ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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40. 眠っていたのかね、ジョン

 ジョンは気の毒な男だった。

 

 気の毒だというのは、ジョンの境遇に関してではなかった。彼の具体的なことは、その外見以外、その時の私はまだ何も知らなかった。彼は見るからに気の毒であり、また見るからに気の毒であるから、おそらくその出自や境遇も気の毒そのものであろうと私は推測したに過ぎなかった。そしてそれはおおかた正しかった。無論、それは後になって知ったのだった。

 

 ジョンの乱雑に伸びた黒い髪の毛は皮脂(ひし)で汚れていて、ところどころに茶色の埃と小さく千切れたふけが付着していた。健康な時ならばおそらくは端整といっても差し支えないであろうその顔は、あたかも冬の街頭のスズメのようにやつれていた。もちろん顔色は悪く、ぼんやりとした光を浮かべている目の端には乾燥して固くなった目脂(めやに)がこびりついていた。

 

 骨格はさほど悪くないが脂肪と筋肉に乏しい体つきだった。それは彼の着ているものの上からでもよく分かった。なんということもない、着古した黒のスーツの上下は擦り切れていて、そのうえ日焼けして薄紫に退色していた。白いシャツの襟は黄色かった。その黄色ゆえにシャツのもともとの色が白であるということが分かるほどにシャツは汚れていた。

 

 ジョンの履いている靴はなんの変哲もない革靴だった。靴は破れていた。左足の靴が破れていた。つま先に亀裂が走っており、そこから黒い靴下が覗いていた。靴下もまた破れていた。靴下の下から足指が覗いていた。足指の爪は割れていて、血が乾燥したような黒色に染まっていた。

 

「まず、服をどうにかした方が良いのではないだろうか?」

 

 そのように、私は彼に向かって言った。私はさらに言った。

 

「君の内面について私はまだよく分かっていないが、君の外面に関しては、私のごくつまらない常識的な感性に照らしても、少なくとも万人に受け入れられるものとは思えないのだが」

 

 私の言葉に、ジョンは無言で、至極大儀そうに首を左右に振った。それはまるで老人のような仕草だった。実際、彼は老人なのかもしれなかった。ただし、彼が若者であるという可能性は依然残されていたし、彼が若者でもなければ老人でもないという可能性も残されていた。だが、それは私にとって特に深い意味のないことだった。彼がひどく疲労していることだけは確かだった。

 

 もっと会話を重ねる必要があると私は思った。あるいは、会話はまったく必要ではないのかもしれなかった。ただこれから起こる出来事だけが彼について語るという可能性もあった。

 

 老人のようにしわがれた声で、ジョンは私に言った。

 

「お申し出は大変ありがたいのですが、それでは、いったいどうやってあなたは私の服を新しくしようというのですか?」

 

 ジョンの口調は丁寧で、そこはかとなく教養が感じられた。その、そこはかとなくという感じが彼の精神の形と内容を物語っていた。

 

 私は改めてジョンを見た。彼は丁寧な口調で私に話しかけてくる。それゆえ、私も彼に対してはできるだけ礼を失することがないようにしたかった。だが、私は彼を見つめる自分の視線が、どうしてもどこか不躾なものになるのを感じざるを得なかった。手足を失ったり、正気を失ったりした人々を見る時と同じ視線だった。私は落ち着かない気分だった。

 

 たしかに、ジョンの服を新しくするのは、すぐにできそうな話ではなかった。

 

 ジョンは非常に小さかった。

 

 その皮脂で汚れた頭の先から破れた靴の先まで、彼はだいたい私の手くらいの大きさしかなかった。学生の頃に球技に明け暮れただけあって、私の手はよく鍛えられていて標準よりも大きく育ったが、それと比較しても彼はごく小さいと言って問題はなかった。こんなに小さな彼の服を新しく調達するのは、難しいとはいえないにしても、多少の工夫は要求されるものと思われた。

 

 目を伏せて、少しだけ私は考えた。考えて、私はまたジョンを見た。彼は狭く丸いコーヒーテーブルの片隅に腰を下ろしていた。その小さな手でクロスの刺繍を撫でつつ、彼はどこか遠くを見ていた。

 

 私は彼に言った。

 

「普通の服飾店ならば難しいかもしれないが、それならば人形師にでも頼めば良いのではないかな。人形師ならば君にぴったりの服を用意してくれるだろう。人形師とはそういうものであるから」

 

 ジョンは言った。

 

「誰か、人形師のお知り合いがおられるのですか?」

 

「いない、今のところは」と私は答えた。

 

 彼は言った。

 

「『今のところは』というのは?」

 

 私は言った。

 

「君の服を新しく誂えることを通じて、新たに人形師の知り合いが増えるかもしれないから、今は『今のところは』と言うしかない」

 

 それは私なりにおかしみを込めた返答のつもりだった。それでも、彼は何も反応を示さなかった。

 

 窓の外はよく晴れていた。ちょうど初夏だった。窓からかすかに風が入ってきた。この都市(シティ)の大気はいつでも生臭く、何かしらの熱と毒を含んでいるものであったが、その日その時の風は意外なまでに爽やかだった。遠くから微かに、自動車の行きかう大通りの喧騒が聞こえてきた。

 

 向かいの建物ごしに、空へと高く伸びたプラタナスの梢の先が見えた。葉の緑は鮮やかに生命力を示していた。すぐ目の前にジョンがいるのに、私は心の中で彼の顔色を思い出そうとしていた。あまりにも対照的で非現実的な緑が、彼の顔と重なった。常緑のプラタナスは誕生と終焉の両極を内包していた。

 

「それに、私としては、このままの服装でまったく構わないのです」

 

 出し抜けにジョンが口を開いた。彼はさらに言った。

 

「あなたが嫌だと思わなければ、という話にはなりますが」

 

 私は彼に言った。

 

「君はその服を気に入っているのかね?」

 

 彼は私を見て頷いた。頷きつつ、彼は言った。

 

「気に入っていますし、そもそもこれ以外の服を新しく着ることはできないとも思うのです」

 

 私は彼に言った。

 

「そういうものなのかな」

 

 彼はまた頷いた。

 

「そういうものでしょう、きっと」

 

 本人がそう言うのならば致し方あるまいと、私は諦めた。

 

 ジョンは立ち上がると、狭く丸いコーヒーテーブルの上を歩き回り始めた。とぼとぼとした足取りだったが、それでも彼は正確な円を描いて歩いた。時計回りだった。周回を重ねるたびに、円はだんだん大きくなっていった。ついに彼はコーヒーテーブルの端ぎりぎりを歩き始めた。破れた靴が滑稽な音を小さく立てていた。

 

 私はそれをただ見ていた。下には厚い絨毯が敷かれているから、万が一彼が落下したとしてもおそらくは無事であろうが、彼のその気の毒な外見からすると、もしかすると彼は落下という事実そのものに耐えきれないかもしれないと私には思われた。耐えきれなかった彼がその後どうなるのかは分からないが、それが愉快な結果を生むとはあまり思えなかった。それでも私は彼に注意を促すことができなかった。私はただ、彼を見ていた。

 

 結局、ジョンは落ちなかった。彼は丸いコーヒーテーブルの九時のところに立ち止まると、下を覗き込み、そしてまた顔をあげ、今度はテーブルの中心へと歩みを進め、立ち止まり、背筋を伸ばして私を見た。そのぼんやりとした目の光に私は慣れつつあった。私はどこかでそれを見たことがあるような気がし始めていた。

 

 ジョンは私に視線を注ぎつつ言った。

 

「そう、私の服のことはどうでも良いのです。私にはどうすることもできないのですから」

 

 声は先ほどよりも幾分か若返ったようだった。彼はさらに言った。

 

「もっと申し上げるのならば、私の食事に関してもそれはどうでも良いのです。服同様、私にはどうすることもできません」

 

「よく分からないな」と私は言った。私はさらに尋ねた。

 

「それは、君には食欲がないということかね? そうではなく、そもそも君には食事が必要ではないということかね?」

 

 ジョンは少しだけ頭を傾けた。考えているようだった。やがて、彼は答えた。

 

「たぶん、私には食事が必要ではないのでしょう。だから食欲もないのです。欲求とは、必要を満たすための行動を促す信号(シグナル)ですから。その他に関しても、おそらくは同様です」

 

 ジョンは、ここで初めて表情らしいものを浮かべた。それは申し訳ないという感情を示していた。

 

「まだ、自分で自分のことがよく分かっていないのです。まことに不本意なことですが、そう言わざるを得ません」

 

 その言葉を聞いても、私は特にジョンを得体の知れない存在だとも、怖ろしい存在だとも感じなかった。むしろ、やはりジョンは気の毒だと、私は改めて思うだけだった。

 

 時計がちょうど午前九時を示した。私は外に行かねばならなかった。仕事のためではなかった。私は毎日、その時間に外へ散歩に行くことにしていた。朝の五時に起き、軽い食事をし、五時半から九時まで仕事をした後に二時間ほど散歩をして、散歩から帰った後は十二時まで仕事を続ける。そういう午前中の過ごし方が私にとっては理想であったし、その理想を実現するために私はこれまで努力を重ねてきた。

 

 数ヶ月前に、ようやくその努力が実ったところだった。私は外に行きたかった。

 

 私のその気持ちは私自身ですら気付かないような微かな動きとなって現れたようだった。ジョンはすぐにそれに気付いた。彼は言った。

 

「外に行きたいのでしょう」

 

 私は少しだけ呆気に取られた。だが、すぐに私は答えた。

 

「そう、そのとおりだ。私は外へ行きたい。日課の散歩の時間なのでね」

 

