ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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43.「君ならそうすると思っていたよ、ヨハン」

 空は灰色に曇っていた。陰気な風がどこかから吹いていて、何処へともなく吹き去っていった。木々の梢が擦れる音は幽霊の声のようだった。他に物音はしなかった。

 

 屋敷に入る前、ヨハンは地面に何かが落ちているのに気が付いた。

 

 それは小さなネズミだった。首筋に鋭い噛み傷があり、血が流れ出ていた。口から泡を吹き出し四肢を痙攣させているそのネズミは、どう見ても生きているようには思えなかった。ヨハンは最初、躊躇した。しばし逡巡してから、彼は身を屈めると拾い上げ、呪文を唱えて魔術杖の先で突いてやった。即座にネズミは蘇生して、ヨハンの手から流れ落ちるように逃げ去っていった。ヨハンは無感情に頷くと、屋敷に入った。

 

 濃い埃の臭気が嗅覚を衝いた。屋敷の中は薄暗く、誰もいなかった。どこもかしこも分厚く埃が被っていた。それでもどこに行くべきか、ヨハンは知っていた。彼はここに通い慣れていた。といっても、前回ここに来たのは五年以上も前だった。彼は広間を抜けると左手の狭い廊下に入り、いくつものドアの前を通り抜けて、奥にある一室に辿り着いた。飾り気のない一枚板のドアが廊下と室内とを隔てていた。

 

 ヨハンがノックもせずにドアを開けると、そこには一人の男が暗がりの中で椅子に座っていた。男はよれて皺だらけになった黒いローブを着ていた。背もたれを前側にして、それにしがみつくようにして座っている男の顔は、まだよく見えなかった。

 

「やあ」と、その男は言った。

 

「来ると思っていたよ、ヨハン」

 

 生気のない声だった。しかしどことなく潤いのようなものも感じられた。ヨハンは背筋に微かながらも冷たいものが走るのを感じた。過去が蘇りつつある。彼はそのように思った。この男がこのような声を発する時というのは……ろくなことにならない。ヨハンはあえて返事をしなかった。男もそれ以上何も言わなかった。

 

 そうだ。できるだけ余計なことは言わないことにしよう。この男は蛇のように狡猾で、ほんの少しの隙間でもあれば入り込んでくるのだから。内心でそのように決心しつつ、ヨハンは軽く頷くと、椅子に腰かけた。ヨハンと男は向かい合った。ヨハンは平静さを保って言った。

 

「それで、用件というのは何だね、アモス」

 

 五年ぶりの再会を祝うという気はヨハンにはなかった。ヨハンは部屋の中を見回した。あまり変わりはなかった。部屋は魔術の工房だった。四方の壁は作り付けの書棚で埋まっており、分厚く重い革表紙の魔術書が雑然と詰め込まれていた。ガラス扉つきのキャビネットには金属製の実験器具が収められていたが、それが最近取り出されたような形跡はなかった。

 

 部屋の中で、ただ水晶玉だけが光っていた。絹のクッションの上に置かれたそれは魔術師同士の通信用として使われるものだった。薄暗い照明に照らされて、水晶玉は生き物のように鈍く輝いていた。輝く生き物などいるのか? いない。だが、もし水晶玉が生きているのだとしたら、やはりこのように輝いてその生命を示すのだろう……ヨハンは身震いをした。再び、過去の記憶が輝きと共に蘇ったようだった。

 

 その男、アモスも、ヨハンと同じく再会を祝うつもりはないようだった。アモスは無言で頷くと、椅子から立ち上がった。不自由な四肢を動かして部屋の隅にある中型の金庫へ行き、分厚い扉を開くと、そこから何かを取り出した。それは小さな木製の小箱だった。アモスは無言でヨハンに向かってその小箱を差し出した。

 

「開けてみたまえ」とアモスは言った。「それが今回、君に頼みたいことだ」

 

 ヨハンは箱を開けた。中には一枚の広葉樹の葉が入っていた。葉の中央に、何か光るものがあった。彼はすぐにそれが何かの虫の卵であることに気が付いた。おそらく蝶か蛾の卵だろうと彼は思った。強いて表情を隠しつつ、ヨハンはアモスの顔を見た。瞼のない目、無数の傷跡の走った顔、焼き(ごて)の当てられた上下の唇。アモスは薄く笑みを浮かべていた。どこか人を蔑ろにしたような笑みだった。アモスは言った。

