ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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36. わが胸を射貫くアルテミス

 私の神社は、市内から十キロ離れた小高い丘の上にある。神社の丘は昼なお暗い鎮守の森に囲まれている。両側を水田に挟まれた舗装もされていない細い道を、紀ノ川を右手に見ながら西へ進み、御城の天守と、煙たなびく工場群の煙突が望見できるようになると、もう和歌山市の市街地が間近だった。

 

 その日の朝方、自転車に乗ってやって来た新聞配達員の少年が、市内に怪我人が多数出て、市当局者が私に出動を要請していると伝えた。夜明け頃、エーテル精製工場で爆発事故が起き数十人が負傷したという。市内の医者たちが治療に当たっているが、戦時下ということもあり人手が不足しているとのことだった。私のような魔術兵崩れにも協力を仰がねばならないほど状況が深刻であることを知り、すぐに私は市内へ赴くことに決めた。

 

 車もなければ馬車もなく、牛車すらない。自転車すら供出しており、家にはなかった。私は徒歩で現場へと向かった。六月も半ばで、梅雨の時期ではあったが、空は異様なほどに晴れていた。今年は全国的に異常気象で、空梅雨になるだろうとラジオはしきりに言っていた。食糧不足が深刻化しているのに、このうえ天候不順では、今年の冬は非常に厳しいものになると思われた。

 

 水田には青々とした若い稲が伸び、ところどころに点々と白鷺(シラサギ)の姿が見えた。蛙や虫の類を探しているらしい。その白鷺に捕食される蛙や虫たちも、水田の中で豊富に餌を見つけることができるのだろう。自然界に生きるものにとって食料難など無縁な話であり、ただ人類だけが苦しんでいる。私の胸に奇妙な感慨が湧き起った。

 

 しばらく歩いていると、珍しいことに自動車が市内から走ってきた。カーキ色に塗装された、軍からの払い下げの乗用車だった。バンパーが歪んでおり、窓ガラスにもヒビが入っている。車は私のすぐそばまで来て停車した。運転手がドアを開け、私に声をかけた。運転手は青い帽子を被った工場の人間だった。私を迎えに来たとのことだった。

 

 三十分後、工場に到着した。工場内はエーテルの甘ったるい臭気に満たされていた。私はさっそく施術を開始した。患者はほとんどが勤労動員で学校からやって来た中学生たちだった。爆発に直接巻き込まれた者たちは、既に死亡していた。飛散したエーテル液とタンクの破片を浴びた者たちの治療が、私の仕事だった。杖をかざし、治癒術式を発動すると、杖先から白い光が放出されて患者に降りかかっていく。苦悶の表情を浮かべていた患者は、私に感謝するかのように微かに頷いた。

 

 顔見知りの医師が私のもとに来て、比較的重傷で直ちに治療を必要とする患者に施術するよう要請した。重傷者は十二名いた。私は可能な限り強力で即効性のある術式を用いたが、昼前にはそのうち三名が息を引き取った。

 

 仕事を終え、工場から出た時には十五時になろうとしていた。私は在郷軍人会の会費を支払わねばならないことを思い出した。駅近くにある郵便局に向かい、首尾よく用事を果たした。線路沿いを歩き、駅前まで来た時に、ふと異様な爆音が遠く響いているのを耳にした。

 

 私は周囲を見渡した。商店の二階の窓から身を乗り出して、駅から出てきた夫に対して手を振っている女性がいる。掃き掃除をしている老婆、リュックサックを背負った国民服姿の初老の男性、埃に汚れた制服を着ている中学生の一団……私と同年代の若い男性はいない。皆、爆音に気が付いていないようだった。

 

 突然、爆音が大きくなった。その瞬間、あたかも鉄柵を鉄棒で乱打するような激しい金属音が連続した。私は身に染み付いた習性によって、半ば無意識的に近くのベンチの下へと素早く身を隠した。

 

 身を隠しつつ、私は先ほど二階から手を振っていた女性が崩れ落ち、窓から落下するのを目撃した。女性が落ちた鈍い音と衝撃が地面を伝わって、私のもとに届いてきた。

 

 大きな影が水冷エンジンの駆動音を響かせながら、上空を飛び回っている。それは、敵の戦闘機だった。敵機は我が物顔に超低空で駅の上を行き来し、目についた目標に機関砲弾の雨を送り込んでいる。射的遊びのような機銃掃射は数分続き、やがて敵機は去っていった。

 

 私はベンチの下から出た。舗装路は銃撃を受けて砕かれており、駅舎からは煙が上がっていた。悲鳴と怒号が飛び交っている。二階から落ちた女性には、男性が縋りついていた。彼は辺りを見渡し、私が軍用魔術杖を手にしているのを見ると、助けを求めた。

 

「魔術兵さん、妻を、妻を助けてください! 息をしてないんです!」

 

 駆け寄り、脈を見ようとして、私はぞっとした。女性の腹部は機関砲弾を受けて、粉砕されていた。背骨と内臓がミキサーにかけられたかのようになっており、挽き肉の中に骨片が混ざっている。大穴からは真っ赤な血液が止めどもなく流れ出ていた。女性の目は薄く閉じられている。心臓の鼓動が既に停止しているのは明らかだった。

 

 男性はなおも私に掴みかかり、懇願した。

 

「早く、早く何か術をかけてください! 今ならまだ間に合うはずです、早く……!」

 

 愛する者が目の前で射殺された現実を受け止めきれず、男性は精神錯乱を起こしているようだった。私は気絶魔法の呪文を唱え、杖を男性に向けると、術を放射した。緑色の光線は男性の額の中心部に吸い込まれ、ほどなくして彼は意識を失った。

 

 駆け寄ってきた警察官からの事情聴取に答えるのに、一時間ほどかかった。私はようやく家路に就いた。

 

 男性は目覚めた後どのように思うだろうかと、私は水田の道を歩きながら思った。彼は私を恨むだろうか。それとも、私のことなど覚えていないかもしれない。私としては、あれ以外に採るべき手段はなかったが、それでも、他に何かやるべきことがあったのではないかという思いが、心の中で小さからぬしこりとなって残った。

 

 白鷺がふわりと舞い降り、細長い足で二、三歩歩いてから、小さな蛙をその長い嘴で捕らえるのが見えた。白鷺は蛙を丸呑みにした。

 

 蛙は、白鷺を恨むだろうか。いや、白鷺を自らのもとに遣わした、神を恨むだろうか。埒もないことを私は考えた。

 

 

☆☆☆

 

 

 戦争が終わったその年の夏も、異様なまでの暑さだったのをよく覚えている。

 

 まるでこの星の大気が怒り狂い、地表に住まう人類すべてへ暑熱による懲罰を加えんとするかのような、そんな容赦のない暑さだった。かつて私たちが楽しんだ風情のある夏、木陰を求め涼風に憩い、夕立の訪れの後に(ヒグラシ)の鳴き声を楽しむような夏は、いずこかに消え去って久しかった。

 

 それも無理からぬことだと私には思われた。侵すべからざる清浄なる大気を、私たち人類は無思慮にも汚しすぎていた。数万に及ぶ航空機と魔竜の群れが昼夜を問わず空を切り裂き、混合濃縮エーテル液の燃焼煙を撒き散らす。数百万トンもの火薬の爆発、戦火に焼かれる数千の都市、数万の村々。兵器と弾薬を生産する工場群が吐き出す膨大な煤煙。そして、生きながらに焼かれた人々……

 

 戦争はあたかも一つの巨大な祭壇となり、その上で聖別もされていない雑多な生贄が焼き尽くされ、熱と煙が立ち昇る。邪悪な供物を受けて、大気が微笑みを浮かべる慈母から牙を剥き出しにした悪鬼へと転身を遂げたとしても、何ら不思議ではなかった。

 

 神職の家系に生まれた私は、変貌した大気とそれにまつわる人類の罪について思いを馳せないわけにはいかなかったが、それと同程度に、物質的な関心も有していた。乏しくなる一方の配給とそれに伴う飢え、それらに加え、さしたる仕事もせずに一家の貴重な糧を貪り、無為に日々を空費しているという耐えがたいほどの罪悪感が、私という器の中身の半分ほどを占めていた。

 

 私はそのちょうど一年前に大陸の戦闘で負傷し、左腕の肘から先を失っていた。

 

 海洋と島々での戦闘で敗北を重ねていた軍は、せめて大陸においては勝利を確かなものにしようと、大陸派遣軍の総力を挙げて大作戦を発動した。孤島のように点々と散在する支配領域をつなげ、大陸を南北に打通し、南方の資源地帯との連絡路を一挙に確保しようという、壮大な作戦構想だった。

 

 私も紀伊県の歩兵第六十一連隊の魔術兵の一員としてそれに参加した。作戦前、初老の連隊長がその小柄な体躯に見合わぬ語気の鋭さで、兵に向けて垂れた訓示の内容を私は記憶している。

 

「……古来より紀州の兵はその足の速さと強力なる弓勢(ゆんぜい)で知られたものだった。緑深い山々と波荒い海が紀州の強い男児を育んだのだ。祖国は重大な局面にある。今必要なのは、一死を以て多勢を救わんという捨て身の覚悟を、各々が心の底から持つことだ。伝統ある紀州の兵の一員として恥じぬ戦いをせよ! 死を恐れぬ戦いこそ勝利をもたらし、紀州の名を高らしめるのだ……」

 

 損害を出しつつも、作戦は順調に進行した。私の連隊は作戦発動初日から二週間で、合計で二百八十キロを徒歩で移動した。紀州の男児の健脚は遺憾なく発揮されたが、敵もまた「一死を以て多勢を救わん」という覚悟を持っていることに、私たちは思い至らなかった。故郷の村を焼き、田畑を踏み荒らし、祖霊の祠を壊した私たち侵略者に、敵は激しい怒りと憎悪を抱いていた。

 

