時、ピエールの明るい希望に満ちた日々は、突如終焉を迎えた。

 

 彼が二十歳になってから数ヶ月後、晩夏に生れた妖精たちがおずおずと空を飛び始める初秋に、ゲルマニア魔術帝国が大規模な軍勢をポルスカ国に侵攻させた。それを受けて、フランク共和国は連合国の一員として、即座に帝国へ宣戦を布告した。二度目の世界大戦が勃発したのだった。

 

 ピエールは即座に入営を決意した。彼はごく一般的な愛国的感情を有しており、ゲルマニアに対する敵意も人並み以上に持っていた。幼い頃から父親がしばしば彼に言っていたのは、ゲルマニア人は妖精を単なる道具と見なしており、虐待同然の扱いをしていて、さらには機械のように妖精を大量生産し、大量消費しているとのことだった。その話を聞くたびに、彼は養精家の一員として、ゲルマニア人に対する悪感情を募らせた。

 

 彼は学校へ休学(とどけ)を提出すると、そのままの足で首都の駅へと向かい、汽車に乗って故郷へと帰った。彼の周囲の学生たちも同様だった。国中が戦争という一大事に浮足立ち、熱狂的な戦闘意欲に満ち満ちていた。新聞やラジオ、演劇に至るまで、悪しきゲルマニアを打倒し、エウロパ大陸に平和と秩序を回復させようと、声高に叫んでいた。

 

 家に帰って来たピエールに対して、両親は考え直すように言ったが、彼の決意が固いのを見ると、ほどなくして沈黙した。息子が戦場で死ぬかもしれないということを、おそらく両親はよく承知していたのだろうが、あるいはそれ以上に、息子だけが軍に入らず、祖国防衛に参加しない裏切り者となることを恐れていたのかもしれない……

 

 もし俺が親という立場ならば、息子が戦地へ行くことを止めることができるだろうか? ピエールはコンロに火をつけ、コーヒーのための湯を沸かしつつ、そう自問自答した。止めるべきだ、親ならば。いや、おそらく自分も、我が子を戦地へと送るだろう。だから、両親に対して「なぜあの時もっと強く止めてくれなかったのだ」と思うことは、決してない。

 

 袋の中のコーヒーは、もう残り少なかった。ピエールはドリップペーパーに粉を盛り、沸いたばかりの湯を注いだ。湯が跳ね、彼の右手に当たった。熱さに顔をしかめた後、ピエールはまた回想の糸を手繰り始めた。

 

 辛い訓練を終え、ある歩兵連隊に下士官として配属されたピエールは、共和国北方のアラスへと向かった。そこは、隣国ベルガエ王国との国境地帯だった。前の大戦の経験から、最高司令部はこの地域こそが決戦場になると判断していた。兵士たちの士気は高かった。ピエールも、ゲルマニア人撃滅の念に燃えていた。来る日も来る日もスコップとつるはしを抱え、土や岩石と格闘し、塹壕を掘り進めるだけの単調な生活も、彼らはよく耐えた。すべては敵と戦い、敵を撃破するためだった。

 

 滞陣(たいじん)は半年間も続いた。奇妙な状況だった。紛れもなく、フランク共和国とゲルマニア帝国は戦闘状態にあるのに、戦闘らしい戦闘が行われなかった。国境付近の上空では空中戦が続発し、海上でも小規模な戦闘が幾度か起こっていたが、地上は静けさに包まれていた。

 

 ある者は、敵は大陸北方の諸国の攻略に手間取っているのだと言い、またある者は、敵は共和国の長い国境線を守る大要塞地帯に恐れをなしているのだと言った。様々な意見があったが、共通していたのは、このまま一回も地上戦を交えることなく戦争が終わることはないだろう、ということだった。

 

 その時は、あっさりと、無造作に訪れた。それは、妖精たちがそろそろ出荷に適した状態になる、春の終わり頃だった。

 

 敵は突然、ピエールの前に姿を現した。完全なる戦略的奇襲を達成した敵軍は、大規模な機甲戦力で以てベルガエ国南方の深い森林地帯を迅速に突破し、一挙にフランク国内へ雪崩れ込んできた。それはまさしく電撃的な攻撃だった。

 

 ピエールはその日の早朝、陣地の監視所に立っていた。薄靄が辺りに垂れ込め、草原の草花には真珠のような朝露が付着していた。煙草に火を点け、深々と一服したその直後、彼は異様な物音を耳にした。轟々というエンジン音と、金属が擦れる耳障りな音響が、彼の鼓膜と聴覚細胞を刺激したその瞬間、陣地の周囲に猛烈な砲撃が降り注いだ。

 

 靄を振り払うようにしてピエールの陣地へと突進してきたのは、魔力式戦車の大群だった。見事な一列横隊を組み、緊密な連携をしつつ、灰色の戦車の群れは混合濃縮エーテル液が燃焼する煙を排気管から撒き散らし、見る見るうちにピエールたちの部隊へ向けて前進してきた。

 

 隊長が絶叫し、号令を下した。配置についた兵士たちが小銃と機関銃で応戦した。対戦車砲が火を噴き、後方の歩兵砲が健気にも弾幕を張った。だがいずれも、魔力戦車の前進を阻止することはできなかった。戦車は紫色の魔力防護障壁を車体前面に展開しており、あらゆる銃砲弾を無効化した。鉄の獣は陣地に到達すると、二本の履帯で以て塹壕を蹂躙した。

 

 ピエールは自分の目の前で一人の兵士が戦車に轢き潰され、生きながらにして挽肉にされるのを目撃した。また、声を張り上げて兵士たちを励ましていた小隊長が機関銃弾を受け、顎だけを残して頭部を吹き飛ばされたのを彼は見た。敵の戦車は続々とやって来て、対戦車砲に砲撃を加え、壕内の兵士たちを機関銃で掃射し、そしてこともなげに陣地を突破すると、彼らを無視するかのように走り去っていった。

 

 約半年間、待ちに待った戦闘は、半時間にも満たなかった。ピエールの所属する総数三千名の歩兵連隊は、今や敗残兵の集合体に過ぎなかった。兵士たちは完全に戦意を失い、ただ恐怖に打ち震え、崩壊した陣地から脱出して当てどもなく逃げ惑った。ピエールも例外ではなかった。彼の精神は真っ白になっていた。足は意志に反して駆け出し、目的もなくその場から走り去った。

