ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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35. 導きのダイモニア

 また、佐嘉蓮島(さがれんとう)に秋がやってきた。実り豊かで、それでいて厳しい冬を予感させる緊張感のある秋が、島全体をゆっくりと(おお)おうとしていた。

 

 北国の、さらに北へと海を越えた先にある孤島であるから、八月の終わりと言えども残暑というものはなく、むしろ涼しい風が大気の中を駆け巡っていた。緑の樹々の(きら)めきはそろそろ陰りを見せていて、空の色もいつの間にか青色から灰色へと変わった。丸みを帯びた山々の輪郭は削れて、鋭い直線を描くようになっていた。

 

 志水(しみず)ミノルは、この季節が好きだった。七歳の彼は、この島で生まれ、この島で育ってきた。春は柔らかな若草の中を走り回り、枝葉の中で戯れる小鳥たちの歌声を聞く。夏は虫を採り川で泳ぎ、冬の昼は雪遊びをし、夜は暖かなストーブの傍でまどろむ。それぞれの季節にそれぞれの楽しみがあったが、ミノルにとって秋は格別だった。

 

 というのも秋になると、魚たちがやってくるからだった。彼の生まれ故郷の村の近くを流れる川に、八月下旬から十一月の初頭にかけて、魚たちが海から遡上してくる。その銀灰色のウロコに真っ赤な斑点を散りばめた魚たちは腹を大きく膨らませていて、ひしめき合い、跳ね上げる水飛沫で川面を真っ白にするのだった。

 

 ミノルはその光景を見るのが大好きだった。

 

 魚たちは、サガレンマスの大群だった。海での過酷な生存競争に生き残り、ようやく次世代を産み残せるように成熟して、産卵のために生まれ故郷に帰ってくる魚たちは、その生命における最後の任務を果たそうとしている。そんな魚たちは、島の貴重な漁獲資源だった。

 

 ミノルは今年も、それを見に行きたかった。魚が欲しいわけではなかった。確かに、産卵直前のサガレンマスの肉は脂が乗っていて美味く、食べ切れない分を売れば小遣いにもなる。だが、彼のもっぱらの関心は、魚たちの姿そのものにあった。海水に慣れた魚たちが苦い淡水の中で命の力を振り絞り、また新たな命を生み出そうとするその光景は、幼い彼の純真な精神に強く訴えかけるものがあった。

 

 だが、今年はそれが果たせそうになかった。彼は、学校に行く以外は極力、家にいるように母親から強く言われていた。家にいて、病床に伏している姉の傍にいろと、母親は事あるごとに彼に言いつけた。

 

 ミノルの姉は、結核(けっかく)に侵されていた。姉と彼との歳は十歳も離れていた。色白で、頬の赤い、可愛らしいミノルを女の子にして、そのまま大きくさせたような、そんな美しい姉だった。

 

 ミノルは姉を愛しており、病気を恨んでいた。結核という病気が難しいもので、命を奪うことも稀ではないことを、彼は幼いながらも知っていた。それでも、まだその頃は幸せだったミノルは、きっと姉もいつか回復し、また自分と一緒に遊んでくれるようになると思い込んでいた。

 

 粗末な布団の中に横になり、目を閉じて弱く呼吸をしている姉を見つつ、たまに手拭いで顔を拭う。姉が水を欲すれば台所の水瓶から水を汲み、用便を訴えたら母を呼ぶか、時には自分で処置をする。単調な看病の毎日は、それがどれほど重要なものであると認識してはいても、やはりミノルにとっては退屈だった。

 

 そんな、ある日のことだった。

 

 そわそわとして落ち着かないミノルを見て、この頃では滅多にないことに、姉が言葉を発した。もはや自力で立つことが不可能なほどに衰弱している姉ながら、ミノルが意外に感じるほどにその声は澄んでいて、早朝の冬氷のような透明感を持っていた。

 

「ミノルちゃん。今日は私のことを置いて、川へ行ってマスたちを見てきなさい。ミノルちゃんは、毎年帰ってくるマスたちを見るのを楽しみにしていたものね。お母さんには、私から言っておくから。さあ、私のことは気にせずに、いってらっしゃい」

 

 ミノルは一瞬、逡巡した。母からは、どんなことがあっても姉の傍から離れるなと言われている。数年前、不幸な事故で夫を亡くした母は、これ以上家族が失われることに強い恐怖心を抱いている。姉本人から許しを得たとは言え、勝手に川へ行ったとなれば、母はどれだけ怒るだろうか。そのような内容のことを、彼は幼い言葉と幼い思考力で考えた。

 

 だったら、母さんにもいちおう、川に行くと言っておくべきなのかな? でも……きっとお母さんはダメだって言うだろう……もじもじとして、ありありと顔に思案の色を浮かべているミノルを見て、姉は微かに笑みを浮かべた。

 

「大丈夫よ、ミノルちゃん。これまで私がミノルちゃんに言ってきたことで、なにか間違ってたことはあった? これまで私の言葉で、ミノルちゃんが損をしたことは一度もなかったでしょう? だから、今回もきっと大丈夫よ。さあ、いってらっしゃい。お母さんに見つからないように、こっそりと行くのよ。許しをもらいに行ったら、きっとお母さんは許してくれないだろうから……」

 

 ミノルは頷くと、姉の汗を拭き、新しく水を椀に汲んで枕元に置いた。そして彼は、姉に無言で視線を送った。姉が微笑みつつ軽く頷き返すのを見ると、彼はそろそろと音を立てないようにして、晴れた戸外へと足を踏み出した。

 

 道は平坦で、乾いていた。時々、馬糞と牛糞が落ちているのが目についた。大きな蠅が飛んでいった。秋草が伸びていて、葉の先は黄色になって乾燥していた。それはやはり生命の一局面だった。しかしミノルは、そんな光景にはあまり興味がなかった。彼はあまりにも若く、幼かった。

 

 三十分ほど歩くと、ミノルは川に着いた。既に午後を少し回っていた。川は、彼の思ったとおり大量の魚たちでひしめき合っていた。村の映画鑑賞会で、帝国首都の雑踏を映したニュース映画を彼は見たことがあった。あれはあれですさまじい人混みだったが、この川ではあれとは比べ物にならないほどの生命の大混雑が起こっていた。魚たちは身をよじり、尾をくねらせ、懸命になって卵を産みつけるための柔らかい砂地を得ようとしていた。

 

 不思議なことに、普段は必ず数人はいる大人たちの姿は見えなかった。今日はたまたま、自分一人だけらしい。ミノルは満足げな顔をした。

 

 ミノルは、やはり姉の言うことを聞いて良かったと思った。大人たちは特に卵で腹が膨らんだメスを狙い、乱暴な手つきでタモや鉤棒(かぎぼう)を用いて魚を捕まえ、大八車(だいはちぐるま)に無造作に積み上げていく。ミノルはそれを見るのが嫌いだった。赤ちゃんをこれから産むお母さん魚を狙い撃ちするのはこの上もなく卑怯で卑劣な行為であると彼は感じていた。それを見なくて済むとは、やはり今日は恵まれていた。ミノルはそのようなことを感じた。

 

 ミノルは飽きることなく、魚たちの最後の苦闘を眺めていた。そよそよと風が吹き、ミノルの赤い柔らかな頬を撫でた。風は柔らかだったが、老いていた。川のせせらぎに魚たちの立てる命の営みのざわめきが混ざっていた。どこか単調なその音の響きに聞き入っていると、学校では長く感じる時間も、あっという間に過ぎ去っていくようにミノルには思われた。

 

 そろそろ日が傾き、黄色の光線が(くれない)(まじ)えつつあった。風の匂いも変わり、夜の訪れを予感させた。風は冷たく、厳しくなっていた。

 

 突如、誰かがミノルの傍らに立つのが感じられた。はっとして彼が隣を見ると、そこには姉がいた。不可解なことに、姉は元気だった頃の顔つきをしており、細い優美な体に薄い白の寝巻を纏っていた。危ういまでの儚さを帯びた、美しい姉の姿だった。姉はミノルに言った。

 

「ミノルちゃん。マスたちは元気? ああ、元気そうね。あんなにたくさん群れて……」

 

 姉はミノルの隣に腰を下ろすと、一緒になって川を眺め始めた。しばらく二人は、何も言わずに川を見ていた。ミノルが顔を窺うと、姉は嬉しそうな表情をしていた。姉はミノルを見て、笑った。

 

「私もマスたちが大好き。慣れ親しんだ世界で生まれ育って、知らない海に出て大きくなって、また生まれ故郷に戻って子どもを残す。魚たちの中にも職業があるとしたら、きっとマスたちは冒険家ね。私も、この島から出てみたかった。外の世界で色々なことを知って、またこの島に帰ってきたかった……」

 

 その言葉の後、しばしの間、沈黙が二人を満たした。やがて、姉が口を開いた。

 

「さあ、そろそろ帰りましょう。お母さんが待っているわ」

 

 なぜ、姉さんはここに来たのだろうか。姉さんはもう、立てないのではなかったのか。疑問に感じたが、ミノルは素直に姉に従った。姉は彼に手を差し伸ばした。彼はその手を握った。きっと冷たいだろうと彼は予想していたが、手はあたたかかった。二人は手を繋いで、家に向かって歩きだした。

 

 姉の足取りはしっかりとしていたが、足音がなく、どこか滑るような感じだった。風が姉を運んでいるようだった。

 