 敵の憎しみは、特に私のような魔術兵に対して向けられていた。魔術兵と、魔術兵が操る熱放射術式こそが、彼らの大地を焼尽(しょうじん)させるものとして理解されていたからだった。軍用の黒く長い魔術杖を手にする私たち魔術兵は、敵の狙撃兵の第一優先目標となった。魔術兵が術式を発動し、その体から紫色の魔力光を発するや、それまで沈黙していた敵の砲兵陣地が一斉に砲火を閃かせるのも稀なことではなかった。

 

 私は作戦開始から十二日目に負傷した。その日、私の中隊はたった一個のトーチカに前進を阻まれていた。それは、煉瓦造りの円墳を利用した堅固なトーチカだった。トーチカの機関銃による断続的な射撃は、街道を完全に制圧していた。

 

 爆薬を背負った兵たちによる三度目の肉薄攻撃が失敗に終わった後、私は中隊長に呼ばれ、熱放射術式でトーチカを焼くように命令された。熱放射術式は、私の最も得意とするものだった。私は人造エーテル補充液を飲むと、陣地から出た。補充液は質が悪く、服用した直後から私は酩酊のような気分の悪さを覚えた。

 

 味方の重機関銃による支援射撃を受けつつ、私はトーチカに接近し、魔術杖を銃眼に向け、術式を発動した。紅蓮の炎が杖の先端から数十センチを挟んだ空間から発生し、勢い良く目標へ向けて放出された。

 

 数秒後、敵兵の断末魔の叫び声と共にトーチカ内部は完全に炎が充満し、弾薬が弾ける豆を炒るような音が連続した。その光景を目撃するや、後方に控えていた兵たちは、小銃の先に着剣された銃剣をきらめかせ一斉に駆け出した。

 

 とどめを刺すため、私はトーチカの後方へと回り込んだ。魔術杖を左手に持ち替え、右手には護身用の自動拳銃を持った。そこに存在するであろう出入口に、炎を吹き込むつもりだった。私はそこで、予想外のものを目にした。

 

 それは、全身を炎に包まれた敵兵だった。敵兵は炎を意に介した様子もなく、出入口から悠然とした足取りで歩み出てきた。顔は焼け爛れており、溶けた皮膚が首元まで垂れ下がっていた。それでも目だけは戦意と憎しみとで怪しく輝いている。

 

 敵は幅広で肉厚の刃の灰色の砍刀(かんとう)を手にしていて、私が気づいた時には既にそれを振りかぶり、一閃を放っていた。

 

 斬られた、という感触はなかった。その時私が感じていたのは、自分は自分が焼いた人間を、それも焼かれて死に瀕している人間を初めて見たのだという、奇妙な実感だった。杖を握りしめた左腕が肘の先から切断され、鈍い音を立てて地面に転がったその瞬間、私は自分でも意外に思うほどの冷静さで狙いをつけ、右手の拳銃を撃った。一発目は右肩に当たり、二発目は腹部に命中した。敵兵は、頭部に当たった三発目でようやく倒れた。最後まで彼は私を睨み続けていた。

 

 私は倒れた敵兵に、なぜか、すまなかったと声をかけていた。

 

 敵兵の肉と脂と毛髪が焼ける臭いが鼻腔を満たした時、私はようやく痛みを感じた。

 

 治癒術式を得意とする他の魔術兵による施術も虚しく、私の左腕は元通りに接合することはなかった。私は前進を続ける部隊とは逆方向へ担架に載せられて運ばれ、野戦病院に入院した。

 

 戦闘能力を失った私は、もはや魔術兵ではなかった。高熱に魘され、生きながらに蛆に肉を貪られる、死人同然の存在に過ぎなかった。

 

 あれからかなりの時が経ったのに、私は野戦病院で何度も見た悪夢をいまだに見る。そこは血膿と汚物の海だった。蛆が湧くままに放置され、虚ろな目をして地面に敷かれた(むしろ)に横たわる兵士たち。高熱で意識を半ば失い、うわ言を発し続ける重傷者。もはや虫すら追い払えなくなった末期的な患者……泣き声と嘆きと溜息は渾然一体となって、一つの呻きとなっていた。それは耳鳴りにも似ていて、また蠅の羽音とも酷似していた。

 

 その蠅の羽音を聞きつつ、夢の中で私は夢に落ちる。夢の中で、私は魔術杖であたり一面を焼き払っていた。草も木も、住居も町も燃やし、川すらも干上がらせ、田畑を焼きつくす。最後に、私は一個のトーチカを嬉々として焼いた。焼かれたトーチカの残骸の中から巨大な人影が砍刀(かんとう)を手に揺らめきつつ立ち上がり、私の左腕を切断する。切断面から血の臭いがする火炎が噴き出す。人影は私を見て哄笑する。焼け爛れた顔の中で、目だけが光っていた。目は、あの敵兵と同じく憎悪によって輝いている……

 

 幸運だったのか、それとも不運だったのかは私には分からない。私は死を免れ、軍医によって退院の許可を与えられ、野戦病院から抜け出すことができた。私は、私自身をもはや価値なき者として見なしていたが、どうやら軍医たちは私が魔術兵であることを考慮に入れたようだった。敵の抵抗組織によって線路が爆破され、しばしば停車を余儀なくされる列車に乗って遠く山東半島へ向かい、青島(チンタオ)の大病院で更なる治療を受けることになった。

 

 野戦病院とは比較にならないほど充実した施設を持ち、精霊が住まうほどに清潔な病院に私は入院した。数か月が経過し、左腕の切断面から覗く骨が肉に覆われ体力が回復した頃、私は船舶司令部への出向という形で、新たな任務に就くことになった。

 

 それは、港湾作業での魔術援助だった。港には大陸各地から収奪した大量の穀物と鉱物資源、燃料と液化エーテル、配置換えとなる部隊の兵器と資材が山積していた。大量の労務者たちが仕事を求めて港にやってきて、昼夜を問わず物資を輸送船へと運び込み、あるいは運び出していた。私はその労務者たちに支援魔術をかけることを命令されたのだった。

 

 本来ならば、私のような甲種魔術使用者が行うような任務ではない。労務者の支援などは、丙種魔術使用者に割り当てられるべきものだった。だが、私はそれをせざるを得なかった。退院直前に行われた魔力検査によって、私は戦闘用の魔術がほとんど使用不能になったことを知った。特にあの熱放射術式は、まったく発動しなくなっていた。

 

 魔力量そのものは負傷前と比較してさほど減少していなかった。不可解そうな表情を浮かべつつ、検査官は私に言った。

 

「何か精神的な障壁が生まれたのかもしれない。熱放射術式を使うのを無意識的に躊躇するような要因……おそらく、戦場における過度のストレスが影響しているのだろう。つまり、簡単な言い方をすれば、君は臆病風に吹かれたというわけだ。左腕の欠損に、戦闘神経症。もはや甲種魔術兵とは言えないな……」

 

 臆病風に吹かれた、と断じられても、私はさほど衝撃も受けず、反発も覚えなかった。私は、あの生きながらに焼かれた敵兵の目の輝きを思い出す度に、自分の体内の魔力の波動が急速に弱まるのを感じていた。兵士として敵を殺すのは当然であり、あの行為に罪はなかったのだとどれほど自分自身に言い聞かせても、私は夜ごとに見るあの悪夢から逃れることができなかった。敵兵は悪夢という形で私に復讐を果たし、私はそれによって打倒されてしまったのだった。

 

 臆病者であろうとも、果たすべき仕事はあった。労務者には、身体強化の魔術を行使することになっていた。それは筋骨の耐久度を上げ、膂力を一時的に増大させる魔術だった。これによって彼らの筋力は三倍ほどにも増し、一人で二百キロ近くもある荷物を運ぶことが可能となる。

 

 私は朝、港湾中央部に位置する司令部に出向き、そこでエーテル補充液を配布され、それを服用してから労務者たちのもとへ行く。監督の前に立ち並ぶ労務者たちは一様に生気に乏しく、栄養不良で灰色にくすんだ肌をしていて、俯きがちだった。私は監督の助けを得つつ、彼らに身体強化術式を行使していく。かけ終わると同時に、彼らの体は青色の光を発し、足取りも軽く現場へと走っていく。

 

 彼らは黙々と働いた。本国の最下級の労務者であっても忌避するような重労働でも、彼ら大陸の民は何一つ文句を言うことなく従事した。大きな貨物を両腕で抱え上げ、足取りを乱すことなく歩き、輸送船のタラップを通り、船内へ消えていく。しばらくして彼らは何も持たずに船から出てきて、また貨物の山へと向かっていく。蟻よりも勤勉に、彼らは働いた。

 

 その尊い労働は私たち敵国による搾取そのものであり、自らの生命を略奪されていることに他ならないのに、彼らは働き続けるのだった。

 

 私と同国人の監督は、煙草をふかしながら、侮蔑の念を隠さずに言った。

 

「まあ大陸の人間など所詮はこの程度のものだ。戦場では逃げ続け、負けを恥とも思わず、仕事と飯が得られるとなれば敵のもとへやって来てまるで犬猫のようにそれをねだる。一等国の人間なら例外なく持っている自尊心というものを、連中は何ひとつ持ってはいないんだ。低賃金で文句一つも言わずに働くのはありがたいがね……そこ、休むな!」

 

 監督は鞭を振り、疲労して地面に座り込んでいる無残なまでにやせ細った労務者を強く打った。労務者はよろめきながらも立ち上がり、仕事に戻った。監督は唾を吐き、他に怠けている者がいないか見回りに出ていった。

 

 あえて監督に反論したり、虐待行為を制止したりしようという気持ちは、私にはなかった。戦場における彼ら大陸の民の激しい敵意と憎悪を、安全な土地にいる監督が想像できるとは思えなかった。また、差別感情と虐待行為が監督の矮小な精神性を満足させているというのなら、それをあえて搔き乱す必要もないと思われた。私が彼を止めたとしても、労務者たちの苦しみの根本原因が解消されることもない。