 

 いつしか、空には敵の爆撃機と戦闘機が充満していた。さらには、装甲車に乗った魔術兵が、残敵を掃討するために戦場へ姿を現した。連続する射撃音と魔法術式の起動音が、彼の恐怖心を更に高めた。今こうして逃げている最中にも、敵の戦車と魔術兵たちが自分を殺すために迫っているのだと思うと、彼の呼吸はますます荒くなり、心臓の鼓動が爆発寸前にまで早まった。

 

 ピエールは、今日まで何度も敗因について考えたものだった。フランク国の兵士たちは、確かに愛国心に満ちていた。俺たちは祖国防衛の念に燃えていたし、最後の一兵になるまで戦うつもりでいた。だが、本当に俺たちに必要だったのは、プロパガンダという虚飾によって肥大化させられた殉国の精神ではなく、高度で専門的な戦闘技術と、優れた兵器だった。さらに言うならば、最高司令部の時宜を得た的確な判断と、柔軟性のある部隊運用こそが国にとって必要だった。そのいずれもが欠けていたために、フランク国は、俺たちは、歴史的な大敗北を喫することになった……

 

 煮え滾ったコーヒーを、ピエールは口に含んだ。火傷しそうなほどの熱さを持っている黒い液体を、彼は強引に喉の奥へと流し込んだ。癒しがたい空腹感は、一挙に消え去った。ピエールはまた煙草に火を点けた。

 

 悔しいことだが、俺たちに勝ち目はなかった。煙を吐きつつ、ピエールは自分自身に言い聞かせた。俺たちは、やれるだけのことをやった。仕事を果たした。だが、敵が俺たちの仕事を根底から無意味なものとするように戦略を練り、作戦を立ててきた以上、勝機はまったくなかったのだ……

 

 街道上を逃げ惑い、疲労困憊したピエールは、いつの間にか一軒の農家に辿り着いていた。住民はいないようだった。いったん隠れて身を休めたいと彼は切実に思った。彼が扉を開けると、一斉に銃を構える金属音が聞こえた。薄暗がりの中には、逃げてきた兵士たちが何人も隠れていた。そこには将校も混ざっていた。それは若い中尉だった。中尉はピエールに対して拳銃を向けていた。中尉は微かに震えた声で言った。

 

「ここはもう満員だ、どこか別のところへ行け」

 

 どこか別のところ? ピエールはもう、一歩たりとも歩けない状態だった。それでも、彼はそこから離れざるを得なかった。

 

 見ると、街道を挟んで少し離れた場所に、もう一軒の農家が建っていた。農家の周りには、ガラス張りの温室があった。どうやら、養精家の住居のようだった。やはり住民は逃げた後のようで、家の中には誰もいなかった。こちらの方には、兵士たちもいなかった。

 

 何かに導かれるように、ピエールは温室の中へと入った。入ってすぐに、彼は足元を何か黒い小さな影がいくつか、高速で走り去るのを見た。それはネズミだった。温室の中にはハンノキが植えられ人工泉が掘られていたが、枝葉は(しお)れ、水は土色に濁っていた。床にはバラバラになった妖精の羽と、食い千切られた頭部と、肉がこびり付いた細い骨と、ネズミや野鳥の糞が散乱していた。

 

 ピエールはすぐに状況を理解した。住民たちは、妖精たちを捨てて逃げていったに違いない。だが、せめてもの情けとして、妖精たちが外へ逃げて、自由になれるようにしたかったのだろう。そのために彼らは窓を開け放ち、扉も開けたままにしておいた。

 

 それでも、妖精たちが温室から逃げ出すことはなかった。妖精たちにとっての世界は温室だけで、温室こそが最も住み良い場所だったからだ。そして結局は、外から侵入してきたネズミや野鳥に食い荒らされたに違いない。

 

 ふと、落ちている妖精の頭部の目と、ピエールの視線が合った。死んだ妖精の目は、どこまでも虚ろだった。それを目の当たりにして、ピエールの両目から、白い涙が零れ出た。彼は銃を取り落とし、泣き崩れた。彼は嗚咽しながらその場から立ち去り、もはや敵のことなど忘れ果てて、当てどもなく街道をふらふらとした足取りで進んでいった。

 

 ピエールが捕虜になったのは、その二日後だった。彼が体力と気力を共に使い果たし、路傍の石の上に座り込んでいたところに、ゲルマニア軍の装甲車がやってきた。降りて来たのは、長く黒い軍用魔術杖を手にした魔術兵たちだった。ピエールは顔すら上げなかった。彼は無抵抗のまま拘束され、装甲車に乗せられた。

 

 彼は捕虜を収容するための仮キャンプへと送られ、そこで無為の日々を半月ほど過ごした。首都が占領され、フランク共和国が帝国に降伏したのは、それから間もなくのことだった。いくつかの収容所を転々としつつ、もう一ヶ月ほど捕虜生活を送った後、ピエールたちはようやく解放され、家に帰ることを許された。それは奇跡的なことだった。帰れない者たちも大勢いたのだが……

 

 ピエールは一旦、過去を思い出すのを打ち切った。煙草の箱をポケットに入れ、また居間を出て、彼は午後の仕事を始めるために温室へと向かった。歪んだブリキのバケツに水を汲み、雑巾を絞って、彼は温室のガラスを拭き始めた。ガラスの汚れはしつこく、何度も拭き直さなければならなかった。

 

 単調な仕事が、再度彼を追憶へと導いた。家に帰った時、両親は純粋に生還を喜んでくれた。ピエールは久しぶりに笑顔を浮かべ、そして泣いた。懐かしい匂いのする寝台に横になって、丸二日間眠り続けた後、彼は戦場で体験したことを忘れるために、一心不乱に働き始めた。彼は学校には戻らなかった。彼はもはや勉学の意欲を失っていたし、そもそも学校自体が閉鎖されていた。

 

 父親はピエールが不在の中でも丹念な仕事は欠かしていなかったようで、妖精たちの状態は例年通り良好だった。

 

