ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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 ある日、唐突に世界が滅んだ。天が裂けて、赤い体液が迸った。地は溶け、海は涸れ果てた。鳥も獣も魚も、花も草も木々も消えた。

 人間もまた、数え切れないほどのさよならをお互いに告げて、従容(しょうよう)として滅びの道を歩いていった。


04. さよならは翼ある言葉

 ふらふらと一つの影が道を進んでいた。よく見ると、どうやらその影は二つが重なって一つになったもののようだった。一つは背負われ、一つは背負っていた。その足取りは覚束なかった。しかし、先へ進まんとする確固とした意志が秘められていた。

 

 背負っているのは、(ゆう)だった。誘は、(ひたい)に流れる汗を軽く拭った。端整な顔立ちに透き通った瞳、短い黒髪……少年のあどけなさと青年の溌溂さが奇跡的に並存する、そんな年頃の誘だった。

 

 彼の目の前には、丁寧に刈り込まれた芝生が広がっていた。その緑が目に痛かった。それは、かつて誰かが毎日丹念に手入れをしていたのであろう、青々とした努力と習慣の結晶だった。

 

 誘は背負っている少女に、優しく労るような、穏やかな声で話しかけた。

 

「ほら、着いたよ那美(なみ)

 

 返事はなかった。眠っているのだ。可哀想に、とても疲れているのだろう。誘はそう思った。彼自身の肉体も、疲労の限界を遥かに超えていた。那美を背負っていなければ、とうの昔に旅は終焉を迎えていただろう。背負っていたからこそ、自分はここまでやって来ることができた。彼はそう思った。那美がいたから歩くことができた……そして、ここに来た。

 

 ここまで、とても長く険しい道のりだった。はやく那美を横にして休ませてあげたい。誘は芝生に膝をついた。芝生は湿っていた。彼は背中の少女をゆっくりと、あたかも繊細なガラス細工を丁寧に扱うような慎重さで、そっと芝生に下ろした。

 

 彼は言った。

 

「那美……」

 

 仰向けになった那美を、誘はその琥珀色の瞳で見つめた。那美は目を閉じていて、(つら)そうに荒い呼吸をしていた。その寝顔には深刻な疲労感が滲んでいた。だが、ただその口元だけはどこか幸せそうに緩んでいた。

 

 那美は美しかった。これまでこの世に存在したどんな女性よりも美しかった。少なくとも誘は、そう確信していた。

 

 白磁のような肌、翡翠の瞳、腰の下まで届く金髪……華奢な手足と細い首、薄い胸。それだけではない。その頭には光の輪と、背中に一対の翼……まるで天使のような、黄金と白銀にきらきらと輝く輪と翼……

 

 いや、「まるで」ではない。事実、那美は天使なのだ。

 

 傍らに腰を下ろして、誘は右手を伸ばし彼女の汗ばんだ額をゆっくり撫でた。疲労のためか、それとも他の理由によるのか、彼の手は不随意に震えた。彼は言った。

 

「天使か……確かに、那美は生まれた時から天使だったのかもね」

 

 蜜柑色の光が天から垂直に降り注いでいた。時折、凍てつくほどに寒い風がどこからともなく吹いてきた。

 

 突然、背後で音がした。乱雑に建物が崩れるような、それでいて音曲のような秩序正しさを感じさせる、相矛盾する響きを持った破壊音だった。誘は驚いて振り返った。だが彼はすぐに安心した。

 

「なんだ、道がなくなったのか……」

 

 歩んできた道が崩壊して消える。それはいつものことだった。いつも、彼らが進んできた道は失われてきた。そして、これで最後だろう。

 

 誘は周囲を見渡した。彼ら二人が今いるこの場所は、あたかも浮島のように暗黒の空間に頼りなげに漂っていた。周囲十五メートル四方のとても小さな浮島だった。遠くに赤と黄色に明滅する妖星の群が見えた。紫の電光を放つクロームシルバーの積乱雲が、此方(こなた)彼方(かなた)にスクリーンのように垂れ込めていた。

 

 まったく本当に、この浮島だけがこの世に残された最後の場所になってしまった。そう、ここは文字通り、世界の果てになってしまった。

 

 ぼんやりと周囲に視線を泳がせていた誘は、ふと右手に冷たく柔らかい感触を覚えた。視線を戻すと、那美が両手で彼の手を優しく包み込んでいた。

 

