ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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44. アントンたちのハイビスカス

 その日も、私は農園にいた。

 

 常に変わらず、南洋の空は凶暴だった。日差しはどこまでも無遠慮で、どこにいっても影のようについて回った。毒と瘴気(しょうき)を孕んだ大気は潤んだような熱を帯びていて、呼吸のたびに私の肉体から気力を奪っていった。私はそれを(わずら)わしいとも思わなかった。

 

 農園は密林を切り開いて作られた、ごく小さなものだった。四囲の密林は絵の具を塗りこめたような原色の濃緑だった。密林は、おそらく生命の宝庫であるはずだった。密林は常に変化をし、常に新たな生命を生み出し続けていたのだから、そう呼んでも差支えないはずだった。

 

 しかし、それ以上に密林は、常に生命を滅ぼし続けてもいた。そうであるから、私にとって密林とは生命の宝庫というより、むしろ死の伽藍(がらん)だった。無論、それは私の生まれた西洋的な世界のそれではなく、東洋的な色彩と構造と秩序とを持つ伽藍(がらん)だった。その伽藍に僧侶はおらず、ただ信者だけがいた。祭儀は無秩序に変わり続け、信者の死体は、その時々でまったく異なる方法で葬られていた。密林から吹く風に触れるたびに、私の眼前に折り重なった仏塔(パゴタ)が浮かんだ。

 

 農園はわずか十メートル四方しかなかった。もともとは研究所が実験作物を植えるため、現地人を使役して開墾させたものだった。私は自らその計画を作成し、承認を求め、実行し、人員を集めた。現地人たちが密林に火をつけ、燃え残りを掘り起こし、埋め、黒色と灰色で構成された地表を(なら)すのを監督したのも私だった。それは今から一年前の話だった。

 

 しかし私は、そうして切り開かれた農園で何かを育てることは考えていなかった。私はただ農園を作るという計画を立て、その計画を実行することだけを考えていたのだった。そのように私は植民地政庁から要請されていたし、私はその要請を拒まなかった。そして、その計画の中には育てるという要素はなかった。私の計画は密林を破壊し、新たな秩序へと再編することだけが目的だった。それが植民地政庁の基本的な考え方でもあった。

 

 そのようなわけで、農園には何も植えられていなかった。名目上は実験農園のはずだったが、今は何の実験も行われていなかった。

 

 私は常に物憂げで気怠く、そして不安だった。この島に着任した当時の創造的な精神は消え去っていた。泥水の上に立ち上る黒い蚊柱のようなものが常に私の中で気忙しい音を立てていて、私はそれを避けることも追い払うこともできなかった。

 

 植民地政庁が置かれているコロールの本島に敵軍が上陸したという知らせを受けたのは、三日前のことだった。巡洋艦を主力とする艦隊に援護された敵は、数梯団(ていだん)に分かれてサンゴ礁を軍用ボートで越えたとのことだった。敵の兵力は二個大隊ほどいるとのことだった。こちらの守備隊は数十人もいなかった。銃を持っているのはそのうちの数人に過ぎない。「敵と交戦中」という短い電文を発した後、本島からの通信は途絶した。

 

 コロールの本島と、私がいるこの島とはわずかに半日の距離しかなかった。動力船ならばもっと早く行き来ができるが、ここにはそのようなものはなかった。現地人の操る木製のカヌーだけが唯一の交通手段だった。

 

 いつ敵が来るだろうかと私は思った。敵はいつ来てもおかしくはなかったが、それ以上に、私は敵が来ないことを恐れていた。この島には何の価値もなかった。リン鉱石もなく、ココナッツもなく、ゴムもコーヒーもキニーネもなかった。ここにあるのは農園だけで、そしてその農園には今、何も育てられていない。従って、敵がこの島に来てここを占領する意味はなかった。

 

 それでも私は敵に来てもらいたかった。敵の艦隊がこの島の四周を包囲し、ボートを送り出し、兵士がこの島に充満して、私に銃を突き付けてほしかった。私は彼らに両手を上げ、命乞いをしたかった。