 歩いている最中、二人は無言だったが、ミノルは嬉しさと喜びを感じていた。姉さんと一緒にマスたちを見ることができて、こうして一緒にまた歩いている。きっと姉さんは、今日は特別に具合が良かったのだろう。家に帰ったら、母さんも喜んでいるに違いない。ミノルの表情がほころんだ。そんなミノルを見て、姉もまた笑顔を浮かべていた。

 

 家まであと半分というところに来て、姉が歩みを止めた。そして、ミノルの肩に手をやると、優しい顔つきながらもどこか決心したような様子の声で、姉は彼に語りかけた。

 

「ミノルちゃん、これから何か困った時、悩みを抱えた時は、私が必ず声をかけてあげる。その声に従うか、従わないかはミノルちゃんの自由だけど、絶対にミノルちゃんを傷つけることはないはずよ。私の声を聞くのよ。よく覚えておいてね」

 

 ミノルは、なぜ姉が声のことを云々言うのか、分からなかった。それでも彼は頷いた。姉も頷き返すと、また言った。

 

「それから、お母さんを助けてあげてね。お母さん、きっと悲しむだろうから……」

 

 そう言って、姉はミノルの額に軽く接吻した。柔らかくも、冷たい唇だった。姉は言った。

 

「今までありがとう、ミノルちゃん。元気でね。いつも私は、ミノルちゃんと一緒にいるからね……」

 

 言葉が終わるのと同時に、姉の姿は透け始めた。透けるのと共に、姉はどんどん小さくなっていった。驚いて半開きになったミノルの口の中へ、小さくなった姉は階段を昇るように一歩一歩しずしずと進み、入って消えてしまった。

 

 気づいた時には、ミノルは一人で家の前にいた。縁側には近所の大人たちが大勢集まっていた。家の中から、誰かの大きな泣き声が聞こえてきた。それは、母のものだった。

 

 姉は、ミノルが外に出た二時間後にひっそりと息を引き取っていた。ミノルが帰ってきたことを他の大人から告げられると、母は泣きながらミノルを平手打ちし、そして強く抱きしめた。

 

 ミノルは、あえてそれまでのことを母に話さなかった。布団に横たわる姉の顔に、白い布が被せられていた。それを見た時、急速にミノルの世界が崩れ、おぼろげな輪郭だけとなり、曖昧な印象の集合体と化した。頬に受けた鋭い痛みだけが、彼に確かな感覚を告げていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 戦争は最終局面を迎えつつあった。

 

 帝国は、喘鳴にも似た、低く聞くに堪えないほどの断末魔の呻き声を発していた。海と陸と空で、何年間にも渡って繰り広げられ、数百万にものぼる生命を飲み込んだ戦争は、結局のところ、国土の荒廃と国家の破滅以外、何ももたらさなかった。

 

 帝国最北端の佐嘉蓮島(さがれんとう)でも、それは同じだった。敵の大軍が突如として国境を越え、海を渡って押し寄せ、防衛部隊は短期間のうちに撃破された。一般住民は脱出のための船を求めて、島南部にある大泊港(おおどまりこう)へ殺到した。

 

 ミノルもまた、そんな避難民の一人だった。彼は佐嘉蓮(さがれん)第一中等学校の校章が襟についた開襟シャツを着ていて、泥に汚れた紺のズボンを履いていた。彼は三日前に十六歳になったばかりだった。腰には護身用の、鞘に収められた刃つきの銃剣が下がっていた。母親似の彼は色白で、優しい顔立ちをしていたが、今は疲労と緊張によってその表情を青ざめさせていた。

 

 ミノルはたった一人で、埠頭を埋め尽くす群衆の中に混ざって、ぼんやりと港の状況を眺めていた。周囲には人々がひしめき合っており、体をほんの少し動かすだけの余地もなかった。垂れ流された汚物の臭いが生臭い潮風と混ざり、耐え難いほどの悪臭を彼の鼻腔に届けていた。ふと彼は、今後の人生においてもこの臭いだけはきっと忘れないだろうと思った。

 

 港は、惨憺たる有様だった。重厚な三十トンクレーンは赤錆びていて動くことはなく、立ち並ぶ倉庫は一つの例外もなく屋根が破れていた。球形の燃料タンクは連日の空襲で既に爆砕されていて、今は濃い青紫色の煙を上げて燻ぶっていた。帝国最北端の巨大港の威容は、もはや見る影もなかった。

 

 突然、轟音が港一帯に木霊(こだま)した。地面に座り込む避難民たちは、音に驚いたように一瞬身じろぎをしたが、すぐにまた俯いてしまった。

 

 ミノルは、その音が発せられた方向へ目をやった。港外から一キロメートルほど離れたところに、一隻の巡洋艦が浮かんでいた。巡洋艦は数隻の小型艇と共に微速で航行しつつ、盛んに主砲から砲弾を発射していた。オレンジ色の砲弾は高く弧を描き、蒸気機関車が驀進するような音を立てて、遥か港後方の街道へ向かって飛んでいった。

 

 ミノルのすぐそばにいる総白髪になった年配の男性が、傍らに座る妻に向かって、安心させるような口調で言った。

 

「あれは一等巡洋艦の『浅間(あさま)』だ。主砲の口径は二十センチもある。艦砲射撃で敵を追い払ってくれているんだ。あの巡洋艦がいる限り、わしらは安全だ。安全に脱出船を待てる……」

 

 だが、男の妻はそれを聞いていないようだった。彼女は虚ろな目だった。彼女は意味の通らないことをブツブツと呟きながら、子ども用の短いマフラーを指先で弄っていた。それは赤い毛糸の、手編みのマフラーだった。マフラーには乾いた泥がびっしりとこびりついていた。

 

 おそらく孫か子どものマフラーなのだろうとミノルは思った。季節は秋にさしかかり、佐嘉蓮島(さがれんとう)には涼風というには些か冷たすぎる風が吹くようになっていた。丹精込めて編まれたマフラーは、着用する子どもに温もりと安心感をもたらしたことだろう。

 

 その当の子どもがいないことにミノルは違和感を覚えた。だが、数秒間思考を進めるうちに、やがてそれも解消した。きっと、子どもは助からなかったのだろう。彼はそう思った。ここに来る途中、砲撃か、それとも敵機の機銃掃射かを受けて、子どもは死んでしまったのに違いない。死体を運ぶわけにはいかず、男の妻はせめてもの形見として、今は物言わぬ(むくろ)となってしまった子どもの首から、マフラーを抜き取ったのだろう……

 

 鋭い、刺すような罪悪感が、ミノルを(さいな)んだ。なぜ、戦うことのできる自分がここにいるのか? 自分もあの時、仲間たちと共に戦うことを選んでいたなら、少しでも敵の進撃を食い止めることができたのではないか? そうしたらこの女性の子どもも、きっと死なずに済んだのではないだろうか……?

 

 いや、あれはあれで良かったのだ。ミノルは考え直した。自分は()に従った。声に従った結果、命を長らえて、今ここにいる。()()()が告げることに、間違いはない。これまでにも間違いはなかったし、これからも間違いはないのだ。そのように強いて自分自身に言い聞かせることで、彼は摩耗した精神の均衡をなんとか保とうとした。

 

 殷々(いんいん)たる砲声が連続していた。灰色の巡洋艦は、煙突から重混合濃縮エーテル液が燃焼する青紫色の排気煙を盛んに吐き出し、重厚な主砲塔を旋回させ、砲弾の雨を敵に向かって送り込んでいた。

 

 着弾の衝撃と戦闘騒音が、地面を揺らす振動となってミノルのもとに伝わってきた。今も街道上で絶望的な防戦を行っている友軍部隊のために、海上の艦は単独で奮闘していた。

 

 最後まで味方は、誰からの盾となり、誰かを救うために戦っている。それなのになぜ、自分はここにいるのか? 堂々巡りだった。幾度繰り返したか分からない同じ問いを、ミノルはまた自分自身に投げかけていた。

 

 そうだ、今からでも遅くはない。今すぐにでもここから抜け出して、また友軍の陣地にでも入り込もうか? 先ほど自分を納得させたはずなのに、ミノルは再度そう思った。だが、彼の足はまったく動かなかった。彼は改めて周りを見た。港のありとあらゆるところに充満している避難民の群れを無理矢理掻き分けていくのは、それだけでも大変な困難を予想させた。

 

 ミノルは、自分の中に気力らしきものの片鱗すら見えないことに気づき、内心で苦笑した。

 

 自分はどうやら、言い訳を探しているらしい。彼はそう思った。あの戦場に戻らなくて良いと納得できるだけの口実を、自分は探しているのだ。どれだけ心の中で避難民たちに申し訳ないと思っていても、その彼らを口実の一つとして実際の行動に移さないでいるのは、本心ではもう戦いたくないと思っている証拠ではないか。

 

 罪悪感も、使命感も、何度も何度も繰り返す自問自答も、つまるところは恐怖をごまかすためのごく表面的なものでしかなかったのだ。ミノルは諦念と共に納得した。

 

 あの時、軍服を脱ぎ、中学校の制服に着直した段階で、自分はもう心の底から戦うことから離れてしまったのだとミノルは思った。

 

 それに、()が告げることは絶対なのだ。自分がいくら後ろめたさを感じたとしても、それは一時的なものに過ぎず、後になればきっと自分の行動は正しいものだったのだという確信が得られる。今はただ、耐えるしかない……

 

