ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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46. 「ヨゼフよ、ニセモノを撃て」

 この季節には珍しいほどの大きな雷鳴だった。

 

 何かの意志のようなものを感じて、突然、ヨゼフは寝台の上で眠りから目を覚ました。痩せた顔に短い髭が生えていた。怯えた目は血走っていて、数年来ずっと付きまとって離れない疲労感が顔の上で固まっていた。

 

 外では相変わらず雷鳴が鳴り響いていた。砲声のようだった。時折、真っ白な光がカーテンの向こうから漏れてきた。生気のない光だった。それはあたかも照明弾の白さだった。

 

 ヨゼフは落ち着かない気持ちで、煙草に火を点けた。今の彼の心の中を満たしているのは、たった一つのことだけだった。

 

 おそらく、つい先ほどのあの瞬間、あの雷鳴が響いた瞬間、()()()()()()()()()()()()()()()。おそらく、自分ではない自分、()()()()()()()()()()()()()、この街に生まれたに違いない。

 

 あの雷鳴が、自分の中から何か重大で不可欠なものを引きずり出して、それを元にして自分のニセモノを生み出した……煙草の先端の火が小刻みに揺れていた。彼はまだ残っている煙草を乱雑に陶製の灰皿に押し付けて揉み消すと、慌ただしく二本目に火を点けた。

 

 今、この街のどこかに自分のニセモノがいる。ヨゼフは震えた。彼にとってそれは妄想でも思い込みでもなかった。宇宙があり、地球があり、その表面の片隅にこの街があって、街の中に自分がいて……そしてつい先ほど、ニセモノが生まれて、今この瞬間も存在している。彼は荒く呼吸をした。この自分と同じように、それは呼吸をしている!

 

 彼は時計を見た。ひびの入ったガラス面の向こうに表示されている時刻は、午前一時五分だった。ニセモノは今、どこかで眠っているのだろう。そして眠りながらも朝を待っているに違いない。あるいは……ヨゼフは時計を見続けた。自分と同じように、今も時計を見ているのかもしれない。秒針の音が奇妙なまでに大きく部屋の中で響いていた。

 

 いつしか雷鳴は遠くなっていた。白い光が部屋を照らすこともなくなった。ヨゼフはしばらくそのまま起きていた。終わったわけではない。砲声が遠くなり、照明弾が飛ばなくなったことは、戦闘が次の段階へと移ったことを意味している……突撃と、白兵戦だ。彼は、ニセモノを見つけ出さなければならないと思った。

 

 そう、朝日が昇ったら……自分はニセモノを探しに行かねばならない。鉄条網を越えるようにして。

 

 だが……ヨゼフが真に恐れているのは次のことだった。だが……見つけたらどうするのか? 自分がホンモノであるためには……必然的に、ニセモノは消えなければならない。そのように考えて彼は身震いをした。なぜこんな考えに至ったのか、彼自身も分からなかった。絵画には贋作というものがある。彫刻でも、工芸品でもそうだ。しかし、贋作があるからといってそのホンモノの価値が脅かされるわけではない。ホンモノがホンモノであり続けるためにすべてのニセモノを抹殺する必要などない。むしろ、ニセモノという存在そのものが、ホンモノの価値を高めることだってある。

 

 

 それでも、ニセモノを消すのはホンモノであるこの自分だ。自分がこの手で消さねばならない。それはヨゼフの思考の結果というより、外部からの命令だった。

 

 一つの声が、命令としてヨゼフの精神内に残響していた。

 

「ヨゼフよ、ニセモノを撃て」

 

 誰による命令か分からないが、ともかく命令が下された。それならば……やはりニセモノを消さねばならない。命令なのだから!

