ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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45. メナンドロスの子どもたち

 メナンドロスは仕事を終えて家路に就いた。シャツとズボンは油で黒く汚れていた。禿げ上がった額には汗の粒が浮かんでいて、履き古した靴は力なくパタパタという音を立てていた。

 

 時刻は十八時で、巨大艦船都市イタケーの第十二居住区の放電灯は、それに合わせて放出する光量を減らしていた。青白い光に照らされた薄暗い背景の向こうに、亡霊のように街並みが浮かび上がっていた。すべてが木製で、黴びていて、ところどころが腐っている街。人が住み、人が生まれ、怨嗟と呻き声と共に死んでいく街。そこにメナンドロスの家があった。遠目に見れば街並みは蟻塚のように見えなくもなかった。しかしメナンドロスは蟻塚の実物をその目で見たことはなかった。ただ、何かの機会に、何かの図鑑でその写真を見たことがあるだけだった。

 

 蟻塚が俺たちの街なのだとしたら、とメナンドロスは考えた。俺たちは蟻だということになるが。そこまで考えて、メナンドロスは何か苦々しいものが舌下に湧くのを覚えた。蟻というものは働き者で、地上に落ちているものは何でも拾い集めて、巣にいる仲間たちのために持っていくらしい。蟻ほど勤勉な虫はいないらしいが、それでは蟻塚のような街に住んでいる俺たちは、はたして蟻のように懸命に働いているだろうか……?

 

 あるいは……メナンドロスは薄暗い道を歩きながらさらに考え続けた。ここよりもさらに上層の連中ならば、もっと蟻っぽいのかもしれないな。彼はかつて上層へ行った時のことを思い出した。そこは第九居住区だった。兵器工場と化学薬品工場が併設されている居住区で、住民たちは裕福ではないながらも、それぞれがそれぞれにふさわしい生業を営んでいて、幸せそうに笑い合っていた。

 

 奴らは勤勉で、職場でしっかりと働いて、そして成果を巣に持ち帰っている。奴らこそが蟻だ。メナンドロスは自嘲した。どうやら俺たちが人間らしい生活を手に入れるためには、人間であることをやめて、蟻にならねばならないらしい。

 

 突然、放電灯が一斉に光を落とした。その途端、周囲は暗黒に包まれた。一寸先も見えないほどのねばりつくような闇がメナンドロスの体を包み込んだ。しかし、彼はこんなことには慣れていた。アルミニウム製の義腕を器用に動かすと、彼はシャツの胸ポケットからシガレットケースを取り出し、マッチを擦って火をつけて、煙草を吸い始めた。吐き出された煙は闇の中に溶けていった。

 

 だいたい、この放電灯のブラックアウトが直るのに半時間から一時間はかかる。メナンドロスは、口の先でジリジリと音を立てて燃焼する煙草を見ながら考えた。上の居住区の連中が何か大戦争をおっ始めたり、あるいは戦車競技を開催したり、ダンスパーティをしたり、新しい工場を建て始めたりすると、下層の居住区への電力供給が不安定になる。その間、俺たち「冥界」の住民は、一寸先も見えない闇の中で生きねばならなくなるわけだ。

 

 ところで、とメナンドロスはさらに考えた。蟻たちは虫であるからきっと電灯などは持っていないだろう。となると、奴らの巣穴は常に真っ暗なはずだ。奴らの巣、奴らの蟻塚の中は、今のこの第十二居住区と同じように、常に闇に満たされているはずなのだ。それなのに蟻たちはそれがごく普通のようにして動いているし、仕事をしている。巣穴の奥では女王蟻がいて、卵を産む。産んだ卵は働き蟻が運び、世話をして、幼虫を育てて、またその幼虫が働き蟻になって……

 

 それじゃあ、人間であるのに蟻塚に住んでいて、真っ暗になると何もできなくなる俺たちは、いったい何なんだ? 結局のところ、メナンドロスの思考はいつもその点へと逢着するのだった。彼は「そもそも人間とは何か?」という問いを発することは滅多になかったが(そんなことは彼にとっては分かりきったことだった。頭と体、二本の腕、二本の足があり、言葉を話し、愛しもすれば殺しもする生物が人間である)、「人間らしく生きることとは何か?」という疑問をいつも抱いていた。そして、彼はその問いに対して、常に明瞭なる答えを出すことができた。