 

 それに私自身も、彼らに対して差別感情こそ持ってはいないが、彼らを虐待しているのには違いなかった。それは、私の魔術のせいだった。

 

 身体強化術式の効力は二時間しか継続しない。朝八時から開始された労働は、十時になると一時中断し、労務者たちは再度集合させられる。そこで私によってもう一度術式をかけられるのだが、これは魔術的な素質がなく、また訓練も受けていなければ耐性剤も服用していない人間にとっては、大きな負担となるものだった。

 

 二回目の魔術行使の後、労務者たちの顔面はおしなべて蒼白となり、血の気が失せ、瞳孔が収縮する。次第に彼らは体を震わせ、全身から脂汗を流し、最後には嘔吐する。吐瀉物が地面に撒き散らされる水音が連続し、彼らは地面にうずくまってしまう。

 

 監督はそんな彼らの中を歩き回り、起き上がるのが遅い者には鞭を振り下ろし、もはや動かなくなってしまった者には一瞥を加えるだけで救護班を呼ぶこともなく、名簿に斜線を引く。労務者たちは死んでしまった仲間に目をくれることもなく、次の仕事へと向かっていく。私はそれを、ただ見ていることしかできない。

 

「出来高払いなんだよ」と、監督は私に言った。「だから俺も必死になって鞭を振るうし、連中だって必死になって仕事に励む。たとえくたばる寸前にまで追い込まれても、銭と飯の方が大事なんだ。アンタ、まさか連中に対して可哀想だとか感じたりしてないだろうな。手加減しないで、バシバシ魔術を行使してくれ……」

 

 午前の仕事が終わり、高粱(コーリャン)とトウモロコシの粗末な食事を終えると、労務者たちは三回目の魔術行使のためにまた並ぶ。私は彼らに術式を行使する。彼らは震え、高粱とトウモロコシの飯を吐き、よろめきつつ仕事へ戻っていく……日が暮れるまでにこのようなことがさらにもう一回あるのだった。

 

 作業終了が告げられ日当が渡されると、労務者たちは速やかに港から姿を消し、町のどこかへと消えていく。それと入れ替わるようにして、夜に働くための新たな労務者たちがやってくる。彼らに術式を行使した後、私は司令部に戻って報告をし、宿舎へと帰る。遊びに行くこともなく、疲労しきった私は横になり、エーテル毒によって細胞と神経が侵された脳が見せる夢の中へ落ちる。

 

 夢の中で私は労務者たちに魔術をかける。労務者は嬉しげな顔をして飛び跳ねるが、あまりにも強く跳んだせいで、手足が千切(ちぎ)れてしまう。私はそれを拾い集め、他に手足が千切れている労務者にくっつける。労務者は悲しそうな顔をするが、私は彼に仕事をするように言って、身体強化の魔法をかける。労務者は仕事を始めるが、ほどなくして嘔吐を始める。吐瀉物が堆積し、次第にあたりは海のようになる。私はその海の中でもがき、溺れている……

 

 そんな毎日が続いた。

 

 徐々に、私の肉体はエーテルに蝕まれていった。その頃に生産されていた人造エーテル補充液は不純物が多く混ざった粗悪品ばかりで、連続で服用すると毒素が肝臓に蓄積するという性質を持っていた。私はそのことを理解していたが、しかし服用をやめるわけにはいかなかった。当時、仕事は何にも増して優先されるべきものであり、自分の肉体と健康に拘泥する者は祖国への裏切者と見なされていた。

 

 エーテル補充液を飲み続け、私は常に二日酔いのような状態だった。夜ごとにはあの悪夢を見、日中は魔術を行使する。体を充分に休ませるだけの時間はなかった。左腕を失い熱放射術式が使えなくなった、兵士として完全に無価値である私がなんとしてでも社会的な存在意義を保つためには、労務者たちに虐待同然の魔術をかけ続け、仕事をこなし続ける他なかった。

 

 ある日のことだった。それまでとは明らかに異なった雰囲気を放つ巨大な貨物が港に運ばれてきた。白い布に包まれたそれはトラックから投げ出されるようにして地面に下され、埠頭に並べられた。大きさはそれぞれ違っているが、最低でも高さは二メートル、大きいものになると五メートル近くはあった。

 

 私はいかにも怪訝そうな顔を浮かべていたのだろう。隣でその光景を見ていた船舶司令部の中尉が私に言った。

 

「あれは大陸各地から集められてきた神像や仏像の類さ。これから輸送船に積載して、大坂に運ばれる予定になっている」

 

 白い布が風で剥がれて、中の像が見えた。それは塗りの剥げた汚らしい、造りも粗雑な古い神像だった。道教の神々の一柱のようだった。なぜ、わざわざ貴重な輸送力を割いてまでこのような像を運ぶ必要があるのか、疑問に思っている私に、中尉は説明を続けた。

 

「神像っていうのは人間の想念や情念といったものが込められているからな。それも数百年、長いものになれば数千年もの間に蓄積された想念がある。その想念を専門用語ではβエーテル素というんだが、これを上手く合成すれば良質なエーテルB液を製造できるってわけだ。ほら、濃縮混合エーテル液の製造にとって必須のB液だよ。こっちでもそうだが、本国でも燃料事情が逼迫しているそうだ。だから、こっちで神像を集めて送るんだよ。小さい像で一千リットル、大きな像だと五千リットル分にはなる……」

 

 わざわざそのままの形で送らなくとも神像をバラバラに分解してしまえば、輸送の手間が省けるのではないかと私は疑問を発した。それは、占領地から民衆の信仰の象徴を奪い、破壊するという究極の宗教弾圧を自分の祖国が行っているという後ろめたさをごまかすために発したものだったが、中尉はなんということもない風に答えた。

 

「重要なのは、神像そのものの形なんだ。神像が民衆の信仰を集めたのは、それが上等で高価な材質の寄せ集めだからではない。まさに神像という神の似姿としてこの世に存在しているからだ。だから一度でも神像をバラバラにしてしまうと、内部に蓄えられたβエーテル素は霧散してしまう。いうなれば、神像が器となっているということだな。器を砕けば中身も失われるというわけだ。小型で移動可能な抽出器でもあれば話は早いんだが、まだそこまで技術開発が追いついていないらしい。大坂にある特殊な施設でないと、神像からβエーテル素を抽出することはできないそうだ。そこに運ばないと、せっかくの資源も無駄になる……」

 

 その日の作業は、神像を運ぶことに終始した。神像はどれも重量があり、身体強化術式がかけられているとはいえ、労務者たちの疲労の色は濃かった。午前中に彼らは体力を使い果たし、昼食を食べることすらできなかった。そこまで働いても、船に運ぶことができたのは中型の神像が二体だけだった。午後になって、監督が鞭を振るい、拳を叩きつけ、足蹴にしても、彼らは動かなかった。私が術式をかけると、彼らは泡立った胃液を吐き続け、最終的にはそれに血すら混じるようになっていた。

 

 それまでに見られなかった感情の揺れ動きが、労務者たちの中で見られるようになった。それは、死の恐怖だった。それまでも彼らは過重な労働により緩慢なる死へと着実に向かっていたのであるが、この神像の運搬は、彼らにより明白に死の可能性を認識させたらしかった。それでも彼らは逃げ出すことがなかった。明日死ぬかもしれないとしても、今日食べないわけにはいかなかったからだった。

 

 二日目、三日目となるにつれ、労務者たちの疲労の度合いはさらに増していった。彼らは私にもっと強力な術をかけてくれと懇願するようになった。私は規則を盾にそれを拒否した。実際のところは、それ以上労務者たちが疲労するのを見たくないというごく個人的な感傷が理由だった。より強力な改良型強化術式は存在しており、私はそれを扱うことができたが、単なる労務者にそれをかければ、肉体に甚大な損害を与えるのは明白だった。

 

 一週間目になって、事件が起こった。そろそろ日付が変わろうかという夜遅く、仕事を終えて港の近くの宿舎で身を休めていた時、私の耳に大きなサイレンの音が鳴り響いた。それは港のサイレンだった。窓から港の方を見ると、何かが炎上しているのだろうか、夜空が赤く染まっていた。何か事故でも起こったのだろうと思い、私は眠ることにした。港湾の劣悪な設備と、定められた手順を遵守せず効率だけを重視する労働環境からして、大事故がいつか起こるだろうとは予想していた。

 

 翌日、真相が明らかになった。あまりの重労働に耐えかねた労務者の幾人かが共謀し、神像に火をつけ、破壊を目論んだとのことだった。小型の神像が二体、完全に燃え尽き、大型の神像の数体が損傷した。事件に直接的にかかわった労務者は、逃げおおせた数人を除いて憲兵によって捕らえられ、いずこかへと連行されていった。

 

 私は、損傷した神像を見に行った。神像は十二世紀に異民族の侵攻に対して徹底抗戦をした武将を神として祀ったもので、顔は憤怒の表情を浮かべ、手には大型の矛を持ち、鎧兜で全身を包んでいた。左肩から腰にかけて火が走ったようで、見るも無残な姿を晒している。私は、これほどまでに形が損なわれた像に、もはやβエーテル素は残っていないだろうと思った。

 

 なおも見ている私のもとに、中尉がやってきた。彼はしばらく私と共に神像を見ていたが、やがて静かに口を開いた。

 

「……自分たちの信じる神を燃やすというのは、どういう気持ちがするんだろうな。常識的に考えれば、そんなことは考えるだけでも身の毛もよだつことなんだろうが……案外、平気なものかもしれない。お前は、初めて敵を殺した時のことを覚えているか? 俺はずいぶん、あっさりと敵を殺して、その後も特に良心の呵責を覚えることはなかった。神を燃やすというのもそれと同じで、思ったよりもあっさりとしたものなのかもな……」

 