 

 ヨゼフは不安を覚えた。彼が常日頃から感じている不安、あの漠然として捉えどころのない、薄い絶望感と濃い焦燥感の混合物である不安が、今は爆発的に彼の心の中で膨らんだ。彼は火酒の三分の四リットル瓶へと手を伸ばした。瓶の中身はもうわずかだった。彼は一気にそれを口の中へ流し込んだ。こぼれた液体が口の中を焼いた。

 

 酔いが訪れるのにはまだ時間がかかった。彼はもう何本か煙草を吸い、新しい酒の瓶の封を開け、さらに中身をあおった。

 

 喉を走る灼熱感すら覚えなくなった頃には、ヨゼフの不安もどこかへ消えていた。しかし彼は、不安が消えてしまったわけではなく、単に感じなくなってしまっただけであることも知っていた。痛みと同じだと彼は思った。感じなくなるだけで、それは存在している。そうであるからこそヨゼフはさらに酒を飲んだ。

 

 気が付いた時には朝になっていた。ヨゼフは、今度は床の上で目が覚めた。時刻は六時半だった。這うようにして洗面台へ行き、割れた鏡を見ながら顔を洗った後、彼は煙草に火を点けた。一息吸って、猛烈な嘔吐感がこみあげた直後、彼は吐いた。出てきたのは黄色い胃液だけだった。歯が痛むのを彼は感じた。

 

 ヨゼフは擦り切れて退色した上着を羽織った。そして、しばらく考えた後、彼は机の上にある回転弾倉式の拳銃を取り上げて、上着の左ポケットへ乱雑に押し込んだ。拳銃には弾丸が一発だけ装填されていた。昨晩、彼はある目的のためにそうしたのだった。

 

 ヨゼフはふらつきながら部屋の外へ出た。外廊下の扉を開けると、朝靄が毒ガスのように中へと流れ込んできた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ニセモノの居場所ならば不思議と分かっていた。ヨゼフはなぜとも思わなかった。ただ彼はその場所へ向けてひたすら足を運んでいった。

 

 日曜日の朝の新市街にはほとんど誰もいなかった。城壁のような灰色の建物の棟々が、朝の白い空を四角く区切っていた。ヨゼフの靴音には力がなかった。石畳の隙間にはゴミが詰まっていて、日陰に生えている緑の(こけ)だけが地上の生命を示していた。

 

 薄汚れた浮浪者が(くずお)れたように路上で眠っていた。ヨゼフは戦地でのことを思い出した。敵の砲撃が終わった後は決まって、塹壕内のどこかにあの浮浪者のような兵士がいた。なぜか対爆壕の外にいて、眠っているように壁面に寄りかかっている兵士。こちら側から見るとなんともないが、反対側に回り込んでみると……

 

 ヨゼフは、これから自分が会おうとしているニセモノも、案外そういうものかもしれないと思った。赤く抉れていて、中身が飛び出している何か。粉砕され、切り取られ、すり潰された、もう半分。自分が会おうとしているのがそういうものであるならば……なぜなら、それは自分の中から引き抜かれた何かによって作られたからだ。そうである可能性は高い。それならば気が楽だ。それは見慣れたものだからだ。

 

 新市街から道を進んで橋を渡り、ヨゼフは黒く澱んだ幅広のブルタバ川を越えた。途中、通り過ぎたストジェレツキー島はひっそりと静まり返っていた。

 

 庭園を左手に見ながら道を北上し、プラハの城内に入った頃には、時刻は七時半になっていた。ヨゼフは空腹を感じなかった。ここ最近、彼は空腹を覚えたことがなかった。それよりも彼は、今は一刻も早くニセモノを見つけなければならないと思っていた。彼は喘いでいた。

 

 城内の町並みは整っていて、色合いも豊かだった。街路には塵ひとつ落ちていなかった。戦場で、突然開けたところに出てしまった気分だった。どこかから狙われている。一刻も早く、彼はこの市街から去りたかった。しかし彼にはまだ果たさなければならない命令が残っていた。

 

「ニセモノを撃て」

 

 足の赴くままにヨゼフは城内を歩き回った。そのようにしなければニセモノの元に辿り着けないと彼には分かっていた。ヨゼフはいくつもの城壁をくぐり、門を通り、堀を越えた。そして三十分後に、彼は大聖堂に辿り着いた。ニセモノがこの中にいることを、今や彼は直感していた。高く(そび)える二本の塔と一本の鐘楼が、まるで監視者のように立っていた。ヨゼフは、なんとなく歩哨を連想した。撃たれても撃たれても、歩哨は毎日、毎晩、その場所に立っていた。

