私にとって、波は決して子守りの歌ではなかった。その島で生きている間、決して止むことなく聴覚を刺激し続ける波の音は呆れるほどに単調で、それ以上に、絶え間なく私を責め立てているかのようだった。潮の干満に応じて波の音も変わる、その音を聞き分けられない者はこの島の人間ではないと漁師たちはよく語ったものだった。
それならば、やはり私は島の人間ではなかったのだろう。私にとって波の音はいつも同じだった。波はいつも同じように私に低く囁いていた。お前はこの島の人間ではない。お前はこの島にいてはならない……私は波を恨まなかった。むしろ、そのように言ってもらえることに心のどこかで薄く感謝の念すら抱いていた。お前はこの島にいるべき人間だと言われたのならば、きっと私は自分が置かれている現実とその言葉との乖離に苦しんだだろう。この島にいるべき人間ではない。そう言われたからこそ、私は、私を取り巻く環境に折り合いをつけることができた。私は波に感謝しつつ、またこうも考えた。人間社会のありとあらゆる情念の縺れ合いや利害の対立を超越した存在が、波を使者に立ててそのようなメッセージを送っているのだと。幼いながらも私はそう考えていた。
いや、どうだろうか? その当時、私は本当にそのように考えていたのだろうか。幼い私にそのようなことを考える知的能力があっただろうか。私に言葉はあったのだろうか。私の思考はもっと、感覚的な次元に留まっていたのではないだろうか。波の音をある種のメッセージだと解釈したのは、今の私が当時の私に寄り添い、それどころか成り代わって、幼い頭脳では言語化することも図式化することもできなかった感情を表現し直した結果に過ぎないのではないだろうか。
当時の私はおそらく波の音を聞いて、なんとなく恐ろしいような、それでいてむず痒いような気持ちになっていたに過ぎないだろう。私の知性は未発達だった。そうでなければ私は生きていられなかったはずであった。幼いということは弱さでもあり、また強さでもあった。強固な因果連関が精神内に図式化されていないということは、過去に拘泥することもなく、また未来に対して怖れを抱くことがないことをも意味していた。過去を羨み、未来を予測し、そして現実を見据えることができるほどの知能があったのならば、私はおそらく病むか、死ぬかしていたのではないだろうか。
ちょうど、母がそうだった。母は病んでいた。とても住居とはいえない、本家から五十メートルほど離れたところに崩れかけて建っている物置のような離れに、母は横になっていた。用便の時を除いて、母が起きることはめったになかった。母の布団は黒いカビの斑点に覆われていた。常に湿っており、綿が漏れ出ていた。私が手で揺り動かしても、母は返事をしなかった。身を横たえている母はぼんやりとした視線を破れた天井の一角に注ぎ続けていた。そこから光が漏れていた。光が母の痩せ衰えた顔を白く照らしていた。
病の母は、少なくとも私には、どこまでも美しかった。身体のすべてを病が満たしている分だけ、母は美しい存在となっていた。かつて、母は強い人だった。強く、賢明な人だった。強く、賢明であったからこそ、母は病んでしまったのかもしれなかった。過去を思い、未来を考えすぎた結果、母は現在という牢獄に囚われてしまった。あるいは母は自ら望んでその牢獄に入ったのかもしれなかった。牢はなんといっても牢であるだけに、安全ではあった。最初は、ほんの試すようなつもりで、母は牢に入ったのかもしれない。しかし、ひとたび自ら牢に入り、自ら錠前をかけたその瞬間に、錠前の鍵は氷のごとく溶けて消え、母はもう外へ出ることができなくなった。看守のいない牢で、母はただ光を見つめるだけの存在と成り果てた。
ちょうど、五月の頃だった。島には緑が溢れていた。私と母が住むあばら家にも春はやってきた。島の春は、濃厚なまでの生命の充満といえた。あばら家の周りには草が生い茂り、花が咲いていた。草花の名を私は知らなかった。知らなくても問題はなかった。波の音が告げているように私はこの島の人間ではなく、したがってこの島に生える草花の名を知る必要はなかった。この島の人間でないのならばいずれはこの島を出なければならず、この島の記憶を保持するためにも草花の名を覚えておかねばならないという一種殊勝な考えは、私にはいっさいなかった。
草を折ると、鼻につくような臭いがした。それは母の布団の臭いとはちょうど対照的な臭いであった。親しみのない臭いだった。花を折ると、黄色い花粉が飛んだ。鼻を近づけると、甘いにおいがした。歯が疼くようなにおいだった。私は花のにおいを嗅ぐたびに、何も入っていない口内を動かして、実体のないなにものかを咀嚼した。
私はまだ仄暗い空のもと、草むらを掻き分けて歩いていく。小鳥が鳴いている。小鳥が朝の歌を歌っている。小鳥の名前は分からない。
私の朝は、日が昇る前に始まった。物音を立てないように母の布団から滑り出し、外へ出て、本家へと繋がる道を歩く。本家は高い塀を巡らせた、広壮な住居だった。私は勝手口へと回り、無言でそこに立つ。数分待つと、大柄な年配の女が無表情のまま勝手口から出てきて、母と私のための食事を手渡してくる。握り飯が四つに、汁物の入った竹製の筒状の容器がひとつ。会話はいっさいない。波の音だけが聞こえてくる。私は、汁物を溢さないように気をつけながら、我が家へと戻っていく。
私が促しても、母は返事をしない。しかし、顔の前へ食べ物を持っていくと、母は手を伸ばしてそれを受け取り、口の中へと運ぶ。それは食事とは言えなかった。かといって、それがなんであるかと改めて表現することは私にはできなかった。母が食べ物を体の中へ納めた後に、私も手早く食事を済ませる。その後に、一日の間に中身が溜まってしまった便器の清掃をする。裏手の目立たないところに
学校の鞄と共に朝食として使った汁物の容器を持ち、本家へと向かう。私が学校に行く時だけ、母は私に目を向けた。私は母に頷いてから離れを出る。母が頷き返すことはない。勝手口には、あの無表情の女が立っている。朝食を受け取る時とは光線の加減が異なるためか、女は幾分か小柄に見える。老けており、疲れている。容器と交換する形で私は弁当の包みを受け取り、学校へと向かう。本家の子どもたちのはしゃぐ声が聞こえるが、私がそれに加わることはない。加わろうとしたこともない。過去に加わろうとして拒絶された経験があるわけではない。しかし、彼らが私を加わらせようとしたことがない以上、私の方から加わろうと試みることは無意味であるはずだった。
島はU字型をしていた。私たちの家は、U字型の左の突端部にあった。学校は、正反対の右側の突端部にあった。U字の屈曲部が湾となっており、砂浜が広がっている。見ようによっては、島は蛇に見えなくもなかった。どちらかの突端が頭であり、その反対が尻尾であるはずだった。
船着き場には小型の漁船が並んでおり、出漁しようとしている漁師たちが器具を改めたり網を引きずったりしている。動力船の煙突から、混合濃縮エーテル液が燃焼する
私はその光景を眺めながら、砂浜の背後を通る道を歩いて学校へと向かう。次第に子どもたちの姿が増えてくる。子どもたちは元気そのものだった。歌を歌い、冗談を交わし合い、跳んだり跳ねたりしながら学校への道を辿っていく。漁船へと歩いていく猟師たちと子どもたちは、明るい声を交わす。