 

 要するに、カネだ。それがすべてで、それ以外は必要ない。この義腕も、カネがあったからこんなに便利なものが手に入ったのだ。今、俺たちが住んでいるあの蟻塚のような家も、他の連中よりカネがあったから選ぶことができたのだ。カネのないやつは、「鉱山」の近くでテント暮らしをしないといけない。古く積み重なった兵器と機械の残骸の山、いつ崩壊するともわからない鉄の堆積、不発弾と古い砲弾が混ざった悪魔のゴミ捨て場……

 

 その「鉱山」の近くでテントを張るのは……よほどの間抜けか、あるいは貧乏神からも見放されたような貧乏人か、それともここにやってきたばかりの「部外者」か……そういえば、今日も押しつぶされたテントを見た。光景を思い出して、メナンドロスは身震いをした。たしか、あそこには年若い夫婦と、小さな子どもが一人いたはずだ。それは一週間ほど前に上の居住区から流れてきた家族だった。テントは巨大な工作機械の残骸の下敷きになっていた。放電灯の白い光に照らされて、真っ赤なはずの血液の染みが、どこか青紫色に輝いていた。夜、一家の全員がテントでぐっすりと寝てる時に、どうやら突如として崩壊が起こったらしい。それで、誰も逃げられなかった。

 

 それにしても、とメナンドロスは思った。あの家族の子どもは、良い子どもだった。背筋もしっかりと伸びていて、血色が良く、頭も良さそうだった。骨格に異常がないというだけで、それは大きな長所と言える。せめて、その子どもだけでも生き残っていれば……メナンドロスはしばらく頭の中で考えた。子どもは、今の彼にとって最優先事項だった。やがて、彼は頭を振って考えを打ち切った。よそう。しばらくは俺たちだって余裕がないんだ。

 

 そうだ。明日からの一連のやるべきことが終わった後でも、俺たちにはしばらく余裕がない。

 

 なにせ、すべてをやり直すんだからな。

 

 だから、新しく子どもを迎えている場合ではない。メナンドロスはそう自分に言い聞かせた。放電灯はまだ回復しなかった。彼は、自分の周囲にも光を失って闇の中で停滞を余儀なくされている人間がいることに気づいていた。なんとなく息遣いが伝わってきた。彼は嫌な気持ちになった。こいつらの呼吸が、この居住区の空気を汚染してやがるんだ。こいつらが息をするたびに、俺たちの呼吸器は蝕まれるんだ。こいつら……努力もせず、変わろうともせず、ただ漫然と日々を過ごし、口を開けば泣き言と愚痴と恨み言ばかりのこいつら。こいつらと一緒に暮らさなければならない。同じ空気を吸わなければならない。メナンドロスはまた新しいタバコに火をつけた。だが、こんな世界からも直におさらばだ。

 

 俺は、ようやく人間らしく生きることができるんだからな! メナンドロスは煙草を指に挟むと、義腕をさすった。

 

 足元に吸い殻が五、六本以上も溜まった後、ようやく放電灯が輝きを取り戻した。メナンドロスは一瞬、目が眩んだ。しまったと彼は思った。光によって痛んだ目をなるべく気遣いながら、彼は慎重に道を進んでいった。今日に限ってこんなことになったのは、例のことがあるからだ。例のことを心のどこか片隅でいつも考え続けているから、こんな失敗をするのだ。放電灯が回復する時に黒眼鏡をかけなければならないことなど、三歳の子どもでも知っているというのに。例のことを終わらせない限り、俺は三歳児以下のグズでドジのままだろう。だが……

 

 だが……とメナンドロスは考えた。グズやドジのままの方が、まだしも人間らしいのではないか? これから俺たちがやろうとしていることに比べたら……?