 私はジョンを見つめた。ジョンもその小さな顔を私に向けていた。彼の眼差しは、未だにぼんやりとしていた。やはりどこかで見たことのある目だった。

 

 やっとのことで、私はその目を思い出した。それは、酒に酔った兵士たちの目と同じだった。

 

 ジョンは言った。

 

「私も一緒に外へ行きたいのですが、連れていってもらえませんか」

 

 特に理由はないが、私はなんとなく彼がそのように言い出すのではないかと事前に感じていた。私は少しだけ考えた。

 

 考えながら、私は彼に向かって言った。

 

「どうかな。あまり面白いものがあるとも思えないが」

 

 ジョンはすぐに答えた。

 

「構いません。私を外に連れていってください」

 

 その声は平坦な調子だったが、私は何か強いものをそこから感じ取った。

 

 彼はさらに言った。

 

「私は外に行かねばなりません。そして、私を見つけなければならないのです」

 

 私を見つけなければならない。その言葉を聞いて、私は思考の(きょ)()かれた気がした。

 

 そう言われてみると、ジョンは、そして私は、たしかにこれから外に出てジョンを見つけなければならなかった。きっとジョンは外にいるのだろう。それは当然のことだった。また、そのジョンは誰かによって見つけられなければならないジョンでもあった。それもまた当然のことであった。

 

 私はしばらく考えるふりをした後に、鷹揚に頷いた。仮に彼が何も言い出さなかったとしても、その場合には私は自分の意志で彼を外へ連れ出していただろうと、その時の私は思うようになっていた。彼はどうしても見つけられなければならなかった。

 

 私はジョンに言った。

 

「手伝っても良いかね」

 

 ジョンは答えた。

 

「そうしていただければ幸いです」

 

 私はハンガーに掛けられていた上着を身に纏うと、ジョンに向かって右手を差し伸べた。彼はコーヒーテーブルから私の手のひらの上へと飛び移った。予想もしなかったような俊敏さだった。彼の破れた革靴は汚れたコインのような感触だった。同時に、私は意外な重みを感じた。

 

 もしかすると、本当に彼は生きているのかもしれない。不思議なことに、私はその時そんなことを思った。それはつまり、私が彼について今まで生きていないのかもしれないとどこかで思っていたということを示していた。

 

 私は慎重な手つきで、ジョンを上着の左胸の胸ポケットに入れた。思った通り、ポケットは彼にとってちょうど良いサイズだった。彼は何も言わなかった。ポケットに入ると彼は両足で立ち、あたかも子どもが見晴らしの良い丘の上で低い柵の横木に掴まるように、その両手でポケットの縁を掴んだ。彼は満足したように、誰に向けるともなく頷いた。

 

「いったいどこにいるのかな、君は」と私は言った。

 

 ジョンは言った。

 

「どこに、とはっきり言うことはできません。しかし、確実にいるでしょう。私が今、ここにいるように」

 

 私は言った。

 

「いつもの散歩の道を歩けば、きっと見つかるのではないかな。どうも私には、そのように思われてならないのだが」

 

 彼は軽く頷いた。

 

「そうかもしれません。行けば分かることでしょう」

 

 その部屋を出ると、私はエントランスで帽子を手に取り、頭に被り、ステッキを手に取った。ドアを開いて自宅から廊下へ出ると、私はその狭く暗い空間をゆっくりと歩いて、階段へと向かった。

 

 私もジョンも無言だった。ジョンは身動きひとつしなかった。胸ポケットは彼の重さで少したわんでいた。跡が残るかもしれないと、一瞬だけ私は思った。それはアイロンをかければ消えてしまうような小さな跡であろうが、私はそれを消したくなかった。

 

 廊下が終わって、私は階段に辿り着いた。雨粒の走った跡が無数に残る正方形の天窓から、薄い日光が階段に降り注いでいた。黄色い光の中で白い埃が細かく踊っていた。真鍮の手すりはところどころが剝げていて、汗染みのように緑青(ろくしょう)が浮かんでいた。

 

 私は、私の住居と、住居があるこの建物を概ね気に入っていたが、ただひとつだけ、この階段だけはあまり好きではなかった。いや、この階段だけではなく、この世のすべての階段が私は嫌いだった。数年前まではそうではなかった。

 

 私は手すりを掴んだ。それは死体のように冷たく、固かった。私はそれを掴まなければ階段を下りることができなかった。ステッキもまた、今の私にとっては必要なものだった。私はゆっくりとした足取りで階段を下り始めた。

 

 ちょうどその時、下から、誰かが階段を上がってきた。毛糸の帽子を被った頭が見えた。それは私の上の階に住んでいる老人だった。

 

 老人は私に気が付いた。老人は顔をあげて私に微笑んだ。私は帽子を取って彼に会釈をした。彼が良い人であることを私は知っていた。彼は貧しいが品位があり、人生を丁寧に生きていた。

 

 老人は私に「おはようございます、大尉殿」と言った。

 

 私も老人に「おはようございます」と言った。

 

 この時間帯に老人がこの階段にいるというのは珍しいことだった。

 

 私は下り、老人は上り、そして階段の踊り場で向かい合った。老人は私の横を通り抜けようとした。訊くべきことではなく、むしろ訊かない方が良いことであるとは分かっていたが、私は老人に訊いた。

 

「どこかへお出かけだったのですか」

 

 老人は動きを止めた。彼は相変わらず微笑みながら私に答えた。

 

「ええ、通りにある駄菓子屋へ行ってきたところです」

 

 たしかに、彼の手には駄菓子屋の紙袋があった。薄褐色の紙袋には、赤とピンクのストライプ模様のリボンのマークが印刷されていた。リボンには店名が書かれていた。

 

 老人はさらに言った。

 

「駄菓子など買うのはもう何十年ぶりでしょうか。最後に行ったのはいつであるのか、それすら覚えていません。当然、最後に買って食べた菓子も覚えていません。甘草の飴が好きだったような記憶はありますが」

 

 私は言った。

 

「良いものが買えましたか」

 

 老人はにこやかな顔で答えた。

 

「ええ。何十年も経つのに、駄菓子屋はまったく変わっていませんね。店の中に時間が閉じ込められたみたいでした」

 

 そこまで言ってから、老人は私の胸ポケットにいるジョンに気付いたようだった。少しだけ、彼の真っ白な太い眉の下にある目が見開かれた。だが、すぐに老人は言った。

 

「そのポケットの中の方は、ジョンですね?」

 

「ええ、ジョンです」と私は答えた。今のところ、そうとしか私には言いようがなかった。それ以上のことを訊かれた場合どのように答えれば良いのか、内心で私は考えていた。

 

 ジョンは何も言わなかった。彼はただ老人を見つめていた。

 

 老人もまたジョンを見ていた。埃が光の中で円のように舞い、ややその高度を落とした時に、老人はまた口を開いた。

 

「実は、私が今こうして駄菓子屋に行ってきたのも、ジョンのためでしてね」

 

 ほら、と言って、老人はその身に纏っている短外套の右ポケットへ手を入れた。老人が手を出して、開くと、そこには小さな人影があった。

 

 それは小さな少年だった。六歳くらいの少年で、半袖の青いシャツに黒のサスペンダー、黒い半ズボンを身につけていた。清潔だった。短い黒い髪の毛が黄色い薄い光の中で艶やかに輝いていた。暗いところからいきなり明るい場所へ引きずり出されたためか、少年は驚いたような顔をしていた。少年は何度か、手で目を擦った。その顔立ちに私は見覚えがあった。

 

「ジョン」と老人はその手の上にいる少年に呼びかけた。

 

「眠っていたのかい、ジョン」

 

 老人の声には優しさが滲んでいた。

 

 少年は答えた。

 

「ううん、眠ってないよ」

 

 少しだけ間を置いてから少年は続けた。

 

「ただ、目を閉じていただけ」

 

 老人は言った。

 

「はやく帰って、一緒にお菓子を食べよう。さっきお店で一緒に選んだお菓子を。あの店のチョコレート・ファッジはおいしいよ。お前を見つけることはできなかったが、お菓子を食べればきっとそんなことは忘れてしまう」

 

「うん」 曖昧な返事をしつつ、少年は何回か、はっきりとしない仕草で頷いた。

 

 頷きつつ、少年は私たちを見ていた。少年は私の胸ポケットにいるジョンを見ていた。その目はどこか怯えていた。単なる怯えとも言えないような、そういう異質な怯え方だった。そのように私には感じられた。そして私は、その怯え方をどこかで見たことがあった。

 

「それでは、失礼します」と言って、老人と小さな少年はさらに階段を上っていった。

 

 私とポケットのジョンは、彼らが階段を上りきるまでその場を動かなかった。やがて彼らが三階に達し、部屋へと帰っていく気配が伝わってくると、私は踊り場から一階へ向けて階段を下り始めた。

 

 私は小声でジョンに言った。

 

「あれは、ジョンだったね」

 

 ジョンは答えた。

 

「ええ、確かに私でした。小さな頃の私、おそらく学校に入った頃の私でした」

 

 私は言った。

 

「あれは、君と私がこれから探すべき君だったのかな」

 

 ジョンは答えた。

 

「いいえ、違います」

 

 その声音からはどこか釈然としない様子が感じられた。だが、彼がどういう点において釈然としていないのか、そこまでは分からなかった。

 

 ジョンは言った。

 

「あの小さなジョンは私のことを、自分そのものだと思わなかったようです。私は彼のことを間違いなく私だと感じましたが、同時に、彼の方は私のことを見たことのない他者であると感じているということを、私は感じました。きっと、まだ彼が幼いからでしょう。あるいは、私が彼の未来の姿であるからかもしれません」

