ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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47. シモンの草原、ホンモノの世界

 世界は燃えていた。戦争の劫火(ごうか)が全世界を包んでいた。それでも、小さなシモンには、それまでのところそれは何の関係もなかった。

 

 町はずれの何もない草原(プリャヴァ)が、幼いシモンにとっての世界そのものだった。畑があるわけでもなく、川が流れているわけでもなく、作業所があるわけでもない。牛が飼われているわけでもなく、馬が草を食んでいるわけでもない。木もなく、丘もない。ただ草花が生えていて、それがやわらかな陽の光を浴びて淡く光っている。微かな風が吹き、花が小さく揺れ、白い花弁の波の中で小鳥やネズミが(かて)を求めて細かく動き回っている。そんな草原がシモンの住む街の外れから、遠くの黒くて深い森の方へと続いていた。

 

 草原は、ちょうど街一つがすっぽりと収まるほどの広さだった。名前はなかった。街の住民たちはみんな草原のことを「原っぱ」とか「草原(そうげん)」と読んでいた。シモンもまたそうだった。彼にとってその草原は彼の世界そのものだったけれども、世界というものはただ世界という名前ひとつだけで呼び表すことができるのであり、従って草原もまた草原と呼べばシモンにとってはそれで済むのだった。

 

 シモンはまだ幼かった。学校に通い始めてからまだ一年しか経っていなかった。彼は黒髪の小さな男の子で、手足は白く細く、体は薄く、目は臆病そうに光っていた。

 

 街の学校は小さく、教師は校長を含めて三人しかいなかった。上級クラスの先生がひとりと、下級クラスの先生がひとり、それに校長の三人だった。教師たちはあまり熱心ではなかった。シモンも、あまり勉強に対して興味を持つことはなかった。

 

 午後の授業が終わるといつも、シモンはカバンを持ったまま草原へと向かった。学校のある通りをそのまま東へ歩き、住宅街の角を曲がる。ここまでは道路は石畳と煉瓦で舗装されていた。住宅街を抜けると、道路はもうただの土と泥の道になってしまう。剥き出しの地面にはいつも濁った水溜りがいくつもあった。シモンはそれを器用に避けてさらに先へと進んでいく。町はずれに来て千年以上も昔の城壁の跡を横切り、夏には涸れてしまう小川とも呼べない水流を渡ると、そこはもう草原(プリャヴァ)だった。

 

 シモンは草原でひとりで遊んだ。その時間帯、その場所には彼以外にも子どもたちがいて、ボールか何かで遊んでいるようだった。だが、シモンはその仲間に入ったことはなかった。彼自身も仲間に入ろうとは思わなかった。学校に通い始めた頃はそうではなかった。彼は他の子どもたちと同じようにみんなで一緒に遊びたいと思い、この草原で遊んでいる子どもたちへ声をかけ、そして受け入れられた。

 

 しばらくはみんな仲良く一緒に遊んでいた。しかし、一ヶ月が経った頃になって、子どもたちの集団のリーダーの男の子が、シモンに「もう来るな」と言った。「お前は俺たちと一緒に遊んじゃいけないことになっている」と、彼は続けて言った。なぜ? とシモンが問うと、男の子はたった一言、「ニセモノ!」と叫んで、黄色い星のワッペンがついているシモンの胸を突き飛ばした。地面に倒れた時、小さな白い花が雪のように散った。それ以上、子どもたちの間で会話はなかった。

 

 それからシモンはひとりで遊び始めた。遊びつつ、彼は常に問いを発していた。もし自分がニセモノならば……それでは彼らはホンモノなのだろうか? そして、もし彼らがホンモノで、自分がニセモノなのだとしたら……? そこで彼は、やはり自分は彼らと混ざってはいけないのだろうと結論した。さもなければ、誰がホンモノで誰がニセモノか分からなくなってしまう。おもちゃのコインをホンモノのコインに混ぜてはいけないのと同じだ……

 