 およそ二時間、巡洋艦は主砲を放ち続けた。やがて弾薬が尽きたのか、避難民たちの守護者である灰色の軍艦は港外を離れ、山の影に隠れて見えなくなった。

 

 それと入れ違うようにして、一隻の輸送船が現れた。初めは水平線上に煙だけが見えた。次第にマストの先端がはっきりとした輪郭を纏い始め、ついには、白くゆったりとした幅の広い船体が近づいてくるのが望見できた。それは避難民たちに待ち望まれていた、脱出船だった。

 

 船が港へ近づいてくるにつれて、避難民たちの中から葉擦れのようなざわめきが湧き起こり、徐々に大きくなっていった。三日間待ってようやく出現した救いをもたらす存在を目にして、飢えと疲労に精神を消耗させた群衆も、一時的に活力を取り戻したようだった。

 

 船は、排水量二千五百トン級のC級戦時標準型輸送船である、神明丸(しんめいまる)だった。輸送船はのろのろと、どこか気怠げな船足で港に入ると、器用に舵を操って、細長い桟橋にその巨体の左舷側を横付けした。タグボートはいなかった。白いと思われたその船体は、近くで見ると、錆によって茶色く汚れきっていた。

 

 船員たちの手によって、見上げるほど高い舷側に、何本ものロープと縄梯子が下された。その一本を伝わって軽やかな身のこなしで降りてきた船員の一人が、黒いメガホンを口に当てて、海に生きる者特有の良く通る張りのある声で告げた。

 

「手荷物は一人につき一つだ! 残りは捨てろ! 老幼(ろうよう)婦女子を優先して乗船させる! 男は後だ! 順番を守って、秩序正しく行動しろ……!」

 

 船員の指示にもかかわらず、避難民たちの乗船は秩序を保ったものとはならなかった。ミノルは、前へ前へとどうしようもなく押された。なぜこの人々は言われた通りにしないのかと、彼は不思議に思った。群衆というものが本来的にある種の物理的な力を有しており、たとえそれが個々の人間から構成されているとしても人為によって制御することが到底不可能であることを、彼はおぼろげながらに知った。

 

 縄梯子に避難民たちが群がり寄り、ロープにも男女を問わず人が取りついていた。最初は怒声を張り上げて指示に従うよう促していた船員たちも、今ではただ黙々と、船上に人びとを迎え入れていた。

 

 見た限りでは粛々と乗船が続いていたが、その裏には言い知れぬ緊張感と焦燥感が隠されていた。それはいつ弾け、恐慌へと転じるとも知れなかった。

 

 ミノルは比較的早く、縄梯子に手をかけることができた。彼はやはり若かった。彼は苦もなく縄梯子を登った。甲板上に降り立った時、まだ人はそれほど多くなかった。彼は船倉内には入らず、右舷側へと移動し、リュックサックを両手で抱え込んで、短艇の脇に腰を下ろした。彼は疲労を感じた。そのうえ、ようやく脱出船に乗ることができたという安心感が、それまで忘れていた飢餓を思い出させていた。

 

 リュックサックを開けて、ミノルは中から乾パンの袋を一つ取り出した。ここに来る前に、中隊本部でもらい受けた乾パンだった。粗末な麻の袋の紐を解き、半ば湿気で柔らかくなった乾パンを一つつまみ上げた時、ミノルは一つの視線を感じた。

 

 右を見ると、そこには小さな男の子がいて、黒目勝ちの大きな瞳で彼を見ていた。正確には、彼が持つ乾パンを見ていた。頭には土埃で茶色く変色した防空頭巾を被っていて、垢と汗で汚れた小学校の制服を着ていた。

 

 彼は迷った。今後、食料をどこで得られるかは分からない。この混乱した船の状況では、食事を配給してもらえるかどうかも不明だ。誰かに食べ物を分け与えることは、平時においては美徳であるが、命を保つべき非常時においては愚かしいものとなる。

 

 男の子は、なおもミノルを見ていた。どうしようかと、心が迷いの投網に捕らわれかけたその時だった。彼の頭の中で、ある声が響いた。それは女性の、清らかで優しい声だった。

 

「あげなさい、ミノルちゃん……あげるのよ……その子はあなたに幸運をもたらすのだから……」

 

 その声を聞くと、彼の心は瞬く間に安心感に満たされた。ミノルはにっこりと、自然に笑顔を浮かべた。彼は言った。

 

「あげるよ。こっちにおいで」

 

 そう言って乾パンを差し出すと、男の子は無言で、おずおずと手を伸ばし、乾パンを受け取った。礼を言うこともなく、男の子は乾パンを齧り、小さな口いっぱいに頬張って、ボリボリと音を立てて咀嚼し始めた。ミノルはそんな男の子を見て、失われかけていた自尊心がほんの僅かながらに戻ってきたように感じた。

 

 食べ物を失ったが、心は豊かになった。やはり、声の言うことは正しい。

 

 さらに袋の中身を三分の一ほど与えると、男の子はどこかへと去っていった。親はどうしたのだろうかと、ミノルはぼんやりと思った。男の子は六、七歳くらいで、しかしその年齢の割には落ち着いていた。いや、落ち着いているというよりも、男の子は空虚だった。男の子は何も考えていないような顔をしていた。その目は無だった。感情らしきものの片鱗すら窺えなかった。

 

 ここに来るまでに、親とはぐれたのかもしれない。ミノルは港に視線を転じながら、考えを続けた。いや、はぐれたのならまだマシかもしれない。男の子は親の死を目の当たりにしたのかもしれない。彼が歩いた大泊港までの街道は、地獄さながらだった。空には敵機が乱舞し、敵の野砲が砲弾の雨を降らせていた。男の子がここに来て脱出船に乗ることができただけでも、充分に奇跡的だと言わなければならないだろう。

 

 肉体が死ぬことはなかったが、精神は死んでしまったのかもしれない。ミノルは男の子を気の毒に思った。

 

 港外には、いつの間にか巡洋艦が戻っていた。陸上への援護射撃のためかと思われたが、主砲が火を噴くことはなかった。やはり、弾薬を撃ち尽くしているのだろう。そうなれば、敵は街道に戦車を突入させてくるに違いない。早晩、この港も敵の手に落ちるだろう……ミノルはそこまで考えて、あえて思考を打ち切った。考えて何になる? それは自分の力でどうにかなることか?

 

 船はすでに満員になりつつあった。だが、桟橋と埠頭にはまだ多くの人々が残っていた。敵が彼らをどうするのか、考えるまでもなかった。

 

 すると、突然、巡洋艦の煙突から吐き出される煙が濃さを増し、艦首が立てる波が大きくなった。取り巻きの小型艇も動きが激しくなり、海面をのたうつように走り回った。乗員が機関砲座に走り、上空に向けて指をさし、顔を向け、互いに大声で何かを叫んでいる様子が見てとれた。

 

 ミノルもそれを見て、はっとなって空を見上げた。姿は見えなかったが、どこかから遠く、爆音が響いてきた。それは嫌になるほど聞き慣れた、敵機の水冷ピストンエンジンの駆動音だった。

 

 緊張に身を固くし、一言も発さず、ミノルはその時が来るのを待ち受けた。数秒後か、それとも数分後だったか、敵機は山の影から出し抜けに姿を現した。十機ほどの敵機は、大型の爆弾を胴体の下に抱えていた。

 

 その時になってようやく、避難民たちからざわめきが湧き起こった。巡洋艦が対空砲を射撃し始めた時、ざわめきに悲鳴が混ざった。

 

 堂々と飛んできた割には、敵機の動きは統制を欠いていた。数機は巡洋艦に向けて突進し、残りは攻撃をするでもなく、円を描くようにして上空を飛んでいた。敵機が射程内に入るや、巡洋艦と小型艇は一斉に対空砲の火網を空に張り巡らせた。緑色のバリウム塩の閃光は花火よりも陰惨だった。

 

 それでも敵は怯むことなく、巡洋艦に向けて急降下し、爆弾を投下した。メインマストよりも高い水柱が何本も立ち昇り、それに隠れて艦の姿は見えなくなった。

 

 数回の瞬きを挟む間に、巡洋艦はまた姿を現した。どうやら被弾したようで、艦の中央部に火災が発生していた。それでも戦闘力に影響はないらしく、艦は対空砲をなおも撃ち続けていた。遅れて攻撃を始めた敵のうちの一機に対空砲が直撃し、燃料が漏れる白煙を引いたその次の瞬間には、敵機は紅蓮の炎を噴いた。

 

 炎上しつつ墜落する敵機は、鋭角を描いてまっしぐらに地面に向けて突き進んだ。落ちた先は海面ではなく、避難民が密集する港の埠頭だった。爆炎が閃き、鈍い爆発音が響いた。ミノルは、人々が墜落に巻き込まれて四散するのを、確かにその目で見た。彼は思わず目を逸らした。

 

 ふと気が付くと、ミノルの隣に、先ほど乾パンをあげた男の子が寄り添っていた。男の子はぶるぶると震えていた。その目は相変わらず虚ろだったが、その様子を見れば、男の子が強い恐怖を感じているのは明白だった。

 

 ミノルは立ち上がって男の子を抱きしめると、背中を何回か優しく(さす)り、一緒になって腰を下ろすように促した。男の子は素直に従った。尿の匂いがつんとミノルの鼻をついた。彼はそれがまったく気にならなかった。

 