 

 ちょうど九時からのミサが始まるところで、市民たちは群れを成して急ぎ足で聖堂の中へ入っていった。ヨゼフもそれに混ざった。聖堂はつい数年前に、千年来の工事を終えたばかりだった。ファサードには(しゅ)の受難が複雑で精緻な彫刻として刻まれていた。ヨゼフはそれを見なかった。

 

 聖堂の中は薄暗かった。入った瞬間、ステンドグラスの青さがヨゼフの目を撃った。描かれている救い主の表情をまともに見ることができず、ヨゼフは伏し目がちで側廊(そくろう)を歩いていった。別のステンドグラスには祖国に教えを広めた聖ツィリルと聖メトディウスが描かれていた。かつて芸術家が情熱を込めて描いた民族と母国の歴史を、もちろん彼もかつてはよく知っていた。しかし、今や彼はそれをすでに忘れていた。

 

 ヨゼフは時折、視線をあげてニセモノを探した。もう十メートル、あるいは数メートル以内にそれがいることは分かっていた。彼は身廊(しんろう)に入った。横に長い座席の列にはすでに人が埋まっていて、座席の間にもどこかに空いているところがないかと探している人々で満ちていた。

 

 夜闇を薄めたような暗がりの中で、人の群れは黒い塊のようにしか見えなかった。塹壕から飛び出して、空白地帯を兵士の列が進んでいく光景をヨゼフは思い出した。みな、死に向かって進んでいた。一丸となって、黒い塊になって、兵士たちは何かに引きずられるように敵陣へと進んでいって……銃剣の穂先だけが白く光っていた。それが命令だった。だが、その後は……?

 

 パイプオルガンの音がヨゼフの追憶を打ち切った。オルガンは聖堂のどこか上の方にあるようで、はっきりとその場所は分からなかった。音楽は敵機の爆音にも似ていた。敵機が偵察に来た後は、必ず砲撃があった。

 

 彼はさらに身をかがめて、空いている席はないかと視線を走らせながら奥へ進んでいった。砲撃痕の水溜りに身を投げて、敵の銃火を(かわ)した時のことを彼は思い出した。あの時も必死になって水溜りを探したものだった。そして、水溜りの中には必ず死体があった……握り締められた手、固く冷たい指……ろうそくのような真っ白な指。

 

 内陣は黄金に輝いていた。燃えているようだった。その前に置かれた主祭壇は大きく、堅牢な造りだった。黄金の光がヨゼフの目を刺激した。彼は目がくらんだが、それでも視線を走らせて目的とするものを探し続けた。

 

 ついに、ヨゼフはニセモノを見つけた。

 

 ニセモノはちょうど彼の左前方二メートルにいた。ヨゼフが腰かけた座席の前列に座っていた。ヨゼフは驚かなかったが、心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。彼は自分が声をあげなかったことを幸運に思った。

 

 ニセモノはじっと目を閉じて座っていた。上質な素材の、仕立ての良い黒い上着とシャツを身に纏っていて、溌剌(はつらつ)さと明るさと、清潔感を醸し出していた。それを見た時、あたかも白い清浄な光がやわらかな香りを纏ってそこにいるような印象をヨゼフは受けた。

 

 あまりにも自分と違うから、これは間違いなく自分のニセモノだ。ヨゼフはようやくほっとしたような気持ちになった。

 

 まだミサは始まっていないのに、ニセモノは手を組んで何かを一心に祈っているようだった。ヨゼフはニセモノの顔を見つめた。見れば見るほどそれは彼そのものだった。ただし、ニセモノは健康で血色が良く、今の彼よりも若かった。髭は綺麗に剃られていた。

 

