ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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38. マレ・デルフィーニー

 蒼く高き富士の山は厳父の如き威容を常の如く示しつつ、それでいて慈母のような包容力でもって、珠流河(するが)湾全体を抱いていた。

 

 季節は夏に差し掛かろうとしていた。その年の梅雨は長く、梅雨明けは例年よりも二週間遅れた。沼津(ぬまづ)市の熟練した漁師たちはそのことが操業に影響するかもしれないと懸念したが、案に相違して漁獲量は高く、船団を組んだ漁船たちは毎日のように大量の魚を港へ持ち帰った。主に獲れたのはウルメイワシ、アオリイカ、アカイカ、小アジ、イナダなどの魚介類だった。

 

 中部地方有数の漁業拠点である沼津はその夏もいつもと変わりなく、労働者たちの活気に満ちていた。街が纏う雰囲気そのものが、活気を強調していた。漁港の桟橋に繋げられた多くの漁船は、どれも磨き上げられ手入れが行き届いており、水産加工場の煙突から立ち昇る煤煙は途切れることがなかった。海軍工廠の煙突は重混合濃縮エーテル液が燃焼する青紫色の煙を、カフェで気だるげに煙草を吸っている青年のように大気に撒き散らしていた。

 

 高き富士の山も、深き珠流河(するが)湾の海も、いつものとおりだった。それが、春に九歳になったばかりの葦原(あしはら)(たすく)にとって著しく不可解なものとして感じられた。青空にはゆるく白い雲が流れ、ウミネコが騒々しく鳴き声を交わしつつ飛び回っている。漁港には忙しく立ち働く大勢の男たちがおり、加工場では女たちが肩を並べ、包丁を振るって魚たちを捌いていた。天も地も海も変わらず、人間たちの営みにも変わりがない。

 

 葦原にとって、それは不可解そのものであり、また苛立たしくも感じられた。

 

 葦原の祖父が死んで、すでに一週間が経過していた。祖父は、葦原をよく可愛がってくれた。夜、食事が終わるとすぐに葦原を呼び寄せ、痩せ細って傷だらけの足を組み、その上に座らせ、ゆっくりと、絵巻物でも読み聞かせるように、彼に昔話をしてくれたものだった。

 

 祖父は、海の男だった。葦原の家は、代々海の男を出していた。大坂幕府が開かれたおよそ三百三十年前の、そのさらに五百年以上昔から、葦原の男たちはこの富士の山を仰ぎ見る沼津の地で、船に乗り、船で糧を得て、時には船と共に死んでいった者たちだった。

 

 祖父は夜な夜な、様々な話を葦原に語って聞かせた。その内容は漁に関するものに限らず、多岐にわたった。祖父の語りは上手かった。祖父はその当時の漁師にしては珍しいほどの読書家でもあった。

 

 変わり者の漁師が怪物のように長く、銀色の鱗を持つ魚を釣りあげた話。その怪物のような魚を食った者たちが皆、腹を下し、三昼夜も経たずして死んでしまった話。深海魚が多く獲れた年は必ず地震があったこと、津波の恐怖、海に棲む妖怪たち、昔の漁船ならではの苦労話。海軍の軍艦と漁船が衝突し、船から投げ出され、スクリューに巻き込まれて死にかけた話……そのいずれの話も葦原はすでに何十回となく聞いていたが、それでも彼は決して飽きることがなかった。

 

 その祖父が死んだ。七十五歳だった。長梅雨で軽く体調を崩し、そのまま肺炎を併発した祖父は、病と満足に闘う間もなく、床に就いてから一週間も経たないうちに霊魂が肉体から離れていった。祖父の遺体は大きかった。葦原は家族と共に湯灌(ゆかん)を行った。その時代の人間にしては珍しいほどに、祖父は身長が高かった。およそ五尺九寸あった。それでも、長年にわたる漁の苦闘が祖父の贅肉をすべて剥いだのであろうか、祖父は極端に痩せていた。そして、全身に傷を負っていた。葦原は、生前の祖父が風呂場で、それらの傷の来歴をいちいち教えてくれたことを思い出していた。

 

 もはや自ら動くことのない祖父は家族の手を借りて座禅を組み、そのまま座棺(ざかん)へと納められた。葬儀の後、棺は野辺の送りの行列と共に、町はずれの墓場へと運ばれていった。葦原は、位牌を持って行列に加わった。墓地に着くと、祖父の入った棺はすぐさま地の下へと埋められた。祖父は生者の目につかない、暗い世界へ行ってしまったのだと、葦原は呆然としつつ思った。

 

 祖父の死が、葦原の短い人生における最初の死だった。母方の祖父母は健在で、父方の祖母は葦原が生まれる前にすでに没していた。死は巨大な衝撃となって、葦原の幼い精神を強く打った。嵐のように騒々しくはなく、大波のように荒々しくはなかったが、それは確かに彼の心を変容させた。葦原は港町を歩き回りながら、なぜこの世界がいつもどおりに振舞っているのか、疑問に思っていた。

 

 祖父は毎朝、太陽と、富士の山と、珠流河(するが)湾の海に向かい、手を合わせて祈っていた。葦原も祖父のとなりで、その物真似をしたものだった。「この世界を照らす太陽と、人間をいつも見守ってくださっている富士の山と、豊かな恵みをもたらしてくださるこの海に、毎朝欠かさずお祈りをするんだよ」 祖父は優しく葦原に微笑んで、小さな頭を撫でながら、言葉をかけていた。

 

 いつも、じいちゃんはあなたたちに祈っていた。葦原は空を見上げ、そのように心の中で思った。太陽はいつものように燦々と輝いている。彼は視線を転じた。そこには富士の山が威厳を保ちつつ鎮座している。彼は潮騒に耳を傾けた。海はいつものように深く、長く呼吸をしている。いつも、じいちゃんはあなたたちに祈っていた。それなのに、なんであなたたちは、じいちゃんの死を悲しむことなく、いつものように過ごしているのか……

 

 葦原は街中を歩き回り、一周してまた港に出た。その時、前方に人だかりが出来ているのが見えた。港中の老若男女が集まり、港の水面の一点を指さし、何か口々に叫んでいる。葦原は一瞬、そこへ自分も向かうべきか迷った。つまらない野次馬になるなと、父からよく言われていた。だが同時に葦原は、その異変が、祖父の死に冷淡な態度を見せていた世界が彼に示した何らかの徴であるようにも感じていた。彼はその場へ駆けていった。

 

 大人たちの人垣を押しのけ、かいくぐり、前へと出た彼が見たのは、水面に浮かぶ小さなヒレの数々だった。ヒレはゆっくりと動いていた。時々ヒレは沈み、数分してまた浮かび上がり、かすかな跡を残して港内を動き回っている。

 

 隣にいた漁師が、葦原に声をかけた。「坊主、あれがなんだか分かるか。あれはサメじゃない。あれはイルカだ。十頭くらいはいるかな。すごい数だ。港に家族ごと迷い込んでしまったのかな……」 漁師は煙草を吸っていた。その匂いが、葦原が持つある記憶を刺激した。

 

 亡くなる半月ほど前、いつものように葦原を抱いていた祖父は、常になく神妙な面持ちで、低い声を発して語り始めた。「これまで、誰にも話さなかったことだが……お前にだけは話しておこうと思う」 祖父の細い腕に抱かれていた葦原は緊張した。祖父が今までに見せたことのない顔をし、聞いたことのない声を出していた。

 

 それでも、彼はその続きが非常に気になった。葦原が軽くうなずくと、祖父はぼつぼつと、途切れがちに語り始めた。

 

「わしが(たすく)と同じくらいの歳の頃、そう、十一歳だったかな、そろそろ御一新(ごいっしん)も近い頃だったが……わしはたった一人で夜、漁に出たことがあった。昼間の漁で大失敗をして、お前の曾祖父、つまりわしの親父に手酷く怒られたわしは、その晩、飯も食わせてもらえず、家の中にも入れてもらえなかった。わしの失敗は命にかかわるものだったからな。親父が怒ったのも無理はなかったが、わしは生まれつき反抗心が強い性格をしていた。だから、家から締め出された後にそのまま港に向かって、小舟に乗って珠流河(するが)湾へと漕ぎだしたんだ」

 

 祖父は煙管(きせる)に煙草の葉を詰めると、マッチで火を点け、深々と一服した。上品な香りがした。それは葦原の好きな芳香だった。祖父は語り続けた。

 

「心細さはなかった。どうしても親父を見返してやるんだと、そんなことばかりを考えていたからかな。いや、見返してやるというより、困らせてやろうとでも思っていたのかもしれない。夜空はよく晴れていて、月が煌々と輝いていた。富士の山は薄絹のような雲を纏っていて、暗い湾の中にただ一人浮かぶわしを注意深く見守ってくれていた。湾の中ほどまで出て、わしは竿を投げると釣り糸を垂らした。釣れるものはなんでも良かったが、できれば大物が良かった。親父があっと驚くような、そんな大物が欲しかったんだ。だが、いつまで経っても魚たちはやって来ない。漁師が邪念を持っていると、魚たちはそれを察知して、釣り針から逃げてしまう。待つことに疲れて、わしは次第に眠気を覚えてきた。単調な波の音と、生温かい風も加わって、わしは眠ってしまった……」

 