 

 道は、鋼鉄製の床材がそのまま剥き出しになっていた。ところどころが何か細かな残骸や塵埃で覆われていて、足を置くと砂利でも踏んだかのような音を立てた。青白く光るキノコがひっそりと、折れ重なった瓦礫の隙間に生えていた。その青白さが妙にメナンドロスの目についた。こんな陰気な青さも、もうじき見なくて済むようになる。あれさえ終わらせれば……

 

 蟻塚はもう目の前だった。()えたような臭いがメナンドロスの鼻をついた。煮炊きをしている匂い、糞尿の臭い、生ゴミの発酵した臭い、血と死体の臭い……彼は慎重に、通路の番号が書かれた立て札を確認した。番号自体が問題なのではなかった。そんなものがなくても彼には道が分かっていた。彼が番号を確認したのは、立て札に異常が生じていないか確かめるためだった。「φ(ファイ)」の字が書かれていれば最悪だが、「ρ(ロー)」の字が書かれていたら最悪よりももっとヤバい。それは、敵対組織同士が抗争を開始するという、予告のサインだった。蟻塚はしばしば組織間抗争の戦場となった。今日はそのどちらもない。

 

 そして今後は、こんなことを気にする必要もない。

 

 メナンドロスは胸を撫で下ろした。彼は一歩一歩、踏みしめるように階段を登っていった。

 

 どこまでも住居が続いていた。さながら小さな小箱が無数に積み重ねられたかのようだった。小箱の中には様々な人間がいた。料理をしている母親、縫い物をしている老婆、内職をしている肢体不自由者、遊んでいる子ども、病臥している男、心をどこかへ置いてきてしまった老人、娼婦を連れ込んでいる若い男……どこもかしこもゴミが散乱していた。蠅が舞い、汚物の臭いが付きまとった。

 

 メナンドロスは、いくつものドアの前を通り抜けながら、果たしてこいつらはみんな、人間らしく生きているのだろうかと思った。そんなことはない。決して、こいつは人間らしい人間ではない。幸いなのは、こいつらがその事実に気がついていないことだ。そうでなければ……メナンドロスはぞっとした。人間らしく、なんてことを考えているのがどうやら自分一人であることに、彼はほっとした。もしかすると、周りの連中もそんなことはとっくの昔に承知していて、ただメナンドロスと同じように黙っているだけという可能性もあったが、そんなことは彼にとってはどうでも良かった。

 

 思っているだけで行動に移せないやつは、牛や豚と同じだ。牛や豚だって死にたくないと思っているだろうに、その時が来たらまったく動くことができない。だから、こいつらはみんな人間ではないのだ。

 

 そうだった。思っているだけで行動に移せない奴は……戦場でもそうだった。銃を向けられて降伏を促されているのに、手を挙げるでも、銃を捨てるでもなく、ただ呆然としてこちらを見てきただけの敵、あるいは味方……あいつらは牛や豚と同じだったのだ。だから簡単に撃ち殺されて、簡単にその場にうち捨てられたのだ。メナンドロスはその時、腐った床材を踏み抜きそうになった。だが、彼は慎重に足を戻して、また先へと進んでいった。

 

 だが俺は決断したぞ。メナンドロスは心の中で言った。誰にもできないような決断を、俺はした。だから腕一本だけで済んだのだ。彼は義腕を擦った。そして、腕を失うという以上の決断を、また俺は下したのだ……

 

 メナンドロスはそう考えながら、最後の階段を登った。階段のなかほどは腐っていて、どこかから拾われてきた板材によって橋がかけられていた。先ほどのこともあったため、彼は慎重にそれを渡った。

 

 メナンドロスは家の前までたどり着いた。中からは豆と肉の煮物の匂いがしていた。それは彼の好物だった。彼の妻がそれを作っているのだった。彼はドアを開けると、中に無言で入った。狭い室内には数人の人影があった。一人は、電気かまどの前で煮炊きをしている彼の妻だった。他には三人の姿があった。いずれも小さな子どもたちだった。子どもたちはみんなメナンドロスが帰ってくるや、それまで夢中になっていたごっこ遊びをやめて、彼の周りに群がり寄ってきた。

