ヤギの乳のように濃い霧が、明けそめる
肘に継ぎの当たった袖へ腕を通しながら、琴浦はふと、自分が今、霧をも身に着けようとしているかのような錯覚を抱いた。乳白色の霧は、なぜ全身がその色に染まってしまわないのか不思議なほどに、彼の体に纏わりついている。
霧はありとあらゆるものを隠してしまう。空腹と尿意を覚えながら、琴浦はぼんやりと考えた。霧を身に纏うことで、自分もこの世のありとあらゆるものから見つからない存在になってしまえば良い。だが、霧がこのように力を持っているのも、一日のうち限られた時間でしかない。霧ですらも、人ひとりをこの世から永久に隠し通すことはできない……上着を着終えた彼は、小屋の中心部で、虫に喰われた
この小屋へ琴浦が来てから、三日目の朝だった。彼以外に人間はいなかった。彼はただ一人で山の中にいた。ここから麓の村まで、直線距離で十五キロ近くある。道をよく知る炭焼き職人の健脚を以てしても、その距離を歩くのに二時間以上はかかる。それでも、琴浦は安心できなかった。一定の時間と空間の隔たりがあっても、彼の心はまったく自由ではなかった。
時刻は朝で、この場所はほとんど誰にも知られていない。村から距離もある。霧も出ている。しかしそれらのことは自分の安全を示すのと同時に、重大な危険性をも意味していた。
追うものにとって、自分がそのように考えることこそ、望ましいことなのだから。琴浦はそう考えた。
琴浦は耳を澄ませた。彼は、可能ならば、獣の体毛が擦れる音から虫の溜息まで聞き分けようとしていた。三日目にして、耳を澄ませることは早くも彼の新しい習慣となってしまっていた。彼は全神経を集中して、音を探ろうとしていた。去年まで参加していた防空演習の時ですら、ここまで真剣に聴覚を駆使したことはなかった。彼は最後まで敵機のエンジン音の種類を正確に聞き分けることができなかった。
五分経ったのか、それとも十五分経ったのか、彼には定かではなかったが、やがて集中力が途切れ始めるのと同時に、弛緩にも似た安心感が訪れた。ここへ訪れるものは誰もいない。シカも、イノシシも、ここには来ない。彼は
小屋の中に戻ると、琴浦はまた横になった。霧は徐々に薄れていくようだった。おそらく霧が晴れるのとほぼ同時に、セミたちの混声合唱が始まるに違いない。彼はそのことを憂鬱な気持ちと共に思った。なすこともなく、ただ時間が過ぎるのをこの山の中で待つ。耳を聾するかのようなセミたちの声の中で、小屋の中で汗を流しながらひたすら座り続け、裏手から漂ってくる汚物の臭いに耐えねばならない。朝の沈黙は彼に緊張を強いるものだが、昼の喧騒は彼に忍耐を強いるものと言えた。
琴浦は、緊張には慣れているつもりだった。あの戦争を耐え抜いた者たちはみな、それなりに緊張というものを経験し、緊張への身の処し方を会得していた。だが、忍耐を忍耐として受け容れるほどには、彼はまだ成熟していなかった。戦時中、彼もまた他の国民と同じように忍耐はした。だが、そこにはいつも苛立ちが伴っていた。高徳な僧侶のように泰然として忍耐すべきことを忍耐することなど、若い彼にはできなかった。
寝転びつつ、琴浦は空腹のことを思った。知識や経験や、友情や真理や美が必要なように、彼には栄養が必要だった。彼はまだ十七歳だった。それでも、未発達の身体の諸器官が成長に必要とするだけの栄養を、彼はこの数年間得ていなかった。彼は小屋の中を見渡した。霧はもう晴れていて、戸口から差し込んでくる日差しは今日の大気が常に変わらず凶暴なものとなることを予想させた。
小屋の隅に置かれている帆布製のリュックサックを、琴浦は持ち上げた。三日前には
食べ終えると、彼は喉の渇きを覚えた。だが、彼は水筒へ手を伸ばさなかった。水筒の中身は残り少なく、残量に気を遣わねばならなかった。ここから数百メートル離れた場所には沢が流れているが、今日はここから離れるわけにはいかない。いつ、村から人がやってくるか分からなかった。その人は彼に今後数日間、生存を可能にするだけの食糧を持ってくる予定になっていた。
誰が来てくれるのだろうと、琴浦は思った。この場所へ彼を導いてくれたのは叔父と、あまり面識のない中年の農夫だった。この炭焼き小屋はその農夫の所有するものだと琴浦は聞いていた。三日前、
去り際に叔父は言った。「とりあえず、一週間は様子を見る。お前はここにいろ。決してここから他の場所に行ってはならんぞ。食べ物は三日後に俺が持ってくる。いいか、決して他の場所に行ってはならんし、村にも戻ってきてはならん。状況は悪いが、時間を稼げばまた活路も拓けるはずだ……」
琴浦は、その時間が裏切るようなことも充分にあり得ると考えていた。あの事件の関係者だと見なされている自分が村からいなくなったことは、警察も重く見ているだろう。警察は周囲への聞き込みを進めるに違いない。時間が経てば経つほどに、情報は精度を増して警察の元へ集まるだろう。既に叔父一家は取り調べを受けているかもしれない。叔父は不用意なことを決して話さないだろうが、権威に弱い村人たちは自分に関して何かを漏らすかもしれない。
三日目に叔父は来ると言った。その叔父が食糧ではなく、警察官を伴ってやって来るかもしれない。そうなれば自分は捕縛され、分署に留置され、最終的に占領軍の憲兵隊へと……琴浦は、突如目に痛みを覚えた。額から流れ落ちた、塩気の多い汗の粒が目に入ったのだった。気付けば、周囲はセミの声で満たされている。瞬きもせず思考に耽っていた自分自身を見出して、琴浦は果たして自分がそのような事態を最悪のものとして考えているのか疑問に思った。
予想した未来は、確かに自分にとって最悪以外のなにものでもない。それでも、予想するという行為そのものは、この独居房のような小屋の中で強いられている、忍び難いほどの忍耐を忘れさせるという点で、彼にとって有益なものであると言えた。
暑熱が小屋に満ちようとしていた。琴浦は学生服を脱ぎ、黄ばんだシャツを脱いだ。痩せた上半身にはあばら骨が浮いていた。垢と汚れによってくすんだ肌にじっとりと汗が浮いている。流れ落ちる汗が汚れを洗い流し、黒い筋を描いた。汗は彼のズボンをしとどに濡らしており、革のベルトは水気を含んで、生き物のように光っていた。
ふと、琴浦は右腕へと視線を転じた。そこには黒い大きな蚊が、繊細な
右前腕に花開いたのは、粉々に打ち砕かれた蚊の黒い残骸が混ざった、琴浦の血液の赤い染みだった。彼はその赤い血を見て、即座にあの時のことを思い出した。
あの時、彼は確かに自分の手で、あの若い男の胸を突き刺した。節の太い、穂先も荒削りの竹槍で突き刺した。肉を裂く生々しい感触と、骨の意外なほどの硬さが穂先から持ち手を通じて、琴浦の元へ伝わってきた。
黄色い髪をした若い男の、生地の薄い飛行服が見る見るうちに赤く染まっていったのが、まざまざと琴浦の眼前に蘇った。憐れみを乞うような男の表情が刺された瞬間には驚きに変わり、間を置かずして、恐怖と、少しばかりの憤怒とに支配された顔へと変化した。若い男は地面に倒れ、異国の言葉を二言か三言発すると、猫が喉を鳴らすような音を立て始めた……
気づいた時には、琴浦の上半身の至る所に大きな蚊が張り付き、旺盛な食欲を発揮していた。今度は、琴浦は蚊を打たなかった。
小屋の外のセミはなおも歌声を響かせ、自身の生の尊さを絶叫している。琴浦は小屋の中で、修行僧のように黙然として端座し、俯き続けていた。
☆☆☆
その若干の損害の中に、琴浦の父がいた。父は既に五十歳を超えていたが、身体は頑健で、折からの食糧不足にも体調を崩すことなく、製鉄所への勤務を欠かしたことはなかった。祖国の重工業の基幹である製鉄を、一時と言えどもゆるがせにするわけにはいかないと、父は常々息子に対して言ったものだった。
その夜、演習ではない、本物の空襲警報のサイレンが鳴り響く中、琴浦の父はなおも製鉄所にとどまった。腕の良い労働者としての誇りと、長年勤続してきた職場への愛情が、父を製鉄所から退避することを妨げた。敵にとって初の本格的な本土空襲ということもあり、爆撃の照準は不正確で、製鉄所構内に落ちた爆弾は数えるほどでしかなかったが、琴浦の父はそれによって死亡した。
琴浦が職場からの知らせを受けたのは、翌朝の七時のことだった。電話は不通となっており、製鉄所から自転車で工員がやってきた。泣き出す母をなだめることもなく、琴浦は即座に家を飛び出した。経験したことのない空襲警報を受けて、母と共に自宅の庭に掘った防空壕へ入ったのは前夜の二十一時であり、それ以来眠ることもなく狭い壕内で過ごしていた彼は極度の眠気に襲われていたが、知らせを受けてそのようなものは消失してしまった。