私はそれをただ見ている。私は声を上げない。私に声をかける者もいない。いつしか私は私だけを取り巻くその無音の空気に慣れていた。私は黙々と歩いた。毎日、毎朝、道はどこまでも続くように感じられた。しかしそれもやがて尽きた。ただ歩いているだけの私の方が道々で遊んでいる子どもたちよりも学校に着くのは早くなるはずであるのに、現実にはいつも最も遅れて学校に着いた。
午後に入って、その日の授業が終わると、私は子どもたちの遊びに加わらず、すぐに家へと帰るのを常としていた。ただし、帰り道は行く道とは違った。私は山の中を通って家へと帰ることにしていた。山は島全体にわたって盛り上がっていた。むしろ、U字型の山に砂浜と道と人家が付着している形で島ができているといった方が良かった。山の名前がなんであるか、私は知らなかった。おそらく学校で、あるいは他の場所で、私は何度も山の名前を聞いていたに違いない。しかし、その名前は私の中に定着しなかった。
小さな学校の校舎を出て数分歩くと、すぐそこに山の入口があった。山には獣の通り道のような、細い道が通っていた。傾斜は急だった。私は息を切らしてその道を登った。鬱蒼と繁った樹木が外界のありとあらゆる音を遮断するのか、山の中では波の音すら聞こえなかった。音と同じく、光もなかった。木々が光を遮っていた。私が帰り道として山を選んだのは、音から遁れるためでもあり、また光から遁れるためでもあった。光は私にとって紛れもなく毒だった。
登り始めてから一時間ほどすると、突然眼前に四角い岩が出現した。ここが山頂であり、島のちょうど中心部であった。
山頂の岩は三つあった。三つが組み合わさり、空間を作り、建物のようになっていた。岩に囲まれた空間の中に、小さな祠があった。祠は四角い箱型をしており、木製で、朽ちかけていた。祠には扉があった。扉の上に蛇の彫刻が施されていた。ほかに装飾はいっさいなかった。一枚のふちの欠けた陶製の平たい皿と、ひとつの陶製の
他の子どもたちの姿も、このあたりでは見られなかった。山は子どもたちの格好の遊び場であるはずで、この祠のある山頂の岩場もまた多くの遊びの種を提供するはずであるのに、私を除いて子どもがいないというのは不可解なことであった。島に住み、猟師の家に生まれた子どもたちにとって、遊びとは青い波と戯れることを意味するのであり、波の音も聞こえぬこの緑の山中で生命力を発散するのはそもそもからして彼らの図式の範疇外にあるのかもしれなかった。
祠に着くと、私はいつも扉を開けた。いつから祠の扉を開け始めるようになったのか、記憶にない。祠を開けてはならないという教えを受けたことはなかったし、それによって
中に何が入っているのかを知りたかったわけではない。それよりも私は、扉によって外部との空間から隔てられ秘められている祠の内部に自らの手で光を当てるという点において、興奮を覚えたはずである。ちょうど、破れた天井から暗い室内に光が降り注ぐその瞬間に母の顔が美しくなるように、私は他ならぬこの私の手で、何らかの美的なものをこの世に生み出そうとしたのかもしれない。だが、その最初の感動は既に消え去っており、その時となっては、扉を開けるのは一種の習慣によるものに過ぎなくなっていた。
私にそのような習慣を形成させるに至った原因は、祠の中にあった。祠の内部、その中央には、ちょうど鶏卵ほどの大きさと形の石があった。それは、もとよりこの祠の中にあったわけではない。それを祠の中に入れたのは、他ならぬ私であった。
石の卵は、外から差し込んできた光によって輝いた。爬虫類の鱗のような表面が、青緑色の光を反射した。石の表面に鱗が生えたのは数日前のことだった。私は石の卵を取り上げると、
私はしばらく音を聞き、やがて満足すると卵をまた祠の中へ戻し、扉を閉めた。しばらく祠を見つめた後、私はその場を去った。卵は以前よりも質感を生々しく変化させ、しかも大きくなっているように思われた。
私が初めて祠の扉を開けた時、そこには何もなかった。従って、なんらかの美的なものを生み出そうという当初の私の意図は挫かれた。そこからどうして私があの卵を祠に入れるように考えついたのか、その思考の道筋を正確に思い出すことはできない。感動を求めて却って幻滅を味わい、その幻滅の中から新しい欲求が、つまり何らかのものを自ら生み出し、育てるという欲求が生まれたのかもしれないが、これも定かではない。
はっきりしているのは、その年の冬の早朝、まだ母が眠っている間に、崩壊しそうな離れの中で唯一の財産と言えるリュックサックの中を漁り、札の貼られた木箱に納められたあの石の卵を取り出して、半ズボンのポケットに入れたことと、その日の学校からの帰り道に、その卵を祠の中に納めたということだけである。
私は導かれたのであろうか。波の音を使者に立てるような超越的存在に類したなにものかが幼い私に働きかけ、母のリュックサックを漁らせ、あの卵を祠に置くように導いたのではないだろうか。私は、母がなにもかもを失ってもあの木箱に入った卵だけは最後まで大切に持ち続けていたのを知らなかった。知っていたかもしれないが、意識したことはなかった。そうであるにもかかわらず、私はあの暗い朝、卵のありかを知っており、その卵をどうするべきか、いやむしろ、その卵が何を望んでいるかを知っていた。
それは私が知ろうとして知ったのではなく、知らされたから知ったのであろう。卵は祠の中で自分を育てるように確かに私に要求し、私に彼の存在を知らせた。私は単に、それに従ったに過ぎない。
☆☆☆
この波の音は私にだけ聞こえていたのだろうか。そうとも思えない。おそらく、私の父も波の音に隠されたメッセージを知っていたのではないだろうか。
父はこの島の出身だった。あの塀の高い広壮な本家の三男として生まれた身だった。父は生まれながらにして裕福な、不自由のない生活が約束されていたはずだった。だが、その約束とはなんだろうか。運命が私たちと約束を結ぶことなどあるはずがないのではないか。
父が運命と結んでいたはずの約束は、一瞬にして
父が家から出たのは、口減らしのためであったと島の人間は言う。しかし、別の人間はこう言う。いや、そのような低次元の尺度で考えてはならない。なにしろあの家は大きくて、お金があった。零細漁師の家とは違って、口減らしなんてことをする必要はなかった。あの人は単に、家としっくり来ていなかった。本家の親父さんから嫌われていた。だから家を出たんだ。いや、そうではない、と別の人間がまた言う。あの頃は大陸への植民事業がちょうど花盛りだった。あの人は若かったから、何か別の道で自分だけの生き方をしてみたかったに違いない。
私は、それらのどの意見にも与さない。私は、父が島を出たのは、やはり波の音の意味を知っていたからではないかと思う。父も生まれてからずっと、お前はこの島の人間ではない、お前はこの島にいてはならないと、波に言われ続けていたのではないか。私は紛れもなく父の子であるが、父をほとんど知らず、父の性格すらもあまり把握していない。伝え聞くところによると、父は血の気が多く、腕力に頼る傾向があり、踏み込んで言うなら暴力的ですらあったという。その一方で涙もろく、情に厚い面があり、一人でいる時は遠い目をしてどこか一点を眺めていたともいう。
父が遠い目をしていた時、父は波の音を聞いていたのではないだろうか。波は島の守護者であり、その守護者からお前は島の人間ではないと言われた父は、何を考えたのだろうか。