 

 私はさらに声を低くして言った。

 

「君に怯えているようだった。私にはそう見えた」

 

 ジョンは答えた。

 

「いいえ、彼は怯えていましたが、私に対して怯えていたのではありません。私はいつも怯えていました。しかしそれは人に対してだけではなく、言ってみればこの世のすべてのことに怯えていたのです。それに、ひょっとすると、今でもそうかもしれません」

 

 階段を下りると、私はチョコレートのようなドアを開けて外に出た。弱いながらも力を持った陽光が私の網膜を焼いた。だが、すぐに慣れた。背の高い建物に囲まれた長方形の空には、灰色の雲が千切れつつ浮かんでいた。空気は、滅多にないことだが、心地良く澄んでいた。

 

 私は中庭を歩き始めた。この時間帯の中庭は暗かった。ステッキで四角い敷石をひとつずつ突きながら、私は中庭を進んでいった。

 

 この後、ちゃんとジョンは見つかるのだろうか。そんなことを私は思った。

 

 紫のアザレアの花が咲いていた。クリーム色の陶器の(はち)が、通路に沿って設けられた棚に整然と並べられ、花の小路を作っていた。花は漏斗(ろうと)型で、薄紫(うすむらさき)の色の中に白い斑点が浮かんでいた。

 

 一匹のアブが、花から花へと飛んで蜜を集めていた。アブはせわしなかったが、満足しているようにも見えた。私の歩みはゆっくりとしたものだった。

 

 なんとはなしに、私はジョンに言った。

 

「あのくらいの年齢の頃の君は、どういう生活を送っていたのだね。六歳の頃の君は」

 

 そういう問いを発している最中にも、私は半ばそれを後悔していた。訊くべきではなかったのかもしれないと私は思った。

 

 それでも、ジョンは答えた。

 

「ただ周囲によって生かされているだけの少年に、生活などというものはありません。生活とは、自力で生きることのできる大人に固有の現象ではないでしょうか」

 

 その返答は私にとってありがたいものだった。私は言った。

 

「では、君はどのように生かされていたのだね」

 

 彼は私の問いに対して、ポケットの縁を握る力をやや強めた。それが微かながらも私に伝わってきた。

 

 ジョンは言った。

 

「私は六歳の頃にブリストルのウェストン=スーパー=メアにある、聖ピーター校に入学しました。それから十三歳の頃にダービーシャーのレプトン校に移るまで、その学校で初等教育を受けました」

 

 聖ピーター校について、私はその名前すら知らなかったが、レプトン校についてはよく知っていた。私の叔父の一人がそこの出身だった。

 

 私は言った。

 

「ご両親は君にしっかりとした教育を受けさせたのだね」

 

 ジョンは何も答えなかった。ジョンは無言で中庭を眺めていた。

 

 突然、アブが私の耳元を掠めて飛んでいった。その羽音は飛行機の爆音と似ていた。一瞬だけ、私の頭の中は空白になった。だが、数瞬が過ぎると、私は自分がまだアザレアの小路の中ほどにいることを認識した。

 

 私は少しだけ立ち止まり、そしてまた歩き始めた。ステッキの先が石畳を突く音だけが聞こえた。

 

 ややあって、ジョンは言った。

 

「おっしゃるとおり、父と母は私に教育を受けさせました。両親は私を全寮制の学校に入れました。それが最善だと信じていたのでしょう」

 

 そして彼は、どこか疲労感を滲ませた声で言った。

 

「もっとも、当時の私は、別のように思いましたが」

 

 私はなるべく普段の声音となるように、彼に言った。

 

「どう思っていたのだね」

 

 彼はすぐに答えた。

 

「追い払われたのだと思いました。家を追い出されたのだと」

 

 私は言った。

 

「どうしてそう思ったのだね」

 

 彼は言った。

 

「そのように考えるのが、私にとって一番都合が良かったからです」

 

 それは奇妙とまではいえないにしても、やはり変わった返答だった。私は彼の言葉の意味を考えていた。

 

 いつしかアザレアは尽きた。

 

 私の目の前にはパイプと板で出来た金属製のゲートがあった。ゲートは長い間の風雨に晒されて塗装が剥げていた。濃緑色のペンキの下には赤い錆の層があった。どうやらこれまで何度も塗料が上塗りされてきたようだった。

 

 私は重いゲートを開けながら、胸ポケットにいるジョンに言った。

 

「話を聞く限り、君はけっこう早熟だったようだが」

 

 ジョンは言った。

 

「早熟とは、どういうことでしょうか」

 

 ゲートはいつもどおり気分の悪くなる音を立てて開いた。このゲートはこれまで何人の人間の気分を悪くさせてきたのだろうと、そんなことを心の片隅で考えながら、私は言った。

 

「『そのように考えるのが、一番都合が良かった』と君は言った。しかし自分自身にとって最も都合の良い説明を生み出し、それを受け入れるというのは、その知的能力が早期に発達していることを示すのではないかな」

 

 ジョンは明瞭な声で答えた。

 

「いえ、やはり私は年齢相応でした。他の子どもたちと何ら変わるところはなかったと思います。早熟ではなく、単に感じやすかっただけでしょう」

 

 ゲートの先も、中庭の小路と同じく狭い路地が続いていた。正面には城塞のようなアパートメントが(そび)え立っていた。数年前の猛爆撃にもまったく被害を受けなかった建物だった。窓が数学的に並んでいた。どの窓にも厚いカーテンがかかっており、外から室内を見ることはできなかった。

 

 路地はさらに暗く、そしてなにもなかった。石畳の間には煙草の吸殻(すいがら)が挟まっていた。一定の間隔で置かれている金属製の四角いゴミ箱だけが、(にぶ)い銀色をモノトーンの空間に放散していた。ゴミの臭いはしなかった。

 

 私はステッキを突きながら、路地を右方向へと進んでいった。私の歩みはゆっくりとしたものだった。そのようにしか私は歩くことができなかった。

 

 ふと心に浮かんだことを、私はジョンに言った。

 

「他にもジョンがいると、君は思うかね」

 

 私はさらに言った。

 

「あの小さなジョン以外のジョン、少年ではない、しかし君であることには変わりのないジョンが、他にもいると思うかね。君と私が見つけるべき君以外の君たちが、他にもいるのではないかな」

 

 問いかけに対して、ジョンはしばらく何も答えなかった。

 

 どこか空の遠くから、航空機のエンジン音が聞こえてきた。

 

 路地裏の中ほどまで来た頃になって、彼はまた口を開いた。

 

「ええ、いると思います」

 

 私は頷いた。

 

「私も、まだ他に君がいると思う」

 

 彼は言った。

 

「すぐに私たちは、また別の私に会うことになるでしょう」

 

 私もそう思った。「そうかもしれない」と私が言うと、ジョンは「ええ、そのはずです」と言った。私たちはまた黙った。路地裏はまだ終わらなかった。

 

「見分けることができるだろうか、本当の君を」と私は口を開いた。私はあまり自信がなかった。

 

 だが、ジョンは言った。

 

「きっと大丈夫でしょう。その時が来ればすべてが明らかになるはずです」

 

 建物の壁にポスターが貼ってあった。ポスターは古かった。驚いたことに、それはどうやら戦時中に貼られたものであるようだった。ポスターはどこかの教会が貼ったものだった。

 

「『深みに()りいだし、網を()ろして(すなど)れ』」

 

 前から誰かがやってきた。それは女の子だった。

 

 私はその女の子のことを知っていたし、彼女も私のことを知っていた。彼女は、私の隣のアパートメントに住んでいた。

 

 女の子は元気で、好奇心が旺盛で、そしてこれくらいの年齢の女の子によく見られるように、愛情豊かだった。女の子は急いでいるようだった。何かを胸の前で抱えつつ、その真っ白な長い靴下とピンク色の靴を履いた足を懸命に動かしていた。

 

 それでも、女の子は私に気が付くと、足を止めて立ち止まった。呼吸を整えた後、女の子ははにかんだような顔をして私に言った。

 

「こんにちは、大尉さん」

 

 私も帽子をとって、女の子に「こんにちは、お嬢さん」と挨拶をした。

 

 その時になって、私はようやく女の子が抱えていたものの正体を見てとることができた。それは全身が包帯に巻かれた小さな人間だった。どうやら子どもであるようだった。頭には何重にも包帯が巻かれていた。左腕は骨折しているようで、三角巾と添え木で固定されていた。

 

 ジョンだな、と私はその瞬間確信していた。何歳のジョンであるかは分からないが、それは間違いなくジョンだった。私は、もしかしたらそんな姿のジョンにも会うのかもしれないと先ほどから思っていた。私はそっと、胸ポケットにいるジョンにも目を走らせた。ジョンもまた、その包帯に巻かれた小さなジョンに視線を注いでいた。

 

 包帯姿のジョンはそれまで目を閉じていたが、かすかに呻き声をあげて目を開いた。それは怯えた目ではなかった。不思議なことに、どこか生気に満ちた目だった。

 

 女の子はジョンに言った。

 

「眠っていたの、ジョン?」

 

 ジョンは答えた。

 

「いいや」

 

 彼はまた言った。

 

「眠っていないよ。ただ、目を閉じていただけ」

 

「大尉さん」と女の子は弱々しく声を発した。

 

 女の子は困った顔をしていた。彼女は困りきっているようだった。彼女は言った。

 

「ジョンが怪我をしていて、弱っているの。なんとかしてあげたくて、あたし、近くの獣医さんのところに行ってきたんだけど、獣医さんは『これは診てあげられない』と言って……」

 