 彼女の潤んだ翡翠の瞳が見つめてくる。視線が優しく絡み合った。口を開いたのは、ほぼ二人同時だった。

 

「おはよう、那美」

「おはよう、誘くん」

 

 にっこりと、二人は微笑みあった。そしてにっこりとしたまま、二人は沈黙を保った。

 

 その沈黙は幸福に満ちていた。その幸福は朝のまどろみに似ていた。あるいは、生クリームたっぷりのケーキの甘さ、ピアノが静かに奏でる夜想曲の心地良さにも似ていた。いやむしろそれは、今では滅び去ってしまったそれらを、魔法のパテで塗り込めて一緒くたにしたような、欲張りな多幸感だった。

 

 ややあって、誘がその言葉を用いない幸せな会話を打ち切った。

 

「那美。ついさっき、ここまでの道が崩れ落ちたよ。この浮島が最後の場所になっちゃった」

 

 那美が、衰弱して蒼白になった顔に微笑を浮かべた。一語を発するのですら大儀そうだった。彼女は言った。

 

「そう……それなら私達にも、さよならの時がやってきたのね……」

 

 誘は、わざと怒ったような顔をして言った。

 

「いまさら、那美とお別れする気なんてないよ」

 

 那美は、嬉しそうな表情を浮かべていた。

 

「ふふ、ありがと、誘くん。ねぇ……」

 

 彼女は起き上がった。そして、内気な幼な子が遠慮がちに親に甘えるように、彼女は言った。

 

「ねぇ、誘くん。私を抱っこして。とっても寒いの……」

 

 誘は言われるままに那美の細い体を抱き寄せた。彼は両腕を彼女の背中に回して、あたかも精緻な氷の彫刻を溶かしてしまうのを恐れるかのように、那美を優しく抱き締めた。

 

 那美も誘を抱き締め返した。その腕にはもはや幼児ほどの力もなかった。誘はそれが無性に悲しかった。

 

 那美は言った。

 

「そうだ。誘くん、こうしてあげるね」

 

 那美はふわりと背中の白い翼を広げた。翼は器用に折り畳まれて、優しく誘を包み込んだ。

 

 誘は言った。

 

「あったかいね、那美。君の体も、君の翼も」

 

 那美も言った。

 

「誘くん、誘くんは熱いね。誘くんの心臓の鼓動も、血の奔流も、今なら全部分かるわ」

 

 無言で二人は抱き合った。いずれこの浮島もきっと崩壊するだろう。その時は遠くないはずだ。

 

 かまうものか。誘はそう思った。このまま二人一緒にいられるのならば、滅んでしまっても構わない。このまま浮島が砕け散って、赫灼(かくしゃく)としたエネルギーが渦巻く暗黒の空間へと放り出されても、もう那美のことは絶対に手離さない。

 

 さよならなんて、誰が言うものか。

 

 

☆☆☆

 

 

 誘が初めて那美を意識したのは、幼稚園の年中組の時だった。たった一人、部屋の片隅で黙々と積み木を積み上げて遊んでいた誘のところへ、突然那美は元気一杯駆けてきて、タックルのようにして彼に飛びついた。

 

 那美は言った。

 

「ゆうくん、ゆうくん! あたし、ゆうくんのおよめさんになる! いまきめた!」

 

 誘は答えた。

 

「うん、うん。ありがとう。でも、きみはだあれ?」

 

 いつかの日、自分の母と那美の母とがお喋りをしていたのを彼はよく覚えている。那美の母が言った。

 

「那美ったら、毎日帰って来たら誘くんのお話ばかりするんです。とっても誘くんのことが好きみたいで……惚れっぽいのは父親似だと思うんですけど……」

 

 誘の母が言った。

 

「うちの子は恥ずかしがり屋で、ちょっと大人しすぎるかなと思ってたくらいですから、那美ちゃんのような可愛い子がお友達になって下さって本当に良かったですわ……」

 

 砂場で遊ぶのも、ボールで遊ぶのも、お絵かきをするのも、弁当を食べるのも、昼寝をするのも、いつも二人は一緒だった。

 

 誘と那美が初めて喧嘩をしたのは、小学校に入学したその年だった。その日、日直だった二人は一緒に黒板を消していた。初めは二人とも仲良く仕事をしていた。だが、那美の消し方が気に入らなかった誘が、もう一回丁寧に黒板を拭き直した時に、事件は起こった。

 