 祖父は、葦原の頭を撫でた。しかし、その撫で方はいつもとは異なり、少し力が強かった。髪の毛が引っ張られるのを痛く感じながら、それでも葦原は黙って祖父の語りを聞いていた。

 

「気が付いた時には、わしは海に落ちていた。ただ単に眠って海に落ちただけとも思うが、もしくは海に呼ばれたのかもしれない。いつの間にか風が強くなり、波も高くなっていた。塩辛い海の水を嫌になるほど飲んで、もがいて海面へ浮かび上がった後、わしはすぐに自分が乗っていた舟を探した。だが、それはかなり遠くの方へと流されていた。いや、舟ではなく、わしの方が流されていたのかもしれないが……わしはなんとか泳いで舟へと戻ろうとしたが、舟の姿はどんどん小さくなっていく。やがて、わしはたった一人で、荒い波の上を漂うことになった」

 

 葦原は息を呑んだ。この沼津でも優秀な漁師として名高い祖父に、そのような未熟な過去があったとは思いもよらなかった。

 

「こういう時、(おか)生業(たつき)を立てている者たちは、泳いでなんとか陸地に戻ろうとするものだが、それは無意味だ。人間の体はそれほど長い距離を泳げるわけではないからな。だからわしは泳がず、浮いていた。なるべく体力を失わないように、ただ浮いていた。ただ浮いて、それから後悔していた。あのまま家の前で親父の怒りが収まるのを待っておけば良かった、こんなことで死んだらみんな悲しむだろう、死んだらどうなるんだろう、親より先に死んだら地獄に落ちるのだろうか……そんなことを考えていたら、ありがたいことに次第に波が収まってきた。風も弱まりつつある。それでもまだまだ夜は明けない」

 

 祖父はポンと煙管(きせる)を叩くと火皿から燃え尽きた煙草を取り出し、まだ熱をもっているそれを指で摘まんで、火鉢へと放り込んだ。そしてまた新たに煙草を詰めると、紫煙を吐き出し始めた。

 

「そのうち、わしは妙なものを目にした。なにかがわしの方へ泳いでくる。それは綺麗な緑色に光っていて、素早い動きでわしに近づいてきた。わしは怖れた。何か、海の妖怪か、それとも神霊の類が、わしの魂を奪いに来たのではないかと思った。緑色のものは、わしがそう考えている間にも距離を詰めてきた。わしは目を見開いてそれを見ていた。それはわしの周りを泳ぎ始めた。どうやらそれも、海のど真ん中でぽつんと浮かんでいるわしがいったい何であるか考えているようだった」

 

 話に聞き入っている葦原の体が固くなっているのを祖父は察して、彼の頭を再度撫でた。今度は普段のとおりの、優しい撫で方だった。

 

「突然、それはわしの方へと勢い良く飛沫(しぶき)を立てて、泳ぎ寄ってきた。わしは逃げなかった。恐怖で体が動かなかった。それはわしの下へと潜ると、わしを背に乗せるようにして、ぐんと体を浮上させた。その時になって、わしはようやく気付いた。それはイルカだったんだ。緑色に光っていたのは、夜光虫がイルカにまとわりついていたからだ。イルカはわしを背に乗せると、真っ直ぐに泳ぎ始めた。迷いのない泳ぎ方だった。わしはイルカと一緒に、夜光虫で緑色に輝きながら湾を進んだ。イルカはどこへわしを連れていくんだろうと思ったが、この時になると恐怖よりも驚きの方がまさっていた」

 

 葦原はその光景を幼い想像力で心の中で思い描いた。それは、実に美しい光景であるように感じられた。自分も燐光を纏い、イルカの背に乗って泳ぐことができたらと、彼は子供らしい単純な願望を抱いた。

 

「空が白み始めていた。夜が去ったのだ。富士の山の輪郭がはっきりしてくる。そのうち、陸も見えてきた。富士の山の姿を見て、わしは自分が港に帰りつつあるのに気付いた。ふと周囲に目をやると、大きな緑色の固まりが他にも五つか六つ、わしとイルカの周りを泳いでいた。そう、イルカたちは家族だったんだ。わしは楽しくなって、長い間海水に浸かって冷たくなってしまった体のことも忘れて、イルカたちに声をかけていた。『君たち、どこから来たの』『君たちは家族なの』『どうして僕を助けてくれるの』 当然、イルカたちは何も答えなかった。イルカたちは人間のような言葉を持たないからな。それでも、その泳ぎ方から優しさが感じられた。だが、わしはそのうち、疲労と寒さからだろうが、意識を失ってしまった……」

 

 祖父は煙管を床に置いた。もう煙草は吸わないようだった。

 

「気が付いた時には、わしは港の近くの浜辺に横になっていた。村ではわしが夜中に舟で海に乗り出したのに気付いて、大騒ぎになっていた。親父からは目玉が飛び出るほど激しく叱られたよ。それでも親父は、何かしっかりとしたものがわしの中に生まれたのを見てとったようだった。それからは子供扱いされることもなくなって、わしも何だか得体の知れない自信がついた。それでも、イルカたちが助けてくれたとは、誰にも話さなかった。あの出来事を話すのは、せっかくわしを助けてくれたイルカたちに対する、裏切りのような気がしたからだ……」

 

 葦原は祖父に抱き上げられ、顔と顔を合わせた。

 

「良いかい、(たすく)よ。イルカは大事にしなければならんぞ。イルカに助けられたおかげで、わしは結婚してお前のお父さんをこの世にもたらすことができたし、そのお父さんがお前のお母さんと結婚して、お前をこの世に生み出すことができた。お前をこうして抱いているのはとても幸せなことだ。だが、この幸せも、あの時イルカがわしを助けてくれなかったら手に入れることはできなかった。お前も、将来は漁師になるだろう。漁師にはならなくても、海に関わる仕事をするかもしれない。わしの親父も、わしも、そしてお前の親父も、そうなったように。佑は、イルカを大切にしてくれるね?」

 

 葦原は、「はい!」と力強く答えた。祖父は満足そうに頷くと、佑を抱き上げて寝床へと運んだ。祖父は、最後に言った。

 

「眠れない時は、イルカたちを呼ぶと良い。心の中にイルカたちは泳いで来て、お前を素晴らしい夢の世界の入口へと連れて行ってくれる……」

 

 イルカを呼ぶこともなく、蚊帳(かや)の中の布団に身を横たえた葦原はすぐに眠りへと落ちた。その夜、彼はイルカの夢を見た。イルカたちは家族で、海の中で身を寄せ合って眠っていた。葦原は、その仲間に入れないのを悲しく思った。

 

 突然、回想に沈んでいた葦原の精神が、現世へと戻ってきた。彼は相変わらず港の中に立っていた。周囲にいた漁師たちが大声を上げている。見ると、イルカの家族を取り囲むように、数隻の漁船が海面を動いていた。甲板に並んでいる漁師たちは、手に手に網や(もり)を持っている。「おお、山岸(やまぎし)の家のところの船がイルカに向かっていくぞ!」「いいぞ、囲め囲め!」「一匹も逃すなよ!」 漁師たちの大きな声を聞いて、葦原は表情を青ざめさせた。彼は、イルカたちをどうするのかと近くにいた漁師に聞いた。

 

 漁師は煙草の煙を吐き出すと、腕を組んで葦原に答えた。「捕まえるのさ。銛で突いて、網を被せてな。イルカはそりゃあ良い値で売れるんだ。海軍さんが高く買ってくれるからな。ほら、魔術兵ってのが軍隊にいるだろ。西洋魔術を使って戦う兵隊さんたちだ。その魔術兵が戦闘中に飲む薬の材料として、イルカの肉と内臓が必要なんだ……」

 

 葦原はやめてと叫んだ。イルカは漁師の友達だ、殺さないでくれと、彼は大きな声で言った。漁師は、今まで大人しく話を聞いていた葦原が豹変したことに驚きの色を見せたが、やがて表情に柔らかい笑みを浮かべると、諭すように言った。

 

「そりゃそうだ。イルカは俺たちの友達さ。海に出てる時にあいつらと遭うと、なんだか昔からの友達が遠くから訪ねて来てくれたような気になるし、あいつらが海面を元気良く跳ねているのを見ると理由もなく楽しい気持ちになる。でもな、いくら友達だと言っても、人間と同じ友達じゃねぇ。そんなことを言ったら俺たちの生計が成り立たなくなる。それに、こんなに港の奥深くまで入り込んじまったんだ。もうあいつらだけじゃ港の外に出ることはできねぇよ。それなら俺たちがあいつらの命を……なんて言ったかな、そうだ、『有効活用(ゆーこーかつよー)』してやったほうが良いじゃねぇか……」

 

 漁師がそう話し終えた直後、漁船の上の漁師たちが一斉に銛を投擲した。何発かは外れたが、一発は確実に命中したようだった。海面が赤く染まり、痛みにのたうち回るイルカが激しい水飛沫を上げている。港の人々は歓声を上げた。イルカの家族をすべて捕えることができたならば、莫大な臨時収入になる。彼らの全員が、裕福な暮らしをしているというわけではなかった。

 

 その光景を見続けることに耐えられなくなった葦原は、家へ向かって駆け出した。家に帰ると、彼は布団を引っ張り出し、その中に潜り込んで、体を震わせて泣いていた。

 