 彼が家に帰って一ヶ月が経った。ちょうど、妖精の出荷の時期だった。家族と生活し、父親と共に仕事をしたことで、彼の精神状態はかなり改善されていた。その明るい気持ちのまま、今年の品評会には何を出展するのかとピエールが無邪気に問うと、父親は途端に顔を曇らせた。

 

「今年の品評会は開催されない。いや、これからはもう、その類の大会は開かれないことになった。妖精たちは、繁殖用のものを除いたすべてが、ゲルマニア軍のために売られることになる」

 

 唖然とするピエールに、父親は説明を続けた。占領軍生産資源管理部はフランク国の養精家たちに布告を出し、今後の妖精の「生産」はすべて食肉・薬剤用とし、観賞用あるいは愛玩用の妖精生産は一切認めないと通達したという。また、生産された妖精たちは市場に出すことなく、占領軍が定価で買い上げるという形で、一切の例外なく納入しなければならないらしい。

 

「買い上げると言ったって、そんなものは『妖精の涙』ほどの値しかない。それでも、布告には従わないといけないんだ。違反者は厳罰に処されるというし、なにより、飼料の購入や温室の修理、改修、新築には生産資源管理部の許可がいる。この仕事を続けるには、奴らに従うしかないんだ……」

 

 父親は、自嘲するように言った。

 

「今度は俺たち養精家の方が、妖精になっちまった。ゲルマニア人に飼いならされ、餌を与えられて、閉じ込められて、搾取されるだけの存在に俺たちはなりさがっちまった……」

 

 数年前から、父親は品評会に向けて新たな妖精を生み出そうとしていた。老い先の短さを自覚した父親の生涯最後になるであろう渾身の作品は、白銀の髪を持ち、ヤママユガのような極彩色の羽を生やしたもので、新奇性と美しさを兼ね備えた個体になるはずだった。去年、ようやくその完成の目途が立ち、父親は特別に交配用の温室を建てたばかりだった。だが、それもすべて無駄になってしまった。

 

 出荷される妖精たちは網で捕まえられて小さな布袋に詰められ、エーテルガスで麻酔を掛けられる。生きたままにしておくことで、保存期間を長くすることができるからだった。ピエールと父親は、黙々とその作業に当たった。布袋が収められた木製のコンテナを馬車に積み、出発の準備が整うと、父親は無言でピエールに視線をやった。彼が父親の意図を測りかねていると、父親は真新しい交配用の温室へ足を向けた。ピエールは黙ってその後に続いた。

 

 その温室の中には、ハンノキが一本だけ生えており、水溜りのように小さな泉が掘られていた。ピエールは、木の枝に二匹の妖精が腰かけているのを見た。一匹は普通の羽を持ちながらも髪が白銀のオスで、もう一匹はヤママユガの羽を持つメスだった。二匹は仲睦まじそうに肩を寄せ合っていた。温室に入って来た二人の人間にも、さして興味はないようだった。

 

 父親は、しばらく二匹を見つめていた。数分間、沈黙が辺りを包んだ。突然、父親は前へ一歩足を踏み出すと、まずオスの方を掴んで袋に入れ、次にメスの方も素早く捕まえて同じ袋に入れた。父親は袋の口を閉じると、ピエールにそれを手渡した。父親の呼吸は荒く、肩で息をしていた。

 

「頼む。俺にはどうしてもこれを殺せない。どうしても、俺には……」

 

 そう言うと、父親は沈黙した。ピエールは、父親の急激な変化に目をみはった。これほどまでに憔悴(しょうすい)しきった父親を見るのは、彼にとっては初めてだった。居たたまれない気持ちを抑えかねたピエールは、父親に背を向けると何も言わずに温室を出て、二酸化炭素ガスのボンベが置かれている小屋へ向かった。

 

 袋の中の妖精たちが暴れてもぞもぞとする動きが、彼の手に伝わってきた。彼は細いゴム製のチューブを袋の中へ差し込むと、ボンベのバルブを慎重に開いた。逃がす、という考えは彼にはなかった。どうせ彼らは、自然界で生きていくことはできない。ヘビの鳴き声のようなか細い注入音がしばらく続き、それと共に二匹の妖精たちの動きは弱まっていった。

 

 袋の中の動きが完全に止まったその時、ガラスの割れる大きな音がピエールの背後から響いてきた。はっとして彼が視線をやると、父親が両手持ちの大きな鉄製のハンマーで、温室を破壊していた。最初は父親の几帳面な性格を示すかのように一枚ずつ丁寧にガラスは割られていたが、次第にハンマーの描く軌跡は乱れていき、支離滅裂なものとなっていった。

 

 温室が完全に破壊された後、父親は力尽きたように地面にうずくまった。ピエールは駆け寄った。抱き起した父親の手と腕には、割れたガラスによって切り傷が無数に刻まれていた。溢れ出る血の色の鮮やかさが、異様なまでにピエールの目に焼き付いた……

 

 親父(おやじ)はあの後、放心状態になって、寝たきりになってしまった。最後のガラスを拭きつつ、ピエールはそのように独り言を漏らした。親父は寝たきりになって、その年が終わる頃の寒い朝、ひっそりと寝台で息を引き取っていた。ピエールはバケツの水を地面にぶちまけた。汚水が小さな水溜りを作った。彼はまた煙草を吸い、バケツと雑巾を倉庫にしまうと、今度は清掃用具を取り出した。

 

 温室内に散らばるゴミや汚物は、放置しておくと病原菌の発生源となる。妖精たちは病気に弱く、ひとたび温室の中で菌が蔓延すれば、あっという間に全滅してしまう。最近になって、病原菌に対して有効な噴霧式の薬剤が開発されたらしいが、今のピエールにはそれを購入する余裕はなかった。どんなに疲労をしていても、掃除だけは一日たりとも欠かすわけにはいかなかった。ピエールは丹念に温室の床面を掃き清めた。

 

 葬儀の時のことを、彼は思い出していた。彼は父親の棺に、二匹の妖精の剥製を入れた。それは、あの時二酸化炭素ガスで殺したつがいだった。父親の最後の、究極的な作品を生み出すはずだった妖精のつがいを、彼は密かに剥製にしていた。つがいは美しかった。それには父親が生涯の間に培った技術のすべてが込められているように彼には思われた。

 