 自分はニセモノかもしれない。しかしシモンにとってはそれはどうでも良かった。この草原で遊べるのならばそれで良かった。他の子どもたちも、彼がひとりで遊んでいる分には何も文句は言わなかった。ただ、そこにいないものとして彼は扱われた。

 

 幸いなことに、シモンにとって草原は広かった。一人で遊ばなければならないというその事実を忘れるほどに、平原は広かった。彼はほどなくしていろいろなことを覚えた。ネズミや野ウサギの巣穴の見つけ方、モグラのトンネルを掘り当てる方法、季節の草花、様々な昆虫、小鳥の捕まえ方、ヘビの殺し方と皮の剥ぎ方……シモンが退屈を覚えることはなかった。時々、他の子たちと共に遊びたいという気持ちが春の雷雲のように湧きおこることはあったけれども、彼はその気持ちを押し殺すことができた。彼はそういうことには慣れていた。

 

 遊びの内容はその時々で異なっていた。ネズミの巣穴を見つけるのに興じる日もあれば、野ウサギの後をそっとつける日もあった。巣穴を見つけてもシモンは何もしなかった。それを埋めたり、あるいは子ネズミを掘り出して殺したりといったことは、彼は一切しなかった。そのようなことを彼は考えたことすらなかった。しかし、モグラのトンネルにだけは彼は厳しい態度をとった。モグラは悪い生き物だと彼は以前誰かから聞かされていた。彼はモグラを殺すようなことはしなかったが、トンネルを見つけると、片っ端から掘り抜いて落盤させた。

 

 季節の草花について、シモンは何か確固たる知識としてそれを知っているわけではなかった。その花の名前もその草の種類も、彼は何も知らなかった。ただ、彼はそれがいつ芽生え、いつ咲き、いつ実を結ぶのかを知っていた。草花にも生命のサイクルがあるということを彼はしっかりと認識していた。学校には植物図鑑があったが、彼がそれを開くことはなかった。図鑑という書物と、実際に草原に生えている草花とが彼の中ではどうしても結びつかず、結局それは一種の怖れにも似た何かとなって、彼から図鑑を遠ざけさせていた。

 

 シモンは昆虫をよく殺した。残酷な精神性の発露というわけではなかった。虫が好きかと問われれば、おそらく彼は好きと答えるはずだった。彼にとって、虫を殺すことは虫と遊ぶことと同義だった。蝶は翅の鱗粉をたっぷりと指にまぶしつけて、指先が青紫色になるのを楽しんだ後、翅をもぐか、あるいはつまんだまま蜘蛛の巣へと持っていってやる。甲虫は踏みつけてもなかなか死なないから根競べをする。アリの巣は見つけ次第掘り返してやって、やがて引っ越しの大行列が起こるのを待つ。芋虫やミミズは頭部だけを潰して、平たい石の上に並べてやる。そのうち鳥が舞い降りて、期せずして手に入れた食物を堪能し始める。シモンはそれをちょっと離れたところから満足そうに眺めるのだった。

 

 小鳥の捕まえ方は、シモンの家の近所に住むおばあさんから教えてもらった。まず女性の髪の毛か、馬の尻尾の毛を用意する。地面に置いて、その一方の端に小さい輪を作ってやる。その輪にもう片方の端を通すと、自在に開いたり閉じたりする罠ができる。これを草の茎にしっかりと結び付けて、あとは近くに餌を置いてやれば、小鳥がそれを食べに来て……足に絡まった毛を小鳥は引っ張って取ろうとするから、余計に輪が閉じてしまうというわけだった。シモンはこれを習得するのに一ヶ月ほどかかった。一番最初の工程の、小さな輪を作るのが難しかったのだ。捕まえた小鳥はすべて放してやった。殺そうなどとは彼は思ってもみなかった。

 