 私は中尉に何も返事をしなかった。労務者たちが神像を燃やしたのは、過酷な労働から逃れたいという絶望的な感情に駆られたからだろう。当初、彼らは火をつけたものが「自分たちの信じる神の像」であることなどきっと念頭にはなく、ただそれを自分たちを苦しめる運命と状況の象徴であり、あるいは単なる重量物であると見なしたに過ぎないだろう。

 

 目撃者の証言によると、事件を起こした労務者たちは逃げることもなく、像が燃えていくのを呆然と眺めていたらしい。彼らはおそらく、像が炎に包まれ、装飾や彫刻が見る見るうちに火によって損壊していくのを見た瞬間、強い精神的打撃を受けたのではないだろうか。

 

 自分たちが火をつけたものが紛れもなく「自分たちの神」であったことを、彼らはその瞬間認識したのだろう。であるなら、彼らの心情はとても「あっさりとしたもの」であるはずがない。彼らは、逃げることすら忘れてしまうほどの極度の内的緊張を覚えたのに違いない。

 

 自分の故郷を、私は思い出した。私は小さな神社の次男であり、幼いころから神の近くで暮らし、成長してきた。神像に供物と祈りを捧げ、信仰を育みつつ、私は大きくなった。現在の私を形成したのは、神と言っても良い。

 

 自分に、神を焼くことはできるだろうか。たぶん、できまい。それが特に、自己を守るために行われるのならば。なぜなら、私には信仰があるからだ。その点で、私はあの労務者たちとは違っているし、中尉とも違っている。ならば、信仰以上に意味や価値を持つ何かが出現するならば、あるいは……

 

 慢性的な疲労によって、頭脳の働きは冴えなかった。この事件から数日後、私はついに魔術行使中に昏倒し、病院に搬送された。もはやあらゆる軍務に適さないことが明らかになったため、私は正式に廃兵として除隊することになった。船舶司令部からは「作業能率を著しく向上させた功績を讃えて」賞状を授与されたが、私はそれを熟読することもなく、背嚢の奥底にしまい込んだ。

 

 船に乗り本国へ渡り、故郷の紀伊県和歌山市に帰りついたのは年が明けてから三週間後のことだった。私が生まれ育った神社に変わりはなかったが、父と母は暗い顔をしていた。兄は帰りを喜んでくれたが、(あによめ)は食い扶持が増えたことに苛立ちを隠さなかった。弟は二年前に戦死していた。傷痍(しょうい)軍人として国から見舞金が支払われたが、ほんの僅かなものでしかなかった。

 

 それから夏になるまで、私は在郷軍人会の集まりにも出ることなく、ほとんど毎日自室で横になって過ごした。たまに依頼されて市内に出て簡単な魔術を使うこともあったが、それ以外では畑を耕すこともなく、無為に時間を潰した。エーテルによって内臓が侵され、身体の機能が低下していた。この分ではさほど寿命も残されていないと思われたが、私にとってはあまり気になることでもなかった。

 

 気になるのは、やはり夜ごとに見る悪夢だった。私はトーチカを焼き、人影に左腕を斬られ、労務者に術をかけ、手足を千切り、吐瀉物の海の中で溺れていた。日中、今までに私がしてきたことを思い出し、そのことで思い悩むと、夜の悪夢は内容の過激さを増した。

 

 私は罪悪感という正体不明の怪物に囚われていた。大陸で敵を生きながらに焼き殺したこと、労務者に魔術をかけ続けたこと、そして、大陸の民の信仰を奪ったこと。それらすべてに私は罪悪感を覚えていて、それを夜ごとに育て、大きくしていた。

 

 これ以上の罪悪感を覚えた時、私はきっと、夢の中で発狂するだろう。

 

 それは暗いが、どことなく希望も感じられる予感だった。

 

 

☆☆☆

 

 

 七月の中頃になって、珍しいことに兄が私の狭い部屋を訪ねてきた。

 

 国民服に身を包んだ兄は神妙な顔をしていた。何か重大なことを私に告げに来たことは明らかに見てとれたが、なかなか兄は話を切り出そうとしなかった。兄は、貴重品となって久しい煙草を一本、私に差し出し、自らも火をつけて一服してから、ようやく話し始めた。

 

「あまり外に出ないお前は知らないだろうが……先日、敵が単機で和歌山市の上空に飛来して、このような伝単(ビラ)をばら撒いていった。俺はたまたま仕事でその場に居合わせて拾ったんだが……読んでみろ」

 

 兄はそう言うと、一枚の紙片を私に手渡した。紙は薄い上質なもので、印刷も鮮明だった。私は文面に目を走らせた。

 

「白い砂浜、香る梅、神住まう土地の紀州和歌山の皆さん! そろそろ()()をしたいとは思いませんか? 我々は腕の良い理容師を知っています。お好みの形に髪の毛を整えましょう。丸刈りにしましょうか、それとも角刈りにしましょうか。ほどなくしてたくさんの仲間と共に、皆さんのもとへ伺います!」

 

 紙片にはそのような挑発的な文言と共に、編隊を組む敵の大型爆撃機の群れが爆弾の雨を降らせる写真が印刷されていた。その意味するところは明らかに、和歌山市に対する大規模な爆撃の予告だった。兄は私が読み終えると、返すように手で促した。

 

 私が紙片を兄に渡すと、兄は煙草の火を紙片に押し付け、燃えあがるそれを灰皿に落とした。

 

「敵の伝単を持って帰るなと通達が出ている。持っているのが発覚したら憲兵隊に連れていかれるそうだ。本当かどうかは知らんがな……それにしても、敵が市を爆撃するのは本当らしい。東京府も大坂も福崎も、猛爆撃を受けて焼け野原になってしまって、全国に残っている都市らしい都市といえばこの和歌山を含めてもほんの数か所だ。和歌山には港もあるし、工場もある。敵が目標にするのは当然だろう」

 

 話を聞きながら、私は兄がここに来た真意をはかりかねていた。単なる雑談のために私のもとに来るとは思えなかった。嫂は私のことを厄介者として嫌っており、あからさまに私を冷遇していた。食事の時など、嫂は私に視線をやることすらしない。気も強く、体格にも恵まれている嫂に対し、父母も態度を変えるように注意をすることはなかった。

 

 当然、兄も大なり小なり己の配偶者の影響を受けているはずだった。兄が私と親しく話をすることすら嫂は嫌うだろうし、もしそれが許されるのならば、それは実生活上で何らかの意味を持つこと、すなわち稼ぎに関することに限られると私は推測した。

 

 たぶん、兄は私に仕事の話を持ちかけに来たのだろう。それも私にしかできないこと、おそらく魔術に関する仕事なのだろう。だが、私は沈黙を守った。久しぶりに交わす兄との会話は話題の重さも相まって別段楽しいものではなく、沈鬱な気分を変えるほどのものではなかったが、それでも私は兄が喋るのを見ていたかった。

 

「……琉球と奄美では激戦だったらしい。特攻隊が何千機も出動して、敵艦隊に大打撃を与えたそうだ。ほら、お前も覚えているだろう、海の近くの雑賀崎村の村田君を。腕白小僧で、いたずらばかりをして、困り果てた両親がうちの神社にきて熱心に祈っていた、あの村田君だ。彼はお前が招集されて大陸に行った後に志願して海軍に入ってな、航空隊に進んだらしい。それで、特攻隊になって奄美で敵の戦艦を撃沈したんだ。奄美に出撃する前に、一度村に帰ってきてな、うちにも来て何やら祈願していた。あの時にはもう、特攻隊員として覚悟を決めていたんだろう……」

 

 兄はもう一本、煙草を取り出して火をつけた。煙草の配給は一週間に六本だけしかないが、兄は惜しまずに吸っている。私も促されるまま再度火をつけた。マッチは材質が悪く、なかなか火がつかなかった。私が魔術を使わず、マッチで火をつけようとするのを見て、兄は意外そうな顔をしたが、何も問わなかった。

 

 しばらく、沈黙が部屋を支配した。蝉の声がどこか遠く感じられた。額から汗が滴り落ち、畳に丸い染みを作る。兄はなおも雑談を続けた。

 

「……最近では、女学生たちがよくうちに来るようになってな。みんな阿提密斯(あるてみす)様に祈りを捧げていくんだ。本土決戦になったら、敵と刺し違えて死ぬんだと言ってな。阿提密斯様は乙女の神で、狩猟も司る。女の子たちにとってはなじみ深い女神なんだろう。あるいは、学校で教師の誰かがそう教えているのかもしれない。お前は、阿提密斯様についてちゃんと知っているか?」

 

 もちろん知っている、と私は答えた。幼い頃、兄と一緒に祖父から教えを受けたのであるから、知らないはずはない。

 

 寺社仏閣が多く存在する紀伊県において、さして社格も高くない私たちの神社がある意味で有名なのは、その阿提密斯(あるてみす)に因るところが大きい。それは名前から分かるとおり、我が国の古き神々の一柱ではない。阿提密斯はヘラスの神話の女神である、アルテミスそのものだった。月の女神であり、あらゆる男性を拒む処女神であり、豊穣と出産、狩猟と疫病といった多面的な神格を有している。

 

 遠く離れたヘラスの神が、なぜ紀伊に来たのか。

 

 十六世紀頃、我が国に南蛮人が渡来するようになり、この紀伊の近海にも異国船が帆を上げて航走するようになった。しかし紀伊の海は穏やかさと凶暴さを兼ね備えており、船乗りたちは突然の嵐にしばしば見舞われる。記録によると、享禄四年の夏、紀伊水道において暴風雨に襲われた南蛮船の一隻が紀ノ川河口に漂着した。船は航行不能なまでに破壊されていたが、住民たちは乗組員を手厚く看護し、食料を分け与え、船を出して神戸まで送ったという。

 

 その時、南蛮人たちは感謝の印として、破壊された船の船首像を住民に寄贈した。それがアルテミス像だった。豊かな乳房を持ち、背には矢筒を背負い、弓矢を手にした女神像を、住民たちはその異国的な容貌も相まって貴重なものと認識したらしい。だが、ここが奇妙なところなのだが、彼らは像を収めるべき建物を建てることもなく、しばらくの間村の外れに放置していたという。