父は大陸に渡ることを決意し、本家の者たちもそれに同意した。どういう話し合いがあったのかは分からない。父は生前贈与の形でまとまった資金を手にした。本家の者たちは、大陸に雄飛する父のために盛大な送別の宴を張ったという。出発の日の朝、島の船着き場には大勢の島民が詰めかけ、父と、父と共に大陸に渡る幾人かの男たちを声を枯らして見送った。父は、すでにして島の英雄となっていた。島を出るだけでも島民にとっては紛れもない英雄的行為と言えたが、そこへさらに島一番の名家の御曹司が国家のため身命を賭して大陸の新事業に参画するという意味合いが込められているのであるから、彼らの熱狂ぶりはなおさらと言えた。父は内海を西へ進み、本土と
父はここで少なからず失望を味わったらしい。大陸ではどんなに貧しい開拓者でも帝国の臣民でさえあれば広大な農地が与えられると約束されていた。しかし、実態は大きく異なっていた。既に大半の土地は大資本家の持ち物となっていた。大陸に渡ったほとんどの人間が安い賃労働に従事することになった。自分だけの土地、自分だけの農地、それはどこにもない土地であった。それだからこそ開拓者たちは新しい国に執着せざるを得なかった。彼らは紛れもない部外者でありながら、自分たちこそがこの土地の主役であると信じていた。正確に言えば、いずれ主役になれると信じていた。彼らは演目も脚本も役も定まっていない劇を夢想していた。それは、彼らの見立てによると、腹の底から笑える喜劇になるはずであった。
情熱的で荒っぽい性格をした父が、土地開墾に乗り出さなかったのは当然とも言えた。千年以上の長きにわたって内海にて水軍として勢力を張っていたという一族の血が、土地という幻想を信じさせなかったのかもしれなかった。かと言って、父はどうやって生きていけば良いのか分からなかった。父の生活は荒れたらしい。用意してきた資金のほとんどは遊びに費やされ、一年を待たずに
父が母を迎えたのも、この荒れた時期であったようだ。母の出自ははっきりとしない。それはそういう商売に身をやつす女性の常であったが、どうやら本土の東北の寒村出身であることだけは確からしい。私は未だに母の肌の白さを思い出す。病に侵されてから、母はよりいっそう白くなった。父が母を妻として迎えたのは、母の不遇な境遇に同情したからではなく、あるいはこの白さに惹かれたからかもしれない。それは島に無縁の白さ、毒を漂白する白さであった。父を固有の客とし始めて間もなく、母は身籠った。父は本家に了承を求めることなく、母を公に妻とした。
父と本家との関係が明確に悪化し始めたのも、またこの頃であった。それまでにも父は本家に向けて再三にわたり資金の提供を求めていた。自ら望んで島を出たはずの父はいつしか本家に対して、俺がお前たちのために島を出てやったのに、と言い始めていた。俺は本家を生き延びさせるために自分で毒を飲んだのだとも、父は言うようになっていた。本家は金を送り続けた。しかし父がどこの者とも知れぬ女と一緒になり、子まで儲けたことを知ると、一切の金の流れが途絶えた。
最初の子は、死産だった。男の子であったようだが、名前は伝わっていない。そもそも名前をつけなかったのかもしれない。ここからしばらく、父と母は子を作ることを放棄している。ちょうど、父の新しい事業が軌道に乗り始めたところでもあった。父は商売という面に活路を見出した。父は新しい国の首都である
父の商品は不思議なほどよく売れたらしい。それは父の才覚によるものというよりも、父の強引な性格によるものであったかもしれない。父が扱っていたのは、単なる骨董品の類ではなかった。父は狙って、いわくつきのもの、呪具、魔法道具、魔術用品の類を買い集めていた。数千年の歴史を持つ大陸はそういったものの一大産地であった。のみならず、父は魔法生物の類にも手を出していたようだった。
おぼろげながら、私は父の書棚に大陸の幻獣について記された書籍が並んでいたのを覚えている。『
休日、父はよく私を呼んで『山海経』を見せた。父にとって、私は可愛い子であったらしい。
描かれていたのは、巨大な蛇だった。口から火焔のような舌が伸びている。蛇の頭には鶏冠があり、胴体からは鶏の脚が生えていた。脚はしっかりと黒い球を踏みつけている。よく見ると、その球は無数の蛇が寄り集まってできたものであった。絵の隣には、巴西利斯克、という文字が書かれていた。父は、これは
俺なりに研究を進めてみたが、と父は言った。どうやらこの怪物の卵が孵るには条件があるらしい。大昔の西洋の連中は、この卵がヒキガエルに抱かれることで孵化すると言っていたようだが、実のところはそうではない。色々な記録に当たってみると、
私は何も言わず、父の言うことをじっと聞いていた。父は乱暴に私の頭を撫でながら更に言った。こいつを人工的に量産することができたら、きっと高く売れるぞ。毒っていうのは、すべてを汚染するからな。水も、土地も、人も……このだだっ広い大陸の原野だって、こいつが一匹いれば人も植物も住めない不毛の荒野にできる。偉そうな顔をして土地を耕している人間も、あっという間にお陀仏さ。いや、土地だけじゃない。川だって、海だって、こいつがいればすべてを汚染できる……
しかし、毒っていうのは薬にもなるからな。父は言葉を続けた。ありとあらゆるものを汚染することができるなら、ありとあらゆるものを清めることもまた可能なはずではないか。父は問いを発した。その問いは私に向けられたものではなかった。この巴西利斯克だって、言われているほど毒気ばかりの怪物ではないかもしれん。父はしばらく沈黙した。やがて、ため息をついて言った。この怪物は、きっと自分の毒を自由にあやつることができるだろう。だが、俺は自分で自分の毒をあやつることはできない……
せめてお前も、毒の一滴くらいは持っていたらなぁ。父はそう言うと本を閉じ、煩わしいものであるかのように組んだ足の上から私を追い落とした。父は腕を組み、黙ってなにごとかを考え始めた。私は何も言わなかった。死産だった最初の子の次に生まれた私は、その時期になっても一切言葉を発したことはなかった。私はすべてを聞いていたが、何も考えず、何も言葉を紡がなかった。父がそう言うのであるならば、私に毒がないということは明白なことであろう。毒がないから、言葉を話す気が起きないのかもしれなかった。
母は、一切の言葉を話すことがない私に対して口を開くことをやめていた。私が生まれてから二年目に生まれた妹に対して、母は持ち得るすべての愛を注いでいた。一方で、父は私を可愛がった。父はよく私に話しかけた。しかしそれはどちらかと言えば私の中に毒を醸成させようというのではなく、父が自身のうちで蠢く何らかの想念や思考を形にするための、いわば父自身の毒の捌け口として私を利用しているに過ぎなかった。
私はそろそろ、学校へ通い始める時期になっていた。その頃、全世界を戦争の劫火が包み込み、無数の人命が失われ、敵意と悪意が黒い煤煙となって大気を覆っていたが、私はそれに気付くことなかった。
☆☆☆
春になると様々なものが活動を始める。大陸の春と、この島での春とはまったく様相が異なっていたが、春という季節そのものがありとあらゆる存在に対して何らかの働きかけをすることを、ほどなくして私も知ることになった。種子や、芽や、卵だけではなく、人の精神すらも春は揺り動かすようであった。目に見えない毒すらも、自然は暖めていた。
私はそれまで、奇妙なまでに島の人間から無視をされていた。昨年の暮れ頃に母と共にこの島に来て以来、私はまるで存在しないものであるかのように扱われていたが、春になってようやく声をかけられるようになった。