 剥製を作り、棺に入れることは単なる自己満足に過ぎないとピエールは気付いていたが、それでも彼はそのようにして良かったと思った。親父(おやじ)ほど有能で熱心な養精家はいなかった。養精家としての理想的な在り方を強制的に断たれた親父は、消極的な自死を選んだのだ。司祭の祈りの言葉を聞きながらそう思ったことを、彼は思い出した。

 

 父の死後、三年ほど単調な毎日が続いた。ピエールは相変わらず養精業に励んだ。自分が育成し、出荷する妖精たちが憎むべき敵国に利用されることに、彼は(こら)えようのないほどの苛立ちを覚えていたが、生活のためにはやむを得なかった。

 

 だが、次第に仕事は困難になっていった。ゲルマニア帝国軍は戦線を拡大し続けており、魔術師のために、また、薬剤の精製と混合濃縮エーテル液の生産のために、大量の妖精を必要としていた。占領軍から要求される標準生産量(ノルマ)は月を追うごとに、ほとんど達成不可能なまでに増大した。

 

 しかしその一方で、得られる飼料は質が悪くなる一方だった。まず、入手が難しいヘーゼルナッツが手に入れられなくなった。次にクルミが消えた。最終的に、カラス麦だけが残った。栄養不足のため、妖精たちは無惨なまでに痩せ細っていった。畸形(きけい)が増加し、羽が生え揃わないものすら出るようになった。生殖能力も落ち、年々新たに生み出される卵の数は減っていった。

 

 ピエールは死に物狂いで仕事に励んでいたが、状況は改善の兆しすらなかった。村長は各家を回り、妖精の生産を督励した。だが、村長が有効な手立てを打つことはなかった。それどころか、仕事を褒めることすらなかった。特にピエールに対しては、仕事ぶりに嫌味を述べることが多かった。元来村長は、デュプレシ家に対して敵対的だった。懸命に励んだその仕事と成果が認められないことの空しさを、彼は痛感した。

 

 妖精たちだけではなく、ピエールら人間の生活も、困窮の度を増していた。占領軍による過酷な収奪のせいで、フランク国内の食料事情は逼迫していた。肉類はほとんど手に入れることができず、パンも少なくなる一方だった。

 

 当局の目を盗むようにして闇市が横行したが、そこで売られている商品の価格は常識を遥かに超えていた。衣類や燃料の類もまた同様だった。ピエールは温室のボイラーを動かすための燃料を手に入れるため、毎日温室での仕事を終えるや闇市へ赴き、必要な物資を得るために駆けずりまわった。

 

 ピエールの母親が死んだのも、ある意味では闇市のせいだった。

 

 母親は父親の死後も気力を失うことなく、ピエールの仕事を手伝い、乏しい食料で何とか滋養のある料理を作ろうと、老いた体に鞭を打つようにして毎日働いていた。その日、ピエールの二十四歳の誕生日を祝おうと、母親は朝早くに街で開かれている闇市へと向かった。貴重な肉類を手に入れようとしたのだった。

 

 運悪く、その日に闇市の一斉摘発が行われた。しばらくの間摘発が行われていなかったため、人々は完全に油断していた。集まっていた人間を蹴散らすように当局の車両が走り回り、混乱と狂騒があたりを包んだ。騒ぎが収まった後、街路に一人の老婦人が頭から血を流して横たわっていた。ピエールの母親だった。誰かに突き飛ばされたのか、それとも単に自分で転んでしまったのか。当たり所が悪かったようで、診療所に運び込まれた時には、母親は既に絶命していた……

 

 俺はあの日の前の晩、(おふくろ)に誕生日など祝わなくて良いと言った。そんな無駄なことをしている余裕はないと俺は言った。ピエールは掃き集めたゴミを塵取りで回収すると、温室を出てゴミ捨て場へ運んだ。今日の清掃は、それで終了だった。

 

 それでも(おふくろ)は、せめて誕生日くらいは祝わせてくれと涙ぐみながら答えた。あの時俺は、もっと強く、そんなことをするなと言うべきだったのではないだろうか……? そこまで考えて、ピエールは頭を振った。すべてはもう、過ぎ去ったことだ。終わってしまったことに対してできるのは、なんとか折り合いをつけて、無理やりにでも納得をすることだけだ。

 

 昼にコーヒーしか与えられなかった胃が、苦痛の呻きを漏らした。いつの間にか、夕方に差し掛かっていた。オレンジ色の西日を受けて、雲が近代絵画のような色彩を放っていた。そろそろ、妖精たちに今日二度目となる食事を与えなければならない。ピエールは飼料置き場へ向かうその前に、煙草に火を点けた。

 

 空腹と疲労で多少平衡を欠いていた精神が、煙草の香りと煙によって、一時的に力を取り戻した。ピエールは、また考えに耽り始めた。

 

 戦争、捕虜生活、ままならない養精業、親父(おやじ)(おふくろ)の死。いずれも紛れもない不幸であり、自分から美しさを奪っていった出来事だった。しかし、それらはごくごく平凡な不幸に過ぎなかった。あの当時の人間ならば、程度の差こそあれ、みんな経験した不幸だ。

 

 俺にとっての真の不幸は、(おふくろ)の死の後にやって来たのだ。そして、その真なる不幸は、向こうから勝手にやって来たのではなく、自分自身で招き寄せたものだった。そう思った途端、息苦しさを感じると同時にピエールは猛烈にむせた。煙草を吐き捨てると、彼は靴で火を踏み消し、飼料小屋へ向かった。

 

 

☆☆☆

 

 

 日が暮れた。妖精たちは今頃、一心不乱に餌に群がり寄り、食事を楽しんでいるだろう。ピエールも、今度こそは栄養を得なければならなかった。

 

 だが夕食といっても、それをまともな食事と呼べるかは甚だ疑問だった。タマネギとジャガイモが入った薄いスープに、古い缶詰のソーセージ、ぼそぼそとしたチーズの欠片、朝よりも固さを一層増したバゲット……それらを酸味の強い赤ワインで誤魔化しつつ、ピエールは黙々と口へ運んだ。

 