 ヨゼフは、ニセモノの顔をどこかで見たことがあると思った。そして、数秒も経たずにそれを思い出した。ニセモノは、ちょうど入営した当時の自分だった。祖国を守るという意志に燃えて、どのような苦難も乗り越えてみせると誓ったあの時の自分……学業を投げ打って、戦地の土となって消えようとも怨むまいと仲間の前で嘯いてみせたあの時の自分……それとまったく同じだった。

 

 ありとあらゆる命令に服従すると誓った頃の、あの自分。それがすぐ近くにいる。

 

 そうなると、ニセモノは過去の自分なのだろうか? ヨゼフは考えた。あの時の雷鳴は、自分から過去を引きずり出して、それを元にしてニセモノを作り上げたのだろうか? オルガンの音は次第に高さを増していた。そろそろミサが始まるようだった。

 

 ヨゼフはさらにニセモノを見た。実際のところ、ニセモノは昔の自分ではなかった。ニセモノの右頬には一筋の傷跡があった。それはヨゼフが戦地で負った傷の跡だった。髪には白髪が何本か混ざっていた。

 

 では、これはやはり今の自分のニセモノなのだろう。ヨゼフは納得した。彼は上着のポケットへと手を伸ばした。そこにあるものの重みが、今では彼に安心感を与えていた。

 

 突如として、彼の中で命令が響いた。

 

「ニセモノを撃て」

 

 今、やろうか? この距離ならば外さない。

 

 ヨゼフは視線を周囲に走らせた。ニセモノはまだ目を閉じていた。そろそろ目を開けるかもしれない。ミサはもう数分以内に始まるだろう。彼は拳銃から手を戻した。今ではない。

 

 周囲の人間が一斉に立ち上がった。司祭が入堂したようだった。視界の端でニセモノが立ち上がったのを見て、ヨゼフも腰を上げた。会衆が司祭を迎えるために歌を歌い始めた。彼は歌わなかった。その代わりに、彼はニセモノを見ていた。ニセモノは前を見ながら一心に歌っていた。その様子からは堅固な信仰心が感じられた。

 

 振り向いたら、こちらに気づくだろう。そう思いつつ、ヨゼフはニセモノが決して振り向くまいと確信していた。あるいは、最後の瞬間まで、ニセモノは振り向くまい……

 

 侍者を伴った司祭が主祭壇の前に立った。回心の祈りが始まった。ヨゼフはここで初めてニセモノの声をはっきりと聞いた。

 

「全能の神と、兄弟姉妹に私は告白します。私は思い、言葉、行動、怠りによってたびたび罪を犯しました……」

 

 声は自分のもののように思われなかったが、それでもヨゼフは確かにそれが自分の声だと感じた。声は透き通っていて、清らかだった。彼は少年時代を思い出した。詩の朗唱で表彰され、学校の生徒の前で読み上げたこと……母の誕生日に詩を贈り物として捧げ、家族みんなの前で読み上げたこと……今の自分の声はどうだ? 彼は思った。最後に声を出したのはいつだったか……?

 

 いつの間にか、会衆が「アーメン」と唱えていた。賛歌が歌われた。

 

「天には神に栄光、地には御心にかなう人に平和……主なる御ひとり子イエス・キリストよ、神なる主、神の子羊、父の御子よ……聖霊とともに……アーメン」

 

 ヨゼフは歌わず、ただニセモノだけを見ていた。ニセモノの顔は輝いているようだった。心の底から祈っているようだった。彼は気分が悪くなってきた。こいつは、ただ俺に撃たれるために存在しているこいつは、一体何を祈っているのだ……? 