 

 かといって、私は自分から島を出ていく気にもならなかった。私はこの島を愛しているわけではなかったが、それでもこの島から離れるということは考えられなかった。私にとってそれは容易であるはずだった。現地人を呼び出し、カヌーを出すように指示し、私はそれに身一つで乗る。コロールの本島にはほんの半日で到達する。それですべてが片付く。それなのに、私はどうしてもそうする気にならなかった。

 

 私には疲労感だけがあった。ぬるま湯のような粘つく髄液の中に灰白色の脳だけが浮かんでいるような感覚を、私は常に抱いていた。

 

 農園には私のほかに誰もいなかった。現地人の姿も見えなかった。彼らが日常なにをしているのか、私は何も知らなかった。おそらく彼らは密林の中で生まれ、育ち、(かて)を求め、密林の中で結ばれて新たな生命を育んでいるのだろうと思われた。私たちがこの島に来るずっと以前から、彼らはそのようにして存在し続けて来たのだった。そして、おそらくはこれからもずっとそのように存在していくのだろうと私は思った。彼らは密林の一部というよりは、むしろ密林そのものだった。

 

 となると、その密林を破壊した私はやはり彼らにとっての敵であるはずだった。私は彼らを破壊し、切り開いて、この農園を作った。それは私の意志でそうしたのだった。ということは、この農園は私そのものであるはずだった。それなのに農園は何も生み出してはいなかった。何も植えられておらず、何も育てられていないこの農園は、ただの空白に過ぎなかった。つまり私は空白だった。

 

 私は農園の中を音もなく歩いた。ところどころに名前の分からない雑草が生えていた。雑草だけは、本国のそれとあまり変わりがなかった。雑草の中に小さな花が咲いていた。花はスミレによく似ていたが、より色は濃く、形はより先鋭的だった。花の中を小さな羽虫が飛んでいた。羽虫の名前も分からなかった。その虫を狙って、褐色のトカゲが這いまわっていた。トカゲの動きは俊敏だったが、よく虫を取り損ねていた。

 

 徐々に雑草の勢力が大きくなっているのに私は気づいていた。手入れをしないと、この農園がじきに機能を喪失するであろうことは容易に想像できた。手入れだけでは不充分だった。農園は何らかの仕事を加えられて、何らかの成果を生み出すべきだった。それでも私は何かを植える気にならなかった。

 

 私は農園の中を滑るように歩き続け、また入口に戻り、そしてまた一周をしてまた出口へと出た。何も音はしていなかった。ただ密林の向こうから響いてくる波の音だけが、時折吹く海風に乗ってやってくるだけだった。海風は人肌のように生温く、塩の香りがした。それは恐怖の香りだった。私はもう一度農園を一周した。何も変わりはなかった。その日はそれで終わった。

 

 農園から少し離れた、密林のすぐ近くにある研究所へと私は戻った。研究所も変わりはなかった。外装の白いペンキは日焼けとスコールで退色していた。室内の床には埃と汚れが堆積していた。アンペラで編まれた寝台に身を横たえると、私は食事をすることもなくそのまま眠ってしまった。外ではまだ太陽が凶暴に輝いていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 敵はまだ来なかった。不可解なことではあった。一週間が経過し、さらに三日が経過した。電文はやはり来なかった。

 

 私はその間、一度だけ海岸に出てみた。研究所の隣の小路(こみち)は密林を貫通して海岸に通じていた。月明りと星々が闇を照らす中、私は焦燥感と共に目覚めて、疲労を抱いたまま小路を歩き始めた。夜の密林は熱に浮かされたように何かを囁き続けていた。私にはその言葉は分からなかった。密林に住む現地人たちならばきっとこの密林の囁きを理解できるだろうと私は思った。それと同時に、「現地人たちならば」という考え方それ自体が、私の外部性を際立たせているような気がしてならなかった。

 