 ヘビの殺し方は、簡単だった。この草原に住んでいるヘビはどれも臆病で、毒を持たない種だった。たまたまヘビに出会うことがあると、シモンは距離を取ってまず観察をし、それからヘビが気づかないほどに徐々に距離を詰めていく。運よくヘビを掴めるところまで近づいても、成算は三割以下だった。捕まえることができたら、ヘビを頭上で振り回して、その頭部を石に叩きつける。彼の中でヘビは殺しても良いものだった。なぜならヘビは殺されるために存在しているからだった。

 

 遊びを通じてシモンは大きくなっていった。だが、誰もその大きくなっていくさまを見たことはなかった。シモンは草原の中で、いつも一人だった。

 

 ある時、シモンは草原の向こう側にまで行ってみたことがあった。草原のこちら側、街のあるこちら側ではなくて、ちょうど向こうにある黒い森の側、あちらの方には何があるのだろうか? それはちょっとした冒険だった。

 

 その日、学校を出たシモンは、急ぎ足で草原へ向かった。草原に入った頃にはまだ日は高く、密かに忍び寄る夜の気配はどこにもなかった。彼はさっそく出発した。どこまで行っても似たような景色が広がっていた。緑の海と、花の波しかなかった。海というものをシモンは見たことがなかったけれども、きっと海を行く船乗りも自分と同じような気持ちなのだろうと彼は思った。

 

 不安と期待が高まって、シモンの息が荒くなってきた。そして、いよいよ黒い森に近づいたその時、彼の目の前に出現したのは無機質な柵だった。二重に有刺鉄線が張られていた。設置されてからかなりの時間が経っているようで、鉄線の棘の先は赤く錆びていた。柵には等間隔に「国有地(ナツィオナラ・ゼメ)」という札が下がっていた。しかし、彼はまだそれを読むことができなかった。

 

 その赤い文字の並びを見て、彼は来てはならないところに来てしまったような気がした。それは彼の世界にそぐわない、何かしら異様なものだった。それは単なる表示ではなく、また警告でもなく、ある種の呪文だった。意味の分からない呪文だった。そこは間違いなく世界の果てだった。

 

 柵の向こうには森が広がっていた。森の中は暗く生き物の気配はなかった。シモンは怯えた。だが彼は怯えつつも、世界の果ての向こうには、また別の世界があるのかもしれないと思った。彼は有刺鉄線に沿ってしばらく歩いてみた。向こう側へ行ける場所があるかもしれない。

 

 五分か、それとも十分か歩いて、ふとシモンは足元に穴があるのに気が付いた。それは野ウサギの巣穴だった。使われなくなってからだいぶ時間が経っているようだった。彼はしゃがんで穴を観察した。どうやら穴は有刺鉄線の下の地面を通り、森の中へ続いているようだった。

 

 穴に入ろうか? シモンは少しだけ考えた。穴の幅はぎりぎりだった。無理にでも体を押し込めば、おそらく子ども一人ならば通ることができるだろう。でも、もしかしたら途中で行き止まりになっているかもしれない……そうなったら、ちゃんと元に戻ることができるのだろうか?

 

 こちらの世界と、未知の世界をつなぐ穴。自分の世界と、その外の世界をつなぐ穴……シモンの心は揺れた。入ろうか、それとも……?

 

 冷たい風が吹き、(こずえ)が音を立てて、寒気が耳と鼻を痛いほどに刺激した時、ようやくシモンは時間の感覚を取り戻した。空を見上げると、太陽はもう沈みつつあるところだった。滲んだような赤い太陽は何か異様なものとして彼の目に映った。彼は穴から離れると、大急ぎで草原を引き返し始めた。いつもの見慣れた場所に戻った時にはもう太陽は沈んでいた。彼は自分の目から涙が出ていることに気づいたが、それでも自分が泣いているとは思っていなかった。

 

 いつもより遅く家に帰っても、父と母からは何の言葉もなかった。父は酒の臭いが濃く充満している部屋で横になっていて、母は疲れた顔をして台所にぼんやりと座っていた。その日もシモンは一人で眠った。それで彼は構わなかった。彼は両親の邪魔をしたくなかった。眠りの中で両親の声が聞こえてきた。「戦線は……」「膠着している」「仕事は……」「俺たちのような()()()()に仕事なんて……」「噂だと隣町では……」「知るもんかよ」