市内の自宅から、彼は自転車を漕いで製鉄所へ向かった。慢性的な空腹と、パンクしたままのタイヤのせいで、彼の自転車はなかなか前へと進まなかった。
およそ一時間後、琴浦は製鉄所に辿り着いた。前夜に空襲を受けたとは思えないほどに、製鉄所は変わりがなかった。煙突が林立し、数々の巨大な炉が立ち並んでいた。騒音と、蛮声のような工員たちの会話と、混合濃縮エーテル液の甘い匂いと、海に浮かぶ船の汽笛の音が、いつもどおりの製鉄所の雰囲気を演出していた。
既に父の遺体は事務所へと運ばれていた。レンガ造りの古風な建築物の入口で、父の遺体は数人の同僚や上司に囲まれて、横たわっていた。同僚たちは俯いていて、無言だった。遺体は担架に乗せられ、新品の
琴浦は茣蓙をそっと捲り、父の死顔を見た。意外なほどに、その顔は穏やかなものだった。血の気が若干引いており、左頬に横一筋の油汚れがついている他は、家から出勤した時の父そのものと言えた。青色の作業服を身に纏った体にも、傷はまったく見られなかった。
無言で父の遺体を見つめる琴浦に、上司が沈黙に耐えかねたかのように口を開いて、父が死んだ時の状況を語り始めた。最初の爆弾が構内に落下した時、集積場に積み上げられていたエーテル缶が燃え上がった。父は率先して消火ホースを手にし、鎮火に努めた。その数分後に飛来した敵機が落とした爆弾の破片を受け、昏倒したという。
琴浦が傷口はどこかと尋ねると、同僚たちは父の首と体を傾けた。後頭部に、椎の実ほどの大きさの穴が開いていた。体が傾いたことで、脳内に溜まった血液が破壊された脳漿と共に少し漏れ出た。茶色に濁った液体だった。琴浦は手拭いを折りたたむと父の傷口に当てて、遺体を元通りに横にさせると、同僚と上司に頭を下げて礼を言った。
納棺と葬儀の段取りについて手短に説明を受けた後、琴浦は自転車に乗って自宅へと向かった。時刻は昼前になっていた。家に帰ったら、母に顛末を説明しなければならない。それが彼の気を重くさせた。おそらく、いやきっと、母は泣き喚くだろう。そして自分は、今一つ実感のこもらない慰めの言葉を口にしながら、母の肩を優しく撫でることだろう……
軍は敵の反復攻撃を予想し、製鉄所もそのように覚悟していたが、その夜は結局、空襲はなかった。父は社葬をもって送られた。その頃には、まだ社会全体に故人を悼むという感傷が残存していた。戦地では膨大な死者が出ており、肉親の死は国民にとっても身近な、ありふれたものとなっていたが、敵の本土空襲による犠牲者ということもあり、父の死は報道関係者にとって格好の取材源となった。記者たちによる無遠慮な取材から母を守っていた琴浦にとって、僧侶の誦経は意味は分からないながらも、この上なく妙なる音曲のように耳に響いた。
琴浦には二人の兄妹がいた。長女は他家へと嫁ぎ、福崎市内に在住していた。すぐ上の兄は歩兵として数年前大陸に出征したが、その年の春に戦地で病を得て没していた。琴浦の父は四男であり、養うべき両親はなく、八幡の家には中学生の琴浦と、琴浦の母だけが残された。
姉は母に、琴浦と共に福崎市内へ引っ越すように勧めた。だが、母はそれを拒否した。八幡の家は、独力で父が建てたものだった。十代の頃、県境の山村から単身都会へ出て、一労働者として精勤し資金を貯めて、妻と三人の子供を育てながら建てた家だった。母はその家を放棄するのに忍びなかった。製鉄所からの見舞金と保険金、それからわずかながらに残った貯えを切り崩せば、まだ中学生の琴浦が職に就いて一人立ちするまでは生活ができる。そのように母は抗弁した。姉たちもその気持ちを汲んだ。
それからの一年間、琴浦は母と共に暮らした。戦況の悪化に比例して、生活水準もまた劣化の一途をたどった。配給は滞りがちになった。肉類がなくなり、砂糖が消え、マッチは一箱すべてを費やしても火が点かないようになった。琴浦は、いつからか自分が菓子を口にしていないことに気付いた。小学生の頃はキャラメルや飴といった他愛のないものを、学校の帰り道で友人と共にしゃぶったものだった。
学校で授業が行われることも減った。軍事教練と、防空演習と、勤労動員が授業にとって代わった。敵は六月の初空襲の他、八月中旬に一度だけ八幡へ空襲を実行したが、それ以降は絶えていた。他の大都市や工業地帯が猛爆撃を受け、軍事力と経済と、一般国民の生命が灰燼へと帰している中、このような状況は異常とも言えた。
琴浦の友人の一人は、「学期初めに新任の教師に当てられた生徒と同じさ」と言った。「最初は目立つが、それから後は不思議と当てられなくなる」 琴浦は、そういったこともあるかもしれないと思った。しかしその反面、八幡が敵の関心から完全に外れたとも思えなかった。父が愛し、父が死んだ製鉄所は、依然として国家の重工業の中心を担っている。製鉄所が攻撃されないのは、敵による侮辱だと彼は考えた。
年が明けてからも、戦況は好転しなかった。報道は相変わらず大戦果を報じ、その一方で最終的な勝利をもたらす決戦の機が熟していることを喧伝していたが、巷間に漏れ伝わってくる噂はそのほとんどすべてを否定していた。聯合艦隊は壊滅し、比島の陸軍は包囲されている。大陸の戦線も膠着して動かない。敵の次なる侵攻は、おそらくフォルモサ島か、琉球・奄美方面であろうと言われている。
いよいよ敵が本土の近くへ迫ってきたことで、琴浦の学校での軍事教練も激しさを増した。それは一種の狂気を孕んでいた。重視されたのは、銃剣による刺突の練習だった。叫喚と共に木銃を抱えて突進し、踏み込み、巻き
栄養不良と、若者らしいあまり意味のない反抗心を抱える中学生たちの中にあって、琴浦の刺突の冴えはひときわ優れたものだった。さほど体格の良くない彼の叫び声は、他の生徒と比較して大きいものではなかったが、聞く者を少なからず動揺させるほどの迫力を有していた。殺気と呼んで差し支えないものが、彼の声には含まれていた。
巻き藁に銃剣を突き立てるたびに、彼は眼前に敵兵の姿を想像した。その姿は顔を持たず、肉を持たず、影のように揺らめいていたが、それが却って彼の攻撃性を増進させた。銃剣が巻き藁に刺さり、それを勢い良く引き抜く時、彼は力を込めて穂先を捻じった。想像上の敵の肉を抉り、動脈を切断し、骨を削るように、彼は全身全霊を込めて銃と銃剣を操った。そうすると、イメージ上の敵は、脆くも崩れ去るのだった。
年老いた配属将校は教練の際、いつも琴浦を褒めた。「全生徒が琴浦を模範として教練をするよう」に、煙草の吸い過ぎで半ば潰れた声で配属将校は言うのだった。琴浦はそれをあまり喜ばなかった。彼はもともと学業に秀でていたわけでもなく、体操が得意だったわけでもない。殺気という一点においてのみ、彼は優れていただけだった。配属将校が彼を褒めれば褒めるほどに、彼は他の生徒からの反感を買うことを知っていた。生徒たちは、表立って琴浦を詰ったり、迫害することはなかったが、次第に彼を遠ざけるようになっていった。
しかし、銃剣術の熟達は、琴浦にある変化をもたらした。何も取り柄のない自分が得たもの、それは戦場ではまったく役に立たない古文や漢文、歴史、代数、幾何、化学の知識ではなく、この戦時においてこそ相応しい、「敵を殺すための」技術だった。
同級生たちは、敵が来ても逃げ惑うだけだろう。口では偉そうなことを言っていても、爆弾が降り注ぎ、弾丸が乱れ飛ぶ状況になれば、奴らはすぐにでも逃げ出すに違いない。だが、自分は違う。自分だけはなんとしても敵兵に近づいて、銃剣を突き刺してやるのだ……
父の死によって芽生えた敵への殺意は、危ういほどに純化され、一種の観念へと回帰したかのように見えた。観念を拠り所にして自尊心が生まれ、その自尊心が、彼の学校生活における孤独を癒した。いびつな精神構造だったが、彼はそのように自己分析することができなかった。
五月が終わりつつあった。敵は琉球・奄美での激戦に大損害を出しつつも勝ち抜き、守備隊と現地住民のほとんどが地上から消滅した。
琴浦の父の一周忌が近づきつつあった。仏壇にあげる線香は、既に手に入らなくなっていた。
☆☆☆
炭焼き小屋へ訪れたのは叔父ではなく、中年の農夫だった。セミの声が弱まりヒグラシが鳴き始める時間、太陽が山の彼方へと姿を消しつつあるその時間に、農夫は音もなく訪れた。
琴浦はその時まで、ずっと