 その晩、彼は夢を見た。彼は祖父と共に小舟に乗っていた。しばらく祖父と共に釣りをしていたが、祖父は無言で立ち上がると、海中へと身を躍らせた。船べりから葦原が覗き込むと、祖父は小さなイルカになっていた。イルカは緑がかった燐光を纏っていた。ぐるぐると小舟の周りを泳ぐと、挨拶をするかのように鼻先を海面から出して、尾ビレでひときわ大きな水飛沫を立てて小舟に降り注がせると、沖合へ向けて泳いでいった。

 

 祖父のイルカの姿は、ちょうど水平線の上へと昇りくる朝日を浴びて、黄金色に輝いていた。イルカが海面高く飛び、空中に静止したその瞬間、葦原の目が覚めた。

 

 朝の柔らかい日差しが、縁側から彼の部屋へと差し込んでいる。小鳥が朝の唄を歌っていた。葦原はその時ふと、祖父の魂はあの地面の下の座棺から抜け出て海へと去り、イルカとなって広い海の彼方へ泳いで行ったのだろうと思った。

 

 

☆☆☆

 

 

 その日のソロモン海もよく晴れていた。海上に濛気(もうき)はなく、視界は良好で、左舷(ひだりげん)遥かにボーゲンヴィル島の島影が見えていた。

 

 三千五百トン級の輸送船には陸軍兵が満載されていた。甲板に設置された旧式の高射砲が空を睨み、砲門が南洋の凶暴な太陽によって鈍く光っていた。彼らはショートランド島の防備強化のために送られる部隊だった。

 

 輸送船の後方に、一隻の大発動艇(だいはつどうてい)曳航(えいこう)されていた。大発動艇は、横須賀第六特別陸戦隊所属の、機動舟艇隊に所属する一隻だった。大発動艇は長さおよそ十五メートル、幅三メートル、重さ十トンの要目を持つ、上陸用の小型舟艇だった。六名の乗員が乗り組んでいた。舟艇は輸送船に繋げられた鋼製の曳航索(えいこうさく)によって曵かれて、ニュージョージア島の西に浮かぶコロンバンガラ島へと進出する予定となっていた。

 

 葦原は、その大発動艇の中にいた。彼は前を行く輸送船の船尾を眺めていた。錆が浮かび、外板は凹んで汚れが溜まっているが、輸送船は快調な機関の響きを発しながら南冥(なんめい)の海を進んでいく。南の海の清浄な大気を、煙突が排出する煤煙が汚していた。時々、陸兵たちが船尾楼甲板(プープデッキ)上に現れ、こちらを指さして笑っているのが見える。葦原が手を振ってやると、陸兵たちは元気良く手を振り返してきた。

 

 大発動艇の機関長を勤めている上等機関水兵がその光景を見て、口をとがらせながら葦原に言った。「あいつら、海軍がよりにもよってこんな小舟に乗っているっていうので笑っているんですよ。頭に来ます。戦艦とか巡洋艦とか空母じゃなくて、こんな小舟で海軍だって言えるのかって、そう言って笑っているんですよ、きっと……」 葦原は適当に相槌を打って、機関長の言葉を受け流した。彼は、その言葉がおそらく、機関長自身の不満の表れなのだと思った。

 

 艇長(ていちょう)に声をかけられて、機関長は後部へと去って行った。葦原は、腰に提げている軍用魔術杖を手に取った。破損がないか目視で確認した後、セイヨウウラノキの実から絞り出した特殊なオイルを染み込ませた手拭いで魔術杖を拭いた。彼は呪文を唱えて魔力を流し、問題なくそれが杖全体に浸透するか試した。魔術杖にまったく異常はなかった。

 

 敵と遭遇したら、と葦原は考えた。敵と遭遇したら、この小さな「(ふね)」を守れるのは自分しかいない。魔術兵である自分が魔術を行使しなければ、大発動艇は即座に海の底に沈むことになるだろう。この舟には一応、自衛用の火器として軽機関銃が一丁、弾丸が千二百発搭載されているが、敵の飛行機が相手となればその程度の武装は何の役にも立たない。

 

 腰に提げた革製の魔術用具入れを彼は探った。中には牛乳瓶ほどのサイズの、魔力強化薬の入った瓶が四つ収められていた。人造エーテル補充液ではない、高品質の、天然素材から抽出された魔力強化薬だった。これを一本服用すれば、およそ十五分間の戦闘に耐える。機関銃手にとっての予備の弾倉と銃身に相当するものが、この薬剤と言えた。

 

 敵機が出現した際には、これを飲まなければならない。そのことが葦原の気分を重くさせた。この魔力強化薬は海軍の研究所が開発したもので、陸軍で用いられている人造エーテル補充液と比較して高価で希少ではあるが、副作用が少ない。連続で大量に服用したとしても、人体と魔力に及ぼす影響は少なくて済む。そのように彼は教育を受けていた。それでも、彼はできることならばこれを飲みたくはなかった。

 

 この薬は、イルカたちによって造られている。しなやかで、優美で、肌も滑らかなイルカたちの肉と骨と内臓から、この薬の主成分は抽出されている。かつて、故郷の沼津の港で見た光景を、葦原は眼前に思い浮かべていた。銛で突かれ、真っ赤な血の混ざった水飛沫を上げるイルカたち。イルカたちの中には仔もいたことだろう。イルカの親たちは仔を守るために泳ぎ、抵抗し、そして死んだ。残された仔イルカたちも、きっと銛に突かれて……

 

 物思いに沈んでいた葦原の聴覚を、突然大きな声が刺激した。その声の主は、見張りの役目に当たっていた一等水兵だった。「右舷(みぎげん)後方に機影!」 どことなくうわずったその声を聞き、葦原も席を立って同じ方向へと視線を向けた。しばらく、空のどこにも機影は見えなかったが、次第に時間が経つにつれて、徐々にそれが見えてきた。のみならず、機影は数を増し、十分も経たずして、機影はおよそ三十の、銀色に輝く小型機群へと姿を変えた。

 

 大発動艇の乗員の全員が、その方向へ目を向けていた。艇長が葦原に言った。「どう思うね、イルカ魔術長。あれは敵機かな。司令部では、ここら一帯の制空権は我が方にあると言っているが……」 葦原はそれに否と答えた。味方機ならば左舷か、それとも後方から現れるはずであるが、あの小型機群は右舷後方から現れた。敵機の可能性が高い。

 

 そのように葦原が言うと、艇長は軽く舌打ちをし、「対空戦闘用意」と吐き捨てるように言った。機関銃手の水兵が軽機を三脚に据え、弾倉が詰まった箱を運んでいる。葦原は用具入れから魔力強化薬の瓶を取り出した。そして瓶の蓋を開けると、意を決して赤色の中身を飲み干した。濃い血の味がする液体が葦原の喉を通り過ぎ、あたかも強いアルコールであるかのように食道を焼いた後、胃の内壁へと浸透したのが分かった。葦原は、全身に魔力が充溢するのを感じた。

 

 艇長は煙草を乗組員たちに配った。「まだ敵がここに来るまで数分はある。貴様ら、吸っとけ。煙草も合戦用具だぞ」 そう言いながら、彼はもう一本目を吸い終わるところだった。

 

 葦原も煙草に火を点けた。煙草は潮風によって湿気を含んでおり、非常に辛い味がした。艇長は輸送船の方へ目をやった。「連中、まだ気付いていないみたいだぞ」 葦原も目を向けた。甲板上の陸兵たちは先ほどとまったく変わらない様子を見せていた。「知らせてやりますか」と、機関銃手が言った。「どうせすぐ気づくだろ」と、艇長は呟くように答えた。

 

 やがて、輸送船の上で騒ぎが大きくなった。対空砲員が砲座へと走り、砲口を小型機群へと向けている。数分後には、最初の発砲音が響いた。輸送船が備えている砲はその一門しかなく、発砲音は広い海原と空に吸い込まれて、あまりにも頼りなく響いた。発射された弾は小型機群の遥か手前で炸裂し、小さな黒い煙の塊を空中に一つ残した。

 

 小型機群は一直線に輸送船と、葦原たちの乗る大発動艇へと近づいてきた。それは予想された通り、敵機だった。濃い青色に塗装された機体に白い星のマークが輝いている。敵機は大型の爆弾を抱いた爆撃機と、戦闘機とによって構成されていた。

 

 敵は悠々と低空を進んできて、数呼吸の間にはその射程に輸送船を捉えていた。対空砲は射撃を続けていたが、敵機の勢いを削ぐことはできなかった。隊長機と思しき先頭の爆撃機が爆弾を投下した。爆弾は輸送船の左舷至近距離に落下し、マストよりも何倍も高い水柱を作り上げた。

 

「魔術長、対弾術式発動だ」 艇長がそう叫ぶのと同時に、葦原は魔術杖を描くように動かして空中に紋様を刻み、呪文を唱えた。紫色の防護膜が展開され、それによって大発動艇がすっぽりと覆い隠された。気休めみたいなもんですよ、と葦原は艇長に言った。敵機の十三ミリ機銃弾なら何とか抗堪(こうたん)しますが、爆弾は無理です。そのように葦原が言葉を続けると、艇長は「そんなことは知っているよ」と答えた。艇長の視線は輸送船へと注がれていた。

 