 

「お帰りなさい、おじさん!」とチビが言った。チビというのが、その子どもの名前だった。

 

 それよりもさらに小さなチビが口を開いた。

 

「おじさん、お土産はある?」

 

 少し大きなチビが遠慮がちに言った。

 

「おじさん、停電は大丈夫だった?」

 

 メナンドロスは、家に入る直前まで浮かべていた物憂げな表情を一変させて、子どもたちに笑いかけた。彼は元気な声で言った。「よし、よし。三人のチビども。今日も元気に遊んだようだな」 彼は改めて自分の「チビども」を眺めた。悪くない状態だ、と彼はほくそ笑んだ。これまで苦労をして育ててきた甲斐があったというものだ。ここまでこいつらを育てるのに、どれだけ時間と手間がかかったことか……彼は考えつつも、その考えを顔に出さないように巧妙に心をコントロールした。彼は一人一人子どもたちを抱き上げてやった。子どもたちは喜んで、はしゃいだ。

 

 このチビは、どこで拾ったっけ? チビを抱き上げて笑顔を交わしながら、メナンドロスは考えた。そうだ。産着に包まった状態で路地裏に捨てられていたのを、妻が拾って来たんだった。チビは高熱だった。どうせすぐ死ぬ。世話をする必要なんてない。そういう俺に対して、妻は言った。「育つか育たないかは問題じゃない。ここに苦しんでいる赤ん坊がいるということが重要だ」 確かにそのとおりだった。彼らは必死になってチビの世話をした。だからチビは今、ここにいる。

 

 さっきからずっと抱っこをねだっていたもう一人の子どもを、メナンドロスは抱き上げて頬を寄せてやった。さらに小さなチビは嬉しそうに目を細めて甘えたような声を出した。こいつはどこから来たんだっけ? メナンドロスは考えた。そうだ。こいつは俺がここに連れてきたんだ。上層から流れてきた部外者の親子が「鉱山」の近くで、テントの中で倒れていた。親は死んでいたが、赤ん坊は生きていた。親は空腹のあまり発光キノコを食べてしまったらしい。あるいは、何も知らずにそれを食べたのか……メナンドロスは赤ん坊を連れて帰って、「さらに小さなチビ」と名付けてやった。

 

 少し大きなチビが、少し離れたところから、遠慮したような顔をしてメナンドロスと抱かれているさらに小さなチビのことを見ていた。メナンドロスは少し大きなチビに「さあ、こっちにおいで」と声をかけて、抱き上げてやった。こいつは、やはり少し重いな。メナンドロスは抱き上げつつも考えた。こいつは、ここに来た時は子猫くらいのサイズしかなかったんだが、今では三人の中で一番大きくなりやがった。俺にこいつを寄越したあの男も、まさかこいつがここまで健康的に大きくなるなんて、思ってもみなかっただろう……

 

 子どもたちとひとしきり遊んでやった後、メナンドロスは電気かまどで調理を続けている妻のところへ行った。妻は痩せていて、決して悪くない作りの顔に浮かぶ表情は陰気に沈んでおり、ずっと押し黙っていた。彼は子どもたちの方へ一瞬だけ目を走らせると、聞き取れるか聞き取れないかの小声で妻に言った。

 

「……それで、準備はできたか?」

 

 妻は無言で頷いた。そして、たったの一言だけ答えた。

 

「本当に、やるの?」

 

 メナンドロスは、その時の妻の瞳の奥に、怯えと恐れと、それ以上の抗議の色を見てとった。その瞬間、彼の心の中を、急速に怒りの感情が満たし始めた。この女、自分だけが人間らしい感情を持っているとでも思ってやがるのか? いい気なもんだ。ガキどもに食わせるスープを煮てる鍋をかき回してる間に、人間らしさについて考える余裕が生まれたってわけか……?