琴浦が水を飲み干すのを見ると、農夫は重々しく口を開いた。「
水分を補給したことで、琴浦の脳は活力を取り戻していた。彼の中に、警戒心が芽生えた。暑気と空腹と疲労とで土気色になった琴浦の顔色がさらに悪化するのを見て、農夫もそれを悟ったようだったが、彼は何も言わなかった。農夫はじっと琴浦を見つめるだけだった。琴浦もまた、農夫を見つめた。農夫の眼差しは真剣そのものだった。
学校にいた頃、意地の悪い代数の教師は、「嘘をついているかどうか見分けるのは簡単だ」と言っていた。「怪しい奴の目をじっと見てやりさえすれば良い。心にやましいところがある奴は、絶対に目が泳ぐ。『目は口ほどに物を言う』とはこのことだ」 そう言って彼は、課題を忘れてきた琴浦の手の甲を、竹の地下茎でできた教鞭で思い切り叩いた。そのように言い、そのように振舞った教師自身の目が、狂ったように動き回り、濁っていたのを琴浦はよく記憶している。
この農夫は、目が泳がない。嘘をついているかどうか、そこまでは分からないが、少なくとも敵意はないようだ。琴浦は頷いた。彼は茣蓙から立ち上がった。仮にこの農夫が、嘘を吐くことによって生じる身体的な反応を隠すことができるのだとしても、今は従わざるを得ないのだと、琴浦は考えた。
琴浦が身支度を整えている間に、農夫は持ってきた食糧と、もう一本の水が入った五合瓶をリュックサックに詰め始めた。「芋と、焼き米が三日分ある」 農夫は静かに言った。それから先の食糧について、農夫は一言も言わなかった。琴浦も、あえて問う気にはならなかった。彼は再び重くなったリュックサックを担いだ。
二人は炭焼き小屋から出た。夕方に特有の爽やかな風が、隣の山の尾根から吹き渡った。風は農夫の体臭を琴浦に伝えた。それは強い汗の臭いだった。衰えた細胞と神経伝達物質が溶け出した、疲労した臭いだった。琴浦はそれを嗅覚で感じて、先ほどの自分の考えが間違っていなかったことを直感した。やましいところのある人間は、自然と歩みが遅くなるものだろう。この農夫はそうではなく、おそらく、村を出てから休むことなくここまで歩いてきたに違いない。彼はようやく安堵の念を抱いた。
山の日は急速にその光を失いつつあった。樹々の梢がその輪郭を失って曖昧になり、視界は霞んで羽虫のような黒点が無数に浮かび始めた。琴浦は、前を行く農夫の姿が不鮮明になりつつあることに危機感を覚えた。足元もおぼつかなくなっている。転倒して足を
農夫はそれを聞くと、背嚢から、黒く細長い筒状のものを取り出した。「魔石式の
それからほどなくして、完全に日が没した。セミの声に代わって、地を這う虫たちの鳴き声が響き始めた。月と、月に導かれる星たちは、未だ夜空に姿を見せなかった。日中、山の草木が大気に放出した水蒸気が透明な
今の琴浦にとって、頼れるものは青白い光を放つ蓄光器と、前を行く農夫の背中だけだった。農夫は迷うことなく先へと進んでいく。時折、顔へと飛来する羽虫を払おうとするのか、農夫は手を振ったが、それ以外には何もせずただ足を動かし、心に思い浮かべているであろう目的地へ向かって前進を続けた。それでいて農夫は、背後を進む琴浦に対する注意を失うことはなかった。コウモリが目を掠めて飛び去った時に琴浦が思わず声を上げると、農夫は「大丈夫か」と気遣う言葉をかけた。
空腹と疲労によって、琴浦の時間の観念は次第に希薄なものとなっていった。そういえば小屋を出る時に食事をしなかったと、彼はぼんやりと思った。農夫がそのことに思い至らなかったわけはない。農夫が出発を急いだのには、確たる理由があったに違いない。おそらく琴浦が考えている以上に、村での事態は切迫しているのだろう。警察の目が厳しかったために関下の旦那は来ることができなかったと農夫は言ったが、あるいは叔父は既に、拘束に近い状態にあるのかもしれない。
無心に、機械的に足を動かしていると、急に琴浦の視界が開けた。そこは断崖だった。いつしか夜空に昇った月が
農夫は山歩きに慣れていない琴浦のために回り道をしたようだった。「もうそろそろ」という言葉が、琴浦に時間の観念を取り戻させた。彼は、農夫が余計なことを言ったものだと思った。目的地に着くまでの数十分に満たないはずのその時間を、彼は永遠であるかのように感じた。
軍事教練の時、虫の居所が悪い配属将校が、生徒たちが疲労困憊するまで刺突を繰り返させたことを彼は思い出していた。あの時も配属将校は、生意気な生徒たちをいたぶるかのように、「あと一回!」と繰り返したものだった。その一回には、十回、五十回、百回もの「一回」と、その苦しみとが濃縮されていた。
梢の間から星々が輝いていた。いつの間にか、下り道は終わっていた。農夫が突然、「ここだ」と言った。そこには背の高い木が生えており、月の光を遮っていた。土の少ない地面には荒く大きな岩石が露出しており、ところどころに開いた窪みや割れ目の中に、怪しげな青い燐光が見え隠れした。農夫は更に数メートル進むと、背の高い下草を掻き分けて根元を覗き込み、得心したように頷いた。
「根元を蓄光器で照らしてみろ」と農夫は言った。琴浦は、言われた通りにした。腰を屈め、下草を押し分けて根元を照らして見ると、地面には細長い割れ目が広がっていた。割れ目の先は緩やかな下り道になっていて、琴浦が腹這いになれば何とか奥に入っていけるほどの幅だった。琴浦が割れ目を確認し、腰を伸ばして立ち上がったのを見ると、農夫はまた口を開いた。
「ここいらの山地は昔から天然の蓄光石が採れた。俺のじいさんの代までは、ここで蓄光石を採掘して、筑豊の炭田に送って儲けていたんだ。軍隊でも高く売れた。調子に乗って採り過ぎたせいで、だんだん採算が取れなくなっちまったから、今はそのままで放置されているが、それでも人一人が潜り込むには充分な隙間があちこちに開いている。昔の人間は今と比べて小さかったからな……」
農夫が言外に言わんとしていることを、琴浦は理解した。どうやら、この隙間の中に身を隠し、新たな隠れ家としろと言いたいらしい。彼は、自分に差し迫っていると思われた危機が、やはり重大なものであったのだと思った。あのまま炭焼き小屋に居続けたならば、遅からず自分は警察によって逮捕されていたのだろう。
琴浦は急に喉の渇きを覚えた。彼はリュックサックを下ろし、中に収められた五合瓶を取り出そうとした。紐を解こうとしたその時、農夫が彼の眼前に何かを突き出した。それは水筒だった。
「そっちじゃなくて、これを飲め。水は大切にしなけりゃならん」 農夫は水筒を振って、琴浦に飲むように促した。水量は未だ充分にあるようだった。琴浦は感謝の言葉を述べて、水筒の中身を二口ほど飲んだ。それ以上に飲みたい気持ちも無論あったが、帰りにこの水筒を頼りにしなければならない農夫のことを思うと、喉の動きは自然と弱まった。彼は水筒を返した。
どこかでフクロウが鳴くのが聞こえた。谷間に吹き下ろす風が大樹の枝先を揺さぶり、潮騒にも似た音を立てた。予想外に大きなその音が、琴浦を怯えさせた。時刻は二十一時か、あるいは更に経っているものと思われた。琴浦はなおもその場に立ち尽くし、躊躇していた。農夫は無言で琴浦が動くのを待っていた。彼は、琴浦がその割れ目へ入ったのをしっかりと見届けてから、村に帰るつもりであるようだった。
また、一陣の風が吹き渡った。農夫は水筒から一口水を飲むと、呟くように言った。「まあ、あの暑い小屋の中で、三日間も蚊に喰われながら辛抱したお前さんなら、ここでも大丈夫だと俺は思うよ」
琴浦の精神は急速に活力を取り戻した。農夫の言葉には、仄かな温もりがあった。あたかも父親が難事に挑む息子を不器用に励ますような、そのような懐かしさを彼は感じた。彼は農夫のために、この割れ目に入ろうと決心した。早くこの割れ目に入り、農夫の役目を終わらせて家に帰れるようにしなければならないと、琴浦は思った。
琴浦はこれまで世話になった礼を言い、深く頭を下げると、割れ目の前へと向かおうとした。すると、農夫が彼を手で押しとどめて言った。「大切なものを渡すのを忘れていた。これだ」 そう言って、農夫はポケットから取り出した手のひらほどの大きさの、平たい円盤状の缶を琴浦に渡した。月の光に缶の金属色が照り映えていた。ラベルの文字は掠れていたが、わずかに英文字で「
「うちの