 敵機の数は、いつの間にか増していた。被弾し、なおも炎上している巡洋艦は、必死に対空戦闘を繰り広げていた。次第に敵機は巡洋艦に集中攻撃を加え始め、ついに、ひと際鋭い飛行をする一機から放たれた巨弾が、艦中央部の主要装甲帯を貫いた。

 

 巡洋艦は大爆発を起こし、瞬時に左舷側へと傾いていった。水兵たちが海に飛び込むのが見えた。艦は横転の度合いを見る見るうちに高め、数分後には赤い防錆塗装が施された、フジツボに覆われた艦底を見せた。転覆した巡洋艦はしばらく浮かんでいたが、敵機のトドメの爆撃を受けて、ついに海中にその身を没した。

 

 小型艇が狂ったように走り回り、対空機銃を撃ちまくりながら、漂流している巡洋艦の生存者を拾い上げていた。敵機はなおも空を乱舞し、目につくものを片端から攻撃し始めた。埠頭に無数の爆弾と機関砲弾が降り注ぎ、逃げ惑う避難民たちを殺戮した。ミノルはその間ずっと、抱きかかえている男の子の目を手で塞いでいた。

 

 敵機は、次にこの脱出船を狙うだろう。まだ攻撃が来ていない今のうちに、下船して逃げるべきではないだろうか。ミノルはそう思った。爆発音と、悲鳴と叫喚と、焦げ臭い硝煙の臭いの全てが、どこか遠く感じられた。麻痺しつつある精神の中で、ただ男の子の温もりだけをミノルは感じていた。

 

 また、ミノルの頭の中で声が聞こえた。風の中に消えゆく小鳥の歌のような、幽かなメロディーにも似た声は、いつもと同じく確かな自信を秘めているようだった。

 

「船を降りては駄目よ。船に乗っていなさい。この船はきっと大丈夫。船倉に入るのよ、男の子と一緒に……」

 

 ミノルは気を取り直した。男の子を抱えると彼は立ち上がり、船倉内へ向かって走った。甲板にいては、流れ弾が飛んで来ないとも限らない。それにミノルは、これ以上男の子に殺戮の空気を味わわせたくはなかった。

 

 梯子を下りた先にある船倉は、錆と油と、重混合濃縮エーテル液の甘ったるい臭いに満たされていた。大勢の避難民がすでにそこにいた。人々から発せられる熱気によって蒸し風呂のようになっている空間に、ミノルは言いようのない不快感を覚えた。これは、耐えきれない。思わず、彼は外に出ようとした。

 

 ミノルはふと、足を止めた。だが、声の言うことに間違いはないはずだ。彼は思い直した。声を信じるならば、この戦場の中で、一番安全なのがこの船倉のはずだ。

 

 彼は改めて船倉内を見渡した。四段重ねの木製の寝棚がぎっしりと詰め込まれており、避難民たちはその中に身を横たえるか、寝棚と寝棚との間の狭い通路に腰を下ろしていた。外から響いてくる爆音は、鉄の船体が一種の共鳴器となって奇妙に歪曲し、恐怖をなおさら掻き立てた。避難民たちは一様に微動だにせず、しかし目を見開いて、嵐が過ぎ去るのを待つように息を潜めていた。

 

 ミノルは素早く周囲に目を配り、船倉の一番奥にまだ誰も占有していない寝棚があるのを発見した。彼は男の子を盾のようにして持ち上げると、通路を塞ぐ避難民を押しのけ、そこへ向かって突き進んだ。男の子を最上段の寝棚に押し込むと、ミノルもまたそれに続いて棚を登り、身を滑り込ませた。

 

 外から響いてくる騒音は、ますます激しさを増していた。いつ爆弾が降ってきて薄い甲板を突き破るか知れなかったが、ミノルはどこか安らぎにも似た気持ちを抱いていた。

 

 ようやく、横になることができた。彼は思った。ここ数週間、こうして寝ることもできなかったのだ。爆弾はきっと、当たることはあるまい。()の言うことは絶対だ。()はいつも、自分を守ってきてくれたのだから……

 

 男の子が、ミノルの体にぴったりと身を寄せてきた。彼はそれを煩わしいと思うこともなく、抱き返した。

 

 ミノルは、狭い空間の中で苦労してリュックサックを開けると、中から黒飴の袋を取り出し、その一個を男の子に与えた。男の子は飴を頬張ると、しばらく甘みをじっくりと味わっていたが、やがて眠気が勝ったのか、口をぽかんと開けて眠ってしまった。よだれに塗れた小さな飴が、男の子の口から零れ落ちた。

 

 ミノルもまた、睡魔に身を任せつつあった。腰に提げた銃剣の固さも、今は気にならなかった。

 

 きっと寝てる間に船は出港するだろう。敵機の攻撃を受けることもなく、故障もなく何事もなく、船はエンジンを始動し、海へ向けてまた走り始めるだろう。千島道(ちしまどう)本島まで、船ならば一日半で到達する。きっと、起きた頃には船は稚内港(わっかないこう)に入っているに違いない……

 

 故郷を離れて、未知の土地に行く。生活の目途は立っていない。その不安がないでもなかったが、それが大きくなる前に、ミノルは夢の世界へと落ちていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 現実が具象の要塞であるならば、夢は記憶の迷宮なのだろうか。ミノルは夢の中で、これまでのことを追体験していた。

 

 姉が死んだ後、ミノルの母もまた健康を崩してしまった。母は再婚話も断り、亡き夫と娘の思い出を抱いて、日々懸命に働いてミノルを育てていたが、元よりさほど強靭とも言えない肉体は過剰な労働を許容できなかった。

 

 母親が罹患したのもまた、結核だった。母は家を引き払い、懇意にしていた村の寺の、別院の一室に新たに居を定めた。ミノルもまた、寺で寝起きをするようになった。

 

 ミノルは姉の時と同じように、母を看病した。学校が終わるとすぐに母の元へ行き、汗を拭い、水を汲み、排泄物の処理をする。寺の住職をはじめとして、村民たちは皆親切で、食べ物や金を出し合ってはミノルと母を助けた。村民たちは医者を呼び、薬代まで負担してくれた。しかし、母の健康状態は思わしくなかった。

 

 村人たちはほぼ例外なく、ミノルの家族に同情的だった。彼らは心の底からミノルたちのことを気遣っていた。それは、ミノルの父のおかげだった。

 

 ある冬、ミノルがマスを見るところとは別の川で、水死者が出た。それは村でも人気の若い男で、冬の嵐で壊れかけた橋を修理しようとし、冷たい川に落ちたのだった。川はさほど深くはなかったが、岩に頭を強く打ち付けたらしく、男はいつまでも浮かんでこなかった。

 

 男と許嫁の娘が髪を振り乱し、彼を探してと泣き叫ぶのを聞いて、ミノルの父は何も言わずに川へ入った。父は何日も川に向かい、長時間水に浸かって長い棒を使って川底を探り、ついに死体を見つけ出した。もとより父は、このような時には身を挺して働く性格だった。

 

 父はその後、高熱を発し、ほどなくして重い肺炎を併発して、あっという間にこの世を去った。村人たちはそれ以来、ミノルの家を何かと支援するようになった。それは金銭や食料だけではなかった。姉が亡くなった時の葬儀も、盛大ではなかったが古式に則ったもので、手厚く遺体は葬られた。村人たちがミノルの母にしきりと再婚を促したのも、ひとえに安定した生活を送ってほしいという親切心からだった。

 

 母親の病状は、日に日に悪化していた。最初の頃、母はミノルが学校から帰ってくると寝床から起き上がって彼を抱きしめ、頭を撫でながら今日は学校で何を習ったのか、虐められなかったか、先生の言うことをちゃんと守っているか、などと話をしていた。それも、数ヶ月が経つ頃には不可能になってしまった。

 

 母はよく、横になりながらミノルに言った。

 

「村のみんなに申し訳なくてねぇ。こんなに良くしてもらっているのに、私はいっこうに良くならない。せめて、何か恩返しでもできれば良いんだけど……あんたはまだ小さいし、私はこんな状態だし……ああ、何かできればねぇ……」

 

 ミノルも母と同じ気持ちだった。曲がりなりにも日々学校に通うことができ、食事にも困らず、それに本もノートも鉛筆も買ってもらえる。修身の授業では、もっと貧乏で過酷な目に遭っている子どもの話をよく聞かされているが、それに比べて自分はなんと恵まれているのだろう。亡き父については、まだ物心つく前に死んでしまったため覚えていないが、自分も父と同じように村に何らかの形で貢献したい。そのようなことを、ミノルは未熟な言葉と未発達の思考力で考えたりした。

 

 そんな毎日が続き、そして一つの事件が起こった。

 

 ミノルがそろそろ十歳にもなろうという、ある夏の真っ盛りの時だった。村の女の子が一人、行方知れずになった。女の子は近くの山に友達の三人と一緒に山菜採りに入り、そして姿を消してしまった。村は大騒ぎとなり、急遽青年団が召集されて山狩りが行われた。それでも女の子は見つからなかった。

 

 そろそろ三日が経とうかというその日の夕方、ミノルは下校途中、思いあぐねていた。彼には、女の子がいそうな場所について見当がついていた。それは子どもたちの間で密かに噂になっていたことで、山道を外れて「決して行ってはならない」と強く親たちから注意されている一本の獣道を進んでいくと、小さな沢があり、その周辺には価値の高い珍しい山菜が密生しているというのだった。

 