 

火蝶(ひちょう)の卵だよ。小不死鳥(フェーニクス)ともいう。君も知るまいが」

 

 たしかに生物を専門とする職業についているヨハンにも、「火蝶」などというものは聞いたことがなかった。ヨハンは黙って、アモスに先を促した。アモスはさらに言った。

 

「その名の由来は(はね)が燃え盛る炎のように赤いことから言う。熾火(おきび)のような黒い赤ではなく、夕陽のように暗い赤でもない。言うなれば戦火の炎、破壊の炎の色だ。破壊と混沌と殺戮を彩る赤、あるいは、そういった事象の原動力となる赤と言った方が適切か。といっても、私もその実物を見たことはないのだがね」

 

 ここに至って、ヨハンは初めて口を開いた。

 

「どこでこんなものを手に入れたのだ」

 

 アモスは笑ったが、何も答えなかった。アモスの笑いは長かった。底冷えのするような笑いだった。彼は口を開いて笑っていた。焼き潰された唇の奥にある口の中には、一本の歯もなかった。

 

 しばらく両者の視線が絡み合った。ヨハンの眼差しには敵意と反感と、それ以上に怯えがあったが、アモスのそれには純粋に愉悦のようなものが浮かんでいた。ヨハンはどうしても目の前の人間から、かつて理想に燃えていて高潔だった男の姿を引き出すことができなかった。かつて同志と呼び、共に社会の改良を志し、この世のすべての抑圧者を根絶しようと誓い合った男は、今では単なる薄汚れた敗残者のようにしか見えなかった。それでもヨハンは、目の前の男に怯えていた。

 

 アモスはどこか嘲るようにヨハンに言った。

 

「君は、何かを育てるのは得意だろう? あの事件以来、決意をしてこの私から離れた後は、専らそのような仕事を君はしていたのだから。この卵を育てて、蝶にして欲しい。それが私の頼みだ」

 

「私はやらない」とヨハンは言った。「忙しいのでね」 こんなにきっぱりと言うことができたのは、この屋敷に入ってからずっとこのやり取りを予想していて、頭の中で予行演習を繰り返していたからだ。ヨハンは首尾よく断りの言葉を言えたことに安堵していた。それと同時に、彼は自分の声が震えているのではないかと不安になった。

 

 そのようにヨハンが答えると、アモスはあたかもその返答を予期していたかのように言った。

 

「君が世話をしないと、この卵は死ぬ」

 

 その言葉にヨハンは動揺した。アモスは内心を見抜いているかのようにさらに言った。

 

「その卵は私が手に入れたものだが、残念なことに私には世話をすることができない。君がここで引き取って帰らなければ、卵は死ぬ。たかが虫一匹の命だが、命は命だ。つまりひとつの生命がこの世から失われることになる。それは君の信念に反することだろう。あの時、私に背いた時、君は『これからは命を奪わない』と信念を述べたではないか? ん?」

 

 ヨハンはアモスの顔を改めて見た。狂相(きょうそう)といって良い顔だった。すべてを見透かしたかのような薄ら笑いの奥には生来の酷薄(こくはく)さが見え隠れしていた。かつての結社の時代から、アモスは今と同じような表情を他の同志に向けていた。アモスがその表情を浮かべれば、結社のすべての人間が彼に従った。アモスはその頃、すべてを掌握していた。彼に逆らえる者など誰もいなかった。そしてそのゆえに、彼の結社は最終的に瓦解したのだった。

 

 アモスは、今度はやや早口で、(まく)し立てるような口調で言った。

 

「何かを育てるというのは、何かに対して愛を注ぐということだ。無償の愛、自己犠牲、これを食わねば自分は死ぬという時に他者にパンを与えるという行為……それが育てるという行為の根本だ。そして私は、他者にパンは与えない。私はいつも己のパンは己の口で噛み締めていたい。これは明らかに私の性格上の欠点だが、それでも私は自分を生かすことができる。だが……君はパンを与えることができる。それは君の性格上の欠点というよりは思想的な弱点だが、そうすることで君は他者を生かすことができる。私はそのことをよく知っている。あるいは、君以上にね」