 輸送船の甲板上の陸兵たちは、健気にも小銃を射撃して敵機への対空射撃を行っていた。しかし、敵爆撃機の三番機が投弾した爆弾がついに煙突付近を直撃した。大爆発が起こり、輸送船は紅蓮の炎と黒煙を上げ、見る間に沈没しはじめた。陸兵たちが爆発に巻き込まれ、人体を四散させるのが葦原の目にはっきりと見えた。

 

 沈みつつある輸送船に対し、敵機はなおも攻撃を続けた。爆撃によって輸送船と大発動艇とを繋いでいた曳航索が切断され、舟艇(しゅうてい)は海を漂い始めた。艇長はただちに機関長に対して機関始動を命じた。場違いなほどに単調で牧歌的な焼き玉エンジンの駆動音が、爆撃と銃撃によって沸騰している海面上に響いた。燃料の混合濃縮エーテル液の甘い匂いが、いやに葦原の嗅覚を刺激した。彼はなぜか、故郷でよく食べた饅頭のことを思い出した。祖父と一緒に食べた饅頭は、舌が溶けそうなほどに甘かった。

 

 敵機は輸送船への攻撃をやめ、今度は葦原たちの舟艇に対し攻撃を集中した。機関銃手は盛んに降下してくる敵機へ向けて射撃を続けているが、まったく効果はなかった。しかし、葦原の対弾術式は威力を示した。敵機の十三ミリ機銃弾は雨のように舟艇へと降り注いだが、その中の一発たりとも船体を傷つけることも、乗員の葦原たちを傷つけることもなかった。

 

 艇長は冷静に舟艇を操り、敵機の攻撃から避けていた。彼は笑って乗組員たちに言った。「この分なら、もしかしたらしのぎ切れるかもしれんぞ」 歯を見せて余裕の表情を浮かべる艇長を後目(しりめ)に、葦原は今度は躊躇いなく二本目の魔力強化薬を服用した。そして魔力杖を構え直すと、展開されている防護膜へ向けて魔力を込め直した。防護膜は度重なる被弾により、既に崩壊寸前だった。危ないところだったと、葦原は胸を撫で下ろした。

 

 葦原はふと、視線を右舷方向へ向けた。ちょうど、最後まで浮力を保っていた輸送船の船尾が、海中へとその姿を消すところだった。輸送船のタンクから漏れ出た混合濃縮エーテル液が海面上に漂い、ところどころで青い炎が燃え盛っている。爆撃と機銃掃射による殺戮から逃れた陸兵たちが波しぶきを立てて泳ぎ回り、浮遊物に掴まろうともがいていた。沈まないように苦闘を続ける陸兵たちに、敵機はなおも銃撃を加えている。血煙を上げて兵士の体が砕かれ、波の下に沈むのが葦原の目に映った。

 

 一機の爆撃機が超低空に降りてきて、舟艇に対して銃撃を加えた。手を伸ばせば届きそうなほどに、その高度は低かった。敵の操縦士と、後部座席の偵察員の姿を葦原ははっきりと見ることができた。興奮しているのか、操縦士も偵察員も白い歯を剥き出しにしており、顔は赤黒く変色していた。偵察員は連装の機関銃をこちらに向けて、銃撃を加えてきた。防護膜が雨垂れのような被弾音を立てた。舟艇の機関銃手が反撃し、敵の機体にこちらの弾が火花を散らして命中するのが見えたが、敵機は何事もなかったかのように飛び去った。

 

 舟艇は円を描くようにして機動をし、その後も十分間に渡って戦闘を続けた。葦原が三本目の魔力強化薬を服用したその直後、舟艇全体が強い衝撃に包まれ、視界が上下に反転した。葦原は、瞬時に状況を理解した。敵の爆撃が至近弾となって舟艇を襲い、船体をひっくり返したのだと思った。機銃掃射がまったく効果を及ぼしていないことに、敵は業を煮やしたらしい。葦原は、自分の体が宙に浮いているのを感じた。数秒も経たないうちに、葦原は舟艇の外へ放り出され、海中へと沈んだ。

 

 軍用魔術杖を握り締めつつ、葦原は手足を動かして海面へと向かった。海の中から見る海面は、緑がかった黄色に輝いていた。時折、ラムネ瓶を開けるような軽い音を立てて、何かが勢い良く海中へ飛び込んでくる。その何かは無数にあった。白い線を引きながら海水を切り裂きつつ突進している。それが敵機の発射した機銃弾であることに、葦原はすぐに気が付いた。

 

 しばらく、彼は海の中にとどまった。気泡の音が奇妙なまでに大きく葦原の耳に響いた。漁師の家に生まれ、幼い頃から海に出ていた彼にとっては、敵の攻撃で荒れ狂う海面よりも、酸素はなくとも平穏な海中の方が安全に感じられた。

 

 やがて、脳と全身の細胞が酸素を欲し始めた。彼は気泡と共に海の上へと浮かび上がった。頭部が水面上に出ると、彼は生まれたての赤子のように大きな呼吸をした。敵機が攻撃してくるようならばまた海の中へ身を隠そうと葦原は考えたが、その姿はどこにも見えなかった。太陽の光が、海水の塩分によって焼かれた目に非常に眩しく刺さった。生き残って海面を漂っている兵士たちが、盛んに空を指さし、歓声を上げている。そこには、真っ赤な真円を両翼に描いた友軍の戦闘機が飛んでいた。

 

 その飛行機は、たった一機だった。ここからさほど遠くないところに位置する、ブインの基地から飛び立って来たものと思われた。一機ながら、葦原には非常に心強く感じられた。友軍機は翼を振った。生存者たちを励ましているようだった。数分間、友軍機は辺りを飛び回って警戒を続けた後、翼を翻してその場を去っていった。

 

 艇長の声が聞こえていることに、葦原は気が付いた。「九号艇! 九号艇の乗組員はいないか!」 彼が目を周囲にやると、艇長はさほど遠くない場所に浮いていた。彼は泳いで艇長の傍へ寄った。陸兵たちは浮遊物に掴まって、辛うじて浮いていた。頭部が砕かれ、四肢を失った死体があたりを漂っている。

 

 数分も経たずに、葦原は艇長のもとに辿り着いた。艇長は木材の破片を抱えるようにして浮力を保っていた。「イルカ魔術長、生きていたのか。良かった。貴様の防護膜は完全に機能したが、爆弾相手にはやはり無理があったな」 艇長の顔は青ざめていたが、言葉には力があった。やがて、舟艇の乗組員全員が艇長の周囲に集まった。葦原は、仲間がみんな無事であることを嬉しく思った。

 

 日はまだ高かった。生存者たちは、友軍の救援が来るのを待っていた。あの友軍機はきっと、味方の基地に無線で報告をしたに違いない。救援は必ず来る。その確信が、葦原を力づけた。

 

 突然、陸兵たちの間でどよめきが起こった。誰ともなく、叫び声が上がった。「フカだ! フカだ!」 見ると、波の合間に小さな灰青色の背びれが立っていた。陸兵たちが示し合わせたかのように悲鳴の混ざった声を上げ始めた。声は明白に恐慌の色を帯びていた。

 

 背びれを見て、一瞬、葦原は心臓を握られたような衝撃を覚えたが、しかし即座にその正体に気付いた。彼は艇長に、あれはイルカですと言った。背びれに続いて海面上に姿を表した尾びれの形状から、それは明らかだった。

 

 艇長は頷くと、大声で叫んだ。「陸さんたち! 慌てるな! あれはイルカだ! イルカは人を食わん! 静かにしていろ!」 恐怖が蔓延する前に、艇長の言葉は陸兵たちに伝わった。海面上は、平穏を取り戻した。艇長は葦原に笑いかけた。「さすがはイルカ魔術長、同類を見分けるのはお手の物だな……」

 

 背びれは、次第に数を増した。葦原は、何とはなしにその数を数えてみた。十まで数えたところで、彼はその行為をやめた。イルカたちがいる限り、おそらくサメもやって来ないだろう。彼は海の男としての直感から、そのように考えた。イルカたちは、海面に漂う生き物たちに興味を持っているようで、しばらく周囲を泳ぎ回っていたが、やがて姿を消した。エーテルの甘い臭いが繊細な嗅覚には毒だったのだろうかと、葦原は推測した。

 

 どれだけの時間が経ったのか、葦原には分からなかった。救助はまだ来ていなかった。艇長は葦原に「イルカ魔術長、貴様の魔術で筏か何かを作ることはできんのか」と尋ねた。葦原は、不可能だと答えた。そのような魔術はまだ開発されていなかった。仮にそのような魔術があったとしても、今の葦原にそれを行使することはできなかった。彼はすでに魔力を使い果たしており、魔力強化薬が納められた用具入れも、舟艇が転覆した際に失っていた。

 

 葦原は、先ほど姿を見せたイルカたちのことを思った。自分は、イルカによって救われたのだと彼は感じた。イルカたちは、祖父を助けたように自分たちを乗せて陸地へと運ぶことはしなかったが、それでも戦闘中の魔術行使を助けたのはイルカたちだと言えた。長時間にわたって対弾防護膜を展開できたのは、イルカたちの血と肉によって作られた魔力強化薬があったからだった。

 