 

 アルテミスが寄贈され、しかし風雨に晒されるままにされてから、村には疫病が蔓延した。海が荒れ、出漁した漁師たちが溺死することも多発した。住民たちはアルテミス像が来てからこのような不幸が続発したことに思い至り、像を破壊しようとしたが、そのたびに不思議な出来事が起こり、果たせなかったという。

 

 結局、私たちの先祖に当たる神官が熊野の山奥から呼ばれ、アルテミス像を神として祀り、神社を建て鎮座させることで事態は終息を迎えた。都から学識豊かな人間と、折から我が国に布教に来ていた西洋の宣教師たちを呼び、調査を依頼した結果、この像がアルテミスというヘラス世界の処女神をかたどったものであることが判明した。以来、アルテミス像は「阿提密斯(あるてみす)様」となり、男性は決してこの像に触れてはならないとされた。

 

 像は一年の中で月が最も大きくなる時に、絹の糸で織られた布によって丁寧に拭われるが、それは近郷の村から選ばれた乙女たちによって為される。阿提密斯像は十六世紀からおよそ五百年にわたって、出産を司る女神として和歌山の乙女たちの信仰を集めてきたのだった。

 

 兄は、居住まいを正した。ようやく本題を切り出す気持ちになったようだった。

 

「その、阿提密斯(あるてみす)様なんだが……一週間前、和歌山の資源管理部から吏員(りいん)が来てな。例のエーテル類回収令の対象として、阿提密斯様を供出しろというのだ。数百年の長い期間にわたって信仰を得てきた像ならば、良質なエーテルが得られるだろうということで……他の神社や仏閣でも、神像の類の供出は始まっている。今まで俺は、阿提密斯様がうちの神社の唯一の神様であることを理由にそれを躱してきたんだが、どうやら連中の決意は固いらしい。なあ、本当に阿提密斯様からエーテルが取れるのか?」

 

 私は強い衝撃を受けた。我が国の燃料事情が逼迫しているのは身に染みて知っていたが、まさか自国の神像まで供出することになるとは、そこまで考えが及んでいなかった。

 

 大陸で実際に見聞きしたことを兄に伝えると、兄は溜息をついた。

 

「……やはりそうか。吏員が言うには、阿提密斯様が有するβエーテル素はA2級に相当するらしい。供出すれば、特攻機を三十機は動かせるそうだ。『三十機の特攻機ならば、敵の分艦隊を丸々一個壊滅させられる』と、同行していた海軍の軍人は言った。これほど良質な()()はないと……」

 

 資源という言葉に兄は力点を置いた。兄は明らかに、阿提密斯像を供出することを嫌がっているようだった。

 

「しかし反対するわけにもいかない。俺は、その時は色々と理由を挙げて、拒否を仄めかしたんだ。阿提密斯様が唯一の祭神であること、それから、この像を扱うのは乙女でなければならないこと。そうでなければ信仰の形が損なわれ、結果として含有するエーテル素の量に影響するのではないか。だが、膂力に乏しい乙女に運搬させるわけにはいかないだろう、と……」

 

 兄は私の胸のあたりを見た。その目は精神的な疲労によるものか、光を弱らせていた。

 

「そうしたらな、二日前に吏員がまた来て、輸送の手筈を整えたと言うんだ。和歌山高等女学校の女生徒たちを動員するらしい。あれだけの大きな像を運べるだけの輸送車両はないから、彼女たちの人力で運ばせるというんだ。ここから和歌山港までは十五キロ強もある。それを女の子の腕の力で運搬させると……」

 

 そのようなことは不可能だと私が反論すると、今度こそ兄は私の目をしっかりと見据えて答えた。

 

「そのためにお前のところに来たのだ。吏員はしっかりとお前についても調査していて、お前が大陸で魔術兵として戦ったことも熟知していた。青島で労務者に身体強化の魔術をかけて、作業能率を上げていたこともな。『優秀な兵士だったそうではないですか。賞状まで授与されている。今回の仕事に適任だと思われますが』と言っていたぞ。お前、随分と働いたそうだな」

 

 兄の言葉には紛れもなく皮肉の色が混ざっていた。まるで、私さえいなければ神像の供出を強要されることはなかったとでも言いたいかのような口ぶりだった。そして私は、それに反論できなかった。私はただ、身体強化術式は被術者の健康を損ねる可能性を指摘するに留めた。

 

 首を左右に振りつつ、兄は答えた。

 

「俺もそのことについては訊いたんだ。そんな重労働をやらせたら女の子たちが怪我なり病気なりをするんじゃないかってな。係員は『そのようなことは問題ではないでしょう。女生徒たちはみんな志願してこの仕事に参加するのですから』と言った。志願だとよ! 確かにそれなら問題はないだろうさ。たとえその志願がお仕着せのものであっても、志願は志願だ。それに連中からしてみれば、目標とされるエーテル量を満たすことだけに関心があって、そのためなら誰が何人傷つこうが関係ないんだろう……」

 

 兄の口調からは、諦念が感じられた。既に阿提密斯像の供出を規定事項として受容しているようだった。私は急に、ここで反抗の姿勢を見せておかなければならないと感じた。それが兄のためになると思った。おそらく兄は怒るだろう。その怒りが、兄の精神的な負担を軽減するに違いない。

 

 私は、兄が伝統ある神社を預かる者として、また阿提密斯の信仰を護持する責任者として、あくまで係員に拒否を突きつけるべきだったのではないかと述べた。

 

 兄は、憤然として言った。

 

「何も分かっていないくせに、馬鹿なことを言うな! 日がな一日何をするでもなく、寝転がって時間を喰い潰しているお前に何が分かるか! ここで供出を拒否したら、神社そのものの認定が取り消されるんだぞ。そうなれば本当の破滅だ!……俺だって苦しいんだ。自分で自分の信仰を破壊することになるんだからな。それでも、神像はただの神像だ。罰当たりなことを言うようだが、これは唯物論的な観点からすれば、紛れもない事実なんだ。この戦争の力学が唯物論によって支配されているなら、もう俺に逆らうことはできない。それにな、俺はいっそのこと、この機会に思い切って阿提密斯様を手放したほうが良いと思うんだ……」

 

 兄は灰皿を見つめた。そこには燃え尽きた敵の伝単の破片があった。

 

「遅かれ早かれ、敵はこの和歌山も爆撃する。敵の爆撃はうちの神社も逃がしはしないだろう。そうなれば、阿提密斯様も燃えることになる。いや、仮に爆撃を逃れたとしても、本土決戦となればすべては終わりだ。そうなることが分かっているのだったら、敵の手によって破壊される前にせめて俺たちの手で阿提密斯様を、それも至極有効な形で、壊してしまうほうが良いではないか。三十機分の特攻機の燃料なら惜しくはないだろう。敵に一矢を報いることができるんだ。この戦争の間、祈るだけで国家のためには何の役にも立っていないと散々言われてきたんだ。ここで少しでも神社は役に立つんだと示してやらないと、俺の気が済まない……」

 

 過去の徴兵検査で、兄は肺に欠陥があることが分かり、徴兵免除となっていた。兄はそのことを気に病んでいた。嫂に対して強い態度で出ることができないのも、それが大きな理由だった。嫂の実家では三人の男子を戦地に送り、全員が戦死していた。私は、兄がそれほどまでに大きなわだかまりを抱えつつ今まで生きてきたことを知り、それ以上反論する気を削がれた。

 

「それで、身体強化術式だが……今でもちゃんと使えるのか? 何か必要なものはないのか。資源管理部は、できる限りの手段を提供すると申し出ているが」

 

 私は、ここから和歌山港までの道のりを思い浮かべ、また女生徒の膂力と足の速さを想定し、予備も含めて人造エーテル補充液が四回分は必要だろうと答えた。冷静な私の返答に、兄はようやく愁眉を開いたようだった。

 

「そうか。それならその旨を伝えておこう……搬出は三日後だ。それまでに阿提密斯様に充分祈りを捧げて、お別れを告げておくが良い」

 

 部屋を出る時、兄は吐き捨てるように言った。

 

「五百年の信仰の終焉だ。俺たちの手で、阿提密斯様を壊すんだ……」

 

 思わず、私の口は兄に対し問いを発していた。では、壊した後は? 壊した後の信仰の形は、いったい誰が作るんです? 私たちですか? 自らの手で神を破壊した私たちが、また新たな神を作るのですか? 神はそれを許しますか?