 那美は顔を真っ赤にして、ポロポロと涙を溢して、泣きながら怒った。かつて誘が見たことのないほどの怒りだった。那美は泣いて言った。

 

「ゆうくんのバカ! ゆうくんのいじわる!」

 

 誘は戸惑ったように言った。

 

「那美の消し方が良くないだけだよ。別にいじわるしたわけじゃないよ」

 

 ポカポカと一方的に、誘は那美から叩かれた。彼は表面に加えられる痛みを、体の内側でより強く感じた。言い合いの末、得体の知れない痛みに負けた誘が折れて謝った。それからも二人は何度も喧嘩をした。しかし、これが先例となったのか、最後に謝ることになるのはいつも誘のほうだった。

 

 お互いにお互いの新しい側面を見出しあったのは、二人が中学校に入学した時だった。その中学校では必ず何らかの部活動に所属しなければならなかった。二人は、入部届を同時に見せ合おうと言った。

 

 那美が言った。

 

「せーのっ! あれっ!? 誘くん、茶道部!? なんで!?」

 

 誘の入部届には茶道部と書かれていた。一方で、誘も首を傾げた。

 

「……あれ? 那美、那美は水泳部? 泳ぎができないのに?」

 

 那美の入部届には水泳部と書かれていた。那美が言った。

 

「だ、だって、誘くん泳ぐの上手だから、私も一緒に泳げたらって思って……それに誘くんだって、きっと水泳部だと思ったから……」

 

 誘が言った。

 

「僕は、那美がおばさんみたいにお茶道をするのかと思ったんだよ」

 

 那美が大きな声で言った。

 

「誘くん、お茶道なんて退屈だよ! 私と一緒に水泳部に入ろうよ!」

 

 誘は迷ったような顔をした。

 

「うーん、でもお茶には興味あるしなぁ……」

 

 結局、二人は部活を掛け持ちすることにした。学校ではそれが許されていた。

 

 二人が初めてデートをしたのは、那美が十七歳の誕生日を迎えた、あの夏だった。夜なお蝉しぐれ激しい、あのじっとりとした暑い季節に、二人は神社の夏祭りに行ったのだった。

 

 いつも男勝りで、服装も態度も言葉遣いも些かおしとやかさに欠ける那美が、その晩ばかりは違って見えた。

 

 彼女は上等な萌黄色(もえぎいろ)の浴衣を着ていて、薄化粧までしていた。誘はその姿を見て、今までにない胸の高まりを感じた。僕も浴衣を着て来れば良かったかな? 胸のざわめきを誤魔化すために、彼はそんなとりとめのないことを思った。

 

 那美が恥じらうように、伏し目がちにそっと誘に尋ねた。

 

「どう……? 似合ってるかな、誘くん?」

 

 彼は、一言だけしか返せなかった。

 

「うん、とても」

 

 那美は安堵の表情を浮かべた。彼女は胸を手で押さえた。

 

「良かったぁ……じゃあ、行きましょ?」

 

 手を繋いで、足取りも軽く、二人は夏祭りを思うままに楽しんだ。二人は屋台で食べ物を買って、食べた。二人は金魚掬いをしたり、クジを引いたり、射的をしたりして遊んだ……

 

 しかし、誘はどうしても、今日こそはと心に決めておいたあの行動へ踏み出す勇気が持てなかった。

 

 祭りの最後を彩って夜空へ打ち上がる花火を背景に、二人は何を話すでもなく、ただ木立の中で見つめ合っていた。

 

 遠くから破裂音が響いてきた。夜の蝉の声はうるさかった。ひそやかな虫の声が大きく感じられた。蔓草のように二人の視線が絡み合った。今までにないほどの真剣な面持ちで、誘は那美を見つめていた。花火の音を置き去りにして、ドクドクという心臓の鼓動だけが聞こえていた。

 

 耐えきれなくなって、先に言葉を切り出したのは、那美のほうだった。

 

「ふふ、うふふ……あはは! もう、仕方ないなぁ、誘くんは。ほら、おいで」

 

 そう言って、那美は無造作に誘を抱き寄せた。彼女は、その桜色のつややかな唇を彼の(ひたい)に重ねた。

 

「……今日はこれでおしまい。さあ、帰りましょ!」

 

 帰り道、握る手に指を絡めてきた那美の心情を、誘は真に理解できたのだろうか?