 一度そこに行ったことがあるという子どもから、ミノルは詳細な行き方を教わっていた。だが、道は険しく、鬱蒼とした樹々の中は妖怪が出るのではないかと思われるほど薄暗く不気味で、何より危険が多いという話だった。

 

 女の子は、そこへ行ったのではないだろうか? 女の子は従順で物静かな子で、臆病な性格だった。まさか自分からその場所へ行くことはないだろうと思われたが、ミノルはなんとなく、そこに彼女がいる気がしてならなかった。大人たちもいずれはそのことに思い至って、その沢へ探しに出かけるだろうが、それまでに女の子は死んでしまうかもしれない。

 

 大人たちに教えるべきだろうか? ミノルは迷った。だが、禁じられた場所にしばしば子どもたちが足を踏み入れていたことが分かれば、大人たちはきっと怒るだろう。それを大人に教えたということが子どもたちにバレれば、自分は仲間外れにされてしまうかもしれない。ただでさえ普段から負い目に似たものを感じているのに、その上学校での居場所まで失くすのは、小さいミノルにとって考えたくもないことだった。

 

 突然、耳鳴りがするのを彼は覚えた。思わず彼はよろめいた。高く、鋭い耳鳴りが止んだ後、ミノルは空気が澄み、一切の音が消え、その次に心臓が血液を送り出すような、気泡が弾ける音を聞いた。

 

 これまで体験したことのない事態にミノルは立ち竦んでいた。すると、今度は彼の頭の中に、ある声が聞こえてきた。

 

「ミノルちゃん、今すぐ大人たちに女の子の居場所を教えなさい。女の子はそこにいます。大丈夫、ミノルちゃんが仲間外れにされることはないわ。ミノルちゃんは正しいことをするのだから……」

 

 声を聞いた瞬間、ミノルの心の中に恐怖の念が湧き起こった。しかし、彼はその声に聞き覚えがあった。声だけではなかった。その優しく語りかける話し方は、彼がかつて慣れ親しんだものだった。

 

 声はしばらく彼の頭の中に響いていた。それが終わると、彼は青年団の本部へ足を向けた。その足取りは、しっかりとしたものだった。

 

 ほどなくして、女の子は無事に発見された。女の子は疲労と渇きと飢えによって衰弱していたが、怪我もなく、数日寝込んだ後に完全に回復した。事件が解決すると、ミノルたちは教師によって呼び集められ、叱られた。だが、その件はそれで終わりとなった。子どもたちも、ミノルを恨むようなことはなかった。

 

 ミノルの一報によって女の子が助かったことで、ミノルは僅かながらでも村に恩返しができたと思った。それは決して彼の思い込みではなかった。村人たちは、ますますミノルとミノルの母への援助を惜しまなくなった。

 

 母が長い闘病の末についに亡くなった後も、村人たちは葬儀の費用を出し合い、村長に至ってはミノルが今後も学業を続けられるよう、家に引き取ってくれた。

 

 家族をすべて失ったミノルだったが、彼は寂しくはなかった。村長一家は彼を家族の一員として扱ってくれたし、何より、困った時にはいつも()()()がミノルを助けてくれたからだった。

 

 ミノルは成長し、小学校を卒業した。さらなる勉学を続けようと中等学校への進学を考えた時、彼はまた、これ以上は村長に負担をかけずに、早く働き始めたほうが良いのではないかと葛藤した。

 

 その時も声は、彼の背中を後押しした。

 

「ミノルちゃん、勇気を出して村長さんに頼んでみなさい。ミノルちゃんは優しくて、真面目で、一生懸命だから、きっと村長さんは喜んで中等学校に行かせてくれるはずよ……勇気を出して……」

 

 声の言うとおりだった。村長はミノルの向学意欲をことのほか喜び、進学を即座に許した。

 

 彼が進学した佐嘉蓮(さがれん)第一中等学校は村から遠く離れた町にあった。ミノルは学生寮に入った。

 

 生まれ育った村とは違い、その学校は非常に厳しかった。頻繁に体罰が行われ、成績が悪いと容赦なく落第となった。ミノルはそれらによく耐えた。だが彼は、軍事教練を担当する配属将校だけは苦手だった。色白で女の子のように可愛らしいミノルは、その頃は西洋文学に熱中するようになっていたが、頭の禿げた中年の配属将校はそんな彼が気に入らず、軍事教練で執拗に彼を痛めつけた。

 

 慣れない生活と過酷な学業、ストレスを与えてくる配属将校のせいで、ミノルはすっかり弱気になってしまった。精神状態を反映して、成績も振るわなくなっていた。

 

 いっそのこと勉強をすべて諦めて、村に帰ろうか……学校をやめて、水産加工場で働こうか……そのように彼が悩んだ時、また声が聞こえてきた。

 

「ミノルちゃん、逃げてはダメ。ミノルちゃんは何も悪くないわ。悪くないのに逃げるのは、悪いことをしている人を野放しにすることになるのよ」

 

 声はなおも語った。

 

「あと一ヶ月、頑張って耐えてみて。頑張ったら、きっと報われるわ。辛いだろうけど、今は頑張るのよ……」

 

 声が何らかの力を持っていたのか、ミノルはそれを聞いて自然と奮起することができた。それまではどこか陰鬱な空気を醸し出していたミノルは、がむしゃらに勉強に取り組むようになった。それのみならず、彼は異常なまでの熱心さを持って軍事教練に参加するようになった。配属将校は相変わらず彼を痛めつけたが、同級生たちはそれ以来ミノルのことを一目置くようになった。そのうち、将校は女性関係で問題を起こし、学校から消えた。

 

 ミノルはいつしか、声の正体について確信をしていた。

 

 これは、きっと姉さんの声だろう。姉さんはあの時、僕が迷ったり悩んだりした時は声をかけてあげると言った。古代ヘラスの偉大なる哲人は、「内なるダイモニア(神的なるものども)が声をかけて自分を善き方向へと導いてくれる」と言ったという。きっと、姉さんもそのダイモニアのようになって、自分を助けてくれているのだろう……

 

 彼は満たされていて、幸福だった。彼は体も大きくなり、それ以上に、心も豊かになった。

 

 そう、あの時が来るまでは、彼はたしかに幸福だったのだ。

 

 ミノルが中学校に入学した頃から、彼の国は世界を相手に戦争を始めた。艦隊は敵の巨大軍港を奇襲し、陸軍は南方の各地へ進出した。相次ぐ勝利の報は、帝国の最北端である佐嘉蓮島(さがれんとう)にも届いた。

 

 ミノルたちが学校で交わす会話は、戦争のことばかりだった。いつ我が軍は敵の大陸に上陸するのか、いつ敵の首都に乗り込むのか、いつ勝利するのか……ミノルもまた、軍隊に入ることを夢見るようになっていた。

 

 気づいた時には、勝利の報は少なくなっていた。町からは若者の姿が消え、商店の店先からは品物が消え、食料は配給制となっていた。灯火管制という概念がどこかからやって来て、夜の町からは一切の灯りが消えることになった。中学校では、若い男性の教師がいなくなった。生徒たちは、近郊の工場へ労働奉仕に赴くことになった。ミノルは皮革工場で働いた。皮革工場は常に悪臭に満ちていた。

 

 夏の休暇が終わりに近づく頃、ミノルはまたあの川へと向かった。少し時期が早いが、マスたちはもう川にやって来ているはずだった。

 

 川を見て、ミノルは唖然とした。そこにいるはずのマスたちはまったく姿が見えなかった。そこには、ただ紫色に濁った水だけが流れていた。近くにいた老人に話を聞くと、老人は溜息を一つついてから答えた。

 

「去年のことだったが、戦争で食料が不足しているということで、マスたちは根こそぎ獲られてしまったんだ。魔法薬剤を流して一網打尽に、オスもメスも、卵を産む前にすべて獲られてしまった。いわゆる『毒もみ』というやつだよ。水が濁っているのはそのせいだ」

 

 老人は遠くを見ながら、また言った。

 

「ここに魚たちがまたやって来るまで、長い月日が必要だろう。わしが生きている間に、もうそれを見ることはないかもしれん……」

 

 悄然として、ミノルは村に戻った。マスたちがまた帰ってくるのはいつになるのだろうか。あの老人はおろか、自分さえも、もうマスたちを見ることはないのかもしれない。

 

 姉が好きだと言ったマスたちは、今はどこにいるのだろうか? マスたちはもう、川には帰ってこないのだろうか……ミノルは、この戦争が容易ならざるものであることを初めて知った気がした。

 

 

☆☆☆

 

 

 彼がそろそろ十六歳になる頃に、敵が島にやってきた。それはそれまで戦っていた敵とは違う敵だった。不可侵条約を一方的に破棄して新たに参戦した敵だった。

 

 中学校の生徒たちはみな、郷土防衛隊員となった。ミノルもまた、軍服に身を包んだ。陸軍二等兵の階級章がついた、ごわごわとした粗い布地で出来た褐色の軍服は、ミノルの体に余るほど大きかったが、彼はそれを身に纏うと、自分もついに故郷を守るために戦えるのだという言い知れぬ高揚感を覚えた。

 

 既に、帝国最南端の琉球・奄美での激戦で、中学生たちが鉄血勤王隊として戦争に参加したことは伝えられていた。南の島の中学生たちは銃を手にし、手榴弾を投げ、敵の激しい銃砲撃にも負けることなく勇敢に戦ったらしい。

 