 

 それと同時に、歌声が彼にある光景を蘇らせた。突撃の前、従軍司祭を囲んで俺たちは讃美歌を歌ったものだった。「ただひとり聖なる方、すべてを超える唯一の主……」 司祭は去り、俺たちは擁壁を登り、そして着剣して……号笛の一声。将校の命令。前進せよ。

 

 司祭は俺たちの死を見届けたことはなかった。司祭はただ、俺たちの死の結果を見ていただけだ。腕が無くなり、足が欠け、内臓が出て、白い無数の蛆と黒い蠅に集られている俺たちの死体……ただの死の結果。それを見て、司祭は神に祈りを捧げただけだった。

 

 言葉の典礼が始まっていた。今日は主日であるから三つの朗読があった。第一朗読ではどうやらエレミア記が読まれたようだったが、ヨゼフには何も分からなかった。朗読の言葉が水中のように響いていた。

 

「彼らは主について偽り語って言った、『主は何事もなされない、災いは我々に来ない、また剣や、飢饉を見ることはない。預言者らは風となり、彼らのうちに言葉はない。彼らはこのようになる』と」。それゆえ万軍の神、主はこう言われる、「彼らがこの言葉を語ったので、見よ、私はあなたの口にある私の言葉を火とし、この民を(たきぎ)とする。火は彼らを焼き尽す」。主は言われる、「イスラエルの家よ、見よ、私は遠い国の民をあなた方のところに攻め来させる。その国は長く続く国、古い国で、あなた方はその国の言葉を知らず、人々の語るのを悟ることもできない。その(えびら)は開いた墓のようであり、彼らはみな勇士である。彼らはあなたが刈り入れた物と、あなたの糧食とを食い尽し、あなたの息子と娘を 食い尽し、あなたの羊と牛を食い尽し、あなたのぶどうの木といちじくの木を食い尽し、また剣をもって、あなたが頼みとする堅固な町々を滅ぼす……」

 

 第二朗読ではパウロの手紙の何かの一節が読まれた。それも彼には分からなかった。

 

「正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、私たちのためにキリストが死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである。私たちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう……」

 

 先唱者に導かれて、会衆はその都度歌った。ヨゼフは歌わなかった。ニセモノは歌っていた。その顔は深い悲しみを湛えていながらも、どこかに光を帯びていた。

 

 福音朗読が始まった。ヨハネ福音書の第十四章だった。司祭が読み上げるのに合わせて、会衆たちは再度起立した。ヨゼフも立ったが、彼は疲労感に覆われていた。突撃を終え、敵の塹壕に残された食糧を食い漁ったその後にやってくるあの深い疲労感……それと似ていた。

 

 敵の死体を横目に、俺はパンとチーズとハムを手当たり次第に口に詰め込んだ。敵の死体にはネズミが(たか)っていた。砕かれた頭蓋からは灰色の脳髄が溶けたように流れ出ていて、丸々と太ったネズミがそれに集って……俺はネズミの横で、ネズミのように食べ物を(むさぼ)り食った……

 

「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない……」

 

 司祭の声はヨゼフには届かなかった。彼はニセモノをずっと見ていた。ニセモノの頬は上気していた。薄いピンク色の頬には、自分と神はしっかりとつながっているという満足感と安心感が現れていた。それでも、その目からは悲しみの色は消えなかった。

 

 司祭の説教が始まった。低く反響する声はヨゼフを回想の渦へと導いた。ニセモノから、決して目を離してはならない。そう思えば思うほど、ヨゼフの思考はますます過去を掘り起こし始めるのだった。なぜ説教が過去の自分を照射するのか、ヨゼフには分からなかった。

 

 すべてが燃えていた。砲火が降り注ぎ、逃げ惑う兵士たちを敵の戦車(タンク)が追い回していた。戦車は群れを成していて、足を撃たれて動けなくなった兵士を轢き潰した。空からは飛行機が急降下し、小型の爆弾を投下しながら機関銃で掃射した。ヨゼフは傷ついた仲間を抱き上げ、肩に担いで逃げた。陣地に入った時には、仲間の頭部はなくなっていた。

 

 戻ってきたヨゼフに上官が言った。「銃はどうした?」 彼は答えた。「捨てました。仲間を抱えて走るには邪魔だったので」 上官はにべもなく言った。「今すぐ戻って、また拾ってこい……」 敵の戦車が迫り、砲火が地面を舐めていた。「さっさと行け、命令だ」 それでヨゼフはまた空白地帯へ戻っていった……