 視界は暗く閉ざされていた。密林の中にはあらゆる種類の草が繁茂していた。毒虫や毒蛇の類が私の足元にいないとも限らなかったが、私は足を止めることなく先へ進んでいった。私は滑るように、音を立てずに密林の中を歩いた。闇の中ではすべてが眠っていた。しかしその眠りはごく浅いもので、私が何かをすればすぐに破られてしまうものであるように思われた。眠りを妨げたものを密林は許すだろうかと私は自問し、おそらく私には眠りを妨げる力そのものがないだろうと結論した。時々、破れたページのように星空が見えた。作り物のような空だった。

 

 密林を抜けて海岸に出た。海岸には何もなかった。茫漠(ぼうばく)たる黒い海が、白い砂浜に軽い音を立てて波を送り込んでいた。遠浅(とおあさ)のサンゴ(しょう)の上には現地人のカヌーが数隻見えた。こんな時間になっても漁をしているのが私には不思議だった。この時間でなければ獲ることができない魚がいるのだろう。カヌーの上では松明の炎がゆらめいていた。炎を見ているうちに、私は裏切られたような気持ちがした。だが、それ以上にどこかほっとしたような気持ちにもなって、また小路を歩いて密林を抜け、研究所に戻った。

 

 寝台に横になりながら、農園に何を植えるか、私は考え続けていた。植えるものならばいくらでもあった。ココナッツ、キャッサバ、タピオカ……あるいはコーヒー、ゴム、キニーネ、インディゴ……バナナ、タロイモ、あるいは小麦かトウモロコシでも良かった。それらはいずれ本国の市民、企業、あるいは消費者に富をもたらす産物であった。だが私は本国の市民の顔も企業の名も、また消費者の姿も、思い出すことができなかった。

 

 私は何か仕事を始めるべきだった。それは本来の意味での実験ではなかったとしても、やはり私にとっては必要な仕事だった。実験とは真実に辿り着くための婉曲的な方法である。私は真実を望んでいない。一方で、仕事とはただ仕事のために存在している。そこには真実が介在する余地はない。真実など存在しなくとも仕事は成立し得る。私は仕事がしたかった。それは農園が農園であり続けるために必要な仕事でもあった。それでも私は仕事を始めることができなかった。

 

 幾夜か、私は夢を見た。どれも同じ夢だった。夢の中で私は農具を(ふる)っていた。丸めた手には種子を持ち、土を耕してそれを植える。出たばかりの芽がスコールにやられないように(うね)を高くして、刈り取った雑草で覆いを作ってやる。私は満足感をもってその光景を眺めている。

 

 突然、目まぐるしく時間が進む。雨が降り、日差しが注ぎ、種から芽が出る。芽は伸び、上へと成長し、茎が太くなり、葉を茂らせ、花が咲く。瞬く間に時間は進む。花が散り、実が膨らむ。私はそれを収穫する。そしてまた時間の進み方はゆっくりになる。私は農具を振るって、土を耕して種子を植える……

 

 そして、突然目が覚める。夜はまだ明けておらず、しかし死につつあるその時間は、私にとってはすでになじみのあるものとなっていた。眠りが私を癒すことがないように、夢が私を癒すこともなかった。

 

 研究所の無線機は、すでに機能を停止していた。以前から無線機が壊れつつあることを私は知っていたが、何も対策を施さなかった。従って、本島の状況がどうなっているのか、私には何も分からなかった。敵が本島に上陸を開始してからすでに二週間以上が経過していた。電文は来なかった。敵も来なかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 二週間と二日が経った、その明け方だった。

 

 私はふと、いつもと違った気配を感じて目を覚ました。空はまだ暗かった。昇りかけた朝日に星々が最後の抵抗していた。私は起きると寝台を降り、そのまま何も持たずに研究所を出て農園へと向かった。

 

 農園の中に何かがいる。気配は次第に強くなってきた。

 

 私は息を殺して農園に近づいた。やがて、農園の中ほどで何か黒い影が動いているのが見えた。私はそれを、敵だと思った。軍服に身を包み、銃剣を装着した小銃を携えた敵だと思った。私はほとんどその姿を見てさえいた。しかしそれは、敵ではなかった。