 自分も北の島の中学生として、彼らに負けないように戦わなければならない。ミノルだけではなく、彼の周りの中学生たちは全員、そのような純真な愛国感情に燃えていた。

 

 三百人の中学生たちは三隊に分けられ、それぞれの隊長は千島道(ちしまどう)から来た少尉たちが任命された。ミノルの隊長は彼の希望とは異なって、年をとった風采の上がらない男だった。中学生たちの戦場で戦いたいという熱意とは裏腹に、少尉は弾薬運びや防空壕の設営、塹壕堀りなどを命じるばかりだった。

 

「いずれ、戦う時が来たらお前たちも前線に出す。今は言われた通りに働け」

 

 少尉の言葉に、少年たちは内心の憤懣を抑えつつ従った。やがて、敵が佐嘉蓮島(さがれんとう)の北部に上陸し、守備隊と激戦を繰り広げているという報が伝わってきた。敵は重火器で武装しており、特に戦車が強力で、それはまるで鋼鉄の巨獣であるかのようだという。守備隊に対戦車火器は少なく、歩兵の肉薄攻撃でなんとか進撃を押しとどめているとの話だった。

 

 その日から、ミノルたちは新しい訓練を受けるようになった。背中に重く大きな木箱を背負い、地面に掘られたタコツボから飛び出して、野球選手が頭から本塁に飛び込むような格好で体を動かすという訓練だった。

 

 それは、戦車を止めるための自爆攻撃の訓練だった。木箱の中には爆薬か砲弾が詰まっており、それを背負って敵戦車の車体の下に滑り込み、充填物を起爆させる。そうすれば、一人の命と引き換えに、敵の貴重な戦力を撃破できるというわけだった。

 

 はじめ、その訓練の意味を図りかねていた生徒たちも、真相を知ると一瞬顔を青ざめさせた。だが、彼らは次第に熱を帯びた口調で口々に話し始めた。

 

「琉球ではこの戦法で、学生部隊が大戦果を挙げたらしい。敵の戦車を数百両もやっつけたそうだ」

「きっと敵も度肝を抜かれるぞ。敵は命を惜しむ臆病者ばかりだからな。皇軍の兵士の戦いぶりを見せつけてやるんだ」

「ここは俺たちの島だ! 侵略者から故郷を守るんだ!」

 

 ミノルもまた、周囲の興奮に促されるように叫んだ。

 

「死ぬんだ、死ぬんだ! 敵を道連れにして死ぬんだ……!」

 

 自分が出した大きな声に、ミノルはどこか狂気が混ざっているような気がして、瞬間的に精神が冷え込むのを感じた。彼の脳裏に、姉の顔が浮かんだように思われた。姉は悲しげな顔をして、じっと彼を見つめていた。声はなかった。ミノルはそれから、訓練そのものは手を抜かずに励んだが、死ぬという言葉を口にすることはなかった。

 

 数日の訓練の間にも、敵はじわじわと侵攻の度合いを早めていた。北部の守備隊は敗退を重ねた。敵は急速に島南部への浸透を図りつつあった。敵艦隊が沿岸に出没し、艦砲射撃を加えているという情報ももたらされた。町の上空には敵機が姿を見せるようになり、盛んに銃爆撃を行った。

 

 ミノルはその日、初めて戦争を体験した。敵機が町を襲い、司令部となっていた中学校の校舎を攻撃した。ミノルは友人たちと共に、自分で掘った防空壕に身を潜めていた。敵機が乱舞する爆音が止むと、外から「生徒! 生徒たち! 担架だ!」と叫ぶ兵隊たちの声が聞こえてきた。

 

 外に出ると、校舎は爆弾の直撃を受けて炎上していた。死体が散乱しており、血を流した負傷者たちが呻き声を上げていた。ミノルは仲間の一人と共に、担架を持って倒れている一人の元へ走った。

 

 それは、中学校の国語の教師だった。いくつもの古今の漢詩を暗誦できる、穏やかな中年の教師だった。彼は司令部の補助要員として働いていた。教師は腹部に機関銃弾を受けており、大穴からは真っ赤な血液が噴き出していて、ピンク色の内臓が零れ落ちていた。ミノルが抱き上げた時には、既に教師は絶命していた。

 

 呆然とするミノルに、後ろから一人の兵士が怒鳴り声を上げた。

 

「死体に構うな! そんなものは捨てておけ! 他の負傷者を運べ!」

 

 彼はその日、仲間と協力して五人もの負傷者を担送した。そのうちの三人は医療壕に辿り着いた頃には死んでいた。

 

 次の日も空襲があり、ミノルたちの部隊は今度は町に出て、一般市民の負傷者の救助に駆け回った。町は至る所で火災が発生しており、無数の死体が街路に転がっていた。死体はいずれも酷く損傷していた。機関砲弾を受けて頭部を砕かれた母親の死骸に縋りつき、乳をねだる赤子の姿が、ひときわ強くミノルの印象に残った。

 

 ミノルの隊長である少尉も空襲によって戦死した。少尉は機関砲弾によって縦に真っ二つになった。彼は少尉のために墓穴を掘った。遺体を火葬している余裕はなかった。

 

 ミノルたちが負傷者の担送と救護に走り回っている間にも、中学生部隊の他の二隊は前線へ向けて出発していた。ミノルたちももうすぐ出陣だと覚悟し、戦意を奮い立たせていた。敵に一矢を報いなければならない。たとえ自爆攻撃でその身と命を捧げても、敵を殺せるならば悔いはない。そのように誰もが考えていた。

 

 だから、次の日の朝に中隊本部へ召集されて指揮官の大尉から告げられた言葉に、学生たちはみんな驚いたのだった。大尉は言った。

 

「みんな、ご苦労だった。北方軍総司令部からの命令により、中学生部隊はこれにて直ちに解散する。軍服を脱ぎ、本土を目指せ。諸君らは祖国の未来のために必要な人材である。ここで命を捨てることは許されない。大泊港に脱出船が入ることになっている。道中必要な食料を配布する……」

 

 学生たちは泣いて大尉に訴えた。

 

「ぼくたちも前線に連れて行ってください! 自分たちも皇軍の一員です!」

「この手で故郷を守りたいんです!」

「逃亡兵になりたくはありません! 自分たちは戦えます!」

 

 大尉は声を荒らげ、叱責し、時には宥めて、生徒たちに解散するよう何度も言った。やがて、生徒たちの興奮も収まった。大尉は去り、生徒たちだけがその場に残された。

 

 生徒たちは集まると、相談を始めた。十分ほど経つと、ある組の級長をしている生徒が、それまでに出た意見をまとめて宣言した。

 

「大尉殿はあのように言ったが、俺たちとしてはこのまま逃げるわけにはいかない。命令違反にはなるが、このまま軍服を脱いで兵器を捨てるよりも、先に行った隊を追って行くべきだと思う。だが、命令は命令だ。一緒に来たくない者は来なくても良い。それぞれが自分の意志で決めてくれ。ただし、俺はここで逃げ出す者を、臆病者として記憶するだろう……」

 

 生徒たちは沈黙した。ミノルもまた、考え込んだ。自分に家族はいない。死んでも誰も悲しまないだろう。逃げるとしても、本土に親戚もいない。それならば、自分が生まれ育ったこの土地で敵に立ち向かって死んだ方が、勇敢で価値のある生き方ができたと言えるのではないだろうか。世話になった村の人々のためにも、ここは戦うべきではないか。

 

 それに、死を決した仲間たちの手前、いまさら死にたくないなどと言えるはずがない。

 

 気持ちが死へと傾きかけた時、ミノルの精神は急速に冷静さを取り戻した。彼は、姉のことを思い出していた。姉ならばこのような時、なんと言うだろうか? 姉は自分に、皇国の民の一人として相応しい死に方をしろと言うだろうか? それとも、臆病者となっても良いから逃げろと言うだろうか?

 

 声の訪れを、ミノルは切実に待った。ほどなくして、澄んだ女性の声が頭の中で響いた。

 

「ミノルちゃん。私はミノルちゃんがまた、マスたちを見ることができれば良いなと思っています」

 

 声はさらに言った。

 

「マスたちがまた、あの汚れてしまった川に戻ってきて子どもたちを産み残すのを、ミノルちゃんが見れたらと思います。私も、マスたちが大好きだから……」

 

 予想しなかった言葉ではあったが、ミノルはその声に聞き入っていた。声はなおも続いた。

 

「マスたちは外の世界へ行って大きくなって、また故郷に戻ってくる。故郷がどれだけ汚れても、マスたちはきっと故郷を忘れないわ」

 

 数秒の沈黙の後、声は言った。

 

「ミノルちゃん、あなたも外の世界へ行くべきではないかしら……」

 

 ミノルの心は決まった。後ろめたさもあったが、彼は軍服を黙って脱いで、中学校の制服に着替えた。そんな彼を見る仲間たちの視線は、もう仲間としてのものではなくなっていたが、誰も彼を罵倒しなかった。軍服を着たままの生徒たちは隊伍を組み、肩に小銃やスコップを担ぐと、歩調をそろえて町の外へ出ていった。

 

 残ったのは、ミノルの他に三名がいるだけだった。しばらくしてその場に戻ってきた大尉は、そのことを予想していたようだった。彼はミノルたちに言った。

 

「臆病であることは罪ではない。命を大切にすることは、未来を大切にするということだ。お前たちは、彼らとはまた違う、価値のある選択をした。それは一層過酷で、辛いものとなるだろう。だが、決して泣き言を言ってはならない。今この時に下した自分の選択を大事にして、これからの祖国再建に尽くしてくれ」