 ちょうど、このように一人で夕食をとっている時だったと、彼は思い返した。母親の葬儀を終え、呆然自失の体で毎日を過ごしていた自分の元へ村長がやって来たのは、日が完全に落ちて夜闇が辺りに満ちた時だった。眼鏡を掛けた壮年の村長は役場の吏員を二人連れていて、「食事中に失礼だが」と、ほんの少しばかりの申し訳なさを表情に浮かべつつ言った。

 

 自分に対して好意的ではない村長がわざわざ自ら足を運んできたことに、ピエールは不吉な予感を抱いた。村長が、その頃にはもう滅多に見られなくなっていたコニャックを一瓶差し出して、「一緒に飲もうじゃないか」と言い出した時、その予感はより一層強くなった。

 

 酒が入り顔が赤くなった村長は、今日ピエールのもとに来たのは「あること」を頼みたいからだとどこか宙を見つつ言った。ピエールが黙っていると、村長は話を続けた。もったいぶった、空々しいまでのヴゾワイエの口調だった。

 

「実は先日、占領軍から『村から養精家一名を労働力として供出せよ』と言われた。デュプレシ君、あなたにそれを頼みたいのだが……」

 

 思ってもみなかった申し出に、ピエールの思考は一瞬凍り付いた。沈黙を肯定と受け取ったのか、村長は勢いを得てさらに語り始めた。

 

「あなたも噂話で知っていると思うが、今ゲルマニア帝国は追い詰められている。東部戦線では全面退却中というし、連合国軍による大規模上陸作戦も近いらしい。帝国本土では成人男性を根こそぎ兵隊として動員しているようで、労働力が不足しているとのことだ。だから、手っ取り早く占領地から人的資源を本国へ持ち去ろうという魂胆なんだろう。奴らは、帝国の養精産業に従事できる人材が欲しいらしい。金とモノだけではなく人まで奪おうとは図々しい奴らだが……しかし要求を撥ねつけることもできない」

 

 それならば、よりにもよってなぜ俺なのかとピエールは言おうとして、口を噤んだ。理由ならばすぐに見当がついた。村にいる養精家の中で家族がいないのは、自分だけなのだ。他の者はみな養わなければならない妻や子どもがいる。他国へ行ってもらう者として、自分以上の適任はいないだろう。

 

 村長はそんなピエールの考えを補足するかのように言った。

 

「あなたは私とは違って学識豊かだし、ゲルマニア語もできる。何より、熟練した養精家だ。きっと連中もあなたならば納得してくれるだろう。それに、これはあなたの為にもなると思う。ゲルマニアの先進的な養精産業を(じか)に見ることができるチャンスじゃないか。是非、これを好機と捉えてもらいたい。戦争も、もうすぐ終わる。こちらに帰って来た時には、ゲルマニアで得た経験と知見を活かすこともできる……」

 

 よくもそれだけのお(ため)ごかしを長々と言えるものだと、ピエールは嫌悪の念と共に思った。しかしそれと同時に、村長の言い分の中に確かに正論だと頷ける部分があることにも彼は気付いた。学校時代、教授たちはゲルマニアの養精産業の効率性を称賛しており、いずれはフランク国の養精家もそれに追従することになるだろうと述べていた。彼は心の中でそれに反撥を覚えていたが、他方で興味を惹かれもしていた。

 

 いずれにせよ、誰かが犠牲にならなければならない。誰かが生贄(いけにえ)になる必要があるのだ。ピエールは王国時代のある風習を想起した。疫病が蔓延った時、民衆たちは妖精を木の棒に括り付け、生贄として火で焼き、その灰を水に溶かして飲み干したという。

 

 自分は、生贄の妖精となるのだ。彼はそう決心した。村長のことは好きではないが、生まれ育った村を救うためならば、その自己犠牲的な役目を担わなければならない。兵士として従軍しながらも戦場で負け、祖国が敗戦するのを食い止められなかった責任もある。ピエールはようやく、失われていた自尊心と誇りを取り戻せるような気がした。

 

 彼が承諾すると、村長はあからさまに嬉しそうな顔をした。そして、頼んでもいないのに、次のようなことを口走った。

 

「安心してくれたまえ。あなたは自ら望んでゲルマニアに向かったのではなく、強制されてのことだったと、私から村民全員によく言っておく。決して、あなたは裏切り者ではない。むしろ、村を救う勇士なのだと、みんなにはよく説き聞かせておくから……」

 

 その時の村長のへつらうような顔を思い出して、突然憤怒の念が、ピエールの中に込み上げてきた。彼はスプーンを、空になったスープ皿に思い切り叩きつけた。甲高い音が居間に響いた。なぜあの時、もっと慎重な態度を取らなかったのだろうか! 村長が信用できない人間だということは、よく知っていたはずなのに!

 

 いやそれよりも、自己犠牲だの生贄だのと、自己陶酔に浸っていた俺自身が呪わしい! ピエールは再度スプーンを振り下ろそうとして、やめた。

 

 村長が来訪した数日後、ピエールは荷物をまとめて、迎えに来た占領軍の乗用車に乗り、ナンシーの鉄道駅へと向かった。乗用車は木炭動力で、道中でしばしばエンストを起こした。やっとたどり着いた駅には、フランク国の労働者を帝国へ輸送するための特別列車が止まっていた。車内は満員で、熱気がこもっており、ろくに身動きが取れなかった。満足に食事をとることもできず、用便すらままならなかった。

 

 ようやくゲルマニア本国西部の工業都市ゲルゼンキルヒェンに列車が到着すると、ピエールらフランク人の労働者たちは兵士たちに追い立てられるようにして下車した。彼らは横二列に整列させられ、それぞれ名前を呼ばれて列から出ると、トラックに乗せられて工場へと向かった。

 

 揺れるトラックの荷台の中で、ピエールはまともな人間扱いをされていないことに憤懣(ふんまん)が募っていた。あるいは専門技能を生かせる職場ではなく、単純作業に従事させられるのではないかと彼は懸念した。だが、それは杞憂に過ぎなかった。工場に着くと、ゲルマニア人はピエールに技能職者である(あかし)の白い腕章を手渡した。勤務形態と規則について説明があった後、ピエールは他の労働者と共に宿舎に入った。宿舎は木造の粗末なバラックで、常に隙間風が吹き込み、夜は一段と冷えた。

 