 

 それでも彼は怒りを激発させることはなかった。彼は強いて優しい表情と声音を作って妻に言った。「もちろん、やるともさ。それが子どもたちのためにもなるからな」 妻は頷いた。しかし、それ以上何も言わなかった。

 

 メナンドロスは大きな声で子どもたちに言った。

 

「さあさあ、チビたちよ! 夕食の時間だぞ!」

 

 夕食はいつものように早く終わった。豆の煮物は美味かったが、腹を満たすには少し足りなかった。メナンドロスは積極的に自分の皿の中身を子どもたちに分けてやった。子どもたちは喜んでそれを食べ、いちいちメナンドロスに向かって「ありがとう、おじさん!」と言った。彼はそれに対して、いちいち「どういたしまして! おチビ将軍閣下!」と答えてやった。

 

 美味しそうに食事をする子どもたちの姿を見て、彼の中で愛おしさが爆発的に膨らんだ。可哀想に! それでも彼の目から涙が溢れることはなかった。妻は押し黙っていた。時折、子どもたちをじっと見つめたかと思うと、その次には顔を背けていた。メナンドロスはそれを見て、内心で怒りの感情が増幅するのを感じた。こいつめ、自分だけが悲劇の主人公だとでも思っているのか。俺の気持ちも知らないで……

 

 俺だって! だが、彼は何も言わなかった。

 

 食事が終わった後、メナンドロスは電気かまどで湯を沸かし、それを使って子どもたちの体を綺麗に拭ってやった。子どもたちは温かさと心地よさと、おじさんに体を触られることの喜びで、きゃあきゃあと嬉しそうに声を上げた。メナンドロスは子どもたちと一緒に笑いつつ、また観察力を働かせて子どもたちの体を確認していた。肌ツヤ、骨格、筋肉、異常なし。病気、外傷、いずれもなし。健康状態は良好だ。よく、このような冥界のような世界でここまで正常に、健康的に育ってきたものだ。

 

 いや、より正確にいうならば、とメナンドロスは頭の中で訂正をした。よく、このような世界で俺たちはこの子らを育てたものだ。ここまで立派に、誰に見せても恥ずかしくないほど立派に!

 

 すでに寝る時間だった。メナンドロスは陶製のカップに水を汲むと、金属製の缶の蓋を開けて、中からビタミン剤を取り出して子どもたちにそれを飲ませてやった。これがなければ、とメナンドロスは缶を生身の片手で弄びながら思った。これがなければ、この子たちもみんな骨格異常になっていただろう。この艦底の冥界では……この缶ひとつで、二週間分もの食費に相当するカネを払わねばならない。それでもメナンドロスはそれを買っていた。彼の妻も、それに反対したことはなかった。

 

 寝る前に、メナンドロスは子どもたちに言った。

 

「明日はちょっと旅行に行くぞ!」

 

 子どもたちは目を輝かせて、歓声を上げた。彼はさらに楽しみと喜びを煽るように言った。

 

「お前たちは良い服を着て、中央広場に行ってタクシーに乗り、弾薬庫エレベーターに乗って第八居住区へ行く。そこで直通の垂直エレベーターに乗って、甲板上の第三居住区に出るんだ。順調にいけば、そこに着くのは夜だろうな。お前たちに、今度こそ本当の夜を見せてやるぞ」

 

 子どもたちは興奮してなかなか眠れなかった。やがて、三人とも寝ついた後、妻がメナンドロスに言った。

 

「考え直さないの?」

 

 疲れきったような声だった。分かりきったことを聞いてくる妻に対して、しかし今度はメナンドロスは怒りを覚えなかった。彼は何も答えなかった。妻を哀れとは思わなかったが、その気持ちを彼は理解できた。

 

 翌朝、子どもたちはまた湯を使って全身を洗われた後、清潔で仕立ての良い外行きの服を着せられた。この日のために、わざわざ時間と資金と手間を費やして手に入れたものだった。メナンドロスと妻も、上等の服に身を包んだ。彼らは会話をせず、無言で家を出た。まだ蟻塚は眠っていた。彼らは足音を殺して通路を進み、階段を降りて、中央広場へと向かった。広場にはすでに、メナンドロスが事前に手配した車が待っていた。車は五人の「家族」を乗せると、弾薬庫エレベーターへと向かった。