 

 大尉は別れの言葉を言った。

 

「さらばだ、勇敢なる臆病者たちよ……」

 

 ミノルたちは中隊の補給担当の曹長から食料と、せめてもの武器として銃剣を受け取り、街道を南下して大泊港へと向かった。

 

 街道は、地獄絵図と化していた。進出した敵の長距離砲は街道を射程内に収めており、砲弾の雨を降らせていた。敵機が上空を飛び回り、動くもの、目につくものを片端から掃射していた。砲撃と爆撃によって粉砕された自動車が炎上し、座席には奇妙にねじくれた死体が真っ黒に炭化していた。

 

 死体を踏み越え、負傷者の助けを求める声を無視して、ミノルは前へと進み続けた。他の生徒たちとは、いつの間にかはぐれていた。街道は、死体で舗装されていた。白い骨片と、赤黒い内臓と肉片が散らばり、吹き飛ばされた手足が樹々の(こずえ)に引っかかっていた。地面には折れた骨と歯の欠片が食い込み、砕けた頭蓋の破片が散らばっていた。早くも死体には蠅が集り、真っ白な蛆が湧きだしていた。

 

 今頃、仲間たちは戦車に突入しただろうか。ミノルは小休止を取ることもなく、時には伏せ、時には駆けて、考え続けた。彼らは勇敢だった。それに引き換え、自分は命を捨てようとしなかった臆病者だ。

 

 それでも良い。ミノルは爆撃で生じた穴に伏せながら思った。頭上を敵機が重々しいエンジン音を響かせ、機関砲を乱射しながら飛び去った。それでも良いのだ。僕は、またマスが見たい。姉さんが好きだったマスたちを、あの川で、もう一度見たい……

 

「……ミノルちゃん……ミノルちゃん……起きて! 起きなさい!」

 

 それまでに聞いたこともない切迫した声によってミノルは覚醒した。

 

 それと同時に、落雷のような轟音と、激しい衝撃が彼を襲った。目を開けて辺りを見渡すと、照明が落ち、周囲は漆黒の闇に包まれていた。悲鳴が空間に満ちていて、人々の混乱した様子が暗闇を通じて感じ取れた。

 

 ミノルは、なぜか瞬時に状況を理解することができた。おそらく、敵の潜水艦に魚雷攻撃を受けたのだろう。その可能性については、港に辿り着き、埠頭で脱出船を待っている間にも彼は考え続けていた。敵は、佐嘉蓮島(さがれんとう)から一人たりとも逃がさないつもりなのだ。

 

 隣を見ると、男の子は目を覚ましていた。彼は目を大きく見開いていたが、何も言葉を発しなかった。彼はミノルにしがみつくと、顔を腕の中に沈めた。袖に涙が滲むのが感じられた。

 

 事態は一刻を争う。早く甲板に出なければ、狭い船倉内に侵入した海水によって溺死することになる。いやその前に、次の魚雷の直撃を受けるかもしれない。ミノルは寝棚から飛び降りると男の子を抱きかかえ、力任せに出口へ向かって突進した。通路には避難民たちが転がっていた。彼は何人もの体を踏みつけたが、それに構っている余裕はなかった。

 

 幸い、暗闇の中を手探りで進んで、ミノルは出口の近くに首尾よく到達することができた。しかし、いち早く行動を起こした避難民によってそこは塞がれていた。狭い空間に人が殺到しており、梯子を登ろうとする者を引きずり降ろしたり、上から降ってくる者に潰されたりする者たちがいた。そのような状況でも、船の傾斜は刻々と増していた。船体が軋む音が鳴り響き、更に混乱を助長した。

 

 二本目の魚雷が船体に命中した時も、ミノルはまだ梯子の下にいた。爆発と衝撃で、ミノルと男の子はその場に浮かび上がった。いっさいの音が消え、視界が歪み、闇がさらに濃い闇となって、その中に黄色い閃光が走っていた。しかし、ミノルは意識を失わなかった。梯子に取りついていた者たちが振り落とされたのを見た彼は、男の子を片手で抱き上げると、もう片方の手で素早く梯子を登り、甲板へと出ることができた。

 

 空には煌々(こうこう)と月が輝き、星々が光の束を下界に注いでいた。彼は後ろを見ることもなく、傾いている甲板を苦労して先へ先へと進んでいった。

 

 船員たちはボートを下ろそうとデリックを操作していたが、急速に増す傾斜のためにそれが果たせないようだった。ミノルはそれを見て、ボートに乗ることを諦めた。彼は暗い海面を見た。八月とは言え、北の海は冷たい。だが、躊躇している暇はなかった。泳ぎならば自信がある。

 

 ミノルは男の子にしっかりと掴まっているように言うと、リュックサックを背負わせた。落ちていた縛索(ばくさく)を拾い上げると、彼は男の子と自分自身とを結び付けた。

 

 男の子を抱く腕に力を込めると、ミノルは甲板の端に立った。海は黒々としていて、原始時代の怪物の皮膚のように波打っていた。呑まれるかもしれない。そんな恐怖を押し殺し、決意を固めた彼を後押しするように、声が彼の頭蓋の内部で響いた。

 

()んで、ミノルちゃん! とぶのよ! 早く!」

 

 ミノルは一呼吸をすると、海に向かって跳んだ。魂すらも剥離するような強烈な浮遊感を何秒か味わった後、彼と男の子は水飛沫を上げて海面に到達し、それからさらに一メートルほど深く、海中へと身を没した。

 

 ミノルが浮かび上がり、急いで船体から離れようとしたその直後、二発の魚雷によって重大な損傷を受けていた船のボイラーがついに爆発した。船体は内部から真っ二つに裂け、しばらく浮力を保つようだったが、ほどなくしてそれぞれがほぼ同時に海の底へと沈んでいった。

 

 

☆☆☆

 

 

 海中を伝わる衝撃波が、ミノルの意識を奪っていたらしい。気がつくと彼は、海面に浮かんでいた。月の光が降り注いでおり、海面は不気味なまでに明るかった。

 

 意識を取り戻した直後に彼は、男の子がどうなったのかを見た。男の子も海面に浮かんでいた。背負わせたリュックサックが浮力を生み、男の子を沈まないように守っていた。月明りに照らされた男の子の表情は青ざめており、大きな瞳は食い入るように彼を見つめていたが、怪我を負っている様子はなかった。ミノルは少しだけ安心した。

 

 ミノルは辺りを見渡した。海面には無数の漂流物が浮かんでおり、中には大きな木材もあった。「おーい、おーい」という、男のものとも女のものとも分からない助けを呼ぶ声が聞こえた。船の燃料である重混合濃縮エーテル液が発する甘い匂いが海水の生臭さと入り混じり、ミノルの鼻腔の裏を焦がした。

 

 浮かんでいるところから十メートルほど離れて、戸板のような大きな木材が波間に漂っているのが見えた。ミノルはそこへ向かうことにした。船の爆発によって痛めたのか、左腕が思うように動かなかったが、彼は木材に泳ぎつくことができた。

 

 男の子をまず乗せてから、ミノルは木材の上に身を横たえた。木材は頼りなげに揺れたが浮力を充分に保っており、波も比較的穏やかだった。彼は、このままこうして救助を待つことが一番賢明な方法だろうと思った。

 

 思ったよりも脱出者は多かったらしい。彼はそう思った。周囲の海上には声が行き来し、泳いだり、浮かんだりしている者が多数いた。ギリギリになって下ろすことに成功したのか、ボートも何艘か漂っていた。ボートにはどうやら船員が乗っているようで、漂流者のもとに漕ぎ寄せては助け上げているようだった。

 

 すると、どこかから、聞き慣れない重低音が鳴り響いてきた。

 

 規則正しくリズムが刻まれるその音は、船舶のディーゼルエンジンのもののようだった。早くも救助艇が来たのだろうかとミノルは思った。右前方を見ると、確かにそれらしき黒い影が月光によって浮かび上がっていた。

 

 突然、豆を炒るような乾いた音が連続した。それは重機関銃の射撃音だった。次に、より大きな音が、機関銃よりも遅いテンポで鳴り響いた。海面に、花火のような美しさの緑色が閃いた。曳光弾の無数の火箭(かせん)がばら撒かれた。それは、黒い影から発射されていた。

 

 ミノルはその光景を目の当たりにして、身を強張らせた。黒い影は、敵の潜水艦だった。撃沈した船の生存者を皆殺しにしようと潜水艦は暗い海中から浮上し、今は甲板に乗員を配置して、機関銃と機関砲を撃ちかけているのだった。

 

 敵はまず一艘のボートに射弾を送り込んで、それを乗っている者たちごと粉砕すると、それからは手当たり次第に浮遊物に向かって乱射を始めた。

 

 そんな光景を見ても、漂流者の中には敵の潜水艦に向かって泳ごうとする者たちがいた。混乱しているのか、それとも無意識なのか、彼らはそれを救いをもたらすものだと思い込んで、必死に手足を動かして辿り着こうとする。

 

 今度は、鋭い小銃の射撃音が響いた。敵は漂流者の一人一人を狙い撃ちにし、あたかも射的遊びでもあるかのように、標的を次々と確実に海の底へと沈めていった。

 