 

 

☆☆☆

 

 

 那美が死んだのは、その二ヶ月後だった。

 

 それはごくありふれた、単なる交通事故だった。大型トレーラーが交差点に突っ込み、登校中の那美が巻き込まれたという、ただそれだけのことだった。この国中で、毎年何件かは発生している、何の変哲もない事故だった。統計的に処理されて、数年後にはただの記録となる事故だった。

 

 前日、学校の帰り道で「さよなら、また明日ね!」と言って別れた那美の顔を、誘は鮮明に覚えている。

 

 その日、那美はクラスの女子に頼まれて、文化祭の準備のためにいつもより朝早く登校したのだった。いつもならば、一緒に誘も登校していたはずだった。

 

 誘には、絶望も、悲しみも、怒りもなかった。強すぎるショックによって、あるべきものがすっぽりと抜け落ちてしまった。人体の機能の一部が完全に麻痺したようだった。受け止めきれない生の現実、愛する者との別れ……突然の死。

 

 他ならぬ、那美の死。

 

 それがあたかも大型のハンマーとなって、誘の繊細で優しい心を粉々に叩き壊してしまったのだった。

 

 誘は、那美の葬儀のことをいっさい覚えていない。たぶん、誘は泣いていたのだろう。

 

 それからの誘の生活は、灰色一色に塗り替えられた。色も味も音も、すべてがモノトーンに沈んでいた。彼の心身は冷え切ってしまった。ついに、彼は病気になってしまった。

 

 ちょっとお喋りなその医師は、診察室で誘に言った。

 

「生老病死は人生につきものです。あえて暗い人生を歩んでいきたいというなら、そうなさっても良いですが、精神科医として私は、あなたはつらい事件にさよならを告げるべきだと勧告します。あなたはまだまだ、これからも生きるのだから。あなたの好きだった人も、それを望んでいるでしょう」

 

 あなたの好きだった人も、それを望んでいる? 誰にそのようなことが分かる? 精神科医ならばそれが分かるとでもいうのか? 決して死者は語らない。その声を聞くことはできない。それでも、誘は素直だった。彼は医師の勧めに従って、勉強にも部活にも精出した。彼は詩も歌もよく覚えた。彼はアルバイトもしてみたりした。

 

 それでも、彼にはできなくなったことが色々とあった。彼は水泳ができなくなった。彼はお茶を()てられなくなった。那美の幻影がちらついてしまう一切のことを、彼はできなくなった。

 

 そして、彼は生きるということができなくなった。愛する人とそっと寄り添って生きるという、そんなささやかな生き方が、彼にはできなくなった。

 

 

☆☆☆

 

 

 誘の日々は暗く、単調だった。だがそのような日々は、ある時、唐突に終わりを告げた。

 

 彼が十八歳の誕生日を迎えた、その日の午後のことだった。

 

 突然、天が破れた。

 

 唐突に、空に無数の赤い亀裂が走った。その亀裂から、真っ赤な天の体液が迸り出た。赤い体液は腐肉の臭いを放っていた。

 

 天の体液は、あらゆるものを溶かす力を持っていた。地上に撒き散らされたそれは、ありとあらゆるものを――国家も文明も、芸術も文化も、民族も宗教も、瞬く間に溶かし去ってしまった。天の体液はその果てには、大陸そのものに穴を穿(うが)ち、海を干上がらせ、星そのものにひびを入れた。

 

 大地に開いた穴から覗くのは、宇宙空間ではなかった。それとは全く異なる、龍の如き赤電が縦横無尽に走りまわる暗黒空間が、穴の向こうに広がっていた。地表を溶かした天の体液は穴を目指して、高い所から低い所へ、続々流れ落ちていった。

 

 なぜ、こんな事態が起きた? 前兆はなかったのか? 国は、政府は、助けてくれるのか? この世界は、どうなってしまったのか? これから世界は、どうなってしまうのか? 世界は急転して、無数の疑問を噴出させた。

 

 なすすべなく狼狽する人類のもとへ、天の亀裂から、新たな存在が姿を見せた。

 

 それは、天使たちだった。

 

 白い服と白い翼を身に纏った天使たちは、人間たちを救うために天の亀裂から現れた。天使たちは腐り落ちる世界を飛び回った。

 

 人間は叫んだ。

 

「おお、おお! 災いよ! 大いなる災いよ! 我らの元より消え去れ! 神よ! 主よ! 天使よ! 我らを救い(いだ)し給え!」

 

 天使は叫んだ。

 