 

 時間の経過に伴って、シモンは少しだけ大きくなった。肉体的な成長と精神的な成長は並行していた。彼は次第に、あの草原こそが自分にとってのホンモノの世界で、街はニセモノの世界なのだと思うようになった。なぜそのように考えるようになったのか、彼自身も分からなかった。

 

 そのきっかけならば、あった。ある日、教師が授業中に「ホンモノの国民とニセモノの国民」と言った。「ニセモノの国民」ということを教師が言ったその時、教室の全員がシモンを見た。教師はその後も何か言葉を続けた。

 

「ニセモノの国民は、この世界そのものをニセモノにしてしまう。この戦争でもそうだ。彼らはすべてがニセモノで、この世界を内部から崩壊させようとしている国際的な組織の手先なのだ……彼ら自身はそのことを認識していないとしても、彼らは機能としてそのような役目を果たしている」

 

 それ以来、シモンの中に「ホンモノ」と「ニセモノ」という言葉と概念がそれまで以上により堅固に根付いたのだった。彼にとってホンモノは単に良いものであり、ニセモノは悪いものだった。世界というのは、彼にとっては自分自身が今いるこの場所だった。街と学校と家はなんとなく悪いところで、草原はなんとなく良いところだ。つまり、自分にとって、草原こそホンモノの世界だ。彼はますます草原で遊ぶようになった。

 

 唯一、シモンはあの穴のことが気になっていた。あの穴はどこにつながっているのだろうか? もしかすると、あの穴の向こうには、ホンモノでもニセモノでもない世界が広がっているのかもしれない。ニセモノの自分がニセモノとかホンモノとか考える必要がないような、そういう世界が、あの穴の向こうにはあって……

 

 そのように考えるからこそ、シモンはなかなかあの穴に近づけないでいた。

 

 

☆☆☆

 

 

 その日の帰り道に、シモンは言いようのない不安を覚えた。

 

 学校を終えて草原へと向かっていたシモンは、大きなトラックが三台、街の大通りを走っているのを見た。濃緑色の軍用トラックだった。荷台には蒼ざめた顔をした兵士たちが立っていた。小銃の先が鈍く光っていて、丸みを帯びたヘルメットの縁は塗装が剥げていた。トラックの後ろには小さな黒い乗用車が続いていた。乗用車には小さな旗がついていたが、シモンはそれを見たことがなかった。赤地に黒い(かぎ)形のマークが記されていた。

 

 トラックが草原へと向かっているのに気づいて、シモンの心臓の鼓動は高鳴った。何か、世界に変わったことが起ころうとしている。彼は市街地を抜け、道を歩いた。そして、草原の入口に彼は立った。

 

 草原では変化が起こっていた。そこには何台ものトラックが止まっていた。トラックは木材と、リール状になった金属製の何かを積んでいた。しばらく見つめて、シモンはようやくそのリールが有刺鉄線を巻いたものであることに気が付いた。兵士たちと、兵士とは違った服装をした大人たちが働いていた。彼らは草を刈り、木の棒を規則正しい間隔を置いて地面に打ち込んでいた。あまり熱心な働きぶりではなかった。別の一角では何か建物を建てていた。それは塔のようだった。ちょうど街の教会堂と同じくらいの高さだった。

 

 兵士たちは、なにやら聞き慣れない言語を話していた。半分聞き取れるような、半分しか分からないような、そういう言語だった。自分の世界で彼らが何をしているのかもっと確かめたくて、シモンは彼らに近づいた。兵士たちは、小さな子どもがたったひとりで近づいてくるのを見ると表情をほころばせた。ひとりの兵士が道具を置いて、笑顔でシモンに近づくと頭を優しく撫でた。兵士の節くれだった指からは煙草のにおいがした。

 