 陸兵たちは疲労の極みにあるのか、もはや一言も発しなかった。艇長たちも、暗い顔をして黙り込んでいる。海の上では人間は無力だと、葦原は改めて思った。人間は陸で生まれ、陸で糧を得ることを宿命づけられている。しかしながら、陸の上で田畑を耕すことに飽き足らず、人間は知恵をもって船を作り出し、海原に漕ぎ出して、海の富を収奪することを学習した。その富に幻惑されて、人間は海という場所の恐ろしさを忘れてしまったようだった。海は異界だった。そこでは人間の生存は許されていない。

 

 イルカたちは人間をどのように感じているのだろうかと、葦原は疲労と脱水症状で朦朧とする頭脳で考えた。人間にとっては冥府に等しき異界であっても、イルカにとって海は母なる「大地」だろう。その母なる大地に乗り込んで富を浚い、大砲と魚雷を撃ち合い、重油と混合濃縮エーテル液を撒き散らしている人間は、イルカたちにとって紛れもない侵略者ではないかと、葦原は思った。

 

 いや、そもそも、自分はイルカたちの敵なのだ。そのように葦原は考え直した。自分は海軍の魔術兵であり、魔術兵はイルカの血肉を啜って魔力を得ている。このような敵を、イルカが救うわけはない。さきほどイルカに救われたと思ったのは、考え違いだった。自分の体はきっと、イルカの血の臭いを濃く発しているだろう……肉体的な疲労感とは別の、ある種の重みが精神に加わるのを彼は感じた。諦念と後悔と、罪の意識が彼の心の中に満ちた。

 

 日はいまだに凶暴な光を海面上に降り注いでいた。彼らは鏡のように輝く海の上に浮かび続け、焼かれ続けた。救助のために派遣された駆潜艇が到着したのは、日が傾きかけた頃だった。近寄る駆潜艇に、艇長は陸兵たちの救助を優先するように言った。葦原たち九号艇の乗組員が救助されたのは、一番最後になってからだった。救助を待つ間、陸兵たちの生き残りのおよそ三分の一が海の底へ沈んでいた。

 

 葦原は、疲労困憊の状態で駆潜艇の甲板に横たわった。彼は空を見上げた。南十字星が無数の星々を従えて、控えめに仄白く光っていた。彼にはその光が峻烈に劫罰(ごうばつ)を宣告しているように思えてならなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 漁師として生まれたのだから、漁師として死ぬのだろう。幼い頃から葦原はそのように考えていた。

 

 初めて船に乗ったのは八歳の時で、父と一緒だった。父は「(たすく)、お前は黙って仕事を見ていろ」と言っただけで、他に何も彼に命ずることはなかった。父がどういう仕事をしたのか、どのように漁具を操ったのか、その日何が釣れたのか、今の彼は覚えていない。ただ、その日の富士の山は雲に覆われていて姿が見えず、珠流河(するが)湾全体も暗く、陰鬱な雰囲気を纏っていたこと、それから、初めての漁から帰り、疲労で顔を蒼くしている自分を、祖父が目を細めて眺めていたことを彼は記憶している。

 

 祖父が死んだ後も、葦原は父の漁を手伝った。父は寡黙で、必要なこと以外は何も喋らなかった。葦原はそんな父を恐れ、かつ敬っていた。母は幼い妹たちにかかり切りで、彼に関わることはほとんどなかった。男の子の教育は父親が、言葉ではなく行動によって行うものであると、葦原の両親は考えているようだった。父は葦原に、ただ仕事に専念する姿を見せることによって、漁師として必要な事柄のすべてを教えていた。葦原はそのすべてを吸収した。小学校を終えようとする頃、葦原は進学をせず、このまま漁師になろうと決心していた。

 

 そんな葦原にとって、父からの「進学しろ」との言葉は意外そのものだった。なぜと問う葦原に、父は常になく多くの言葉を費やしてその理由を説明した。

 

「漁も次第に『近代化』しつつある。近代化というのは、機械化と同じだ。いつまでも大阪幕府時代と同じ方法で漁を続けるわけにはいかん。これからの漁師は機械の使い方を知らねばならんし、金の使い方も知らねばならん。沼津の漁師は日本一の漁師だ。その沼津の漁師が、機械も知らなければ貧乏のままというのは許されない。お前は学校に行け」 父は静かに、しかし力を込めて話し続けた。

 

 葦原は、進学することにした。数日間検討した彼は、ちょうど数年前県内に新設された水産専門学校があることに目を付けた。彼はそこへ進学すると言ったが、父はそれに反対した。「道は広い方が良い。板子(いたご)一枚下は地獄だ」と、父はただそれだけ言った。「学費ならば心配するな」とも、父は言った。本家の伯父が支援してくれるとのことだった。

 

 葦原は祖父に似たのか読書が好きで、いつも父の漁を手伝っていたにもかかわらず、小学校での成績は常に上位に位置していた。父は、葦原の性向をしっかりと見抜いていたようだった。

 

 ようやく、葦原は父の愛について悟った。優しい言葉など決してかけたことはなく、失敗に対しては常に厳しい態度で接していた父であったが、やはり父親としての眼で、自分のことをよく見てくれていたのだ。葦原は父への愛が増すのを感じた。自分のためではなく、そのように望む父のために進学をしよう。彼は決心をした。念のため一年間を浪人生活にあて、受験のための準備をした後、彼は無事に静城(しずき)県立の中学校に入学することができた。

 

 下宿をしながらの中学生活は、葦原を新たな世界へといざなった。彼は意欲的に勉学に励んだ。将来何になるのか、いまだにそれは彼の中ではっきりとした像を結んではいなかったが、勉強することの楽しさそのものが、彼の若く伸び盛りな精神を強力に牽引した。彼は旺盛に本を読み、言葉と知識を得た。友人もできた。友人たちはみな、彼の泳ぎを褒めそやした。彼は水泳の県大会で優勝し、中学校の評判を高めた。

 

 夏の休暇の時期になると、彼は沼津の家に帰って漁を手伝った。父は何も言わなかった。学費を捻出するため生活は苦しくなっているものとも思われたが、家の様子はまったく変わっていなかった。三人の妹たちは大きくなって、いずれも小学校に通っていた。母は、葦原が持ち帰った水泳大会の賞状を額縁に入れて飾った。

 

 夏の盛りのある日、中学校の級友が彼のもとを訪ねてきた。級友は県の内陸部の出身で、線の細い、女の子のようにか弱い容貌をしていた。級友は、「三津(みと)にある水族館に行きたい」と言った。三津には、日本で二番目にできた水族館があった。特に、イルカの生体展示で有名な場所だった。

 

 葦原とその級友は、仲が良かった。二人の性格と体格はほぼ正反対だったが、不思議と気が合った。級友は、海の生き物をこよなく愛していた。特に、彼はイルカに興味を持っていた。葦原の見事な泳ぎを見て、級友は「まるで葦原君はイルカのようだ」と喜んでいた。彼らは休み時間に、よく日本の海洋資源とその将来について話し合ったものだった。彼らは電車に乗って、三津へと向かった。

 

 だが、三津での体験は葦原を失望させた。イルカたちは確かにそこで飼育されていた。「やまと」という名のオスと、「なでしこ」という名のメスの二頭だった。だが、無骨なコンクリート製のプールは、いかにも二頭のイルカたちにとって狭く見えた。その当時の世界的な水準に照らして、プールが可能な限りイルカに配慮した造りになっていることを級友は言い、それに葦原も頷いたが、心の中では納得できないものが残った。

 

 それよりも彼を落胆させたのは、イルカたちの態度だった。イルカたちは満足しきっているように見えた。飼育員から大量の生餌(いきえ)を与えられ、食べ終えると満足したように水面に体を浮かべている。

 

 イルカたちは広い海原を忘れて、飽食と惰眠を貪っているように葦原には思えた。それは葦原の若い義憤ゆえに湧き起こった思いでもあったが、それ以上に、幼い頃から抱いていたイルカのイメージ、あの夜の祖父の語りによって形成された、荘厳で優しいイルカのイメージと眼前の光景とが相反しているからでもあった。

 

 級友は熱心に飼育員に質問を浴びせていた。飼育員も丁寧に答えていた。「このイルカたちは海を知らないんですよ」と飼育員が言った。「まだ小さな仔だったのを捕まえて、このプールで大きくしたんです。だから、海を知らない。水温管理と食餌(しょくじ)、必要な薬剤、適切な運動量など、海外の文献と論文に当たって、ほぼ手探りの状態で育てました。ここまで大きくなってくれたのは奇跡かもしれません。そのうち、『やまと』と『なでしこ』の間に新しい仔が産まれるかもしれません。もしそうなったとしたら、我が国の水産資源研究にとって大いなる飛躍と言えるでしょうね……」

 

 葦原は口を挟んだ。しかし、なぜそもそもイルカを狭いプールで飼育する必要があるのか。生態を観察するのならば、海に観測所を設けるなり、調査船を出して観察するなりすれば良いのではないか……彼は自分の質問が、理性からではなく感情から発しているのを自覚していた。自覚する分だけ、彼の声は大きくなっていった。彼はそれを内心で恥じていたが、飼育員は特段気にした様子もなく言葉を発した。

 

「漁業の近代化の課題の一つとして、効率的な養殖法の開発と普及というものがあります。これまでの漁業は、貝類や海藻類などを除いて、海に生きている生物をただ捕獲するだけで成り立ってきました。しかし、これからの世界は人口が増加し、それに伴って食糧危機が起こってくるものと思われます。人工的な環境を形成し、そこで効率的に水産物を作り出す。いわば海を工場にするんですよ。イルカの飼育も、その観点に立っています。それに、魔力強化薬の需要が年を追うごとに高まっています。イルカの肉と血が魔力強化薬の原料というのを知っているでしょう。イルカの飼育は、食糧問題の解決だけではなく、国防力強化にも大変役立つのです……」