 

 力なく首を振りつつ、兄は目線を落として言った。

 

「分からん。たぶん、国が作ってくれるだろう。俺たちはまたそれに従えば良い。そうすれば、思い悩んで苦しむことはあっても、生きていくことはできるだろうさ……」

 

 兄が去った後、私は井戸へ行き、顔を洗い口を濯いだ。井戸の水は冷たく、私はそれに自分には相応しくないほどのありがたさを感じた。歯のどこかが滲みるように痛んだ。おそらく、虫歯があるのだろう。その痛みが、私に社殿へ赴く気力を与えた。

 

 暑熱は厳しく、汗は相変わらず顔から噴き出していたが、私はそれを拭くこともなく社殿の前へと歩いた。境内に参拝者はおらず、ただ潮騒のような蝉の鳴き声だけが充満していた。社務所の方へ、嫂が何かを抱えて歩いていくのが見えた。嫂の方も私に気がついたようだったが、何も反応を見せず、そのまま去っていった。

 

 社殿の中は薄暗かった。阿提密斯像は五百年も前からきっとそうであったように、静かに、物も言わずに立っていた。私は改めて阿提密斯像を見て、意外なまでに女神が肉感的な姿態をしていることに気が付いた。ゆったりとした衣服の下にはち切れんばかりの生命力が漲っており、弓矢を握りしめる手は力強く、眼差しは鋭かった。

 

 これは単なる木材でできた神像に過ぎない。これを神として無条件の信仰を捧げるほど、もはや私は無垢ではない。私は自分にそう言い聞かせた。それでも阿提密斯が何か言葉を発してくれるのではないかと、その時私は期待してもいた。できればそれは、私たちのこれから行おうとしている行為に対する、肯定であって欲しかった。

 

 そんなことがあり得ないことはよく承知していた。私は大陸で、あの港で、荷物のように扱われ労務者たちの吐瀉物を浴びていた神像たちが、結局は何も言わないままに輸送船の狭い船倉へと運ばれていくのを見た。大陸の神像たちと、この阿提密斯像との間に、なんらの違いもない。βエーテル素を取り出され破壊される運命を待つだけの、単なる人間による被造物に過ぎない。

 

 蝉の声が却って沈黙を強調していた。切断され失われたはずの左腕が、痛みを告げていた。裏切られ、失望したような気持ちになって、私は社殿を後にした。建物を出た時にはもう私の意識は切り替わって、仕事をいかにしてこなすかについて考え始めていたが、すぐに思考は別の方向へと進んでいった。

 

 四本分のエーテル補充液は、私を発狂へと導くのに充分な量だろう。

 

 

☆☆☆

 

 

 女生徒たちは総勢二十名だった。一人の女性教師によって引率されていた。女生徒は制服の開襟シャツを着て、黒いもんぺを履いていた。教師もまたもんぺ姿だった。頭には白い鉢巻を締め、これから取り掛かる仕事に対する熱意を見せつけているようだった。

 

 中年の、国民服姿の資源管理部の吏員がやってくると、最後の神事が行われた。兄が今回の仕事の成功を祈願する祝詞を上げ、次に阿提密斯像に感謝と謝罪を述べる内容の祝詞を上げた。兄は女生徒と教師にお祓いをすると、社殿の中へ彼女らを案内した。女生徒たちは皆、一様に感慨深そうな顔をして阿提密斯像を見ていた。ほとんどの生徒は以前、何らかの形でこの像を見たことがあったが、改めてこれを運ぶことに一種の恐れに近いものを覚えたようだった。

 

 私は吏員からエーテル補充液を受け取ると、瓶の蓋を開けて飲み干した。毒々しい紫色の液体は速やかに私の胃の腑へと到達し、小腸から大腸へ流れ込んで、全身の魔力細胞へとエーテル素を届けた。安物の蒸留酒よりも強く渋い味に、私は思わず咳き込んだ。吏員はそんな私を見て、気の毒そうな顔をした。

 

「本当は軍から魔術兵を一人か二人呼ぼうと思っていたのですが、どうしても都合がつかなかったのです。あなたのようにお国のために尽くして怪我を負われた方に過酷な仕事をしていただくのは心が痛みますが……」

 

 気にしないで欲しい、これはやはり神社の人間がやるべき仕事だと思うから、と私は答えた。私には、阿提密斯像の最後を見届ける義務がある。国からの強制とは言え、そして兄の意向とは言え、私はそれに反対しなかった。身命を賭して反対しなかった以上、私にも阿提密斯像破壊の責任はある。

 

 女生徒たちは私の前に綺麗に整列した。女性教師は一人一人の名前を呼び、呼ばれた女生徒は私に自己紹介をしたが、私はほとんどそれを覚えられなかった。みな、栄養の乏しい顔をしていた。手足は細く、しかし顔はむくんでいる。学校側はなるべく志願者の中から体力に優れた女生徒を選んだらしいが、私はこのような体で十五キロもの道を、重い阿提密斯像を抱えて歩き切ることができるのか不安になった。

 

 自己紹介が終わると、術式をかける時が来た。私は一人一人順番に、術をかけていった。杖を向け、術式を発動し、女生徒の体が魔力を受けて青色に発光する。彼女たちは自分たちの体が突然敏捷になり、軽やかになったことに驚いていた。喜び、はしゃぎながら、熱っぽく友人同士でおしゃべりをしている。教師が試しに一抱えもある大きな石を持たせてみると、女生徒たちはそれがまるで枕でもあるかのように軽々と抱え上げた。

 

「すごい、花子! それなら横綱にだって勝てるんじゃない?」

「巴御前みたい! 嫌な男の子も腕で絞め殺せるわ」

「これなら体操も満点がもらえるわね。砲丸投げの選手になれるわ……」

 

 その間、兄は嫂と父と母の助けを借りて、阿提密斯像に白い布を巻いていた。私が最後の女生徒に術をかけ終わった時、ちょうど搬出の準備も整った。それを待ちわびていたかのように、吏員が私に言った。

 

「さあ、早く出発しましょう。今はもう十時です。本当ならもう二時間前には出発しておきたかったのですが。いえ、もっと理想的なことを言うなら、明け方に出発すべきでした。こういう時に限って時間は遅れに遅れるもので……しかし今からでも急いで行けば、充分今日中に和歌山港に辿り着くことができるでしょう」

 

 私は頷くと、兄に手で示した。兄は頷くと、女生徒たちを社殿の中へと呼び入れた。白い布に巻かれた阿提密斯像は横向きに慎重に倒され、二十名の女生徒によって担ぎ上げられた。十名ずつがそれぞれの側について像を持ち上げている。彼女たちの顔には、苦悶の色はなかった。どうやら術は正常に機能しているようだった。

 

 女生徒たちは歩き出した。境内を進み、鳥居をくぐり、最初の難関である高い石段に差し掛かった。教師が声を出して指示し、女生徒たちを誘導する。彼女たちは横向きになり、一段一段をしっかりと踏みしめて、ゆっくりとではあるが着実に降りていった。私はその光景を見て、阿提密斯像が完全に神社の手から離れたのを実感した。

 

 もうあの像は私が幼い頃から慣れ親しみ、信仰という習慣を育む核となった尊い神像ではなく、単なる資源に過ぎない。

 

 ふと、隣に誰かが立つのを感じた。それは兄だった。兄の目には涙が浮かんでいた。兄は降りていく女生徒と阿提密斯像をしばらく見つめると、ふいに私に顔を向けて、力強く頷いた。私も頷き返し、石段を降りようとした。すると、兄が口を開いた。

 

「国ではない、俺たちの手で破壊するんだ。阿提密斯様を破壊するのは、俺たちなんだ。なぜならそれは、阿提密斯様がそのように……」

 

 言葉は途中で途切れた。私に対して言ったのか、それとも自分自身に対して言ったのか、それは定かではなかったが、兄はともかくもそのようなことを言った。

 

 私はその意味を分かりかねた。石段を降り、既に鎮守の森の中ほどまで進んでいる女生徒たちに追いつくため歩きながら、おそらく兄はあの言葉によって神事に与る者としての最後の矜持を示そうとしたのだろうと、私は思った。

 

 森の中は、蝉たちによって支配されていた。凶暴な太陽光は高い樹木によって遮られ、時折吹き抜ける爽やかな風は私たちに涼感をもたらした。女生徒たちは真剣な表情を浮かべていたが、疲労の色はなく、全体的に明るい雰囲気が漂っていた。

 

 前を行く女性教師に、私は追いついた。教師の年齢はおそらく四十歳ほどで、痩せた体に腰丈の着物とモンペを纏っていた。私が、女生徒たちは立派に仕事をしているが、この先は日光を遮るものが何もない水田の道を通ることになる、気をつけたほうが良いと言うと、教師は頷いて好意的な眼差しを送ってきた。

 

「ご忠告ありがとうございます。生徒たちには水筒と梅干しを持たせてますから、暍病(えつびょう)(※日射病)の心配はしないでも大丈夫でしょう。もし誰かが暍病で倒れるようなことがあったら、その時は魔術をかけて動けるようにしてやってください。仕事を途中で放棄させるわけにはいきませんから」

 

 倒れた者は安静にして休ませるのが常識であるが、それは平時の常識に過ぎない。教師でありながら生徒の健康をないがしろにする発言をしたことに私は内心驚いたが、それを表情に出すことなく、話を続けた。女生徒たちはまだ未成年で体の成長も充分とは言えず、身体強化術式も通常ならば二時間は継続するところ、おそらくは一時間しかもたないだろう。そのたびにまた術をかけ直す必要がある……

 

 私の言葉に教師はいちいち頷いていた。時折、私の手にする軍用魔術杖に視線をやっている。

 

「ではその時もよろしくお願いします。あなたの魔術がなければ、私たちは阿提密斯様をお運びすることもできないのですから……」

 

 短期間に何回も身体強化術式をかけられると、眩暈、嘔吐、悪くすると吐血、意識混濁などの症状が出る。そうなったら一時輸送を中断して休憩をした方が良いと思う、と私は述べた。すると、教師は首を傾げた。

 

「ええ……それほどの症状が出るのでしたら、教師としては生徒たちを休ませないわけにはいかないでしょうが……」

 

 煮え切らない返事に、私はどういう意味ですかと問いを投げかけていた。

 

「いえ、私が休むように言っても、生徒たちはきっと『運びます』と返事をすると思いますよ。彼女たちはみんな強い熱意を持ってここに来たんです。勤労動員で普段行っている工場では、あまり上手に機械を動かすこともできなくて叱られてばかりですが、今日のこの仕事はみんなで一緒に協力して神様を運ぶのですから、全員数日前から楽しみにしていました。ですから、気分が悪くなったり吐き気を催したりしても、きっとみんな運ぶのを止めないと思いますよ……」

 

 白い布に包まれた阿提密斯像は、女生徒たちの手により、鎮守の森を出た。森の外は、炎熱地獄に等しかった。雲一つない青空からは凶悪な太陽光が降り注ぎ、ねっとりと絡みつくような熱風が吹いている。おそらく気温は、摂氏四十度近くあるだろう。女生徒たちは、突然の環境の変化に一瞬戸惑ったようだったが、それでも歩みを止めることなく、着実に足を進めた。

 