 

 念を押すように、アモスは最後に言った。

 

「どうだろうか? やらないかね? 育てるという仕事は、君にとって君の生命に関する思想の正しさを証明するものではないのかね? どうだろう?」

 

 ヨハンは反論できなかった。このような口調で言われると、昔からヨハンはアモスに一切の抵抗ができなくなるのだった。陰謀、テロリズム、襲撃……すべての局面においてアモスはヨハンにただ()()をした。それは決して命令ではなかったが、ヨハンはただの一回を除いて、すべてにそれに従った。

 

 ほどなくして、ヨハンは屋敷を出た。彼の長外套の下には、木製の小箱があった。

 

 敗北感と同時に、安堵の念を覚えているのにヨハンは気が付いた。もう二度と、あの男の前に出たくはない。ヨハンは足を速めて屋敷から遠ざかった。次第に屋敷は遠くなっていって、灰色の背景に小さく溶け込んでいった。あのようなちっぽけな屋敷の中に、あのアモスがいる……そして、アモスはこれからも自分に対して影響を行使し続ける……ヨハンは暗澹たる気分に陥った。しかし、新たな仕事への興味もまた、自分の心の奥底で芽生えつつあることに、ヨハンは奇妙なまでの疼きにも似た感情を抱きつつあった。

 

 

☆☆☆

 

 

 その卵から出てきたのは、予想に反してごく普通の幼虫だった。あたかもアゲハチョウの幼虫のようだった。ただ、その体色は薄い紅色だった。女性ならば夜会のドレスとしてこの色を好むだろうとヨハンは思った。ペン先ほどの大きさしかない火蝶(ひちょう)の幼虫は、瞬く間に自分がそれまで入っていた卵の殻を食い尽くすと、今度は卵が産み付けられていた葉を食べ始めた。ごく普通の、他の虫となんら変わりのない食事の仕方だった。

 

 突然、ヨハンの机の上にある水晶玉が光った。ヨハンが杖の先でそれを軽く叩くと、声が響いてきた。それはアモスの声だった。水晶玉越しの声はどこか金属質な調子を帯びていた。

 

「そう、君に伝え忘れていたが、その火蝶を育てるのに必要なものや採るべき方法については、私がその都度この水晶で通信をして君に教える。通信は一日一回だ。当局に探知されると面倒なのでね。それで、次にその幼虫に与えるべき食物は……」

 

 声を聞き、メモを取りながら、ヨハンは苦々しい思いを抱いていた。これではまるで、あの当時と同じではないか? 手先が狂い、メモにインクの染みができた。不吉な形の染みだった。あの当時、アモスは隠れ家から、水晶玉を用いて結社の構成員に対して指示を出したものだった。あくまで全体像は話さず、ただ個別的な指示を与え、その成果を確認した上で、次にやるべきことをまた伝えてくる。結社の構成員たちは計画そのものについてはまるで何も知らず、ただ与えられた膨大な指示を果たすことだけに汲々(きゅうきゅう)としていた。もちろん、ヨハンもそうだった。アモスのことは尊敬していたが、心酔していたというわけではなかった。ただ、アモスは怖ろしかった。恐怖というものを知っていて、それをどうすれば他人の中で惹起させることができるか、それをアモスは知り抜いていた。

 

 水晶玉からの声はいつしか消えていた。ヨハンはメモを読み直すと、薬種の戸棚からキーナ原産のミカンの葉を取り出した。葉は乾燥し切っていた。彼は混合比率七対二.六八の混合エーテル液を用意し、葉をそれに浸した。ほどなくして、葉は元のように潤いを取り戻した。ヨハンはピンセットでそれをつまむと、幼虫に傍に置いて与えた。

 

 幼虫はそれまで食べていた葉から即座に新しい葉へと移動すると、混合エーテル液で柔らかくなった葉を貪り食い始めた。ヨハンはその様子を見て頷いた。どうやら成功したようだ。しばらくはこの餌を与えれば良いだろう。彼は魔術杖の先から火を出すと、メモを焼き捨てた。半ば無意識のうちにそれをした自分に気づいて、ヨハンは再度苦々しい思いを抱いた。それもかつての結社時代に身についた習慣だった。