 

 釈然としない気持ちを抱えたまま、葦原は級友と共に三津の水族館を去った。級友は興奮した面持ちを隠さなかった。彼は日本の漁業の将来について熱く語り始めた。二人は駅の売店でラムネを買って飲んだ。ラムネは炭酸が抜けていて、妙に甘ったるく喉に絡みついた。「やっぱり、僕は大学に行って海洋生物学を勉強しようと思う。僕のこの手で、日本の漁業を近代化するんだ。葦原君、君はどうしたい?」

 

 葦原は、よく分からないと答えた。その返答に不満そうな顔をする級友に、彼は、少なくとも海軍の魔術兵にはなりたくないな、と言葉を付け加えた。

 

 そんな彼が海軍に入ることになったのは、まったくの偶然のゆえだった。それも、不幸な偶然だった。

 

 彼が十六歳の時、父が死んだ。正確には、行方不明になった。その日、季節外れの大嵐によって沼津の多数の漁船が遭難した。父の漁船は港に帰ってきた数少ない船の一隻だった。父の腕前と経験は沼津でも卓越したものだった。しかし、父はすぐにまた船を出した。遭難者を救出するためだった。波が高く、風も収まらないうちに父はまた港から出て行き、そして原因は分からないながらも、結局帰ってこなかった。

 

 本家の伯父は、知らせを聞いて即座に帰郷した葦原に向かって言った。「寡黙で、責任感の強い性格だったから、安全な陸地で嵐が収まるのを一人で待っているわけにはいかなかったのかもしれない。二次遭難の危険については、よく分かっていたのだろうが……」

 

 葦原は父を恨まなかった。父は海の男として生き、そして死んだのだと思った。「板子一枚下は地獄」ということをよく承知していて、その恐怖を理解していながら、父は荒れ狂う海へ出て仲間の生命を救おうとし、そして消えた。

 

 父は死んだのでも、行方不明になったのでもない。海に還ったのだ。そのように思い込むことで、葦原は悲しみを押し殺した。いつまでも悲しみに暮れているわけにはいかなかった。物質的な課題が、突如として彼を強く圧迫し始めていた。

 

 いまや、学業を継続することは叶わなくなった。葦原の進学の際、父は本家の伯父に支援してもらうと言っていたが、実際のところそのような事実はなかったことが判明した。伯父の方も、新たに葦原の学資を出す気はないようだった。折から勃発した大陸での戦争によって燃料費が高騰しており、漁業は酷い不況に見舞われていた。伯父は明らかにはしなかったが、本家も窮乏の一途をたどっているようだった。

 

 葦原は海軍を志願した。母と妹たちを養うには、それしか方法がないように思われた。陸軍に行く気はなかった。海の男に育てられ、海に慣れ親しんだ自分ならば、自然と行くべき場所は決まっていると彼は思った。

 

 横須賀の海兵団に入団し、身体検査を受けた後、葦原は思いもかけぬことを知った。彼は魔術兵としての高い適性を有していた。自分が最もなりたくないと思っている存在になるように、彼は命令された。彼はそれに服した。魔術兵としての特別加俸も魅力的ではあったが、どちらかといえば、その時彼は自己の運命に関して無関心になっていた。海の男として善く生きた父を、海は飲み込んだ。いくら海を愛そうとも、海はこちらを愛してくれない。今まであえて目を逸らし続けていたその事実が、魔術兵となることに対する彼の心理的障壁を取り払ってしまった。

 

 イルカは、葦原にとって海の象徴だった。その象徴としてのイルカを飲み下すことで、僅かながらに復讐をすることができるかもしれない。心のどこかで、葦原はそのように考えていた。残酷で、独りよがりな考えだったが、それは彼を幾分か慰めた。

 

 海軍魔術学校の教育課程において初めて飲んだ魔力強化薬の味は、濃い血の味がした。学課と実技において高い成績を示しながら、また、これが復讐になるのだと思っていながら、葦原はどうしてもその味に慣れることができなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 救助された葦原たち九号艇の乗員は、ボーゲンヴィル島南端に位置するブイン基地に上陸し、新たな大発動艇と装備、被服を受領した。しばらくの間、彼らは輸送作戦に従事した。制空権、制海権ともに敵に奪われており、作戦行動はすべて夜間に行わざるを得なかった。

 

 無論、敵機は恐ろしい存在であったが、それよりも脅威であったのは敵の魚雷艇だった。葦原たちの大発動艇が空荷の状態でも最高で時速九ノット程度の速力しか発揮できないのに対し、敵の魚雷艇は時速四十ノット近くで海面を走る。兵器類も強力で、魚雷の他に大口径の機関砲を持ち、重機関銃を何丁も備えていた。

 

 魚雷艇は、闇夜に紛れて細々と補給物資を孤島の守備隊に送る大発動艇に襲い掛かり、機関砲を掃射してくる。航空機は夜間に飛ぶことができないが、魚雷艇は時間を問わず攻撃のタイミングを選ぶことができた。

 

 艇長は言った。「いくらこっちに魔術兵がいて、対弾防護膜を展開できるとは言っても、敵の三十七ミリ機関砲の前じゃ無力に等しい。なるべく陸岸の近くを航行して地上からの援護をもらいつつ、敵の魚雷艇の目を盗んでやっていくしかないな。敵もあまり陸地に近づくのは嫌がるだろう。奴らだって根拠地から遠く離れて行動しているんだからな。あとはまあ、海の神様にでもお祈りしておこうや……」

 

 煙草を葦原に差し出しつつ、艇長はまた言った。「どうだ、イルカ魔術長。なにか便利な魔術はないか。敵の目を盗めるような……そうそう、透明人間になれるような、そういう魔術があると助かるんだが」 葦原は、不可視化の術式は存在するが、効力時間が短いと答えた。防護膜と同じく、十分程度しか持続しないと彼は言った。艇長は笑った。「それなら、たんまりと魔力強化薬を持っていけば良い。大丈夫だ、調達は俺に任せろ」

 

 その言葉どおり、艇長は基地のどこかから大量の魔力強化薬を持ってきた。薬剤は大きな木箱に収められていた。葦原は箱を開けた。保護材のおがくずの中に埋もれるようにして、強化薬の瓶が整然と並んでいた。彼は瓶を持ち上げて、中身を太陽の光に透かして見た。血のように暗く、乳のように濃い液体が中に詰まっていた。この薬剤のすべてがイルカの血肉を絞って作られたのだということを、彼はあえて考えないようにした。彼は機関長と協力して、箱を舟艇の中へ運び込んだ。

 

 ブインの基地にはよく、イルカの死骸が流れ着いた。兵士たちはそれにあまり関心を払わなかった。葦原は、その日の早朝に砂浜へ漂着したイルカの死骸を見つめた。イルカに目立った外傷はなかった。波に洗われた死骸の肌は白く輝いており、その美しさが却ってイルカの生命が失われていることをまざまざと示していた。

 

 いつの間にか、飛行服を着た兵士が葦原の隣に立っていて、彼と同じように視線を死骸に注いでいた。しばらくして、兵士は言った。

 

「可哀想なもんだ。こいつらが死ぬのは俺たちのせいなんだよ。俺は水偵(すいてい)の操縦士で、毎日のように対潜警戒に出てる。雲の上から敵の潜水艦を探すのは大変なんだ。偵察員と一緒になって、目を皿のようにして探しても、なかなか敵潜を見つけることができない。おまけに、海中から水面へ伸びた潜望鏡が作る航跡(ウェーキ)は、イルカが泳ぐ時に作る航跡(ウェーキ)と非常によく似ている。こっちとしてはすぐに対潜爆弾を投下しないと逃げられると思っているから、見つけたらすぐにそこに向かって爆弾をぶちこむ。それで、よくイルカが巻き添えになるってわけだ。直撃して体がバラバラになるのはあまりなくて、爆圧で感覚器が狂って死ぬんだよ。脳と目玉と耳をいっぺんにかき混ぜられるようなもんだ……」

 

 打ち上げられたイルカの死肉を食べようとする兵士たちも基地の中にはいたが、死骸の大半はすでに時間が経過して腐っており、食用に適するものはほとんどなかった。士官たちが雑談をしているのを葦原は聞いた。「ここに流れ着くイルカの死骸を全部本国の工場に送ったら、それだけで魔力強化薬が数年分は作れるだろうな……」「海軍をやめて捕鯨業者にでも転身するか……」「いや、やめておいた方がいい。そのうちイルカも絶滅しちまうだろう。そうなったら失業さ、ハハハ……」

 

 艇長の指揮が卓越していたのか、葦原の魔術が冴えていたのか、それとも海の神に祈りが通じたのか、九号艇は敵に遭遇することもなく、輸送作戦を完遂した。部隊に所属する舟艇のうち、無傷だったのは彼らの九号艇だけだった。

 