 エンジン音が高まった。潜水艦は次第に、ミノルと男の子が乗る木材へ向かって進んできた。ミノルの心臓は早鐘を打った。男の子を見ると、彼は潜水艦の方をじっと見つめていた。どうやら男の子も、近づいてくるそれが害を為すものであることに気づいているようだった。

 

 ミノルは低い押し殺すような声を出して、男の子に言った。

 

「顔を伏せろ……死んだふりをするんだ……」

 

 男の子が言われた通りにするのを見てから、ミノル自身も顔を伏せた。エンジン音が大きくなり、船体が波を押し分ける音も聞こえてきた。

 

 果たして敵に死んだふりが通用するだろうか。彼は横目で、隣に漂っている浮遊物を見た。そこには三人の人影があり、彼らもミノルと同じく微動だにしていなかった。死んでいるのか、それとも死んだふりをしているのかは分からなかったが、人影は浮遊物に固着したように動かなかった。

 

 突如として、敵は機関砲の一連射を放った。それは、ミノルの隣の浮遊物に対するものだった。曳光弾が水面で跳ね、人影を四散させた。轟音が鼓膜を打ち、濃い硝煙の臭いが一瞬ミノルの嗅覚を支配した次の瞬間には、浮遊物は跡形もなくなっていた。

 

 三人の死を目撃して、ミノルの思考は目まぐるしく変化した。敵は生きている者であろうと死体であろうと関係なく、浮かんでいるものには銃撃を加えるらしい。それならば、こうして死んだふりをしていてもきっと無意味だろう。

 

 助かるには、敵が通り過ぎるまで海の中に潜り続けるしかないのか? 彼は考え続けた。いや、そんなに長時間息を止めて潜っていられるはずはない。浮かんできたところを見つかり、撃たれるに違いない……

 

 それに、男の子はどうする? ミノルの思考は続いた。男の子と自分は縛索(ばくさく)で結びついている。自分は長く潜っていられるとしても、男の子はきっと浮かんでしまうのに違いない。あるいはそれが囮となって自分だけは助かるかもしれないが、自分にそんなことができるのか……?

 

 いや、むしろ逆ではないか。ミノルは心が冷えていくのを感じた。自分が囮になれば良いのではないか?

 

 腰にはまだ銃剣がある。これで縛索(ばくさく)を断ち切り、自分がわざとらしく水飛沫を立てて潜水艦に泳いでいけば、敵はきっと自分にだけ注目をして、男の子を見落とすに違いない。あるいは自分が殺された後に男の子も見つかり、浮遊物ごと撃ち砕かれるかもしれないが、何もしないよりは可能性がある。そのようにミノルは、素早く思考を巡らせた。

 

 あと数秒の間にミノルは決断をしなければならなかった。

 

 男の子を見捨てるか、それとも自分が囮になるか……?

 

 彼の脳裏に、これまでのことが淡い映像として浮かび上がった。重い木箱を背負っている生徒たち、隊伍を組んで去っていく仲間の顔の群れ、疲れた顔の大尉、炎に包まれる街道、マスのいなくなった紫に汚れた川……

 

 そして、姉の笑顔がそこにあった。(ひたい)に受けた柔らかな冷たい接吻、頭に響く声……優しい声、導きの声だ。

 

 晴れやかな気持ちに、ミノルは満たされた。僕はこれまで一生懸命頑張ってきた、精一杯生きた。マスたちがもう見れないのは寂しいけれど、悔いはない……ミノルは銃剣に手を伸ばした。

 

 鞘から銃剣を引き抜き、ロープに刃を押し当てようとしたその時だった。

 

 ミノルの頭の中で突然、声が響いた。

 

「ミノルちゃん、今までよく頑張ったね……」

 

 ああ、姉さんも僕を褒めてくれている。そうミノルは思った。だが、声はなおも続いた。

 

「大丈夫、あとは私に任せて。そのまま動かず、顔を伏せているのよ……」

 

 ミノルは声に従った。潜水艦は、もう間近に迫っていた。

 

 声が言った。

 

「ミノルちゃん、今までありがとう。これからは別のところで、私はミノルちゃんを見守っているからね……」

 

 声が終わると同時に、ミノルの口から、何か白いものが零れ出た。それは潜水艦の黒い影とは対照的なまでの、白色の美しい輝きだった。

 

 輝きはミノルから離れたところに漂い出て、月光を吸収するかのように大きくなり、そして人の形を纏っていった。

 

 それはミノルと同じ年頃の、女の子のような姿形(すがたかたち)をしていた。

 

 ミノルは息をすることも忘れて、それを見ていた。

 

 潜水艦の乗員も、正体不明の物体を目撃してしばし唖然としたようだった。

 

「Даймоний!」

 

 乗員たちはそのように叫ぶと、その輝きに向かって驟雨のような射撃を加え始めた。白い輝きは紙のように千切れ飛んだが、連射が止むと、また元の人の形へと戻った。

 

 白い人影は、頭をミノルの方へ巡らせた。その顔は、ミノルにとって懐かしいものだった。影はミノルに向かってにっこりと笑顔を浮かべると、空中へ向かって歩を進めていった。

 

 星々が煌めく夜空へと、白い影は昇っていき、そして見えなくなってしまった。

 

 突然、砲声が響き渡った。

 

 それは敵の潜水艦のものではなかった。敵の乗員たちの動きが慌ただしくなった。その全員がハッチを開いて艦体の中へ姿を消すと、潜水艦は急速に海面下へ潜航を開始した。波間に没しつつある巨大な司令塔がミノルの目前を横切り、無数の気泡を立てて姿を消した。

 

 潜航によって生じた大波に揺られながら、ミノルは、味方の小型艇が軍艦旗を翻しつつ、月を背負ってこちらに向かってくるのを見た。彼は男の子に声をかけた。

 

「もう動いても良いよ。敵はいなくなった。僕たちは救助される」

 

 男の子は、ゆっくりと頷いた。それを見て、ミノルは銃剣を遠くへ向けて投げ捨てた。

 

 姉さんは、あるべきところへ帰っていったんだね。ミノルが呟く声は、波の音によって掻き消された。

 

 

☆☆☆

 

 

 小型艇はミノルと男の子を拾い上げると、他に生き残っていた漂流者たち数人を回収して、そのまま千島道本島の稚内港に入った。それは翌日の夕刻のことだった。

 

 上陸する時、ミノルは係員から、戦争がその日の正午に終わりを迎えたことを聞いた。係員はミノルの住所氏名を聞き、当座の生活資金と食料を配布すると言った。

 

「それで、その子どもは誰かな? 君の弟かな?」

 

 眼鏡をかけた年配の係員は、ミノルの傍に寄り添っている男の子を見て、そう言った。視線を受けて、男の子はミノルの陰に身を隠した。

 

 どう言おうか、ミノルは迷った。ここで弟だと答えれば、今後一生この子の面倒を見なければならなくなるだろう。ここで係員にこの子は孤児だと言えば、きっとこの子は孤児院かどこかに収容されるだろう。それが、あるいはこの子にとっては幸せなことなのかもしれない。生活の目途も立っていない自分が、この子の面倒までみるなどとは……?

 

 悩んだ時にいつも聞こえてきたあの声は、もう響いてこなかった。ミノルはそれでも構わなかった。彼は、そのことをすでに理解していた。

 

 ミノルは、言うべきことをすでに決めていた。男の子の手をしっかりと持つと、彼はきっぱりとした口調で言った。

 

「はい、これは僕の弟です。名前は……」

 

 手続きを終えると、ミノルは男の子の手を引いて、駅へと向かってひび割れた舗装路を歩いた。

 

 いつか、この子と一緒に、あの川へ行こう。ミノルは思った。島はもはや自分の故郷ではなく、敵のものになっているだろうが、しかしあの川にはまたマスたちが戻ってくるはずだ。また清らかさを取り戻して、命を育む水の流れになるには時間がかかるかもしれないが、自分はきっと、あの川へまた戻ることができるはずだ。

 

 姉さんが愛してくれたように、僕がこの子を愛するならば、きっと僕はまた帰ることができるだろう。

 

 もうダイモニアの導きがなくても、僕はきっと、間違えない。

 

 ミノルは男の子に優しく語りかけた。

 

「ねえ、君はサガレンマスを知ってるかい? 銀色の肌に真紅の斑点があって、とても綺麗なんだ……」

 

 男の子は、ミノルへ静かに耳を傾けている。

 

 夕焼けに照らされた二人の影は、手をつないだまま、駅舎の中へと消えていった。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・ほいれんで・くー「導きのダイモニア」

 2021年7月4日公開。こちらも前作と同じく、『ラインの娘』のために書き下ろした作品です。リハビリがてら書いた作品ですが、またもやかなり長い話となってしまいました(いつもリハビリしているな)。

 すでにお気づきでしょうが、佐嘉蓮島のモチーフは樺太(サハリン島)です。サガレンマスのモチーフは同じくカラフトマス。でもカラフトマスが生まれ故郷の川に帰ってくる確率は三割ほどだそうで……そこらへんは創作ということでどうか一つ。

 次回もどうぞお楽しみに!

※2021/07/26/月追記 神的なるもの、神霊、神の力を意味するギリシア語は「δαιμόνιον」(ダイモニオン)であり、これの複数主格形が「δαιμόνια」(ダイモニア)になるわけで、厳密に言うと今作のタイトルも「導きのダイモニオン」にするべきところなのですが、思うところあってダイモニアとしています。

※加筆修正しました。(2023/07/19/水)

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