 

 数日間は連絡がなかった。幼虫は積極的にエーテル漬けの葉を食べ、大量の糞を出した。ヨハンは朝の出勤前に丹念に幼虫の世話をした。王室研究所附属の動物園での勤務を終えて帰ってくると、また入念に世話をした。各種の記録を取り、室温と湿度を調整し、清掃をする。そんなことが繰り返された。幼虫はますます大きくなっていった。脱皮を繰り返し、体は大きく太くなっていった。体色はますます濃くなっていった。今ではバラの花のような赤色になっていた。色合いはますます激しさを増していった。娼婦が好みそうな赤だった。

 

 一週間後の朝、ヨハンは幼虫がエーテルの葉をあまり食べなくなっていることに気が付いた。すると、待っていたかのように水晶玉が光った。例によって、それはアモスからの通信だった。指示は今度も具体的で詳細だった。ヨハンはメモを読み直すと、またそれを焼いた。ここに至って、アモスがなぜこの件を依頼したのかがヨハンには分かった。ただ、アモスが何を考えており、何を意図しているのかはまったく分からなかった。

 

 ヨハンはその日、動物園で動物たちの採血をした。ハボローネ原産の曲がり(つの)イランドの雄と、ケニアのクーズーの雌からそれぞれ血を百cc採取した。また、ユーフラテス原産の河イルカから血を二百cc、ボルネオの類人猿から三百ccの血液を得た。ヨハンはそれを誰からも怪しまれることなくこなした。彼は動物園付きの獣医だったからそれも当然だった。

 

 ボルネオの類人類から血液を採取する時、危うくヨハンは大怪我をするところだった。普段は温厚であったはずのその類人猿のメスは、その日に限って凶暴性を発揮し、注射器を持つヨハンの手を握り潰そうとした。しかしヨハンは冷静に魔術杖を振りかざすと鎮静魔法を行使して動きを止めた。「これは君たちの健康を調べるためなのだよ」とヨハンはことさらに優しげな口調で言った。魔法によってうっとりとした表情になった類人猿は、なおも語られるヨハンの言葉に聞き入りながら、結局血液を三百cc採られてしまった。ヨハンにとって、この程度のことは造作もないことだった。

 

 家に帰ると、ヨハンはシリンダーに収められた血液を主体として、魔法液を調合し始めた。エーテル液は混合比率六対五.一三にし、それに指示されたとおりの比率で混ぜ合わせた血液を加えた。そうして出来上がった原液を、ヨハンは蒸留器にかけた。この世のありとあらゆる汚物をひとつに合わせて数時間をかけて煮詰めたかのような、そんな酷い悪臭が部屋を満たしたが、ヨハンは作業を続行した。蒸留された液体は赤黒かったが、どこか甘い香りもした。彼は薬種の戸棚からヤーパン原産のトネリコの葉を取り出して、それを新しくできた液体に浸した。

 

 葉が虫カゴに入れられると、幼虫はそれに獰猛に食らいついた。以前よりも移動する速度が上がっていることにヨハンは驚いた。流石にネズミよりは素早くはないが、明らかに一般的な芋虫とは一線を画する動きだった。

 

 ヨハンは煙草を吸いながら、幼虫が葉を貪る光景を眺めた。同じだ。彼はなんとなくそう思った。これは、あの時と同じだ。煙草の煙が、ヨハンを酔ったような気分にさせていた。

 

 あの時、アモスは同じように指示を出して、俺にあるものを作らせた。象の涙、インディエン産の水牛の髄膜、小アジアのドラゴンの卵管、猿の胎児、毒鳥の羽、パタゴニアのヤギの角……そういったものを集めさせ、加工させ、そうして出来上がったものを指示された場所へと持っていった。そこには結社の別の人間がいて、それを持っていった。その人間も、それが何に使われるのかは分かっていなかった……

 