 作戦終了の前日の夜、彼らは敵に遭遇した。月光に照らし出された敵の魚雷艇は痩せていて、非常に精悍なスタイルを有していた。そこはちょうど狭く細い水路になっていて、行動が著しく制限される場所だった。魚雷艇の接近を確認した艇長が、小声で言った。「機関長、機関停止。イルカ魔術長、不可視化術式発動だ……」 葦原は血の味がする魔力強化薬を一息に飲み干すと、軍用魔術杖で空中に紋様を描き、魔力を放散して術式を発動した。目に見えない魔力の膜が舟艇の全体を速やかに覆った。

 

 おそらく、敵は無線を傍受するか、懐柔した現地民の見張り員からの通報によるかして情報を得て、ここにやってきたに違いない。葦原はそう思った。敵としてはここにくれば確実に何隻かの舟艇を撃沈できると思っていたのだろう。敵の魚雷艇の船首に設置された大口径機関砲が、動揺したように左右へ砲口を揺らした。よく耳を澄ませると、敵の会話のようなものが聞こえる。

 

 十分が経過した。葦原はまた強化薬を服用した。副作用は少ないと言われているが、短時間に大量に服用すると、酩酊のような感覚を覚える。足元がおぼつかない。彼は魔術杖の先が微かにふらつくのを感じた。

 

 艇長をはじめとして、他の乗組員たちは皆、沈黙を固く守っている。今、この舟艇を守ることができるのは自分だけなのだ。そのように考え、葦原は気を取り直した。彼はまた魔力を放散し、不可視の膜を強化した。

 

 それからさらに十分以上が経過した。敵はなおもその場にとどまっていた。艇長が言った。「心理戦だ……敵は半信半疑だ……もう少し辛抱したら、きっとここから離れていく。イルカ魔術長、もう少しだけ頑張ってくれ……」 突然、右舷後方の彼方から爆音が響いてきた。重く、けたたましい機関砲の射撃音が連続し、それに呼応するように、軽い連射音が聞こえてくる。艇長が吐き捨てるように言った。「あの方向は、きっと四号艇だな……どうやら敵に捕まったらしい。だが、活路が拓けたぞ」

 

 艇長の言葉どおり、敵の魚雷艇は突然機関出力を全開にすると、波を蹴立てて急速にその場から去って行った。どうやら交戦中の魚雷艇から増援の要請を受けたようだった。魚雷艇が充分に離れて行ったのを確認すると、艇長は深く息をついた。「機関再始動、さっさとこの水路を抜けるぞ。陸に積み荷を届けたらとっとと基地に帰って、ヤシ酒を一杯やろうや……」

 

 輸送作戦を終えた後、九号艇は他の生き残りの舟艇らと共に、ボーゲンヴィル島からコロンバンガラ島へと進出した。その島には、陸海軍の将兵と基地建設のための労務者、軍属たちがひしめいていた。敵は島への包囲の圧力を日々強めており、このままでは合計一万三千名の将兵・軍属が全滅するのは必至だった。司令部は撤退作戦を立案し、ほどなくしてそれは発動された。

 

 撤退作戦の主力を担うのは、葦原の所属する横須賀第六特別陸戦隊所属の、機動舟艇隊だった。大兵力を一度に輸送できる高速輸送船は、そのことごとくが既に敵によって沈められていた。夜の闇を利用し、大小さまざまな孤島が点在する海を小回りの利く小型舟艇で渡り、一万以上の将兵を往復輸送することになった。コロンバンガラ島北方に位置するチョイセル島を経由し、ソロモン海の中央を突っ切って、ボーゲンヴィル島のブイン基地へと輸送しなければならない。

 

 しかし、九号艇に課された任務は、輸送ではなかった。九号艇はこれまでの戦績を鑑みて特に作戦遂行能力が高いと評価され、別の任務を割り当てられることになった。九号艇には土嚢と丸太が積み込まれた。船首の上部に丸太を数本並べ、その上に砲座が設置された。砲座には陸戦用の三十七ミリ速射砲が据え付けられた。他に、軽機関銃が二丁増やされた。中央部に木材で櫓が組まれ、そこに機関銃が設置された。操砲要員四名と、機関銃手二名が新たに乗り組むことになった。増加した武器弾薬、人員により、舟艇の最高速力は六ノットにまで落ち込んだ。

 

 艇長は葦原に愚痴をこぼした。「クソ! これまでちょっと上手く行き過ぎてると思ったんだ。まさかこんなことになるとはな……司令部の奴ら、俺たちを(デコイ)に使う気なんだ。俺たちを舟艇隊の最後尾につけて、追尾してくる敵の足止めをさせるって腹なんだろう。どのみちこんなに重くなっちゃ舟艇隊の先頭には出られんがな。俺たちが敵の攻撃を一身に受けている間に味方は離脱するっていう目論みだろう。まったく、司令部の参謀連中は経済的な思考をしてやがるぜ……」

 

 葦原は、なぜ自分たちにこのような任務が回ってきたのかと艇長に訊いた。艇長は呆れたような顔をした。「なぜって……そりゃ俺たちがこれまでに一発も食らわないで輸送作戦をやってきたからだろう。優秀なイルカ魔術長のおかげで、俺たちは今のところ誰も死んでいないし、何も荷物を落としちゃいない。敵の目を掠めて死線も潜ってきた。おい、覚えておけよ。戦場じゃ、あんまり優秀過ぎるっていうのも考えものなんだ。優秀ってことは、いつも最前線に送り込まれて、難しい任務を与えられて、すぐにおっ()ぬってことなんだからな……」

 

 足を(もつ)れさせて、艇長はその場から去って行った。マラリアとアメーバ赤痢によって艇長は体力を消耗していた。今や舟艇隊の半数以上がこの病気に罹患していたが、葦原は幸運なことに健康だった。魔力強化薬によって、免疫力までもが増強されているのかもしれなかった。あるいは、自分は幸運ではないのかもしれない。葦原はそう思った。今まで、自分は命令を忠実にこなしてきた。自分は今も健康で、これから従事する作戦でも忠実に命令を遂行するだろう。囮となって、一万三千人を救うために……

 

 イルカたちも同じなのだろうかと、葦原はふと思った。イルカは多種多様な海の生き物の中でも頂点に君臨している。俊敏で、知能が高く、勇敢なイルカは、たとえサメと闘うことがあっても決して負けることがない。しかし、その肉体がひときわ優れているがゆえに人間に目をつけられ、乱獲されて血肉を絞られることになってしまった。そのようなことを考えた時、葦原は自分が苦笑いを浮かべているのに気が付いた。

 

 その夜、彼はどうしても眠ることができなかった。海軍に入ってから、眠れない夜はしばしばあった。そのたびに、彼は祖父の言葉を思い出した。

 

「眠れない時は、イルカたちを呼ぶと良い。心の中にイルカたちは泳いで来て、お前を素晴らしい夢の世界の入口へと連れて行ってくれる……」

 

 だが葦原は、その言葉を実行したことはなかった。呼んだとしても、イルカたちは決してやって来ないだろう。幼い頃に抱いていた輝くイルカたちのイメージは、今や血の色で汚されていた。これほどまでに不浄な心へ、イルカたちがやって来るわけがない。彼は諦めて、星を眺めた。暴力的なまでの南洋の夜空の煌めきに幻惑されて、彼は気絶したように浅い眠りへと落ちていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 数日後の深夜、舟艇隊の第一陣がおよそ五千名の将兵を載せ、一斉にコロンバンガラ島の陸岸を離れた。九号艇は一番初めに発進したが、みるみるうちに他の舟艇に追い越され、艇長が予想したとおり隊の最後尾を進むことになった。

 

 ほどなくして、九号艇の左舷真横方向に三隻の魚雷艇が出現した。南洋の強い月光を受けた敵は、未知の生き物のような妖しさと色気を醸し出していた。魚雷艇は速力を増して、船団の中央部を分断しようと突進してきた。

 

 艇長が叫んだ。「ここが正念場だぞ! イルカ魔術長、防護膜を展開しろ!」 舟艇は舵を切って船団から離れ、敵に向かって突き進んだ。葦原は魔術杖を振り、防護膜を展開した。その直後、敵の魚雷艇の機関砲が火を噴いた。鈍い音を立てて、敵の徹甲榴弾が防護膜に着弾した。防護膜は今にも破れそうなほどに歪み、たわんだが、敵弾を弾き返した。

 

 船団は脇目も振らずに前へ前へと進んでいく。三隻の魚雷艇のうち、一隻が船団を追おうとする動きを見せたが、九号艇の速射砲が発砲し、それを牽制した。再び敵は三隻が一隊となって集結し、葦原たちを包囲するように動いた。敵は、まず九号艇を排除すべき存在として認識したようだった。艇長が薄笑いを浮かべた。「よしよし、これで任務は半ば達成されたようなもんだ。あとは思う存分戦ってやるだけだな」

 

 先頭を走る敵魚雷艇との距離が急速に詰まり、衝突しそうなほどに接近した。石を投げれば届きそうなほどに、その距離は近かった。葦原は、敵の乗員の殺気を感じた。櫓の上の軽機関銃が一斉に射撃を開始すると、敵も重機関銃で応射を加えてきた。葦原は強化薬を飲み、防護膜を更に強く展開した。それでも敵の射撃を受け止め切ることができず、何発かが貫通して船体に着弾した。

 