節約という言葉に、琴浦の精神は敏感に反応した。それを裏付けるように、農夫はさらに言った。「次にいつまたここに来れるか分からない。その時は食糧と水を持ってくる。必ず持ってくるから、決してこの割れ目から出てはならんぞ。ここに居さえすれば警察も、いや村の者にも、絶対にお前さんは見つからない。食糧は三日分しかないが、その薬を使えば、一週間はもつはずだ……」
農夫はそこまで喋ってから、口を閉ざした。しばらく、彼は次に言うべきことを考えているようだった。やがて、彼はまた口を開いた。「……戦争中も、敵にはえらい迷惑をかけられた。戦争が終わってからも、まだまだ迷惑をかけてきやがる。こんな子どもを追い回して、いったい連中は何が嬉しいんだか……奴らには恥ってもんがないんだ」
琴浦は受け取った金属缶を上着のポケットに押し込むと、再度農夫に礼を言い、叔父によろしく伝えてくれと頼んだ。農夫は重々しく頷いた。琴浦は割れ目の入口に行くと、まずリュックサックを押し込み、口に蓄光器をくわえ、腹這いになって奥へ進んだ。途中で頭頂部が岩に擦れる感触があったが、穴は平坦で進みやすく、およそ五メートルほど進んだところで、広い空間に出た。空間には座れるほどの高さがあり、一畳半ほどの広さがあった。
壁になっている岩石には蓄光成分が含まれているようで、琴浦は星々の海の中に浮かんでいるかのような錯覚を覚えた。横になって過ごす分には申し分のない場所と言えた。
「大丈夫か」 入口から農夫の声が聞こえた。声は遠く感じられたが、はっきりと聞き分けることができた。大丈夫だと返事をすると、農夫はまた答えた。「頑張れよ。頑張り抜けば、きっと何とかなる。じゃあな……」 声は聞こえなくなった。琴浦は、なおも聞き耳を立てていた。聞こえるのは自分の呼吸音だけだった。しばらくして彼は、農夫が去ったことを悟った。
新たな隠れ場所に身を収め、疲労しきっていた精神が落ち着きを取り戻してくるのと同時に、琴浦の心の中に苦い悔恨の念が蘇った。農夫はまったく、朴訥ながらも誠実で、親切な男だった。しかし自分は、最初に農夫が小屋へ訪れた時、彼を疑った。道中など、自分は随分と手前勝手なことばかり考えた。そして、充分に礼を言うこともなく、早々に穴に入って、彼と別れてしまった。
もっと礼を言うべきだったと、琴浦は唇を噛み締めた。
農夫の今日の役目は終わったが、それでもこれで彼が琴浦にまつわることから解放されたわけではない。農夫はこれからも警察の目を盗んで食糧と水を準備し、密告をするかもしれない村人から隠れるようにして村を出て、山奥深いこの谷間の割れ目へと来なければならない。
いやそもそも、彼は無事に今夜村に帰ることができるのだろうか。琴浦はそう思った。足を挫いたり、崖から落ちたりすれば、彼は誰にも気づかれることなく山の中で命を落とすことになる。そうなれば、この割れ目の中にいる自分自身の命も終わってしまう。
不安と焦慮の念が、今更ながら心の中から湧き起こってきた。負の感情は悲観的な観測を呼び起こし、悲観的な観測は絶対に起こるであろうと思われる最悪の未来の像へと変化した。誰にも気づかれることなく、野鳥と獣に喰い荒らされる農夫の死体。飢え、渇き、身動きが取れないままこの割れ目の中で息絶える自分……
反射的に、琴浦の脳裏にポケットの中の存在がよぎった。燐光が淡く空間を照らす中、彼は蓄光器を取り出し、その光に当てて金属缶のラベルを読んだ。それは、英語で書かれていた。「睡眠」「精神」「安定」と書かれているのが読み取れた。戦時中、国民は一丸となって敵性言語を日常生活から駆逐しようとしていたが、軍隊は英語を、いやそれよりも、敵国由来の薬剤を用いていたことに気づき、琴浦は唖然とした。しかし、彼は「精神」と「安定」の文字に心を惹かれた。
今はこれを飲むしかない。琴浦は金属缶を慎重に開けた。中には十数粒の小さな黒い
長く空腹に苛まれていた琴浦の神経系と脳髄に、眠りと精神安定をもたらす魔法薬剤は強力な効果を即座に発揮した。強く脈打っていた心臓が平常に復し、緊張していた自分の精神が曖昧になっていくのを彼は感じた。広い草原の中心に立ち、吹き抜ける風から清浄な空気を肺いっぱいに吸い込むような爽快感を、彼は覚えた。彼は自然と微笑みを浮かべていた。きっとすべてが上手くいくと感じた。なにがどう上手くいくのか、そのことについて筋道を立てて考えることはできなかったが、とにかく「上手くいくだろう」という絶対的な安心感が訪れた。
数分後、大地の下の星の大海の中で、琴浦は静かに眠りに就いた。村を脱出して以来初めてとる、赤子のような熟睡だった。
☆☆☆
戦争が終わったその年の五月中旬、琴浦の父が死んでからそろそろ一年になる頃、琴浦の中学校に転校生が転入してきた。
転校生は、
「敵が来るのに逃げ出すとは、やつは臆病者か」「母親と妹と一緒に逃げておきながら、助けることもできず、おめおめと一人だけ生き残ったのか」「いや、丸っきりの臆病者というわけではないらしい。俺は、数年前の銃剣道の筑紫・琉球地方大会で、奴の名前を見たことがある」「奄美中学の主将を務めていたそうだ」「やつは団体戦で二位になったはずだ」「それに何の意味がある。剣道場で木剣を振り回して威張っていても、結局は敵から背を向けて逃げ出したんじゃないか」「結局、臆病者は臆病者ってことさ……」
転校生は、自分からは決して言葉を発しなかった。奄美の言葉は内地の人間にとって差別感情を惹起するものであると、転校生は短い間に学習していたようだった。琴浦は、そんな転校生を意識し始めていた。琴浦自身、クラスで浮いた存在となっており、友人らしい友人はいない。転校生の暗さに関しても、彼はよく理解できた。それは、肉親を失った者に特有の悲しみだ。琴浦は徐々に転校生との距離を詰めていった。転校生もまた、琴浦を拒まなかった。
その転校生が同じ町内に住んでいることを、琴浦は知った。隣町の、大通りの角にある煙草屋の二階、その狭い三畳間に、彼は下宿しているとのことだった。
それでも琴浦は、無条件に転校生に対して友情を感じていたわけではなかった。それは、軍事教練の時に顕著な形となって表れた。噂の通り、転校生は木銃と銃剣の扱いに非常に慣れていた。クラスの中で彼に敵う者は誰もおらず、友人であるはずの琴浦さえも、転校生は容赦なく打ち倒した。
しかし、配属将校は転校生を褒めなかった。将校は転校生を、その場にいないものとして扱っていた。皇軍将兵と現地住民四十万人が玉砕した戦場からの離脱者を無視するのは、単に配属将校がどのように彼に遇すれば良いのか分からなかったためであったが、その様子を見ていた生徒たちはまた違った感想を抱いた。
ある日、転校生が来てから初めて銃剣による刺突訓練が行われた。琴浦は、去年から練習を重ねていた甲斐もあり、その時も鋭い、殺気のこもった突きを巻き藁に向かって送り込むことができた。配属将校は満足そうに頷いていた。
順番が巡り、最後に、転校生の番となった。転校生は自然体の構えで巻き藁の前に立ち、数秒間呼吸を整えると、目にも止まらぬ速さで間合いに踏み込み、たったの一突きで巻き藁を真っ二つにしてしまった。その間、転校生は無言のままだった。
しばらく、沈黙が校庭を満たした。生徒たちも、琴浦も、配属将校も、転校生の示したあまりに見事な技に魅入られていた。やがて、配属将校が口を開いた。醜い、甲高い声だった。「声を発しないとは何事か! 皇軍の敢闘精神は
白けた雰囲気があたりを包んだ。その日の訓練はそのまま終わった。軍事教練の後、琴浦はいつも転校生と短く会話を交わしたものだったが、その日の転校生は何も言うことなく、足早に去って行った。
次の日から、転校生は学校に来なくなった。気になった琴浦が下宿先を訪ねると、転校生は八幡から福崎へと移ったとのことだった。琴浦は、銃剣術が転校生の心の拠り所となっていたことをその時になって初めて悟った。配属将校に
それでも琴浦が感じたのは、憐れみでも同情でもなく、蔑みの念だった。結局あの男も周りの生徒たちが言うように、臆病者なのだと彼は思った。彼がそのように思ったのは実のところ、転校生の銃剣術の腕前に圧倒され、自らの拠り所であり存在価値の一部になっているものを蹂躙されたという屈辱感の裏返しだった。
転校生が学校から消えてから、琴浦の銃剣術は更に磨きがかかった。というよりも、それはより粗暴になり、乱雑になった。彼はあえて、あの転校生の技とは逆の方向へと技を磨くことにした。そのようにして、あの臆病者の逃亡者に復讐をしようと彼は思った。