私は新しいあだ名をつけられた。私は、島の子どもたちから「蛇」と呼ばれるようになった。私は未だに言葉を話すことはなかった。話そうと思っても声は意味と音韻を纏わず、口からは空気が漏れる音しかしなかった。それはまるで蛇の鳴き声のようであった。私は色が白かった。島に降り注ぐ強力な太陽光を浴びても私の肌は黒くならなかった。私は細かった。栄養不良のためであったのかは分からない。あたかも私は白い蛇であった。言葉を話すことがないという能力の点で私は人間ではなく、従って蛇であり、白く細いという形態の点で私は子どもらしくなく、従って人間らしくなく、蛇であると言えた。私はそのあだ名をすんなりと受け入れることができた。
対象に名前をつけ、然る後にその名前に適した行動をするというのは人間の習性であるらしい。子どもたちはひとたび私に蛇というあだ名をつけると、蛇に対してふさわしいと思われる行動を始めた。蛇は人間の生活する場から追い払われねばならない。私は蛇であるから、子どもたちは私に向かい、石を投げつけるようになった。ほとんどの石は外れたが、中には当たったものもあった。子どもの貧弱な膂力によって放たれたものであっても、石は私の肌を傷つけるには充分な威力を有していた。私は蛇であったが、鱗は持っていなかった。尖った石が切り裂くようにして私の右腕を傷つけ、赤い血が迸った時、私は祠の中の石の卵のことをぼんやりと思い浮かべていた。視界の中で、私の赤い血と、石の卵の緑の鱗が、鮮烈なコントラストを成した。
大人たちは子どもたちと違い、私に石を投げるようなことはしなかった。しかし、子どもたちが石を投げるのを強いて止めることもなかった。島の大人たちは私の姿を目にすると、少しばかり目を見開き、次の瞬間にはあえてこちらに視線を向けてきた。それは彼らが私という存在を意識の外へ出そうとする試みのあらわれであった。
学校の教師たちも、私に対して関心を示さなかった。教師は子どもたちに対して、慈しみに満ちて輝く顔を見せた。教師は新しい教育の理念に燃えており、国家再建の担い手である子どもたちに対する愛を溢れんばかりに持っていた。それはついぞ私に向けられることはなかった。教師たちにとって、私という存在は、いつの間にか這うようにして島に入り込んだ幻獣であるようだった。彼らは幻獣の取り扱いについて学んだことはなく、従って私を取り扱う方法も知らなかった。
ある日の授業、なんの科目であったのかは忘れたが、教師が内海のある島の話をした。その島は二十年周期で鼠が湧き、農作物と漁獲物に大きな被害を出すことで有名であった。不思議なことにこの島に鼠はいない、と教師は言った。なぜだろう。教師がそのように子どもたちに問いかけると、子どもたちはにやにやと笑いながら一斉に私の方を見た。
それは、とクラスにおいて最も利発で体も大きい子どもが言った。この島の蛇が食べてしまうからです。他の子どもが続けて言った。夜の間に、鼠を一匹残らず蛇が食べてしまうんです。教師は神妙な顔をして言った。なるほど、蛇か。教師は私の方へ顔を向けていたが、その視線は私の背後の空間に注がれていた。この島に蛇は多いかな。子どもたちが口々に言った。多いです、でも昼間にはあまり見ません。いや、少なくとも一匹いるよ、昼間の蛇が。教師は軽く頷いた。そうか。じゃあ、昼間の蛇を大切にしてやらないといけないな。教師の言葉を聞いて、子どもたちは一斉に笑い始めた。
私はその日も、山の道を通って帰ることにした。春を深めると共に次第に強くなる陽光は、私の体力を確実に奪い取るようになっていた。山の緑の木々に庇護を求めることなしに、私は母のところに帰ることができなかった。校門に差し掛かると、上級生たちが輪を作って歓声を上げていた。彼らのうちの一人が、細長い何かを
火箸で蛇を捕まえている上級生とは別の一人が、素早い動きで蛇の尻尾を掴んだ。彼は蛇を勢い良く振り上げると、頭の上で円を描くようにして回し始めた。何周か経った後、上級生は蛇をコンクリート製の校門に叩きつけた。蛇は一瞬だけ苦痛に悶えて激しく身を捩らせたが、見る間に力を失い、やがて動かなくなった。周りの者が声を上げてその行為を褒めそやした。上級生は得意げな顔をして称賛を受けていた。
一人の上級生が校門に近づいてくる私を見つけて声を上げた。弾かれたように全員が私を見つめた。すでに生命が失われ、筋肉の不随意運動をするだけになった蛇を持っている上級生が、笑みを浮かべた。至極楽しそうな表情だった。私はそのような笑みを浮かべることのできる彼を羨ましく思った。彼は私に近づくと、蛇を差し出して言った。お前、これでも食って元気をつけろよ。彼は私の眼前まで蛇を持ち上げた。蛇は滋養強壮になるんだぜ。蛇は頭から血を流していた。頭骨が砕けているようで、目は潰れて白い粘液のようになっていた。蛇は埃にまみれており、黒い鱗は黄色っぽくなっていた。
さらに促されて、私は蛇を受け取った。思ったよりも蛇は重かった。周りの上級生たちは好奇心に満ちた目で私を見つめていた。彼らが私に何を望んでいるのか、私には分からなかった。大袈裟に嫌がれば良いのか、やめてくれるように懇願すれば良いのか、それとも素直に蛇を食べれば良いのか。
私に蛇を渡した上級生が、また口を開いた。食えよ。お前、そんなに生っちろいんじゃ、将来海へ漁に出ることなんかできねぇぞ。食えるもんかよ、と他の子どもが言った。そいつは蛇だぜ、蛇が蛇を食うなんて聞いたことがねぇ。分からねぇぞ、と他の子どもが言葉を発した。戦争から帰ってきた兄貴は、南方で大きな蛇がワニを呑み込むのを見たと言っていた。ワニを食うぐらいだから、蛇が蛇を食っても不思議じゃねぇだろ。言葉は途絶えた。しばらくの間、沈黙が辺りに満ちた。
私はその沈黙をどこか心地良く感じながら、無造作に蛇の胴体中央部を口元へと運び、限界まで口を開いて、そして勢い良く噛みついた。うわっ、という悲鳴が辺りに響いた。蛇の死体は柔軟ながらどこまでも固かった。私の歯は鱗を貫通しなかった。私は顎にさらに力を込めて、蛇の肉を噛み切ろうと努力した。私は、口内に唾液が噴出するのを感じた。しかし結局、蛇を食べることはできなかった。
いつの間にか私の周りには誰もいなくなっていた。上級生たちは、蛇が蛇を食った、蛇が蛇を食ったと口々に叫びながら、どこかへと消えてしまっていた。私は蛇に歯を立てるのをやめた。蛇の味は、埃の味だった。私の噛みついたところだけ、蛇の体は唾液で湿って埃が消えていた。
蛇の死体を持って、私はまた歩き始めた。山に入り、傾斜した道を進んでいく。強い日光は木々に遮られているが、私の体は熱くなり、呼吸は次第に荒くなっていく。蛇の尻尾が地面に触れ、下草に当たってかさかさという乾いた音を立てた。まるで私自身の尻尾のようだった。私は自分が蛇と一体になったように感じた。
祠に着いた。祠にはなんの異常もなかった。私は蛇の死体を供え台に置くと、祠の扉を開けた。中には卵があった。いや、それはもう卵というには些か様態が変化し過ぎていた。卵はこの一週間で相当なまでに成長していた。両手を使わなければ持ち上げられないほど大きくなり、更に鱗が生え、硬くなった。半透明の、ゴムのような質感の何かが天頂部に生え始めていた。山形をしており、光に透かすと薄い桃色の何かが液体のようにその中を流動しているのが見えた。底部には、一対の脚が生えていた。それは鳥の脚によく似ていた。脚はまだ形態に見合うだけの機能を獲得していないようだったが、私が指を近づけると、まるで甘えるように爪を絡めてきた。