「おお、おお! 人の子よ! すでに主は滅び去りぬ! 天は破れ、地は崩れ、種は滅ばむとす! 人の子よ、翼を得よ! 翼以て天へ駆け上がれ! 而して、この大地に別れを告げよ!」

 

 そう、救われるには、翼を手に入れなければならないと天使たちは言ったのだった。

 

 だが、人間がどれほど望んでも、天使たちがどんなに努力しても、人間が翼を得ることはなかった。人間はなすすべなく、次々と赤き液体に溶かされて、暗黒の空間へと飲み込まれていった。

 

 世界の崩壊は、もう止められなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 誘のもとへ彼女が来たのは、彼が両親の墓を作り終えた時だった。空から降ってきた赤い液体で、誘の両親は跡形もなく溶けてしまった。棺桶に横たえられる遺体も、壺に収める遺骨も、それらはもう何処にもなかった。誘は石を高く積み上げて、それを墓にした。

 

 墓に手を合わせる誘の背後に、何者かがふわりと舞い降りた。ゆっくりと誘は振り向いた。

 

 彼の眼に入ったのは、ある少女だった。白磁のような肌だった。翡翠の瞳が光を放っていた。腰の下まで金髪が伸びていた。繊細で華奢な手足、細い首、薄い胸……

 

 この少女を、彼は知っていた。彼はよく知っていた。だが、そんなはずはない、そんなはずは……

 

 震える声で、誘は名前を呼んだ。

 

「……那美?」

 

 少女は、花のようににっこりと笑って答えた。

 

「誘くん!」

 

 誘は、改めて少女を見た。彼の目の前には、白銀の翼が眩いばかりに美しい天の御使いが立っていた。薄紅色のシルクのドレスに身を包み、黄金の金具が輝く革のサンダルを履いたその天使は、頭の上に浄福なる光を放つ輪を戴いていた。

 

 誘のよく知っている顔だった。どうしても忘れられなかった、あの愛しい人の顔だった。

 

 那美は、天使となってそこにいた。

 

 呆然と、信じられないものを見る誘に、那美は昔と変わらぬ溌剌とした笑顔を見せた。彼女は言った。

 

「誘くん。久しぶり! さあ、私と一緒に来て。誘くんの翼を探す旅に出ましょう!」

 

 

☆☆☆

 

 

 それから二人は、腐臭の漂う溶けた世界を巡り始めた。翼を得て、この世界から逃げ出すためだった。

 

 旅の初めに、那美は誘に言った。

 

「今まで翼を手に入れた人間はいないみたい。でも、誘くんならきっと見つけられると思う」

 

 誘は、疑問を発した。

 

「どうして? どうして那美はそう思うの?」

 

 那美は顔を赤らめて、誘の質問をはぐらかした。

 

「えーと、それは、それはね……もう! 理由なんていいじゃない!」

 

 那美はまた、こう言った。

 

「死んじゃった神様が仰っていたんだけど、人間が翼を得るには、『(ピュレーン)』が必要なんだって。それを探しましょう」

 

 ある時は、二人はチーズのように大穴が空いた大山脈を登った。またある時は、二人は空っぽになったかつての大洋を歩いた。千切れてところどころに穴が開き、粉々になってしまった大陸をも、彼らは横断した。

 

 平原を、山谷を、滅び去った市街地を、川を、海を、山脈と海溝を、二人は(ピュレーン)を求めて歩き続けた。笑いあい、はしゃぎあい、手を繋ぎながら、二人は旅を続けた。

 

 食べ物の心配はなかった。那美が手を合わせて跪き、祈りを捧げると、彼女から淡い光の粒子が発散されて、それが食べ物になった。「マナ」というんだよ、と那美から誘は教えてもらった。それは、乳と蜜の味がした。

 

 二人は仲良く食事をとった。食べるのは誘だけだったが、誘が食べているのを見ると、自分も幸せな気持ちになると那美は言った。

 

 誘は、食事の度に自分の中で何かが熱を高めるのを感じた。それが何なのか、彼には分からなかったが、不思議と嫌な気持ちではなかった。

 

 過酷な環境も、誘は気にする必要がなかった。炎熱の地でも酷寒の地でも、誘は那美の作り出す光の膜に守られていた。二人は手を繋いで、あたかも春の日差し降り注ぐ野原を散歩するかのように、旅することができた。

 

 二人は空も飛んだ。那美が翼を開くと、誘を抱きかかえ、真っすぐに空へと向かって飛び上がった。

 