 

 それは現地人だった。現地人の子どもが三人、そこにいた。

 

 子どもたちはみな十歳くらいだった。真っ黒に日焼けをした肌が、黎明(れいめい)の大気の中で光っていた。子どもたちは屈んで、何かを地面に植えていた。彼らは無言で、余分な動作はまったくなく、ただ淡々と作業をしていた。子どもに固有の稚気や、落ち着きのなさといったものはまったくなかった。私はなるべく姿勢を低くし、呼吸を抑えて、その光景を見ていた。子どもたちは作業を続けた。

 

 やがて、朝日が昇ってもはや夜とは言えなくなった頃に、子どもたちは作業を終えて農園から出ていった。

 

 私はしばらく、そのまま様子を窺った。彼らが戻ってくる気配はなかった。太陽は次第にその高度を増していった。私は、完全に明るくなった中、立ち上がってその場所へと向かった。

 

 思ったよりも作業は広範囲にわたって行われたようだった。畑の中央部には、縦横の整然とした列をなして何かが植えられていた。私は土を掘り起こしてそれを確かめた。

 

 それは何かの種だった。小型のいびつな球形をした黒色の種だった。どこか見覚えがある種だったが、名前を思い出すことはできなかった。私は一粒だけそれを回収すると、研究所へと戻った。

 

 疲労感と気怠さはいまだに残っていた。私は久しぶりに煙草を吸おうとして、やめた。そして、埃の被った革製のトランクを開くと、その中から資料を取り出した。それは植民地政庁の農産部が発行した、現地の植物に関する報告書だった。

 

 幸い、その種子の記述はすぐに見つかった。それはハイビスカスの種だった。なぜこの名前を思い出すことができなかったのか、私は不可解に感じた。何の変哲もないハイビスカスの種に、なぜか私は心が惹かれた。私は種を上着のポケットに入れると、またアンペラの寝台に横になった。目が覚めた時には、また夜が来ていた。

 

 翌朝も、三人の子どもたちは農園へとやってきた。

 

 私はまた、それを隠れて見ていた。子どもたちは粛々と作業をしていた。子どもらしからぬ仕事ぶりだった。あるいは、彼らはすでに子どもではないのかもしれなかった。密林の中では密林の外とは違う時間が流れていて、その中で生活している者たちは違う年の取り方をしているのかもしれなかった。彼らは新たに種を植え、雑草を取り除き、そうして新しく出来た空間にまた新しく種を植えていった。このままいけば、あと数日もすれば農園は完全に彼らの種子によって覆われてしまうだろうと思われた。それでも私は、それを止める気はなかった。

 

 三人の子どもたちには、当然のことながらそれぞれ特徴があった。一番背丈が高い子に、私はアントンと名前をつけた。アントンは腰巻から下げた小さな袋から種子を取り出し、他の二人にそれを分けていた。目鼻立ちがすっきりとしている小さな子どもに、私はグスタフと名付けた。グスタフは一番よく働いた。動きが鈍く、痩せていて曇った表情をしている子どもに、私はハインツと名付けた。ハインツはあまり仕事をしなかった。彼はただ、他の二人をぼんやりと見ていることが多かった。アントンもグスタフも、ハインツには何も言わなかった。

 

 彼らは夜明け頃にきっかりと二時間だけ仕事をし、そして帰っていった。彼ら自身がそのように決めたのか、あるいは彼らの家族がそのようにせよと言っているのかは分からなかった。それでも彼らは毎日農園へとやってきた。彼らが来ないことはなかった。また、私が彼らを見に行かない日もなかった。

 

 たまに、彼らは会話をした。二言三言、彼らは小声で言葉を交わした。誰かに聞かれるのを恐れているかのような話し方だったが、私にははっきりと彼らの言葉を聞くことができた。しかし、私にはその言葉が分からなかった。

 