私は卵を持ち上げると、手拭いで丁寧に拭いた。卵は熱を持ち、鱗の下で確かに存在感を示している血管が脈動していた。手の中の温かみを喜ばしく感じながら、ふと、私は祠の中へ目を向けた。そこには、前日私が入れた食べ物がそのままの状態で置かれていた。頭部を潰した白褐色の甲虫類の幼虫が数匹と、羽をもいだ蝶の成虫数匹が、なんら手つかずのまま骸らしい虚無を広げていた。
卵が何かを食べるということを知ったのは、やはり私が知ろうとしたからではない。卵が欲していることを、卵自身が私に伝えてきたのであろう。どうやって卵が伝えてきたのか、なんと言って伝えてきたのか、それは私にも分からない。しかし、私が知ろうともしなかったのに結果的には卵の欲しているものを私が知っているということは、やはり卵の方からの働きかけで私が知ったということを意味するのではないだろうか。
山の中は春が満ちていた。従って、卵が欲する食べ物ならばいくらでもあった。木の根元の土を掘り返せば幼虫が姿を現わし、視線を転じれば樹幹で羽を休めている蝶や羽虫が必ず見つかった。それらの小さな生き物の生命を奪うことに、私はなんらの躊躇いも覚えなかった。楽しんで殺したわけではなく、ただ卵のために必要であるから私は殺したのであった。卵の食欲は旺盛だった。祠の中に卵と共に虫の死骸を置き、扉を閉め、翌日また扉を開けると、消えた虫の死骸の分だけ卵はその大きさを増していた。
虫の死骸を見て、もはや卵がそれを欲していないことを私は悟った。しかし、卵が次に何を欲しているのかは未だに分からなかった。私は卵を左手で持ち、右手で一匹の虫の死骸を摘まみ上げると、卵に押し付けた。
驚いたことに、卵から三角形に尖った角質の突起が鱗をかき分けて出現した。それは嘴だった。嘴はしばらく何かを探るようにその切っ先を空中に彷徨わせると、次の瞬間には私の持つ虫の死骸に食らいついた。しかし、やはりそれも一瞬で、嘴は吐き捨てるように死骸を地面へ落とした。嘴はまた卵の中へと姿を消した。
私は卵に耳を当てた。卵の中から聞こえてくる虫のさざめきのような音は、数日前から調子を変えていた。その音は、私が言葉を発そうとすると代わりに口から出てくる吐息に似ており、また朝の小鳥の歌にも似ていた。私はしばらく卵の声を聞いていた。やがて、私は耳を卵から離し、祠の中に納めた。そして、供え台に置いておいた蛇の死骸を持ち上げると、卵を取り囲むようにして安置した。こうするのが一番良いのだと、その時私は確信していた。私は祠の扉を閉じ、その場を去った。
山の中を通って私は家へ帰った。歩いている最中、私は普段とは異なった視力の用い方をしていた。暗がり、岩の隙間、あるいは私の身長よりも高い木の枝の上、草むらの中、私の観察力はただあるものを求めることに費やされていた。
これからあの卵は蛇だけを食べるようになるだろう。私はそのことを知っていた。そうであるならば、明日もまた祠へ蛇の死骸を運ばねばならない。
一時間ほど、私は山の中を歩き回った。帰り道につく頃には、一匹の小さな若い蛇が生命を失って私の右手の中にいた。私はその蛇を朽ちた巨大な倒木で見つけたのだった。倒木の下の暗がりの中に、無数の蛇が蠢いていた。暗がりは倒木が作っているのではなく、蛇たちによって作られているかのようだった。蛇たちはしなやかで滑らかな体を絡ませ合っていた。幼い私でも、蛇たちが人間のような社会を形成するものとは思わなかったが、その様子を見ると蛇たちがあたかもひとつの家族を持ち、ひとつの社会を持っているかのような印象を受けるのを禁じ得なかった。
蛇たちは互いに体を預け合っていた。私が近づくと、その中でも特に大きな一匹の蛇が私の方へ丸い頭を向けた。逃げられるかな、と私は思った。逃げられたとしたら、はたして私は困るだろうか。そのようにまた私は思った。この蛇たちが逃げ出したら、私は困らねばならないだろう。それは私のためではなく、卵のために困らねばならないのだった。
蛇たちは逃げなかった。絡み合った蛇たちは、罅の入ったボイラー缶が立てるような音を発し始めた。やがて、私の前に一匹の蛇がそろそろと、しかしどこか毅然とした様子で進み出てきた。若い蛇であった。その顔は輝いているようだった。この蛇ならば、もしかしたら私の貧弱な歯と顎でも食いちぎることが可能であるかもしれなかった。
私は蛇に向かって手を伸ばした。蛇はまったく動かず、私に捕えられた。私は蛇を掴むとその場から離れ、近くにある一個の岩まで行った。蛇の生命を奪う方法については、その日上級生たちが教えてくれていた。私は蛇の尻尾を掴み、振り上げて、頭上で振り回した。何周かさせた後、私は思い切り蛇の頭部を岩に叩きつけた。蛇は即座に絶命した。筋肉が不随意運動する振動が、私の手に伝わってきた。
山を出る直前まで、私は蛇を右手で持ったままだった。山道の出口は、広壮な本家の裏手に通じていた。子どもたちの遊ぶ声が聞こえてきた。波の音もまた、私の聴覚を刺激した。私は手拭いをポケットから取り出すと蛇の死体を包み、学校の鞄を開けると、その中に蛇の死体を入れた。私は音を立てずに本家の脇を通り、離れの家へと帰った。
中に入ると、屎尿の臭気が私の鼻腔を満たした。臭気の中で、母はやはり布団に横たわって破れた天井へ視線を注いでいた。学校に行く時、母は私に目を向ける。帰ってきた時、母は私に目を向けない。母はあまり身動きをしないようになっていた。食事の量も減り、それに伴って肉体も縮んでいた。それでも私は、母のことを美しいと思っていた。夜、母の布団に潜り込み、母に自分の体を密着させると、私はよく眠ることができた。母は私に対して何らの反応も見せなかったが、私はそれを気にしたことはなかった。
私は家に鞄を置いて、また外に出る。夕暮れが近づいた空に細長い雲が群れをなして浮かんでいた。しばらく見つめていると、雲は内海上空の大気へと溶けて消えてしまった。
翌日、私はまた祠へと向かった。祠の扉を開けると、前日よりもやや大きくなった卵が座っているのが見えた。卵の周りに置いたはずの蛇の死体は消えていた。残骸はなく、ただ数滴の赤い血が周囲に飛び散っていた。私は卵を手拭いで拭き、その声を聞き、前日から鞄の中に入れたままであった蛇の死体をまた置いた。そしてまた山道を行き、前日蛇を得たところの倒木へ向かった。倒木の前には、一匹の蛇がとぐろを巻いて舌を出し入れしていた。やはり若い蛇であった。私がそこに来る前から、蛇は私の到来を待っていたかのようだった。私は蛇に向かって手を伸ばした。
☆☆☆
新京を去ることになった日からの記憶はほとんどない。あるにはあるが、それはストーリーとしての記憶ではなく、ただ断片的な場面の連なりでしかない。暗い部屋には、テーブルと何脚かの椅子があった。テーブルには薔薇の刺繍が施されたクロスがかかっていた。それより以前、母がその刺繍を施している光景を見たような気がするが、あるいは母が縫っていたのは薔薇ではなく他の花だったかもしれない。母が薔薇の花を好まないことを私は知っていた。
窓の外からサイレンが鳴り響くのが聞こえてきた。低く、鈍い、金属質な音色のサイレンは急き立てるような響きを有していたが、同時に私はどこか眠たげな印象をもそれから受けた。テーブルの上には膨れ上がったリュックサックが二つ置いてあった。リュックサックには衣類、食料品、その他必需品が詰め込まれていた。おそらく父と母が用意したものであろうが、私は二人がそのような作業をしているのを見た記憶がない。