 水田の稲は高く伸び、白鷺たちが相も変わらず餌を求めて歩き回っていた。彼ら鳥類にはこの異常な暑さもさして堪えていないようだった。目的地である市街地は、揺らめく陽炎によって遮られている。先が見えないという状況は、女生徒たちの意志の力に少なからず影響したらしい。酷暑も相まって、歩みは、境内を出た時とは打って変わって遅々たるものとなった。

 

 はじめこそ、教師は生徒たちに対してあれやこれやと話しかけ、笑わせるなどして鼓舞をしていたが、次第に暑さが激しくなるにつれて、誰も何も言わなくなった。吏員はしきりと汗を拭っており、腕時計に何度も目をやる。予定時間に間に合うかどうか、気にかかっているようだった。

 

 私は生徒たちの表情を観察していた。明らかに苦しそうな顔をしていたり、血の気が引きつつある様子を見せている生徒には、早い段階で冷却術式を発動し、体を冷やすようにしていた。女生徒たちは魔術をかけられると嬉しげな声を上げ、笑顔を私に向けた。その無邪気さに私の心は痛んだが、それでも私の魔術はしっかりと効果を発揮し、最初の一時間で女生徒たちの中に病人が出ることはなかった。

 

 一時間経って、移動できたのは三キロに満たなかった。それでも食事をしないわけにはいかなかった。生徒たちは弁当包みを広げ、立ったまま食事をした。大半が蒸かした甘藷で、中には麦飯で作った握り飯を食べている者もいた。女生徒たちは互いに互いの弁当の内容に言及することなく、黙々と食事を進めた。私は、この女生徒たちが良く教育されていると思った。であるから一層、このような過酷な仕事に彼女たちを駆り出すことに、後ろめたさを覚えないわけにはいかなかった。

 

 食事を終えると、二回目の身体強化術式をかける時が来た。女生徒たちの反応は、強烈なものだった。一人目から女生徒はうずくまり、身動き一つしなくなってしまった。私が抱き起こそうとすると、女生徒は私に構わず他の子にもかけてくださいと、小さな声で言った。

 

 二人目以降の生徒たちも、一人として平然としている者はいなかった。みな身体の不調を訴え、先ほど食べた昼食を吐いている。私は、昼食前に術をかけるべきだと言っていたのだが、吏員と教師はそれでは輸送が遅れてしまうと反対したのだった。

 

 それでも女の子たちは十数分もすると起き上がり、水筒の水で口を濯いで、鉢巻を締め直し、また阿提密斯像の近くに集まった。そして、「えーい、やぁっ!」という掛け声で像を持ち上げ、また日光が天からほぼ垂直に降り注ぐ中を歩き始めた。

 

 その後の一時間も、女生徒たちは懸命に歩き続けた。それでも、それまでに歩いた距離は合計で六キロにしかならなかった。やはり、女生徒に運ばせるには無理があったのではないかと、私は思い始めた。彼女たちの疲労の色は濃く、二回目の小休止に入った時には、全員が肩で息をし、地面に座り込むか、阿提密斯像に軽くもたれかかるようにしていた。

 

 これ以上の魔術行使は危険だと、私は思った。次にかければ、きっと女生徒たちは吐血するか、あるいは意識を失うだろう。今日はここまでで輸送を終え、また明日にでも再開すれば良いのではないだろうか。

 

 私がそのことを吏員に言うと、彼は明らかに不機嫌そうな口調で答えた。

 

「あなたは、今どれだけ軍が混合濃縮エーテル液を待ち望んでいるか、ちゃんと分かっていますか? この神像を大坂のエーテル生産工場がどれだけ待ち望んでいるか、ちゃんと理解していますか? お国のために、輸送を遅らせるわけにはいかないんですよ。前線の兵隊さんたちの苦労に比べたら、女生徒たちの吐血だの意識混濁だのは、些事に過ぎません。さあ、あなたもそこでぼんやりとしていないで、早く術をかけてください」

 

 この男に何を言っても無駄だ。半ば捨て鉢な気分になって、私は二本目の人造エーテル補充液を飲んだ。一日の許容服用量を既に超えている。酩酊した時のように精神が曖昧になり、視界がぼやけていく。足取りも頼りないものとなり、地面を踏んでいる感覚がない。

 

 それでも私は、女生徒たちに三回目の身体強化術式をかけた。予想通り、生徒たちは吐いた。嘔吐は止まらず、空の胃袋は何も吐き出すものがなくなり、最後には食道が破れて血を吐くようになった。激痛に襲われ、地面の上をのたうち回り、血液の混ざった胃液を道に吐き散らしている。

 

 私は思わず目を背けた。それはあまりにもむごい光景だった。国家のためとは言え、このような苦しみを乙女たちに受けさせて良いものだろうか。この光景を、乙女たちの守護神である阿提密斯像は、いったいどのような眼差しで眺めているのだろうかと、私は考えた。

 

 おそらく、阿提密斯様は私を許しはしまい。女の子たちを傷つけた私を、阿提密斯様は怒りと憎しみの念で以て断罪するに違いない。

 

 エーテル補充液のせいで曖昧模糊としている頭脳のせいか、私は阿提密斯像を見つめていた。そこから起き上がって、乙女たちに家に帰るように言って欲しかった。そして、私をその弓矢で射殺してもらいたかった。それでも、やはり阿提密斯像は動かなかった。

 

 女生徒たちは、立ち上がった。肩を貸し合い、足を引きずりつつ、彼女たちはまた阿提密斯像を担ぎ上げた。天に輝く太陽の勢いは未だに弱まることがなく、熱風も吹き寄せてくる。私の冷却魔法も、次第に効果が薄れてきた。女生徒たちは苦悶の呻き声を上げ始めたが、なおも足を動かし続けた。それでも、道のりは一向に消化できない。

 

 私たちは歩き続けた。ようやく、市街地が遠望できる地点まで来た。神社を出てから、既に五時間近くが経過していた。

 

 全員が疲労困憊の極致にあった時、私は遠雷のような、それとも耳鳴りのような、不吉な響きを耳にしたように思った。思わず周囲を見渡すと、遠く右手に見える山の上空で、何かがきらりと日光を鋭く反射するのが見えた。

 

 私は、敵機だと叫んだ。その瞬間、敵機は私たちの行列を捕捉していた。敵の戦闘機はまず私たちの真上を飛び去り、観察をした後、今度は旋回して道に沿って侵入してきた。

 

 いち早く身を隠さねば、敵機の攻撃から逃れることはできない。戦場でそのことを学んでいた私は、叫ぶと同時に水田の中に飛び込んでいたが、ふと目をやると、女生徒と教師たちはまだ阿提密斯像の近くで固まったままだった。何をしているんだと声を上げると、返ってきたのは女の子たちの意外な言葉だった。

 

「持ち場から離れるわけにはいきません!」

「私たち、阿提密斯様をお守りします!」

 

 何を馬鹿なことをと思い、無理やりにでも水田に隠れさせるために私が立ち上がった、その時だった。敵機は猛烈な射撃音と共に、女生徒と教師に向けて機関砲弾の雨を降らせた。ようやく、悲鳴が上がった。女生徒たちは逃げ始めた。

 

 いつの間にか、敵機は二機に増えていた。交互に支援をするように飛び、一機が機銃掃射をしている間、もう一機は上空を旋回して地上の様子を観察している。私たちが水田に逃げ込んだのを見るや、敵機は道ではなく、背の高くなった稲の中へ向かって、機関砲を撃ち込むようになった。

 

 私の周囲に、ガラガラと音を立てて、敵の空薬莢が落下した。私はひたすら身を伏せて、泥だらけになりながら、敵機が去るのを待ち続けた。

 

 暴風のような敵機の襲撃は、およそ五分ほど続いた。敵機は緊密な編隊を組み、悠々たる飛び方で去っていった。私は水田から駆け出した。

 

 道に這い上った時、私が見たのは血の海だった。

 

 一人の女生徒が、右足を撃ち抜かれて倒れていた。機関砲の威力は凄まじく、足は膝のあたりから半ば千切れかけている。その隣には、別の女生徒が死んでいた。胴体に弾を受け、上半身と下半身とが分離し、赤黒い内臓をこぼれさせていた。

 

 道の上の死体は、全部で五人だった。頭部を粉砕されたもの、腕を失ったもの、胸を撃ち抜かれた者。いずれも即死だった。生徒たちのほとんどが傷を負っていた。私は三本目のエーテル補充液を飲むと、彼女たちに治癒術式をかけた。女の子たちはみんな、静かに泣いていた。

 

 私と、教師と、吏員に怪我はなかった。子どもたちだけが傷つき、大人だけが無傷だったことに、私は非常に強い精神的な衝撃を覚えた。女生徒たちが死んでしまった友人に縋りつき、泣き叫んでいるのを見て、その感情は増幅された。

 

 ここまでしても得られるものは結局、特攻機三十機分のエーテル液に過ぎないのだ。その三十機の特攻機に乗るのも、この女生徒たちとさほど年も変わらない、少年たちなのだ。

 

 私たちは信仰を破壊しているのではない。子どもを壊しているのだ。自分たちの勝手な都合で、子どもという未来を壊している……度を超えた薬剤の服用のせいで、ますます精神の均衡を失っていく私は、そんなことを思っていた。

 

 阿提密斯像にも、奇跡的なことに傷一つなかった。敵機がなぜこの像を攻撃しなかったか、私には不思議だった。

 

 まるで、誰かによって壊される瞬間を待っているかのようだった。では、誰に?