 後日、ある貴族の家で爆弾テロがあった。それは、王国議会において貧民救済のための社会保障制度に強硬に反対していた貴族だった。パーティ会場の真ん中で爆弾が破裂した。爆発の威力は小さかったが、その貴族は身の回りにいた家族と使用人を含めて、全員が爆風を浴びた。いや、問題だったのは爆風ではなかった。爆弾には、ある物質が使われていた。当局が分析した結果、それは高度な魔術的な技術によって製造された呪性(じゅせい)物質であることが判明した。貴族とその周囲の人間は、異形の肉塊と化した。腐臭と膿汁をまき散らすその肉塊は、今でもどこかの帝国の病院に保管されているという……生きているのか、それとも死んでいるのか、生きているとすれば意識はあるのか、それともないのか、それすらも不明なままで……

 

 そのことを新聞による報道で知った時、ヨハンは愕然とした。おそらく、自分がそれまで指示に従って作っていたのは……それでもヨハンはアモスの元から離れなかった。なぜか、彼はそうすることができなかった。

 

 それでは、この虫も、何かしらの破壊活動に使われるのだろうか? ヨハンはそう考えて身震いをした。しかし、彼の中にある理性的な部分がそれを否定した。たかが蝶一匹に何ができる? ヨハンは自分を安心させるために思考を続けた。そうだ。おそらくこれは、アモスが俺の忠誠心を確認するためにやらせているだけなのだろう。そうでなければ、単純に彼の趣味か、あるいは成虫の標本でも売って小銭を得るか……

 

 そう考えつつも、ヨハンはそのいずれでもないことを確信していた。アモスはまだ、何かを企んでいるに違いない。あの男が考えていることは、ひとつしかないからだ。そのことだけは彼には分かっていた。

 

 ヤーパンのトネリコの葉は、特に幼虫の食欲を刺激するようだった。幼虫はよく食べ、よく排泄をし、脱皮を幾度となく繰り返した。二週間が経った頃には、幼虫は虫カゴに収まりきらないくらい大きくなっていた。フランク人たちが好んで食べる棒状のパンと同じほどの大きさと太さになっていた。このままいけば、幼虫はテーブルの上にも収まりきらなくなるだろうと思われた。明らかに異常だったが、ヨハンは特段そのことに驚かなかった。

 

 その朝、水晶が光った。アモスはいつになく上機嫌な様子でヨハンに指示を与えた。北海のトドの眼球、ガラパゴスのゾウガメの卵、フンガリアの風龍のウロコ、ケルン産のサラマンダーの火焔袋、各種血液……それから、ヒイラギの葉だった。ヨハンは躊躇した。トドの眼球を得るには多大な困難が予想された。それでもヨハンはそれを集めた。

 

 いつしか幼虫は大きくなっていた。大きくなり過ぎていた。それはまるで成人男性のような大きさだった。ある日、動物園から帰ってくると、ヨハンは幼虫が部屋の中で繭になっているのを見つけた。繭の中では何かがしきりに蠢いていた。羽化はもうまもなくであろうと思われた。おそらく一晩か、二晩か……もう少しかかるかもしれない。

 

 しかし、予想に反して繭はまだ羽化はしなかった。次の日の朝、ヨハンのもとに一通の封書が届けられた。それはアモスからのものだった。手紙はなく、ただ火蝶に関する資料だけが入っていた。資料は古代ヘラスの文献を原語のまま抜き書きしたものだったが、ヨハンはそれを難なく読むことができた。資料はこう述べていた。

 

「火の蝶に雌雄の区別はない。ただ一匹だけで卵を生むことができる。幼虫は成長を重ねると人よりも大きい繭を作り、一晩から三晩のうちに羽化をする。その繁殖能力は異常だが、それよりもなお異常であるのはその凶暴な攻撃性である。紀元前五二三年、海洋都市国家アイギナはこの火蝶による惨劇に見舞われた……」

 

 繁殖能力、その凶暴な攻撃性、アイギナ、惨劇……そこまで記述を読み進めた時、ヨハンは自分の心臓が高鳴るのを感じた。彼は勢い込んでさらに先を読み進めた。

 

「数千、数万、数十万もの火蝶は空を覆い尽くし、アイギナにあるありとあらゆるものを破壊し、食らい尽くした。その羽ばたきにより建物はすべて崩壊し、植物と作物は食らい尽くされ、人間はみなその長い口吻を突き刺されて体液を吸い取られた。あらゆる刀槍、矢はまったく効果がなかった。あたかもアイギナは戦火に包まれたかのごとくであった……」