 日光を受けて、白銀の双翼がキラキラと輝いた。その光景が、誘の脳裏に強い印象として焼き付けられた。

 

 天使は、誘と至極楽しそうに空を巡った。

 

「毎日がデートみたいだね、誘くん」

 

 那美の嬉しそうな言葉を聞いて、誘はまたもや激しい鼓動と共に、体内で何かの熱が強く沸き起こるのを感じた。

 

 

☆☆☆

 

 

 相変わらず、(ピュレーン)は見つからなかった。誘は、日増しに自分の体が熱くなっていくのを感じていた。那美と再び出会う前の、冷え切っていた自分では決して感じることはなかった、この熱の高まり。胸の中に潜む膨大な熱量の奔流……すべて那美のおかげだ。彼はそう思った。

 

 二人が旅を始めて一年が経った。かつてはエベレストと呼ばれ、世界最高峰と謳われていた地球の棘は、いまや九の字に変形し、醜くひび割れ、赤く染まっていた。その頂上で、誘は那美に、いつもの静かな調子で語りかけた。

 

「世界は滅んでしまったけれど、僕は那美と一緒にいられるから幸せだよ。君とは、もう二度と会えないと思っていたから……」

 

 那美は、胸を衝かれたようだった。翡翠の瞳からポロポロと涙をこぼして、那美は言った。

 

「ゆうくん……」

 

 優しく誘が笑いかけた。

 

「泣かないで、那美。僕は本当に嬉しいんだ」

 

 那美は、嗚咽混じりに答えた。

 

「ゆうくん……ありがとう、ありがとう……私、あの時死んじゃって、とっても悲しかった。さよならも言えずに誘くんとお別れしたの、つらかった。誘くんが毎日私のお墓参りに来てくれるの、つらかった……」

 

 誘は、左手で那美の手を取った。そして右手の人差し指で那美の涙を掬うと、そっと口に運んだ。那美は戸惑ったように言った。

 

「な、何をしてるの、誘くん……?」

 

 彼は言った。

 

「天使の涙は甘いんだね。人間は違う。人間の涙は、苦くて(から)い」

 

 ふっと、誘は那美に微笑みかけた。彼は言った。

 

「那美は、本当に天使になったんだね」

 

 那美は、涙を拭った。そして、人間だった頃と少しも変わらない不敵な笑みを浮かべると、彼女は胸を張って言った。

 

「そうよ! 私は天使。神様の意志を伝え、人間を導くものなんだから! だから、誘くんには絶対に翼を手に入れてもらわなきゃ!」

 

 元気になった那美を見て、誘は心から笑った。しかしその時ふと、彼の琥珀色の瞳に那美の光の輪が映り込んだ。それは出会った時と同じく、黄金の霊妙な輝きを放っていたが、彼にはなぜかそれが以前よりも弱々しく感じられた。

 

 誘の視線に気づいた那美が、心配そうな表情を浮かべた。

 

「どうしたの?」

 

 ふっと湧いた不吉な予感を打ち切るように、誘は首を左右に振った。

 

「何でもないよ。さあ、行こうか」

 

 

☆☆☆

 

 

 だがそれ以降、那美は目に見えて調子が悪くなっていった。原因は分からなかった。いや、那美だけはそれが分かっているようだった。それでも、那美は誘にそれを教えなかった。誘もあえて詮索することはしなかった。なんとなく、彼はそれについて推測できてしまったからだった。

 

 那美は、天使の力を使い過ぎてしまったのだと、彼は思った。

 

 那美は歩くのが遅くなり、重いものが持てなくなった。那美は頻繁に息切れした。彼女は目眩もするようだった。

 

 ある日、いつもどおり食事を出そうとした那美は、ついに倒れてしまった。誘は那美を抱き抱え、しきりに声をかけた。

 

「那美!? 那美!? しっかりするんだ!!」

 

 しばらくすると、那美は目を覚ました。彼女ははっきりとしない口調で言った。

 

「……ゆうくん?……誘くん? ああ、私、倒れて……」

 

 那美はもう、飛べなくなった。那美はもう、誘を守って歩くこともできなくなった。咲き誇っていた花が一晩で萎んで枯れてしまうように、那美の力は急速に喪われていくようだった。

 

 誘は、那美を背負うことが多くなった。那美はよく泣くようになった。誘の背中に、那美の涙が幾度も染み込むようになった。

 