 

 吏員は、悔しそうな顔をして言った。

 

「残念ながら、今日の輸送はこれで断念せざるを得ませんね。私はこれから市の資源管理部へ報告に行きます。しかし、阿提密斯像はどうしたものか……」

 

 像ならば私が一晩中ここで見張っておくと、私は答えた。なぜそんなことを申し出たのか、自分でも分からなかった。吏員の男はほっとしたような顔をした。よろしく頼みます、という短い言葉と共に、吏員は道を先へと進んでいった。

 

 あの男は最後まで、女生徒を気遣う素振りすら見せなかった。あの男は、仕事だけで自分の世界が構築されているのだろう。後ろめたさを一切感じることのない、鋼鉄製の箱のような狭い世界。私は空になった瓶を、力任せに水田へ投げ捨てた。

 

 騒ぎを聞きつけ、付近の農家から人が集まってきた。市内から小型トラックが二台呼ばれ、一台には(むしろ)に包まれた五人の女生徒たちの遺体と教師が乗り、もう一台には生き残りの女生徒たちが乗った。彼女らはこれから学校に戻り、そこで解散をするという。

 

 教師は荷台から身を乗り出して、私に言った。その目は涙によって真っ赤に腫れていた。

 

「今日はこのような不運に見舞われましたが、明日には必ずや輸送を完遂するため尽力します。生徒たちには夜、充分に休んで英気を養うように言っておきますので……なにか、あなたから生徒に対して言っておくことはありますか? 私から伝えておきますが……」

 

 伝えるべきことならば、あった。今日一日で身体に蓄積された魔力素を排出するために、生理食塩水に魔石の粉を混ぜたものを服用すること、入浴し肌を洗い清めること、充分な食事をとり、できれば肉類を摂取すること……どれもが、虚しい言葉のように思われた。私は何も言わず首を振って、教師と別れた。

 

 小型トラックは排気管から青紫色の排気煙を排出し、エンジン音を轟かせて市内方向へ去っていった。手伝いに来てくれた農民たちも次第に帰り始め、日が暮れた頃には、私はたった一人で横向きに置かれた阿提密斯像の傍に座っていた。

 

 夜空は美しかった。星々はまるで地上の戦火を嘲笑うかのように白く煌めいている。私はなおも座り続けていた。空腹感はなかった。ただ、疲労感があった。失われたはずの左腕が、また痛みを発していた。

 

 ぐるぐると視界が回転している。吐き気がし、鼻からは血が垂れている。歯茎から出血しているようで、口の中は鉄の味で満たされていた。魔力枯渇とエーテル毒の典型的な症状だった。

 

 意識の混濁が始まるのも、もうすぐだろう。そうなれば、私の精神は今度こそ崩壊する。恐ろしくはないが、ただひたすらに気怠かった。

 

 ぼんやりと、私は考えた。明日になれば、また女生徒たちはここに来るのだろう。ここに来て、私に身体強化術式をかけられ、炎天下を阿提密斯像を抱えて歩き、嘔吐し、吐血し、敵機の銃撃を受けて死ぬだろう。

 

 私は、果たして自分がその繰り返しに耐えられるか自問した。そして、耐えられないと結論した。

 

 私は、四本目のエーテル補充液の瓶を袋から取り出し、一気に中身を飲み干した。空になった瓶を投げ捨てると、ガラスが砕け散る音がむなしく響いた。

 

 像は静かに横たわっていた。彼女たちの苦しみはすべて、この阿提密斯像にある。信仰の形であり、尊崇の対象であったはずの神像は、国によってその在り方を破壊され、いまやただの物質になってしまった。これは単なるエーテル資源に過ぎず、神ではない。

 

 神は人間を苦しめ、困窮の淵に追い込むことが許される。なぜなら、それには人間が計り知ることができないほどの神意が含まれているからだ。ならば、神をかたどっただけの物質が人間を苦しめることがあって良いだろうか?

 

 私は白い布に覆われた阿提密斯像を、改めて見た。像は沈黙している。乙女たちの苦悶にも、その死にも、像は何も言うことはなかった。その沈黙こそ、この神像が単なる物質に過ぎなくなった証明のように思われた。

 

 なんとしてでも、私はそれを否定したかった。いや、像そのものに、否定してもらいたかった。

 

 だんだん意識が遠のいていくのが感じられた。過度に服用したエーテル補充液は、やはり私の身体に大きな損害を与えたらしい。それは私が望んだことだった。私はそれを望み、最後の補充液を服用したのだった。

 

 理性が、最後の囁きを私に齎した。それは背反する二つの内容から成り立っていた。

 

 眠らなければならない。さもなければ、明日の仕事に差し障る。女生徒に像を運ばせ、吐血させ、死なせる仕事ができなくなる。

 

 眠ってはならない。もし寝れば、私は夢を見るだろう。私を狂わせる夢を……

 

 突如として、鈍い発砲音が私の聴覚を刺激した。発砲音は、和歌山市を防衛する高射砲のものだった。高射砲は弾幕を張っているようで、射撃音が途切れない。

 

 いつの間にか、夜空には無数の黒い影が浮かんでいた。それは、敵の大型爆撃機の群れだった。爆撃機は和歌山市上空に殺到し、爆弾と焼夷弾の雨を降らせ始めた。数十分か、それとも一時間だろうか、和歌山市が真っ赤に燃え上がったのがここからでも確認できた。巨大な火の渦が、あたかも竜巻のように吹き荒れて、ありとあらゆるものを燃やし尽くしているのが見えた。

 

 爆発音が連続し、振動が地面を伝わってこちらにやってくる。巨大な白い閃光が発生し、火の勢いがさらに増した。御城の天守が炎に包まれている。和歌山市は、焦熱地獄と化していた。

 

 私はそれを、夢か現か定かならぬ心地で見ていた。私の周囲は、いつの間にか炎に包まれていた。その炎を起こしたのは、ほかならぬ私だった。私は軍服を身に纏い、軍用魔術杖を手にし、ぶつぶつと呪文を呟きながら水田を焼き、神社を焼き、兄と嫂を焼き、父母を焼いている。吏員の男を焼き、トラックごと教師と死体に火炎を吹きかける。黒焦げになった死体は、歩いて私の後を追ってくる。

 

 私は、燃え尽きたそれらを穴に捨て、土を被せ、その上に円墳を建てた。円墳は突然、機関銃を撃ち始めた。中から私を撃っているのは、敵機の射撃で死んだ高等女学校の少女たちだった。私が熱放射術式で円墳を焼くと、少女たちの叫び声がした。円墳の背面へ行く。出入口から出てきたのは、一人の男だった。熱で溶けて一体化した少女たちの死体によって、男の体は出来ていた。男は、私の左腕を切断したあの敵兵だった。敵兵は笑みを浮かべて砍刀(かんとう)を振り、私の両腕を斬り落とし、両足を切断した。

 

 斬り落とされた私の手足は港になり、船になり、労務者たちになり、神像となった。手足は動き、働き、嘔吐しつつ、神像を船へと運び込んだ。私は魔術をかけて、労務者に身体強化を施す。労務者は吐血し、動かなくなったが、私はそれを指で摘まみ上げて、港の外に放り投げた。

 

 いつの間にか、私は巨大化していた。私は巨大な人間となって、和歌山市を炎で包み込んでいた。すると、燃え盛る市街地から、大きな人影が立ち昇った。それは、阿提密斯だった。顔は焼け爛れ、皮膚が垂れ下がっている。だが、その目はどこか穏やかだった。阿提密斯は弓を手にし、矢筒から一本の矢を引き抜くと、弓につがえてよく引き絞り、私に向けた。

 

 私も阿提密斯に杖を向けた。熱放射術式を放とうとしたが、何も発動しない。そうだ、私はあの敵兵によって、術式を封じられている。そう気づいた瞬間、私は胸を撃ち抜かれていた。矢が当たった場所からは、血の臭いがする炎が吹き出た。

 

 倒れる私に、阿提密斯は言った。

 

「汝が我を焼かず、乙女を傷つけるに任せるのならば、我は汝を撃とう。汝が我を焼き、乙女を救うのならば、我は汝を許そう。我の弓矢によりて汝は清められ、罪悪から逃れ出るであろう」

 

 阿提密斯は、再度弓を引き絞った。そして、私に向かって鋭い矢を放った。矢は私の胸にまた命中し、心臓を抉り出した。心臓は体から飛び出し、矢が突き刺さったまま、その姿を大きく変えていった。

 

 心臓は大きくなり、毛が生え、脚が伸びた。牙を持ち、幅広の鼻をつけ、大きな耳を持った。それは巨大な猪だった。猪はしばらく私の周りを駆け続け、そして絶命した。口からは真っ黒な液体を吐き出していた。

 

 目が覚めた時には、まだ爆撃は続いていた。市は一個の巨大な火の玉となっていた。私は、自分の頭脳がかつての鋭敏さを取り戻しているのを感じた。過去に私たちが享受していた、澄み渡った朝の大気のように、私の思考は明確になっていた。

 

 もしかすると、私は狂気に落ちたのかもしれない。狂気が、病み衰えた私の頭脳を一時的に活性化しているのかもしれない。

 

 だが、私は確かにあの夢の中で、阿提密斯によって救いを得た。

 

 阿提密斯は、私の胸に巣くう罪悪感という怪物を射貫いたのだ。あの猪の形をした怪物を、狩猟の女神は射貫いたのだ。私はそう理解した。

 

 湿った呼気が肺臓の奥から込み上げてきた。私は、ようやく自分だけの信仰の形を得られたことを阿提密斯に感謝しつつ、杖を像へ向けた。

 

 熱放射術式は、問題なく作動した。魔力の放出は、性的快感にも似ていた。

 

 なおも爆発音が鳴り響いている。眼前で燃え上がる紅蓮の炎を見つめながら、私はいつまでも笑い続けていた。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・ほいれんで・くー「わが胸を射貫くアルテミス」

 2021年8月1日公開。こちらも前作と同じく、『ラインの娘』のために書き下ろした作品です。22,000字程度に話を収めるはずが、こんなに長い話に……(30,002字あります) 今回は書いていて話の決着をどうつけようか迷いました。いえ、決着の仕方自体は早くから決まっていたのですが、そこに至るまでの主人公の心の流れをどうするかが問題でした。罪悪感というテーマを見据えてから、上手くすべてがはまったような感じがします。

次回もお楽しみに!

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