父と母が会話しているのが聞こえてきた。父が怒気のこもった声で母になにごとかを言っている。やつら、中立条約を一方的に破棄して攻め込んで来やがった。恩知らず共め、連中が西の方で戦争をしている間、俺たちの国はちゃんと条約を守っていたのに。結局こうなるんだったら、こちらから先に攻め込んでおけば良かったんだ。俺は前から連中のことなんか信用しちゃいなかった……しかし、こうなったら仕方がない。お前たちはさっさとここから離れろ。新京に留まっていたら、何が起こるか分かったものではない。
戦争が進むにつれて、父は魔術用品を現地の軍機関と取引するようになっていた。陸軍の魔術兵に必要な魔術補助薬や、航空機と車両を運用するのに必要な合成エーテル液をも父は取り扱っていたらしい。そのつながりによって、父はもはや新しい国には防衛のために必要な戦力がほとんど存在していないことを知っており、そして遠からずして全土が陥落するであろうことを予想していた。
後から知ったことではあるが、これだけ絶望的な状況においても、まだその土地に残ろうとした入植者たちは多かったようである。彼らはまだ自分たちが主役として舞台にあがっておらず、従って劇もまだ始まっていないと信じていた。とうの昔に劇は演目も脚本も役も決まっており、進行しており、今終幕を迎えつつあることを彼らは知らなかった。
興奮している父と対照的に、母は冷静な顔をしていた。母は父に言った。分かりました。あなたの言うとおりにします。今から急いで駅まで行けば、きっと半島まで行く列車に乗ることができるでしょう。とりあえず半島に入りさえすれば、きっと南まで行く列車もあるでしょうし、そこから船に乗って本土に渡ることができると思います。母はそこまで言うと、いったん言葉を切った……でも、あなたの家は私と子どもたちを受け入れてくれるかしら。
父は手を振って母の疑問を打ち消した。そのことは前からよく話したじゃないか。なにも心配はいらない。俺の借金は全部返し終えてるし、それどころか戦争が始まってからは俺の方から米だの油だの金だのを送ってる。兄貴は手紙で俺に随分感謝しているし、子どもたちの顔を見てみたいと言っていた。その手紙はお前も読んだだろう。いいか、島への行き方はこの紙に書いてある。まずは半島の釜山港に行って、そこから福崎までの連絡船に乗る……
しばらく父と母は共に紙を見ながら話し合っていた。私はそれをぼんやりと見ていた。私の隣では妹が寝ている。妹は三年と半年前に生まれていた。私とは違い、色は白くない。妹は父に似ていた。父に似ているからこそ、母は妹に対してすべての愛を注いだのかもしれなかった。妹は三歳半でありながら、よく言葉を話した。今は眠っている。
話し声が途絶えたのに気付き、私は妹から視線を外して、父と母の方を見た。二人は私のことを見つめていた。正確に言えば、父は私を見つめていたが、母は私の存在する空間を見ているふりをしていた。母が何かを怖れるような口調で言った。もし……もしという話だけど、この二人のうちどちらかを取らないといけないということになったら、私、どちらを選べば良いかしら。ほら、この先何が起こるかは神様にしか分からないから……父は沈黙していた。父はなおも私を見つめていた。やがて父は言った。それは、その時その状況になったら、現実的に考えろよ。お前は賢いから、きっと良い判断ができるだろう。
私はその時、父の言葉を意外なものとして感じた。父は普段、母に対して蔑みの色を隠さないでいた。父はよく母を罵倒した。父は大陸産の強い蒸留酒を好んだ。その酒が体内に入ると、父の毒をどうしようもなく沸き立たせるのだった。父は声を張り上げて、母が無能であること、母が現実感覚に乏しいこと、母に教育も教養もないことをあげつらった。
父はよく母を殴った。母は黙ってそれに耐えていた。母は決して父に言い返さなかった。それどころか、あえて無能であることを装って父の毒を誘うようなこともした。父の毒は母にとって必要不可欠なものであるかのようだった。そして母は、自分がその毒を受けることがつまるところ父を生かすことであると信じてもいるらしかった。毒を出すことができなければ、父は自家中毒を起こして死んでしまうだろうと、母は考えていたようだった。
母はぽつりと呟くように言った。そう、そういう状況に立ち至ったら、私は強い子の方を選びます。父が言った。強い子とは、なんだ。母は短く答えた。毒を持っている子の方ですよ、あなたと同じように……
その時の記憶はそこで途切れている。父は結局、新京に留まった。そして永久に姿を消した。現地の住民のうち、十六歳から六十歳までの男性は防衛隊に所属し、有事の際は侵略軍と戦うことになっていた。記録によれば父の所属した隊は
このような記録の文字列は、なにも私にもたらさない。父が戦車に踏み潰されたのか、あるいは戦場に辿り着く前に空襲で死んだのか、または戦闘の後にもしばらく生きていて、敵による掃討戦で撃ち殺されたのか、それは分からない。私は、そのうちのどれが父という一個の存在にとってふさわしい終焉であったのかということを考える。しかし、それぞれの存在にとってそれぞれにふさわしい終焉などというものはあるのだろうか。
母と妹と一緒の逃避行について、私の記憶はあまりない。列車が満員であったこと、しばしば列車が停車したこと、車内の蒸すような人いきれ、熱気、屎尿の臭気、臭気と入り混じった
半島の南まで辿り着くのに、一ヶ月がかかったのかそれとも二ヶ月がかかったのか、私には分からない。季節は既に秋を通り越して冬になっていた。戦争はいつのまにか終わっていた。港から本土へ渡る船はなかなか出なかった。私の次の記憶は、港の町に設置された引揚者用宿泊所の片隅で、床に敷かれた
母は苦しむ妹を抱き上げては着物をはだけさせ、白い乳房を口に含ませていた。弛んだ皮膚の下に薄い脂肪の層が存在しているのが見えた。乳は出なかった。母は、乳房を通じて妹に自身の生命を分け与えようとしているかのようであった。病人を癒すのに適切な薬はなく、適切な食事もなかった。熱の勢いが高まると、私は呻き声を漏らした。その呻きは蛇の鳴き声に似ていた。母は私の鳴き声を聞いてはいたのであろうが、私に構うことは一切なかった。
妹はそのうち、息をしなくなった。母が一晩中すすり泣きをしていた。私はまだ熱に呻いていた。蛇のような鳴き声を上げながら、私は母が骸となった妹を抱きながら泣いているのを聞いていた。魂が抜け出て半開きになった妹の口に、母はなおも乳房を押し付け続けていた。
私が歩けるまでに回復した後、母は私に手を引かれるようになった。母は私と同じく、何も話さないようになった。母は動いていたが、生きているとは思えなかった。妹に与えた乳房を通じて、母の中に残っていたすべての生命力が流れ出てしまったかのようだった。いや、そうではなく、母の中にはまだ生命力が残っていたのかもしれなかった。それだからこそ母はそれを守るために自らのうちに牢を建設し、その中に入ったのかもしれない。牢はなんといっても牢であるだけに、安全ではあった。
蛇のような形をした島に着いたのは、年も暮れかけた頃であった。冬の島の波は高かった。島に属するありとあらゆる存在の中で波が真っ先に私へメッセージを伝えてきた。