 

 エレベーター前の広場に出ている屋台で簡単な食事をしてから、彼らはエレベーターに乗ってさらに上へ上へと進んでいった。光は次第に強さを増し、空気は清く甘みを帯びるようになった。子どもたちは、道中ずっと興奮していた。第八居住区にある大衆食堂で食事を取った時には、子どもたちはようやく疲れの色を見せ始めていた。

 

 甲板上の第三居住区への直通エレベーターの前には長蛇の列ができていて、メナンドロスたちは三時間も待たされた。子どもたちはおもちゃで遊んだり、ごっこ遊びやなぞなぞ遊びをしていたが、そのうち立ったまま眠り始めてしまった。メナンドロスは一人一人を抱き上げてやって、優しい言葉をかけてやった。周りの人間は、目を細めてそれを見ていた。しかし、子どもたち全員が「お父さん」ではなく「おじさん」とメナンドロスを呼ぶのを聞くと、一様に驚いた顔をし、そして何も聞かなかったような表情をして目を背けた。

 

 ああ、そうだよ。メナンドロスは威嚇するような目つきで周りを見た。俺は「おじさん」さ。そして、俺が「おじさん」であることを知っているお前たちこそが、この世で「おじさん」や「おばさん」がやっていることの恩恵を一番に被っているんじゃないか。

 

 恩知らずの、恥知らず共が。メナンドロスは無性に煙草を吸いたくなったが、エレベーター前の広間は禁煙だった。

 

 ついに順番が来て、彼らはエレベーターに乗った。凄まじい騒音だった。それでも子どもたちは泣かなかった。半時間後、彼らが出口からエレベーターを降りて、狭い階段を少し登ると、そこには輪形のハンドルがついた分厚い鉄の扉があった。メナンドロスは義腕なので、妻が苦労をしてハンドルを回し、扉を開いた。

 

 扉の先には、夜空が広がっていた。星々が発する光が闇夜を彩っていた。海をゆく艦船都市イタケーの艦腹に打ち付ける波の声は、神話時代の怪物の吠え声にも似ていた。ついにここに来てしまった。もう後戻りはできそうにない。まだ、かろうじて、できなくもないが……そう思いつつもメナンドロスは、あえて悪戯っぽい表情をして子どもたちに言った。

 

「ようこそ、本物の夜へ!」

 

 しかし、子どもたちはみんな泣いていた。彼らはみんな、波と星と闇に怯えていた。それは子どもたちにとって、まさに未知の世界と未知の事象だった。メナンドロスは内心でつぶやいた。やっぱり、外の世界は怖いか。だが、明日からはもっと……

 

 その日は第三居住区にある安宿に泊まった。一日中の長旅で疲れきっていた子どもたちはろくに食事もとらずに眠ってしまった。ベッドの上で、妻がメナンドロスに乾いた声で言った。

 

「今ならまだ引き返せるわ。どうなの?」

 

 彼は無言で首を左右に振った。確かに引き返せる。だが、これまでに旅費を相当なまでに使ってしまっている。借金までして得た旅費だ。ここで帰ってしまえば、借金だけが残ってしまう。それならば、いまさら引き返せるわけがない。いや、借金などどうでも良い。それよりも、なによりも……

 

 結局は、人間らしく生きられるかどうかだ。それがすべてだ。

 

 その日の夜、彼は夢を見た。それは三人の子どもたちが彼の家に来たそれぞれの日、それぞれの時の記憶だった。みんな赤ん坊で、母の温もりと乳房の柔らかさを欲していた。メナンドロスは妻と協力して、赤ん坊の世話をした。彼は鉱山を漁ってカネを稼ぎ、それで子どもたちに必要なものをなんでも揃えてやった。妻は一日中、その時間のすべてを子どもたちのために使った。

 

 今日この日まで、俺たちは子どもたちを立派に育てた。だが、明日からは……メナンドロスがそう思った瞬間、夢は終わった。

 