六月になった。父の一周忌の法要は、琴浦の自宅の仏間において、静かに執り行われた。福崎に住む姉夫婦のうち、来ることができたのは姉だけだった。誦経を終えた僧侶は、今日は他にも回らなければならない檀家があると言い、粗末な斎の膳に少し箸をつけただけで、慌ただしく去って行った。
「戦争が激しくなってきたから、お坊様も忙しいのね、きっと」 そのように姉は言った。姉の腹部は大きく膨らんでいた。妊娠六か月だった。福崎の第十五銀行支店に勤める銀行員の夫との間に授かった、最初の子供だった。琴浦は、この姉が大好きだった。感情的で、悲観的で、日常のほんのささいな出来事一つに対しても顔色を青ざめさせる母と違い、長姉は明るく、楽天的で、力に溢れていた。
母は、姉に対して言った。「八幡は空襲されないけれど、福崎はそろそろ危ないんじゃないかってみんなが言ってる。あなたも、こっちの家に逃げてきたらどうかしら」 姉は笑って答えた。「こんな狭いお家に? 私たちの家は借家だけど、こっちのお家よりは広いわ。私、赤ちゃんを産むなら福崎の方が良い……そうよ、お母さんこそ福崎に移れば良いんじゃないの? そうすれば家族が一緒になって、毎日楽しく暮らせるわ……」
母と姉の会話はなかなか終わらなかった。琴浦は、結局は母の「私はここで聞と一緒に暮らすよ。なにせこの家は、お父さんが独力で建てた家だからね」という一言で話が終わるのだろうと予想した。その通りに会話が終了し、姉は福崎へと帰って行った。
それから一週間が経った頃、配達されてきた新聞を見て、琴浦はわが目を疑った。
その数日前、福崎上空に侵入した敵爆撃機編隊に対して、我が軍の戦闘機が迎撃戦闘を仕掛けた。敵爆撃機のうち、一機が戦闘機の体当たり攻撃によって墜落した。戦闘機の搭乗員は敵機に衝突後、冷静に機外へと脱出し、落下傘降下をした。
その、落下傘によって地上へ降りてきた搭乗員を、現地住民が誤殺したと新聞の記事は述べていた。
「空から降りてくる落下傘はすべて敵のものとみなした現地住民たちは、皇国の一臣民としての義務を果たすべく、竹槍を持って我が軍搭乗員が降下した地点へと殺到した。搭乗員が説明をする間もなく、一人の若者が竹槍を持って、搭乗員の胸を刺し貫いた。若者は奄美からの疎開者の中学生で、名は……」
記事にはあの転校生の名が載っていた。琴浦は衝撃を受けると共に、なぜ彼がそのような行為へと走ったのか考えた。あの転校生は、表情にも言葉にも示さなかったが、やはり琴浦と同様に、敵に対して強い憎しみを抱いていたに違いない。
彼は、敵機がまったく訪れない八幡ではなく、福崎に移って、そこで敵が降下してくるのを待っていたのだろう。そのようにして、個人的な怨恨を晴らすのと同時に、自らが有する技術の真価を周囲に認めさせようとしたのだろう。
不幸だったのは、味方と敵を取り違えたことだった。初めて犯そうとする殺人行為によって、極度に興奮していたのも影響したかもしれない。もし間違えさえしなければ、彼は宿願を果たし得たし、奄美からの疎開者であるという肩身の狭さからも脱し得たに違いない。
俺はもっとうまくやる。新聞を閉じながら、琴浦はそう思った。俺は相手の目の色、肌の色が分かるまで近づいて、竹槍を突き刺してやる。どこまでもあの転校生は臆病者だったのだと、改めて琴浦は結論した。敵の姿をしっかりと確認せず槍を突き出したのは、敵を恐れていたからだ。敵を前にして怒りではなく怖れを抱くのは、臆病者であることの紛れもない証拠だ……
一週間後、六月十九日から二十日の未明にかけて、ススペ島イスリー飛行場から発進した敵の超大型戦略爆撃機二百八十機は、福崎の街を爆撃した。高射砲の射撃は有効ではなく、友軍戦闘機の姿も見えなかった。敵機は大量の焼夷弾と爆弾を抱えており、市に絨毯爆撃を加え、軍民を問わず生きたまま焼き尽くした。
その光景は、山地を隔てて八十キロほど離れた八幡からもよく見ることができた。琴浦と母は防空壕から出ると、家の近場にある高台に登り西の夜空を眺めた。
二人は手を握りあって、呆然と闇夜に揺らめく無数の火柱を見守っていた。火焔は神話に登場する生き物のように、巨大な触手を振り回していた。あの炎熱地獄の中で、姉とその夫は、お腹の子どもと共に逃げ回っているのだろうか。あるいは、逃げることも叶わず、今頃は煙と炎にまかれて……母は、ついに耐えきれずに泣き出した。琴浦は、母をそっと抱き寄せつつ、家へと帰った。
翌朝、混乱の最中にある鉄道に乗って、琴浦は福崎市内へと向かった。市内は一面が焼け野原と化していた。わずかに鉄筋コンクリートのビルが数棟、形を留めているに過ぎなかった。琴浦は記憶を辿り、時には人に尋ねつつ、第十五銀行福崎支店のビルを探した。
義兄はよく琴浦に、「うちの銀行の地下室はゲルマニアの特別製でね、分厚い鉄板でできているんだ。一トン爆弾が直撃しても耐えられるようになっている。空襲の時は、そこが避難所になるからね。僕と、春子さんも、きっと空襲を切り抜けられるだろうさ」と言っていた。琴浦はその言葉を信じようとしていた。
だが、やっとの思いで建物の前に辿り着いた時、望みが脆くも断たれたことを知った。生き残った行員の話を、琴浦は聞いた。空襲警報が鳴り響くと、姉夫婦は支店の地下室へ速やかに避難した。地下室は確かに爆弾と焼夷弾の直撃に耐えた。
だが、火災によって電気系統が故障し、電動ドアが動かなくなった。そこへ、火災の高熱によって上水道管が破裂し、熱湯と化した水が地下室へ流れ込んだのだった。地下室にいた避難者六十名あまりが、水死とも焼死とも言えない、この世のありとあらゆる死の中でも最も残酷なものとして数えられるだろう死を迎えたのだった。
琴浦は、建物の前に並べられた死体の中から、姉夫婦を探した。幸運にも、彼はすぐに二人を見つけ出すことができた。二人の顔は膨れ上がり、恐怖と、絶望と、苦痛によって歪んでいた。服は脱げており、全身の皮膚が高熱の水によって爛れて剥がれ落ちていた。露わになった赤黒い真皮には、早くも蠅が卵を産みつけていた。
遺体を収容したという男が琴浦に話しかけた。二人は抱き合ったままの状態で見つかったとのことだった。最後の最後まで二人は互いを気遣って死んだのだろうと、男は言った。それは琴浦にとって慰めにもならなかった。彼は、昨年以来燃やし続けてきた敵愾心が、ついに憎悪へと転じるのをはっきりと感じた。
必ず、敵兵を殺してやる。その時は近い。そろそろ、敵はこの筑紫州に上陸してくるだろう。あるいは、空からやって来るのか。いずれにせよ、その時は銃剣で、敵兵の心臓を抉ってやるのだ……
母には、二人は苦しむことなく死んだのだと伝えた。母は涙すら流さなくなった。目から光がなくなり、背が曲がって、家事を放棄するようになった。それからは毎日、琴浦は勤労動員から帰ってくると疲れた体に鞭を打って、洗濯と掃除と炊事を行うようになった。
彼は疲れ切り、常に空腹だったが、胸は弾んでいた。父を殺し、姉夫婦を虐殺し、母を廃人にした敵に、あともう少しで復讐することができる。その予感が強くある。自分ならば、あの転校生のようにヘマを打つことはない。彼は庭に十字の杭を立てると、自分で用意した木銃を突き出して、稽古を続けた。
八幡は未だに平穏の中にあった。製鉄所の炉の火は消えることなく、工員が働き、高い煙突からは重濃縮混合エーテル液が燃焼する青黒い煙がたなびいている。
敵がこのように重要な地点を見逃すはずはない。琴浦は、焦りと希望をない交ぜにしつつ待ち続けた。待ち続けて、およそ一か月以上が経過した。
そして、広島に敵が新型魔力爆弾を投下したその二日後に、待望のその日がやって来たのだった。
☆☆☆
強烈な喉の渇きと共に目覚めた琴浦は、自分の体がまったく動かないことに気付いた。体だけではなく、頭すら動かない。何かが自分の体を押さえつけているわけではないことは、すぐに分かった。これは、金縛りだ。琴浦はすぐに悟った。彼は以前より、この症状に見舞われることが多かった。
目だけを動かすことができる。琴浦は、燐光を発する壁一面に視線を走らせた。右を見、左を見、そして、上を見た。その瞬間、彼の心臓は早鐘を打った。何か、頭のようなものが天井から逆さに生えている。その頭部の形には見覚えがあったが、顔が見えない。頭部はちょうど、琴浦の頭のすぐ脇の、その上に生えていた。
しばらく観察して、琴浦は気付いた。あの頭部は、父のものだ。
そう理解した瞬間、彼の顔に、どろりとした粘度の高い液体が落ちた。液体は、頭部の後ろに開いた、椎の実ほどの傷口から流れ落ちていた。液体からは、強烈な腐臭が漂っている。思わず、琴浦は叫ぼうとした。だが、声は喉の奥でつかえて、まったく出てこない。