☆☆☆
卵はもはや卵ではなくなっていた。春が終わり、夏が始まろうとしていた。祠の扉を開けると、中には巨大な蛇が横たわっていた。太く、短い蛇だった。厚い鱗は灰緑色に輝いていた。頭部には赤い鶏冠があった。島で飼われている家禽となんら変わりない鶏冠であった。口の代わりに嘴がついていた。嘴は鋭く、乳白色をしていた。胴体には脚が生えていた。二本の脚は鶏の脚そのものであった。しかし脚は地面を踏みしめてはいなかった。目は閉じられていた。いつ目を開けるのか私には分からなかったが、それもそう遠い日ではないように思われた。私はいつしか心の中でそれを卵ではなく、蛇の王と呼ぶようになっていた。蛇の王はいつ来ても大儀そうな様子で横たわっていた。
蛇の王の食欲は衰えなかった。一匹の蛇では足りなくなり、次第に私は二匹、三匹と蛇の王に提供する死体の数を増やしていった。朽ちた倒木の下の蛇たちは、相変わらず私に新しい命を差し出していた。経過した日にちを考慮すると、とうの昔に蛇たちは絶滅して消えていてもおかしくはなかったが、私が行くと必ず蛇がそこで待っているのだった。私は蛇を振り回し、岩に打ち付けて殺し、鞄に入れて蛇を持ち帰った。三匹も蛇を入れると、鞄の中はいっぱいになってしまった。
夕暮れになると、私は本家の勝手口へと向かい、そこであの年配の女性から夕食を受け取って帰ってくる。私は母に食事を差し出す。母はそれを体の中に納める。しかし、その頃になると母はほとんど物を食べないようになっていた。排泄も便器で行うのではなく、着物の中にそのまましてしまう。朝に着物と下着を洗うのが私の新たな日課となった。布団に屎尿の臭気が染み込んだため、私は母と共に寝ることができなくなった。母は布団で眠り、私は直に床の上で眠った。
夜、寝る前になると私は母の体を拭いた。母の体はもはや骨格の上に皮膚が張り付いているだけになっていた。母の皮膚は黄色く変色していた。それでも、母の体毛はまだ黒々としていた。それが母の中にまだどれほどの生命力が残っているかを示していた。もしかすると、この体毛は母とは無関係のものであるかもしれなかった。このまま母が生命活動を停止し、土中へと埋葬されていずれ骨だけになったとしても、この体毛だけは生き続けるかもしれないと、私は思った。
その日、学校の昼休みの時間だった。私が小用のために席から離れている間に、クラスの子どもの一人が私の鞄を漁った。私が帰ってくると、教室の中には興奮と怖れとが入り混ざった空気が満ちていた。私の机の上には、三匹の蛇の死骸が並べられていた。おい、これはなんだと、クラスで最も利発で背の高い子どもが私を糾弾するように言った。私は言葉を発さなかった。他の子どもが口を開いた。きっと、食うんだよ。こいつ、蛇を食うって言われてるじゃないか。そうなのか、と背の高い子どもは私に言った。私は頷かなかったが、首を左右に振りもしなかった。私が一歩前に進むと、子どもたちは私から一歩分だけ退いた。私は蛇を鞄の中へしまった。子どもたちは私を無言で囲んでいた。そのうち、昼休みが終わり、教師が教室の中へ入ってきた。その日の学校は、そのままなにごともなく終わった。
学校が終わると、私はまた祠へ向かった。祠の中には、蛇の王がいた。私は手拭いで彼の体を拭った。その体はどこまでもしなやかで滑らかだった。この島に来た頃の母の体もまた、このようにしなやかで滑らかであったような気がする。蛇の王は膨れ上がるほど肥満していた。彼はまだ、自分の脚で立つことはなかった。私が彼を持ち上げて、彼を私の肩に寄りかからせると、彼は私の首に短く太い胴体を絡ませてきた。蛇の王の熱い体に、私は耳を当てた。蛇の王の中からは、水が沸騰するような音が聞こえてきた。きっと彼の体の中で毒が煮え立っているのだろうと、私は解釈した。
蛇の王を祠に戻すと、私は鞄を開けて三匹の蛇の死体を取り出した。蛇の王を取り囲むように三匹の死体を置き、扉を閉めようとすると、常にないことに蛇の王は頭をもたげてまだ開かない目を私に向けてきた。もう少しここに留まれと彼は言っているようだった。私は閉じかけた扉をまた開くと、静かにその場に立った。木々の間から漏れ落ちる光が祠の内部へと降り注ぎ、蛇の王の尖った顔を薄く照らした。
蛇の王は体を起こすと、その細い両脚で立った。赤黒い爪が木肌に食い込んで軋む音がした。立ち上がった彼の姿は不自然なまでに堂々としており、それが却って滑稽さを醸し出していた。彼は鶏が地面の餌を探すような動きで頭を左にやり、右にやり、そしてまた左にやると、三重になって彼を取り囲んでいる死体の内、もっとも内側のものの頭部に嘴を突き立てた。
ほんの少しだけ死体の血液が飛び散った。死体はゆっくりと、しかし一定の早さで、蛇の王の中へと呑み込まれていった。死体の尻尾が嘴の中へと消えるかと思われたその瞬間に、また蛇の王は嘴を別の死体へと振り下ろし、頭に突き立て、呑み込み始めた。気が付いた時には、三匹目の死体も見えなくなっていた。
食事が終わると、蛇の王は両脚の力を緩め、また祠の中で横になった。彼は頭をこちらに向けた。光を煩わしく思っているようだった。私は祠の扉を閉め、その場から去った。蛇の王の食事の有様は、私にとって特段意外なものではなかった。それよりも、なぜ彼が今更になって自分の食事を私に見せたのかということの方が、私には気になった。
私はしばらく考えて、おそらく彼はそろそろ食事を必要としなくなるのであろうと解釈した。私は山道を下り、いつもの倒木へと向かった。しかし、私を待っているはずの蛇たちの姿は見えなかった。私は倒木を離れ、別の場所に当たって蛇を探してみたが、もはや山中のどこにも蛇の姿を見つけることはできなかった。
山を出ると、ヒグラシが鳴き始める頃合いになっていた。空は既に夕暮れによって橙色に染まっていた。西の方角へ目を向けると、爛熟した柿の実のような太陽が海の中へ沈もうとしていた。子どもたちの遊ぶ声はもう聞こえない。私は本家の高い塀に沿って歩いた。すると、勝手口にあの女が立っているのが見えた。女は何かを探しているようだった。女が探しているのが私であることに、私は気が付いた。
私は女のもとへ行った。女は私に対して初めて口を開いた。今夜、と女は最初に言った。女の声は低かった。大旦那様がお前にお会いになるってよ。私は女の顔を見た。その声色からして女は不機嫌なのだろうと思っていたが、意外なことに女の目は当惑の色を浮かべていた。今はダメだ、と女は言った。日が沈んで一時間ほど経ったら、またこの勝手口に来い。そしたら、私がお前を屋敷の中へ入れてやる。絶対に来るんだぞ。大旦那様のお言いつけだからな。なにやら大事な話があるってよ……女は勝手口の中へ消えていった。私もその場を去り、離れの家へと向かった。
私が帰ってくると、母が私に顔を向けた。その目に光はなかった。眼窩の落ち窪みだけが母の表情を形作っていた。母は何かを咀嚼するように口を動かした。私は、母が何かを言おうとしていることに気が付いた。私は椀に一杯の水を汲むと、母の体を抱き起こした。その体は蛇の王とはまったく対照的な感触を伝えてきた。
母の喉へ水を流し込むと、母は音を立ててそれを飲み込み、そして私に対して言った。今夜は私から離れないで。私は無言で母の顔を見つめた。記憶にある限り、母は私に対して初めて口を開いたのだった。今夜は私から離れないで。母はまた同じことを言った。私は母に頷き返した。母もまた、私に対して微かに頷いた。直後、母は脱力して布団に崩れ落ちた。母は目を閉じていた。浅い呼吸をしていた。そうでありながら、母は私の手をしっかりと握り締めていた。母の指が私の手に食い込んだ。私はもう片方の手を母の手の上に添えた。