 一週間が経った頃、ハイビスカスの種が芽を出した。芽は小さかったが、生命力に満ちていた。アントンたちは強いものを残し、弱いものは引き抜いて除いた。彼らは育てるということを知っているようだった。育てるとは選別の過程に他ならなかった。

 

 私の農園はまだ、私の農園であるはずだった。しかしそこでの仕事は、明らかにアントンとグスタフ、そしてハインツによって行われていた。私はそのことについて不快感を覚えなかった。いまだに私は疲労し、不安を抱いていたが、もはや敵が来ることを望んではいなかった。敵もまた、この島にはやってこなかった。いつまでも敵はやってこなかった。三人の子どもたちは毎日忍耐強く仕事を続けていた。

 

 ある夜、私はふと、彼らのために何かをしてやりたいと思った。何か農具を用意してやったり、何か肥料を用意してやりたいと私は思った。だが、そうするにしても、私は自分から姿を現して、自分の手で彼らにそれを与えてやろうとは思わなかった。私はなんとなく、そうしたくなかった。

 

 私は農具を、農園の真ん中に置いておくことにした。小さな草刈り鎌ならば二丁あった。いずれも多少錆びていたが、まだ使用には耐えられると思われた。私は夜にそれを持ち出すと、農園の真ん中に置いてやった。

 

 その日の夜明け頃、アントンたちは農園へとやってきた。彼らは農具が置いてあるのを見て声をあげた。その声は、私が本国で聞いていた子どもたちの声とまったく変わりがなかった。喜悦(きえつ)の声ではなかった。それは恐怖の声だった。子どもたちは農具を見て、互いに顔を見合わせると、何事かを早口で言い交し、その日はそのまま帰ってしまった。私は失望し、落胆して、研究所へと帰った。

 

 アントンたちがまた農園に来たのは、その三日後だった。雑草がハイビスカスの若い芽を圧しつつあった。草刈り鎌はそのままそこに置いてあった。彼らは恐怖の眼差しと、それ以上に好奇心の混ざった表情で、鎌を見ていた。やがて、アントンとグスタフが鎌を手に取った。彼らは草刈りを始めた。ハインツはぼんやりとそれを見ていた。彼らの手際は良かった。雑草は見る間に除去された。もしかすると、彼らは誰かから農作業を教わっているのかもしれなかった。ようやく私は満足した。

 

 さらに一週間が経ち、二週間が経過した。

 

 私はその間、アントンたちとさらなる接触を持たなかった。アントンたちは毎日、毎朝農園へとやってきては植物の世話をした。種の植え付けからおよそ五ヶ月ほどでハイビスカスは花を咲かせるが、このままいけばアントンたちのハイビスカスはちょうどその頃に花を咲かせるものと思われた。それにはまだ三ヶ月ほど時間があった。

 

 敵が来ないのが私には不可解だった。あるいは敵はコロールの守備隊によって撃退されたのかもしれなかった。今はただ、アントンたちのハイビスカスが花を咲かせるのを私は待っていた。

 

 ハイビスカスはさらに成長を続けた。私は昼に起きると、ハイビスカスの様子を見に行った。それは私の新しい仕事となっていた。密林はいつも変わらず死の伽藍に過ぎなかったが、農園には新たな生命が溢れていた。あるいは、これから生命が溢れようとしていた。海は蒼ざめていて、空の日差しは凶暴なままだった。

 

 私の日々は安定を取り戻しつつあった。それはアントンたちがもたらしてくれたものだと言って良かった。私はすでにアントンとグスタフ、それからハインツの三人に結びついていた。それは感情的な結びつきだった。もちろん、彼らと言葉を交わしたことはなく、また彼らがどこから来てどこへ帰っていくのか私はいまだに知らなかった。それでも、彼らは主要な要素として私の日々を構成するようになっていた。

 

 アントンはさらに背が伸びた。グスタフもやや体つきが大きくなった。ハインツは、少しだけ動きが機敏になった。三人はいつも一緒だった。喧嘩をしたこともなく、言い争いをしたこともない。一緒に農園に来て、一緒に作業をし、一緒に帰っていく。