 女の子の目に、徐々に涙が浮かんできた。涙の粒にはジョンの包帯の白色が映っていた。

 

「大尉さん、あたし、どうしたらいいかしら」

 

 小さな生き物の治療はすべて獣医の仕事であると、この小さな女の子は考えたようだった。それは筋が通った思考だった。私は包帯のジョンを見た。女の子の小さな手の中で、彼はぐったりとして横たわっていた。

 

 それを見れば見るほど、私が過去に見たある光景を彷彿とさせた。あの時、あの場所でも、多くの包帯に巻かれたジョンたちがいた。油で真っ黒になった包帯には、血が(にじ)んでいた。砂塵に塗れたジョンたちは呻いていた。軍医と衛生兵たちがその間を歩き回っていた。

 

 数秒だけ考えてから、私は強いてことさらに明るい声で言った。

 

「獣医は必要ではない。ジョンに必要なのは充分な休息と、君のお祈りだけだ。おうちに帰って、ベッドを整えて、ジョンを寝かせてあげなさい。そして手を合わせて、神様にお祈りをしなさい。そうすれば、きっとすぐにジョンは良くなるよ」

 

 私の言葉を聞いて、女の子の蒼ざめた顔はバラのような明るい色をやや取り戻した。女の子は言った。

 

「ありがとうございます、大尉さん。そのようにします」

 

 女の子はジョンに声をかけた。

 

「さあ、おうちに行くよ、ジョン」

 

 包帯姿のジョンは「うん」と答えた。女の子はそこに来た時よりもさらに足を早めて、家に向かって走り去った。

 

 たぶん、女の子はジョンに恋をしているのだろうと私は思った。

 

 私もその場を離れた。私は何も言わなかったし、私の胸のジョンも何も言わなかった。あのジョンが私たちの探しているジョンではないのは、言葉に出さずとも明らかだった。

 

 路地裏はまだ終わらなかった。私の歩みはさらにゆっくりとしたものになっていた。ステッキの先が、石畳の隙間に入った。私は力を入れて引き抜いた。引き抜くと同時に、煙草の吸殻が隙間から飛び出した。吸い口には緑の印字がしてあった。湿った黄色い煙草の葉が石畳の上にばら撒かれた。その有様は市場のスパイス売りのようだった。

 

 問われたからでもなく、ジョンが自分から口を開いた。

 

「あれはおそらく、十一歳の頃の私です」

 

 私は言った。

 

「どうやら、大変な目に遭ったようだが」

 

 ジョンは答えた。

 

「ええ、あれは十一歳の夏でした。まさに夏の真っ盛りでした。私は大変な怪我をしたのです。ですが、ご心配には及びません。私はその後、順調に回復をしましたから」

 

 このようにジョンが自発的に過去を語り始めたことを、私は嬉しく思った。私はもっと彼の話を聞きたかった。しかしそれでも、彼に先を促すべきか、それともただ黙っているべきか、私は迷っていた。その迷いを、彼は彼なりに解釈したようだった。

 

 彼はさらに話し始めた。

 

「あの夏、十一歳の夏は一段と暑く、しかし過ごしやすいものでした。父は上機嫌でした。事業が軌道に乗り始め、また新しく娘が生まれたことで、人生が充実しているのを実感していたのでしょう。滅多にないことに、その年の夏休暇で、私は両親の家に帰ることになりました。それまで休暇の時はいつも、私はグロスターにいる父の姉の家に送られていたのです」

 

 彼は話を続けた。

 

「聖ピーター校の寄宿舎からトランクを抱えて帰ってきた私を、父と母は駅まで迎えに来てくれました。父も母も笑っていました。心から笑っていました。背が伸びたと、二人は喜んでいました。ですが、私は心のどこかで怯えていました。何に怯えているのかそれすら分からないまま、ただ怯えていました」

 

 ジョンの口調は淀みがなかった。もしかすると、彼はこれまでにもこのような話をするために心の中で練習を重ねてきたのかもしれなかった。誰に語るわけでもない物語を心の中で練習する。私もそのようなことはこれまで何度もしたことがあった。それは心の中で敵を殺し、殺人を犯す練習をするのとそっくりだった。

 

 ジョンはさらに話を続けた。

 

「その夏に私の帰ったその家は、帰ったこともなければ見たこともない家でした。私が学校にいる間に、父と母は家を移していたのです。内装も調度品も、すべてフランス製の優美なものばかりでした。父と母の大きな寝室の横に、小さな部屋がしつらえてありました。父と母は私をそこに案内しました。乳母が小さなベビーベッドの傍に座っていて、編み物をしていました。父は言いました。『ジョン、お前の妹だよ』と。私はベビーベッドの中を見ました。そこには妹がいました。妹は盛んに手足を動かしていました。ふわふわとした、たっぷりとした髪の毛に、大きな目が輝いていました。妹は私に向かって盛んに笑いかけました」

 

 私は言った。

 

「さぞや、かわいい妹だっただろうね」

 

 だが、ジョンは直接私の言葉に返事をしなかった。路地裏にはまだ先があった。大通りに出るにはしばらくかかりそうだった。

 

 ややあって、ジョンはまた口を開いた。

 

「その次に、父は私を一階の車庫へと案内しました。そこには傷一つない新車がありました。フランスの大型乗用車でした。黒塗りで、折り畳み式の(ほろ)が付いていました。父は、夏の間はこれで毎日ドライブに行こうと言うのです。父は免許を取得したばかりでした」

 

 ジョンの語る物語は、幸せの情景そのものに思われた。だが、当初の淀みなさは次第に消えて、だんだん彼の語り方は陰を帯びていった。私は静かに話を聞きながらも、そのまま歩みを続けた。私の歩みはどうしてもゆっくりとしたものにしかならなかった。

 

 ジョンは言った。

 

「毎日、私たちはドライブをしました。夏休みも終わりの頃の、ある日のことでした。父はその日も私と母と、それから生まれたばかりの妹を自動車に乗せて、近くの森の道へとドライブに出かけました。母は助手席に座っていました。私は後ろの座席にいました。そこで妹を膝の上に乗せて、抱き抱えている役目でした。妹は小さく、柔らかくて、あまり泣かない子でした。どこか湿っていて、よく笑いました。私は、その頃には妹が大好きになっていました」

 

 胸ポケットの中で、ジョンが体を強張らせるのが分かった。伝染したように、私の体も思わず硬直した。しかし私は歩みを止めなかった。

 

 ジョンは言った。

 

「父は猛烈なスピードで車を走らせました。森の木々が影絵のようになって前方から後方へと流れて去っていきました。いつもは問題なく曲がっている急なカーブを曲がった、その時でした。私たちの目の前に、一台の馬車がいました。近くの農夫の馬車でした。父は急ブレーキをかけ、ハンドルを切りました。馬の(いなな)きが聞こえました」

 

 一瞬だけ間をおいて、ジョンはさらに言った。

 

「馬車に衝突しなかったのは奇跡的なことでした。しかし車は道を外れ、一本の大木に正面からぶつかりました。幌を外していたので、私たちはみんな衝撃で車外へと投げ出されました」

 

 私は言った。

 

「ひどい事故だったね」

 

 そう言いつつ、私はきっとジョンの両親も妹も死んでしまったのだろうと思った。

 

 ジョンは言った。

 

「ひどい事故でした。ですが、両親は少しばかりかすり傷を負った以外は、まったく怪我をしていませんでした。不思議なことでした。そして妹も、まったくの無事だったのです。事故の瞬間、私は妹を強く抱きしめて、体を前の方へと丸めました。私は座席から放り出され、車が衝突したのとは別の木にぶつかりましたが、妹はどこも怪我をしませんでした」

 

「それはなんとも、素晴らしい話だと思うが」と、思わず私は言ってしまった。すぐに私は言葉を継ぎ足した。「君が怪我をしたという事実を除けば、ではあるが」

 

 ジョンは言った。

 

「私は何箇所も骨折をしました。頭を強く打っていたので、三日間意識が戻りませんでした。幸いなことに、後遺症はありませんでした」

 

 私は言った。

 

「両親は、身を挺して妹を守った君に、深く感謝をしただろうね」

 

 ジョンは頷いた。

 

「ええ、父と母は私に何度も感謝の言葉を告げました。父は私のことを誇りに思うと言いました。母は私の無事を神に感謝していました。ですが……」

 

 彼はここで言葉を切った。

 

 私は、ジョンがまた話し始めるまで足を止めて待とうかと思った。だが、足は私の意図とは無関係に動き続けた。

 

 そろそろ路地裏が終わりそうだった。前方には、四角い形の光が広がっていた。その光の中には大通りがあり、無数の車が行きかっているはずだった。

 

 ジョンはなかなか話を再開しなかった。促すように、私は彼に言った。

 

「どうやら、君にとってその事故はそれで終わりではなかったようだね」

 

 ジョンは言った。

 

「先ほど申し上げたとおり私は小さな頃から、そう、聖ピーター校に入学するその前から、私は何かに怯えていました」

 

 ジョンは自分の考えをひとつひとつ確認するかのようにゆっくりと、しかし淀みなく話し続けた。

 

「怯えというものは、実体のないものです。そして、怯えをもたらすものもまた、実体のないものなのです。正体がまったく分からない、しかし確実に『そこ』にいるというようなもの、その『そこ』ということすら具体的にはどこであるか分からない、しかし確実にいる何かしらのもの、それが私の怯えの原因でした。かつての世界、古の時代に生きた人々ならば、おそらくは怯えることがなかったもの、むしろそこから無限の命を得ていたであろうもの、そういったものが、私を脅かし、私を怯えさせていたのです」

 