 

 意識が戻った。説教はまだ続いていた。ニセモノはじっと目を閉じて説教に聞き入っていた。深い信仰心がニセモノを輝かせているようだった。それは内陣の黄金よりも清らかなものとしてヨゼフの目に届いた。

 

 ここに至ってヨゼフは、その姿に確かに美を感じた。それはここ数年間、彼に訪れたことのない感情だった。彼は怯えた。撃てるのか? 彼は、急に上着の拳銃が重くなったのを感じた。

 

 説教が終わり、信仰宣言(クレド)が始まった。ヨゼフはそれを唱えなかった。彼はまた意識の底へ沈んでいた。撃てるのか……撃てるのか? 逃げ遅れた敵兵は若く、怯えきっていた。殴打され、砕けた歯が覗く口からは赤い血が流れ出ていた。仲間たちは銃剣を手にしていた。将校がヨゼフに言った。お前がやれよ、ヨゼフ。臆病者のお前が一人前になるには、こういうのが一番だぜ……命令だヨゼフ、こいつを撃て! 彼は拳銃を抜いて、それを兵士の眉間に向けた……

 

 感謝の典礼の間、ヨゼフはずっと起きずにいた。いつしか聖体拝領も終わっていた。拝領の歌も、拝領の祈願も終わり、司祭と侍者が退堂していった。会衆は閉祭の歌を歌って、その後は何か夢から目覚めたように座席から離れ始めた。その時になって、ヨゼフもようやく意識が戻った。

 

 ニセモノが立ち上がった。ヨゼフも立ち上がり、後方二メートルのところにつけて後を追い始めた。ニセモノは進み、やがて聖堂から出ていった。

 

 ヨゼフは喘いでいた。その瞬間が間近に迫っているのが分かっていた。ニセモノは橋へと向かっていた。ニセモノが橋を越えて新市街に入り、俺の家に入ったら……すべてが終わる。ヨゼフはそう思った。

 

 歩いている間、ニセモノは常に晴れやかな顔をして世界を眺めていた。ニセモノは物乞いに金をやり、老婆を助けてやった。そして、そのたびに手を組んで祈るのだった。それを見るたび、ヨゼフは怯えを強くした。こいつを殺せるだろうか? 過去の記憶がヨゼフを(むしば)んだ。

 

 撃つ直前、敵の兵士はヨゼフに向かって両腕を差し出し、何かを叫んだ。明らかに命乞いをしていた。それでも彼は引き金を引いた。弾丸は兵士の頭部を貫通した。破裂したトマト缶のようになった兵士の顔は、絶望で歪んでいた。ズボンは失禁して濡れていた……

 

 俺もニセモノのように、世界をもう一度愛することができたら……そんな考えがふと湧いた時には、ヨゼフはもう橋の上にいた。

 

 橋には誰もいなかった。歩いているのはニセモノとヨゼフだけだった。この橋を渡り終える前にニセモノを撃たねばならない。それでもヨゼフは上着の拳銃を取り出せなかった。

 

 突然、ニセモノが振り向いた。

 

 ニセモノはしっかりとヨゼフの顔を見つめた。その顔はどこまでも穏やかで、柔和だった。しばらく二人の視線が絡み合った。ヨゼフは、ニセモノが自分のことを憎んでもいなければ、敵意も持っていないことに気が付いた。ただ、その目だけは深い悲しみを湛えていた。

 

 いまや、ヨゼフの中で命令が何度も反復していた。

 

 ヨゼフよ、ニセモノを撃て!