 次の日の朝が来た。目的の場所は、宿からそう遠くないところにあった。メナンドロスは、路上の屋台で大きくて長い棒の飴を何本も買って、子どもたちに渡してやった。子どもたちは夢中になってそれを舐め始めたが、それと同時に、初めて体験する昼の世界に驚異の眼差しを注いでもいた。甲板上の第三居住区は、艦底の第十二居住区とは何もかもが違っていた。降り注ぐ陽光、綺麗で真っ直ぐな石で出来た大きな建物、綺麗な馬、ピカピカの馬車、大きくてかっこいい車、隙間ひとつない煉瓦敷きの歩道……子どもたちはしょっちゅう視線を泳がせ、そのたびに目に飛び込んでくる未知なる驚異に心を躍らせた。その間にも彼らは、その建物に着実に近づいていた。

 

 ついに、メナンドロスたちは建物に入った。それはなんの変哲もない、煉瓦造りの建物だった。入るとすぐに係の人間が来た。制服姿の、大柄で、中年の女だった。女は「ちょっとこっちへおいで」と言って子どもたちだけを別室へと連れて行ってしまった。

 

 メナンドロスは、その瞬間に悟るものがあった。

 

 これで、終わりなのか。

 

 まさか、こんなふうに物事が進むとは彼も思っていなかった。もっと段階を踏むものだと思っていたのに。ドアの向こうに消えつつある子どもたちの後ろ姿へ、彼は思わず声をかけそうになった。それを喉の奥で押し殺すと、彼は妻と共に、別の係の人間に連れられて、他の部屋へと入っていった。

 

 机の上には、何通もの書類と、ペンと、三つの大きな皮袋があった。メナンドロスはすべての書類にサインをさせられた。何度も彼は「メナンドロス」という名を書いた。あまりにも書き続けたために、彼は「メナンドロス」という名前に違和感すら覚えるようになった。一連の手続きの間、係の人間はまったくの無表情だった。妻は声を殺して泣き続けていた。

 

 すべて書類にサインを終えると、係員はぞんざいな態度でメナンドロスたちに三つの皮袋を渡した。革袋の中には、大量の金貨と銀貨が詰まっていた。それはメナンドロスとその妻が、別の居住区で新たな人生を始めるのに充分なほどのカネだった。

 

 建物の外へ出た時、日はすでに傾いていた。どこかに暗さを含んだ真っ赤な夕陽がメナンドロスとその妻を照らしていた。二人の影はどこまでも長く、細かった。今にも消えてしまいそうだった。

 

 メナンドロスが妻に言った。

 

「あの子たちは、うまくやっていけるかな」

 

 明らかに悄然とした口調だった。少しして、妻は呟くようにして答えた。

 

「やっていけるでしょう。私たちの子なんですから」

 

 しばらく、二人は無言だった。みるみるうちに滲んだ日が水平線の下へと没していった。波の音は高さを増した。

 

 やがて、妻が再度、自分に言い聞かせるように言った。

 

「そう、きっと大丈夫ですよ。なにせ、私たちの子なんですからね」

 

 メナンドロスも頷いた。その目は潤んで光っていた。彼は短く言った。

 

「そうだな。俺たちの子だもんな」

 

 二人は立ち止まり、ちょっと顔を見合わせた後、また歩き出した。メナンドロスは頭の中で、同じ言葉を何度も反芻していた。

 

 人間らしくあるには……人間らしくあるためには……




※以下、作品メモとなりますので、興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「メナンドロスの子どもたち」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第233回「育てる」に応募した作品です。2024年11月25日公開。エブリスタ版と比べて2,500字ほど加筆されています。

 この作品は長編の『人形たちの霊魂戦争』の姉妹編となっています。ただし、この「メナンドロス」に出てきたチビたちはウーティスたちではありません。個人的には自分の作品の世界観を流用して新しい作品を書くことの楽しさと大変さを同時に知ることができたので満足しています。

 次回もお楽しみに! そろそろ「アンダルシア地方の天使」を……改稿……しないと……(エネルギー切れ)
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