 

 ヨハンは、ようやくアモスの計画の真意を知った気がした。彼は眩暈がした。それでも彼は、最後に残った数行を読むことにした。手が震えていた。

 

「アイギナは国家としての力を喪失したが、火蝶はすべて退治された。サモス島の主であるポリュクラテスが計略を用い、火を用いて蝶をすべて焼き払ったのである。ゆえに、この火蝶という名称は、その見た目や出自に由来する名称というよりも、むしろ()()()退()()()()()()()()()()()()名付けられているのである……」

 

 読み終えた後、ヨハンは椅子に崩れ落ちた。やはり、アモスは敗残者ではなかった。彼は今でも結社時代と同じく、この世に何らかの変化を起こそうとしているらしい。これまでにないほどのより大規模なテロ、これまでにないほどの恐怖、それによって彼は己の理想を実現させようとしている……

 

 火蝶によって王国は壊滅する! 彼が唾棄し、破壊せんと目論んでいたこの王国が!

 

 しかし、それならばなぜ、アモスはこのような資料を俺に送ってきたのだろうか? なぜわざわざ俺にそのことを知らせる? ヨハンはしばらく考えた。それほどの災禍を人類にもたらす蝶であるのならば、それは今のうちに殺してしまわねばならない。だが……ヨハンの思考はそこで止まった。そうだ、俺にはそれができない。なぜなら俺は、たったひとつの命であっても奪わないとあの時誓ったからだ。

 

 あの日、ヨハンとアモスは当局の追及から逃れるためにどこかの鳥小屋の下に逃げ込んだ。あたりを大勢の警吏が駆け回っている音がしていた。息を潜めて状況が変わるのを待っていると、そこに犬が現れた。汚い野良犬だった。犬は二人に向かって吠えたてた。アモスはヨハンに、あの犬を殺すように依頼(いらい)をした。「あの犬のせいで、私たちは居場所が露見してしまうと思うのだが」とアモスは言った。だが、ヨハンは断った。それは彼が起こした初めての反逆だった。

 

「なぜだ?」とその時アモスは言った。「たかが犬一匹、どうして君は殺せないのだね?」

 

「決めたんだ」とヨハンは答えた。「これから俺は、犬一匹、虫一匹といえども、命は奪わないと。だから俺は、あの犬を殺さない」

 

 その言葉の裏に隠された真意を、アモスは正確に読み取っていた。ヨハンはアモスがこの言葉を聞いてどのような顔を浮かべるのか、どこか恐れつつ待った。どんな顔をする? だが、同時に彼は、言ってはならぬことを言ったような気がしてならなかった。だが、アモスは絶望するでもなく、憤怒するでもなく、ただ、何か面白いものを見つけた子どものように目を輝かせただけだった。それからアモスは、声を上げずに笑い始めた。笑い声は、いつまで経っても消えなかった。

 

 そして二人は逮捕された。当局との取引により、ヨハンだけが先に釈放され、アモスはその数年後に、拷問によってほとんど廃人となった状態で牢から出てきた。新国王即位に伴う恩赦によるものだった。

 

 ヨハンは改めてまた資料を読み直した。もしかすると、アモスは俺の信念を試しているのだろうか? ヨハンはそう思った。あの時、あの鳥小屋の下で、高貴なる革命家のアモスを破滅の淵へ叩き込んだ、俺の信念。それを捨てることができるのか? 世界のためといえど一つの命を奪うことが許されるのか……? それはヨハンにとって肯んじないことであった。全体のためにひとつの命を奪うといういびつな量的功利主義こそ、アモスの思想信条のエッセンスであった。

 

 ここで世界全体のために一個の繭に火をつけることは、つまり俺がアモスの思想に賛同することになる……

 

 しばらくヨハンは考えた。脂汗が血のように滴り落ちた。苦悩は炎のように燃えていた。

 

 そして、ふと、ヨハンはアモスのあの顔を思い出した。すべてを見下し、侮蔑し、絶対的な強者として君臨しているというあの顔……結社の主であり、すべてに命令を下していたあの頃のアモスの顔は、神のように輝いていて、悪魔のように美しかった。