 いつしか、九号艇は敵に包囲されていた。今やすべての方向から敵の弾丸が飛来している。防護膜はもはや、意味を為さなくなっていた。それでも葦原は薬を飲み続け、魔術の行使を続行した。舟艇の周りには大小無数の水柱が林立していた。船首の速射砲は数分前に敵の機関砲弾の直撃を受け、沈黙している。操砲員たちは皆、砲の傍らで倒れていた。砲手の首がなくなっており、装填手の左足は千切れ飛んでいた。いびきのような呻き声がしばらく聞こえていたが、ほどなくしてそれは止んだ。

 

 葦原は熱を感じた。目をやると、組まれた櫓が炎上していた。足場のふちに身を投げ出すようにして、水兵たちが倒れている。積まれた弾薬箱が火災によって誘爆し、豆を炒るような乾いた音を立てて機銃弾が弾け飛んだ。火災を鎮火しなければならない。消火用の術式を発動しようと葦原が魔術杖を持ち上げた時、彼の隣で小銃を射撃していた二等水兵が敵弾を受けて倒れた。抱え起こすと、水兵の胸には大穴が開いていた。水兵は即死していた。

 

 勝ち誇ったように敵の三隻の魚雷艇は射弾を送り込んでくる。真っ赤な曳光弾が、フェルトのような闇夜を縫うようにして舟艇へと飛来した。鋼製の船体から、絶え間なく被弾の衝撃音が響いている。いつの間にか、足元が海水で濡れていることに葦原は気が付いた。櫓から発した火は舟艇の上部構造物に移り、今や船全体が紅蓮の炎に包まれようとしている。

 

 葦原に恐怖はなかった。それでいて、彼は興奮もしていなかった。イルカの血と肉が有する魔力が、彼を戦闘の苦しみから遠ざけていた。彼はただ、酔っていた。激しい、錐を揉みこむような頭痛を別とすれば、心地良い酔いとすら言えた。葦原は、さらにこの酔いに浸りたいと切望した。

 

 彼は魔力強化薬が納められた箱へ手を伸ばした。箱は弾片を受けて破損しており、瓶のほとんどが割れていた。濃い血の臭いが漂っていた。それは人間の血の臭いとは異なっていた。葦原はそれを嗅覚に受けて、なぜか安心感を覚えた。無事だった二本を取り出し、一本を飲み干すと、彼は消火用の術式を唱えた。杖の先から魔力が放散し、火災の勢いを弱めた。

 

 肩で息をする葦原のもとに、艇長が現れた。艇長は額から血を流していた。葦原を見ると、艇長は驚いたような、呆れたような表情を浮かべた。「おいおい、イルカ魔術長、これだけ撃たれたのに無傷なのかよ。まったく、魔術兵っていうのは大したもんだな……ところで、ちょっと俺の右腕を見てくれないか。さっきからどうしても動かないんだ」

 

 葦原が見ると、艇長の右腕はその半ばから千切れかけていた。皮一枚で繋がっており、肉の中の骨が月光を反射して白く輝いている。葦原は、最後に残った一本の魔力強化薬を服用すると、治癒術式を行使した。艇長が負傷してくれたおかげで、強化薬を飲む口実が得られた。彼はぼんやりとそんなことを考えた。

 

 術を行使しながら、葦原は嘔吐した。食道を逆流して胃の腑から上がって来たのは、真っ赤な液体だった。吐瀉物が艇長にかかったが、艇長はどこか優しい目をしてそれを眺めていた。

 

 艇長の腕が元通りに繋がるのと同時に、彼は昏倒して海水に覆われている床面に倒れた。薬剤の過剰摂取と、魔術の連続使用のためだった。薄れゆく意識の中で、葦原は艇長が独り言のように呟くのを耳にした。「さあて、イルカ魔術長も眠っちまったし、最後の一戦と行くかな……」

 

 次の瞬間、敵の機関砲弾が舟艇のエーテル液タンクを直撃した。タンクは大爆発を起こし、搭載されていた弾薬を誘爆させ、舟艇の船体全体を粉々に粉砕した。

 

 爆風に掬い上げられて、葦原は空中に放り出された。八つ裂きにされそうなほどに、全身を強い圧力が襲った。彼は激痛に悶えた。月が輝き、南十字星が星々を従えて鎮座しているのが見えた。視界が急速に反転し、燃え盛る舟艇の残骸が見え、また夜空が目に映った。魚雷艇がなおも射撃を続けているのが見えた。射弾が集中したその直後、舟艇が再度爆発した。

 

 ひときわ強い爆風が直撃して、葦原の肉体は宙に浮きながら砕け散った。彼は千切れ飛んだ自分の手足を見た。手足を失った胴体が軍服の切れ端を伴って、凧のように軽々と夜空を舞っていた。彼は、今や自分が頭部だけになっているのを自覚した。頭部は軽い着水音を立てて暗い海へ落下した。その後に続いて、四本の手足と、重い胴体が海に沈んだ。

 

 海の中で、葦原はスクリューが水を掻き回す甲高い音を聞いた。彼は、三隻の魚雷艇が去って行くのを感じた。

 

 自分たちが無事に任務を果たしたことに満足した葦原は、次に訪れるであろう自己の意識の消失を待った。しかし、なかなかそれは訪れなかった。重い疲労感だけがあった。彼は目を瞑ろうとした。彼は眠りたかった。だが、いくら念じても瞼は下りず、視覚は彼に海の中の世界の情報を送り続けていた。

 

 海の中は静寂を保っていた。初めに葦原のもとへ現れたのは、無数の緑色の光だった。それが夜光虫の光であることを、彼は理解した。蛍が舞っているような美しさだった。彼はそれを陶然として眺めていた。

 

 永遠の眠りは、まだ訪れない。こんなにも、俺は眠りたいのに。

 

 突然、葦原の中で、懐かしい声が囁くのが聞こえた。

 

「眠れない時は、イルカたちを呼ぶと良い。心の中にイルカたちは泳いで来て、お前を素晴らしい夢の世界の入口へと連れて行ってくれる……」

 

 思わず、彼は叫んでいた。

 

「頼む、来てくれ!」

 

 すがるような気持ちと共に、葦原はイルカを呼んだ。その反面、彼はイルカたちが来てくれるとは思っていなかった。その思考を裏付けるかのように、イルカはいつまで経ってもやって来なかった。彼は拗ねたような気分になった。

 

 永劫(えいごう)とも須臾(しゅゆ)とも思える時間が、葦原の周りで流れた。なにものも存在せず、なにものも動くことのない世界だった。

 

 やがて、薄暗い世界の中で動きが生まれた。

 

 黒い影が葦原の前方からやってきた。影は俊敏な動きで、葦原の周りを泳いだ。精悍なシルエットだった。影は刻々と数を増し、今や数えきれないほどになっていた。

 

 彼はしばらく、その影の正体について考えた。そして、卒然として悟った。

 

 イルカだ! 来てくれたんだ!

 

 影は紛れもなく、イルカたちだった。イルカたちは鳴き声を交わし、葦原の周りに集まっている。その高く愛らしい鳴き声が、どこか自分を慰めているように彼には感じられた。イルカたちは悲しんでいた。海を騒がし、海を汚した張本人の死を前にして、彼らは哀惜の念を表し、仲間同士で分かち合っているようだった。

 

 葦原は、申し訳ない気持ちになった。泣き出しそうになりながら、彼は言った。

 

「ごめん。俺は、君たちに悲しんでもらえるような人間じゃない。俺は、今まで君たちの血肉を数えきれないほど貪り飲んでいた。俺は、小さい頃から君たちが大好きだった。じいちゃんからは、イルカを大切にするように言われた。でも、俺は君たちを喰った。吐くほど喰って飲んで、酔っていた。苦しみから逃れるために酔っていた……」

 

 ひときわ大きなイルカが、葦原の近くに寄ってきた。イルカは黄金に輝いていた。不思議なことに、葦原の精神へイルカの感情が伝わってきた。ついてくるように彼に促しているようだった。

 

「ついていっても良いのか?」

 

 葦原がそう尋ねると、イルカたちは踊るように泳ぎ回った。寿(ことほ)いでいるようだった。彼は手足を動かした。なくなったはずの手足は、しっかりと機能した。

 

「どこへ連れて行ってくれるんだ?」

 

 そう尋ねつつも、彼はその答えを既に知っていた。これから行くのは、きっと深い眠りの中、素晴らしい夢の世界に違いない。

 

 俺は海に(かえ)るんだ。来た場所へと、還るんだ。彼は安らいだ笑みを浮かべた。

 

 イルカたちにも負けないほどの速さで、葦原は海の中を力強く泳ぎ進んでいった。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・ほいれんで・くー「マレ・デルフィーニー」

 2022年5月15日公開。前作と同じく、これも『ラインの娘』のために書き下ろした作品です。前回の更新からなんと二週間とちょっと。これは新記録ですよ! もっと早く書ければ良いんですが……

 タイトルの「マレ・デルフィーニー」はラテン語で「イルカの海」を意味します。当初は語り形式の南洋の怪奇談にするつもりでした。「凄絶なるアストライアー」とか、「フォルモサ島への飛行」とか、ああいう感じです。モチーフをホメロスの諸神讃歌「ディオニュソス讃歌」にとって、怪しい人物を捕えて舟艇に乗せたが、それは実は神のような何かで……という話にする予定でしたが、結局イルカというモチーフの強さに引っ張られました。

 作者としては最後まで葦原を救おうとしたことを述べておきます。すまん……

 次回もどうぞお楽しみに。

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