 那美は泣きながら、何度も同じことを言った。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……私、誘くんを守るはずなのに……」

 

 誘はそのたびに同じ答えをした。

 

「何も謝らなくて良い。那美、今度は僕が君を支えるから。今度は僕が、君を守るから」

 

 希望は、(ピュレーン)だった。しかし、それは手がかりすらなかった。あてどもなく、二人は彷徨い続けた。

 

 その間にも、世界は加速度的に崩壊を早めていた。他の天使たちはいつしか姿を消していた。他の人間たちもどこにも見えなかった。天から降り注ぐ赤い体液はますます量を増やしていた。大地は音を立てて崩壊を続け、日に日に小さくなっていった。

 

 結局、(ピュレーン)は見つからなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 今、二人は抱き合っていた。世界の果ての、最後に残ったこの浮島で、互いに溶け合って一つになろうとするかのように、二人は抱き合っていた。

 

 見つめ合う二人の瞳は潤んでいた。朝露に濡れた(あし)のように潤んでいた。どちらともなく、囁くように告白した。

 

「愛してる、那美」

「愛してる、誘くん」

 

 出会った時からずっと分かっていたことだった。この時までずっと言えなかったことだった。世界が消滅するこの瞬間まで、ついに伝えられなかった思いだった。

 

 那美が、儚げに微笑んだ。

 

「えへへ……嬉しい……これからもずっと一緒だよ……」

 

 その時、音を立てて、浮島の縦横に漆黒の亀裂が走った。

 

 那美が言った。

 

「ねぇ、キスして」

 

 言い終わるや否や、二人は唇を重ね合っていた。那美の唇からは、濃厚な死の味がした。自分の唇も、きっと似たような味がするだろう。誘はそう思った。

 

 その時、誘の体内はかつてないほど燃え滾っていた。那美のぬくもりを感じたからだろうか? それとも、那美と初めて口づけを交わし合ったからだろうか? だがそんなことは、彼にとってはもはやどうでも良かった。

 

 息を止めて、二人は互いの感触を交換しあった。那美は白い顔を薄く紅色に染めた。彼女は満足げな表情を浮かべて、唇を離した。

 

 那美は誘の顔を見つめた。すると、彼の背後に何か信じられないものを見出したようだった。息を呑んで、那美は言った。

 

「誘くん! 誘くんの背中に……!」

 

 誘もまた、驚いていた。那美と唇を重ねている間、彼は旅を始めてから今までの間、自身の胸の中を熱く焦がし続けていた熱の塊が、急に放散していくのを感じていた。その熱は背面へと走り、何らかの複雑な紋様を刻んだあと、嘘のように消えた。

 

 誘に小さな翼が生えていた。彼は身体を(ひね)った。自身の背中を見て彼は言った。

 

「那美、これはいったい……?」

 

 那美は歓喜の声を上げた。嬉し涙が瞳に溢れていた。

 

「誘くん、やったよ! 誘くんは翼を手に入れたんだよ!」

 

 誘は言った。

 

「そうか、なら、(ピュレーン)というのは……」

 

 誘は、ここに至ってそれが何だったのかを理解した。たぶん、(ピュレーン)は、あの熱の塊だったのだろう。旅の間ずっと那美から与えられ続け、そして今また与えられた彼女のぬくもりによって熱の塊は膨らみ続けた。

 

 最初から、自分は(ピュレーン)を持っていたのだ。誘はそう思った。だが、それは育てられなければならなかった。那美と、そして自分が、それを育てたのだ……

 

 那美がほっと息をついて言った。

 

「きっと、誘くん以外の人間もみんな、核を持っていたんだね。ただ、どれも小さすぎた。しかも、みんなそれの育て方を知らなかった。だけど、私たちはそれを育てることができた。だから、翼が生えたんだね」

 

 だが、喜びに浸っている時間はなかった。浮島の亀裂はますます広がっていた。しかも、その四隅も、暗黒の空間に充満するエネルギーの奔流に削り取られていた。

 

 それでも、那美は少しも慌てた様子もなく、誘に優しい口調で促した。

 

「誘くん、イメージして。大きな翼を得た自分の姿を。美しく自由に空を飛ぶ鳥たちの姿を。大丈夫、誘くんならできるよ」

 

 言われるがまま、誘は背中の新しい感覚に意識を集中させた。だが、彼が思い浮かべたのは、自分のイメージでも、鳥たちのイメージでもなかった。

 