 そこまで話してからジョンは、話し過ぎたことを後悔するかのように言った。

 

「いえ、私は少し、自分の感じたことを言語化し過ぎてしまったようです。幼い頃に私が感じていたのは、やはり単に怯えとしか言えないものでした。そのように理解してください」

 

 私は、ジョンの言うような怯えが自分にもないか、少しだけ考えてみた。ないとは言い切れなかった。それが何であるかはっきりと言うことはできないそれ、どこにあるとはっきりと示すことができないが確実に存在しているそれ、そういったものが自分を怯えさせる。そういった経験は、確かに私にもあった。私はそれを戦地でも、そして日常生活でも経験していた。ただし、ジョンほどではなかった。

 

 ジョンは言った。

 

「ありとあらゆるものに私はその片鱗を見出し、そして怯え続けていたのです。『それ』は強大な力を持っており、私に対して何かしらの決定的な事態をもたらすはずでした。私はそのことをはっきりと知っていました。私の錯覚や思い込みではありません。知っていたからこそ、私はずっと怯えていたのです」 

 

 相槌を打つつもりで、私は口を挟んだ。

 

「君はそれを、ご両親に打ち明けたのかね」

 

 ジョンは頷いた。「ええ」

 

 私はさらに言った。「ご両親は何と言ったのだね」

 

 彼は答えた。

 

「父は、いずれそのようなものはなくなるから安心しろと言いました。母は、ただ神様にお祈りをしなさいと言いました」

 

 私は言った。

 

「君は、神に祈るかね」

 

 ジョンは頷いた。

 

「人並みには」

 

 突然、一匹の猫が建物と建物の間から飛び出してきた。私の足は止まった。それは黒い猫だった。猫は何か小さなものを口に(くわ)えていた。私は、一瞬だけそれをジョンだと思った。だが、それは違った。それは子猫だった。子猫は生きていて、何やら鳴き声を上げていた。親猫は子猫をどこか別の場所へと移そうとしているようだった。

 

 ジョンは猫を見つつ、さらに言った。

 

「私は神に祈りましたが、いつまでも怯えは消えませんでした。正体の分からない『それ』がいつ自分のところへやってくるのか、いつ『それ』が私に決定的な事態をもたらすのかは、まったく分かりませんでした。そのことが私の怯えをさらに増しました。あるいは、それが私の怯えの本質であったのかもしれませんが」

 

 親猫は道を横切ると、別の建物と建物の間へと消えた。

 

 さらにジョンは言葉を続けた。

 

「実を言うと、父と母が私を家から離して聖ピーター校に入れると言った時、私は安心していたのです。私は、父と母が私を家から追い出そうとしているのだと、そのように考えました。家から追い出される。それは幼い私にとって紛れもなく決定的な事態でした。私は、ようやく正体不明だった『それ』が、形を伴って現れたのだとその時思ったのです」

 

 私は言った。

 

「だが、そうではなかったのだろう」

 

 ジョンは頷いて答えた。

 

「私は、ついに私のもとへ訪れた決定的な事態を受け入れたつもりでした。私は覚悟をして学校に入りました。しかし奇妙なことに、学校での私は満たされていて、幸福でした。私は学業で優秀であり、教師からは褒められ、何度も優等賞を授けられました」

 

 また、猫が姿を現した。先ほどの猫と同じだった。別の子どもを運ぼうとしているようだった。私はまだそこに立っていた。同じ場所に立ち続けるのは、今の私にとってつらいことだった。それでも、私はジョンの話が一段落するまで、そこに留まることにした。大通りまではあと数メートルほどの距離だった。

 

 ジョンは言った。

 

「呆れるほどに楽しみと喜びをたっぷりと享受した後、私はまた怯え始めました。どうやら、家を追い出され学校に入れられるというのは、私にとって真なる意味で決定的な事態ではなかったらしい。そのように私は考えました。それならば、本当の、正真正銘の決定的な事態は、これからやってくるはずだ。しかし、それがいつ来るか、どんな形を伴ってやってくるか、それはまったく分かりませんでした」

 

 親猫が、また別の子猫を口に咥えて出てきた。親猫も子猫も、まったく同じ動きをしていた。私はそれを目で追った。

 

 親猫が消えた後、ジョンは言った。

 

「父の自動車が馬車に衝突する寸前、私は心の中でこの上もなく安堵をしていました。これこそが決定的な事態だと。この事故で父と母は死に、妹も死に、馬車の馭者(ぎょしゃ)は死に、馬は轢き潰され、そして、おそらくは私も死ぬはずだ。待ち望んでいた『それ』がようやく私の前に現れた。怯え続けることを余儀なくされた日々がようやく終わる。そのような感慨をうっすらと抱きました。車が木に衝突するまでの短い間に、私はうっすらとした笑みすら浮かべていたのです」

 

 親猫は戻ってこなかった。子猫は二匹だけだったのか、あるいは私たちがここに至るまでに親猫はすでに何匹かを運んでいたのか、それともまだ残っている子猫はいるが、しかし親猫はそれを見捨てたのか、私には分からなかった。

 

 ジョンは言った。

 

「しかし、結果としては、やはりそうではなかったのです。父と母は生きており、妹も無事で、私は怪我こそしましたが、問題なく回復しました。それは決定的というにはあまりにもささやかな事態でした。私に及ぼす影響力という点では、この交通事故は牛乳の缶の底にネズミの死体が沈んでいるのと、さほど変わりはありませんでした。怪我から回復した後、私はまた怯え始めました」

 

 私は言った。

 

「誰も、君の怯えには気付かなかったのかね」

 

 ジョンは答えた。

 

「誰も気付きませんでした」

 

 私はさらに言った。

 

「君は、怯えについて誰にも話さなかったのかね。あるいは、訴えなかったのかね」

 

 ジョンは答えた。

 

「誰にも話しませんでした」

 

 軽い苛立ちを覚えて、私はステッキの先で石畳を突いた。軽く突いたつもりだったが、案外大きな音が響いた。猫たちを驚かせてしまったかもしれないと思いながら、私は口を開いた。

 

「不思議な話だ。どうして君は誰にもそのことを話さなかったのかね」

 

 ジョンは答えた。

 

「話す必要を感じませんでした。ですから、私は誰にも話しませんでした」

 

 私は言った。

 

「しかし、君は苦しんでいたのではないかね」

 

 ジョンは少しだけ沈黙した。それから、まったく変わらない口調でまた言った。

 

「苦しんでいたようにも思いますが、もしかすると、まったく苦しんでいなかったのかもしれません。よく分からないのです。確かなことは、今の私が衣服や食事をまったく必要としていないように、当時の私は話す必要を感じていなかったということだけです」

 

 誰もジョンの怯えに気づかなかったなど、そのようなことがあり得るのだろうか。そのような問いを心の中で立てた途端、私は、もしかすると私たちはみんな、ジョンと同じように常に何かに怯えているのではないかと思った。

 

 同じように何かに怯えているからこそ、誰もジョンの怯えに気付かなかったのではないか?

 

「君のその怯えは、私にも分かるような気がする」と私は言った。

 

「私たちはみんな、何かに怯えているのではないだろうか。そして、それを口に出す必要を感じていない」

 

 そのように私が言うと、ジョンも口を開いた。

 

「あなたは、私の怯えを病的なものだと思いますか? 病的で、異常なものだとあなたは思いますか?」

 

 それは重要な問いであるように私には思われた。私は少し考えて、そして答えた。

 

「分からない」

 

 ジョンは私の答えに満足したように頷いた。

 

「私にも分からないのです」

 

 私は路地裏を抜けて、大通りに出た。

 

 一歩そこへ足を踏み入れたその瞬間に、突然様々な音が訪れた。音はまるでぶ厚い暗幕のように私を包んだ。音の大半は自動車が発するものだった。時折、人の声が混ざっていた。だが、それを細かく聞き分けることはできなかった。私は左へと折れて道を進んだ。

 

 大通りには途切れることなく車が走っていた。どれも違っていて、どれも似たような見た目だった。黒の乗用車、青いバス、緑の貨物車、そういった車の中に、時々黄色やオレンジ色の外国車が混ざっていた。排気管から出るガスは紫色だった。初夏の陽光がガスを幻燈のように照らしていた。路面を低く漂うそれはあたかも蛇の大群のようだった。

 

 ガスの臭いを嗅いで、私はかつての戦地を思い出した。私は歩道を歩き続けた。敷石はところどころが割れていて、補修はいっさいなされていなかった。

 

 前から歩いてくる人々の中で、私の胸ポケットにいるジョンに注意を払う者はいなかった。ほんの数人だけ、目を見開いたり、何か言おうと口を開きかけたり、自分のポケットを改めたりといった反応を見せる人たちがいた。だが、そういった人たちでも、誰も私を引き留めたり、話しかけたりしなかった。

 

 ジョンが言った。

 

「今この瞬間、私がこの大通りの至る所にいるのを感じています。今、この大通りを歩いているすべての人々の服のポケットの中に私がいるのを感じます。歩いている人のみならず、車を運転している人たちの服のポケットの中にも私がいるのを感じます」

 

 きっとそうだろうと、私もちょうど思っていたところだった。私はジョンに言った。

 

「他のジョンたちは、なぜ君のように姿を外に出さないのだろうか」

 

 彼は答えた。「きっとポケットの底で、じっと目を閉じているのでしょう。あなたのように、私の話に耳を傾ける人は、それほど多くないのです」

 

 彼はさらに言った。

 

「そう、私はいつも目を閉じていました。いつも私はそうやって、怯えの正体を見ようとしていたのです」

 

 私は言った。

 

「何か見えたかね」

 

 彼は答えた。

 