 しかし、工場そのものは非常に洗練されていた。工場は汚れ一つない真っ白な外壁を有しており、同じく純白の高い煙突からはエーテル液が燃焼する赤紫色の煙が立ち昇っていた。内部は生産性を考慮した機能的な空間配置がなされていて、妖精を育てるための小部屋が無数に設けられていた。

 

 それよりもピエールの目を惹いたのは、妖精の「生産」方法だった。この工場では、植物の類が一切存在しなかった。ハンノキの代わりに青い人工魔力結晶が設置されており、それが小部屋の中の妖精たちの成長を促進していた。特定の魔力周波数を浴びせることでハンノキなしに妖精を育成できることを、ピエールは学校時代に論文を読んで知っていた。彼はその実物を目にすることができて興奮を禁じ得なかった。

 

 小部屋の中には概ね五百匹の妖精が飼育されており、泉の代わりに循環式の水路が掘られていた。水路の中には水草が揺らいでいた。水草はマジャール産だった。こればかりは人工のもので代替することができないようだった。大型のボイラーと発電機によって小部屋内部の温度と湿度は一定に保たれており、妖精たちにとって理想的な環境が形成されていた。

 

 設備は大きく異なっているが、生産される妖精そのものはフランク国のものと大差がないことを、ピエールは意外に感じた。ゲルマニアの妖精はやや体格が大きく、すべてが同じようなスズメバチに似た羽を背中に生やしていたが、性格は穏やかで従順だった。魔力含有量に優れ、年間を通じて繁殖可能であることを彼が知ったのは、工場で働き始めて少し時間が経ってからのことだった。

 

 肥満した赤ら顔の工場長がピエールに与えた仕事は、小部屋十室の統括(とうかつ)・管理だった。ピエールと同じく、フランク国から連れて来られた単純労働者たちを監督して、できる限り少ない資源で多くの妖精を生産することが彼には求められた。

 

 工場長はピエールに親しみの感情を示すためか、片言のフランク語で言った。

 

「生産量を上げることができれば、給料を上げる。俺たちは仕事に対して適切な報酬を払う。安心して仕事に励んで欲しい」

 

 初めの数日は慣れない環境に戸惑ったものの、ピエールは次第に仕事に集中し始めた。その工場で仕事をするということはいわば利敵行為となるが、彼は働きたいという欲望をどうしても抑えられなかった。働くことは養精家としての宿命であると彼は感じていた。

 

 彼はまず、労働者たちとの友好関係を築くことに努めた。学校時代、彼は友人を作ることが上手かったが、それはこの現場でも発揮された。彼は上級者として高圧的に命令をするのではなく、共に仕事をする同志として部下の労働者たちに接した。敵国に無理やり送り込まれた労働者たちは、当初やる気をまったく見せなかったが、徐々にピエールに感化され、仕事に励むようになった。

 

 ピエールはまた、専門的な観点から設備に対して数々の改良を加えた。その頃、工場全体を悩ませていた問題の一つとして、小部屋の内部にカビが定期的に発生するということがあったが、彼は換気装置の出力と配置を改善することで、それを解決した。また、これまで研究を重ねてきた飼料の配分比率を彼はここで実地に試し、顕著な成果を上げることに成功した。

 

 その上彼は、自身が最も得意とする、優良個体と不良個体の選別方法とそのコツを、労働者たちに惜しみなく教えた。これまでに多くの書物に触れていた彼は、感覚的な概念を言葉によって的確に伝えることができた。労働者たちはほどなくして選別に習熟した。

 

 彼の班は毎月、他の班の二倍から三倍の成果を上げていた。工場長はピエールを称賛し、約束通り給料を上げるだけでなく、三日おきに一リットルのビールまで配給した。彼はそれを仲間たちに分け与えた。

 

 いつしか、ピエールは言いようのない居心地の良さを覚えていた。ここでは潤沢な設備と資源を用い、思う存分自分独自の方法を実行に移すことができる。労働者を自分の理想に沿って育成するのは例えようもないほどの楽しみであるし、労働をすればするだけ評価されるのは、故郷の狭い村の中では考えられなかったことだ。学んできたことのすべてが、仕事に直結している。これほど嬉しいことはない……

 

 その時の高揚感と満足感を思い出して、やはり俺は若く愚かだったと、ピエールは食べ終えた食器を流し台に運びながら溜息をついた。それも無理もないことだったと言えなくもなかった。俺はあの工場で初めて、両親以外の人間から仕事を認められ、褒められたのだ。社会的に自分が価値のある存在であると見なされることが、若者にとっては何よりの報酬となる。敵国人ではあったが、工場長は自分のことを有能な人材だと見てくれた。

 

 嫌々ながら敵国で働かされているのだという自覚が、あの時は薄れていた。だから、油断があったのだろう。ピエールは顔をしかめた。

 

 ピエールが工場に来て半年が経った、ある日のことだった。彼が労働者たちに卵を多く産むメスの見分け方を教えている時、見慣れない者たちが撮影機材を持って現れた。彼らは工場長に案内されていた。ピエールの姿を認めると、リーダーと思しき人物がそのまま仕事を続けるよう手真似で示し、ほどなくしてカメラを回し始めた。

  

 撮影が終わると、工場長がピエールを呼び寄せた。工場長は、この人たちは宣伝省の報道班員であり、今日は帝国のために尽くしている外国人労働者をニュース映画で紹介するために取材と撮影に来たのだと言った。

 

 動揺するピエールに、報道班のリーダーは流暢なフランク語で質問をした。帝国での生活はどうか、労働環境は良いか、仕事に満足しているか……ピエールは、それらの問いに、自身でも意外に思うほどはっきりと返答していた。慣れないことも多いが、概ね生活には満足している、本国では思うようにできなかった仕事に精一杯取り組むことができている、帝国の養精産業は先進的で、学ぶべき点が多い……

 

 話せば話すほどに、彼は自分の言葉に違和感を覚えた。憎むべき敵国の取材に対して、誇りあるフランク国民として決然と、否定と拒絶の態度を示すのが妥当であるはずなのに、彼の口から出てくるのは、どこか媚を売るような、感謝をするような、そういう穏当なものでしかなかった。

 