次第に、父の頭部はだんだんと下へ降りてきた。頭部だけでなく、頸部、両肩、両腕、胴体、足と、ゆっくりと時間をかけて、父の死体は空間の制約を無視して姿を表した。そして、巨大な水袋をコンクリートに叩きつけるような鈍い音を立てて、父の死体は落下した。落下した死体は、ちょうど琴浦の右側に寝そべる形になった。
父の死体の目は閉じられている。琴浦は目だけで、その死顔を見つめていた。穏やかな死顔は次第に膨れ上がり、苦痛と絶望に歪んでいった。それはいつしか、姉の顔になっていた。姉が地下室で、夫と腹の中の子どもと共に悶死した時の、あの死顔となっていた。姉の目は見開かれていた。その虚ろな視線は、琴浦からは外れていた。
琴浦がそのことをありがたく思った瞬間、姉の口が動いた。苦痛と絶望のみによって構成された声音だった。「私の……私の赤ちゃん……赤ちゃんが……動いてないの……赤ちゃんが、動かなくなっちゃったの……熱くて、息が出来なくて、溺れて……私が死んでからも、赤ちゃんはお腹の中で生きたままで……」
恐怖のあまり、琴浦は絶叫した。数分間、彼は声を枯らして叫び続けた。気付いた時には、手足はもう動くようになっていた。身を起こした時、父と姉の死体は消えていた。
節約しなければならない水を、彼は大量に飲み干した。肩を喘がせて、彼は空間内の乏しい空気を少しでも多く肺に送り込もうとした。次第に恐怖心も薄れ、冷静に物事が考えられるようになると、彼はすぐに金縛りの原因について思い至った。彼は金属缶を取り出した。「
薬が原因ではないとすれば、空腹のせいだろうか。琴浦はそう考えた。彼は暗い空間の中でリュックサックを開き、甘藷を一本と、焼き米を少量取り出して口に含んだ。よく咀嚼し、飲み込んだ後は僅かな水分で口内を湿らせた。思えばあの炭焼き小屋で食べた昼食以来、何も口にせず農夫に連れられて夜道を歩き、この割れ目まで来たのだった。疲労と空腹によって、「ソムヌス」の効果が過剰に発揮されてしまったのかもしれない。琴浦はそのように結論した。
彼は改めて周囲の壁を見渡した。壁は青黒かった。その一面に星々や星雲を思わせる、無数の光点が煌めいている。まだ十歳だった頃、琴浦は父に連れられて福崎市内に出て、百貨店の上に新しく開いたプラネタリウムという施設へ連れて行ってもらったことがあった。
今となっては星々の名前など忘れてしまったが、この隠れ場所が、数少ない父との思い出を想起させるような性格を持っていることを、琴浦はありがたく思った。
今の時刻は何時頃だろうかと、琴浦は思った。出入り口となっている平たい通路へ、彼は頭を押し込んだ。外は明るいとも、暗いともつかなかった。いずれにせよ彼は、あの農夫がまた食糧を持ってやって来るまで、この空間から出るわけにはいかなかった。
時間を潰すための方法は、あまりなかった。燐光は惜しげもなくその淡い美しさを琴浦に示していたが、彼の精神性はさほど情緒に重きを置いてはいなかった。本もなかった。この暗い空間の中でも、燐光のおかげで読書は不可能ではなく、蓄光器を使えばおそらく難なく読めるのであろうが、彼は村を出る時に一冊の本も持ち出すことができなかった。叔父に村を出るように告げられ、慌ただしく準備をしている時には、本のことなどまったく考慮の外にあった。
結局、これに頼るしかないのかと、琴浦は金属缶の蓋を撫でながら思った。あの農夫が言ったことは、やはり当たっていたのだろう。狭い空間で為すこともなく、考えることもなく、ただ時が過ぎ去るのを待つというのは、拷問に近い。それを少しでも避けるために、この薬があるのだろう。戦場の兵士たちは、現実に立ち向かうための力を得ようと、少しでも快適な睡眠を得るためにこれを服用したのかもしれないが、自分は、少しでも現実から逃れるためにこれを使うのだ。琴浦は丸薬を口に含むと、水を一口含んで、それを飲み干した。
また、弛緩と、安心感と、全能感にも似た快楽の感覚が、琴浦を満たした。彼は眠りの世界へと抵抗することもなく落ちていった。
☆☆☆
八月八日に、去年の八月二十日以来行われていなかった大規模空襲が、ついに八幡へ対して行われた。敵は二百機以上の護衛戦闘機を引き連れた、大型爆撃機三百機だった。戦爆連合の五百機は、対空砲火を意に介することもなく、大軍勢の威容を誇示しながら八幡上空に達し、朝十時すぎから爆撃を開始した。爆撃機の
空襲警報が鳴り響いた時、琴浦は勤労動員のために八幡の郊外にいた。そこは陸軍が不時着場を建設しているところで、琴浦たち中学生は、その
監督をしていた若い少尉が言った。「今度こそホンモノの空襲だぞ! 敵が大勢
少尉に促され、ツルハシとスコップを投げ捨てて琴浦たちが走り出した時、八幡の市街地外縁部に位置する重高射砲陣地が射撃を開始した。空を見ると、敵の爆撃機が整然とした幾何学模様の陣形を組み、その上下左右をより小型の航空機群が守りを固めるように飛んでいた。高射砲の弾幕は、何発かは敵機の群れの中へ届いていたが、ほとんどはその下で炸裂していた。
防空壕に入ると、琴浦たちは木箱で作られた座席に腰掛け、じっと息を殺して空襲が終わるのを待った。遠くから、地震のような振動が伝わってくるのが感じられた。壕の入口からは、真っ赤な光が差し込んでいる。
琴浦は、母のことを思った。母はおそらく、造りが堅固な共同防空壕へ行くことはあるまい。父の位牌を守るため、家に留まり、庭の簡易防空壕に入っているのだろう。しかし、あのように小さくて粗末な防空壕に、敵の猛爆撃を防ぐ力があるとは思えない。
琴浦は、どうしても外が見たかった。彼が立ち上がると、他の生徒たちもつられたように席を立った。入口に立っていた少尉が、目を怒らせて言った。「見るな! 見たところでどうにもならん! 命令なく席を立つことも許さん! 座っていろ!」 少尉の剣幕に気圧されて、生徒たちはまた席に座った。空襲はその後一時間ほど続き、そして敵機群は去って行った。
すぐに解散命令が出された。生徒たちは各々の家へ向かって走った。琴浦も自宅へと走った。しかし、市街地はなおも炎上中で、黒煙が辺りに垂れ込めていた。無数の紙片が熱風を受けて舞い踊り、火焔が爆弾の直撃から逃れていた木造家屋へと触手を伸ばしている。道路は残骸と瓦礫で埋め尽くされ、死体がそこかしこに転がっていた。琴浦は、回り道をしなければ自宅には帰れないことに気付いた。この状況では、いつもよりも帰るのが一時間以上遅くなるかもしれない。母のことが気がかりだった。
彼は燃える街の中を走った。色々な人間たちが歩き回っていた。背広を着た中年の男性はブリキのバケツを持って、無心になって地面に落ちている靴を拾っていた。半裸になり、両の乳房をさらけ出した若い女性は、真っ黒になった塊を抱えて優しげな歌声と共に揺すっていた。それは焼夷弾の直撃を受けた赤ん坊の死体だった。二人の工員風の男たちが、火焔にバケツで水をかけながら、昨晩の賭け事の首尾について話していた。彼らは顔を真っ黒にして、今日こそは勝つぞと言い合っていた。
琴浦は、自分が幼いころから見慣れていた街が、一瞬にして別の世界へと変貌してしまったことを痛感した。倒壊し、炎が迫っている住宅の中からは、助けを呼ぶ声が聞こえてくる。瓦礫の下から幼児の手が飛び出している。悲鳴はなく、呻き声だけが聞こえ、時々狂気じみた笑い声が響いてくる。炎が旋風となって残存する家屋を焼き尽くし、空き地に辛うじて避難した者たちを追い立て、生きたまま焼き殺していく。
そして、ついに琴浦は、その場に辿り着いた。
そこは庭園だった。筑豊炭坑と製鉄業で大儲けをした商人が己の財力を誇示するために作った、緑豊かな築山と人工池を備えた広大な庭園だった。琴浦は、そこに差し掛かった時に、庭園を迂回するか、それとも中を進むか、どちらが時間の短縮になるかと考えた。そして、中を突っ切ることにした。
彼が庭園の中を進んでいくと、人工池が見えた。その水面に、異様なものが見えた。巨大なクラゲのようなものが浮いている。琴浦は一瞬目を疑ったが、ほどなくしてそれが落下傘であることに気が付いた。我が軍の飛行士たちが使う真綿製の純白の落下傘ではなく、合成繊維で織られた生地の、カーキ色に塗装された落下傘だった。琴浦は、心臓の鼓動が早まるのを感じた。撃ち落とされた敵機から搭乗員が脱出し、落下傘で降下したらしい。落下傘はこの池に落ちたが、その主はすぐに落下傘を外して、陸に上がったようだった。死体らしきものは、池の中には確認できなかった。