 

 私も彼らと一緒に帰りたかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 アントンたちのハイビスカスに異変が生じたのは、四ヶ月と二週間ほどが過ぎた頃だった。それは海から吹く風が弱まり、太陽が少し威力を減じた頃だった。

 

 アントンたちは数日前から、しきりと首をかしげるようになっていた。ハイビスカスは大きなつぼみをつけていて、数日中には大輪の花を咲かせるものと思われた。それでもアントンたちは浮かない顔をしていた。

 

 私にはその理由が分かっていた。ハイビスカスには、ハダニが繁殖し始めていた。ハイビスカスの葉は力を失って(しお)れていて、幹からも潤いが消えていた。砂粒のように小さく黒いハダニの群れは、炎のようにその勢力を広げつつあった。

 

 アントンたちの知識だけではハダニには対抗できないと私は思った。おそらくそのハダニは種苗に付着するという形で、私自身が外部からこの島へと持ち込んだものであった。そうであるからこそ、私はハダニ駆除の薬剤を本国から持って来ていた。

 

 その日の朝、アントンたちが帰っていったのを見届けると、私は研究所へと戻り、薬品棚へ行った。開放式の薬品棚には分厚く埃が堆積していた。軽く吹くと、埃は丸くまとまって生き物のように棚の中を舞った。駆除剤の瓶は確かにそこにあった。

 

 私は駆除剤の瓶を手に取ると、しばらく思案した。

 

 直接、アントンたちに手渡そうか? それとも農園の真ん中に、あの草刈り鎌と同じように置いておこうか?

 

 私はアントンたちと言葉を交わしたかった。アントンの勤勉さを褒め、グスタフの働きぶりに感謝の言葉を伝え、ハインツがこの数ヶ月において次第に働けるようになってきたことを認めてやりたかった。

 

 私はこの口から直接、彼らに薬品の使い方を教えるべきだった。そうでなければ、彼らの育てるハイビスカスはハダニによって全滅する。それは私の農園の死をも意味した。

 

 それでも結局、私は薬品を置いておくことにした。

 

 私はどうしても、彼らの前に姿を見せる気にはなれなかった。それは私たちの関係性には相応しくないと、私には思われた。

 

 アントンたちは次の日、ハダニ駆除剤の瓶を見つけた。彼らはあの時と同じように恐怖の声をあげた。表情もかたく強張っていた。彼らは互いに顔を見合わせると、逃げるようにしてそのまま帰っていった。私も研究所へ帰って寝台に身を横たえた。

 

 身を横たえても、私は眠れなかった。ひとつの想念だけが私の中で漂っていた。しかしその想念に名前をつけることはできなかった。あるいはそれはひとつの想念ではないのかもしれなかった。何かが複合したものが一つのもののようになっているだけかもしれなかった。

 

 アントンたちの叫び声が私の中で木霊していた。彼らの恐怖の表情がしきりに眼前にちらついた。

 

 想念に促されて、私は寝台から起き上がった。なぜ起き上がるだけの気力が湧いたのか、自分でも分からなかった。私は深く疲労しているはずだった。私はトランクのもとへ行った。トランクの中には一丁の小型の拳銃があった。回転式の弾倉の中には五発の弾と一発の空薬莢が入っていた。私は拳銃を取り上げ、各部を点検した。使えるだろうか? 前にこれを手に取った時からかなりの時間が経っていた。今も撃てるだろうか?