 三時間ほどの取材を終えて、報道班員たちは去っていった。工場長は、二週間後には映画館のスクリーンに君が大写(おおうつ)しで映るぞと、笑いながらピエールの肩を強く叩いた。彼はそれに笑顔で答えた。いつの間にか工場長に対して、彼は強い親近感を抱いていた。粗暴で無粋なゲルマニア人という固定観念は、淡雪のごとく消え去っていた。

 

 あの工場長は戦後、どうなったのだろうか? ピエールは椅子に腰掛け、煙草をふかしながらぼんやりと思った。そして、実はそんなことにはまったく興味を持っていない自分自身に彼は気づいた。

 

 結局ピエールは映画館に足を向けることもなく、その後も仕事に邁進した。

 

 工場が連合軍機の大編隊に空襲されたのは、取材から一か月ほどが経過した時のことだった。

 

 ピエールがいつものように労働者たちに指示を出し、今日は魔力結晶の出力調整を試してみようと考えていた時、突如として構内スピーカーが空襲警報のサイレンを大音量で流し始めた。

 

 ピエールが部下と共に退避壕に駆け込んだ時には、敵機の編隊は既に工場上空に到達していた。敵は大型爆撃機ではなく、単発の戦闘爆撃機だった。周辺に配置された高射砲の対空射撃をものともせず、敵機は執拗なまでに機銃掃射を繰り返し、爆弾を投下し、翼下に吊り下げたロケット弾を乱射した。

 

 見る間に、壮麗な白い妖精工場は無数の爆発に包まれ、紅蓮の炎と黒い煙を火山のように噴き上げた。

 

 その光景を目の当たりにして、ピエールの足は自然と動いていた。彼は壕から飛び出て、駆け出すと、猛火の最中にある工場へ向かって走った。彼はホースを消火ポンプに繋ぎ、水を放出した。なおも空襲は継続中で、爆弾が炸裂する音と振動が連続し、機関砲弾があたりに降り注いでいたが、彼はそれを意に介さなかった。

 

 火災との戦いは、絶望的なものだった。それでもピエールは逃げ出さなかった。彼はただ、自分の仕事の成果が燃え尽き、自分の手がけた作品たちが死に絶えるのを恐れていた。敵国の生産能力が灰燼に帰し、脆くも喪失する様を見て喜ぶべきなのに、彼はまったくそのような気持ちにならなかった。

 

 いつしか、敵機は任務を終えて去っていた。だが、火はなおも勢いを増していた。煙突が音を立てて崩れ、高熱によって工場の天井が落ちた。ピエールの目から涙がこぼれていた。煙のせいではなかった。彼の心の中は、ただ喪失感と失望と、哀しみに満ちていた。

 

 すると、立ち昇る炎と煙に混ざって、ぽつぽつといくつか、球形の光が現れた。光は激しい気流に乗るようにして急上昇し、頂点に達する寸前で消えていく。数分後には、無数の光が炎上する工場内部から出現した。それはあたかも、夏の夜空の星々の、眩しいまでの強い煌めきのようだった。

 

 ピエールは目を見張った。彼は、その光の正体を即座に理解した。

 

 炎に焼かれた妖精たちが、最後の飛翔を行っていた。ようやく得た自由を謳歌するかのように、妖精たちが業火の中を踊り狂っていた。

 

 その壮絶な美しさに、ピエールは息を呑んだ。

 

 妖精たちの死の舞踏の美しさは、彼がそれまでの人生で見たものすべてに優っていた。そして、おそらく今後の人生でもこれ以上のものを見ることは決してないだろうと、彼は瞬時に確信した。

 

 あの時が、俺の養精家としての絶頂だったのだろう。ピエールは居間の電灯を消すと、寝室へ入った。幼い頃は、親父の作った青い羽の妖精に目を奪われた。学校に入ってからは、かつて一族が生み出した、日光を浴びると虹色に光り輝く透明な羽を持つ妖精に憧れた。親父が死んだ時は、最後の作品である二匹の妖精をこの上もなく素晴らしいものだと思った。

 

 だが、あの炎という華麗な衣装を身に纏った妖精たちの終焉以上に美しいものを、死ぬまでに見ることはあるまい……

 

 工場は丸二日間燃え続け、そして完全なる廃墟と化した。ピエールたちに残された仕事は、焼け跡からまだ使用に耐える機材を運び出し、瓦礫を撤去することしかなかった。工場長の姿はどこにも見えなかった。

 

 ピエールは何も考えず、単調な力仕事に機械的に従事した。おそらく、放心状態だったのだろう。火災を食い止めようとした「英雄的行為」を称えられて、外国人労働者としては初となる労働英雄勲章を授与された時も、彼の感情はまったく動かなかった。

 

 気付いた時には、ゲルゼンキルヒェンの街に連合軍の兵士たちが充満していた。ゲルマニア魔術帝国の無条件降伏によって戦争が終結したのは、それから一ヶ月後のことだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 ピエールは寝室の電灯を点けると、寝台の脇にある机の前に座った。

 

 机の上には一枚の紙が置かれていた。彼はそれを、そっと手に取った。

 

 紙は、匿名の手紙だった。タイプされた文字の列は数行にわたって、仰々しく(なま)な言葉を連ねながら、ある明確なメッセージを彼に告げていた。

 

「祖国の裏切り者、対ゲルマニア協力者、恥ずべき『労働英雄』、ピエール・デュプレシに告げる。ただちに住居を引き払い、この美しきフランク共和国より退去すべし。この雄渾(ゆうこん)なる大地は、汝の住まうべき所に非ず。これは警告であり、最終勧告である。我々は過去五度にわたり、汝に決定的な行動を促した。このうえなお祖国に留まるのならば、我々は終末的懲罰を汝に下すであろう。正義の女神は汝を見逃さず、その鉄槌は必ずや汝の頭上に振り下ろされるものと知れ……」

 

 手紙は、二日前に届けられたものだった。朝刊と共に、それは郵便受けに入れられていた。ピエールはそれを元通りに机に置くと、腕を組んで思考に沈んだ。

 

 連中は、本気だろうか? たぶん、本気だろう。本気で俺のことを憎み、本気で殺そうとしている……

 

 戦争後、祖国に帰還したピエールを待っていたのは激しい敵意と迫害だった。

 