 

 突然、ニセモノが口を開いた。

 

「撃つが良い、私のニセモノよ」

 

 温かな声だった。ヨゼフは何も言えなかった。さらにニセモノは言った。

 

「私がホンモノであり続けるために、私はニセモノのお前に撃たれなければならないのだ。それが私に与えられた命令だからだ。そのための準備はもう済ませた。早く私を撃て。私は命令を果たさねばならない」

 

 ヨゼフは震える手で拳銃を取り出して、撃鉄を起こした。引き金を引きさえすれば、弾倉内の銃弾は至近距離にいるニセモノに命中するはずだった。彼は言った。

 

「俺がホンモノだ。ニセモノはお前だ」

 

 ニセモノが答えた。

 

「そうかもな。だが、二人ともホンモノで、あるいは二人ともニセモノかもしれん。だが、そんなことはどうでも良い。命令は命令だ」

 

 ヨゼフはなおも躊躇した。ニセモノは微笑み続けていた。その顔は輝いていた。

 

 ここで撃たなかったら、俺は……

 

 それでも彼は撃てなかった。あの時の兵士の顔が脳裏を(よぎ)った。絶望で捩れた表情……哀願する若い兵士。

 

 ニセモノが懇願するように叫んだ。その目は潤んでいた。

 

「どうした、なぜ撃たない!? 撃たねばならないことを、お前も知っているだろう! さあ、撃て! 私を撃ってくれ!」

 

 ヨゼフは嘔吐した。彼は引き金を引こうとした。昨日の夜も彼はそうしたのだった。そして、引き金が三回引かれたところでそれを断念した。もう一回引けば楽になれたかもしれないのに、どうしても彼はそれができなかった。理由は分からなかった。苦しくて、不安で、死ななければならないと思っているのに、彼はなぜか引き金を引けなかった。

 

 今もそうだ。ヨゼフの目から涙が零れ落ちた。滲んだ視界の中にニセモノが立っていた。それはもうニセモノではなかった。それは彼自身だった。輝くように生命が満ちているのに、死を望んでいる自分自身だった。

 

 許された自分、愛することのできる自分、愛される自分、理由もなく生きていて良い自分……これまで心の奥底でずっと感じていた、そうなりたい自分。それなのに、それはホンモノとして死を望んでいて、今ニセモノによって死のうとしている。

 

 ヨゼフは叫んだ。

 

「俺は、撃たない! お前を撃ちたくない! 俺はお前になりたいんだ!」

 

 ヨゼフは構えていた拳銃を川に投げ捨てた。拳銃は真っ直ぐな軌道を描いて川へと落ちた。彼は俯き、肩で息をしていた。

 

 恐々と顔を上げて、彼は周囲を見回した。

 

 もう一人のヨゼフは、どこにもいなかった。風に溶けて消えてしまったかのように、もう一人のヨゼフは姿を消していた。広い橋の上を、午後の太陽が明るく照らしていた。川の風は冷たかった。流れ込む都市の汚わいの臭いが、ヨゼフに現実的な感覚を取り戻させた。

 

 ヨゼフは、そのとき突然、何か清らかで温かなもので心が満たされるのを感じた。それまでの自分に欠けていたものが戻ってきたようだった。欠けてはならなかったものがついにあるべき場所へと戻ってきたような、そういう高揚感も伴っていた。

 

 命令は、もう聞こえてこなかった。

 

 ヨゼフは深く息を吐いた。生きたいと、彼は切実に思った。生きたい。彼は空腹感を覚えた。身を割くほどに強い空腹感だった。彼はそれが心地良かった。

 

 これまでに感じたことのない明るい気持ちを抱いて、ヨゼフは自分の家へと帰っていった。おおらかなブルタバの川は何事もなかったかのように、無垢な赤子が瞬きするように黒い水面を光らせ続けていた。




※以下、作品メモとなりますので、興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「ヨゼフよ、ニセモノを撃て」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第234回「ニセモノ」に応募した作品です。2024年12月1日公開。エブリスタ版と比べて2,300字ほど加筆されています。

 哲学の思考実験としてスワンプマンというものがありますが、今作は当初それを元にした話にする予定でした。最初の「雷鳴」がその名残です。しかし結局、この話は戦争で傷ついた男がニセモノとの対峙の果てに自己を取り戻すという話になりました。個人的には実在する建物と実在する典礼を元にして書いた作品なので「よく勉強になった」という感じです。

 次回もお楽しみに! そろそろストックが尽きてきていてマズい……
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