「いいえ、何も見えませんでした。私はそれを知っていて目を閉じていたのです。今も私は目を閉じたままです」

 

 大通りには店が並んでいた。服飾店のショーウィンドウのガラス窓は新しかった。よく拭かれていて、道をゆく人々を鮮明に映し出していた。

 

 私はガラスに映る自分の姿を見た。自宅の鏡で見る自分とは違って、その姿はくたびれた雰囲気の、やつれて痩せた中年の男でしかなかった。その男は見るからに足が悪そうだった。その手に持っているステッキはまるでもう一本の足であるかのようだった。その割には、ステッキはどこか貧弱だった。胸のポケットにはジョンがいた。ジョンと、その男の姿は兄弟のようによく似ていた。

 

 私はいつも利用しているキオスクへと歩いた。キオスクは地下鉄入口のすぐ横にあった。

 

 歩いている最中にも、私は多くの人々とすれ違った。道行く人々すべてのポケットの中にジョンがいるはずであるのに、誰もジョンと会話をしていないのは不可解なことだった。誰もがポケットの中には何も入っていないというような顔をしていた。誰もがジョンの存在を知りつつもそれを無視しているようだった。

 

 ふと、私は、人々がジョンと話したがらないのは、もしかするとジョンが怯えについて知りすぎているからかもしれないと思った。あるいは人々にとって、ジョンは怯えそのものであるのかもしれなかった。

 

 程度の差こそあれ、私たちもまたジョンと同じく、なにか正体不明なもの、その正体不明なものがもたらす決定的な事態がやってくるのに怯えている。そうであるならばジョンは私たちの過去であり、また今の私たちであり、また私たちの未来の姿であるはずだった。そうであるからこそ、ジョンは私たちにとって無視をしなければならない存在だった。

 

 私の歩みはゆっくりとしていた。キオスクに着くと、いつもどおり私は煙草と新聞を購入することにした。公園で煙草を吸いながら十分間ほど新聞を読むこと、それは私の日課の散歩の欠くことのできない部分だった。

 

 キオスクの店主はいつもどおりの不機嫌な顔をしていた。彼は私の姿を見ると、「ほら、大尉殿」と言って、私がいつも買う煙草と新聞を差し出してきた。

 

 私は小銭と引き換えにそれを受け取った。地面の下から、地下鉄が走行する轟音と振動が微かに伝わってきた。

 

 いつもならば、それで店主とのやり取りは終わるはずだった。だが、今日は店主が声を掛けてきた。

 

「大尉殿、もしかして、それはジョンかい」

 

 店主は私の胸ポケットを(ゆび)さしていた。私は店主の顔を見た。彼はいつもどおりの不機嫌な表情を、その四角くて器械的な浅黒い顔に浮かべていた。そのどこかに、無遠慮な好奇心が見て取れた。私は少しだけ気分が悪くなった。

 

 それでも私は平静さを装って答えた。

 

「そう、ジョンだよ」

 

 私の返答を聞いて、これまで一度もなかったことだが、店長は表情を変えた。彼は明らかにほっとしたような表情をしていた。

 

 彼は言った。

 

「そうか、やっぱりジョンだよな。実を言うと、俺にもジョンがいるんだよ」

 

 そう言って、彼は油で汚れた群青(ぐんじょう)色の前掛けのポケットに手を突っ込むと、また手を引き抜いた。

 

 その手にはジョンがいた。暗闇からいきなり引き出されたジョンは眩しそうな顔をして、手で目を擦っていた。それを見た店長はほんの少しだけ、申し訳なさそうな声で言った。

 

「これは悪かったな。眠っていたのかい、ジョン」

 

 ジョンは答えた。

 

「いや、眠っていない。ただ、目を閉じていただけさ」

 

 そのジョンは、これまで私が見てきた二人の幼いジョンよりも明らかに成長した姿をしていた。十八歳か、十九歳くらいだろうと私は思った。それくらいの年齢の部下をかつて私は指揮していた。

 

 その黒い髪の毛は綺麗に整っていて、若さに溢れた顔立ちには色濃い悲しみが漂っていた。若いジョンは地味ながらも良い仕立てのシャツとジャケットとトラウザーを身につけていた。いずれも黒みがかった紺色だった。いや、それは紺色ではなかった。彼は全身、余すところなく(すす)にまみれていた。

 

 店長はバツが悪そうに私に言った。

 

「すまないね、大尉殿。なんというか、大尉殿のジョンと俺のジョンがあまりにも違うから戸惑っちまったんだ。俺のジョンも、大尉殿のジョンと汚れ具合ではけっこう良い勝負してるが……ほら、かなり違うだろ?」

 

 店長は念を押すように私に言った。

 

「な? 俺の言ってること、分かるだろ?」

 

 私はにべもなく答えた。

 

「いや、まったく違わないね」

 

 そして私は煙草と新聞を持って、その場を去ろうとした。去り際、店長がもっと何かを話したがっているような顔をしているのが見えた。私はもう少しその場に留まることにした。

 

 店長は弁解するように言った。

 

「仕事が終わったら、探しに行こうと思っていたんだ」

 

 私はわざと突き放したように言った。

 

「なにを」

 

 店長は気圧されたような顔をして答えた。

 

「なにって、そりゃジョンをさ。探してやらないといけないからね」

 

 そして店長は、少しだけ気恥ずかしそうな顔をして言った。

 

「なんていうか、その、ジョンには友情を感じているもので」

 

 私は言った。

 

「そのジョンがどこにいるのか、君は分かっているのかね」

 

 店長は頭を掻いた。

 

「いや、それが皆目見当もつかなくて。もしかしたら、この店に来る人が、ジョンを連れてくるかもしれないと思っていたんだが」

 

 そう言ってから、店長は残念そうに言った。

 

「でも、あんたのジョンは、やっぱりジョンじゃないみたいだな」

 

 私は言った。

 

「そうだな」

 

 そう言って、今度こそ私は店を去った。私は、店長に対して初めて親しみの念を覚えていた。

 

 私がいつも行く公園まで、まだ距離があった。私の足では、キオスクから公園までちょうど十五分はかかるはずだった。

 

 歩きながら、私はジョンに話しかけた。

 

「さっきのジョンは、また成長した姿をしていたが」

 

 ジョンは答えた。

 

「あれは十九歳の時の私です。当時、私は大学生でした」

 

 私は言った。

 

「随分と、(すす)にまみれていたようだが」

 

 彼は答えた。

 

「空襲を受けたからです。爆弾と焼夷弾によってブリストルの街が燃えて、私は焼け出されました。ちょうど、大学から家に帰っていたところだったのです」

 

 そのことは私もよく知っていた。ブリストルには大規模な航空機工場があった。敵はそれを狙った。というよりも、それは口実だった。同じような口実で主要な都市はすべて攻撃された。敵は私たちを空中から抹殺しようとしたのであり、事実それは半ば達成されかかっていた。

 

 ジョンは言った。

 

「敵がブリストルを狙っているのは明らかでした。その晩、私は父と母、それから妹と一緒に、早々にその街の共同防空壕へと移ったのです。父がそうしようと言ったのです。防空壕はレンガ造りの頑丈なものでした。私たちの後から、その地区の住民たちが続々と防空壕へ避難してきました。入口付近は住民たちが密集していて、早めに来た私たち家族は防空壕の一番奥へ追いやられる形になりました。父は『少し早まったかもしれないな』と言いました」

 

 ジョンは一旦、言葉を切った。

 

 公園の前の横断歩道に差し掛かった。その長くもなく、短くもない横断歩道を渡り切るのに、私はいつも時間がかかった。今日も時間がかかりそうだった。

 

 太陽はだんだんと高度を上げていた。空の色はすでに朝の色ではなかった。かといって昼の色でもなかった。吹き抜ける風は冷たく爽やかで、公園の木々の葉擦れの音を伝えてきた。私の手の中で、買ったばかりの新聞が枯葉のように乾いた音を立てた。

 

 横断歩道を渡りながら、私はジョンに言った。

 

「そろそろ私たちは公園に辿り着くが、君はまだ見つからないね」

 

 ジョンは答えた。

 

「いえ、もうすぐ見つかるはずです」

 

 断言するかのような口調だった。私は言った。

 

「公園の中にいるのかね」

 

 彼は頷いた。

 

「公園のどこかにいるでしょう」

 

 私も頷いた。今や、私も探しているジョンが公園の中にいるのを感じていた。

 

 私は苦労をして横断歩道を渡り終えた。いつもはクラクションを鳴らされるが、今日はそのようなことはなかった。車とその運転手たちは、私が渡り切るのを待っていてくれた。渡っている最中、ジョンはずっと口を閉ざしていた。

 

 公園は昨日とまったく同じだった。ひっそりとしていて、まったく人がいなかった。入口のアーチ状のゲートを通り抜けたその時、ジョンはまた口を開いた。

 

「やがて、空襲が始まりました。これまでにないほど猛烈な空襲でした。最初は落下した爆弾の炸裂音と、地上の高射砲が撃ち上げる音とを聞き分けることができましたが、次第にそれは混ざり、ひとつの轟音となってしまいました。至近距離に爆弾が落下するたびに、頭上の地面が強く揺れました。私たちの防空壕はまるで冬の北海を行く帆船のようでした」

 

 ジョンはさらに言った。

 