 これまでの旅の間に見てきた那美の美しい羽ばたき……最愛の人が、自由に羽ばたく姿……彼はただそのことだけを想った。

 

 鍵が合わさるように、誘の頭の中でイメージが合致した。その時、彼の背中から音がした。それはハープの妙なる調べのような、聴く者を魅了する音色だった。

 

 その音と共に、誘の背中から、巨大な黄金の翼が左右に力強く広がった。

 

「やった!」

 

 誘と那美は喜びに声を弾ませた。

 

 だが次の瞬間、誘は体の芯から力を失って地面に倒れた。

 

 那美が叫んだ。

 

「誘くん、大丈夫!?」

 

 誘は、あまり困ったような素振りも見せずに言った。

 

「那美、力が入らないんだ。指一本動かせない」

 

 那美は悲痛な声を上げた。

 

「そんな!?」

 

 翼が顕現したことで、誘に残されていた最後の力が消えてしまったのだった。もう羽ばたくことも飛び立つこともできないだろう。誘はそう直感していた。

 

 次第に、誘の視界は闇に閉ざされていった。彼は声も出せなかった。それでも、彼は絶望しなかった。那美と一緒にここまで送ってきた旅、その目的をやっと果たすことができた。そのことに彼は満足していた。

 

 それに、那美がいてくれるから。だから自分は絶望なんてしない。誘はそっと目を閉じた。

 

「誘くん」

 

 いつの間にか、那美が目の前にいた。目は見えないはずなのに、彼女がそこにいるのが誘には分かった。那美の顔は、今まで見たことのないほどの慈愛に満ちた、優しい表情をしていた。

 

 那美は言った。

 

「誘くん。さよならなんて言わないわ。私達、これからもずっと一緒よ」

 

 彼女は手を合わせると目を瞑って、祈るように言った。

 

「誘くんに、私のすべてを捧げます」

 

 那美の体が、淡い光を放った。白い粒子が彼女から流れ出て、誘の体へと注ぎ込まれていった。彼女の体は見る間に透き通って、やがて消えていった。彼女はずっと笑みを浮かべていた。

 

 横たわる誘にそっと寄り添って、那美は口づけをした。

 

「さよならじゃないわ。ずっと一緒よ……」

 

 直後、浮島は完全に崩壊した。

 

 

☆☆☆

 

 

 気づいた時には、誘はただ一人だった。彼はただ一人、暗黒の空間に浮かんでいた。

 

 彼の身には、エネルギーが充溢していた。それは清らかで力強い、那美のぬくもりを感じさせるエネルギーだった。

 

 これなら、どこへでも行けそうだ。誘は頷いた。

 

 誘は、黄金の翼を羽ばたかせた。撒き散らされる光の粒子が、きらきらと輝きながら彼を追った。彼はさらに翼を羽ばたかせた。さらに速度を増して、彼は暗黒の世界を飛んでいった。

 

 ふと、那美の声が聞こえた。

 

「……大好き、ゆうくん……ずっと一緒だよ……」

 

 ああ、そうだ。さよならなんて言うものか。那美、もう絶対に君を手放しはしない。さよならなんて言わない。だって今、那美と一緒にいることが、こんなにもはっきりと分かるのだから……

 

 誘は、笑顔を浮かべた。彼は暗黒の世界のその果てへ、永久に、果てしなく、大きな黄金の翼を羽ばたかせて飛んでいった。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「さよならは翼ある言葉」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第84回「さよならの理由」に応募した作品です。2018年9月18日公開。

 ほいれんで・くーが人生で初めて執筆したオリジナル作品、しかも恋愛ものです。いかがだったでしょうか?

 お題が「さよならの理由」ということだったので、「よし、最後はどんでん返し的に「さよならを拒絶する」というところへ持っていこう!」と目論んだわけですが、結果としては、
1.オリジナルを書くのが初めてということに由来するミスの数々
2.文量の配分が分からない
3.恋愛描写がうまく行かない
など、最終的には「習作」のような形になってしまいました。当然入賞はなし。

 今回ハーメルンにアップするにあたり、大幅に(7600字→10600字)へと加筆しました。書き直していて、「ああここはダメだな」とか、「ここは付け足すべきだったな」とか、いろいろと反省になりました。完成度はぐんと上がったように思います。

 次回もどうぞお楽しみに。

※加筆修正しました。(2023/06/25/日)
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