 

 俺はあの時、あの顔から逃れたい一心で、あのような信念をその場で紡ぎ出したのだった。しかし時が経って、平和な生活を営んでいるうちに、その紛い物の信念は本物のように自分の心の中に根ざしていった。すべての命は尊い。たとえそれが、死にかけのドブネズミ一匹であっても。だが……その信念を今、アモスが問うている。

 

 アモスは心の中で、きっとこう思っているに違いない。「君は火を点けないだろう」と。俺を()()()()()()だと思って……自分で生み出したその場しのぎの理屈に自縄自縛になって、悔恨と後悔の海の波間に浮つ沈みつしながらどうしようもなく人生を下流へと流れていくこの俺……その有様を見て、アモスは「やっぱり」という顔をしながら、あの薄い笑みで嘲りをするのだろう。

 

 そんなわけがあるか! アモスは憤怒した。そうはならんぞ。アモスの全身が震えた。今度こそあの顔を、驚愕と絶望で歪めてやる。俺が、この手で。奴の思い通りになってたまるか。

 

 繭を燃やす。ヨハンは決意した。繭はあまりにも大きく、外に出すことはできなかった。彼は繭の周囲に薪を積み、エーテル液を振りかけて、そして魔術杖を構えて火を放った。繭は熱によって苦悶するように蠢いたが、だんだんその動きを弱めていった。

 

 やがて完全にその動きが止まった。その瞬間、音を立てて繭が割れた。

 

 中から出てきたのは、炎のように真っ赤な(はね)を持つ、巨大な火蝶の成虫だった。翅は完全に乾ききっていた。火蝶は翅を広げると力強く羽ばたかせ、部屋の天井を突き破って外へ出ていった。

 

 呆然としてそれを見るばかりのヨハンは、水晶玉が光っているのに気が付いた。

 

 満足しきったようなアモスの声が響いてきた。アモスは言った。

 

「そうそう、あの抜き書きにはちょっとだけ、あえて書かなかった部分があったんだ。火蝶(ひちょう)は炎で死ぬが、繭から羽化する時には逆に炎を必要とするんだよ。あたかもフェーニクスが火から生まれ、火によって死ぬようにね……君ともあろうものが、どうして自分でもう一度大本の資料を確認しようとしなかったのかな? まさか、誰かへの疑念と怒りで、そのことを忘れていたのかね?」

 

 アモスはさらに勝ち誇ったように言った。

 

「それで君は、繭を燃やしたのかね? それとも燃やさなかったのかね?」

 

 ヨハンはただ一言、「燃やした」と言った。かすれたような声だった。

 

 水晶玉の向こうで爆発的な哄笑が響いた。ヨハンはただ黙ってそれを聞いていた。いつまでも暗い笑い声は続いた。こんなにも笑うアモスをヨハンは知らなかった。光る水晶玉は小刻みに振動を続けていた。

 

 ひとしきり笑い終えた後、アモスは突然調子を変えて、氷のような冷たい声で言った。

 

「君ならそうすると思っていたよ、ヨハン」

 

 その瞬間、ヨハンは杖で水晶玉を叩き割った。粉々に砕け散った水晶玉は床に骨片のように散らばった。炎上する部屋をそのままにして、彼は杖を持って外へ走り出ていった。

 

 何処へともなく飛び去ってゆく大きな火蝶の姿は、すでに遥か彼方にあった。




※以下、作品メモとなりますので、興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「君ならそうすると思っていたよ、ヨハン」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第233回「育てる」に応募した作品です。2024年11月17日公開。

 43話としてはもう一話天使の話として書いた「アンダルシア地方の天使に関する簡潔な報告」を公開したかったのですが、こちらの方の改稿にもう少し時間がかかりそうであるため、先にこちらを投稿しました。エブリスタ版と比べて2700字ほど加筆されています。

 今回の話は「できるだけ悪人を書いてみよう」と思ったのでアモスというテロリストとその精神的奴隷であるヨハンという二人が主人公になりました。こういう話はこれまでにあまり書いたことがなかったので今回は良い練習になったと思います。

 次回もお楽しみに! 今度こそ天使の話を公開したい……
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