 何か聞き慣れない言葉を言いながらシモンを抱き上げると、兵士はなにやら変わった表情と仕草をした。兵士はさらに、シモンの星のワッペンが付いた胸を指先で軽く叩いた。シモンはそこから「ここに来てはいけない」というメッセージを読み取った。兵士はシモンに小さなチョコレートの板を一枚与えた。彼はそれを持って、その日は家に帰った。

 

 次の日の朝、学校に行こうとしてベッドから起きたシモンは、母から「今日は学校に行かなくて良い」と言われた。母はその理由までは言わなかった。シモンもまたそれを訊かなかった。彼は母に草原へ行っても良いかと尋ねた。昨日の兵士は「ここに来てはいけない」と言ったが、街がニセモノの世界である以上、シモンはホンモノの世界である平原に行かねばならなかった。また、昨日の兵士たちが平原で何をしたのか、ホンモノの世界をどのように変えてしまったのか、彼は知りたかった。しかし、母は無言で首を左右に振った。

 

 その日から一週間、シモンは半ば家に閉じ込められた。父と母は口喧嘩が多くなった。大抵は父が怒鳴り、母が怒鳴り返し、そして最後は父が母を殴って、母が泣いて終わるのだった。時々、父はシモンの部屋にもやって来た。父は理由も告げずにシモンを殴った。そして、殴った後は決まってシモンを抱き締めて、その乱雑に髭が生えた顔を悲しみに歪めて泣くのだった。アルコールの臭いがシモンの嗅覚を刺激した。

 

 シモンは、父と母に対して何も思うことはなかった。可哀想だとも、怖いとも思わなかった。彼にとってこの家は街と学校と同じくやはりニセモノの世界に過ぎなかったから、この世界で父と母が喧嘩をしたり、あるいは父が殴ったりしても、そういう嫌なことはこのニセモノの世界では起こり得ることだとして受け止めることができた。

 

 気がかりなのは、草原だった。ホンモノの世界はどうなってしまったのだろうか?

 

 一週間後の早朝だった。突然、家の玄関のドアが蹴破られた。その前から、シモンは何かを感じて起きていた。家に入ってきたのは兵士たちだった。銃を持っていて、小銃の先には鋭い銃剣がついていた。兵士たちは静かに、何も言わず、シモンと父と母を部屋から引きずり出し、家の前に止めてあるトラックへ向けて連れて行った。

 

 父は何の前触れもなく兵士の一人から殴打されたが、それでも父は抵抗しなかった。トラックまで来ると、父は黙ってシモンを抱き上げた。(ほろ)がかけられたトラックの荷台の中には、近所の見知った人たちが座っていた。いずれも老人たちばかりだった。全員が、胸に黄色い星のワッペンをつけていた。

 

 トラックは何度も止まり、そのたびに新しい人々を乗せた。最後に止まった時には、荷台はもう満員だった。それからトラックは止まることなくしばらく走り続けた。シモンはトラックがどこに向かっているのかがなんとなく分かった。たぶん、草原に向かっているのだろう。彼は胸を弾ませた。

 

 大きく揺れてトラックが停車し、そして何か異国の言語で呼び交わす声が聞こえた。そしてまたトラックは少し走ると、今度こそ完全に停車してエンジンを止めた。荷台に兵士が乗り込んできて、乗っている人々に降りるよう乱雑な身振りと手振りで指示した。

 

 高い荷台から見た草原の様子は、一変していた。

 

 シモンは息を呑んだ。見渡す限り、そこには人がいた。老人がいて、男の人がいて、女の人がいた。子どもたちもいた。若者の姿はあまりなかった。普段着の人もいれば、外套を羽織っている人もいた。仕事着の人もいれば、寝巻きのままの人もいた。全員がそのまま草原に座っていた。バラックもなく、小屋もなかった。建てられたばかりの有刺鉄線の柵が四方を囲んでいて、南東側と北西側の隅には高い塔が立っていた。塔の上には監視台があり、機関銃が据え付けられていた。