 フランク国の戦後政府が最初に着手したのは、対ゲルマニア協力者のリストの作成だった。政府は、政治や軍事、産業といったすべての分野における「祖国の裏切り者」を探し出し、逮捕して、法廷に立たせた。戦中の対ゲルマニア協力政府指導者たちには例外なく死刑判決が下され、外人部隊としてゲルマニア軍に従軍した兵士たちにも、死刑や重禁錮が課された。

 

 司法による裁きの一方で、私刑(リンチ)もまた横行した。占領軍を相手にして商売をしていた店主や娼婦たちは民衆によって街路に引きずり出され、激しい暴行を受けた。政府はそれを、あえて取り締まろうとはしなかった。忌まわしい密告が蔓延り、多くの罪なき者が協力者としての烙印を押された。

 

 ピエールのゲルマニアにおける働きぶりは、実のところ戦中より知れ渡っていた。彼自身はついぞ見ることはなかったが、報道班員によって撮影されたニュース映画はフランク国内でも上映されていた。空襲時における英雄的な行為によって彼が叙勲されたことも、新聞を通して故郷には伝わっていた。

 

 村に帰って来たピエールを、村長は汚物でも眺めるような目つきをして出迎えた。そして言葉少なく、屋敷を引き払って村から出て行くように告げた。村人たちが、対ゲルマニア協力者と同じ場所に暮らしたくないと口々に言っているというのが、その理由だった。

 

 ピエールが、ゲルマニアへ行く前に村長が「村人にはよく言い聞かせておく」と約束したではないかと詰問すると、村長は蔑みの念を隠さずに言い放った。

 

「そうかね。そういったかね。そういったかもしれないが、私はあんたとは違って記憶力が良くないからな。しかしニュース映画を見たところ、あんたは随分とゲルマニア人のための仕事に入れ込んでいたようだが。それに、死を恐れずに火災に立ち向かって、勲章までもらったらしいな。それほどまでに熱心な対ゲルマニア協力者を擁護するのは、一流の弁護士でも難しいだろうよ。ましてや、学も教養もない私には不可能だね……」

 

 当局には通報しないでおく、同じ村の出身としてせめてもの情けだ。村長はそう言い捨てると、ピエールの前から去っていった。

 

 それから彼は、国内のあちこちを転々とした。捜査関係者の目を逃れ、密告を怖れ続ける毎日は、苦痛そのものだった。ある時は日雇いの労働者に身をやつし、またある時は浮浪者として彼は街から街へと徘徊した。

 

 擦り減り続ける彼の精神の中に未だに残存していたのは、揺らめく炎の中で繰り広げられる、妖精たちの死の舞踏の情景だった。彼は夜ごと、路上で冷たい石畳に身を横たえる度に、あの時のことを夢に見た。それは悲しみと共に、慰めをもたらしてくれた。その夢を見続けるために、彼はもはや無意味なものとなってしまった生を、あえて生き続けることにしたのだった。

 

 数年後にようやく政府が方針を転換し、「協力者狩り」を抑制するようになってから、ピエールは学校時代の教授や同級生たちを訪ね歩き、職を探し始めた。ほとんどの者は彼を敬遠したが、ただ一人だけは同情的な態度を示した。彼はピエールに、所有する地所の一部である田舎家と温室を貸し与え、養精家として再起するよう促した。

 

 以来、ピエールは二十年近くにわたって、ひっそりとここで暮らしてきた。細々と妖精を育て、出荷し、食べるには困らないだけの収入を得る。それが、今後一生続く、ピエールの生活となるはずだった。

 

 ピエールは椅子から腰を上げると、電灯を消し、寝台に身を横たえた。入浴する気にはなれなかった。窓からは冷たい月の光が差し込んでいた。固いマットレスに僅かに体が沈み込むのを感じた途端、鉛のように重苦しい疲労感が彼の全身を襲った。

 

 妖精たちは今頃、ハンノキの枝に腰掛けて、月を眺めているのだろうか。彼は埒もないことを考えた。あるいは、もう眠りについているのかもしれない。仲間たちと肩を寄せ合い、互いに体温を分かち合いながら……

 

 若者たちの間で「協力者狩り」が再流行したのは、ここ一年間のことだった。「当局からの検挙を辛くも逃れたか、あるいは裏取引をして生き残った協力者たちが、現在の腐敗した政財界の中枢に居座り、国を崩壊へと導いている」 そのような言説が熱病のように若者たちの間で広まっていた。良識ある知識人たちは批判したが、却ってそれが若者たちの信念を固めさせてしまった。未だに終息の兆しは見えない。

 

 奴らは来るだろうか? 彼は思った。今晩来るだろうか? それとも明日だろうか? 放火をするのか、あるいは鈍器で殴りつけるのだろうか、それともナイフか……?

 

 疑問を重ねるうちに、ピエールは、半ば眠りの世界へと落ちていた。彼は、失われつつある意識の中で、また朝になれば俺はコーヒーと固いバゲットで食事をし、新聞を読んで震え、それから温室に飼料を運ぶのだろうと思った。午後は温室の掃除をし、夕方にはまた餌を撒いて、夜にはたった一人で食事をするに違いない。

 

 また、俺は一日を繰り返す。それでも良い。いや、そうしないではいられないのだ。

 

 俺はどうしても、妖精から離れられないのだから。

 

 夢の中で、真紅の炎に包まれた妖精たちが踊り狂うのを見ながら、彼はそう呟いていた。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・ほいれんで・くー「また、ピエールは一日を繰り返す」

 2021年3月31日公開。こちらも前作と同じく、『ラインの娘』のために書き下ろした作品です。まさかの総文字数32,000字超え……最初は15,000字くらいを考えていたのに……

 架空の職業を考え、かつ架空の存在の生態を考えるのは、楽しくもあり辛くもありました。もとは「妖精の瓶詰」というアイデアから出発した話でしたが、一人の男性の人生を追うような、長編向けとも言える内容になってしまい、もう少しよく考えてから書き始めるべきだったと反省しきりです。ですがその一方で、なんとなく自分なりのファンタジー作品を書けたような満足感もあります。

 次はまた女の子の話を書きたいところです。次回もお楽しみに。

※加筆修正しました。(2023/07/18/火)
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