 

 前に? ふと私は疑問に思った。前にこれを手に取った? 私にはそれがいつだったか思い出せなかった。私はこれを使った記憶がなかった。しかし、今こうして手に持っている拳銃は、以前に使った形跡を示している。銃口には発砲時に特有の煤が付いていた。

 

 私はしばらく拳銃を眺めていた。何も思わず、何も感じなかった。やがて、私は拳銃をトランクに戻した。それは私の選択の結果というよりも、単なる時間の経過がもたらした作用に過ぎなかった。トランクの蓋を閉じると、私は鍵をかけた。

 

 それでも私は、これからアントンたちがどれだけ叫び声をあげ、恐怖に表情を強ばらせても、もう二度と拳銃を手にすることはあるまいと思った。

 

 それからわずか数時間後の、昼のことだった。

 

 農園から話し声がした。私は何か心の奥で予期するものを覚えながらそこへ向かった。

 

 そこには、敵がいた。若い男だった。

 

 しかし敵は、軍服を身に纏っていなかった。私たちの文明圏とは異なる顔つきをしているその男は、防暑用の短いシャツと、褐色の短ズボンを身に着けていた。眼鏡をかけたその顔はよく日焼けしていて、柔和だった。顔に敵意はなかったが、どこか緊張していた。

 

 敵の男は私に気が付いていなかった。彼は農園の真ん中で現地人と何か話をしていた。現地人は大人の男三人だった。彼らの顔にはどこか見覚えがあった。彼らはアントンたちとよく似ていた。彼らが三人の親であることに私はすぐに気が付いた。

 

 敵の男は薬品の瓶を地面から取り上げると、何か現地人たちに尋ねた。現地人たちは盛んに身振り手振りで説明しているようだった。

 

 その瞬間、何かが私のすぐ横を駆け抜けた。

 

 それはアントンとグスタフと、ハインツだった。彼らは親へ向かって走っていった。

 

 とっさに私は手を伸ばしたが、彼らは私に気が付かなかった。

 

 親たちは、子どもたちを抱き上げた。敵の男も現地人も、全員が浮かない顔をして、周囲を落ち着きなく見回していた。彼らは何かに怯えているようだった。

 

 やがて、敵の男が一言だけ何かを言った。異国の言葉の意味は、私には分からなかった。眼鏡の奥は悲しげに光っていた。

 

 敵の男はシャツの上着から、何か細長いものを数本取り出した。それを束ねると、男はマッチを擦って火を点けた。細長いそれは、薄い煙を発し始めた。線状の煙からは何かの(こう)の匂いがした。男は農園の真ん中にそれを刺すと、手を合わせてぶつぶつと何かを口にした。

 

 私はただ、彼らを見ていた。数十分が経って、彼らが農園から去っていく時も、ただ私は見ていた。彼らは私の体の中を、順番に通り抜けていった。子どもたちは足のあたりを、大人たちは胸のあたりを通り抜けていった。私の体を通り抜けたのに、最後まで彼らは私に気づかなかった。

 

 いつの間にか咲いていた一輪のハイビスカスの紅蓮(ぐれん)の花が、密林から吹く風に揺れていた。風は死の臭いを帯びていた。

 

 ハイビスカスの燃えるような赤が、太陽のように私の目を焼いた。

 

 私はたった一人で、いつまでも農園の真ん中に立ち続けていた。




※以下、作品メモとなりますので、興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「アントンたちのハイビスカス」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第233回「育てる」に応募した作品です。2024年11月24日公開。エブリスタ版と比べて2,500字ほど加筆されています。

 この話はいつも以上に難産でした。最初は単なる南洋ホラーものとして書き始めたのですが、書いているうちにそうではなくなりました。なんつーか、勝手に描写が重くなっていったというか……

 ここまで読んだ方ならもうお分かりかと思いますが、主人公はこの話が始まる前の段階で死んでいます。つまりこの話は一人の幽霊の視点から書かれているわけですが、最終的にそのような話にしようと決意したのは前半の4,000字ほどを書いてからでした。書き始める前にもっと構想を練るべきでしたね。しかし書きながら話の方向性を自由に変えられるのは短編の魅力の一つです。

 幽霊なのになぜ草刈り鎌や駆除剤の瓶を農園に運ぶことができたのかについてはご想像にお任せします。私からは「幽霊だからこそ」と申し上げておきます。

 次回もお楽しみに! 次回はおそらく「メナンドロスの子どもたち」です。
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