 

 遠くの方には黒い森が見えた。シモンは唐突に、あの穴のことを思い出した。あの穴に行けるだろうか? しかしここから穴に向かうには、新しく設けられた柵を越えなければならなかった。トラックから降り、兵士に急かされるままにシモンたちは人混みの中を歩き続けた。会話はなかった。誰も喋っていなかった。全員が俯いていて、時折視線を上げては空を睨んでいた。

 

 草原は荒れていた。草花は踏み折られ、踏み潰されていた。野ネズミの巣穴は埋められ、小鳥の巣は破壊されていた。ところどころに穴が掘ってあった。穴からは排泄物の臭いが漂っていて、蠅が何匹も飛び回っていた。

 

 シモンたちがそこに来た時は、まだ午前だった。ほどなくして昼が来た。食べ物や水の配給などはなかった。大人たちの間からしきりに溜息のような声が漏れていた。赤ん坊と子どもたちの泣き声が聞こえてきた。

 

 それでも、シモンは飢えも空腹も覚えていなかった。彼はただ、落胆していた。自分の知っている世界が変わってしまった。この草原はもう、自分が遊んでいたあの草原ではない。美しかった草原は、人が満ち、草花が折れ、臭いにおいが漂うところになってしまった。

 

 そうするとここはもう草原ではなくて街だ。街ということは、ここはニセモノの世界ということになる。ホンモノはどこかに消えてしまった。シモンは溜息をついた。街もニセモノの世界で、この平原もニセモノの世界になってしまったのならば……どこにホンモノの世界があるのだろうか?

 

 シモンは塔を見た。塔の監視台には兵士が二人いた。油断なく機関銃を構えていて、常に銃口を左右に動かしていた。ここから逃げ出す者がいたら、真っ先に撃ち殺されるだろう。そのことは幼い彼にもよく分かった。ただ、なぜ自分たちがこんなところにいるのか、なぜ自分たちがこんなニセモノの世界にいるのか、それが彼には分からなかった。

 

 時々、会話が聞こえてきた。シモンは耳を澄ませてそれを聞き取ろうとした。

 

「ここが最後ってわけじゃないらしい」「あくまで移送の途中で一時的にここに留まるというだけで」「じゃあ、この後はリガのゲットーへ?」「リガまでは列車だろうよ」

 

 一人の老人がシモンの側に座っていた。老人の左腕は肘の先がなかった。きょろきょろとあたりを見回すシモンに、老人はぶっきらぼうな口調で「おい、ぼうず」と声をかけた。シモンが顔を向けると、老人は右手を上着のポケットに入れて、中身を取り出した。それは黒パンの欠片だった。「食べろよ」と言って老人はそれを差し出した。シモンは小声でお礼を言うと受け取って、食べ始めた。老人はパンを黙々と食べるシモンを見つめながら、誰に言うでもなく言った。

 

「腹が減ればパンが欲しくなるし、喉が渇けば水が欲しくなる。ニセモノもホンモノもあるもんか。俺たちは()()()()()()()じゃねぇか。俺たちは……」

 

 誰かが老人に向かって言った。疲れきった声だった。

 

「馬鹿なことを言うんじゃねえよ。()()()()人間なわけがあるもんか。俺たちがホンモノなら、()()()()()()()()()()だ。それで、俺たちは自分たちがホンモノだってことを実力で証明できなかったから、奴らからニセモノってことにされて、今はこんなところで地面にへたり込んでいる……」

 

 老人は怒ったような、諦めたような表情をして答えた。

 

「確かに、ニセモノのやつらには分からねえだろうよ。だが、神様だけは分かってくださる。神様だけは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。神様だけは……そう、俺たちの神様だけはな……」

 

 沈黙が波紋のように周囲に広がった。それっきり、大人たちの間で会話はなかった。

 