あたりを見渡すと、築山の方に人だかりが出来ていることに琴浦は気付いた。彼はそこへ足早に近づいて行った。近づくにつれ、罵声と、何かを打つ音と、憤怒の息遣いが聞こえてきた。そこには四、五十人余りの人々がいた。老人から子どもまで、ありとあらゆる年齢層の人間がそこに立っていた。
三人の国民服姿の男たちが、一人の若い男を殴打していた。男たちは
周囲の者たちは罵声を浴びせ続けていた。「殺せ!」「敵を殺せ!」「お父さんの仇だ、殺せ!」「嬲り殺しだ! 殺せ!」 琴浦は、若い男の顔を見た。既に複数回にも及ぶ殴打を受けて男の顔は腫れあがっていたが、その高い鼻筋と青く澄んだ瞳、そして、血で汚れた飛行帽からこぼれる金髪が、その男が敵国人であることを示していた。
これが、落下傘降下してきた敵か。琴浦はしばし呆然とした。
それは、今まで彼が軍事教練の最中に思い描いてきたイメージとは、似ても似つかぬものだった。彼の中では、敵は凶悪で、強大で、卑劣でなければならなかった。だが、目の前にいる若い男は違った。彼は殴打によって曲がってしまった鼻から血を垂らしていた。極度に怯えているのが手に取るように分かった。自分の乗っていた機体がばら撒いた爆弾と焼夷弾によって炎熱地獄と化した街の住民が、憎悪を燃やして自分を殺そうとしている。若い男は、そのことを充分に理解しているようだった。
琴浦は、男のカーキ色の長ズボンが濡れていることに気付いた。恐怖と痛みとで、その敵搭乗員は失禁していた。誰かがそのことを指摘した。「こいつ、小便チビってやがる」 一斉に周囲の者たちが笑い始めた。
父の死がきっかけとなって芽生え、軍事教練によって確固たるものとなり、転校生への対抗心と肉親の死によって更に強化されたはずの琴浦の敵対心は、しかし今この状況においては、
彼は、敵兵に純粋な憐憫の念を抱いた。なぜ、自分が周囲の怒気と殺気に同調することができないのか、我がことながら琴浦には不可解だった。これまで憎み続け、殺してやろうと思い続けていた想像上の強大な敵が、いざ実際目の前にしてみると、敵に囲まれて恐怖のあまり小便を漏らす、ごく当たり前の人間であることに気付いたからだろうか。あるいは、もともと彼の殺気というものは
戸惑っている琴浦の肩を、誰かが軽く叩いた。その方向へ彼が頭を向けると、そこには見知った顔の中年の男性がいた。初め、琴浦はその男性が誰であるか分からなかったが、二言三言会話を交わすうちに、その正体に気付いた。その男性は、父の同僚の一人だった。特に父と親しく、父を単なる同僚ではなく、心の友として仰いでいるような男だった。
男性は言った。「ちょうどここに君が来たというのは、なんという天の配剤だろう! 君はその手で、今この場で、父さんの仇を討つことができるぞ!」 男性は、取り巻きの中にいた警防団の一人から、長い筒状のものを受け取った。
それは竹槍だった。青竹を切って製作した、節が太く穂先も荒い、無骨な竹槍だった。男性はそれを琴浦に手渡した。彼は興奮しきった様子で琴浦に言った。「さあ、その槍で奴を突くんだ! 君にはその権利がある! なにせ、あの爆撃機によって殺された最初の人間が、君のお父さんなんだからな!」 一息にそう言い切った後、男性は周囲の者たちにも説明を始めた。「おーい、みんな聞いてくれ! この生徒さんの名前は琴浦聞といって、彼の父さんは……」
静寂が、いつしか辺りを包んでいた。だがその静寂は今にも破裂しそうなほどに、内部で狂気と憤怒と憎悪とが入り混じり、膨張していた。琴浦は、この場にいる五十名の人間の目線がすべて自分と、自分の持つ竹槍とに注がれているのに気付いた。
彼は、軍事教練で教わった通りに竹槍を構えた。呼吸を整え、相手の顔を、相手の肌の色を観察する。敵の若い男は、既にこれから何事が起こるのかを察したようだった。男は哀れみを乞うような目をし、言葉にならない言葉を口から漏らした。膝から力が抜けて、真っ直ぐに立てなくなると、すかさず警防団員が蹴りを入れて姿勢を正す。
逃げ出したい気持ちは、琴浦も同じだった。彼は、ついに父と姉の無念を晴らす機会を得たのにも拘わらず、今となってはそれを放棄したい気持ちでいっぱいだった。父と姉の
この男の命を、俺は奪いたくない。
そのように思ったその次の瞬間、敵の若い男が琴浦に顔を向けて、何かを口にした。
口の動きが、ひどくスローに見えた。だが琴浦には、言葉は届かなかった。
口が閉じるのとほぼ同時に、琴浦の体は自然に動き始めていた。彼の体は強固に習慣化された身体動作の法則に従って、竹槍を真っ直ぐに突き出し、右脚で踏み込み、両腕に渾身の力を込めていた。個人的な武技の鍛錬ではなく、個人の肉体を意志とは無関係に働く規則体系へと順応させること、それが軍事教練の本質であることを、琴浦は知らなかった。
ゆえに彼にとっては単に、「なぜか勝手に自分の体が動き出したように」感じられたのだった。
意志に反して、竹槍は若い男の心臓の辺りに正確に突き刺さった。柄を通じて、肉を裂き骨を削る感触が伝わってきた。憐れみを乞うような男の表情が、刺された瞬間には驚きに変わり、間を置かずして、恐怖と、少しばかりの憤怒とに支配された顔へと変化した。
穂先を捻じりつつ、琴浦は竹槍を若い金髪の男から引き抜いた。傷口から、真っ赤な血液が勢い良く噴き出した。緑色の竹槍に血液が降りかかり、鮮やかなコントラストを描いた。若い男は地面に倒れ、異国の言葉を二言か三言発すると、猫が喉を鳴らすような音を立て始めた。男たちが周囲に群がり寄り、踏みつけるようにして無数の蹴りを入れたが、若い男はもう動くことはなかった。
敵を
敵兵の死体を蹴り、殴りつけていた者たちも去り、その場には琴浦だけが残された。琴浦は、敵兵の死顔を見た。顔は蹴りによって陥没しており、もはや表情と呼べるものはなくなっていた。
この男を、俺は殺したんだ。琴浦の手が震えた。
俺はこの竹槍で、この男を殺したんだ。この男の心臓を刺し貫いて、男を殺したんだ。
ようやく、殺人を犯したという実感が、彼の中に湧いてきた。彼はその場から逃げ出した。彼は恐怖していた。母の安否を気遣うこともなく、恐れに打ちひしがれながら、燃える街中を
自宅に辿り着いた琴浦が見たのは、完全に焼け落ちた家だった。母は位牌を持ったまま、防空壕の中で息絶えていた。煙と熱によって呼吸ができなくなり、そのまま死亡したものと思われた。
母の遺体を抱き、地面に横たわらせた時、突如として琴浦は笑い声を上げ始めた。笑いながら、琴浦は涙を流していた。のみならず、彼は失禁していた。温かな尿が太ももを伝わる感触が、更に彼の笑いを激しいものとした。
ひとしきり笑った後、琴浦は改めて母の遺体を見た。遺体は、先ほどまでは気付かなかったが、ところどころが赤く染まっていた。母の血液ではなかった。彼は自分の手を見た。両手が共に真っ赤に染まっていた。
敵兵を刺し貫いた時の返り血を浴びていたことに、彼はその瞬間まで気付いていなかった。
☆☆☆
燐光の星空の中で、琴浦はもう何回目になるか分からない覚醒を迎えた。覚醒直後の金縛りにはもう慣れてしまった。今では、消えてくれと念じさえすれば、父の死体も、苦悶の表情を浮かべる姉も、血で汚れた母も退散する。
琴浦はリュックサックの中身を探った。水は半合ほど、食糧は焼き米が一握り分だけ残っていた。農夫が言っていたことを信じるならば、一週間はこの空間でこうして時間を過ごしたことになる。そろそろ、農夫がまた訪れてもおかしくない頃合いだった。
寝るのをやめて、農夫が訪れるのを待たねばならない。入口から声が聞こえてきたらすぐにでも出て行って、久しぶりに見る太陽の光か、あるいは本物の星々の光によって目を灼きたい。彼は光を渇望するようになっていた。
だが、彼は金属缶の蓋を開けると、残り数粒となってしまった丸薬を口に含んだ。唾でそれを飲み込むと、彼は全身から力を抜いた。
今度の眠りと夢は、彼に村に来てからのことを思い出させた。
敵をその手で殺し、母を失ったその日からちょうど一週間後に、戦争が終わった。完膚なきまでの大敗北だった。それでもそれは大多数の人々にとって、破滅を意味しなかった。戦争の終結は、窮乏に対する尋常ならざる忍耐を人々へ強制的に課したが、人々はそれを甘受した。