「轟音の中で、私は密かに安堵感のようなものを味わっていました。それは、ついに戦争が始まった時にも感じたものでした。ついに、私のもとへ決定的な事態、これこそがまさに『それ』であるといえるような事態、それがやってきたのだと私には思われたのです。私はもはや怯えてはいませんでした。地面が大きく揺れるたびに、母は震えました。父は震えながらも母を抱きしめていました。妹も震えていました。私は妹を抱きしめましたが、私は震えていませんでした。一発の爆弾が防空壕の真上に直撃し、構造を崩壊させ、その中にいた私たち全員を生き埋めにした時にも、私は震えていませんでした。私は大いなる安堵感に満たされていました。これ以上、怯えなくて済むと」

 

 広い公園には噴水があった。噴水は水を出していなかった。ここ数年、噴水は止まったままだった。噴水の中央部には彫刻があった。その彫刻が何を(かたど)っているのか、これまで何度も公園に来ているのにも拘わらず、私は知らなかった。少なくとも、彫刻は人の形をしていた。それが男であるのか、女であるのかは分からなかった。

 

 噴水の横には木製の白いベンチがあった。私はいつもそこに座って煙草に火を()け、煙草を吸いながら新聞を読むことにしていた。私はそこへ歩いていき、腰を下ろし、これまでの歩行で疲労してしまった足を伸ばしてから、煙草に火を点けた。

 

 吐き出された煙はまるで生き物のようだった。それは甘える犬のように私の体にまとわりついた。

 

 私はジョンに言った。

 

「ついに、決定的な事態が君に訪れたというわけだが、それで君はどうなったのかね」

 

 ジョンは首を左右に振った。

 

「いいえ、それはやはり決定的なものではなかったのです。爆撃が終わった後、私たちは全員が無事に救出されました。父も母も、そして妹も、まったく傷ついていませんでした。他の防空壕はすべて破壊され、避難者は全員死んでいたのに、私たちだけは無事だったのです」

 

 新聞を広げながら私は、ジョンと彼の周りの人々が救出された時にどのような顔をしていたのかを想像していた。それと同時に、私は戦地でのことを思い出していた。何時間も続く砲撃の最中、退避壕に敵の重砲が直撃し、兵士たちが生き埋めにされたことがあった。私は自らスコップを手に取って、それを救出した。

 

 兵士たちは無事だった。だが、彼らは何も表情を浮かべていなかった。彼らはただ、呆然としていた。ただのショック状態というわけではなかった。彼らはただ、来るべきものが来なかったということに呆然としているようだった。

 

「死刑囚は」と私は独り言のように言った。「処刑寸前になって刑が中止されたとしたら、いったいどのような表情を浮かべるだろうか。幾日、幾月、幾年も刑が延期され続け、いつ処刑されるとも分からないまま独房の中で震えていた死刑囚が、もし首に縄がかかったその瞬間に刑が中止になったならば……」

 

 しかし、私たちがみな死刑囚であるとすると、私たちの罪状はなんなのであろうか?

 

 新聞は、戦時中の利敵行為と国王への反逆によって死刑を宣告された囚人が、ワンズワース刑務所で処刑されたことを述べていた。死刑囚の最後の言葉が書かれていた。『……理想のために死ねることを私は誇りに思う。そして、なぜ死なねばならぬのかを知らぬままに死んでいったイギリスの若者たちのことを私は気の毒に思う……』

 

 私は言った。

 

「死なねばならぬ理由を知らぬままに死ぬ人間など、いるのだろうか。実際のところは、なぜ死なねばならぬのか、その理由を人はみな知っているのではないだろうか。ただ、それを最後まで思い出せないというだけではないだろうか」

 

 ジョンは、私の言葉に答えなかった。彼は彼自身の話を続けた。

 

「家は焼け、家財はすべて失われました。しかし、私たちはみんな生きていました。私はやがて二十歳になりました。その前から、私は入営することが決まっていました」

 

 枯れた噴水の向こう側から、一人の女性が私のもとへと歩いてきた。私よりも少し年上の婦人だった。婦人は美しい顔をしていたが、疲れているようだった。

 

 彼女は薄紫のコートを羽織っていた。それは中庭のアザレアの花と同じ色だった。コートの胸ポケットには、小さな人影があった。それはジョンだった。ジョンは陸軍の兵士の枯草色の軍服に身を包んでいた。

 

 その胸には小さな勲章がついていた。最前線で勇敢な働きをした兵士に授けられる勲章だった。私はかつて、この手でその勲章を兵士たちに授けたことがあった。だが、兵士のジョンはじっと目を閉じていた。

 

 ふと、私は、きっとこの婦人はジョンの母親とそっくりなのだろうと思った。

 

 婦人は公園のあちこちへと目を走らせていた。やがて、私の姿を見つけると、婦人はやや急ぎ足でこちらへやってきた。

 

 私は煙草の火を消し、新聞を閉じた。婦人は私の前に立つと、優雅な動きで一礼をした。私がベンチから立ち上がろうとすると、婦人は静かに手でそれを制した。

 

 婦人は言った。

 

「こんにちは」

 

 思ったよりもあたたかい声だった。私も言った。

 

「こんにちは」

 

 婦人はかすかに笑みを浮かべながら言った。

 

「初めてお会いする方にこのようなことをお尋ねするのは本当に不躾なことではありますけれども、どうしてもお尋ねしないわけにはいかないのでお尋ねします。あなたの胸ポケットにいるのは、ジョンですね?」

 

 そのように問われることを私は知っていた。私ははっきりとした声で答えた。

 

「ええ、ジョンです」

 

 婦人は明らかにほっとしたような顔をした。彼女は言った。

 

「では、私とジョンが探しているジョンは、あなたのジョンでしょうか」

 

 その時、コートの胸ポケットの中で目を閉じていた兵士のジョンが、何やら(うめ)き声を上げた。やがて、彼は目を開けた。

 

 婦人は彼に言った。

 

「ごめんなさいね、ジョン。眠っていたのかしら」

 

 兵士のジョンは答えた。

 

「いいえ、眠ってはいませんでした。ただ、目を閉じていただけです」

 

 婦人は申し訳なさそうな顔をした。

 

 私は婦人に言った。

 

「私も今、ジョンを探しているところなのです。もし、あなたが探しているジョンが、今この私の胸ポケットにいるジョンだとしたら、あなたはどうしますか」

 

 婦人はしばらく考えた。やがて彼女は言った。

 

「『もう安心して良いのよ』と言います」

 

 彼女はさらに言った。

 

「『もう怯える必要はないのよ』と。『あなたは安全な場所にいて、もう怖い思いをする必要はないのよ』と言います」

 

 私は頷いた。婦人は愛に溢れているように私には感じられた。だが、私は言った。

 

「残念ながら、あなたのお探しになっているジョンは、私のジョンではないようです」

 

 婦人は悲しそうな顔をした。

 

「ですが、この公園のどこかにジョンはいるはずなんです」

 

 そう言って、婦人は指先で兵士のジョンの頭を優しく撫でた。

 

「私、ジョンが見つかるまで、この公園の中を探し続けようと思います」

 

 そう言うと、婦人は目で私に礼をして、その場を去っていった。私は無言で婦人を見送った。私は婦人のことを好ましく思った。それと同時に、おそらく婦人がジョンを見つけることはできないだろうと思った。婦人は愛に溢れていた。だが、ジョンを見つけるには何かが足りないように思われた。

 

 噴水の向こう側にある時計台が十時半を示していた。そろそろ私は公園を出なければならなかった。しかしその前に、私はジョンを見つける必要があった。

 

 苦労をしてベンチから立ち上がると、私はジョンに言った。

 

「どうやら君は兵士として、素晴らしい勲功(くんこう)を立てたようだが」

 

 ジョンは何も答えなかった。彼は無言のままだった。

 

 私は園内を一周することにした。ジョンを見つけるためだった。私の足では、おそらく大変な時間がかかるだろうと思われた。それは私が理想として定めた一日の形が破壊されることを意味した。

 

 それでも私は構わなかった。婦人がジョンを見つけることができない以上、ジョンを見つけることができるのは私だけであるはずだった。私はどうしてもジョンを見つけたかった。

 

 塵ひとつなく掃き清められた園路の中を、私はゆっくりと歩いていった。

 

 目に入る木立はすべてプラタナスだった。緑の波が視界の中で微かな風に揺れていた。私はその緑をどこかで見たことがあった。おそらく、それは野戦病院でのことだった。敵機の空襲を受けて負傷をした後、私はカイロの病院へと送られた。病院には看護婦たちがいた。看護婦たちはみな、緑色の腕章を巻いていた。彼女たちは常に腕を動かして、負傷し病んだ兵士たちの世話をしていた。それは初夏の風にそよぐプラタナスの葉のようだった。

 

 風に乗せるように、ジョンが言った。

 

「入営し、訓練を受けた後、私はほとんどの兵士たちと同じように大陸に渡り、戦いを重ね、そして敵国の本土へと進みました。どの戦いでも、それが始まるたびに、私はついに決定的な事態が私のもとへ訪れるものと期待をしていました。そして、戦いが終わるたびに私は落胆していました。戦いはどれも厳しいものでしたが、決定的とはとても言えないものばかりだったからです」

 

 園路は息が切れたかのように途中で終わっていた。目の前には小さな森が広がっていた。私はその中を行くことにした。この森のどこかにジョンがいるような気がした。

 

 短い下草はじっとりと濡れていた。ステッキの先が黒く濡れた。木々の梢の間から太陽の光が差していた。その光は黄金色だった。その金の中を、何匹かの白いチョウが舞っていた。私は立ち止まってチョウの数を数えてみた。全部で七匹だった。

 

 ジョンが言った。

 

「多くの兵士たちが傷つき、そして死んでいきました。私は最後の戦いまで生き残りました。それはある大きな港町を巡る戦いでした。敵の抵抗は熾烈でした。少年から老人まで、彼らは武器を手に取って戦いました。撃破された戦車が真っ赤な炎を上げて燃え、その炎に照らされながら、私たちは敵を排除しつつ市内の奥へと進んでいきました」