どのくらいそうしていたのかは分からない。ヒグラシの声は聞こえなくなっていた。遠く、囁くような波の音が聞こえてくる。破れた天井からは夜空が覗いていた。夜空に雲はなく、無数の星々が微弱な光線を送ってきていた。母の呼吸は未だに浅いままだった。私の手を握る力が、だんだんと弱まってくるのが感じられた。
そろそろあの屋敷に行かねばならない時間になっていた。私は、このまま母と共にいるべきか、それとも母の手を振り払って屋敷に行くべきか、考えていた。その時、母がひときわ強く私の手を掴んだ。私は不意を衝かれて、思わず母の顔を見た。母はまだ目を閉じていた。呼吸は、間隔が長くなっていたが、先ほどよりも深く大きくなっていた。母は今や、私の手を折らんばかりに力を込めていた。私は母の手の上に添えていた方の手を動かし、私の手に食い込んでいる母の指を一本一本解きほぐして、振り払った。そして、母の手を母の体の上へ置くと、離れの家を出た。
勝手口には、女が立っていた。私と女はしばらく見つめ合った。やがて、女が言った。やっぱり、大旦那様は今夜お前に会わないってよ。ぞんざいな口調だったが、私はその中に幾分かの申し訳なさと憤懣の念を感じ取った。女はまた言った。お前、蛇を食ってるという噂らしいが。今日、学校の先生が手紙で、お前が蛇の死体を鞄に入れて持ち運んでいるが、そういうことは今後一切しないように言ってくれと、大旦那様に書いてきた。大旦那様はもう蛇を食うのはやめるように、と言っていた。この島の人間なら、蛇は食うなと大旦那様は言っていた。食べ物が足りないならそうこちらに言えば良いのに、まるで当てつけのように蛇を食うのはやめろ、とも言っていた……そこまで言い終えると、女は勝手口へ戻っていき、今度は手に食べ物を持ってきた。握り飯と、竹製の筒状容器に入った汁物と、副菜の入った四角い箱だった。女は言った。今日はもうこれで帰って、お前の母ちゃんと飯を食って寝ろ。もう蛇は食うなよ。この島の人間ならばな。女は背を向け、勝手口の中へ消えていった。
私が食べ物を持って家に戻ると、母はそのままの姿で横になっていた。私に顔を向けることはなかった。私は、離れの家の中の空気が微妙に変化していることに気が付いた。私は母に駆け寄った。朽ちかけた床板が大きく鳴った。私は母の顔を見た。母の目は薄く開いていた。口も半ばまで開かれていた。死を迎えた時の妹の口とそっくりだった。呼吸は消えており、体の上に乗せておいたはずの手は下へと落ちていた。私が本家の勝手口に行き、そして戻ってくるわずかな時の間に、母はこの島から去ってしまっていた。
私は母に何か言おうと思った。私は母を呼び戻したかった。これまで私は言葉を発したことはなく、試しに言葉を発してみようとしてもいつも失敗していたが、それは私が本心から言葉を発そうと思わなかったから言葉が出なかっただけであり、私が望めば言葉は自然と出てくるものであると思っていた。
しかし、私の口からは蛇の吐息のような、声にもならぬ声が出てくるだけであった。私は、お母さん、と言いたかった。しかし音は何も意味を纏わなかった。それは声ですらなかった。やはり蛇の鳴き声のようであった。
毒が必要だと、私は思った。
母には毒が必要であることを、私は父を通じて知っていた。毒こそが母を生かすものであった。母を呼び戻すには毒が必要であるが、私に毒はない。ならば、ほかから毒を得るしかない。そして、毒の在処ということについては既に分かり切っていることだった。
臭気の染み込んだ、襤褸のような掛け布団を持ち上げて母の顔を隠すと、私は完全に夜の帳の落ちた外界へと出た。海のような夜空には月が輝いており、その光が私の行く手を照らし出していた。私は本家の塀に沿って先へと進み、山の中へ入った。山に入る直前に、波の音が私へ最後のメッセージを伝えてきた。やはり波は、私がこの島の人間ではないと言っていた。
こちらの側から山に入るのは初めてのことだった。それでも私の足は自然に前へと進み続けた。傾斜は急で、登っていると息が切れたが、私はその荒い呼吸をいつまで続ければ良いのかが分かっていた。
私は祠のある岩場に辿り着いた。反対側から見る岩場は、いつもよりもどこか小さく見えた。祠の前には黒い水面が広がっていた。水面は揺らいでいた。それは水面ではなかった。それは、この山中に住んでいるすべての蛇たちが寄り集まり、地面を黒々と覆っていたのだった。私は乱雑に足音を踏み鳴らしながら、その水面の中へと分け入った。蛇たちは私を怖れて離れていった。
祠の扉に手をかけ、私は勢い良く開いた。中には、蛇の王がいた。蛇の王は眠っていた。彼の体は昼間に会った時よりも、さらに太くなり、大きくなっていた。蛇の王は安心しきって熟睡していた。それは、彼が明くる日に王として君臨するためには、絶対に必要なことであった。彼の目は未だに閉じられていた。しかし彼が最初に見るものが、この夜を追い払う朝日であろうことは容易に想像できた。私はほとんどそれを確信していた。
蛇の王は夢を見ているのか、その鳥のような脚を動かしていた。爪が木肌に擦れて音を立てていた。鱗の下には毒が脈打っていた。毒は熱を持っていた。
私は蛇の王の尻尾を掴むと、祠から引きずり出した。王の体は重かった。どうするべきかは分かっていた。すべきことは問題なく果たせるであろうことも、私には分かっていた。私の体は細く、白く、ひ弱だったが、だからこそこの仕事を果たすことができるはずであった。
私は渾身の力を込めて、自身の体を不動の軸として王の体を振り回し始めた。体を動かすにつれて、不思議なまでに力が身体の内奥から湧いてきた。一周し、二周した頃には、素晴らしい勢いがついた。王は、なおも眠っているようだった。
勢いのまま、私は王の頭部を岩へと打ち付けた。衝撃を受けて、赤い鶏冠が頭部から千切れ飛んだ。また私は王を振り回し始め、同じ岩へと打ち付けた。王の嘴が砕かれ、無数の破片となって飛び散った。私の動作は更に三度繰り返された。
粉砕された頭部から、真っ黒な毒液が噴出した。石油のように濃い、粘性のある毒液だった。
私は王の胴体を持ち上げると、彼の破壊された頭部に口をつけ、毒液を飲んだ。
焼かれるような熱さと痛みを感じるのと同時に、私はこれまでに感じたことのない衝動を覚えていた。
衝動が音という肉を纏い、初めての言葉となって自分の口から迸り出てこようとしているのを感じながら、私はなおも毒を飲み続けていた。
※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。
・ほいれんで・くー「インスラ・セルペンティウム」
2023年2月19日公開。前作と同じく、これも『ラインの娘』のために書き下ろした作品です。前回の更新は去年の5月……マジかよ……
タイトルの「インスラ・セルペンティウム」はラテン語で「蛇たちの島」を意味します。複数属格! 言わずもがななことですが、舞台は瀬戸内海のどこかです。新京は満洲。
今回はあえて慣れない内容と慣れない文体に挑戦してみようと思い、勇んで書き始めてみましたが、まあその……個人的には良い勉強となりました。
次回もどうぞお楽しみに。