その日その日を生き抜いていけばそのうち、生活を再建するという、真なる意味で自分だけの自分らしい仕事と言えるものに従事することができるようになる。人々をして日々の糧を得るための残酷な戦いを勝ち抜かせたのは、そのようなほの明るい希望だった。糧を得ることができなかった敗者たちは何処かへと姿を消したが、それを気にかける者など誰一人としていなかった。
家族をすべて失った琴浦は、父の実家へ身を寄せることにした。自宅の焼け跡で為すこともなく、母の遺骨が収められた粗末な竹筒の前に座っていると、一人の男性が訪ねてきた。それが、関下の旦那と村の者たちから呼ばれる、父の弟だった。空襲で八幡の街が燃えたことを聞き、兄が残した家族が心配になって、叔父は殺人的なまでに混雑している鉄道に乗ってここまでやって来たのだった。
「俺の村に行って、一緒に畑でも耕そうか」 叔父は優しくそう言った。「今はとにかく、世間に食べ物がない時代だ。誰も彼もが今日食べられるか、明日は飢えるか、そんな心配ばかりをしている。畑を耕せば、そんな心配はなくなるぞ」 琴浦は頷いた。久しぶりに会った甥っ子にひときわ愛着を覚えたのか、叔父は更に言葉を投げかけた。「お前もたくさん酷い目に遭っただろう。時間をかけて、ゆっくりと俺の村で休めば良い。勉強なんて、何歳からでも再開できるさ。熱意さえあればな」
琴浦が村に着いたのは九月に入ってからだった。叔父の家は村の有力者に連なっていて、本来ならばよそ者として白眼視されるような琴浦も、歓迎こそされなかったものの、ことさらに邪険に扱われることもなかった。
琴浦は言われた通り、毎日畑に出て働いた。草取りをし、ゴミを運び、肥料を集めた。だが、虫だけは殺すことができなかった。モグラもネズミも、彼は殺すことができなかった。彼は、意図的に命を奪う行為をすることができなくなっていた。
村での琴浦の評価は概ね上々だった。無口で暗いが、それはあの大空襲に遭ったからだろう。親兄弟をすべて失えばあのような顔つきにもなる。そのうちここでの生活にも慣れて、あの年頃に相応しい笑顔も見せるようになるだろう……
事情が一変したのは、年が変わった七月の上旬、戦争終結からほぼ一年が経過しようとする頃だった。村に警察官が二名やって来て、叔父の家に聞き込みを行った。
警察官は言った。「占領軍は今、躍起になって戦争犯罪人の行方を追っているんです。特にこの筑紫州ではそれが多いものでしてねぇ。分かりますか? 敵のパイロットの殺害行為に関してですよ。落下傘降下したパイロットは戦闘能力を失っているのだから、殺してはならんのだとかなんとか……これまでは軍人たちに対する追及が専ら行われていましたが……そうそう、防空司令部の斬首事件とか、帝大事件とかね……そうしたら連中、今度は民間人でありながら捕虜を虐殺した者を追い始めてましてねぇ……子どもであっても容赦はするなと、随分と尻を叩かれました。無論、英語でね……」
警察官たちはその後時間をかけて、ほぼ全ての家を回ると、麓の町へと帰って行った。単なる世間話のために、この山間の村へ警察官たちが足を伸ばしたとは考えられなかった。
叔父は、その夜琴浦を呼び出した。これまでに敵兵を殺したことがあるかと問うと、琴浦は俯き、沈黙した。その態度を見て、叔父は事情を察した。察しつつも、彼の方から言葉をかけることなく、琴浦自身が話し始めるのを待った。
琴浦は案外、しっかりとした口調であの時のことを話し始めた。庭園でのこと、警防団によって殴打され、すでに死にかけていた敵兵のこと、父の同僚と会ったこと、竹槍を渡されたこと、自然と体が動き、敵兵の心臓を抉っていたこと、陥没した敵兵の顔を、しばらく見ていたこと……
叔父は、静かに話を聞いていた。琴浦が話し終えると、叔父はおもむろに口を開いた。「俺はお前が罪を犯したとは思わん。その状況に俺が置かれたら、俺も同じように敵兵を竹槍で刺殺しただろう。それが、自分の身を守るために必要なことだったんだ。もし敵兵を殺さなかったら、周りの者たちにお前が殺されていたかもしれない……」
叔父はさらに言葉を続けた。「占領軍は横暴だ。自分たちは何百万人もこちらの人間を焼き殺しておきながら、自分のところの飛行士が何人か殺されただけで、目の色を変えて責任を追及してくる。警察は占領軍の言いなりになって、お前のような子どもまで追いかけてくる……」 言葉が途切れると、叔父は煙草に火を点けた。深々と一服すると、叔父は立ち上がった。「
叔父が去ろうとしたその瞬間、琴浦は質問をした。あの敵兵は、自分に刺される直前に、何か言おうとしました。いったい、何を言おうとしたのだと叔父さんは思いますか……?
腕組みをして、叔父は思考に耽った。ややあって、彼は答えた。「『殺してくれ』とでも言ったのではないかな。そう考える方が、気が楽で良いだろう……」
「本当にそう言ったのか、あなたは?」
覚醒した琴浦は、目線を体の左側へと向けると、そのように言った。そこには、心臓に大穴が開いた、敵兵の死体が横たわっていた。すべての歯が折れた口からは、耐え難い臭気と共に呻き声が漏れている。顔面は陥没し、手足は砕かれていた。大穴からは赤い血液が噴き出していて、琴浦の体に降りかかっている。血液は、火傷しそうなほどに熱かった。
「本当にそう言ったのか、あの時のあなたは? 殺してくれと、俺にそう言ったのか?」
再度問いかけると、敵兵は一段と呻き声を大きくして、膨張を始めた。膨らんだ死体は徐々に空間を圧迫し、琴浦の体を押し潰した。死体は膨大な熱量を持っていた。顔が死肉によって抑えられつつも、琴浦は三度目の問いを、いやそれはもはや問いではなく、懇願となってしまった言葉を発した。
「言ってくれ! あの時、お前は俺に『殺してくれ』と言ったのだと、そう言ってくれ!」
突然、死体が爆発した。壊れたシャワーが壁一面に水をぶちまけるような音がして、狭い地底の星々の空間は真っ赤に染まった。
壁に、敵兵の青い目玉が張り付いていた。目はきょときょとおどけた調子で動き、返り血に染まった琴浦の姿を見つけると、力を失って床に落ち、軽い音を立てて弾け飛んだ。
いつしか、部屋の中に煙が充満していた。煙に血の臭いはなかった。耐え難いほどに目を刺激し、喉にしつこく絡みつく煙だった。
声が外から聞こえてきた。激しく、強い男の声だった。「そこにいるのは分かっている! 早く出てこい! 早く出てこないと窒息するぞ……!」
別の声がした。どこか呆れたような声だった。「むごいもんだ。これじゃタヌキのいぶり出しだ……おーい! さっさと出てこい! 死んじまうぞ……!」
警察官と思しき怒声の合間を縫うようにして、聞き慣れた声が琴浦の耳へと届いた。「すまんなぁ、すまんなぁ。やっぱり、お前さんが生きていくにはこうするしかないと思ったんだ。関下の旦那にも、本当にすまん。けど、一生世間から隠れて暮らすなんて、そんなことはできるわけがないしなぁ。すまんなぁ、すまんなぁ……」
琴浦は、まず出入り口を見つめ、それから次にポケットから取り出した金属缶の蓋を開けた。缶の中には、一粒だけ丸薬が残っていた。琴浦はしばらくそれを見つめた後、また出入り口へ視線をやった。
そして最後に、彼は壁へ向かって金属缶を勢い良く投げつけた。奇妙に湾曲した金属音が、空間の中で鳴り響いた。
彼は苦しみに満ちた表情を浮かべ、煙が充満する空間に向かって言葉を発した。
「俺は、本当は、お前を殺したくなんかなかったんだ。殺したくなんか……信じてはくれないだろうが……」
琴浦は叫んだ。
「俺はあの時、お前を殺したいとは思わなかったんだ!」
ソムヌスの金属缶が跳ね返る残響音が消えた時、琴浦は既に、五メートル先の地上の出口から頭部を覗かせていた。
※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。
・ほいれんで・くー「ソムヌスを投げ捨てて」
2022年4月29日公開。前作と同じく、『ラインの娘』のために書き下ろした作品ですが……前回の更新がなんと昨年の8月。これには我ながら驚きました……これからはもっと更新頻度を上げていく所存です。
リハビリがてらと思って書き始めた作品でしたが、内容が内容だけに、いささか荒療治が過ぎるものとなりました。その分読み応えのあるものとなっていれば良いのですが……それは賢明なる読者の皆様にお任せすることといたします。
次回もどうぞお楽しみに。
※今回、あえて会話文の書き方を工夫してあります。琴浦の心理の内部へ肉薄するためです。