 

 あちこちに目を配って、私はジョンを探した。これほどまでに何かを真剣に探すのは久しぶりだった。次第に森は深くなり、下草が伸びて足元は見えなくなっていた。

 

 奥へと進むにつれて、私は確信を深めていった。きっと、この先の数十メートルのところにジョンがいると私は感じていた。ベンチを立ってから、何分が経過したのかは分からなかった。私は時計を持っていなかった。

 

 それまで一方的に話すだけだったジョンが、私に言った。

 

「少し休憩をなさってはいかがですか。息があがっています」

 

 私はその言葉に従うことにした。私は煙草を取り出して火を点けた。森の闇の中へ、薄い煙が溶けていった。

 

 私が煙草を吸うのを、ジョンは満足そうに見ていた。やがて、彼は言った。

 

「市内にまで進出した後、私は命令を受けました。敵の通信所を制圧しろとの命令でした。私は仲間と共にそこへ向かいました。通信所は小さなアパートの一階にありました。出入口と窓はレンガと石材で塞がれていました。敵の姿は見当たりませんでした。私は、もしかしたら裏手からならば中に入れるかもしれないと思いました。私たちを率いている曹長も、私たちと同じ考えでした。思った通り、建物の裏には小さなドアがありました」

 

 いつの間にか、煙草は短くなっていた。私は指先に熱を感じた。私は煙草を投げ捨てた。下に落ちた煙草の火は軽い音を立てて消えた。私はまた歩き出した。私の歩みはゆっくりとしていた。私はいつしか時間の感覚を失っていた。もう夕方かもしれないと、私は思った。

 

 ジョンは言った。

 

「ドアを前にして、仲間たちは尻込みをしていました。曹長が数発の手榴弾をワイヤで(くく)り、右手に持ちました。ドアを蹴破って、曹長は中へ束ねた手榴弾を投げ込みました。中から悲鳴が聞こえたのとほぼ同時に、手榴弾は爆発しました。私たちは銃を撃ちながら中へ突入しました。室内には濃い煙と、濃い血のにおいが充満していました。敵の抵抗はありませんでした。私たちはしばらく、煙が晴れるのを待ちました。蹴破ったドアから煙が出ていき、次第に視界が得られるようになった、その時でした。曹長が愕然としたように叫びました。『なんてこった、やっちまったぞ!』と」

 

 ジョンの話がどこか遠く聞こえた。私は闇の中を歩き続けた。今や、探しているジョンは私からほんの数メートル以内にいるはずだった。しかし、ジョンは見つからなかった。

 

 ジョンは言った。

 

「まず私が目にしたのは、子どもの死体でした。女の子の死体でした。死体は複数ありました。女の子の死体が折り重なっていて、一番上には大人の女性が死んで覆い被さっていました。みんな真っ赤な血を流していました。そこは敵の通信所ではなかったのです」

 

 よくある話だった。だからこそ、私の胸は痛んだ。それでも私は何も言えなかった。ジョンはさらに言った。

 

「ひとりだけ、生きている女の子がいました。その子は低く呻き声をあげていました。とても人間の子どもの声とは思えない、動物のような声でした。手榴弾の破片と爆風を受けて、その子どもの足首はなくなっていました。傷口から、壊れた水道のように血液が(ほとばし)っていました」

 

 私は途方に暮れていた。ジョンはすぐ近くにいるはずなのに、未だに見つからなかった。その時、視界の端に何か光るものが見えた。それは蒸留酒の瓶だった。中身はまったくなかった。私の胸は高鳴った。これはきっと、ジョンが飲んだものであるはずだった。

 

 ジョンはさらに話を続けた。

 

「その時になって私は、それまでの人生で感じたことのない、ある欲求を覚えました。非常に強い欲求でした」

 

 瓶を手に取り、そのラベルに目を走らせながら、私はジョンに言った。

 

「どんな欲求だったのかね」

 

 ジョンは答えた。

 

「それは、『自分の意志で決定的な事態を迎え入れたい』という欲求でした」

 

 私は黙っていた。ジョンは言った。

 

「それまでの私は、決定的な事態がやってくるのを待つばかりでした。それが、いつやってくるのかを知らぬまま、怯え続けるしかありませんでした。しかし、今や自分の手でそれを引きずり寄せることができる。そのことに気付いた瞬間、その欲求は爆発的なまでに膨らみました」

 

 ジョンはさらに言った。

 

「仲間たちの交わす会話によって、その欲求はさらに増幅されました。仲間たちは口々に言っていました。『これではもう助からない』『はやく楽にしてやった方が良い』『もしこのまま生き残っても不幸になるだけだ』『トドメを刺してやろう』 手榴弾を投げ込んだ曹長は呆然としていて、何も耳に入っていませんでした。女の子はまだ呻き声をあげていました」

 

 少しだけ沈黙を挟んだ後に、ジョンは言った。

 

「私は仲間たちに、『俺がやる』と言いました」

 

 暗い森の中に静寂が満ちていた。私はまだ蒸留酒の瓶を持ったままだった。心臓の鼓動の音だけが聞こえる気がした。故郷の浜辺で幼い頃に聞いていた潮騒が、私の耳の中で響いていた。

 

 私はジョンに言った。

 

「それで君は、どうしたのだね」

 

 いつしか私は、胸ポケットの重みを感じなくなっていた。手の瓶の重さも感じなかった。岸壁に打ち寄せる波のようなざわめきの中で、ジョンの声だけが聞こえていた。

 

「戦闘が終わった後、私は上官にすべてを隠さずに報告しました。女の子は私の腕の中で、最後まで苦しみながら息を引き取りました。女の子の流す血は、温かく私の両腕を濡らしました」

 

 ジョンは溜息をついた。

 

「そうです。私には、どうしても女の子の命を奪うことができなかったのです」

 

 私は瓶を遠くへ放り投げた。目の前には茂みが広がっていた。その中を、私はステッキで(さぐ)った。そうしなければ、ジョンは見つかりそうになかった。ステッキを動かしながら、私は、こうしてここまでやって来たことはやはり間違いではなかったと感じていた。

 

 私はここに来るべきであったのであり、そして結局、私以外の誰もジョンを見つけることはできなかったのだろうと思った。老人も、少女も、キオスクの店長も、あの婦人も、決してジョンを見つけることはできなかっただろうと思った。

 

 ジョンは言った。

 

「ついに決定的な事態を自らの手で引き寄せる機会を得ておきながら、それを自ら放棄してしまった。そのことを私は後悔しませんでした。ですが、怯えは消えなかったのです」

 

 ステッキは何も(さぐ)り出さなかった。それでも私は諦めたくなかった。ジョンはさらに言った。

 

「戦争が終わった後、私は胸に勲章を飾って故郷に帰りました。家族は私を笑顔で迎えました。私も笑顔を返しながら、おそらく今後、この手で決定的な事態を迎える機会は二度と訪れないだろうと、確信していました」

 

 ステッキが何かに当たった。何やら柔らかな感触が伝わってきた。それは、茂みの中に隠れるようにして、地面に横たわっているようだった。

 

 ジョンは言った。

 

「その後、私はブリストルの家を離れました。家族には何も告げませんでした。この都市(シティ)に来てから、私の怯えはいっそう強くなりました。そして、その怯えが一生続くことを私は知っていました。私は路地から路地へと彷徨(さまよ)いました。彷徨は終わりませんでした」

 

 最後に、ジョンは言った。

 

「そして昨日、この公園の、この森へと私はやってきたのです」

 

 はっとして、私は胸ポケットへ手をやった。そこにはもう、誰もいなかった。私は何度か、確かめるように胸ポケットを改めた。やはりそこには誰もいなかった。

 

 私は茂みの中へ足を進めた。そこには、私が探していた人間が横たわっていた。その人は静かだった。何の音も発していなかった。その人は死んでいるように見えた。なんということもない、着古した黒のスーツの上下は擦り切れていて、そのうえ日焼けして薄紫に退色していた。靴は破れていて、割れ目から足が覗いていた。

 

 私は、その人はもう、生きていないのかもしれないと思った。

 

 ステッキを投げ出すと、私はひざまずき、その人を両手で揺さぶった。何度揺さぶっても、その人は何の反応も示さなかった。

 

 私はさらに強く揺さぶった。私は何も言わず、ただ揺さぶっていた。

 

 なんとしてでも、私はその人を助けてやりたかった。

 

 突如として、その人は呻き声を上げた。呻き声を上げて、やがてその人は目を開けた。怯えたような光をその人の目は(たた)えていた。目は私を見つめた。私も目を見つめ返した。

 

 すると、目から怯えが消えた。その次の瞬間、その人は笑みを浮かべていた。

 

「眠っていたのかね、ジョン」

 

 私もまた笑みを浮かべながら、そのように問いかけていた。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・ほいれんで・くー「眠っていたのかね、ジョン」

 2024年1月28日公開。前作と同じく、これも『ラインの娘』のために書き下ろした作品です。前回の更新は去年の……見ないようにしよう。

 前から書こう、書こうと思っていたイギリスを舞台にして書いてみました。言うまでもなく作中の舞台はロンドンとなっていますが、どこそこという明確な元ネタがあるわけではありません。いわばイマジナリー・ロンドン! それが小説の醍醐味でもあります。

 以前までの作品ではファンタジーっぽく国名を変えていましたが、今作からは普通に現実世界を元にしてみました。その方がジョンの苦しみのリアリティが増すと思ったからです。

 次回もどうぞお楽しみに。
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