 午後は生木(なまき)(まき)が燃えるように過ぎていった。やがて、森の向こうへと燃えるように赤い日が落ちていった。木々の梢の先が赤く染まっていた。シモンはそれを新鮮な気持ちで眺めていた。彼がこんな時間まで草原にいたことはあの冒険の時以来なかった。夜の世界は体験したことがない。もしかすると、この後もっと面白いことがあるかもしれない。ニセモノになってしまったこの世界でも、何かホンモノのように面白いことが起こるかもしれない。彼はそう思った。

 

 いつの間にか、夜空には星々が広がっていた。シモンは喜びと興奮で目を見開いた。彼はそれまで夜空を見たことがなかった。退屈さと窮屈さを忘れて、彼は夜空に見入った。星々の中で、ひとつ強く輝く星があることに彼は気が付いた。彼は隣にいる母にその星の名を訊いた。母は何も答えず、目を潤ませて、ただシモンを抱き締めると、「おやすみ」とだけ言った。父は自分の上着を脱ぐと、シモンの体にかけてやった。シモンはしばらく母の胸の中で起きていたが、やがて眠ってしまった。

 

 夢の中で、シモンはあの穴のところへ行っていた。彼の後ろには父と母と、あの腕のない老人がいた。シモンは、ここからなら出られると三人に言った。しかし父も母も老人も、悲しそうな顔をして首を左右に振るだけだった。シモンも悲しくなって、その場に立っていた。

 

 父がシモンを穴に押し込んだ。少し抵抗をしたが、シモンはそのうち諦めて、一人で穴に入った。穴は次第に深く、暗くなっていった。手探りで進んでいくと、やがて行き止まりに突き当たった。暗くて何も見えない。焦って、シモンは方向を変えて元来た方へ戻ろうとしたが、そちらの方も穴が塞がっていた。彼は大声で父と母を呼んだ。しかし返事はなかった。その時、シモンの意識は覚醒した。

 

 目が覚めた時、シモンは草原を朝靄(あさもや)が覆っているのに気が付いた。(もや)は亡霊のように薄く、乳粥のように濃かった。太陽は地平線の上に姿を見せたばかりで、光は微かだった。朝の寒気は刺すようだった。母はシモンを抱いたままだった。彼は抱かれたまま周囲を見た。シモンは父の顔を見た。父は眠っていたが、どこか穏やかな顔をしていた。死んでしまっているように見えた。

 

 草原の草花の葉先には白い水滴が玉を結んでいた。シモンは昨日の夜空を思い出した。シモンはさらに周囲を見た。みんな宝石のような露に囲まれて眠っていた。夜空の星と、朝の露。美しいものに囲まれて、みんなが静かだった。

 

 シモンはやっと、自分がホンモノの世界に戻って来られて満足した。草原は、やっぱり草原だった。ここは間違いなくホンモノだ。ここは、こんなにも美しい。彼は、自分のホンモノの世界がこんなに美しいのを誇らしく思った。このことをさっそく誰かに伝えたかったが、それでも彼はまた母の胸に顔を埋めて、すぐに再び眠りの世界へと落ちていった。

 

 今度も、シモンは夢を見た。夢の中で、シモンは草原で遊んでいた。いつもどおり、一人で、心行くまで楽しく……

 

 兵士たちが最後の移動の号令を発し、人々が柵の中から追い立てられ、駅まで行進を始めたその瞬間まで、シモンはずっと眠り続けていた。




※以下、作品メモとなりますので、興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「シモンの草原、ホンモノの世界」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第234回「ニセモノ」に応募した作品です。2024年12月8日公開。エブリスタ版と比べて1,100字ほど加筆されています。

今回の話は内容的にはファンタジーではありませんが、かといって厳密な考証ができたというわけでもなく、その点で多少の憾みが残る作品です。ラトビアのユダヤ人たちが辿った運命についてもっと知らねばならない……しかしながら主人公シモンの心情やその他の登場人物たちに関しては妥協なく書きました。今回は書こうと思えばもっと加筆できたかもしれませんが、結局は最低限に留めました。

 次回もお楽しみに!
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